【日本史】 なぜ徳川家康は関ヶ原の戦いで圧勝できたのか…「会議の空気を読む」が最重要のスキルと言えるワケ [朝一から閉店までφ★]
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
2022/09/14 12:00
「やりたくない」とは言い出せない空気をつくりあげた
PRESIDENT Online
加来 耕三
歴史家、作家
自分の望み通りに相手を動かすには、どうすればいいのか。歴史家の加来耕三氏は「徳川家康は、関ヶ原の戦いの前に『自分につくか石田三成につくかは、各々で決めればいい』と言った。自分の意見を直接言わず、第三者をうまく使うことはときに大きな効果を生む」という――。
※本稿は、加来耕三『日本史を変えた偉人たちが教える 3秒で相手を動かす技術』(PHP研究所)の一部を再編集したものです。
https://president.jp/articles/-/61356
秀吉亡き後、ライバルを順番に蹴落としていった家康
小山評定とは、下野の小山(現・栃木県小山市)で開かれた会議のことです。
秀吉亡き後、家康は自己の地位を盤石なものにするために、ライバルたち――特に、自分と同じ五大老に任じられた人々を、蹴落としにかかります。
まず、前田利家の子で、利家が亡くなった後は五大老の一人に列せられていた利長に対して、謀叛の疑いがあるとして、前田家征伐の計画を立てます。利長は悩んだ末に、母親の芳春院(まつ)を家康に人質として差し出しました(これが参勤交代の発端となります)。
こうして前田家は、家康に屈したのでした。
次に家康がターゲットに定めたのが、やはり五大老の一人である会津(現・福島県会津地方)の上杉景勝でした。家康は、景勝にも謀叛の疑いがあるとして上洛を命じます。しかし、景勝はこれを拒否したため、家康は会津征伐を決意しました。
この会津征伐は、大義名分としては「豊臣家に対する叛逆者である景勝を成敗する」ということでしたから、家康の家臣だけではなく、家康は大老筆頭として豊臣恩顧の大名も数多く従えることができました。
総勢で6万9000もの大軍勢になった、といいます。
次ページ
https://president.jp/articles/-/61356?page=2 presidentの安定の糞記事
会議よりも根回しが重要なんだよ 山上さんにはこの句を送ろう
心しらぬ 人は何とも言はばいへ
身をも惜まじ 名をも惜まじ なぜ出来るビジネスパーソンはプレジデントオンラインを読まないのか 要はそういう力関係をつくって会議で圧力をかけた
そんだけだろ?
なんで言葉を飾って誤魔化そうとするかね 正座も出来無いタヌキみたいだけど 実は忍者だった 説 プレジデントとかよくもこんな恥ずかしい名前の雑誌出せるな
社畜がこんなモン読んで経営者にでもなったつもりでいるのかよ(笑) 小山評定は本当にあったか怪しいって話じゃなかったか 関ヶ原の戦いの後
退却した西軍が大阪城に立て篭もって第二戦を始めるだけで家康は終わってたと思うんだがな 建前は源氏なんだろ?
なのに江戸に八幡宮を作らなかったんだよな でもこういう逸話って本人が本当に言ったかどうか怪しいよな
>>1 低知能、オマエも朝鮮人か!
徳川家康には、そのときにはすでに佐渡の、莫大な富を生み続ける
ことになる金山の発見があったのだ。
そのカネでもって、小早川秀秋らの西軍の武将を買収して回ったのが、
徳川方の東軍だった。西軍の寝返りも、知らないのか、朝鮮人!
まあいまの時代だったら、公安が全部を一人残らず逮捕だけどな。
近くの山に毛利の大軍がいたのによくビビらず戦えたもんよ
吉川広家が心変わりしてたら終わってたろ フリーメーソンだからでしょ
情報を支配してるところが国作るわけでね
明治政府で徳川家が華族クラブで貴族院議員やってたわけだしな
世の中の出来事だいたい出来レース
誰かが言ったけど歴史的事件に偶然はないってね
>>1
プレジデントに、エコノミストに、東洋経済に、日本経済新聞に、
これら日本の経済誌はアカの雑誌誌面だからな。
アカいうのは、共産主義インターナショナル、コミンテルンだよ。
日本の経営層いうのは、経済誌丸暗記しかいないので
日本を奪取することは中国韓国台湾にとっては簡単だった。
>>13 この漫画って、花の慶次?影武者徳川家康? 単に朝鮮の役で豊臣恩顧が大分裂したせいだと思うけど
たかが会議で決まるとかサムライを舐め過ぎだろう おバカ理論過ぎて言葉も出ない
こんなのが平気で歴史家を名乗ってるのが現実
だから近代史観とやらは絶対に信用出来ない 「バカを使いこなせたら天下取れる」
歴史が証明してる
家康が特別なわけじゃない >>9
だから死んだ
頼朝も信長も秀吉も悪いことしてきた奴らは皆こうなる運命
次はプーチンかな >>32
アーサー王も神武天皇も始皇帝も死んだけど ヒストリア「近年の研究では~である事がわかってきました」
×近年の研究
○おバカ歴史家の妄想 >>15
最近の説だと関ヶ原自体は始まってすぐに
小早川が大谷を壊滅させて半日も立たずに
決着が付いたと言うから東軍の圧勝だろう 1番偉い奴は1番意見を言っちゃいけない。
言うにしても最後に言うってとこはまぁ同意 >>37
最近の最新の説は、ただの逆張り、論破されたら無かったことにされるケースが多いからなぁw >>29
当時の人間の考えてた事なんか今となっちゃ誰も正解は出せないんだから妄想するしかないのよ
書物だって本当のこと書いてるのかさえわからないんだから 人質にされて独立したものの隣国の属国扱い
その後はどこの馬の骨ともわからない奴に膝を屈し
早く死んだらそれで終わりだったのによく頑張ったよ家康
ギュッてしてあげたい どっちも主力が関ヶ原にいないから
果たして決戦という意識だったのか怪しいんだけどな >>11
名乗る分には自由だからな、経済学論文なんて一本も書いたことない自称エコノミストはゴロゴロいる。 答えは
三河は平安期から日本最強、強くて当たり前
だ
【三河最強伝説】
■源義家軍
総大将:源義家
本体:三河武士(郎党1 兵藤正経 三河国住人、郎党2 伴助兼 三河伴氏 三河国住人)
■源頼朝軍
総大将:源範頼(三河守)
本体:三河武士
■足利尊氏軍
総大将:足利尊氏(三河守護(但し当時は喪中))
本体:三河武士
■徳川家康軍
総大将:徳川家康(三河守)
本体:三河武士
■トヨタグループ
総大将:トヨタ自動車
本体:三河武士 >>42
俺は、時には善人、時には悪人になる
特定の場面でどちらの俺が現れてくるかは完全に運だな あ~あ、このスレ三河の呑百姓に見つかっちゃった
あとはいつもの連投コピペをお楽しみください >>29
正解はないよね。正解だなんていう学者もいない
ただ、端切れ程度の情報でも
しっかり見て考えろって先人の伝言みたいなもんだと思う >>14
こういう雑誌って御山の大将向け、中小企業の社長さんとか大好きらしい。
だから労働基準法の話とかコンプライアンス話とかは滅多に掲載されない、社長さん連中がそういう話大嫌いだから。 >>36
ならあなたが歴史家を名乗ればいい
自分の方が詳しく正解だと思ってるのなら >>54
歴史学者と言っちゃうと論文の一つでも書かにゃいかんからね、適当なこと書くぶんにはこっちがいい。 関ケ原は勝利で凄いけど
その5年前くらいに嫁と息子を死なせて
しまった失態は痛いな マナー講師と同じで、何か目新しいこと言ってみて、それを世間に認めさせることが出来れば権威になれるという、詐欺師の世界 小山会議が史実とか恥ずかしいこと言ってるねw
今は20年前に常識とされていたことがどんどん覆ってる
関ヶ原のかつての常識は非常識
直江状なんてないし三成と上杉は対立勢力
小山会議もないし当然家康に城を次々開け渡した事実もない
毛利輝元が西軍の大将として戦う気満々で
三成が主導したとされることすら怪しくなってる
それくらい知っとけw
>>1 そりゃ石田三成が木端官僚だったからだろ
現場を分からん官僚が、どれだけ正論を声高に叫んでも誰もついて来んよ
現代でも同じよ
そう意味では家康は賢い
三成の後ろ盾に利家がいたら話しは変わったかも知れん >>15
関ヶ原前に裏で毛利と徳川の和議が成立してた >>26
影武者徳川家康
掲載する雑誌を間違えたとしか思えない、最後はこの手があったかみたいな感じで打ち切りコミックのラストも全く違う、週間少年ジャンプの奥深い闇と非情と無情を知ったわ。 >>16
近年また研究者(白峰旬と本多隆成)の間でその有無について論争になってるよ
白峰旬の小山評定に関する論文もネットで読めるからオススメ
まあ二次史料なんかにある福島正則が会議の冒頭で「内府にお味方する」
と発言して諸将の結束が高まったなんてドラマみたいな話は論外だけど >>63
そういうところの社長さんが戦国もの大好きなのは、
会社の人間に対する不満かららしい。
「部下は大将たる俺に心酔し共感すべき、給与や待遇で不平不満言わずに黙ってついてくる戦国時代が羨ましい」
とね
>>21
徳川300年の太平は、すべてが佐渡金山の莫大な富が
源泉であったのだ。
その意味では、西軍の本拠地であった大阪を
守銭奴の町・井原西鶴の町にしたことは、
東軍である徳川方の知恵であった。
旗本退屈男、退屈しのぎの大仕事、
旗本中の旗本であった尼崎藩藩主の松平家が、
大阪の町屋の半分以上を延焼させた
大塩平八郎の乱を平定した。
関西では、現在の尼崎市内になる尼崎藩だけが、
徳川方で東軍のほうだからな。
小山市自慢の小山評定がなくなったら、うどんと干瓢しか残らないのであんまり虐めないであげてください
現在の尼崎市内になる尼崎藩は、日本の国学の祖である。
尼崎市内は、東京言葉。
たいして大阪は、井原西鶴に代表される日本の守銭奴の本家本元である。
大阪は、よしもとみたいな大阪弁。
結論としてどういうことになってるか詳しい人に教えてもらいたい さすが前田家だわ
全てを見通す何かをもっているんだろうな >>62
直江状は原本は伝来してないけど近年はそれに近い内容の書状はあったのではないかという研究者も増えてきたよ
三成と上杉が対立?三成は上杉の取次やってた関係でそれなりの関係は築いてたし対立はしてないでしょ
まあだからと言って東西挟撃作戦の密約があったなんて話はなくて
関ヶ原の直前に三成は慌てて真田に上杉への使者の警護を頼んだり、
真田からも上杉への使者を出して三成と景勝の仲介役をするよう頼んでるから
三成と景勝が特別仲が良かったとは言えないが別に対立はしてない
小山評定に関しても現在もその有無について議論が続いてるよ
山内一豊等が城を家康に明け渡したなんて話はあなたの言う通り創作だけど
白峰旬はなかった、本多隆成はあったで他の研究者も巻き込んで今も議論中 岐阜城が東軍に落ちたとき毛利がやる気なくして終戦工作した 空気なんて曖昧なものより
事前の準備だと思ってたけど
スタートから組み立てるのではなくゴールから組み立てていくやつ そもそもは秀吉が必要以上に家康を怖がって、
1大名に強大な領土石高と軍事力を与えた時点で全ては詰んでたからな
前田利家が後10年も長生きしていたらちょっとは違ったかも知れんが 今の自民党は壇ノ浦の海底に沈むが如く坂道を転げ落ちていく感じがする。 ここは徳川にうっとりするバカが出てくるスレですか?
江戸時代とかいい時代じゃないだろ
金正恩の独裁と変わらない時代だよ 大奥があったり
3000件を超える農民一揆があった時代 参勤交代の時は
道の端で、百姓は土下座してたんだよ 家康ってどの時点で本気で天下取るって決意したのか知りたい >>90
身分制度とかクソだし
娯楽は処刑とかさらし首という時代 >>94
結果的にとってたんじゃないか?
秀吉の事は嫌ってそうだし、三成も嫌いだし
秀頼は久しぶりにあったら好青年になっててビビったんだろw
でかかったらしいな >>1
無能のくせに偉そうに分析してみた雰囲気キモいわ戦国やぞブチ殺してまえの精神が強かったんよアホか 生きてて思うのは、まあできるだけ思ってる事は言った方がいいよ
たとえ相手に嫌われていてもね
年を取るとその辺上手く言えるようになるんだけど >>1
記事の続き読んで
井伊直政かっけー
黒田長政かっけー
とおもた
どこまで創作かしらんが 秀吉が国内内戦終わらせたのに
再燃させた馬鹿、と言うイメージしかない。
豊臣家が滅ばず、最高権力として300年存続した可能性はある。 >>8
その通り根回し先にしといて
会議で弱そうなとこに圧力かけただけ
ただのいじめみたいなもんなのに
戦略みたいに言って欲しくないよな >>94
割と厚遇してくれた今川義元が桶狭間で討たれて
僅かな手勢で親戚たよったりして岡崎に帰り着いたときだな
自害しようとしたただの松平元康が
泊まった寺の住職のアドバイスで
厭離穢土欣求浄土
を目標にしたときかな
https://readyfor.jp/projects/tokugawaieyasu/announcements/199872 秀頼もしくは取り巻きが
政治的な天才だったらってIFモノは
そう言やぁあんまり見たことないね まあしかし少し立ち回りミスっただけで斬られちゃう時代に天下取れた人の言動には重みがあるわ >>109
尾張の人質時代にうつけ信長と知り合いだった可能性が同盟につながった説 徳川家が当時重鎮だったのは多分そうだろう
対して石田って誰レベルだよな。歴史は勝者がつくるにしても
なんか気づいたら居た、みたいな。 >>111
自分の母方のジジイに売られたんだろ
尾張の方に
スゲーよな >>111
家康は晩年信長の事については一切語らなかったってな >>102
この記事に出てくる井伊直政の発言や黒田長政の「家康殿にお味方いたす」発言は創作だね
ただ家康が黒田如水・長政父子に吉川広家を通じて毛利の内応の根回しさせてたのは本当
関ヶ原直前の黒田父子と吉川広家とのやり取りが吉川家文書に何通も残されてる
あと黒田長政は浅野幸長と連署で小早川秀秋を調略してる書状が残ってる 知り合いかどうかは置いといて、ご近所さんなんだから名前くらいは分かるだろ
桶狭間でヤベーヤツと思ったのかは知らんけど、よく信長を裏切らずについていったよ
甲駿模の付きつ離れつのグダグダ付き合い感覚で軽く扱ってたら
真っ先に斬られてた気はする ♪西軍それは君が見た光、僕が見た希望
上越市の寺町に在る大岩寺に小山評定でたった一人西軍に付いた田丸直昌(忠昌、具安とも)の墓が有る。
小山評定が無かったとするとちょっと困る。
ちなみに地元では全く知られていない。
一に謙信、二に謙信、三四が無くて五に謙信という土地柄だからそれ以外の武将は、
景勝景虎は勿論それこそ直江兼続ですらほぼ無名だった。 >>119
今川義元当主は討たれたが
まだ今川家は滅んでないからな
今川家人質から独立した以上は、誰かを頼らないと
熱田あたりで人質だったときに
うつけ信長一行が美少年竹千代いぢりに行った設定好きだわ >>104
もっと嫌なのが、そういう力関係の存在を皆承知して考慮しまくりなくせに、表面ではそんなものは存在しないかの如く振る舞うという日本人社会の悪癖。
だから「空気を読む」と言い換えて力関係の反映であることを誤魔化す。 輝元が自ら出陣して
秀頼を連れて関ヶ原に迫ったならば
秀秋はどうしただろうか… 家康によるクーデターなのに豊臣家が家臣同士の争いと思って傍観したのが運の尽き >>94
天下を取る発想は無い
自分は三河政権たる室町幕府最後のボスであり
俺を倒して、初めて室町幕府は消滅する、と考えていた
幕府が江戸にありながら、幕政は三河国が牛耳るのは室町幕府と同じだよな
徳川は足利将軍家を模したんだろうが、農民出自の奴は理解出来んらしい
室町幕府 三河国の日本支配構造
【奉公衆】
・奉公衆は、室町幕府に整備された幕府官職の1つ
・将軍直属の軍事力で、5ヶ番に編成された事から番衆、番方などと呼ばれた
・奉公衆の人数は全国合計250~300人
・三河国の奉公衆は全国で最大人数、又三河国出身の奉公衆も最大人数
・5番衆の番頭
一番番頭 細川氏、二番番頭 桃井氏、三番番頭 上野氏、四番番頭 石垣氏(畠山氏)、五番番頭 大館氏
三河国の奉公衆一覧(全52家)
【藤姓熱田大宮司一族】
千秋、萩、星野、二階堂、毛利(大江氏流)
【足利一族】
荒川(戸賀崎流)、一色、伊奈、上野、吉良、天竺(細川氏流)、仁木、細川、三淵(細川氏流)、和田
【足利被官】
饗庭、朝倉、飯尾、岩堀、大草、高、久下、小嶋、中条、二宮、彦部
【三河源氏】
足助、水野
【三河伴氏】
設楽、黒瀬、富永
【美濃源氏】
土岐、長山(土岐氏流)
【桓武平氏】
伊勢、神谷、山下
【その他】
宇津野、大内、借宿、河内、小林、疋田、桜井、進土、杉山、堤、長、西部、本郷、丸山、三浦、大和 秀忠vs三成だったらまだ凄惨でまともな戦いになったかもね
秀吉ですら厄介でめんどくさいと嘆く家康相手に、
徳川なら例えば三傑レベルが指揮してるようなもんだ 人を致して人に致されずとはよう言ったものだな。
三成操られるように、家康得意の野戦に引きずり出されてるしw >>65
長州の萩が、三河由来で察しろ
三河の萩の南朝の末裔が、三河の大江氏に連れられ長州に移り住み、三河の萩を忘れない為に萩と名づけた
徳川と毛利は裏で繋がっていた
源頼朝の側近が大江広元だったように、徳川の側近の酒井は大江広元の五男の家系、萩氏庶流ではないか
家康が生まれた岡崎の平安時代の領主、高階惟長の嫁は大江広元の娘だった
明治維新とは江戸の三河武士から、長州の三河武士への国譲り
実は明治政府というは三河国宝飯郡萩に隠れ住んだ南朝落人の政権で、同じく南朝系を称した徳川政権から禅譲されただけ
譲られただけだからこそ江戸城は無血開城され、今までどおり東京が首都になった
事実上現代社会、徳川幕府は崩壊していない
三河国宝飯郡萩と大江広元(毛利氏の祖)
大江忠成(海東忠成)
・鎌倉幕府評定衆
・大江広元の五男
・三河の藤姓熱田大宮司家に養子入り
・熱田大宮司
藤原実範(三河守)→季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令)→季範(初代藤姓熱田大宮司家、額田冠者(三河国額田郡))→範忠→忠季→忠兼→海東忠成(養子入り)→萩忠茂(三河国宝飯郡萩、萩大宮司)) 三成憎しの豊臣武断派何人も取り込めたのもあるよな
そんなへいくわい者三成を豊臣家臣ナンバー2にした秀吉も悪いけどな
あと京都から遠いからといって家康駿遠三信甲120万石から
江戸250万石の大国に飛ばしたのもダメ
それで兵力は倍以上に膨れ上がった
それに上杉討伐小山評定時に豊臣恩顧の駿遠三大名はことごとく家康に付いたし >>85
小早川のあれ無しでも戦力差は歴然としてたよ
あいつの裏切りで半日で勝負決まっただけで 事前の調略の勝利だよな。
ただのチャンバラドンパチしか頭にない奴だと負ける。
これは大昔からの鉄則。 >>88
必要以上に怖がったのか?
小牧長久手の戦いで直接対決して秀吉に「こいつは出来る!」と思わせ、その後は家康を実際に怖れていた。
こういう者ですが宜しくと秀吉にアピールしてその後の両者の関係、ひいては日本の歴史に影響を与えた点で
小牧長久手の戦いは小さな大戦争とも言える。 >>135
小牧のあとも徳川攻めるつもりだったが、上方が地震でダメージ受けて方針転換した
秀吉の妹輿入れもその一環 賢いのか自己中心的なのか、真田家が東西に分かれた様に
毛利グループもお家存続を目的にグダグダしてたからな
輝元もかわいそうではある 歴史に妙に詳しいのがいるけど
自分のスカスカの歴史、自分史を振り返って
深く内省したほうがいいんじゃね?
終活もふくめて >>83
前田利家は隠れ三河
三河に臣従するんだよ
三河には、前田利家の先祖と伝わる墓と叔母さんの墓があった
の岡山の田舎者が何を言ってんだか
http://www.city.heki...?c=rekishi&id=22
>前田利家の先祖の墓と伝わる
http://www.katch.ne....ries/mysteries02.htm
>清浄院の隣、本伝寺には、前田利家の叔母の五輪塔
清浄院は伊賀超えの際、碧南に上陸して滞在した徳川ゆかりの寺
完全に裏で繋がっているだろ どうした突然。
ツッコミできないならさっさとログ消してバイバイした方が楽だぞ 結局は、三河でまとまるようになっていた
当時の武家社会はよ
太田亮
■上杉氏
上杉-勧修寺家支流と称するが疑問が大きい。
丹波国何鹿郡上杉庄より起り、上野を本拠として、越後や関東各地等に分る。
『東鑑』を含め確実な史料には、先祖重房の下向記事が見えず、足利家家人の上椙三郎入道(上杉頼重)より前は不明。
その出自は難解であるが、三河の日下部(穂国造一族か)と関係をもった場合も考えられ、その場合は、同国の足利被官で藤姓を称した杉山氏や大草氏と同族か
■日名屋敷(事実上の始祖である上椙三郎入道(上杉頼重)の 屋敷)
鎌倉末期に三河国額田郡日名にあった上杉氏の屋敷。
足利貞氏室となり尊氏・直義を産んだ上杉頼重の娘清子が、暦応2年(1339)10月15日に丹波国光福寺(現綾部市安国寺)へ日名屋敷を寄進、
翌年4月5日に清子の甥上杉重能がこの屋敷を光福寺雑掌へ渡すよう岩堀右衛門三郎に命じている。
頼重は額田郡を含む足利氏所領群を管理する奉行人のひとりであったから、現地支配の拠点として上杉氏がこの屋敷を所領とし、頼重から女子清子に譲与されたものであろう。
日名屋敷跡伝承地の近くの墓地に14世紀後半の宝塔の笠1個がある。 最上氏
大崎氏・最上氏の祖
http://www.inn-suzuki.com/info.html
>中新田城
>斯波家兼が奥州探題に任ぜられ、三河の国からこの地方に赴任
足利家兼(斯波家兼)
父:斯波宗氏
母:長井時秀(大江広元の曾孫、室は安達義景の娘(安達泰盛の姉妹)の娘)
空華集 「東海道三河州碧海荘,寔今政府左金吾(斯波義将)祖宗九京(初代から先代)之地也」
「三河国碧海荘は管領家斯波義将の先祖の墳墓の地である」
初代斯波氏である足利家氏は、祖父足利義氏から三河国碧海荘を相伝し本拠とした
永源寺
中世、三河国碧海郡碧海荘内にあった禅寺。管領斯波義将が1380年代に創建。南北朝時代の禅僧義堂周信の詩文集『空華集』に収める「贈雲谿首座赴永源命詩并序」にみえ、錘秀山と号した。
「序」に三河国碧海荘は斯波義将の先祖の墓所のあるところであるといっており、家氏以来斯波氏が伝領してきたのであろう。所在地は「碧海之東」とあるのみでどこであるか不詳である。
応永4年(1397)5月18日、のちに建仁寺61代住持となる玉岡和尚が将軍義満より住持職に補任された(『蔭涼軒日録』文明17年9月15日条)。 >>144
それ知って何になる?
そこ考えたほうがいいよ 氏真とか割と空気読んで生き残ったタイプだと思う
お前まだ居たのかレベルで時々出てくる 三成側は三成の人望のなさ
秀頼が出てくれば分からんかった
はいこの話終了 >>44
少なくとも西軍方は主力のつもりだったらしい
『イエズス会日本報告集』
多くの地に分散した軍勢を擁していた奉行たちは
軍勢を美濃の国へ集結させる意図を少しも棄てず、それを実行した。
そこで八万人が集結したが、その力をもってすれば、
内府様側についてそれらの地にいたすべての軍勢が
短時間で殲滅し根絶されうるものであった。 >>137
天正地震の影響は確かにあったと思うけど、地震直後秀吉は再度徳川攻めようとしてる
家康攻めのため上杉や真田にも出兵要請してるし、被害軽微だったとは言わないが家康攻めは可能だったんだろう
家康攻めが行われなかった最大の原因は地震の影響よりも、島津との交渉が不調に終わったため島津征伐しなきゃならなくなったことだと思う
島津征伐のため急遽家康と和睦して家康は命拾いした形になった
もし島津が大人しく秀吉に従ってたら家康も潰されてた可能性はある 三成のクビが飛んだ後は次は大阪城で会いましょうってレベルだから
まともに戦おうとする最後のグループで、そう言う意味で
後世に主力と捉えられるのは仕方ない気はする 信光の正室が一色氏の出なのは、今川記に書かれている
つまり家康は初代今川氏今川国氏の血を引き、今川氏から準一門待遇されたし、家康も今川氏を尊重した
単純な話だ
家康が受け継いだ遺伝子
源義家
源義国(源姓足利氏・新田氏の祖)
足利義兼(初代源姓足利氏)
一色公深(初代一色氏)
今川国氏(初代今川氏)
吉良長氏(初代吉良氏)
源為朝
安達盛長
足助重範
楠木正成の遺伝子
■今川記(1553年成立)より
松平信光(第3代目当主)
正室:一色氏の娘
一色満範の娘の仮定する
源義家→義国→義康→足利義兼(初代源姓足利氏)→義氏→泰氏→一色公深(初代一色氏)→範氏(母親は今川国氏(初代今川氏)の娘)→範光→詮範→満範→娘→松平親忠→長親→信忠→清康→広忠→徳川家康
熊野国造家 和田家系図より
松平親忠(第4代目当主)
正室:鈴木重勝の娘
・加茂(足助)重長→足助重秀(母親は源為朝の娘)→重朝(母親は安達盛長の娘)→重方→親方→貞親→重範→鈴木重員(母親は楠木正成の娘)→重勝→娘→松平長親→信忠→清康→広忠→徳川家康 最初は戦争じゃなくて家康毒殺で収めようともしたけど、
チクられて計画おじゃんになったからな >>132
秀吉の遺言に「東西は家・輝両人、北国は前田、五畿内は五人の奉行が
異議なくすれば一向に別儀はない」(内藤隆春慶長三年八月十九日付書状)と
あるので、そもそも秀吉に統一政権を維持する気がなかったみたいだな
家康に限らず「畿内から遠ざけつつ加増」ってのは
毛利(中国から朝鮮に移封しようとして失敗)、
上杉(越後から奥羽)にもやっていたのも
それを裏付けている それよりもさ
石田三成の嫁と子供はさ
家康が保護して生活に苦労しないようにと金銭まで与えていたのな
子供は旗本にまでなってるし
こういうのが中国、韓国とは違うんだなって思うの もう日本は内部闘争に勝てればよい時代ではないので、家康にフォーカスするのは時代錯誤やろうなあ それはあの頃のボス達はもれなく
娘や養子のやり取りで親族になりましょうの会のメンバーだったからだろ >>157
アホでしょ?
