【日本史】 なぜ徳川家康は関ヶ原の戦いで圧勝できたのか…「会議の空気を読む」が最重要のスキルと言えるワケ [朝一から閉店までφ★]
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2022/09/14 12:00
「やりたくない」とは言い出せない空気をつくりあげた
PRESIDENT Online
加来 耕三
歴史家、作家
自分の望み通りに相手を動かすには、どうすればいいのか。歴史家の加来耕三氏は「徳川家康は、関ヶ原の戦いの前に『自分につくか石田三成につくかは、各々で決めればいい』と言った。自分の意見を直接言わず、第三者をうまく使うことはときに大きな効果を生む」という――。
※本稿は、加来耕三『日本史を変えた偉人たちが教える 3秒で相手を動かす技術』(PHP研究所)の一部を再編集したものです。
https://president.jp/articles/-/61356
秀吉亡き後、ライバルを順番に蹴落としていった家康
小山評定とは、下野の小山(現・栃木県小山市)で開かれた会議のことです。
秀吉亡き後、家康は自己の地位を盤石なものにするために、ライバルたち――特に、自分と同じ五大老に任じられた人々を、蹴落としにかかります。
まず、前田利家の子で、利家が亡くなった後は五大老の一人に列せられていた利長に対して、謀叛の疑いがあるとして、前田家征伐の計画を立てます。利長は悩んだ末に、母親の芳春院(まつ)を家康に人質として差し出しました(これが参勤交代の発端となります)。
こうして前田家は、家康に屈したのでした。
次に家康がターゲットに定めたのが、やはり五大老の一人である会津(現・福島県会津地方)の上杉景勝でした。家康は、景勝にも謀叛の疑いがあるとして上洛を命じます。しかし、景勝はこれを拒否したため、家康は会津征伐を決意しました。
この会津征伐は、大義名分としては「豊臣家に対する叛逆者である景勝を成敗する」ということでしたから、家康の家臣だけではなく、家康は大老筆頭として豊臣恩顧の大名も数多く従えることができました。
総勢で6万9000もの大軍勢になった、といいます。
次ページ
https://president.jp/articles/-/61356?page=2 >>582
>文禄の役の一番隊は小西、大村、有馬などキリシタン大名が主力でしょ
>キリシタン弾圧をする秀吉にとっては信用できないやつらではないか
>秀吉の人を見る目は確かで後に東軍入りする
>不忠者である加藤・福島を朝鮮送りにしたのだ
全然違う。都合のいい所だけ取り上げてるだけ。
小西は西軍として最後まで奮戦してたし、他の一番隊の切支丹の宗も西軍として戦って伏見城攻撃で功績立ててる。
あと松浦なんかは切支丹じゃなかった。
動員には地理的な理由もあったろうが
メインに戦った連中は、どっちかつーと子飼いや古参、恩顧連中が中心だわな。むしろ手柄立てさせるためろ。
だから宇喜多から親族の秀勝まで参加したし戦後に豊臣政権にヒビ入る結果となった。
この理屈なら徳川関係者伊達最上なんかをもっと消耗させないとおかしいわ。
つーかそもそも秀秋を養子にして後継者レベルにしようとしてたのが秀吉。 東軍入りは三成らとの確執もあるんだからそれだけじゃ理由になんないよな。
日和見や寝返りも多かった中で西軍としてガチで奮戦した宇喜多、立花、小西とか
全部朝鮮送りされて激戦してるし。
関ヶ原でも西軍に入って豊臣のために尽くした連中だ。
大谷も後方寄りだったが朝鮮従軍して西軍の要だし、関ヶ原の島津は微妙な部分もあるが同じだ。 >>611
秀吉級の頭脳の武将がいたとしても、地位や手持ちの軍勢がいないと大したことできないよ 家康なんか秀吉に勝てなかったんだから大した武将じゃなかった。軍師に丸投げだったかもしれん。 幕僚の素性からして秀吉と家康はダンチ
千利休、小西、石田と経済・物流に通じた者たちを重用してるの見ても
兵站で戦争に勝とうとしていたのが分かる。
ローマ軍と周辺蛮族ぐらいの差がある 俺が知る限りで家康は4回やばい場面あった。
武田信玄からのうんこ漏らしながらの敗走、本能寺の変直後の伊賀越え、関ヶ原の島津軍突入、大阪夏の陣の真田幸村の突入。
他にやばい場面あった? お前ら、ここだけの話したろ。実は家康の戦い方は主に空爆だからだ。信じるか信じないかはアナタしだい!! >>671
島津の話は完全な創作
関ヶ原の戦いの家康の本陣は遥か後方に有り、主戦場にすら居ない >>671
表になってない暗殺未遂もたくさんありそうだな >>674
そうなの?それは鹿児島県人としては残念。
でもよく考えてみると本陣突撃までしてて、薩摩藩は罰なし石高も安泰だったって不自然だもんね。 >>671
合戦ではないが小牧・長久手の後の降参の上洛
あとは織田信秀に手渡される前の戸田氏の手元にいた頃 俺だったら朝鮮出兵などせず
全力で家康を潰していただろう >>671
三河一向一揆 信康事件
対応次第では危うかったのでは >>669
秀吉が家康に勝てなかったの間違いだろ
それまでほぼ全部電光石火で勝負決めてきたのに
家康に対しては睨み合うしかできなかったんだから 禅宗や浄土真宗とかで勢力区分けできないのと同じで
宗教じゃ区分けできないよな。