ちんちん付いていない国の歴史書😂🙊🤣 >>154
韓国は興味無いから知らんが皆殺し避けてテキトーな身分与えて飼い殺しにするのは世界的に珍しく無いパターンだろ その結果、空気を読むことだけが得意な人種ばかりになり、日本は没落しましたとさ。 勝つ方の調略に乗って裏切る事を空気を読むというのであれば
そうだろう 成功は偶然、失敗は必然
勝ちに不思議の勝ちあり、負けに不思議の負けなし
現実的に学ぶところが多いのは家康の成功例よりなぜ三成が失敗したかの方だよな そりゃあ毛利が優柔不断だったからだろ(笑)
しょせん金に目が眩んだヤクザの抗争事件なんだから。
今は六代目山口組と神戸山口組という二大勢力が天下分け目の戦いをやってる最中だ。 歴史には
歴史観
と
史実
があり、
学校の歴史教育は自民党の歴史観か? え?関ヶ原では圧勝してないよ?
小早川の裏切り行為が無ければ下手すると負けてたし 今の日本で、権力を取った後の構想なしに
内部闘争にだけ強い人間が勝ったとしても
日本そのもの含めて組織全体潰れるだけですよww 秀忠の部隊が不気味だから、
あの場で完膚なきまでに潰さなきゃ結局は別の場所で、負けてただろうけどね
真田が足止めしてたから似たような数になっただけなんで 天下に興味のなかった毛利
天下取りしか興味のなかった徳川
中国大陸までしか興味のなかった秀吉
地球の裏側まで興味のあった信長
信長が生きてりゃなって思うわ >>168
そんなあなたに我が栃木県選出の茂木敏充をどうぞ
何せ自民党内の人望ゼロで幹事長に就いた超実力派ですwww 全国都市圏別GDPランキング
https://multipedia.jp/metroarea-ranking-japan/
1 東京 157兆8196億
2 大阪 45兆3625億
3 名古屋 22兆4971億
4 京都 10兆1173億
5 福岡 8兆9223億
6 神戸 8兆4272億
7 札幌 7兆4385億
8 岡山 5兆5389億
9 仙台 5兆4142億
10 広島 5兆3849億
11 前橋 5兆2516億
12 北九州 4兆8888億
13 浜松 4兆7628億
14 宇都宮 4兆4535億
15 富山 4兆3421億
16 静岡 4兆0238億
17 新潟 3兆8047億 >>124
海外に変な夢見るのやめなー
あいつらは日本みたいにセーフティネットが盤石じゃないから、「社会正義に頼らず、まずは自力で解決」ってのがベースにあるだけ
虐めや圧の掛け方は海外の方がエグい >>61
マナー講師って元客室乗務員だぜ
スッチーがなんで詐欺師なんだよ 俺も経歴欄には「歴史家」と書くことにした。
銀英伝は全部読んでるし。 歴史を学ぶことはめちゃくちゃ重要だけど
歴史家の「こうすればいい」みたいなのは大体的外れ >>149
でもそれだと島津を倒した後、なんで家康を潰さなかったのか?
フロイス「日本史」によれば、
秀吉は、織田信雄、家康、北条の同盟を恐れていたというが
それでも北条を倒した後、信雄を潰して
家康だけ、なぜ潰されなかったのか?
北条打倒後、九戸政美の乱に家康を動員したり、
伊達政宗の反乱を警戒していたというから
東北への抑えとして家康を必要としていたのではないか? 会議で空気読むって言うか、ある程度同じような考え方する連中に同じ情報を与えれば
似たような結論になるのは普通の話ではとは思うよ
根性論でやってる連中には通用しないけど 小早川を裏切らせただけじゃんアホくさい
家康は弱い
姑息で陰湿、ただそれだけ
だから誰からも崇拝されない
信長や秀吉のような頭抜けた能力や戦の強さも無い
日本ではバカにされてる無能の1人 >>178
違うよ
秀吉は九戸の乱に蒲生氏郷と家康を派遣しその後に本隊の関白豊臣秀次と挟み撃ちするドサクサで家康を異郷で始末しようとしたのだが
家康は井伊直政だけを派遣し自分は病気と称して岩出山城に籠もってやり過ごし豊臣軍を逆に挟み撃ちする姿勢を取ったんだ
後の関ヶ原の合戦で東北諸将は家康に付いた者多数な事でも分かる様に豊臣優位と言えない状況で暗闘は続いた こんなもん勝てば官軍いくらでも何とでも言えんだよ
くだらねえ >>173
デタラメなデータ貼るなマヌケ
東京は東京なのに他は神戸だとか市が混じったりしてて更に神奈川も入ってないとか
そんなのここに貼るってお前日本人じゃねーだろ? 実際は圧倒的に家康側不利で偶然勝てたという
だけだぞ?五大老や五奉行のほとんどが西軍になり、西日本はほぼ西軍になったから持久戦になると家康不利になるから慌てて西に向かった。 >>44
関ヶ原は歴史的に何度も決戦の地になってるから 諸大名は何の見返りもない朝鮮出兵で疲弊していたし、明との和睦もいつまで続くかわからんのだし
国力が回復し秀頼が思春期に入る頃に三成が「太閤様御遺命である」なんて調子で勝手三昧な外交に
打って出る可能性も否定できない
そりゃ目先が見えるのは家康に付くだろうね >>189
晩年の秀吉は今のプーチンみたいなもんだろうな 政治家としての能力は石田三成の方が遙かに優秀だったのにね
外交力で負けたね。 家康最後まで東軍につくか西軍につくか迷ってたんだよね
毛利もやる気なかったし、ぐたぐただった 空気を読まないといけない会議なんてやる必要ないだろ
無駄な会議ばかりやってるから日本企業は生産性が低いんだよ >>167
第一資料から浮かび上がる新説関ケ原の戦い見ると開始約2時間であっという間に終わった戦い。全然天下分け目ではないのよ
小早川も開始から東軍にいて裏切りや間鉄砲も空想 >>13
影武者徳川家康と次作の猛き龍星は打ち切り
これ以降、週ジャンで原哲夫は読めなくなった >>194
進展しない会議を延々と開いて、やっと決まった事もやらないのが日本人。 関ヶ原の戦いってのは東軍総大将が徳川家康で西軍総大将が石田三成でしょ?
この時点でもう格が違うよね?
西軍は信頼有る総大将にするべきだった
誰がトップに立つのかってのは実社会でもそれでかなり変わる 戦略的な勝利を作ってたのは確か
あの布陣で勝つなんて戦術じゃ不可能 陣の配置見ると動けば天下取れそうなとこにいるのに鼻くそほじってた
毛利がアホすぎたんじゃね? >>200
天下人になる気が無いなら動かんだろ
維持運営が大変だからな >>159
貴族ならあるけど
日本の武士にはめずらしいな
首狩り族だし >>198
石田三成って豊臣政権の実務トップだぞ
実際に陣頭指揮取ってバリバリ国家運営してたのが三成
家康はむしろ老害ポジション >>1
その『空気』で日本は敗戦したと山本七平が見抜いてた。 結果知ってるから勝つべくして勝ったみたいになってるけど実際は結構ヤバかった >>190
権力者が高齢化すると判断力が落ちるから隠居はいい制度。 >>207
まぁ、朝鮮出兵でもバリバリやりすぎて反対派閥が大きくなった感もあるけど..
石田からしたら、俺に言うなだわな。 まぁ福島正則が石田三成が嫌いってのがあったからな
石田三成がとにかく嫌われてたのが家康にとってラッキーだったか
豊臣政権で家康も三成と一緒にやってたのに関が原の後では
家康も三成を打ち首にしてさらし首にするとは政界は恐ろしいなぁ 関ヶ原に関しては運がよかっただけやな。
三成が合戦なれしてたら大敗北もあったぐらい鈍臭い事もしてるしな。 >>209
京都はともかくそうとも言えない
豊臣が続くなら大陸や対外貿易拡大への野望も消えてない可能性あるから
信長流に都ごと西に移した可能性はある 秀次事件で醒めた大名多かったしな。
あれで一族の主力を粛清しちゃったから。秀次はいうほどアホでは無かったのに。
秀次も秀頼産まれた時点で「関白返上します」と
下手に出れば粛清できなかった 徳川家康
政治 ◎
軍事 ◎
経済 ◎
人望 ◎
健康 ◎
こいつの弱点って何? >>217
秀次は将棋が強かったからな
黒田官兵衛も認めるほど
でも将棋が強くてもどうしようもないからな 関ヶ原に行って松尾山に登った。こんなとこから日本武道館15000人超満員の人間が後背から駆け下りて襲ったらフルボッコだわおもたわ 現代から眺めてるから家康の術中にハマったと評論可能なだけで
鎌倉以後近畿と関東という二元政治がデフォだった武家にとって家康の台頭はさほどの危機感なかっただろ >>221
単純に駆け下りたら誰か前で転んだら巻き込みながら全滅だわ
降り口は限られるので大谷義継がポイントを押さえた防御で一時は圧倒した
うっかり山に登って窮地に陥った例は数多いぞ >>218
軍事は贔屓目で◯、厳し目なら△やな。
信長や秀吉と比べて戦下手なのは本人も自覚してたやろ。 若い頃、相手の戦闘の凄まじさにビビりウンチ漏らして逃げた話が好き。 >>94
秀頼に千姫を嫁がせてるし関ヶ原の時点では豊臣を奉戴しながら実権を握ろうとしてたんだろな
豊臣を滅ぼして天下人になろうとしたのはもっと後だな >>94
秀吉が死んだ直後に内部工作に動いてるから
秀吉の死期が見えた頃だろう >>154
ても豊臣家の神社は荒してたよな
その辺は大陸的 吉川広家の真横に陣を引いて、よっぽど信頼してたんだな。毛利勢が突っ込んできたらヤバかったろ オレは自分で言うのもなんだが世間では常識人て通ってる
しかしオレは歴史がからっきしダメで殆どわからない
家康とか秀吉とか名前は知ってるけど何やった人か説明できない
歴史って全然興味持てないんだよなぁ中卒のコでも三国志とかやたら詳しいコいるよな >>234
あんまり人に関心がないタイプかな
仕事で人の名前とかその人に関連することを覚えられなかったりしない? >「徳川家康は、関ヶ原の戦いの前に『自分につくか
>石田三成につくかは、各々で決めればいい』
これ、築山殿と信康さんを処分する時に家康が
信長から「そっちにまかせる」と言われたのと似てるなあ
はっきり言わず相手の出方を見る、ある意味怖いやり方 刀と鉄砲で市民から上納金を巻き上げて搾取していたヤクザの親玉
徳川なんて260年間の報いを受けて根絶やしにされたら良かったんだよ 三成がいなかったら日本の武将のほとんどは半島の土になってた >>234
大丈夫、歴史全てに興味を持たなくてもいい
私は子供の頃から歴史が好きだったけれど、
年号にはさっぱり興味が無かった (数字が嫌い)
今は鎌倉殿用に自作の年表を作っている
現代でも中国やロシアの考え方ややり方に疑問を持っても
日本の中世社会の価値観を知ると、もうそっくりなの
あの国々が特別なんじゃないの >>218
政治は▲
あと軍事も三方ヶ原でケチョンケチョンにされたから◎って事はない 徳川は自分に逆らわせないために参勤交代をやらせたりした
そのために地方は疲弊して薩摩の島津なんてのは8公2民なんていう重税を布くことになった
こんなヤクザの子孫は殺してしまったほうが国のためな >>127のように三河を誇るように書き込む輩を最近見るが
大事にされてるのは血筋だけで、当の三河の地は未開のまま今でもほったらかし
三河の土地自体はどうでもいいんだろうな >>244
そもそも家康自身は三河武士のガサツな県民性(?)を嫌ってたらしいな >>3
まさにこれ。会議本番は根回しの答え合わせ。会議でいきなり検討、決定するのは無理 織田がつき羽柴がこねた天下餅
座りしままに食うのは徳川と揶揄された理由を考えてみな >>244
最近どころじゃないよ
そいつは源氏、徳川、愛知、名古屋のスレを見つけると
必ず湧いて荒らす三河の百姓 >>154
関ケ原翌日の佐和山城攻めで、三成父と兄と嫁は自決したはず
長男は大阪城で人質となってたが、仏門に入る事を条件に助命
産まれた日時は分からんが、1580年代に亡くなっており、100歳以上生きたと言われてる
次男は三成と仲良かった津軽氏に助けられ、子孫は名を代え家老待遇で優遇された 合戦は西軍が善戦して昼まで決着は付かなかったと従来の説だが、
最近の研究では小早川の東軍への参戦は
言われてたよりももっと早かった説が有力。
西軍が互角であったほうが話としては面白いからそうなっただけで
実際は開戦してから1時間ほどで総崩れしたとみる方が良さそうだ。 そもそもこの時代の本来の天下人は足利幕府だろ?
天下簒奪者の信長から更に簒奪した秀吉から更に簒奪した家康
豊富の正当性なんて端から何も無い
って当時の人は思うだろうね 短命というレベルにも満たない短さではあるが
明智さんを忘れないであげてほしい 秀吉政権も室町、信長に続く交易重視の外線政策だもんな
平清盛もそうたげど自由経済行き過ぎるとみんな疲れて内向き農本主義に回帰しちゃうのよね。歴史は交易主義と農本主義の繰り返し、安定性は鎌倉、徳川と農本主義が長続きする。
元寇も流通路開拓の侵略だし黒船も同じ、秀吉の唐入りも同じ 三成自身に兵力ないから纏まらなかったんだろ
豊臣が総大将で前線に陣取ったら違ってた 最後まで残ったのは室町幕府の分家の分家
小弓公方家だけどな >>199-200
今流布されている配置図は明治期に陸軍が戦史編纂する時に適当にでっちあげたものってご存知ない? >>262
豊臣政権下の権力者として家康が動いてるので
豊臣vs家康になっていればとかいう状況ではない
本能寺の後に三法師が秀吉裏切って柴田勝家と合流して織田全軍vs羽柴なら織田家が勝ってたとか言い出すのに近いw >>261
商売中心の社会だと栄枯盛衰が激しく、それで短命政権になってしまうんだろう
秀次が存命し秀吉死後も政権の中心となっても、関ケ原で西軍が勝っても
豊臣政権はあまり長続きしなかっただろうな
家康はその点を理解してたっぽく、ブレーンの天海や金地院や林羅山など
商人を蔑視し学問や農業を中心とし、政権を長く継続させる事に努めたと思う 家康みたいなのを評価してるのを見ると勝てば官軍って言葉がホントにしっくりくる
家康は二度勝ってるからな
1度は関ヶ原
そして2度目は長期政権を築けた事 回る回る時代は回る
結局明治維新で
徳川も西軍に滅ぼされたようなもんだし >>267
何気に、世の中を銭ゲバ有利な方向に荒らしただけだからな。 関ヶ原は小早川の裏切りも島津のステガマリも全部捏造だったのが笑える >>178
北条征伐後なら家康を関東に置いて東北ににらみを利かすってのは秀吉の頭の中にも当然あっただろう
ただ島津征伐終了直後に秀吉は下記のように状況次第では朝鮮に出兵することを表明してる
この時点で家康は既に正式に従属してるし、秀吉も家康は唐入りの際に使えると判断したと見る方が自然だろうな
(天正15年)1587年5月28日付徳川家康宛豊臣秀吉書状
「高麗国の件は対馬の柳川調信と申す者が貢物を色々と準備し、人質も出し秀吉へ詫言を言ってきているが、
貢物などは不要で、日本の面子が立つように高麗王が日本へ出向き秀吉に出仕し、直接許しを請うようにしろと柳川へ命じた。
万一滞るようなことがあれば高麗へ出兵する。来年の春には高麗へ出兵し成敗するように命じる予定だ」と述べている 豊臣対徳川なのに三成憎しを利用して石田対徳川にもっていった作戦勝ちだな。 >>275
本当は毛利vs徳川
毛利が改易だけで許されたのでそれ以上悪く言われず
三成がスケープゴートとして差し出されただけの話 なんだこの、まるで自分が見聞きしたかのような
でっち上げでファンタジーまみれのクソ記事は そもそも家康が勝ってるんよ関ヶ原前の政治の段階で
それぶち壊したらァ!って三成がイキって豊臣政権にしたらトドメになっただけ
天下人は天が決める >>235
まぁ毛利はかつがれたとはいえ関が原の西軍の大将でもあったからな
いつやり返すのかってが毛利家にはあったようで
260年後に明治維新でやり返したってのもあるしなw >>14
社長って恥ずかしいかな
僻みすぎなような 三河人が作った幕府・街なのに、
江戸に赤味噌文化が根付かなかったのはなぜ? >>280
やり返したのも結果論で上級武士は徳川に臣従だった
幕末のは下級武士が反乱を起こして長州を乗っ取ったから 秀吉死後に政務を任されたのが家康
石田は嫌われてた割には兵力集めたよね 同世代の格上のライバルが、みんな先に死んだから家康に集中しただけだろ。 >>267
局地戦とはいえ小牧長久手で勝ったのも大きいな
あそこは秀吉の首をとれた所 >>243
それは間違い
参勤交代は各大名が面子から勝手に派手合戦をしただけ
江戸幕府は華美な行列を慎むよう命令している 天下取れるかってのは結局運なんだよな
ほとんど勝算のない関ヶ原の戦いに勝てたってラッキーがなかったら、
徳川幕府なんかなかったんだよ >>288
秀吉は戦場から離れた楽田にいたのにどうやって取るんだよ ケチケチ総務部長vs現場第一主義営業部長
って感じ? 今の時代、権力を取って何をするかが問題なのに
内部闘争にどう勝つかばかりやってたら日本滅びますよ
幕末フォーカスしたほうが良いんじゃないのん?
とまで書いて、大河とかで幕末やったら扇動になるからアカンのかと気づいた >>290
運はあるけど、トータルで徳川が圧倒的有利だぞ
秀忠が遅れただけで兵力は東軍のほうが上
秀忠がいないその一瞬だけ西軍が有利とか言っても、なんでその段階で仕掛けたかって小早川と話がついてるからだし >>288
取れるわけがない。
秀吉の別働隊潰しただけで、本隊同士なら兵力差でフルボッコやぞ >>289
1番遠い島津に1番多い人数を
強制したじゃん 日本史の授業で明治維新にうつった時
福島君と山口君がにらみ合いになりました
みんな、触らぬ神に祟りなしで知らんぷりしてました。 >>1
島津が5000もいなかったから
夜襲もしない戦下手の三成相手だから >>292
ケチケチ総務部長が石田なら家康は取締役
格が違うから毛利担いでる 秀長秀次千利休の統治体制が
三成淀秀吉体制に移行して、
豊臣政権に対立が生まれ、
秀吉の死後、秀長千利休系だった
武将の多くが家康に付いた。 >>296
地方大名の経済力を削るなんて意図はないよ
平安時代にも大番役とかあるし臣下が中央で働く仕組みはことさらおかしなものではない
江戸に入る直前で目立つ格好に着替えるなんてことやってた島津が自滅しただけ プレジデントかと思ったらプレジデントだった
最近はプレジデントとか東洋経済オンラインの記事はスレタイだけで判別できるようになったわ わいも例に漏れず信長秀吉の方が好きだったけど最近は神君家康公の伊賀越えをやってみたい >>294
そこだな
小早川が寝返ったから東軍が勝ったんじゃなく
吉川や小早川が既に実質的に東軍に着いていたから本隊が遅れていたにも関わらず
あの段階で関ヶ原で合戦に持ち込んで決着をつけたって方が正しい 結果として日本の歴史上最大の裏切り者
徳川家康が天下をとってしまったんだけどね 家康は江戸に転封された際、
江戸湾の干拓のために、
当時最新の干拓技術を持っていた
オランダと手を結んだ。
ここがその後の勝負の分かれ道になった。 オランダ独立戦争に勝利したオランダが、
徐々にスペインポルトガル帝国を
駆逐していくその過程の中に関ヶ原が位置する。 なんで秀吉は生きてる内に徳川家を滅ぼさなかったのか 小牧・長久手の戦いでやろうとしたけど
やれなかった
本当は本能寺の変の時にやるべきだった >>309
成り上がりの出自で古くからの家臣団がいない
子飼いの三成や福島正則、加藤清正らは若過ぎ
なので五大老に支えてもらう政権を作るしかなかったのさ 西軍のキリシタン大名達はローマ教皇派のカトリックで、
スペインポルトガル連合と手を結んでいたが、
スペインがオランダ独立戦争に敗れて、
衰退している事が分からなかった。 >>312
秀次に次代を任せるもの付けたが、粛清しなきゃならなくなったからな
あれが全て >>139
夜襲の提案は江戸中期の史料が出典だから信憑性は低いな
あと義弘が伏見城に入城しようとして追い払われたエピソードも信憑性は低い
上杉征伐の前の5月5日に島津義弘が国元にいる息子忠恒に宛てた書状で
「上杉攻めの間家康様から伏見城の留守居を申し付けられたが、上方には島津兵がいないので
留守居の任にとても堪えらないということで破談になった」と自ら報告してるしな 秀頼が出馬しなかったから勝てた
これだけだよ
西軍にとっては大戦犯、東軍にとっては女神の淀 秀吉も家康も信忠が脱出していれば織田軍団として東西を睨む存在だったはずで
家康にとっちゃ秀吉は同僚で上下なく、むしろ取り戻した旧武田領くれれば清洲はお任せする、と言い放つくらいには対等。
勝家レベルのアホさだったら始末されてたわな >>309
臣従の姿勢を見せる外様筆頭の徳川をいちゃもん級の理由で攻撃したら
明日は我が身と思う地方外様大名が結託して大混乱になるリスクがあり
排除するタイミングを逃したんだろうな
織田家内紛時の小牧長久手の戦いで家康を仕留め損ったのが運の尽き
その後は朝鮮征伐や跡継ぎ問題抱える秀吉に家康を仕留める余裕はなかった >>309
簡単に言えば
豊臣政権も決して安定政権ではなく徳川は東国安定の最重要パーツだったってことだな
安定しなきゃ朝鮮攻めなんて馬鹿なこと出来なかったろうしそっちのがマシだったって意見なら否定しないがw 西軍の連中や大阪方の連中は、
スペインが大艦隊を率いて、
アジアに進出するという
カトリック宣教師の嘘を信じていた為に
間違いが起こってしまった。
1580年代には、
既にプロテスタントが欧州で勝利しており、
スペインのアジア遠征など有り得ない事を
家康はオランダ商人を通じて知っていたのである。 >>315
義弘が伏見城に入場しようとしたのは間違いないだろう。
なぜなら、先ず直前に庄内の乱というのがあって、
ここで家康の許可をもらって駆逐したのは、
三成派の伊集院だからだ。
既に島津は家康vs三成の戦いを
家康派として戦っているのである。 相手がアスペルガーの三成じゃなく信玄だったらやばかったな >>303
ツアーとかあったら全国の社長が社員を引連れて参加するだろうな、大阪四条から京都京田辺へ徒歩京都宇治田原で宿泊つぎは徒歩で滋賀県甲賀へ宿泊、徒歩で三重県伊賀加太峠を越え三重県鈴鹿で乗船伊勢湾を横断愛知県岡崎で下船し宿泊してお開き。
今はコロナ禍で採算がとれないが時が時なら中小企業の社長や大学の金持ちサークルがわんさと来るな。 関ヶ原の直前に、
ようやく長年の獅子身中の虫だった、
三成派の伊集院を壊滅させて、
上洛を果たして家康にお礼を言ったのに、
その直後の関ヶ原で自ら三成に付くなど、
有り得ない理論であって、
コレは家康のポスト関ヶ原を、
島津討伐に定めた策略であったとしか言いようがない。 もし仮に義弘を伏見城に入城させれば、
死は確実で、死を持って徳川家に仕えたということになり、
関ヶ原後の島津討伐は有り得ない事になる。
一方の義弘は、伏見城で死ぬ覚悟があった事を示すために、
関ケ原戦後に、決死の陣中突破をやってのけたのである。
義弘はあくまでも、関ケ原後に始まる島津討伐の先陣を切る為に、
関ケ原に居ただけでしかない。 家康も人格がダメだったからあまり人気がなかった。
全て小早川のおかげ。 >>3>>247
恥ずかしいバカ発見
元記事読んでみろ 戦国時代なんて好きな世代はいまの現役世代にいない
鉄腕アトムの強いロボットランキングでビジネス語るようなもの 北条亡き後の領地をそっくりくれてやったり、朝鮮出兵を免除したり
徳川の力を削ぐどころかその逆で徳川に力を付けさせたのが秀吉 家康が出てこなければ今頃日本は世界の覇者でいられたのに
マジクソ >>327
割と評判良かったんだよね。小早川。
部下思いで、死なせない立ち回りを選びつつ責任を果たしていくタイプの、
目立たないけど天才的な軍師タイプの武将。
あと一押しで足が止まる以外はベスト。
足が止まるのは天才ゆえなのかも知れん。
毛利に「あれいいよねw」とか手紙に書かれる始末。 >>322
史料の裏付けの有無で話しさせてもらうけど、調べてみたら義弘の伏見城入城の件は
義弘家臣の手記『神戸久五郎覚書』にある話なんだな
「伏見本丸・二の丸へ入ることを二度申し出るが、鳥居元忠らに断られてしまった。
在番できないなら大坂へ下り、秀頼様のお傍で我慢すると家老の新納旅庵へ伝えた」
二木謙一の著書「関ヶ原合戦」で一次史料により否定されてたからてっきり創作だと思ってたわ
5月5日以降義弘の書状に伏見城在番の話は全く出てこないってのもあったし
ということは一旦は破談になったけど、その後家康の意向を全く無視して
義弘が自軍の兵もほぼいないのに強引に伏見城に入城しようとしたってことになるな
そりゃ鳥居も拒否するわ >>246
ガサツとか、何の話だ
◇元弘の変(1331~1333年)室町幕府の支配層、三河武士◇
【三河県岡崎市】
・足利氏(宗家、鎌倉公方):大門屋敷、近辺(八剣神社内)に足利尊氏の墓あり
・斯波氏(足利一族):管領家、奥州管領家、奥州探題、羽州探題、守護職(安房、若狭、越前、越中、尾張)、屋敷(跡地に永源寺)
・仁木氏(矢田一族):幕府執事、守護職(伊賀、伊勢、志摩、三河、遠江、武蔵、摂津、丹波、丹後、備後)、仁木城
・細川氏(矢田一族):管領家、守護職(伊賀、伊勢、志摩、摂津、和泉、河内、若狭、越前、越中、備中、備後、淡路、阿波、讃岐、伊予、土佐、日向)、細川御前田城、細川城山城、細川権水城
・上地氏(矢田一族、細川氏分家):上地城
・上地氏(矢田一族、仁木氏分家)
・高氏(足利被官):室町幕府執事、守護職(伊賀、伊勢、志摩、尾張、三河、武蔵、上総、和泉、河内、下野、丹波、石見)、屋敷(跡地に総持寺)
・上杉氏(足利被官):関東管領家、守護職(伊豆、武蔵、上野、丹後)、日名屋敷
・倉持氏(足利被官):奉公衆、便寺屋敷
・粟生氏(足利被官):奉公衆、秦梨城、秦梨城山城、梅藪屋敷、西熊屋敷
【三河県幸田町】
・大草氏 (足利被官):奉公衆
・大場氏 (吉良被官):深溝城
【三河県豊田市】
・上野氏(足利一族):守護職(丹後、石見)、奉公衆
・中条氏(足利被官):守護職(尾張)、奉公衆、金谷城
【三河県西尾市】
・西条吉良氏(足利一族):将軍御一家、西条城
・奥州吉良氏(足利一族):奥州管領家、守護職(因幡、但馬)、関東公方御一家、東条城
・一色氏(足利一族):四職家、九州探題、守護職(筑前、肥前、肥後、日向)
・荒川氏(矢田一族):戸賀崎氏分家)守護職(丹後、石見)、戸ヶ崎城
・饗庭氏(足利被官):奉公衆、饗庭城、饗庭命鶴丸
・小笠原氏 (吉良被官):幡豆小笠原氏、三河守護代
・大河内氏 (吉良被官):引馬荘荘官
【三河県豊川市】
・関口氏(足利一族):奉公衆
・星野氏(足利被官):藤姓熱田大宮司一族、奉公衆
・萩氏(足利被官):藤姓熱田大宮司一族、奉公衆 >>246
続き
【三河県豊橋市】
・石橋氏(足利一族):将軍御一家、守護職(若狭、伯耆、備後)
【三河県新城市】
・設楽氏(足利被官):三河伴氏、奉公衆
・富永氏(足利被官):三河伴氏、奉公衆 >>330
転封だから石高の数字上がるっつっても大変やで
先祖伝来の土地は取り上げられたわけでな
スライドで家康の領地に入る予定だった織田信雄は反抗して改易されるまでなったわけで >>333
伏見城には多くの兵は入れないし、
戦略上、老兵が果敢に戦って討ち死にして、
東軍の士気を上げて最後のご奉公というのが家康の戦略であって、
兵が少ないから伏見城に入れないというのは、
戦略として合わない事であり、
やはりポスト関ヶ原の島津討伐を考えた場合に、
島津の老兵義弘が伏見城で討死という恩義を
売らせたくなかっただけだろう。 結局、歴戦のつわ者、島津義弘も、
伏見城に入れなかった意味を、
関ヶ原後の島津討伐を睨んで、
家康が島津に恩を売らせたくなかった事だと、
その場で理解した為に、
関ヶ原後に島津討伐の先陣を切る為、
戦場までついて行って、
関ヶ原後に、島津討伐の戦いの火蓋を、
自ら切ってみせたという事だな。 歴史家の人って軍事とか戦史には詳しくなくてトンチンカンな事言う人多いよね あほか、豊臣は征夷大将軍になれないからに決まってんだろ
バクーフを開けないからどこかで権力を移行する必要があったんだよ >>340
それはあなたの主観だな
自分としてはさっきも言ったがあくまで史料の裏付けの有無で話をしてる
元はと言えば上方に島津兵がいないのが義弘の伏見在番が破談になった理由なのは義弘本人の書状でも明らか
まあ拒否された最大の要因は家康が許可してないってことだから寡兵だったことはそれに連なる一因であると自分は思うがね >>342
仕事しないと何もしていないと思われるから、どんな糞で駄目と自分で思っていてもデカイ花火を打ち上げて世間に見てもらわなきゃならないんだろうな。
仕事のない芸能人の話題提供と似ている。 >>288
黒田官兵衛は小牧長久手に参加してなかったから
生涯無敗の軍師という異名を保てたな >>18
なんせ家康自身が神様になっちまったからな
秀吉も豊国大明神という神様になっていて家康もそれに倣った 家康が上杉攻めをする際に、上方で石田らが兵を挙げるかもしれない
豊臣家から奪い徳川の城となった伏見城、ここに鳥居を残した
真田昌幸の上田城攻めでは大将となったが見事惨敗、武将としての能力は疑問だが
今川人質時代からの仲、絶対に裏切らない安心できる存在
石田らが10万の兵を集めると家康が予想してたなら
伏見城の兵は死兵であり、それでも裏切らない鳥居が
少ない兵でも徳川の強さを見せ、残った徳川兵を鼓舞させる役割を期待したのだろう
石田らが1万とか2万ぐらいの兵しか集まらんと家康が予想してたなら
石田らに味方しようか迷う、上杉攻めに行かなかった諸将
鳥居が動揺せず断固たる態度を取ってたら、結構な人数が集まり
石田らは伏見城さえ攻め落とせず、早々と失敗に終わる
鳥居は死兵ではなく、彼の度胸や忠臣的態度を期待しての抜擢
家康はどちらを予想してたのか?意見が分かれるみたいだが
毛利の決断次第で大軍か小軍かになってたんだろう
島津義弘伏見城入城に関しては
・石田らの兵の集まりが少ないと予想し徳川に味方しようと思っての事か?
・城内で裏切る予定の入城で、それを予想し鳥居が拒絶
・そんな事実はなく、鳥居は死人に口なしなので、関ケ原後家康との交渉での創作か? >>344
ソレはあなたの主観であり、
私は当時の何人も覆し難い
戦略上の必然を言っているだけなのだよ。 毛利が邪魔で戦わずに改易された超スケベが馬鹿みたいじゃんよ 改易されると知ってたら後ろから徳川に突っ込んでるわ全滅しようが >>348
伏見城を豊臣家から奪いってw
伏見城を家康が使うのは秀吉の遺言通りだぞ ①伏見城には多くの兵は入れられない。
②決戦を前に、徳川の重臣が伏見城で果敢に戦って討ち死にして、東軍の士気を上げたいという戦略があった。
これはもう何人も覆し難い戦略上の事実であり、
この前提が覆し難い事を考えれば、
家康が義弘の兵が少ないことを理由に、
伏見城の籠城を断ったということは、
実際の伏見城で少数の兵で鳥居元忠程の重臣が討ち死にして
東軍の士気を上げるという戦略とは異なる事情で、
義弘の籠城を断ったということにしかならない。 >>338
近年では信雄自身に反抗の意思は無く、素直に転封に応じるつもりだったけど、噂を聞いた国元家臣が反抗して収拾がつかなくなり、家中統制不行き届きを理由に改易されたという説が有力
独自に天皇御成屋敷を拵えるなど、豊臣家と独立した権威を模索したことも睨まれた原因
要は家康と異なり、色んな意味で甘かったということ そもそも大谷吉継は勝てねえって諌めてたんだよなー
三成がアホなだけなのよ 人望のない石田三成と凡ボンの毛利輝元が総大将だったからだろ
総大将が洗浄に出てこんで勝てるわけないだろw
しかも関ヶ原で負けたら大阪城から逃げ出すとか誰が東軍の大将でも勝てるわw >>351
348の話の趣旨はそれじゃないでしょ
重箱攻めや揚げ足取りしかできない人だな、歴史丸暗記人間に多いタイプ >>352
石田らが挙兵しても、大した人数集まらないと家康は予想してた
これ結構聞くのだが、家康の本心はどっちだったんだ? >>356
長文を全部読む気になれない上、
上の方に目についた部分だけでアホみたいな事が書いてあるとその下の文章もろくなこと書いてないだろうなとしかw >>355
少なくとも天下分け目の合戦をするような時期じゃなかったし、人材もいなかったよねぇ
せめて豊臣秀頼を大将に担いでたらねぇ…? 先ず島津相州家は三成と伊集院によって、
長年煮え湯を飲まされてきた。
九州征伐以前からの謀略で、
伊集院に島津を乗っ取らせるのが、
秀吉と三成の戦略であったのである。
それを秀吉の死でようやく家康に許可をもらって、
三成の手下の伊集院を成敗したのに、
その戦闘の冷めやらぬうちに、
関ヶ原で自ら三成について西軍として戦うなど、
要するに戦国時代を理解していない人が言う戯言でしかない。
ここさえ理解していれば、
関ヶ原に居ながら、三成のために戦うなど、
有り得ない故の関ヶ原での島津義弘の
行動だということは
100パー理解できる事だろう。 >>360
関ヶ原合戦ってのは東西両軍ともに豊臣軍なのよ
その豊臣の内紛の片方に淀君が秀頼を出すことはあり得ない
と、少なくとも家康は踏んでいたはず >>359
言い訳ばっかりの典型的な丸暗記人間だな
秀吉死んだ頃の伏見城には、秀吉や淀や秀頼が住んでた
家康らは伏見城近くの屋敷に住んでおり
秀吉の遺言に、淀と秀頼は守りの堅い大阪城に引っ越せがあり、家康は伏見で政治を任せる
数ケ月後に引越し、前田や石田ら多くの諸将も大阪へ
ここで伏見と大阪で対立があり、そのどさくさで伏見城に家康は居座ったはず
前田が死に三成追放後に、家康はさらに大阪城へ
こんな流れだったと思うが
豊臣家の城だった伏見城が、完全に徳川の城になったのは事実
奪ったか遺言通りか、どっちが正しいかなんてどうでもいい 家康は信長の同盟者。
一方、秀吉は信長の家臣。
身分の違うは歴然。 >>364
名代として豊臣政権を任されてるのに居座ったもクソも無いだろw
徳川対豊臣になるのは征夷大将軍で官位逆転させてマウントとるようになってからだ
関ヶ原の時点では家康も豊臣傘下の一武将 圧勝?
双方ともに多くの犠牲者を出した悲惨な出来事だよね?
今日は「関ヶ原の日」にもなってるらしいね?
観光イベントなんかより追悼式でもやった方がいいだろ? 島津家は都城庄内の島津荘で、
関白近衛の荘園の地頭職を、
鎌倉幕府より命ぜられたのが始まりであり、
戦国時代にも、近衛家と島津家は非常に親密な間柄であったことが分かっている。
ソレが、秀吉が近衛家の養子に入って関白になるという前代未聞の事件が発生してしまい、
この頃から近衛家と仲の良い義久義弘に代わって、
伊集院を手名付けて、島津を乗っ取らせる画策を秀吉は行っていた。
その実務を担当していたのが三成で、
秀吉と三成と伊集院に長年に渡って煮え湯を飲まされてきたのが、
島津義弘になる。 >>366
丸暗記人間ってのは何回説明したら理解してくれるのかな?
秀吉の遺言では、秀頼は大阪城へ
家康は伏見で政治任せるが、徳川伏見屋敷が住まいで
政治関連の仕事をする際に、伏見城へ出仕してやる
つまり住まいが徳川伏見屋敷、仕事する場所が伏見城のはずが
家康は婚儀など色々遺言破ったが、自分の住まいを伏見城にし
さらに大阪城へ行き、西の丸御殿だったかな?さらに建設し住みつく事になった
>>351「伏見城を豊臣家から奪いってw」
これに関する事を述べてるのだが、366のアホ文章は何なの?意味分からん
ほんと歴史丸暗記してるだけの人間はどうしようもないな 傘下は傘下なんだろうけど、戦国大名豊臣傘下というより
朝廷傘下って感じはする >>275
関ヶ原の時点では三成も徳川も両方建前は豊臣の家臣で、豊臣家臣としての権力争い、内輪揉めだぞ 実際歴史書き換えて圧勝したことにしたんだろ
ろくな文献残ってないから >>370
どんな戦国時代の人間も朝廷に逆らってないし官位は利用してるから朝廷傘下なのは当たり前だけど
朝廷が積極的に政治を動かしてるわけでもなくあまり意味の無い言及と思う
家康が豊臣傘下なのは事実だぞ。豊臣姓下賜されてるしな
実は東軍も西軍も豊臣さんだらけの関ヶ原 庄内の乱の庄内というのは、
都城庄内のことで、
島津荘があった地で、
島津発症の地である。
ここは代々分家の北郷氏が治めることになっていたのであるが、
この島津発症の地を、
伊集院に治めさせるという屈辱を
行ってきたのが秀吉と三成で、
これを長年苦々しく思っていた島津相州家は、
秀吉の死を契機に、家康に奪還を訴えたのが庄内の乱である。 >>334
トヨタなければ消え去るでしょ
そんなに大切なら発展させて名古屋と繋げて大都市圏作るわな >>373
要はさ、豊臣から家臣へという体で命令を出すと家康は意見する根性あるけど
関白秀吉の名で来ちゃうと受けるしかないと諦めるって感覚よ 関ヶ原直前に、島津家の三成派で、
長年島津相州家に煮え湯を飲ませてきた伊集院を、
家康の許可を得て討伐したのに、
その直後に関ヶ原で三成の元で戦うとか、
理論として有りえないことは、
戦国史を知っていれば誰しもが理解できる必然である。
その必然として、三成と家康の戦を、
第三者として傍観したのは、理論上導き出される正しい結論である。
しかし、コレが理解できないアホが、
書状が見つかったから、
島津は西軍についたとかバカな事を抜かしておるだけなのである。
書状などというのは、真田家でも、
徳川と豊臣の両方の書状を持っていたのだ。
その時々によって、有利な書状が明かされるだけで、なんの意味も無い事なのだ。 >>353
それは誰の論考なの?興味あるわ
確かに下記の書状のように信雄は国替えの噂が領内の下々の間で広がり、
それに対してあり得ないことだから騒ぐなと激しい口調で家臣を叱責しているが
管見では信雄が拒否した説しか見たことないな
(天正18年)1590年7月1日付(北条降伏の4日前)家臣宛織田信雄書状
「下々の間で国替えの噂が広がっていると報告があった。荷物を持って家を引き払う者もいるそうで言語道断である。
その様な輩は見つけ次第成敗しろ。国替えのことは今日まで聞いたことはない。
このような騒動になるのもお前たちが手ぬるいからだ。国替えは弓矢八幡に誓って絶対にないから安心しろ。
もし家などを壊して退去する輩があれば逐一報告しろ。所々に見張りを立て、見つけ次第磔にかけろ」
織田氏研究で有名な柴裕之も信雄は関東及び奥州の惣無事を家康と担うべき立場であったにも関わらず、
折り合いをつける事ができずに国替を拒否したと述べてる >>376
関白は1591に秀次にとっくに譲ってて
死ぬまでの最後の6年間は太閤(たぶん官職としては無い)だよ >>294
なんならその秀忠の遅れすらもし負けても
後ろに引けばバックアップがあって
再帰可能という状態なわけで万全の体制だわな 神戸の書状が出てきたからと言って、
島津相州家が、三成に長年煮え湯を飲まされ、
島津発祥の地庄内島津荘を伊集院に乗っ取られ、
家督も伊集院に奪われる所を、
秀吉の死を契機になんとか家康の許可で、
成敗して長年の恨みを晴らした
という歴史の事実は消えようが無いではないか。 >>379
そう言う細かい話ではなく、要は豊臣家からやれって命令なら意見するけど、朝廷から命令されてるからヤレって言われると逆らえないって事だろ >>338
豪族の家臣化が進んだり大名の中央集権化が進んだな 第二に、伏見城は多勢は入れられないし、
戦略上、鳥居元忠という老兵の重臣が寡兵で守って討ち死にして、
東軍の士気を上げるという戦略が
最初からたてられていたのは明らかで、
その戦略と島津義弘の兵が寡兵なので
伏見城には入れられないというのは、
明らかに伏見城の戦略とは矛盾する事であり、
島津を伏見城に入れられない事情があったとしか言いようが無く、
ソレはやはり、ポスト関ヶ原で、
島津討伐があって、
島津討伐直前に、島津義弘が伏見城で
討ち死にして、
東軍に恩を売るなどということが
あってはならないことだったからとしか
言いようがない事だな。 >>382
いや全然細かくないだろ
関白って官職があるから従ってるんじゃねって意見に対して
関白じゃなくなってからも死ぬまで秀吉に従ってるんだから
秀次が秀頼乗り換えで切腹させられてからは豊臣家のどこにも関白なんてものは無くなった
朝廷がいちいち命令なんて出さんよ なぜそうなったかはプロに任せるけど
武家の政権は朝廷とは別系統で、神道と仏教のハイブリッド信仰みたいなパターンが基本なのに対して
豊臣政権は豊臣家が朝廷に入り込む不思議な体系って感じ やっぱり糞を漏らした経験が
その後の家康を育てたんだろうなあ。 >>389
笑い事じゃなくて、ほんとそれ
人間は痛い目に遭わないと分からない 結局、伏見城に入れなかった事で、
ポスト関ヶ原は島津討伐であることを義弘は理解し、
散々煮え湯を飲まされてきた三成に加勢することは無く、
関ヶ原を第三者として傍観し、
関ヶ原戦直後に、島津討伐の口火を
自ら切って、
決死の覚悟で伏見城入城を申し出たことを示して、
その後の島津討伐に覚悟を示したというのが、
戦略上正しい島津退き口の分析になる。
どんな書状が出てきても、
この戦略上の分析は覆りようがない。 >>387
出す出さないじゃ無いんだよ
朝廷をチラつかせるだけで逆らえなくなるんだよ
太平洋戦争だって反対でも統帥権干犯の恐れありって言うだけでなんも意見出来なくなってたんだから 痛い目あってもなぜか死ななかったからな
織田に負けて岡崎まで逃げ帰り、武田に狩られて涙目、
明智に裏切られて脱兎のごとく逃げる人生はなかなかない いくらドラマ仕立てにしても人間の戦争は
猿山のボスザル争いなんだよな 幕府とか言う考え方は、
江戸時代になってからのことで、
源氏の棟梁が将軍になるというのも、
徳川が自らの政権を強化するために
編み出した理論でしかない。
関白近衛家が裏で色々動いて、
戦国大名を後押ししていた事が分かっており、
その動きを取り込んだのが秀吉ということになるだろう。 家康の脱糞は後世の作り話だし
あの絵も1600年代に入ってに描かれた可能性が高いらしいし
さらに三方ヶ原の絵では無く、元々は長篠の戦いの家康と伝えられてた >>376
信長は兵の強さなど権力で、敵対勢力と戦ってた
秀吉も途中まで権力だけで、柴田や徳川や信雄などと戦ってた
しかし途中から関白になり、さらに権威の力も備わり
中立っぽい立場の人が味方になったり、敵対勢力から裏切り者が出たり
パワーアップし天下取りが早まったと思う
関白になった事で、地方の大名に官位あげるよ!が可能となり、これが結構効果的だったみたい
信長秀吉は千利休の目利きで、茶道具を勝手な高値にし、それを恩賞などに利用したが
官位授与の力が備わった事で、千利休の利用価値が減り、それが後の災いになったとも言われてる
関白はただ偉いって事でなく、相手に官位を与えられる権利が大きかったと思う
武士のトップ豊臣家からの命令、関白豊臣家の命令、後者の方が家臣にとって大きかったかもしれんな >>392
なんかどういう勘違いしてんのか知らんけど
朝廷がバックにいるのは豊臣だけじゃないよ?
豊臣政権下での家康だって正二位内大臣の官職なんだから
(歴史小説でよく出てくる内府って呼称の元) 結局、家康は、
島津討伐をにらんで、
庄内の乱を起こさせ、
伏見城入城を拒否して、
東軍に恩は売らせず、
実際に島津討伐令を出したものの、
島津退き口のデモンストレーションが効いて、
「家康の謀略で西軍にさせられただけじゃん」
っていうのが白日のもとにさらけ出されて、
誰も参加することが無かった事になった。
大合戦の大一番に大勝した家康の命に、
誰も従わなかったぐらい明白だったのだよ。 >>396
賤ヶ岳で負けて北ノ庄で籠城した柴田軍は、数百程度まで激減した
関ケ原の前哨戦、織田秀信が福島池田らと野戦をし大敗、その後岐阜城で籠城したが少ない兵しかなく落城
三方原大敗後の家康も、これらと同じく兵は逃げ、浜松城には少数しかいなかったと思う
信玄がそのまま攻め込んだら、一溜まりも無かったろう
家康の人生で、これが一番の危機だったと思うが
それで後に勝手な逸話が創作させたんだろうな 伊賀越えもまぁまぁだと思うけどね
別ルートの穴山はんは死んだんじゃなかった? 吉川広家が邪魔して戦場にさえ行けなかった長曾我部。
西軍は石田軍、小西軍、宇喜多軍、大谷軍くらいしかまともに戦ってない。
島津軍は勇猛と言われるが、お家騒動でたった1500の寡兵で役に立たず。
長曾我部は取りつぶしになるくらいなら、もっといいところに陣構えて
戦えばいいのに。
一番情けないのは大将なのに戦場にさえ出ないで大幅減封の毛利輝元。
元就に申し訳ないと思わないんかな。 元々、秀吉政権というのは、
秀長と利休の二頭体勢だったのだよ。
コレが秀次に引き継がれる筈だったのが、
そこに待ったをかけたのが、
淀と三成と秀吉だったわけだ。
秀長が死んで、利休が切腹させられ、秀頼が生まれて秀次が切腹させられ、
淀三成秀頼体制が出来上がったが、
秀長利休の派閥は皆家康に離れて行った。
小早川秀秋も淀三成秀頼の犠牲者だろう。 来年の大河だからこれからこういうニュース増えてくるだろうな。新史料発見もあるかもね >>398
権力って組織内部での政治的な強さの意味だろ
他の大名と対等な立場で対外戦争をする強さを言うなら
勢力とか軍事力とか言ったほうが良いんじゃないのん? 小早川秀秋は最も豊臣家に近い親族であった。
それ故に淀三成秀頼体制には相容れなかった訳で、
そうなるともうそれ以下の親族でもない大名というのは、
淀三成秀頼体制に加担する訳にはいかないということになるだろう。 >>404
毛利の関ケ原での消極的な態度はよく非難されるが
秀吉の中国大返しで傍観したのも同じ過ちだったと思う
宇喜多秀家はまだ子供、親の代で大きくなった大名なので
毛利が攻めたら裏切り者が続出し、難なく攻め取れるだろう
姫路城まで一気に走った秀吉軍、ここでちょっと休憩し、毛利が来ないので明智軍のいる東へ
これが毛利攻めて来たなら東へは行けず、姫路で毛利と戦うか?大阪の丹羽と合流するか?
どちらにせよ混成軍だった秀吉軍から兵の逃亡があったはずで
兵の逃亡が相次いだ丹羽、関東の滝川と同様、秀吉は明智と戦うのは困難
兵の逃亡があまり無かったと思われる柴田と、明智は決戦になっただろう
天下どう転ぶか分からんが、毛利は大きな漁夫の利を得てたはず
元就の遺言で天下は狙わなくても、さらに大きな西国の雄として君臨できてたはず
この後悔が関ケ原で、四国の藤堂や加藤嘉明領に火事場泥棒したのかもしれない >>367
西軍の主な武将は毛利は除いてだいたい蹴散らしたから圧勝じゃないの? >>409
清須会議後に三法師が織田家家督を継いだ、賤ヶ岳後だったと思うが
三法師まだ子供なので中継ぎとして信雄が、色々曖昧な点はあると思うが織田家を継いでたらしい
小牧長久手で池田森蒲生などが、信雄側に味方すると思われた背景は
信雄側からすれば、これは織田vs羽柴の戦いであり
織田恩顧の池田らが、羽柴に付くのはおかしいという見解
これと同じく、秀頼はまだ子供なので、秀秋が中継ぎとして関白就任すれば良かったのに
秀吉が死ぬ時、秀頼は中納言、この若さでは異例の出世かもしれんが
秀吉の権力で強引に子供関白にすればよかった、前例が無いとできんかったかもしれんが
子供将軍だっているんだし、こんな強引技だと関白の権威下がるかもしれんが
それなら秀秋の中継ぎ関白が現実的 >>174
だからそういう取り繕うリアクションが堪らなくいやなんよ。
圧力かけるなら堂々と掛ける海外の方がましといってるの。
「これはみんなの総意でね」とか言いながら自分の都合を通す陰湿な日本人社会がイヤなの。 >>413
秀秋がアル中で死に、さらに秀頼まで死んだら豊臣家誰が後継ぐんだ?