源氏平氏同士、一門同士だってやり合ってる時代だからな。 >>671
金ケ崎の殿
小牧長久手も総力戦で疲弊して、家康が背中にでき物ができて倒れてかなりやばかった
というか、織田との同盟時代は先陣やらされまくってたからいつ死んでもおかしくないっちゃおかしくない >>679
対応次第というか、三河一向一揆の時点で並の武将だったら下剋上起こされて終わりだろ
会社で言えば社員の半分が変な宗教に入って仕事さぼってスト起こすみたいな状況やぞ
薄っぺらいビジネス論より家康の対応策の方がよっぽど説得力がある >>683
背中のできものってエピソードって有名だけど出典がよく分からんな
一次史料ではない話だし恐らく軍記物とか後世の編纂物になるんだろうけど出典が気になるな 資料なくても予測できることだとは思う
秀吉との大戦で領国経営ボロボロになった上に
更に増強した兵力で押し込まれようとしてたわけで
普通はおかしくなって身体に異常をきたす >>686
まあ戦巧者との対峙だし神経使うからってのは理解できる
しかしまさかこのエピソードが何の史料にも残らず
口伝のみで現代まで広まったわけじゃないだろうし単純に出典が気になっただけだ >>685
あとあれやな
徳川史観で語れば、停戦した後も果敢に戦おうとした話にした方が都合がいいわけで、にも関わらずでき物の話が出るというのは、やはり事実に近いのではと思う ヒラコーのドリフターズで
スキピオが関ヶ原を解説してくれてたな >>684
ありがとう これにてやばい場面認定と言う事で… >>692
そうしとかないと豊臣恩顧の武将の活躍で楽勝でしたになっちまうからな
実際は福島や黒田が優秀すぎて徳川ほとんど何もしてないw 毛利のせいだよなw あの一族が本気になれば、西軍余裕で勝ってた。
総大将になるならやれ、やらんならなるなw 敗因というかね
徳川対豊臣にできなかった時点ではなから勝負ついとる
語るまでもない 島原の乱鎮圧にオランダは幕府に協力し、
キリシタン大名の有馬は貿易摩擦が原因でポルトガルと戦争を起こして
ポルトガルの対日貿易が一時途絶したとか宗教じゃ勢力分けられないよな。
結局区分けできるのは利害関係程度。 TBSの「関ヶ原」。
昭和のくそじじいにはよだれがでそうになるドラマ。 家康の大失敗は島津を徹底的に壊滅させなかった事だね
260年後、島津(薩摩)に滅ぼされた >>700
滅んでないしw
江戸時代長いからあと110年以内に徳川がもう一回政権獲れば再逆転やで 毛利って大将のくせにやる気なくて負けた自業自得のくせに、
生き延びさせてくれた恩も忘れて260年徳川を恨むとか、とんでもないやつだよな >>701
日本人の民度からして徳川政権復活あるで
トヨタと姻戚とかなってたらまじでアリアリ >648
朝鮮出兵を嫌がってた大名がいただけでは「秀吉の計画の朝鮮への国替えが謀反人追放」の根拠にならんやろ
フロイス・組屋文章のように国替えを嫌がってた大名とかが根拠やろ >>704
「秀吉の朝鮮への国替えが謀反人の追放」はあなたが支持してることでしょ
自分は全くそんなこと思ってないし
こちらの言い方も分かりにくかったかもしれんが、単に異国での加増に迷惑してるという組屋文書の話題が出たんで、
伊達政宗の書状でも現地で随分苦労して迷惑してる内容のものがあったと思い挙げただけだ >>671
大高城脱出、大樹寺包囲網。三河一向一揆、織田同盟以降の先鋒、殿および軍役。 >>656
それ
組織根幹のそこに関しては太古の昔から現代まで変わっていない 秀吉や家康の意見が通るのも基本は好感度よ
もちろん知謀策略もあるけど、やりすぎると嫌われて
四面楚歌だからな、飴も与えな
論だけでやろうとすると、山本太郎や立花や石原慎太郎みたいになるわけだ >>709
小早川は日和るどころか
前日に同じ西軍を攻めて勝手に松尾山占領したり
戦始まったら速攻で大谷軍壊滅させたり
東軍のMVP級の働きやで >>656
やりすぎると反乱分子が出て退職者が出まくったり、派閥ができるんだよなあ
だから昭和脳のトップはダメなんだよ
家康の凄かったところは、そういうのをちゃんと理解して、家康の決めたことは幹部の「自分が」決めたことと幹部に思わせるテクニックが巧かったところ
それでも中年ぐらいまでは部下に結構裏切られたりもしてるんだけどね というかこの記者も勘違いしてるけど
戦国時代って下剋上の世界だからな
俺の言うこと聞け!でまかり通ったのは信長だけだから
基本はトップのてめーの都合押しつけんな!面倒くさいことはてめーが責任取れ!でも給料上げろで、やらないんならじゃあ他の領主に鞍替えするか、トップに死んでもらって、子どもか親戚に替わってもらいますわって世界だからな
部下が言うこと聞かないのが基本だから
だからまとめられた戦国武将はカリスマ扱いされる >>701
頭大丈夫か?
明治維新は徳川(幕府)の壊滅・滅亡なんですけど
会津みたいに無駄な抵抗をした小大名もいたけどね 天井の電気照明から焼かれるから
借金して電子回路つけてしのいでるが
この攻撃て、徳川で名古屋なのか どうせ着地点の決まってる会議なんだから社内メールとかペラ1枚ですませろって話 >>713
支配層とは無縁の、物を知らない田舎者か?
長州の萩の地名が、三河由来で察しろ
三河の萩の南朝の末裔が、三河