天然痘で顔に痣残るほどの重症経験もあった
多分密かに影武者いたかもしれんな、秀頼死んでも
元気な秀頼のソックリさんが登場
家康は父も祖父も早死にしたので、同母兄弟はいるが父同兄弟はいない、叔父もおらず
信康が産まれる前に死んでたら遠い親戚しかおらず、家督争い勃発確実
それで家康の影武者説が横行した 三成では役不足だろ
トップに立つ器じゃない
優秀な参謀が適任 >>358
鳥居らを捨石にして士気を上げたなんてのは徳川実紀とか後世の編纂物による創作だね
そもそも家康が東下すればその隙を狙って三成らが挙兵すると予測してたってのがまず創作だしね
その証拠にあっさり超重要拠点である大坂城を輝元に奪われて秀頼も取られてるし、
伏見城代を大した戦経験もない木下勝俊に任せてる(後に勝俊は独断で伏見を退去している)
伏見も上方の重要拠点であり決して捨石にしていい城ではない
これらは家康が西軍の挙兵を予想してなかった故のことだろう >>385
西軍が勝ってれば関白だったんだよな
裏切者の汚名を着て外様大名やるよりはるかにマシだったのに >>415
万が一の事態に備えて秀吉は天皇の弟を養子にしてるよ >>417
ソレは間違いだな。
やはり捨て石にするために
2000しか入れなかったというのが
伏見城の正しい見方だろう。 てか、誰が考えても、
三成を挙兵させるための
上杉討伐であり、
ここに異論は唱えようがない。 伊勢制圧を後回しにして濃尾平野制圧を優先してたらどうなったかね >>417
秀吉の天下取りの序盤は、明智→柴田→徳川信雄と難敵と戦い続け
その後は紀州→佐々→長曾我部→島津→北条と、大軍を個別攻撃し楽な戦いで天下取り
家康の天下取りは、前田から始まり次は上杉
大軍を個別攻撃する、秀吉の後半みたいな楽なスタートだった
これで油断してしまったんだろうな、上杉の次は毛利宇喜多と考えてただろうが
紀州→佐々→長曾我部→島津→北条のつもりが、紀州→佐々長曾我部島津北条連合軍になってしまった 英良は象徴的な存在ではあったが、
実務は秀長と利休が握っており、
秀吉も当初は捨てを秀次の養子にして、
関白を継がせると言っていたが、
ソレをよしとしない勢力=淀
によって翻弄されてしまったというのが
正しい見方だろうな。 >>420
八条宮やな、邸宅が桂離宮で有名な
養子関係は鶴松か秀頼産まれた際に解消されたと思うが
また復活し豊臣家として関白就任するかもしれんな >>424
関ヶ原のような一大決戦は、
前々から準備しなければ実行できる事ではない。
天下を取る家康なら尚の事、
準備に余念はないだろう。
その準備の中に、
関ヶ原前夜の島津の庄内の乱もあって、
そして関ヶ原後に出されたのが島津討伐令で、
この流れはキチンと理解していなければいけないぞ。 流れを読む力ならある方だな
これは家庭内で両親が喧嘩を良くしていたから
学んだスキルだな また朝鮮プレジデントが
適当な事言ってますね。
会議の空気を読む能力で戦争に勝ったのかw
ラノベより酷い関ヶ原分析だねw
何でこいつら人望とか
人を評価する分析力とかそういう話に
ならないんだろうね?
未だにムーン安倍にでも
おべっか使ってるのかな? 関ケ原の戦いは三成の人望の無さで負けただけだしなぁ
もし西軍に豊臣秀頼が出陣していれば
それは無理でも豊臣家の馬印を賜っていれば西軍の勝ちもあったが
それが出来なかった時点で戦略面で詰んでいる >>415
豪姫の婿の宇喜多秀家かな?
若いのと戦ぶりは悪くない。ただし備前騒動みるに
行政能力は疑問 五奉行の連署でイエヤス弾劾状を出してるのに
その五奉行の二人が寝返ってるんだもの
関ヶ原だけじゃなく全体像で性軍が負けてた 家康にしてみれば、
関ヶ原のような一大決戦において、
島津を活躍させて、
後の幕府運営に影響力を誇示される
ようなことはしたくなかったので、
先ず庄内の乱を起こさせて、
関ヶ原前夜に、島津の勢力を削いでおきたかった訳だ。
島津は島津で、長年の三成伊集院体制への恨みと、
家督乗っ取りの懸念から、
伊集院を成敗せざるを得なかった事情もある。
そこで関ヶ原が起こった時、
島津にできることは、
庄内の乱の許可に対するお礼として、
義弘クラスの重将が伏見城で討死する
という恩義を家康に売る事だったが、
家康は関ヶ原後は島津討伐が重要戦略だったために、
難癖をつけて伏見城には入城させなかった。
ここで家康の次の目的は島津討伐であることを理解した義弘は、
関ヶ原には参加せず、関ヶ原戦後に、
島津討伐令に対する口火を自ら切って、
次の狙いは我々だろと、
分かってんだよと、
伏見城で討死することになんの躊躇もなかったぞと
そういうことを関ヶ原でデモンストレーションした訳だ。
それで実際に関ヶ原戦後に島津討伐令が出たが、
関ヶ原で大勝して権力を握った徳川家康の島津討伐令に従う大名はゼロだった事で、
島津の目論見は見事に達成されたと言えるだろう。 三成は当人は戦経験薄いけど、家来は割と精鋭揃いだったぞ?当人はコンプレックスあったからそれを家来で補おうとしていた。自分の取り分減らして家来に家禄をはずんだので石田側は島左近、舞兵庫、横山喜内と武勇に優れる将が多かった。渡辺勘兵衛みたなクセのある人も *だれじゃあぁぁ仕掛けたのはーっ?
*進めーっ!進めーっ!とまる奴はぶった斬るぞーっ! 三成っていうのは、
反秀長派、反利休派の急先鋒だったわけで、
淀の求めに応じて、それらを引き継ぐ秀次を
自刃させる様な勢力であった訳で、
そこに乗っいけない旧秀長派、旧利休派、旧秀次派の大名が数多く居たというのが真相だな。
逆に言えば、秀長利休体制とは関わりの無い大名達が、
三成派となった。 西軍に付いた大名諸侯もいざ現場に着いたら
「え、現場指揮官はお前かよ!!」の空気に包まれたろうな
長期戦になると読んでいた黒田官兵衛も
官兵衛「お前が余計な事したせいでワシの計画丸つぶれやんけ」
長政「西軍の指揮官が三成だったのでどちみち西軍は負けてましたよ」
官兵衛「え、それマジで!? 毛利公やなくてあいつが現場の指揮官やってたの!? そらアカンわ」 もう日本史とか世界史は義務教育と国公立大学の試験科目に含めるの止めろよ >>371
だからうまいんじゃん。
豊臣家に取って代わるて本音なら関ケ原に毛利勢と秀頼が出陣してきて豊臣恩顧も当然秀頼側に鞍替えして終わってた。
豊臣恩顧が三成憎しで家康について結果豊臣家滅ぼしたんだから無能すぎる。 三成はしゃしゃりでず、家老の島左近を全面に出せば良かったんじゃないの?そして宇喜多秀家や島津義弘を最高指揮官に仰いでおけば間違いなかったのにな。プーチンみたいに現場に口出し過ぎたんだろ?
島左近なら大名も「アイツならまあ認めよう」となるし、宇喜多や島津から朝鮮出兵で実績あるからみんな納得した。特に島津義弘はシセンの戦いで当時超有名人になっていたから誰もが「この人のもとにいたら勝てる!」と思われたと思うが 三成も実際に秀長利休体制を突き崩して、
豊臣政権を運営してきた実績があり、
三成に呼応して挙兵した大名も数多く居た以上、
それなりの力があった事は間違いない。
島津家だって、庄内の乱で伊集院が勝っていたら、
西軍の主力として戦っていただろうし、
実際に三成派に家督相続させてい他家は、
西軍の主力になっていた訳だからな。 毛利が本気出してたら家康に勝って今頃は萩が首都だったかもしれない >>444
徳川家は実は実戦経験が小牧・長久手の戦いを最後に鳥羽・伏見の戦いまでまったく無かったから毛利相手に徳川は負けてた可能性高い。
主力のほうは秀忠付きで家康率いていたのは
2世といった実戦が少ない若手中心。家康は本隊温存したんじゃね?と言われるが 江戸張りに栄えてたら天皇も引越ししただろうけど
無理そうじゃないかね >>434
それって質実剛健の当時の実力ある
戦国武将にビビって腕っぷしが強いだけの
チンピラ集めただけだろw
朝鮮ヤクザと同じ発想だろw
現実を見ろよ、口だけ三成の軍など烏合の衆、
黒田家の圧勝だったろうが。 >>447
最後まで頑強に抵抗したのは石田方。普通は形勢不利になれば逃げたり返り忠働くやつ出てくるが石田方は奮戦して全滅してる。 >>423
三成は諸将を東進させて尾張・三河方面への出兵を提案していて、真田昌幸宛の書状でも協議中であると伝えてる
しかし結局長束や安国寺が主張していた伊勢制圧案が採用されてるのは史実の通り
個人的には美濃に主力を置いて東軍の出方を伺うべきだったと思うけどね
伊勢へは美濃からも行けるし、もし伊勢に東軍主力が来るなら退路は海になる
美濃に集結しておけば伊勢や尾張にも行けるし対応はしやすいと思う 戦国時代は家督相続の揉め事は、
戦いによって解決されてきたが、
秀吉の惣無事令によって、
秀吉政権の介入によって
解決せざるを得なくなった。
その典型が毛利両川な訳で、
まだまだ、三成派の家督相続した大名は、
まだまだ道半ばだったと言えるだろう。 >>449
その理由も簡単、
三成勢は徳川家や黒田家と言った
軍事でも政治でも実力ある大名から
さまざまな悪行で恨みを買ってたから
降伏しても斬首確定という事で戦っただけだろ。
完全に追い詰められた犯罪者の思考じゃないw
三成の一族は完全に取り潰され
子孫も生き残れないようにされたからね。
それだけの事をしでかしたから仕方ないね、
現代朝鮮と同じ。 >>375
あるないの発想する事自体が、他力本願の田舎猿なんだよ
成功は自ら勝ち取るもんだ
【三河最強伝説】
■源義家軍
総大将:源義家
本体:三河武士(郎党1 兵藤正経 三河国住人、郎党2 伴助兼 三河伴氏 三河国住人)
■源頼朝軍
総大将:源範頼(三河守)
本体:三河武士
■足利尊氏軍
総大将:足利尊氏(三河守護(但し当時は喪中))
本体:三河武士
■徳川家康軍
総大将:徳川家康(三河守)
本体:三河武士
■トヨタグループ
総大将:トヨタ自動車
本体:三河武士 >>375
成功を自らが勝ち取る
これは日本全国みても、三河人しかやった事が無いな
関西(六波羅探題)、関東(鎌倉、中先代の乱)を同時にヌッ殺したのは三河国だけだよな
足利尊氏は、後醍醐天皇を討伐すべく、鎌倉を出発した。
途中、三河の矢作川のほとりの矢作宿(三河県岡崎市)で三河の足利党19家の兵馬の出迎えをうけたが、ここで倒幕の決意を固めた。
19家とは
01.西条吉良氏■後に将軍御一家
02.奥州吉良氏■後に奥州管領家、関東公方御一家
03.今川氏■後に九州探題、守護職
04.一色氏■後に四職家、九州探題、守護職
05.仁木氏■後に室町幕府執事、守護職
06.細川氏■後に管領家、守護職
07.斯波氏■後に管領家、守護職
08.戸賀崎(荒川)氏■後に守護職
09.畠山氏■後に管領家、守護職
10.桃井氏■後に守護職
11.渋川氏■後に将軍御一家、九州探題
12.上野氏■後に奉公衆
13.岩松氏■
14.石塔氏■後に奥州総大将、守護職
15.鹿島氏■
16.粟生氏■後に奉公衆
17.倉持氏■後に奉公衆
18.高氏■後に室町幕府執事、守護職
19.上杉氏■後に関東管領家、守護職
太平記第20回「足利決起」 三成の戦下手とか人望が無い設定ってのは、神君家康アゲする為に生まれた後世の創作だろうな 石田三成と徳川家が不仲ではなかった
というのもとんでも話です。
不仲だった記録が出てこない理由は
不仲すぎて交流なんか一切してないから
記録がないのです。
嫌いな人間と交流する人間なんかいないからね。
石田三成は調べれば調べるほど
最低なクズであり、ムーン安倍の同類ですね。 島津の例を見れば分かる様に、
秀吉や三成が仕掛けてくる家督相続は、
分家の乗っ取りのような、
主家には受け入れ難いものであり、
そういう謀略が多くの敵を招き、
家康の台頭を招いたと言えるだろうな。 三成は左巻き野党議員のような独善で偏狭な野郎だったからな
味方は見限って離反するし、戦っても士気が低い 相続によって主家と家来が逆転してしまう様なモノは
受け入れられるようなモノではない。
秀吉や三成にしてみれば、
逆に自らの影響力を誇示出来るような
相続を押し付けたい。
分裂や乗っ取りを画策しすぎた結果、
反秀吉、反三成派を自ら作ってしまったのだよ。 石田三成という人物は口だけのど三流、
現代日本のクズ政治家みたいな奴だったからね。
朝鮮贔屓だったらしいので
朝鮮人のなりすましだと
疑うレベルですからね。
まあ、これから連中にも実力とやらを
見せてもらわないのなw >>328
2行で核心を付いたこと言えてるのに
元記事は同じことを延々と長文
糞記事なのは変わんねえね >>457
三成の性格が垣間見えるような書状が去年見つかってるな
細川忠興が自ら記した書物の裏紙に石田三成の書状が使われてた
所謂「紙背文書」ってもので、当時は紙が貴重品だったから再利用されたんだな
それによると三成は、秀吉から受け取った金の使いみちについて忠興に
「自分たちは恵まれているんだから、金を貯め込むのではなく周りに配るように」
と言っているの見ると正論吐いて嫌われるタイプって感じがする
忠興も内心舌打ちしてたんじゃないかな 家康はその相続問題の介入を見て、
皆が納得できる様なルールで運用したのが支持された。
たとえ御家断絶になってもな。 >>465
そういう部下や庶民の人気取りが目的の
幼稚な口だけの綺麗事しか言わない
カルト教祖みたいな男で
実務を考えない、実力ある質実剛健な人物を
敬わない浅はかな男だから嫌われたんですよ。
ムーン安倍そっくりって言ったでしょう?
ムーン安倍も集まってくるのは
金目当てのチンピラばかり、
現代の左翼思想家とも似てるね。 延々といじれるおもちゃがあって良かったな
海外受けする忍者もいるし 三成は裏の顔は
他家の家督相続に介入し、
分裂や乗っ取りを謀る謀略家という事だろう。 >>462
名の三という数字が示す通り
イルミナティの隠れキリシタンですな! もし仮に秀吉が豊臣政権を
存続させる事が出来るとすれば、
ソレは淀を斬り捨てて、
秀頼を高台院の養子にして育てることだろうな。
そして他家の相続に関しては、
謀略を画策しない様にすることだ。
そういう正論をアドバイス出来る存在が、
秀長であり利休だっただろうが、
淀との政争に敗れた。 *毛利様にはなにゆえお動きになりませぬ?いくさは始まっておりまするぞ!
ーーこれは迂闊であった…。じゃが今、兵に弁当を与えておる最中なれば…
*弁当?? ところでおまいら
漫画センゴクの作者が、関ヶ原の戦い書き始めたので読んでやれよ
俺は単行本出るまで待つけど 毛利にも家督相続と領土問題に介入したために、
吉川小早川の離反を招いた。 鳥居元忠とともに散った松平近正と松平家忠もなかなか面白い存在なんだよな
近正は火車を斬ったという逸話があり
家忠は筆まめで釣りやら土木作業の仕事を記録してる 豊臣恩顧の大名全員徳川の東軍
で、徳川政権になると全員難癖つけられクビになるwww >>334
世帯って事は、拡大家族が多いかどうかでも大きく差が出るから、
個人の年収とは違うので、
検討されるなら、錯誤にお気をつけてw]。。)ノシ
>>244
田舎の良さも都会の良さもきちんと残してるから、凄いよね。
普通は荒れちゃうんだけど、きちんと手入れされてる。
あれは「みんないい人じゃないと無理」
と言い切って良いくらいの、難しい事。
(※「共有地が荒れてない」ってのはどういう事なのか、
なるだけ深く洞察を切り込ませてみると良い。
面白い発見をしてくれる事を祈ろうかw) 大垣城籠城、杭瀬川の小競り合いからの出合い頭しかない。島津なんて大坂〜伏見の巻き添いで帰りたい薩摩の逆方向へ転戦されてるんだもん。五奉行vs家康の私闘、この私闘に大儀を見出せない毛利と宇喜多、上杉は三成、益田に騙された。 建前は源氏なんだろ?
なのに江戸に八幡宮を作らなかったんだよな >>398
秀吉は実力主義だから官位とかあんまり興味なかった感じだな
まぁ家康が秀吉の官位が低いから従わないみたいなダダこねたような
感じもあるけど >>472
こんなん明らかに見え見えの嘘やん
三成もそのまま毛利軍潰しちまえばよかったのにな >>477
細かい事言うなよ
それを考慮しても、結果は変わらない
【リーマンショック後の総所得ランキング】
・課税所得額ならびに総所得額の推計を実施。本文中の数字は全て総所得額ベース。
総所得ランキングトップは江ノ電沿線、金融資産トップは京王井の頭線沿線。
リーマンショックで打撃を受けたのは近鉄長野線沿線――。
総所得ランキング
01位 江ノ島電鉄線(神奈川県藤沢市~鎌倉市)
02位 阪急甲陽線(兵庫県西宮市)
03位 京王井の頭線(東京都渋谷区~武蔵野市)
04位 東急東横線(東京都渋谷区~神奈川県横浜市)
05位 東急こどもの国線(神奈川県横浜市)
06位 東急田園都市線(東京都渋谷区~神奈川県大和市)
07位 相鉄いずみ野線(神奈川県横浜市~神奈川県藤沢市)
08位 東急目黒線(東京都品川区~神奈川県横浜市)
09位 名鉄西尾線(三河県安城市~西尾市)
10位 名鉄豊田線(三河県みよし市~豊田市)
11位 東急大井町線(東京都品川区~神奈川県川崎市)
12位 東急世田谷線(東京都世田谷区)
13位 小田急小田原線(東京都新宿区~神奈川県小田原市)
14位 名鉄三河線(三河県豊田市~碧南市)
15位 東急池上線(東京都品川区~大田区)
ソース:東洋経済オンライン
http://www.toyokeizai.net/life/living/detail/AC/a9f0b48216dc7b01346aec09db603d62/
ソースのソース:株式会社野村総合研究所 第2回全国のエリア別所得・金融資産を推計
http://www.nri.co.jp/news/2010/100330.html >>480
日光に何か作れば、そんなもん要らんけど
三河の源頼朝(征夷大将軍)=三河の徳川家康(征夷大将軍)
寛伝(三河の藤姓熱田大宮司家)=明智光秀(進士氏(三河の藤姓熱田大宮司家))
三河の源頼朝は、三河にあった自身の母方の菩提寺の僧を日光に送り込んだ
■日光山
源頼朝が三河の母方従兄弟を別当に据えて以来、鎌倉幕府、関東公方、後北条氏の歴代を通じて東国の宗教的権威の一中心であり続けた
源頼朝
・藤原実範(三河守)→藤原季兼(三河四郎大夫)→藤原季範(額田冠者(三河国額田郡)、初代藤姓熱田大宮司)→女(由良御前)→源頼朝
寛伝(母方従兄弟、三河国滝山寺僧)
・藤原実範(三河守)→藤原季兼(三河四郎大夫)→藤原季範(額田冠者(三河国額田郡)、初代藤姓熱田大宮司)→藤原範忠→寛伝 >>478
日本中で殺し合いやってる時に
裁判やって解決してたんだぞw >>480
家康も得体のしれないスケベ坊主芸人の子孫って
いう説もあるみたいだからな >>484
何故か中国の文献で三河だけ別の国として
記錄してるんだよな 1人の大名に単独で10万人以上もの動員兵力を与えてしまった時点で、
自分の死後に天下の動静がどうなるか位、先読み出来ない秀吉でもあるまいに
それこそ未練がましい無意味な遺言状なんぞ祐筆に何百枚書かせた所で、家康は眉1つ動かさなかっただろうな
関ヶ原にしても単純計算で家康の旗本直属本隊軍が3万人
中山道の秀忠軍が3万か4万
常陸と会津と奥州への抑えで江戸の留守居部隊の秀康軍が3万
徳川単独でもこれだけの動員だからな
石田が自身単独で3万位の直属軍でも持って来れる身代でもないと勝負にすらならないわ >>488
黒田長政が相手は大軍に見えるけどほとんどやる気ないって
家康に報告して安心させてたみたいだな >>7
なぜ出来るビジネスパーソンこそPRESIDENTも日経新聞を読まないのか? >>489
毛利本隊が大坂城から動かない、という確実情報を仕入れた時点で家康は勝ちを確信しただろう
吉川経家の内応も実際に毛利輝元が秀頼を戴いて出馬して来たら反古になってただろうし、
それどころか福島正則辺りは西軍に寝返っただろうし
毛利本隊が来ない時点で石田の采配の下で闘うのは宇喜多軍と大谷軍しか居ないから、これはよほどの馬鹿しか負け様がないわ >>1
圧勝か?
治部少輔が嫌われてただけな気がするが。
豊臣恩顧の加藤清正とか、毛利動かずとか、
島津の退き口とか、
ぜーんぶやる気ないからに思える 岸田も少しは家康の用意周到さを見習うべきだな
>>488
家康が異常に長生きだったこと
自分が後継者を残せなかったこと
秀吉は天下を取ったところで天運が尽きた >>488
主家の織田家の盟友であり、金ヶ崎でともにしんがりまかせられてる友人だから、
世良田氏の故地である関東を与えるのは当たり前
しかも新田足利と鎌倉を要するから幕府を立てることもできた位置に置いた
かなりの厚遇
関ヶ原は石田三成の反乱だけど、
大阪夏の陣と冬の陣は淀君が家康にマウントかけたのが原因 >>274
秀吉が家康を朝鮮と戦う駒と見ていたなら、
朝鮮から遠い関東に領地替えさせる意味がないかなー
東北の抑え説の方が妥当ではないか 徳川と島津はアンチ豊臣で大の仲良し。
幕末の将軍の正室は島津家出身だらけ。
坊津での南蛮貿易の密貿易発覚でお取り潰しにするところを
宝暦治水という無理強いパワハラお手伝い普請(公共事業)で
勘弁してやるほど島津の財力は魅力的だったのよ。
なんせ錦江湾から大坂湾まで太平洋を軍艦侍らせて、
大坂から京に上ってから東海道を参勤交代できたからね。
勿論 島津家の財力を削ぐためやけどw 秀吉の九州平定 島津征伐後に島津家の財政立て直しや秀吉に差し出していた島津家の人質返還等、
島津家の為に色々と骨を折っていたのは奉行の石田三成なんだけどな
この石田御仁、人の好き嫌いが激しい上にそれを表立てて態度に出すけど、
自分が好意を持った相手にはとことん尽力したそうな
でもやっぱり、敵も多かったんだろうな >>441
「豊臣恩顧」に囚われすぎでは?
秀吉こそ織田恩顧だったのに
あっさり裏切った男ではないか
そして諸大名も織田から秀吉に乗り換えたではないか
東軍大名も同様に豊臣から徳川に乗り換えようとして東軍についたんでしょ
そうでなければ豊臣の領地を減らす戦後処理に反対しなかったことの説明がつかない
織田家を裏切った秀吉が「恩知らず」にならず
豊臣家を裏切った東軍が「恩知らず」になるのは
ただの豊臣びいきの司馬遼太郎史観に過ぎないよ >>496
島津は琉球経由で貿易できてたからね
アンチ豊臣でもねえんだけどな
> 慶長5年(1600年)、徳川家康が上杉景勝を討つために軍を起こすと(会津征伐)、
義弘は家康から援軍要請を受けて1,000の軍勢を率い、
家康の家臣である鳥居元忠が籠城する伏見城の援軍に馳せ参じた。
しかし元忠が家康から義弘に援軍要請したことを聞いていないとして入城を拒否したため、
西軍総勢4万人の中で孤立した義弘は当初の意志を翻して西軍への参戦を決意した(『島津家代々軍記』)。
しかしながら、これは幕藩体制後の記録であり、実際は家康が上杉征伐のために出陣し、
上杉征伐を行おうとしていた慶長5年(1600年)の7月15日に、
義弘は上杉景勝に対して「毛利輝元・宇喜多秀家・前田玄以・増田長盛・長束正家・小西行長・大谷吉継・石田三成らが『秀頼様御為』であるので上杉景勝に味方する。
そして、それに私も加わる。仔細は石田三成より連絡があると存します」という書状を送っており、
この頃には、すでに西軍の首謀者の一人として、毛利・石田らと共に、反家康の動きに参加していた[8][9]。
あと家康は島津討伐軍組織してるよ >>498
清洲会議は裏切りと言えるかどうかわからんぞ
こうだけど。
> こうした通説に対して柴裕之は、
そもそも信長の後継者である信忠に何かあれば、
その嫡男である三法師が家督を継承することは信長存命中からの方針[注釈 1]で家中に異論がなく
(勝家が信孝を推したとするのは『川角太閤記』の創作とする)、
清洲城で会議が開かれたのも三法師が滞在している城だからであり、
会議で問題になったのは三法師が成人するまで「名代」を設置するか否かで、
信雄と信孝の対立の焦点もそこにあったとしている。
信忠の同母弟であるが光秀討伐の功績のない信雄と、
光秀討伐の功績はあるが三法師との血縁が薄く、
三法師の後継者としての貴種性を揺るがしかねない信孝とでは、
いずれも家中の納得を得られないため単独の名代の設置は回避された、と柴は説いている。
つまり柴の指摘に従えば、清洲会議は「信長の後継者を決める」会議ではなく、
信長の後継者である三法師がいる清洲城に集まって「三法師を支える体制を決める」会議であったということになる[9]。 ずっと大大名の家康より戦歴の無い奉行の三成を評価したいわ
陣立て見てメッケルは西軍の勝ちと言ったんだろ
小早川の裏切りも微妙だったし、毛利だってどう転ぶか分からん
それこそ島津が働いてたらどうなったか なんでこんなスレがって思ってたんだが
岐阜県のニュースでわかった
旧暦の今日、関ヶ原の合戦があったのか
って、今の暦だといつ?w >>495
それだと時系列がおかしくなるでしょ
島津征伐が終了した時点では当然まだ北条が関東にいる
この時点では北条の反応がまだ分からないのに秀吉が家康を関東に移して東北の抑えになんて考えるわけがない
島津征伐直後のタイミングで秀吉が朝鮮出兵を言い出したから家康も唐入りに使える
と判断したと言ったが、史料的な裏付けはないし私の個人的な推測に過ぎないし正直あまり自信も無いな
それか特別な理由はなくて家康が臣従を決め和睦した時点で秀吉は家康を完全に許したということでしょ 秀吉直系の後継ぎが秀頼のみ
秀長の早逝
豊臣方(石田)の自滅待ちの要素が大きいような まさか家康も幕府が
敗軍側の毛利と島津にに滅ぼされるとは思わなかっただろうな
分かってれば無理してでも潰しただろうにな 関ヶ原終了の時点ではまだ分からんからな
利家は死んだがまだ清正が残ってる
大阪城もそのまま残ってる
大阪夏の陣もまた寝技だしな 眠り猫と三猿の徳川か
猫は根子か
猿サルは葦原、天地開闢で最初に生まれた葦の芽か >>507
かたじけない
そういえば柿食う話があったっけ 幕末の鳥羽伏見の戦い
幕府軍の藤堂砲台、1夜での薩長軍への寝返りで味方の筈の幕府軍の頭上に砲弾の雨あられ
有事の際の幕府軍の先鋒は彦根の井伊と伊勢の藤堂、と制定されていたのに土壇場での裏切り
早期に豊臣を見限って家康に急接近した藩祖高虎の人柄・遣り口が藩風に染み込んでいるのだろう、と散々な悪評 >>500
秀吉の書状(天正10年10月18日付)で
・信雄・信孝様の間で三法師様の名代争いになった
・4人の織田の宿老で今後三法師様を盛り立てていくことが全員一致で決まった
と秀吉自身が述べており、後継者については太閤記などにあるような揉めたなんて様子も見受けられないしな >>479
毛利はさんざん四国攻め取っただろw
むしろ最初は積極的に動いた >>504
そもそも上記のように島津を倒した直後=北条が健在な内は
北条、徳川、織田の三者同盟を秀吉が恐れていたので
徳川が潰される心配はないだろう
秀吉が徳川を朝鮮への駒として見ていようといまいと関係ない
北条が打倒された後に徳川が潰されなかった理由を議論してるのに
なんで島津を倒した直後を議論する必要があるのか分からん?
北条と敵対することが確定してなくても
戦う可能性がある内は、秀吉的には三者同盟は警戒しなきゃいかんやろ >>500
だったら三法師に全権移譲するようにするべきやろ
なんで秀吉が自由にできてるのか?
やっぱり乗っ取り以外の何者でもない
おそらく「自分の死後は秀頼も同様になる」と秀吉は見ていたんだろう >>514
>>149
>でもそれだと島津を倒した後、なんで家康を潰さなかったのか?
いやいや、あなたが島津征伐後になんで家康潰さなかったのかとレスしてきたやん
北条征伐後の話なら>>274でも言った通り自分も東北の抑えにするためだと思ってるよ >>511
井伊家は小田原征伐後から幕末まで、徳川譜代トップの石高だった
大老は合計10人ほどの人が就任してるが、その半分が直弼ら井伊家の人ら
老中には1人も就任してない、理由は井伊家の当主になったら老中と同じ立場になるから
井伊家は途中入社にも関わらず、譜代筆頭と言われるぐらい特別扱いであった
桜田門外後、直弼と対立した松平春嶽や慶喜が実権握り、報復として井伊家は35万石から10万石削られる
反直弼だった岡本半介が実権握り、直弼の寵臣長野主膳を粛清
岡本は慶喜の犬となり、彦根藩は禁門や長州征伐に駆り出される
鳥羽伏見では岡本は大阪城にいたみたいだが、彦根藩勤王下級武士がクーデーターし朝廷側に
彦根藩は徳川軍と直接の戦闘には参加しなかったが、早い段階で大津を守るなど積極的な態度を示し
東北戊辰戦争では近藤勇を捕縛するなどし活躍した
戊辰戦争の恩賞・賞典禄では彦根藩藩主は2万石、これは佐賀藩と同じ
薩長、土佐、大村藩大垣藩鳥取藩真田、藤堂に次いでの高さ
鳥羽伏見の戦い3日目、勝敗の決め手となった淀藩の裏切り
伏見と鳥羽方面で負け続けた徳川軍が、淀城で籠城しようとしたが拒絶された
この時藩主は老中だったので、江戸在住であったが家来が勝手に裏切った
淀藩藩主稲葉氏の祖先は、関ケ原で小早川秀秋の家老稲葉正成
この人が積極的に裏切りよう秀秋を説得した人物
後に秀秋と対立し浪人、しかし嫁が春日局であったので徳川譜代大名に出世した >>514
すまん安価ミスってたわ
あなたの>>178の書き込みね
>でもそれだと島津を倒した後、なんで家康を潰さなかったのか? 誰が見ても豊臣VS徳川の争いの関ケ原の戦いを
「豊臣家臣の内紛」にした家康の力量の勝ち
秀頼大事で動いた淀君の力量ではとてもとても
豊臣VS徳川なら戦局も違ってた可能性も >>516
>178に書いた通り、島津を倒した直後に徳川が潰されなかったのは
徳川、織田、北条の三者同盟のおかげでいいでしょ
秀吉が織田を潰すのが北条を倒した後だったり、
対北条戦の先鋒を徳川にやらして、徳川の裏切りを
警戒していたのも、それを裏付けている 戦果が芳しくないプーチンはロシア文学よりも徳川家康の伝記を読んだ方がいいんじゃないか >>515
晩年の秀吉はかなりボケてたからな
秀頼が立派な天下人になるよう、大名らに必死に誓紙を書かせ
秀吉後の法律となるはずの遺言も含め、色々終活したが
この時代は法治国家ではなく、ほとんど反故されてしまった
こんな事するより秀頼を関白にしてしまうとか、強力な秀頼護衛軍団をつくるとか 北政所が徳川側についた これが大きいと思う
これで恩顧の武将達も憚ることなく裏切ることが出来た
(北政所に実子のように育てられた連中は特に 清正とか金吾とか) >>523
「北政所=徳川側」これ最近否定されつつあるのよね
当時は石田や大谷ら西軍関係者との関わりが深かったり、西軍側としての行動があったり
その代わり西軍側と言われてた淀殿が、無関心な態度だった説が浮上してる
徳川側からしたら秀吉の嫁の委任によって、次の天下は家康だ!で都合が良い >>522
自分の見解では秀吉はかなり理性的に終活していたと思うな
秀吉晩年の動きは以下のように秀頼を生存率を高める努力だった
・秀頼と千姫の結婚。最も脅威の徳川と親戚になれば生存率が高まる
・秀頼に「家康を父と思うよう」と指示。おそらく自分と三法師の関係になることを期待
・大阪城を増築。大阪城まで攻め込まれるのを想定
・朝鮮攻めは続行。秀頼の脅威の大名の弱体化を狙う
問題は「一個人のために国家を犠牲にしてもいい」という利己的な考えの方だと思うね >>3
せやな、根回し(権力)とかお願い(恫喝)が何よりも重要だわ
いやマジで 小早川秀秋を調略した、というのはわかる
しかし、奥平貞治が徳川方のお目付け役として
小早川秀秋陣営にいた、というのが信じられない
おぬし何者じゃ、という側近が
小早川方にまったくいなかったんだろうか
後世の創作なのか、どうか
お前らの意見を伺いたい >>520
フロイス日本史のソースだよね
うーんちょっと引っかかるけどまあ秀吉が三者を恐れてたってことについては
宣教師特有の宗教絡みの偏見もなさそうだしある程度信頼できる記事と見ていいんじゃないかね
信雄に関しては秀吉が潰したというよりは国替拒否ったせいだし完全に自業自得だけどな 実際は関ケ原ではなく「山中」が合戦場であった
というのは納得がいく 千利休とか切腹してないよね
切腹した、とされる後に、千利休に秀吉がいろいろと命じる書状も見つかってるし
しかし、戦国時代は
今と違って、潔さがあったよ
反日と言いながら韓国カルトと仲良しこよしの
アホな政党を愛国とか保守とか
マジで片腹痛い 小早川に便乗して寝返った
小川、朽木、赤座は改易されたな。
脇坂は所領を安堵されたけど。 いずれにしても切支丹は日本には合わない
いわんや壺カルトをや 自称愛国者ほど自民大好きでありながら
壺カルトを許容する風土
これはいかんよね
アホウヨはデブでハゲが多い
みっともねぇって
ルイスフロイスは日本人について
「肉も食わずによく働く」と記している
これがなにを意味するか、これは本当に深いと思う
明治書記に明治天皇が肉を食らうのを見て暴動が起きた、とか
知らんはアホは、むしゃくしゃ肉を食う
そしてハゲになり、デブになり
壺カルトを許容する
何が問題〜?とか
すっとぼけてな
やおよろずの神々は今の日本に愛想を尽かし
荒ぶる神の本領発揮はまじかであろう
covid19なんぞ前座にすぎぬ 明治書記は明治初期の誤字くらい
貴様らなら理解できんだろ
心得よ 裏切りの末路
小早川秀秋 狂い死 お家改易
加藤清正 お家取り潰し
福島正則 お家取り潰し >>527
小早川秀秋の軍目付云々は『関原軍記大成』(1690年成立)に出てくる話だね
生駒利豊書状では奥平貞治は尾張衆の一人として参戦して鑓で突かれて戦死したと書かれてる
なので小早川秀秋の軍目付は後世の創作になる >>535
裏切り自体は謗るべからず
只今の日の本において尊重されるべきは、ご謀反であろう
主君気狂いなれば、家臣一同、主君押し込みさえ厭わず
これよくよく吟味いたすべし
光秀なる者、なにゆえご謀反なされるや
吟味尽くせども、時のへだてはこれを難儀にせしめたり
なにを必要となすべきや >>531
朽木は残ったけどね
足利将軍が京の政争で負け、逃げた場所が朽木谷だった事が何度もあった
浅井長政の裏切りで、逃げた信長が朽木と出会い助けられたり
毎回脇役だけど、歴史にちょっと出てくる朽木
朽木氏は福知山藩となり、鳥羽伏見では当初徳川側に付く予定だったが
先祖伝来の変わり身の早さで朝廷側に >>528
丹羽長重のことを知らないのかな?
秀吉は潰したい相手に難癖をつけて潰すものやろ
信雄が飲めない条件(父祖の地からの追放)を
北条を倒した後で言い出すのは難癖だろうし、
それ以前にはできなかったんだろう 結局、秀吉が織田家にしたことである
「幼君から権力を簒奪」「本拠地から追放」は
全部、家康が豊臣家にしたことなんだよな
これで秀吉が無罪で、家康が有罪のように扱うのは
ただの司馬遼太郎史観に過ぎない >>535
秀吉自身が主君・織田家を裏切ったあげくに滅亡したのはなんなのか?
秀吉も「裏切り者の末路」に加えるべき
戦国時代は裏切りは常識だし、当時的には特に非難されていない
現代的価値観で評価するなら、秀吉も裏切り者にしないといけない
秀吉を裏切るのは重罪で
秀吉の裏切りを無罪にするのは
ただの秀吉びいきの関西人・司馬遼太郎史観にすぎない 徳川政権初期は関東地方は
旧武田・北条・今川の家臣の代官が統治してる所が多かったが
江戸時代中に徐々に徳川譜代家臣の代官に置き換えられている
結局、福島・加藤に限らず
「付き合いの浅いやつらは信用できない」ってことだ >>539
潰すものやろって言われてもね
丹羽がそうだったからといってそれがそっくりそのまま信雄に当てはまるとは限らんけどね
丹羽長重の場合は越前・加賀の召し上げの理由が二次史料の丹羽家譜とかにしかなくいまいち判然としない
それで秀吉の言い掛かりによるものだって説が通説になってるし、実際研究者も概ね通説を支持してる
一方信雄の場合は一次史料で国替を拒否したことによる改易であることが確認できるし丹羽とは違うよ 狸とか揶揄されるけど、三英傑の中だと好きかな。一番常識人だから、仕えるなら彼だなw
江戸に左遷されても腐らず地道に開発し、災いを福と成す所とか良いね
ヤツがいなけりゃ首都東京はないんだし、日本史上の功績も大きい >>305
いや馬謖と姜維を足して3で割ったみたいな人物 >>544
150万石→250万石だから まあ左遷ではなかろう >>544
左遷と考える事が、物を知らない田舎猿
当時、関東の序列は鎌倉公方、武蔵吉良氏、一色氏の順だ
三河の植民地に転封になった話
世田谷城&
世田谷城は、吉良氏によって築かれた平山城。世田谷に本拠を置いた奥州吉良氏が代々居を構えた。
歴史・沿革
貞治5年(1366年)、吉良治家が世田谷郷を与えられる。
応永年間(1394年-1426年)頃、居館として整備されたと考えられている。
吉良成高の頃、城郭として修築されたものと考えられている。
天正18年(1590年)、吉良氏朝の代に小田原の役により豊臣氏勢に接収されたが、同戦役後廃止された。江戸城改修に石材を利用したという。
また、太田道灌が文明12年(1480)に山内上杉氏の家臣高瀬民部少輔に提出した書状「太田道灌状」によれば、道灌は成高を「吉良殿様」と敬称をもって呼び、
「吉良殿様は江戸城に御籠城になって、御命令になっていたので、城下の軍勢はそれに従って数ケ度合戦を致して遂に勝利を得た」と武将成高への感謝を記しています。
鎌倉鶴岡八幡宮の供僧だった相承院の快元の記録した「快元僧都記」によれば、快元は吉良頼康を「吉良殿様」「蒔田御所」と敬称を使用、北条氏綱に対しては「氏綱」と呼び捨てにしています。
>吉良殿様
>御籠城
>御命令
力抜けよw 何で平安期まで遡って考える事が出来ないのかな
センゴク(笑)は
三河マンセーの関東統治など楽勝だ
有史以来、武蔵国にあった御所号は全3ヶ所
■平安時代
・吉見御所(埼玉県吉見町)
源範頼(三河守)の息子、源範円(正法寺(三河国宝飯郡、三河県豊川市)僧侶)が移り住む
範円の息子(為頼)から吉見氏と名乗る
現在も、吉見姓は三河県蒲郡市(源範頼の本拠)が日本一多い
■室町時代
・世田谷御所(東京都世田谷区)
長瀬四郎(三河国碧海郡長瀬、三河県岡崎市)を祖する奥州吉良氏、三河国生まれ吉良治家(初代奥州管領、吉良貞家の息)が移り住む
■戦国時代
・蒔田御所(横浜市南区)
長瀬四郎(三河国碧海郡長瀬、三河県岡崎市)を祖とする奥州吉良氏、吉良頼康が移り住む
家康入城前の江戸城主は富永直勝
三河国設楽郡富永保を本貫とする三河富永氏
家紋は木瓜に足利二つ引両(太平記、多々良浜の戦いの功労により、家紋に足利二つ引両を与えられる)
先祖は源頼義の家来、源義家の郎党No.2 三河伴氏の伴助兼 小早川が裏切ったからだろ、要は裏工作がうまくいっただけ >>543
フロイス「日本史」を読んでいないのかな?
「日本史」では上記の三者同盟を切り崩す計略として
北条打倒後に領地替えを秀吉が言い出したように書いてあるぞ
完訳フロイス日本史5(2000),44p
ここにおいて彼はかねがね腹蔵していた計画の実行にただちに着手した。
それは(徳川)家康に対して、彼が都の近くに当初所有していた五つの隣国を
手放すように命じたことであり、それに代わって関白は家康に別の同数の国、
ならびに北条殿から獲得した諸国の幾つかを与えることにした…
おそらく家康は関白に城を明け渡し、北条殿を屈服させるで援助を買って出た
己れの無知と愚かさを思い知らされたであろうが、
彼はこの苦衷をひとり己が胸中に秘めていた。
その後、関白は信長の息子御本所(信雄)に対しても、国替えをして
他の二ヵ国を与えたいと伝えた。 >>535
徳川政権初期は関東地方は
旧武田・北条・今川の家臣の代官が統治してる所が多かったが
江戸時代中に徐々に徳川譜代家臣の代官に置き換えられている
結局、福島・加藤に限らず
「付き合いの浅いやつらは信用できない」ってことだ 秀吉って信雄、家康に限らず
毛利、上杉、島津にも「都から遠ざけつつ本拠地から追放する国替え」を
やった、やろうとした
長重、信雄に限らず、秀次にも「難癖で処罰」をした
結局、秀吉が脅威と見なし、可能なら難癖で潰すんだよ
秀吉から脅威と見なされても潰されなかった
徳川、毛利、伊達あたりは結局潰すのが
難しいと判断されたんだろう フロイス日本史では以下のように
信雄の改易が当時的に異例であったように書いてある
>543が主張するような「当然」であるようには書かれていない
「この出来事は日本中に言いようもない恐怖と驚愕を与えた。
信雄は日本におけるもっとも強大で高貴な武将の一人であったにもかかわらず、
関白はただ一人、小者と称せられている若者しか仕えることを許さぬことにしたので、
万人に驚愕の念を生ぜしめずにはおかなかった」 >>1
結局は利と義の戦いだった
人間はやはり義より利を考える生き物だから
徳川方に風が吹いたのも仕方がない事
あと徳川に風を吹かせた人間の中に高台院(おね)が居たのが最大の勝因 でもフロイス日本史の
「秀吉は家康を都から遠ざけるのを望んだ」というのは興味深い
秀吉は室町幕府のように京都周辺の安全のみに関心を持ち
統一政権を維持する気はなかったみたいだ >>556
尾張の田舎者らしく、頭が悪いな
室町幕府が長き渡り続いたには訳がある
足利将軍家は、洛中を本拠地と見せかけて、実は東西の要たる三河を本拠地にし続けた
遠ざけさえすれば、安泰と考えた馬鹿
室町幕府 三河国の日本支配構造
【奉公衆】
・奉公衆は、室町幕府に整備された幕府官職の1つ
・将軍直属の軍事力で、5ヶ番に編成された事から番衆、番方などと呼ばれた
・奉公衆の人数は全国合計250~300人
・三河国の奉公衆は全国で最大人数、又三河国出身の奉公衆も最大人数
・5番衆の番頭
一番番頭 細川氏、二番番頭 桃井氏、三番番頭 上野氏、四番番頭 石垣氏(畠山氏)、五番番頭 大館氏
三河国の奉公衆一覧(全52家)
【藤姓熱田大宮司一族】
千秋、萩、星野、二階堂、毛利(大江氏流)
【足利一族】
荒川(戸賀崎流)、一色、伊奈、上野、吉良、天竺(細川氏流)、仁木、細川、三淵(細川氏流)、和田
【足利被官】
饗庭、朝倉、飯尾、岩堀、大草、高、久下、小嶋、中条、二宮、彦部
【三河源氏】
足助、水野
【三河伴氏】
設楽、黒瀬、富永
【美濃源氏】
土岐、長山(土岐氏流)
【桓武平氏】
伊勢、神谷、山下
【その他】
宇津野、大内、借宿、河内、小林、疋田、桜井、進土、杉山、堤、長、西部、本郷、丸山、三浦、大和 江戸幕府も、三河を取り返したあとは、再び三河を本当の本拠地に据えて、長く続いただろ
室町幕府も江戸幕府も同じだ
日本の全てを決めてきた田舎者憧れ山手線内、江戸城中の人
■関が原の戦い以後に生まれた三河譜代藩主の老中
【三河県幸田町】三河深溝藩
・板倉重矩(1665年 - 1668年、1670年 - 1673年)
【三河県田原市】三河田原藩
・戸田忠昌(1681年 - 1699年)
【三河県豊橋市・豊川市】三河吉田藩
・小笠原長重(1697年 - 1705年、1709年 - 1710年)
・久世重之(1713年 - 1720年)
・松平信祝(1730年 - 1744年)
・松平信明(1788年 - 1803年、1806年 - 1817年)
・松平信順(1837年)
【三河県岡崎市】岡崎藩
・水野忠之(1717年 - 1730年)
・松平康福(1762年 - 1788年)
・本多忠民(1860年 - 1862年、1864年 - 1865年)
【三河県刈谷市】三河刈谷藩
・本多忠良(1734年 - 1746年)
【三河県碧南市】三河大浜藩
・水野忠友(1781年 - 1788年、1796年 - 1802年)
【三河県西尾市・豊田市】三河西尾藩
・松平乗完(1789年 - 1793年)
・松平乗寛(1822年 - 1839年)
・松平乗全(1845年 - 1855年、1858年 - 1860年) >>555
織田家を裏切り、徳川をだまして得た天下や
秀頼のためだけに日本人、朝鮮人、中国人を苦しめる天下に
どこに義があるのか?
しかも「秀吉が遺言で家康・利家には大きな権限を与えて毛利に与えてない」
「家康・利家は朝鮮に出兵してないのに毛利は秀吉が死ぬまで朝鮮で戦う」
「秀吉晩年の大阪城増築が西側に集中してる」を考えると
毛利が五大老で最も秀吉に警戒されている
西軍が勝った所で毛利幕府ができるだけだろう
利対利の戦いだよ https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%87%E7%A6%84%E3%83%BB%E6%85%B6%E9%95%B7%E3%81%AE%E5%BD%B9
>日本国内では「徳川家康が再出兵を計画し、対立している諸大名たちを朝鮮に送り込もうとしている」という不穏な噂が流れていた
この噂も興味深い
当時から「秀吉は対立してる大名を朝鮮に送り込んだ」と理解されていたから
この噂が説得力があったのだろう キリシタン大名は関ヶ原でも忠誠を尽くし、キリシタンを弾圧した豊臣家のためにもちゃんと働いたのに、
むしろ仏門系の方がガンガン裏切って主家を滅ぼす原因になってる。 >>561
朝鮮出兵はむしろ秀吉子飼いの連中真っ先に送ったし
一番の脅威の家康は温存されたまま そういう事かー、
モンゴル帝国軍に拉致された美人は
🇬🇧イギリスへ連れ去られた?! 混血でブサイクには
ならないでしょ?
長い年月拉致されたから極端にブサイクになった。 石田三成が早まった挙兵をしてしまった
直江兼続の策により白川口へ誘い込まれた徳川軍は
あそこで壊滅的な被害を被りほうほうの体で撤退したはずだからな
その報を受けてから挙兵→東西から挟撃で家康が三条河原に首を晒されてた >>561
ソースが看羊録かよw
看羊録の内容はかなり適当だから注意が必要 >>284
以外と広島出身の流刑官僚中心やろ。虫の子孫は幕末に藩主からも追い出された。 従五位下治部少補に過ぎない石田三成が、
従二位内大臣の徳川家康に敵う訳がない
お飾り大勝に据えられた毛利でも中納言
どっちに付く?と言われれば、徳川内府に付くのが自然 >>90
そうはいうが、100年の乱世をおさめて権力を得た秀吉でも死ねばすぐに大乱の時代だからね
民主主義やりますとかそんな実験出来るわけないでしょ こんなもん読んで自己顕示欲のバイブルにしようとしてんのかよ?
世の末だなw 歴史物を娯楽にするのは全然構わないと思うけど
娯楽にするために作られた創作物を
事実と勘違いして人生訓語っちゃったりするのは
さすがにやってはいけないことだと思う
〇〇に学べ!というようなものは歴史考証をしっかりすべき
小山評定があったかどうかも定まってないけど
少なくともその内容は一切伝わっていなくて
今伝えられてるようなオハナシは完全な後世の創作物
それを元に自己啓発って、日本人そんなアホになってるの?と思う >>2
このしかみ像のエピソードって昭和に入ってから作られたデタラメもいいところの話なんだってな
肖像も別に家康を描いたものでもないらしいし >>487
家康の家は三河の豪族松平の傍系で本家が伊勢宗瑞に滅ぼされて三河のまとめ役になった 島津と毛利が言うこと聞かなかったと言うか
九州出身のおっさんと夜勤いっしょになったけど
昼間寝ないで家族と遊びに行ったり
夜遅くまで遊んで昼勤やって
まあ眠いやら疲れるだろうけど
人をあてにしまくるんだよ
休憩時間も毎日のように構内から出て買い物とか行って
段取りしないんだよ
最初は代わりに段取りとかしてたけど
こっちの仕事に支障出始めたからやらなかったら
切れまくってた あいつ手伝わねえって
薩摩はやととか言われてたけど只のキチガイだったわ >>575
別に事実じゃなければ人生訓にしてはいけない、なんてことはないだろう
ことわざや昔話なんてのは多分に創作が含まれてるの知らないのか? >>563
文禄の役の一番隊は小西、大村、有馬などキリシタン大名が主力でしょ
キリシタン弾圧をする秀吉にとっては信用できないやつらではないか
小田原攻めの家康みたいに「信用のできないやつを先鋒にする」ではないか
秀吉子飼いって当時は小物しかない
加藤清正(肥後北半国19万5,000石)や
福島正則(尾張清洲24万石)とかのことかな?
以下のように秀吉は反抗しても大丈夫な小物しか用いなかったという
フロイス日本史
>(秀吉は)微禄の小者を召し抱え、己れに抵抗する憂いのない者だけを、
>強力で富裕な実力者として抜擢した
子飼い大名がどれも小者の大名しかいないことをおかしいと思わないのか?
子飼い大名とされている大名たちも秀吉に信用されていない
秀吉の遺言状にも子飼い大名達に後事を託すような話はほとんどない
「豊臣恩顧」と同じく史実から乖離してるのが「秀吉子飼い」の概念だよ
秀吉の人を見る目は確かで後に東軍入りする
不忠者である加藤・福島を朝鮮送りにしたのだ >>575
宗教や哲学、主義なんて完全な観念論だから事実をモチーフにしてるだけマシだと思うけどな
医学だって千年以上瀉血してるんだしもっと出処不明なモノを拠りどころにしてる人も多い 鶴翼の陣も羽が抜けてたら負けるわな
帝国陸軍に招待され関ヶ原の分析を依頼されたドイツ帝国陸軍将校も呆れてたわ >>582訂正
×後に東軍入りする
○後に徳川方につく 福島は藤氏を称していたからな
その藤氏は三河の藤姓熱田大宮司家の星野氏
頼朝の叔父さんの家系で、福島も隠れ三河なんだわな
源頼朝と三河の藤姓熱田大宮司家
・藤原実範(三河守)→季兼(三河四郎)→季範(額田冠者(三河国額田郡)、初代藤姓熱田大宮司)→由良御前→源頼朝
・藤原実範(三河守)→季兼(三河四郎)→季範(額田冠者(三河国額田郡)、初代藤姓熱田大宮司)→娘→足利義兼→足利義氏(足利氏として初めて三河守護)
・藤原範忠(後白河院北面、大宮司、三河国滝山寺大檀那、室は美福門院女房上総)
・藤原範信(式部丞、上野介、大宮司(星野大宮司)、三河国神谷御厨給司、三河国星野荘荘司、初代星野氏(三河国宝飯郡星野))
・藤原範雅(後白河院上北面、大宮司)→
・藤原範綱(大学助大夫)
・藤原範智 (法眼、園城寺)→三条局(源実朝御所縫殿別当)
・三河祐範(法橋、三河国滝山寺、園城寺、頼朝伊豆配流時代の支援者)
・粟田口長暹(法眼、三河国滝山寺、仁和寺、守覚法親王近習)
・千秋尼(上西門院女房)
・大進局(待賢門院女房)
☆由良御前(上西門院女房か?)→源頼朝(上西門院皇后宮権少進、征夷大将軍)
★女子(養女(実父は藤原範忠)→足利義兼(八条院蔵人、上総介)→足利義氏(足利氏として初めて三河守護)
・女子(源師経室、師経の伯母は待賢門院女房、姉妹は待賢門院官女、上西門院乳母一条 必死こいて貼り付けてるみたいだけど
血筋が通用したのは室町の中期までだぞ ビジネススキルと戦国武将を
繋げるの信じるのはダメサラリーマン >>587
成り上がりの信長と猿吉は排除されただろう
現代社会も家柄
現代社会においても信長猿吉とは縁もゆかりもない
三河縁者以外が仲間に入れるわけ無いだろう
細川護煕墓参記念碑(三河県岡崎市)
http://sakuraoffice.com/hosokawamorihiro.html
現代社会における日本の由緒正しい支配層(金では買えないステイタス)
公家(No.1、No.2)
・近衛家←現当主は細川家(三河国額田郡細川、三河県岡崎市)からの養子
・鷹司家←現当主(伊勢神宮大宮司)は大給松平家(三河国加茂郡大給、三河県豊田市)からの養子
武家(No.1、No.2)
・足利家(喜連川家)←現当主は細川家(三河国額田郡細川、三河県岡崎市)からの養子
・細川家(三河国額田郡細川、三河県岡崎市)
細川家
菩提寺
・隣松寺(三河県豊田市幸町隣松寺126)
・蓮性院(三河県岡崎市細川町字権水56)
氏神
・村積神社(三河県岡崎市奥山田町字山田46)
大給松平家
菩提寺・墓所
・松明院(三河県岡崎市細川町字根古屋123)
・蓮性院(三河県岡崎市細川町字権水56)
・大給城(三河県豊田市大内町字城下)
氏神
・村積神社(三河県岡崎市奥山田町字山田46) >>587
家康が受け継いだ遺伝子のNo.1は源為朝だな
ある意味、源為朝の子孫と称した足利氏と同じく、為朝の子孫の足利尊氏と徳川家康が幕府を開いた事になる
家康が受け継いだ遺伝子
源義家
源義国(源姓足利氏・新田氏の祖)
足利義兼(初代源姓足利氏)
一色公深(初代一色氏)
今川国氏(初代今川氏)
吉良長氏(初代吉良氏)
源為朝
安達盛長
足助重範
楠木正成
■今川記(1553年成立)より
松平信光(第3代目当主)
正室:一色氏の娘
一色満範の娘の仮定する
源義家→義国→義康→足利義兼(初代源姓足利氏)→義氏→泰氏→一色公深(初代一色氏)→範氏(母親は今川国氏(初代今川氏)の娘)→範光→詮範→満範→娘→松平親忠→長親→信忠→清康→広忠→徳川家康
熊野国造家 和田家系図より
松平親忠(第4代目当主)
正室:鈴木重勝の娘
・加茂(足助)重長→足助重秀(母親は源為朝の娘)→重朝(母親は安達盛長の娘)→重方→親方→貞親→重範→鈴木重員(母親は楠木正成の娘)→重勝→娘→松平長親→信忠→清康→広忠→徳川家康 こんな徳川家康を、一泡吹かせた姫路の黒田官兵衛という軍師は
いったいなにをしたんだろ
俺と姫路の大塩佳織のことも、好きにさせてから別れて
俺にダメージ与えようって日本の策略だったんだろが
そのわりに姫路は、朝倉未来とか俺が朝早く大手前中学に
かよってたことで芸名つけて騒いでるが >>589
幕府の制度なんて基本は前政権から引き継いで多少の改善するだけだぞ
(建武の新政は除く)
家康は天下を取れた偉業と才覚は認めるけど織田や羽柴を貶め三河だから出来たみたいな論調は甚だ遺憾だ >>593
三河の源頼朝、三河の足利尊氏、三河の徳川家康の三部作だと思うんだが
三河政権たる鎌倉幕府の支配層一覧(三河つながり優遇)
【鎌倉将軍】源頼朝(母方:藤姓熱田大宮司家(三河国額田郡、三河県岡崎市)
■将軍御一家(頼朝姻族、頼朝女系の一族)
・足利氏(下野国足利郡足利)←母親が頼朝母と姉妹(藤姓熱田大宮司家(三河国額田郡、三河県岡崎市))の家系
・北条氏(伊豆国田方郡北条)←頼朝正室の家系、政子の父・北条時政の母は伴為房の娘(三河伴氏同族)
・一条氏(藤原北家中御門流)←頼朝同母(藤姓熱田大宮司家(三河国額田郡、三河県岡崎市))姉もしくは妹(坊門姫)の嫁ぎ先の家系
■御由緒家
・安達(小野田)氏(三河国八名郡小野田、三河県豊橋市)←安達(小野田)盛長は頼朝幼なじみ
・足助(賀茂)氏(三河国加茂郡足助、三河県豊田市)←源頼家に室を出し、生まれた息が源実朝を暗殺した公暁
・比企氏(武蔵国比企郡)←頼朝乳母(比企尼)の家系←源頼家に正室を出す
・八田氏(常陸国八田郡)←頼朝乳母(寒河尼)の家系←八田知家の猶子である中条家長は高橋荘(三河国賀茂郡、三河県豊田市)地頭
・結城氏(下総国結城郡)←頼朝乳母(寒河尼)の家系
■門葉(鎌倉将軍と血縁関係がある源氏)
・源範頼(三河守)←頼朝異母弟
・源広綱(駿河守)←古井城主(三河国碧海郡古井、三河県安城市) ←太田道灌の先祖
・平賀義信(武蔵守)
・山名義範(伊豆守)←実父は矢田城主(三河国幡豆郡矢田、三河県西尾市)の矢田義清
・大内惟義(相模守)
・足利義兼(上総介)←母親が頼朝母と姉妹(藤姓熱田大宮司家(三河国額田郡、三河県岡崎市)
・加賀美遠光(信濃守)
・安田義資(越後守)
■執権・連署
・北条氏(伊豆国田方郡北条)←頼朝正室の家系、政子の父・北条時政の母は伴為房の娘(三河伴氏同族)
■政所(一般政務・財政を司う機関)
・大江氏←初代別当の大江広元は牛田城主(三河国碧海郡牛田、三河県知立市)
・二階堂氏(相模国二階堂)←初代令の二階堂行政は、母親が頼朝祖父(初代藤姓熱田大宮司(三河国額田郡、三河県岡崎市))の妹
■侍所(軍事・警察を担った機関)
・和田氏(相模国三浦郡和田) >>593
続き
三河政権たる室町幕府の支配層一覧(三河繋がり優遇)
■将軍御一家
【三代将軍足利義満時代】(3家)
・西条吉良氏(三河国幡豆郡吉良、三河県西尾市)
・今川氏(三河国幡豆郡今川、三河県西尾市)
・渋川氏(上野国群馬郡渋川)
【八代将軍足利義政時代】(4家)
・西条吉良氏(三河国幡豆郡吉良、三河県西尾市)
・東条吉良氏(三河国幡豆郡吉良、三河県西尾市)
・石橋氏(三河国設楽郡石橋、三河県新城市)
・渋川氏(上野国群馬郡渋川)
■三管領(将軍に次ぐ最高の役職、将軍を補佐して幕政を統括)
幕府執事(管領の前身)(3家)
・高氏(三河国額田郡菅生、三河県岡崎市)
・仁木氏(三河国額田郡仁木、三河県岡崎市)
・細川氏(三河国額田郡細川、三河県岡崎市)
管領(3家)
・細川氏(三河国額田郡細川、三河県岡崎市)
・斯波氏(三河国碧海郡矢作、三河県岡崎市)←初代足利家氏は、祖父より三河国碧海郡碧海荘を相伝し本拠とした
・畠山氏(武蔵国男衾郡畠山)←初代畠山義純は三河国生まれ
■七頭(管領家とともに幕政に参加できた七家)(7家)
・一色氏(三河国幡豆郡一色、三河県西尾市)(四職)
・山名氏(上野国多胡郡山名)(四職)←初代山名義範の実父は、矢田城主(三河国幡豆郡矢田、三河県西尾市)の矢田義清
・京極氏(山城国葛野郡京極)(四職)←京極高秀(佐々木道誉の嫡男)親子は三河国額田郡下和田郷(三河県岡崎市)の領主
・赤松氏(播磨国播磨郡赤松)(四職)←善住寺(三河県豊川市)に赤松円心親子の墓あり、赤松円心は一時、赤田和城(三河県岡崎市)に隠れ住む
・土岐氏(美濃国土岐郡)(五職)
・上杉氏(丹波郡何鹿郡上杉)(関東管領)←事実上の初代上杉頼重の屋敷あり(日名屋敷、三河県岡崎市)
・伊勢氏(出自不明)(政所執事)←活動を記録した最古の資料では、初代伊勢俊継は父、叔父、従兄弟と共に三河国額田郡賀茂郡(三河県岡崎市・豊田市)で活動 戦国以前の歴史・逸話なんて江戸期以降に
中国の故事とかからパクってでっち上げたものだらけ
そんなものを事実であるかのように語ってしまう愚かさ 歴史小説のほとんどが、現代の電気関係の対処法とか
結果とかなんだとかのストーカーじゃないの
電力会社も統一教会らしいな 島津は結局信用ならない奴だっただけ
のき口とか見逃してもらってただけだろ 石田方にも用兵巧者が多くいた。
全て小早川のおかけ。 >>599
さも島津の美談のような語られるが
関ヶ原本選で立ち位置を定められるずイジイジしてたらあっという間に西軍が総崩れで
逃げ場がなくなって必死になって逃げて9割の損害を出しただけだから島津は 昔の殿様って家来が何人死んでも自分だけ生きのびればヨシとか思ってたんだろうな >>601
いけやって言われてたけど行かずにやってたくそヘタレだからなあ >>563
子飼いに大功立てさせようとしたからな
秀吉は当然のように勝つつもりだったから、
家康なんか参加させて大功立てちゃったら二度と潰す事できなくなるし 家康アゲてるやつは秀吉をサゲたい半島系だからなあ
九州統一寸前の島津というめちゃ強烈な戦闘集団を
歴史時代の日本で唯一総力戦を理解して近代戦略を実行して
何もさせずに粉砕した秀吉は日本史上最高のウォーロードだが
家康は秀吉が病死した時点ですでに第一の実力者だったのを
あとは形式的にも支配者になったというだけで
称号としては武将ではなくて政治家と呼ばれるべきだよ 戦国最強は確かに秀吉だね
でも関が原みたいな大会戦で勝つイメージはないな
秀吉が西軍の大将ならどう戦ったかな 島津はそもそも秀吉に勝つ気なんてなかっただろう
グッドルーザーになって領地を可能な限り維持するのが目的
泥沼化させてたら改易まで普通にあったところ
家中の団結を保ちつつ先祖伝来の地は守った 島津は朝鮮出兵で唯一加増、関ヶ原も生き残り琉球手に入れて明治維新も起こすとか人智を越えてる >>608
秀吉が関ヶ原本戦で総大将を勤めるなら
本陣はまず何万もの精鋭で固めてるし
毛利も小早川も怖くて裏切れないから家康に勝ち目はない
>>531
あらかじめ謀反は許すがスライディング謀反は許さんという謎ルール 開戦当初から石田隊がどつきあいして石田隊が力尽きたら
西軍の負けとかの関ヶ原に戦術史価値なんかないやろ
対して賤ヶ岳はやばい。わざと虚を作って敵に要地を取らせて
奪い返すことで敵軍に衝撃を走らせるとかアウステルリッツ三帝会戦に匹敵する
それも奪還を戦略機動でやっている。秀吉は異世界転生やろ。△過ぎる >>611
建国以来、尾張が御主人様の三河人に喧嘩を売ったの一度だけ
それが小牧長久手の戦いだ
その結果は力負け
三河に勝てるわけない
尾張の歴史
◆平安時代◆
・藤原季兼(別称:三河四郎大夫、三河国額田郡に居住)が尾張目代(遙任国司の代わりに地方官吏を監督)としてにらみを利かせる。
・熱田大宮司職を藤姓熱田大宮司一族(本貫地:三河国額田郡)に乗っ取られる。
・以後、荒廃していた熱田神宮は、藤姓熱田大宮司一族の血縁である源氏(鎌倉将軍家、足利将軍家)と結びつき発展する。
藤原季兼(別称:三河四郎大夫、三河国額田郡に居住)→藤原季範(額田冠者、三河国額田郡に居住、初代藤姓熱田大宮司)→女子→源頼朝
藤原季兼(別称:三河四郎大夫、三河国額田郡に居住)→藤季李範(額田冠者、三河国額田郡に居住、初代藤姓熱田大宮司)→女子(足利義康(初代足利氏)室)→足利義兼
◆鎌倉時代◆
・三河国高橋庄の地頭職が支配する。尾張守護職を兼務。
・鎌倉幕府の尾張国の守護所が不明なのは、守護が尾張に住んでいなかった為。
◆室町時代◆
・斯波氏(本貫地:三河国碧海郡矢作、尾張守、尾張守護)、今川氏(本貫地:三河国碧海郡今川、尾張守護)、一色氏(本貫地:三河国碧海郡一色、尾張分郡守護、地頭職)が支配する。
◆江戸時代◆
・尾張の支配層は追放され、尾張徳川家が支配する。
・附家老は成瀬家(三河国加茂郡)、その他平岩家(三河国額田郡)、渡辺家(三河国額田郡)、中根家(三河国額田郡)、鈴木家(三河国加茂郡)。
◆現代◆
・トヨタグループのパシリとなる。 奈良を平定してできたヤマト政権の母体も三河だね
古代から現代まで三河の時代かもしれん >>616
あれも秀吉が渡河してたらあれほど早く戻ってこれなかったんじゃない 歴史は後から結果だけ見てるからどうとでも言える。リアルタイムだといくら根回して有利でもドキドキだろ。たとえば単勝1.2倍の鉄板レースでも庶民が100万はれるかという話 >>621
足利尊氏も忘れるなよ
尊氏は妾の子で、在三河で三河国奉行だった祖父の屋敷で生まれた可能性が高い
この屋敷は家康が生まれた岡崎城から直線距離で約1.5キロの目と鼻の先であり、何と幕末まで岡崎藩が使っていた
太田亮
■上杉氏
上杉-勧修寺家支流と称するが疑問が大きい。
丹波国何鹿郡上杉庄より起り、上野を本拠として、越後や関東各地等に分る。
『東鑑』を含め確実な史料には、先祖重房の下向記事が見えず、足利家家人の上椙三郎入道(上杉頼重)より前は不明。
その出自は難解であるが、三河の日下部(穂国造一族か)と関係をもった場合も考えられ、その場合は、同国の足利被官で藤姓を称した杉山氏や大草氏と同族か
■日名屋敷(事実上の始祖である上椙三郎入道(上杉頼重)の 屋敷)
鎌倉末期に三河国額田郡日名にあった上杉氏の屋敷。
足利貞氏室となり尊氏・直義を産んだ上杉頼重の娘清子が、暦応2年(1339)10月15日に丹波国光福寺(現綾部市安国寺)へ日名屋敷を寄進、
翌年4月5日に清子の甥上杉重能がこの屋敷を光福寺雑掌へ渡すよう岩堀右衛門三郎に命じている。
頼重は額田郡を含む足利氏所領群を管理する奉行人のひとりであったから、現地支配の拠点として上杉氏がこの屋敷を所領とし、頼重から女子清子に譲与されたものであろう。
日名屋敷跡伝承地の近くの墓地に14世紀後半の宝塔の笠1個がある。 賤ヶ岳とアウステルリッツの共通点としてはもうひとつ、勝利をビジュアライズして
その後の士気をおおいに高めたのもある。
長浜の住民が街道に用意した握り飯を走りながら食い、松明を連ねて秀吉の本隊は…いうのと
ロシア軍が凍った湖の上を敗走してゆくのをナポレオンは大砲の射角を上げて氷を割らせ、てやつ >>582
それはキリシタンで信用できないからじゃなくて単に立地的な問題
『土佐国蠧簡集』によると朝鮮八道の領知配分は
・毛利輝元→慶尚道288万7790石
・小早川隆景→全羅道226万9379石
・四国衆(福島正則・長宗我部元親等)→忠清道98万7514石
・毛利吉成→江原道40万2289石
・宇喜多秀家→京畿道77万5113石
・黒田長政→黄海道72万8867石
・加藤清正→咸鏡道207万1028石
・小西行長→平安道179万4186石
このように秀吉は清正や小西に大加増する予定だったことが分かる
フロイス日本史の記述を相当信用してるようだけど、渡邊大門も偏見的、偏向的な箇所が多いことを指摘し、
中でも人物評は宗教的観点から見たものを多分に含むので特に注意を要すると言ってる
宗教的なものが絡まない風俗的な記述以外は、正直ソースとして全面的には信用できないと思う
他の一次史料による裏付けが取れてれば別だがね 伴天連は信用できないと発見したのも秀吉の功績だね!
それがなかったら江戸幕府も禁教をできたか分からず
他の非白人文明のように日本も精神的に支配されていたかもね! >>604
まあ計画初期は本気の征服計画だったかもだが
秀次に関白を譲ったら反乱を起こそうとしたらしく
途中から、追放計画にシフトしたらしい
完訳フロイス日本史5(2000)、279p
>この朝鮮の戦いに関する関白の意向として感じられることは、
>朝鮮を占領し、関白職に就任させた自分の甥(秀次)、
>ならびに彼とともに、日本で己れに反旗を翻す可能性がある者を
>すべてかの地に送り出すことであった
以下、島津、伊達なんかがめっちゃ朝鮮送りでいじめられた!的な話が続く >>626
そこで重要になるのが信雄、家康の領地替えなんでしょ
信雄も家康も「本拠地を失い、都から遠ざかる加増」だったんだぞ
その朝鮮送り勢も同じ処遇を予定されていたということ
>561にあるように家康も同様のことをしようとしたと噂されている
むしろそのリストの連中こそ>628にある
「日本で己れに反旗を翻す可能性がある者」と言えるだろう >>626
ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%87%E7%A6%84%E3%83%BB%E6%85%B6%E9%95%B7%E3%81%AE%E5%BD%B9
>組屋文書にも、毛利輝元、長宗我部元親、島津義弘、大友吉統らは、国替えして朝鮮で10倍20倍の知行増を約束されたが迷惑がったと書かれていて
完訳フロイス日本史5(2000),154p
>関白自身は…「予は多くの国替えや領地替えを行うであろう。このたびの企てに加わった者には、
>朝鮮やシナで国土を賞与するであろう」…
>皆は本心ではたとえわずかでも自分の生まれた土地を所有することの方を望んでいた
上記のように日本側一次資料とも整合性は取れてるやろ 気の早すぎる大陸統治案には石田や大谷が抜擢さているわけだがそいつらも反乱予備軍なのかw >>608
仮に同じ地位でも内部工作の切り崩しで
秀吉の方が兵数多くなると思うよ
調略で秀吉に勝つのはまず無理 >>602
自分が生き延びないと家臣に給料払えなくてお家断絶だし
実際それが無理と悟って自害した例は多い >>609
戦うか戦わないかで兄弟対立して死者まで出たから
瀬戸際中の瀬戸際だぞ
長男が死装束で号泣謝罪して辛うじて家を保った >>623
秀忠の大軍が遅れたことでかなり肝を冷やして
その後しばらく絶縁してたぐらい怒り狂ってたからな
まああの緒戦で負けたところで
相手が三成だし、家康なら何とかしちゃう気がするけど
リアルタイムじゃ家康は相当肝冷やしただろうな 連発式の鉄砲や鉄の荷車を操る謎の軍団が助っ人したから そこは家康の真骨頂
秀吉が去ったのを見計らって三成に豊臣に対する謀反の疑いを被せ豊臣子飼いらまで囲い込み
そしてこれを排除した後に豊臣を滅ぼす
子飼いの連中は打つ手なし
全て家康の計算通り
「急いては事を仕損じる」 >>639
この時代小説がすごい!2022の大賞獲ったからな。
めちゃくちゃ面白いよな。
家康だけじゃなくて、その家臣の榊原康政や、鳥居元忠、稲葉物置とか、描写が細かくて好き。 さすがに260年後のことなんてどうでもいいだろ
自分がしたことが2480年に影響出るとして気にするか? 家康は三方原の戦いとか敗北や失敗の経験から学んで武田信玄を特に手本にしてライバルの真似したり改善して己のカッとなりやすい意地やプライドの高さを悔い改めて思考を柔軟にして強くなった男
処刑前の三成に家康があなたは若過ぎだだけなのですと言ったのは家康が苦い思いをしたり色んな人との出会いによって経験から学ぶという運の良さがあったから勝てたんだっていうことでしょ
家康は北斗の拳のケンシロウみたいなポジション
惜しむらくはお前はその強さゆえに己より強いやつと出会うことが無かった
だが俺は俺より強いやつの戦場を生き抜いてきたみたいな そもそも家康は武力って言う圧倒的な交渉道具があるけど
単なるビジネスパーソンにはそんなものは無い ダイヤモンドとかプレジデントより
家康の処世術の方が遥かに実践的で役立つんだよな
家康のやり方は陰湿日本人に合った交渉の成功事例のオンパレードだから
大義名分の立て方とかホンマ巧い
秀吉も巧いんだけど陰湿日本人には家康の方が合う >>630
そりゃ整合性取れてる部分もあると思うよ
自分も全否定する気はないし
だからと言って全面的に信用できるかどうかはまた別問題
フロイス日本史では秀吉がバテレン追放令を発布し弾圧したことで、一貫して好意的には書かれてない
だから秀吉に対する記述については特に他の史料の裏付けが必要
更に>>561の出典はフロイス日本史よりも信頼度の劣る看羊録
組屋文書の話題が出たから更に補強すると伊達政宗の書状でも
文禄2年7月24日付母・義姫宛伊達政宗書状
「此国にてハ水之ちかい候ゆへ、人々しにうせ申候事」
「つくし・四国しゆあいのこされ、われらなとハ帰朝のしゆとつたへ承候、(中略)
日本一の国とをの我等にて候間、いかてかと存くらし申候、
此ときはかり在所あつまのはてが、しあハせと罷成候」
文禄2年7月21日付富塚宗綱宛伊達政宗書状
「惣別当国ニて腫氣煩候者、十人ニ九人者、相果事ニ候」
と現地での窮状を国元に報告し、まもなく帰国できる喜びを爆発させてる
大多数の者が唐入りに否定的で迷惑してたのは一次史料からも明らかだな 壺にしろ倉刂イ襾にしろ反社力ルトは政府に影響持たせるなよ。
宗教課税早くしろよ🤤
壺にしろ倉刂イ襾にしろ反社力ルトは政府に影響持たせるなよ。
宗教課税早くしろよ🤤
https://i.imgur.com/1miypsU.png
https://i.imgur.com/xvfGtWz.png >>45
テレビにでてるなんとか瑠璃とか社会学者とか? 秀吉はしょせん劉邦タイプ
官兵衛や秀長や利休の力を借りて統一出来たのにそいつらを切ったせいで一気に没落した
三成は陳平のように待つことが出来なかった >>652
劉邦は何百年も続く漢王朝やし
家康だって関ヶ原ぐらいからは譜代家臣遠ざけて
文治に特化した新人材を脇に置きまくってる
やる方向性は一緒だよ 毛利が徳川と和議を結びたいならば、大坂城退去との交換条件にすべきだったのに、いそいそと退去した挙げ句、「内府ちかいの条々」と、毛利軍の豊前、豊後、伊予、讃岐、阿波に対する大規模な軍事行動を咎められ、封土没収が決まりかけた。
しかし、吉川広家が泣いて赦しを請うたため、周防、長門29万石への減封処分で決定した。 馬鹿みたい
会議の空気を読んで誰も物事の本質を理解せず
なあなあで事業を進めてきた結果が今の日本でしょ 本音と建前を理解出来ずに
予定調和の会議で求められてもいないのに正義感や己の売り込みの打算で積極的に発言する奴が空気の読めない最高のアホ
トップや幕僚からは要注意人物のレッテルを貼られるだけ。
自己評価の高さとリーダー気取りの虚栄心を擽られて利用するだけ利用され、用が済んだらポイ捨て切り捨ての末路
会議はトップ以外の末席は黙って議事を進行させておくだけでいい >>651
三成はなるべくしてああなった。
秀吉の権力を集中させるために利休に切腹させるのも進んでやった。
秀吉に子供ができれば難癖をつけ養子で跡継ぎ候補の秀秋を転封し秀次は一族皆殺し。
秀吉を表に出すことなく秀吉を背に権力を駆使した。
普通は秀吉に怒りの矛先が行くが三成が出張ってそれを防ぎ恨みを代わりに受けていた。
秀吉が死ねば恨みは自分に降りかかってくる危機がある、死中に活を求めるそれが関ヶ原だった。
秀吉から秀頼の天下を盤石にする為に家康を討ち三成憎しと集まった武将共々滅ぼす、三成の総仕上げと明るい未来がそこにあった。
結果は小早川秀秋の寝返りで俺達の戦いはこれからだと西軍は崩壊し石田三成先生のこれからの活躍に御期待くださいだったが。 毛利輝元に胆力と野心があればもう少し面白い結果になったんだろうが
石田三成はトップのタイプじゃないし 秀長前田小早川がいればこんなことにはならないだろうから家康も栗を拾った感じだろう どっちにしろ関ヶ原の時点で
家康に対抗できる実績や格がある人材なんて
官兵衛ぐらいしかおらん
その官兵衛も関ヶ原の一発逆転狙った斜め上を
徳川は達成しちゃったんだから実質的に負け
その時点で天下は決まり
万が一家康が暗殺されても戦国ロワイアルに戻るだけ >>607
アンチ秀吉を半島人呼ばわりして己を保っている
秀吉教乙
知れば知るほど秀吉はろくなもんじゃない >>480
鎌倉にあるから、武蔵國なら大國魂神社が府中市にある。交通の要、行政、防衛上江戸湾近くで幕政開くのが地政学上有利。 >>660
官兵衛に全く野心がなかったとは言えないけど、それは戦国武将なら誰もが持ってるもの程度のもので、
通説で言われるような自分が第三勢力となって家康と決戦なんて考えはなかったと思うけどね
関ヶ原の直後の慶長5年10月4日付吉川広家宛行黒田如水書状では
確かにそのようなニュアンスのこと書いてるけどとても本心とは思えない
その証拠に関ヶ原前後の如水を一次史料で追っていくと、基本的にはずっと家康の意思に沿って如水は動いてる >>611
そもそも秀吉が存命中に家康が関ヶ原を仕掛ける戦略自体が有り得ない
秀吉が存命中なら福島正則、黒田長政、浅野幸長、京極高次、細川幽斎・忠興親子が東軍につく事自体が有り得ないし
藤堂高虎ですら東軍に引き抜くのはかなり無理ゲー >>582
>文禄の役の一番隊は小西、大村、有馬などキリシタン大名が主力でしょ
>キリシタン弾圧をする秀吉にとっては信用できないやつらではないか
>秀吉の人を見る目は確かで後に東軍入りする
>不忠者である加藤・福島を朝鮮送りにしたのだ
全然違う。都合のいい所だけ取り上げてるだけ。
小西は西軍として最後まで奮戦してたし、他の一番隊の切支丹の宗も西軍として戦って伏見城攻撃で功績立ててる。
あと松浦なんかは切支丹じゃなかった。
動員には地理的な理由もあったろうが
メインに戦った連中は、どっちかつーと子飼いや古参、恩顧連中が中心だわな。むしろ手柄立てさせるためろ。
だから宇喜多から親族の秀勝まで参加したし戦後に豊臣政権にヒビ入る結果となった。
この理屈なら徳川関係者伊達最上なんかをもっと消耗させないとおかしいわ。
つーかそもそも秀秋を養子にして後継者レベルにしようとしてたのが秀吉。 東軍入りは三成らとの確執もあるんだからそれだけじゃ理由になんないよな。
日和見や寝返りも多かった中で西軍としてガチで奮戦した宇喜多、立花、小西とか
全部朝鮮送りされて激戦してるし。
関ヶ原でも西軍に入って豊臣のために尽くした連中だ。
大谷も後方寄りだったが朝鮮従軍して西軍の要だし、関ヶ原の島津は微妙な部分もあるが同じだ。 >>611
秀吉級の頭脳の武将がいたとしても、地位や手持ちの軍勢がいないと大したことできないよ 家康なんか秀吉に勝てなかったんだから大した武将じゃなかった。軍師に丸投げだったかもしれん。 幕僚の素性からして秀吉と家康はダンチ
千利休、小西、石田と経済・物流に通じた者たちを重用してるの見ても
兵站で戦争に勝とうとしていたのが分かる。
ローマ軍と周辺蛮族ぐらいの差がある 俺が知る限りで家康は4回やばい場面あった。
武田信玄からのうんこ漏らしながらの敗走、本能寺の変直後の伊賀越え、関ヶ原の島津軍突入、大阪夏の陣の真田幸村の突入。
他にやばい場面あった? お前ら、ここだけの話したろ。実は家康の戦い方は主に空爆だからだ。信じるか信じないかはアナタしだい!! >>671
島津の話は完全な創作
関ヶ原の戦いの家康の本陣は遥か後方に有り、主戦場にすら居ない >>671
表になってない暗殺未遂もたくさんありそうだな >>674
そうなの?それは鹿児島県人としては残念。
でもよく考えてみると本陣突撃までしてて、薩摩藩は罰なし石高も安泰だったって不自然だもんね。 >>671
合戦ではないが小牧・長久手の後の降参の上洛
あとは織田信秀に手渡される前の戸田氏の手元にいた頃 俺だったら朝鮮出兵などせず
全力で家康を潰していただろう >>671
三河一向一揆 信康事件
対応次第では危うかったのでは >>669
秀吉が家康に勝てなかったの間違いだろ
それまでほぼ全部電光石火で勝負決めてきたのに
家康に対しては睨み合うしかできなかったんだから 禅宗や浄土真宗とかで勢力区分けできないのと同じで
宗教じゃ区分けできないよな。
源氏平氏同士、一門同士だってやり合ってる時代だからな。 >>671
金ケ崎の殿
小牧長久手も総力戦で疲弊して、家康が背中にでき物ができて倒れてかなりやばかった
というか、織田との同盟時代は先陣やらされまくってたからいつ死んでもおかしくないっちゃおかしくない >>679
対応次第というか、三河一向一揆の時点で並の武将だったら下剋上起こされて終わりだろ
会社で言えば社員の半分が変な宗教に入って仕事さぼってスト起こすみたいな状況やぞ
薄っぺらいビジネス論より家康の対応策の方がよっぽど説得力がある >>683
背中のできものってエピソードって有名だけど出典がよく分からんな
一次史料ではない話だし恐らく軍記物とか後世の編纂物になるんだろうけど出典が気になるな 資料なくても予測できることだとは思う
秀吉との大戦で領国経営ボロボロになった上に
更に増強した兵力で押し込まれようとしてたわけで
普通はおかしくなって身体に異常をきたす >>686
まあ戦巧者との対峙だし神経使うからってのは理解できる
しかしまさかこのエピソードが何の史料にも残らず
口伝のみで現代まで広まったわけじゃないだろうし単純に出典が気になっただけだ >>685
あとあれやな
徳川史観で語れば、停戦した後も果敢に戦おうとした話にした方が都合がいいわけで、にも関わらずでき物の話が出るというのは、やはり事実に近いのではと思う ヒラコーのドリフターズで
スキピオが関ヶ原を解説してくれてたな >>684
ありがとう これにてやばい場面認定と言う事で… >>692
そうしとかないと豊臣恩顧の武将の活躍で楽勝でしたになっちまうからな
実際は福島や黒田が優秀すぎて徳川ほとんど何もしてないw 毛利のせいだよなw あの一族が本気になれば、西軍余裕で勝ってた。
総大将になるならやれ、やらんならなるなw 敗因というかね
徳川対豊臣にできなかった時点ではなから勝負ついとる
語るまでもない 島原の乱鎮圧にオランダは幕府に協力し、
キリシタン大名の有馬は貿易摩擦が原因でポルトガルと戦争を起こして
ポルトガルの対日貿易が一時途絶したとか宗教じゃ勢力分けられないよな。
結局区分けできるのは利害関係程度。 TBSの「関ヶ原」。
昭和のくそじじいにはよだれがでそうになるドラマ。 家康の大失敗は島津を徹底的に壊滅させなかった事だね
260年後、島津(薩摩)に滅ぼされた >>700
滅んでないしw
江戸時代長いからあと110年以内に徳川がもう一回政権獲れば再逆転やで 毛利って大将のくせにやる気なくて負けた自業自得のくせに、
生き延びさせてくれた恩も忘れて260年徳川を恨むとか、とんでもないやつだよな >>701
日本人の民度からして徳川政権復活あるで
トヨタと姻戚とかなってたらまじでアリアリ >648
朝鮮出兵を嫌がってた大名がいただけでは「秀吉の計画の朝鮮への国替えが謀反人追放」の根拠にならんやろ
フロイス・組屋文章のように国替えを嫌がってた大名とかが根拠やろ >>704
「秀吉の朝鮮への国替えが謀反人の追放」はあなたが支持してることでしょ
自分は全くそんなこと思ってないし
こちらの言い方も分かりにくかったかもしれんが、単に異国での加増に迷惑してるという組屋文書の話題が出たんで、
伊達政宗の書状でも現地で随分苦労して迷惑してる内容のものがあったと思い挙げただけだ >>671
大高城脱出、大樹寺包囲網。三河一向一揆、織田同盟以降の先鋒、殿および軍役。 >>656
それ
組織根幹のそこに関しては太古の昔から現代まで変わっていない 秀吉や家康の意見が通るのも基本は好感度よ
もちろん知謀策略もあるけど、やりすぎると嫌われて
四面楚歌だからな、飴も与えな
論だけでやろうとすると、山本太郎や立花や石原慎太郎みたいになるわけだ >>709
小早川は日和るどころか
前日に同じ西軍を攻めて勝手に松尾山占領したり
戦始まったら速攻で大谷軍壊滅させたり
東軍のMVP級の働きやで >>656
やりすぎると反乱分子が出て退職者が出まくったり、派閥ができるんだよなあ
だから昭和脳のトップはダメなんだよ
家康の凄かったところは、そういうのをちゃんと理解して、家康の決めたことは幹部の「自分が」決めたことと幹部に思わせるテクニックが巧かったところ
それでも中年ぐらいまでは部下に結構裏切られたりもしてるんだけどね というかこの記者も勘違いしてるけど
戦国時代って下剋上の世界だからな
俺の言うこと聞け!でまかり通ったのは信長だけだから
基本はトップのてめーの都合押しつけんな!面倒くさいことはてめーが責任取れ!でも給料上げろで、やらないんならじゃあ他の領主に鞍替えするか、トップに死んでもらって、子どもか親戚に替わってもらいますわって世界だからな
部下が言うこと聞かないのが基本だから
だからまとめられた戦国武将はカリスマ扱いされる >>701
頭大丈夫か?
明治維新は徳川(幕府)の壊滅・滅亡なんですけど
会津みたいに無駄な抵抗をした小大名もいたけどね 天井の電気照明から焼かれるから
借金して電子回路つけてしのいでるが
この攻撃て、徳川で名古屋なのか どうせ着地点の決まってる会議なんだから社内メールとかペラ1枚ですませろって話 >>713
支配層とは無縁の、物を知らない田舎者か?
長州の萩の地名が、三河由来で察しろ
三河の萩の南朝の末裔が、三河の大江氏に連れられ長州に移り住み、三河の萩を忘れない為に萩と名づけた
徳川と毛利は裏で繋がっていた
源頼朝の側近が大江広元だったように、徳川の側近の酒井は大江広元の五男の家系、萩氏庶流ではないか
家康が生まれた岡崎の平安時代の領主、高階惟長の嫁は大江広元の娘だった
明治維新とは江戸の三河武士から、長州の三河武士への国譲り
実は明治政府というは三河国宝飯郡萩に隠れ住んだ南朝落人の政権で、同じく南朝系を称した徳川政権から禅譲されただけ
譲られただけだからこそ江戸城は無血開城され、今までどおり東京が首都になった
事実上現代社会、徳川幕府は崩壊していない
酒井氏は海東流萩氏
三河国宝飯郡萩と大江広元(毛利氏の祖)
大江忠成(海東忠成)
・鎌倉幕府評定衆
・大江広元の五男
・三河の藤姓熱田大宮司家に養子入り
・熱田大宮司
藤原実範(三河守)→季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令)→季範(初代藤姓熱田大宮司家、額田冠者(三河国額田郡))→範忠→忠季→忠兼→海東忠成(養子入り)→萩忠茂(三河国宝飯郡萩、萩大宮司)) >>713
三河武士は、公武合体で家格を上げ
現代社会も日本に君臨しているのが分からんのか?
細川護煕墓参記念碑(三河県岡崎市)
http://sakuraoffice.com/hosokawamorihiro.html
現代社会における日本の由緒正しい支配層(金では買えないステイタス)
公家(No.1、No.2)
・近衛家←現当主は細川家(三河国額田郡細川、三河県岡崎市)からの養子
・鷹司家←現当主(伊勢神宮大宮司)は大給松平家(三河国加茂郡大給、三河県豊田市)からの養子
武家(No.1、No.2)
・足利家(喜連川家)←現当主は細川家(三河国額田郡細川、三河県岡崎市)からの養子
・細川家(三河国額田郡細川、三河県岡崎市)
細川家
菩提寺
・隣松寺(三河県豊田市幸町隣松寺126)
・蓮性院(三河県岡崎市細川町字権水56)
氏神
・村積神社(三河県岡崎市奥山田町字山田46)
大給松平家
菩提寺・墓所
・松明院(三河県岡崎市細川町字根古屋123)
・蓮性院(三河県岡崎市細川町字権水56)
・大給城(三河県豊田市大内町字城下)
氏神
・村積神社(三河県岡崎市奥山田町字山田46) >>717
大島栄城だが、全個体電池をアメリカ共和党に盗まれずに開発するには
俺が天上の電気照明とか端末の電力で感電ししないといけない
とかおまえなごやんが決めたのかね >>608 小牧長久手といっしょじゃない?
家康相手に野戦やるほど愚かじゃないよ
堅固な陣地築いて、外交で東軍を切り崩し、家康本体を外交的孤立に追い込んで屈服させる >>719
大島栄城だが、俺が猿と思ってたらおまえか松岡
俺にいまやってることじゃないか >>671
あずみに家康が打たれて影武者で乗り切った時
DL学園の変な先輩の口癖がいーえやすっ!だった時 >>616 師匠の信長に鍛えられまくっていたからなw
機動力を誇った織田軍団の最精鋭が秀吉と光秀
両者の激突は歴史の必然だったな んなこたー無い
江戸期通じて上方の方が文化力経済力は高いし明治は当初予定の大阪が首都なら江戸の壊滅は確定的
昭和だって高度成長までは東京は大阪の経済力を抜けてない >>722
信長のムチャ振りがいかに凄かったかってことだよな
全国の諸大名が秀吉にあっけなくやられるんだもん
対抗できたのは同じムチャ振りについていけた家康だけ >>666
「キリシタン弾圧した秀吉がキリシタン大名を信用していた」は普通はあり得んやろ
そうだというなら特別な根拠を示す必要があると思う
また「西軍で頑張って戦ったやつは豊臣家忠臣」も明確な間違いやろ
西軍で頑張って戦ったけど島津は秀吉に逆らった前科があるし、
小西だって秀吉の伴天連追放令に逆らって宣教師を匿ったという
それにそうだったら「東軍についたやつ」「西軍で頑張らなかったやつ」は
「豊臣家の不忠者」になるが、朝鮮への国替え予定勢の
毛利、黒田、加藤、福島は見事に該当するではないか
それに忠誠心だけではなく謀反可能性も秀吉は考えていただろう
伊達のように忠誠心が低くても都から遠くて、都の安全上のリスクが低いやつらは
朝鮮への国替えを計画していない
>>705
肯定にも反論にもなってないことを言い出さないでほしいわー よく260年先に毛利や島津にやられたことがネタにされるが、天皇の権威があってこそだからな
家康は幕府が滅びるとしたら、それは天皇だって予期して、天皇シンパの水戸藩を作った
最後の将軍が天皇大好き水戸藩出身だから内戦があっけなく終わったんだわ
ここまで先を構想してるのが家康の凄さなんだわ
ガチの現人神と言っても過言ではない 全国都市圏別GDPランキング
https://multipedia.jp/metroarea-ranking-japan/
1 東京 157兆8196億
2 大阪 45兆3625億
3 名古屋 22兆4971億
4 京都 10兆1173億
5 福岡 8兆9223億
6 神戸 8兆4272億
7 札幌 7兆4385億
8 岡山 5兆5389億
9 仙台 5兆4142億
10 広島 5兆3849億
11 前橋 5兆2516億
12 北九州 4兆8888億
13 浜松 4兆7628億
14 宇都宮 4兆4535億
15 富山 4兆3421億
16 静岡 4兆0238億
17 新潟 3兆8047億 まあ結局天才的ではあったが自身もワンマンだった秀吉の組織じゃあ勝負にならないんだよなあ
秀吉と接触した西の大名は哀れだよ、島津だけ戦術で戦略をひっくり返すよく分からない事して逃げ切って幕末でリベンジしたけど イエズス会の「1599~1601年 日本諸国記」によると
小西行長、石田三成は豊臣家の忠臣で
豊臣家を追い落とそうとする家康に対して「反内府様同盟」を作ったという
また「反内府様同盟」の張本人の1人である安国寺恵境が
毛利輝元を操っていたという
また「イエズス会 1599年度年報」によると
五大老の権力が大きすぎるのを恐れた秀吉が
自らの寵臣を五奉行にしたという
つまり五大老は秀吉に忠臣と見なされてなかったらしい
西軍は「豊臣家忠臣+反徳川勢力の反家康同盟」といった所だったみたいだな >>730
割と倒幕運動初期から水戸、尾張、越前、備前など
徳川家出身者が藩主の藩が加わってたのを知らないのかな?
徳川本家vs薩長+徳川分家みたいな構図だよ
「徳川家へのリベンジ」だったら、そんな構図にはならない >>490
あんなのウソばっかだし、たまに混じってる事実も
情報通は既に知ってる後手の情報だからかなw
とマジレス この戦の解説作品は
・ ドリフターズ (平野耕太) 第81話
・センゴク宮下英樹「大乱 関ヶ原」 ※新連載 >>712
信長こそ全然だろ。信長の人生知らないの?
常に裏切られ続けて裏切ったやつを殺し続けて最後に明智光秀に捲られて完 >>713
徳川政権はなくなったけど徳川家は続いてるぞ >>713
大政奉還によって幕府は終わったけど
徳川慶喜は駿河の大名70万石として廃藩置県まで大名だったし、その後も貴族院に所属して上級生活を謳歌してるよ。大正時代の76歳没 やっぱりトヨタと徳川は姻戚あるんじゃないかな
政界進出して民主制廃止あるで >>666
秀吉は謀反人を朝鮮に追放したいのであって朝鮮出兵のみでは微妙なんだよ
以下のように朝鮮への国替え予定勢は
秀次派、キリシタン、関ヶ原東軍、秀吉九州攻めの反秀吉方で
豊臣に逆らった、将来逆らう、逆らう不安要素がある大名がほとんど
・朝鮮への国替え予定勢(土佐国蠧簡集、組屋文章、フロイス日本史)より
毛利輝元…秀次派。西軍だが東軍と戦わず
小早川隆景…秀次派。関ケ原前に死亡。
福島正則…東軍
毛利吉成…西軍
宇喜多秀家…西軍
黒田長政…東軍。キリシタン
加藤清正…東軍
小西行長…西軍。キリシタン
長宗我部元親…関ケ原前に死亡
島津義弘…西軍。秀吉九州攻めの反秀吉方
大友吉統…元キリシタン大名。西軍
有馬晴信…キリシタン大名。東軍 もう一つ重要な点として秀吉が忠臣とみなした
五奉行に朝鮮への国替え勢がいないということ
やはり忠臣は朝鮮に追放されないみたいだな 石田三成が首謀者って言ってる研究者も今はほとんどいないんじゃないか
勿論西軍の中心メンバーの一人ではあるけど
佐和山に蟄居処分されて失職中の三成が単独で自由に動き回れるとも思えんし、
通説で言われる上杉との東西挟撃作戦の密謀が事前に交わされてたのも、
真田家文書にある三成と真田昌幸のやり取りで既に否定されてる
7月12日 毛利輝元に対して前田玄以・長束正家・増田長盛から、大坂の仕置について
意見を伺いたいとして上洛要請の連署状が大坂から発せられる
同月15日 三奉行連署状広島到着&輝元広島出発
同月19日 輝元大坂城入城
大坂城入城までの異常なスピード見ても、輝元が事前に上洛の準備してたのは明らかでこの4人が西軍の首謀者だな >>655
ワイもそう思う
統率だけ優れる人らが勝っても、権力を使ってやることが
間違ってたら国がどこへも行かないのは
この25年ぐらいではっきり分かってる
こんな時勢になんで大河で家康なのか
幕末とかやったら明らかな扇動になるから言って
逃げを打ったからとしか 見てない人からお金を取るなよ 09/18 18時25壺 >>743
幕末の尊攘テロリストは結局日本を滅ぼしたじゃん
徳川から政権盗んでたった70年で 徳川から豊臣秀頼に嫁いだ千姫は、
幼い自分を嫁がせておいて
関ケ原と大阪城で豊臣と戦った父と祖父に激おこだったらしいねw
夏の陣の頃は18歳くらいで秀頼とラブラブだったらしい >>743
大河と言えば昭和天皇が死んだから
太平記がやれるようになった説もあるみたいだな
戦前教育では足利尊氏は逆賊の大悪党扱いだったみたいだからな
それにしてもやはり家康が読書好きだったから
江戸時代になったら武士もよく学問するようになったのかな
まぁでも江戸時代の身分制度とかは支配層的な思想だし
やはり日本は明治維新で近代化する必要もあったか 藩閥政治はほぼパーフェクトだろ
日清日露戦争日英同盟日米英露仏協商
常任理事国
人口爆増の勢いも明治から平成まで落ちてない
ここから負ける議会制官僚制がオカシイ >>742
以下によると西軍首脳で処刑される3人(三成、安国寺、小西)の内、
三成が最も重罪なので引き回しの先頭になったという
イエズス会「1599~1601年 日本諸国記」
(石田)治部少輔はもっとも重罪で、同盟の張本人というので先頭、
仏僧安国寺は真ん中、後尾にドン・アゴスチイノがいた。 >>736
あんだけ急拡大して関わる人間が多くなれば裏切りは避けられないんだけど、フロイスが他の大名は家臣がやんややんやと騒いでるのに、信長の家臣はみんな静粛に聴いてるって驚いてるからな
それだけ信長の感覚が進んでて逆らえる余地がなかった。現代の感覚ですら古さを感じないどころか追いついてない部分もあるからな
秀吉も家康も汚い工作しまくったけど、信長存命中は
織田家に対して一切そういうことはやらなかったからな
いかに信長を畏怖していたかという証明でしかない >>743
大河なんてもう痴呆のジジイババアしか見てねえよ >>751
秀吉は上杉攻めの時に信長の命令を違反して勝手に自軍を引き上げとるよ
(謹慎処分ですんだ)
家康もなんか反抗したエピソードはあったと思う >>753
あれは勝家への反抗や
勝家が頭悪すぎるからキレて帰る
賤ヶ岳の伏線やな
でも信長に成敗されるの怖いから
わざと酒宴でドンチャンやって頭悪い猿です演技して
信長の怒り鎮めようとしとる >>750
宣教師は内実までは知らんし三成が乱の首謀者だと勘違いしてもしゃーない
石田、小西、安国寺も西軍首脳であることは事実だし
東軍諸将の書状見ても謀叛発生の初期段階では石田、大谷、毛利の謀叛としか言ってない
そういう噂を聞けば宣教師たちも張本人だと思ってもおかしい話ではないしな
7月16日付堅田元慶宛蜂須賀家政書状
「仍今度石治・大刑逆意、無是非存候」
7月21日付家臣宛細川忠興書状
「石治部・輝元申談色立候由、上方ゟ内府へ追々御注進候」
7月27日付秋田実季宛榊原康政書状
「然者於上方石治少・大刑少別心仕ニ付而」
毛利は関ヶ原合戦の前日9月14日に領地安堵(実際は減封)の起請文を交わしてるし、戦後大坂城も素直に明け渡してるし輝元の命までは奪えない
となれば誰かに責任取らせないといけない
下記のように家康は宇喜多と島津もわざわざ名指しで捕えるよう田中吉政に伝えてる
家康は本来ならこの二人も斬る算段だったと思われる
そしてこの書状では小西を捕らえたことも書かれてるな
9月19日付田中吉政宛村越茂助書状
「仍而備前中納言(宇喜多秀家)・治部少輔(石田三成)・嶋津(義弘)如何様ニも御才覚候て、
御さかし出被成候へと被申候、小西をハ美濃山中ゟ搦取参候」 >>750
追記で各書状の簡単な現代語訳も
7月16日付堅田元慶(毛利輝元家臣)宛蜂須賀家政書状
「仍今度石治・大刑逆意、無是非存候」
さて今度石田三成と大谷吉継が逆意を表したことはどうしようもないことです。
7月21日付家臣宛細川忠興書状
「石治部・輝元申談色立候由、上方ゟ内府へ追々御注進候」
石田三成・毛利輝元が相談して謀叛に及んだそうだ。上方より家康へ次々と注進が届いている。
7月27日付秋田実季宛榊原康政書状
「然者於上方石治少・大刑少別心仕ニ付而」
上方で石田三成・大谷吉継が謀叛した件ですが…
9月19日付田中吉政宛村越茂助書状
「仍而備前中納言・治部少輔・嶋津如何様ニも御才覚候て、
御さかし出被成候へと被申候、小西をハ美濃山中ゟ搦取参候」
さて宇喜多秀家・石田三成・島津義弘をどのような手立てを使ってでも探し出せとの家康様のご命令です。
小西は既に美濃山中で捕らえました。 フロイス日本史からすると
秀吉は秀次派の大名を朝鮮に追放したかったらしい
秀次派だった毛利・小早川が土佐国蠧簡集の朝鮮への国替えリストに
入ってることも、それを支持している
フロイスの1595年年報には秀次の朝鮮出兵を促す秀吉に対して
秀次は「太閤は俺を日本から追放する気だな」と考えていたように書いてある
フロイスはこれが秀次切腹事件の原因の一つとしてる
文禄の役後に秀次が死ぬことになったタイミングと整合性は取れている
「日本吉利支丹史鈔」より「関白殿薨去の報知」(ルイス・フロイス一五九五年年報)
>朝鮮征伐の間に、太閤様は二度までも関白殿をして出陣せしむるに定め、其準備をば促したり…そを以て是れぞ明に、己をこの國より追ふ計画なりと猜し >>755
その中のどの書状も三成の名前が先頭に来ていて
引き回しの時同様、首謀者扱いしてるようにしか見えないが…?
むしろあなたの見解を否定する材料ではないか?
これらが誤解だといえる根拠の方が分からん >>742
以下によると輝元は安国寺に操られていたようにある
輝元がやったからといって、輝元自発の意思だったかは微妙な所なんだよ
(輝元の責任回避のために安国寺を犠牲にしたとも言われている)
イエズス会「1599~1601年 日本諸国記」
安国寺(恵瓊)[仏僧で、九カ国の国主毛利(輝元)殿が父のように敬愛し、
その助言によってすべてを治めており、反内府様同盟の張本人であった >>758
三成が首謀者ではないとする根拠は>>742に書いた通り
それで東軍諸将も当初は三成が首謀者だと思ってたのはさっき挙げた書状類
一次史料上で三成が動き始めるのが確認できるのは7月30日以降
それまでは大坂にもいないし動向が不明なのにそれで首謀者だとは言うのは難しい
それに対して三奉行は輝元に上洛要請し、輝元は早々に大坂城を占拠してることが一次史料で確認できる
輝元がどう行動したかを見るべきであって、輝元が誰かに操られてたとかは些細な問題だな
8月17日付吉川広家宛黒田長政書状でも毛利を味方に付けるため、この騒ぎを安国寺一人の責任にしようとしてるが、
輝元は家康の留守居追い出して大坂城占拠してるし、家康も輝元が首謀者だったことは十分承知してたはず
味方に付けるために目をつぶっただけ
さっき書かなかったことも補足したが、これで分かってもらえないならもうあなたと話すことはないな
宣教師の史料妄信するのもいいけどもう少し他の史料にも目を通した方がいいよ >>726
>「キリシタン弾圧した秀吉がキリシタン大名を信用していた」は普通はあり得んやろ
>そうだというなら特別な根拠を示す必要があると思う
論理が支離滅裂だなw
思い込みじゃなくて実際の歴史の方を見とけ。
そっちが最初に
「キリシタン弾圧をする秀吉にとっては信用できないやつらだから」
「秀吉の人を見る目は確かで後に東軍入りする不忠者だから」
加藤・福島を朝鮮送りにしたと書いてんだろ。.
現実には西軍入りして敗死するまで
忠誠を尽くしたり、いい働きしたのも多いし親族レベルのものも送ってるから、
「実際に東軍に入った不忠者云々」も根拠として崩れてるわけ。
東軍の主戦力となるような連中はむしろ温存されてる。
勢力を削ぐならどうみても遠い関係の方を送る方が合致するわな。
むしろ「子飼いの方に手柄を立てさせる」のを優先した結果だな。 >>732
外野はこの程度の歴史理解力だからw
薩摩が何故?徳川の反対勢力に回ったのは
それは将軍家を継ぐことを許されていなかった
徳川御三家の中で最も格下水戸徳川の慶喜が
幕府の重臣達の猛反対を押し切って将軍家に継いでから
幕府内おろか時代情勢まで完全おかしくなって行き
親徳川家だった西郷隆盛は鳥羽伏見の戦いでは
徳川幕府軍として薩摩藩を指揮し反徳川側と戦った
しかし水戸徳川の慶喜が無理矢理、将軍家を乗っ取り
徳川幕府を水戸慶喜が好き放題にし始めたことから
薩摩藩率いる西郷隆盛も長州藩側に付いた歴史があるからね
ググって調べればわかるよ >>761
同意
黒田、加藤、小西なんかも信頼してたからこそ島津征伐の後唐入りに備えて九州に配置したと考える方が自然なことだしな
譜代の家臣がいない秀吉にとって子飼いに手柄立てさせて加増することは当然なこと
戦力を削ぐためなら徳川は何をおいてもまず渡海させきゃおかしいしな
フロイスの記述って主観が入り過ぎてて陰謀論みたいになってる箇所も多いから全面的には信用ならん >>764
訂正
☓ 鳥羽伏見の戦い
○ 禁門の変 >>747
でも秀頼の子供を産んだのは側室達だけどな
ラブラブというより幼少の頃から知っていた親戚の子というような感じかと >>768
確かに西郷隆盛が崇拝した島津斉彬は
親密だった一橋を幕政場面で推したけど
斉彬が急逝し水戸の慶喜が将軍家を継ぐと
鎖国日本に黒船来航など世界情勢上、重要な局面で
慶喜の将軍就任以来、優柔不断な性格からして
米国との圧倒的日本不利な不平等条約などの
課題を処理しきれず欧米諸国の軍事力を用いた
植民地支配の猛威が東アジア諸国に手が伸びはじめ
慶喜の出鱈目な性格では荒波を乗り越えられないとして
薩摩藩率いる西郷隆盛は幕府を見切った経緯があるからね ボケ老人の長文糞レスの連投率は異常。
誰も全文なんて読まないし、連投してる時点で即NG行きだけどな >>740
これを見るとつくづく家康に手出しできなかったのかと
石川数正を出奔させはしたが 特に隙を見せた形跡はないし
関ヶ原の戦後処理で石高削減 大坂冬・夏の陣で滅ぼされたし 歴史ビジネス物は実際の事わからないから自分の主張に合わせて書いてんだろ。 >>772
秀吉は出自が低すぎるのとルックスが最悪なのとで、
諸大名から心からの尊敬や畏怖の気持ちを得られていない
今はこんな土民のネズミに従ってるけど自分ちの方代々名家だし・・・
とみんな面従腹背で、当然人の心に敏感な人垂らし秀吉は
そんな諸大名の心理を痛いほど分かってる
その面従腹背勢力の筆頭者が家康だっただけ
家康を仮に粛正したところで、次の面従腹背の首領が出てくるだけ
伊達か上杉か島津かは分からないけど
家康1人をどうにかすればよいという問題ではないから、
結局放置せざるを得なかった 有力大名からの若い娘狩り
自分が自由に出来る子飼いの武将や親戚、民衆に対する残酷な処刑
この辺は信長や家康にはなかった部分
武家としての修養がなく、本能のまま権勢欲を振りかざしてしまう部分は
その出自の卑さが現れてしまったというしかないけど
秀吉は隠せていると思っているようで隠せていないそういう部分が
白眼視されていることを分かっていたと思う
だから懐の深い大君を演じようとして家康他の
自分が死んだら裏切るんじゃないかという相手にも
機嫌を取って「イヤイヤこいつらは信用出来るヤツらなんだ」と
自分に思い込ませるしかなかった >>774-775
ノブナガは家康の身内を
メチャクチャな理由で切腹命じてなかったか?
最後は自業自得で終わったけど >>776
信康&築山殿粛正は徳川家内の権力闘争だったというのが定説になりつつある
秀吉は統治者として極めて有能な才覚があったのはいうまでもない
惜しむべきは、2点
信長が横死しない世の中でNo.2として働くべきだった
あるいは、朝鮮出兵という国力浪費をすべきでなかった
どちらかが出来ていればと本当に残念 >>777
何か聞いた話と違うw>徳川家内の権力闘争
あと朝鮮出兵は当時の世界史で見ると
日本に漂流したスペイン宣教師団を助けたら
フィリピン・ルソンから日本植民地を狙ってたので、
それをさせまいと大陸へ打って出たに過ぎん、
朝鮮は単に通り道、狙いは明(スペインに先に取られないため)
サン=フェリペ号事件か
海外の「日本王国記」にも記されてるので、
日本植民地計画は、ほぼ事実と思ってもらっていい >>23
毛利方は前日に人質出して降伏に等しい和睦を東軍としてる
それがなければ家康が直接毛利軍を叩くつもりだった >>777
海外出兵なしに大名の過剰軍備どうするの? >>760
>一次史料上で三成が動き始めるのが確認できるのは7月30日以降
>8月17日付吉川広家宛黒田長政書状でも毛利を味方に付けるため、この騒ぎを安国寺一人の責任にしようとしてるが、
それは違うやろ
七月十四日付榊原康政宛吉川広家書状で
広家が「輝元は何も知らないの!三成・大谷・安国寺のやつらが
勝手にやったの!」的なことを書いてるので、すでに三成は動いてたし、
安国寺の責任とするのも徳川方が言い出したことではないらしい 茶坊主・吉川はそんなことしてたんだ
西軍総大将の毛利は無能扱いされてたが、側近が割と優秀なんか、
徳川の調略は知ってたけど総大将まで楼閣するとは
でも、西軍にも肩入れしてた手紙が大阪城で見つかったとかあるが >>761
>740参照
秀吉が朝鮮への国替えしようとした大名は
ほとんど豊臣に逆らったか、将来逆らうか、逆らう不安要素がある
>>757も参照
秀次も秀吉の朝鮮送りリスト入りしている
あなたの考えでは文禄の役後、秀次が死んだ理由の説明がつかない
秀吉は謀反人秀次を朝鮮に追放しようとして失敗したから殺さざるを得なくなったんだ >>775
信長 家康も 信行 信康の殺害 一向一揆の弾圧という形で見られたが
有力大名からの若い娘狩りは秀吉自身の出自の負い目を晴らす意味合いかも >>765
組屋文書によると「輝元が朝鮮への国替えを断った」ようにある
かつて秀吉が国替えを断った信雄を改易したようなことは
毛利に対してはできなくなっていたらしい
毛利に対してできないなら、徳川にもできないだろうな
しかし徳川は朝鮮への国替えの計画もなかったんだから
秀次と結託し、領地が大阪に近い毛利の方が脅威と見ていたんだろう
家康は関東に追いやっただけで満足したんだろう
毛利が二度も朝鮮に出兵させられたのに、徳川は出兵しなかったり
秀吉晩年の大阪城が西側の防御を強化したり、
関ケ原西軍が関東まで攻め込もうとしなかったのも、それを支持している 広家の主張する「輝元は何も知らない」は極めて嘘臭い
7月14日時点で何も知らない輝元が
7月15日に素早く広島を出発したり、
7月19日の大阪城入城の際に6万もの兵力があるはずがない
だが7月12日付の三奉行が輝元を大阪に呼ぶ書状によると
「安国寺が説明します」とあり、
「輝元より安国寺の方が計画に詳しい」という話が
徳川方への弁解の場以外でもある
イエズス会の言う通り「安国寺が計画作成で輝元をリードしていた」は事実らしい >>783
だから論理がめちゃくちゃ。
そんなら身内を送る必要なく東軍主力だった連中を送らないといけないし、
願いです最後に最後まで尽くした連中を送るのもおかしい。
余剰地に乏しい国内より、身内に手柄を立てさせて領地を持たせるためだよ。
だからこそ身内や子飼連中を優先して関係の薄い連中はあまりやらせてない。
むしろ外地領土のリソースで力を蓄えさせて国内の将来対立勢力となるのへの抑えとして考えてたのかもしれない >>653
家康は幕府以降に譜代家臣を粛清してるもんな
徹底してるわな
秀吉は>>153のようにちょっと甘い
国内の危険因子を叩き潰せてない 切支丹は東軍西軍中立どこにもいるから
宗教じゃ分けられないよな。
しかし戦争中の一番ひどい寝返りとか妨害の
小早川、脇坂、朽木、赤座、小川、吉川に切支丹はゼロ。
切支丹連中は一応去就定めてからはそれなりにやってる。
秀吉が豊臣の名乗り許してた小西はガチで豊臣のために戦ってるから
そこは秀吉の信頼の目は確かだったってことだな。
戦だ名を上げた明石全登も切支丹。
宗教的な帰属を、安易に現実の政治的なまとまりみたいに勘違いすると誤った歴史の見方になるわな。 >>788
徳川の譜代潰しは代替わりした秀忠家光の頃だよ
秀吉は一代で全部こなさなきゃならんかったから難易度が段違い
だからと言ってやらなきゃ足利の二の舞いだしな 徳川四天王、井伊直正とか、
本田忠勝とか粛正されてんの? 歴史に関して蘊蓄を語っている御仁がいらっしゃるがそんな糞知識を国民の何%が理解していると思っているのかな?
明治維新の最大の原動力は薩摩(島津藩)
その協力者が長州・土佐・鍋島・福井だよ
徳川家が残った?それは「名」で「実」は西郷や大久保の末裔と同じ >>792
その理屈だと西郷がどうとか大久保利通がどうとかも糞知識になるんだが >>791
家康は遠ざけるだけで基本殺したりはしない
そこが巧いんだよ
俺の近くで見守ってくれとか言って禄を思いっきり減らしたりな
旗本制度とか最たるものだけど
人によっては遠ざけられたとすら気づかない二枚舌
古参は古参でもう隠居だからいいかみたいな >>794
本人は別に失脚させられてなくて
功労者の家臣が死亡して代替わりの時に改易のケースも多いしな >>781
誰が徳川方が言い出したなんて言った?
吉川が黒田を通して家康に安国寺の独断でやったことだと説明してそれを家康が了承したって内容だぞ
8月17日付書状の該当部分載せるから自分で読んでみろ
「随而今度之一義、輝元義ハ被成御存知間敷候、安国寺一人之才覚と内府公も被思召候、
然上者、輝元へ御内儀能々被仰入、内府公御入魂ニ成候様尓、御才覚専用ニ存候」
7月14日付榊原康政宛吉川広家書状は内容も勿論知ってるけど取り扱いが難しい文書なんだよ
同様の内容で7月13日付榊原康政・本多正信・永井直勝宛益田元祥・熊谷元直・宍戸元次連署状もある
どちらも吉川家文書に伝来してるもの
毛利氏研究の第一人者光成準治は、関ヶ原後に吉川や上記の益田ら毛利重臣が自己弁護のために上記文書を偽造した可能性を指摘してる
ただ安国寺が輝元の了承を得た上で、石田や大谷と談合した証拠を吉川に何らかの形で示した可能性も同時に指摘している
後者なら談合は事実ということになるので石田は既に動き始めていたと言えるな
個人的には書状の内容が安国寺一人に責任を被せたものだし、当該書状は宛先の榊原家でなく吉川家文書に伝来しており、
榊原には出されなかった事実を鑑みても吉川の自己弁護による関ヶ原以降に作成された偽造文書ではないかと思い、
談合の事実はなかったと見て確実に書状の発給や奉行として連署状に連署して動いてるのが明らかな7月30日以降と書いた
別に7月14日付書状の原文載せるから後は自分で判断してくれ
どこから持ってきたか知らんけど、断片的に知り得た情報で適当につっこまれるのも困りもんだわ
申し訳ないがもうあんたにレスは返さないんで悪しからず >>781
(慶長5年)7月14日付榊原康政宛吉川広家書状の原文
去五日雲州罷立、至播州明石罷着候處、安国寺於江州石治少・大形少手前見及子細候哉、
大坂罷帰候て、我等事も可相抧由申候条、昨日罷着候、然者右御両所御企承、驚入存候、
殊更安国寺自輝元被呼帰候様申廻候段、無是非次㐧ニ候、於輝元ハ、前後存間敷与不審ニ存斗候、
爰元之様子留守居之者共至廣嶋ニ申遣候、頓而可有到来候間、追々可申上候、此由御心得所仰候、恐惶謹言、 >>784
秀吉は草創期からの家臣だった神子田や尾藤を惨殺した
それは信長や家康が自身の権力を守るために行ったライバルの殺害とは違い
既に領地を奪っていた彼らに対してする必要がなかった処置
家康が譜代を遠ざけたとか謹慎させたというレベルではない
そして秀吉は子飼いではない外様に対してはそこまでのことはやっていない
相手を選んで、その嗜虐性が発揮されたということ
秀次事件ももちろんだけど、こういう
「感情の赴くままやりたいようにやり過ぎた」部分が
後の加藤や福島の離反を招いたと考えていいと思う
身内からも信用されていなかった
姫狩りについては、自身の出自への負い目に対してなら
自分の親戚の若い連中に宛がって縁戚強化すれば良かったのに
50の爺さんが自分のために差し出させたんだから言い訳は出来ない
前田利家にしたって、うら若い摩阿姫を老境に入った秀吉のところに
行かせたくなかっただろうし
それが後の家康への臣従に繋がった面もあると思う >>798
後半の部分はそもそも手札として使える親類が秀吉は少ないんだからどうしようもない
自分の”息子”ですらかき集めた養子ばっかり >>787
秀次が謀反を考えていたなら、明確な謀反計画がない家康より
対処する優先順位が上でもおかしくはないやろ
ましてや秀次と毛利・小早川が結託したら相当な脅威だろう
東軍主力って誰のことなんだ?
家康のことなら、関東地方に追放したやろ
むしろ秀吉が「家康が関東から大阪に攻め込んでくる!」と
恐れていた根拠はどこにあるのか?
家康とほぼ同じ領地を持っていた北条氏を
秀吉は脅威と見てなかったようだし
当時的には関東から大軍が来て
近畿を制圧するのは非現実的にみられてたんだろう
それは関ケ原西軍が関東に攻め込もうとしなかった
=「近畿の守りを固めれば家康が関東に健在でも安全」と
考えていたらしいことでも明らかだ >>789
たとえ西軍=キリシタンに厳しい豊臣氏寄りの勢力が勝とうと
負ける方を支持するわけにもいかんやろ
キリシタンが東西に分かれたのは単にどっちが勝つかわからなかっただけで
秀吉がキリシタンに厳しかったことと直接は関係あるまい あたかも見たことあるような事言ってるけど実際はどうだったか誰もわからんだろ
すげえぎりぎりで勝ったのを盛ってるだけかもしれんし >>620
鏡と剣は三輪の王の神宝であり
伊勢に遠ざけれた
三河こそ日本の中央である
日本の最初の王(事代主?ニギハヤヒ?)は三河国出身である
三河県豊橋市石巻小野田の石巻山は三輪山の奥院であると大神神社の社伝に書いてある
昔は石巻山を神山(ミワヤマ)と呼んでいて、そこから三輪山になったらしい
纒向遺跡の東海色はよく知られているが、纒向は追い出されたが、時代を下り源頼朝、足利尊氏、徳川家康と三河は関東関西を圧倒したんだよ
グーグルマップで見るとよく分かるが、大神神社の鳥居と拝殿は三輪山の正面に向いていない、三輪山の南側にズレている
実は三輪山の奥院、三河の神山(石巻山)に向いているわけだな >>796
>760の「8月17日付吉川広家宛黒田長政書状でも毛利を味方に付けるため、
この騒ぎを安国寺一人の責任にしようとしてる」
の主語が「徳川方」じゃないならなんなんだ?
「毛利方である広家が毛利を味方につけるために安国寺1人の責任にしようとしている」では
おかしいだろ?
吉川家文書由来の書状が安国寺へ責任転嫁するような捏造があると疑うなら
8月17日付書状も吉川家文書らしいし、疑うべきやろ 後知恵の弊害が酷い印象
今の我々は関東の家康が天下を取れる軍事力があったことを知ってるが
当時の人たちは関東の大名が天下を取れると思ってなかった
それは鎌倉政権という古の伝説の政権しかできてないことだった
中央の覇権に関われるのは応仁の乱の大内氏や信長のように
東海、中国までくらいが限界のように見られていたみたいだ
秀吉が尾張の秀次や中国の毛利への対策は必死にしていて
家康は関東に追いやるだけで満足したのはそういうことだろう >>793
何言ってんのかな
徳川家で偉かったのは家康
西郷家では隆盛
大久保家では利通
それだけ 大島栄城だが、俺が徳川家康の茶坊主、黒衣の禅僧の小説読んでると
家康がスケベ坊主の子供とか言い出す奴ってなに考えてる
俺の所為で歴史が変わるんかね >>803
ヤマト政権はやっぱり三河政権だよね
古代から現代まで三河中心に時代は回っている その三河がどうとか言うのも、俺が神戸で乗ってた
オートバイの番号3681からきてるだけなんでは 徳川の鎖国で帝国時代にギリ乗り遅れそうなったし
トヨタも下請け延命でハケンだのグエンだの使って
日本を貧乏にしてしまったし
三河が偉そうしだすと日本はろくなことないね
安土桃山・大正・エレクトロニクス時代の大阪が栄えてたころが
日本の栄光の時代やな。
その後トンキンが横取りして廃墟までいってしまうね >>810
派遣だとか貧乏とか、何の話
自力本願の権化たる三河人は独力で勝ち組だが、他力本願の田舎者は三河様の御指導が無いと、衰退をみているだけ、としか読み取れないが
平成22年度生活保護率(主要自治体)
5.30% 大阪市 141,026人
4.33% 函館市 12,187人
3.74% 東大阪市 18,892人、3.63% 旭川市 12,690人、3.37% 尼崎市 15,604人、3.31% 高知市 11,380人、3.28% 札幌市 62,531人
2.94% 京都市 43,118人、2.88% 神戸市 44,225人、2.74% 堺市 22,960人、2.65% 長崎市 11,762人、2.64% 青森市 7,962人、2.46% 福岡市 35,761人
2.26% 鹿児島市 13,700人、2.09% 北九州市 20,559人、2.06% 松山市 10,646人、2.04% 和歌山市 7,547人、2.03% 川崎市 28,571人、2.02% 広島市 23,633人
1.93% 奈良市 7,044人、1.75% 名古屋市 39,501人、1.75% 熊本市 12,792人、1.75% 宮崎市 6,970人、1.65% 横浜市 60,488人、1.62% 大分市 7,618人
1.62% 久留米市 4,914人、1.60% 千葉市 15,315人、1.59% 岡山市 11,195人、1.55% 福山市 7,162人、1.53% 盛岡市 4,571人、1.53% 下関市 4,313人
1.53% 秋田市 4,975人、1.52% 高松市 6,355人、1.44% 仙台市 14,883人、1.40% 船橋市 8,389人、1.39% 宇都宮市 7,065人、1.38% 西宮市 6,646人
1.36% 相模原市 9,710人、1.34% 倉敷市 6,355人、1.33% 高槻市 4,705人、1.28% 岐阜市 5,247人、1.28% いわき市 4,406人、1.24% 姫路市 6,641人
1.24% さいたま市 14,977人、1.19% 新潟市 9,641人、1.10% 川越市 3,739人、1.09% 大津市 3,633人、1.08% 横須賀市 4,519人、
0.96% 前橋市 3,241人
0.94% 静岡市 6,713人
0.89% 郡山市 3,029人
0.79% 柏市 3,152人
0.77% 浜松市 6,276人
0.75% 金沢市 3,436人
0.63% 長野市 2,408人
0.60% 三河県豊橋市 2,278人
0.54% 三河県豊田市 2,287人
0.46% 三河県岡崎市 1,734人 >>810
大阪は結構だが、猿吉時代など短いんだよ
江戸期260年渡る三河様の恩を忘れるなよ
大阪都市計画の父、道頓堀の名付け親
松平忠明(徳川家康の孫)
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E5%B9%B3%E5%BF%A0%E6%98%8E
東京 徳川家康
大阪 松平忠明(徳川家康の孫、三河県新城市)
横浜 岩瀬忠震(三河県新城市)
パゴヤ村 徳川家康
どいつもこいつも、他力本願の田舎者 三献の茶や島左近、大谷吉継への配慮が出来たんだから清正なんかも手玉に取ればよかったのに >>769
西郷隆盛のことを「心から尊敬する素晴らしい豪傑の人であった。」と
渋沢栄一がまだ若い時、気心が通じ東京の西郷宅へ何度か訪問して
鍋を二人でつつきながら治国平天下について語り合ったことなど
西郷隆盛を渋沢は実業家として大成したのち思い出しながらこう評したらしい
勝海舟の慧眼を持ってしても慶喜という人間を将軍職以前に快く思ってなかった
慶喜の徳川幕府が終止符を打った後は勝海舟さん徳川宗家の為に身を粉にして動いたし >>790
徳川家康の凄いところ稀有な深謀遠慮の持ち主
関ヶ原の戦いでは豊臣秀吉の親衛隊で親族の加藤清正や福島正則までも
家康には赤子の様に手の平で転がされ上、まんまと徳川軍側に付かされ
豊臣家衰退の道へ開いたキッカケを作ったのを皮切りに
大坂の陣では絶大な権力を得た徳川怖しで指を咥えて傍観するしかなかった
それでも徳川家に従順していれば、お家取り潰しや改易も免れ
大名家として相応の生活が子孫にも約束される腹積もりだったんだろうけど
家康には最初から加藤家や福島家などは存続される腹積もりは毛頭なく
難癖を付けお家改易する隙を子の秀忠や孫の家光までにも
徳川家康の思惑を何代かけても年月をかけても引き続きさせていたことでしょう 秀吉子飼いとされる七将・賤ケ岳七本槍は
以下のようにほとんど関ケ原で東軍だった
「子飼い大名は忠誠心が高い」というのは間違いやろ
福島正則 東軍
加藤清正 東軍
池田輝政 東軍
細川忠興 東軍
浅野幸長 東軍
加藤嘉明 東軍
黒田長政 東軍
脇坂安治 東軍に入りたかったが仕方なく西軍入りするが東軍に寝返る
片桐且元 西軍
平野長泰 東軍
糟屋武則 西軍
加藤嘉明 東軍 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています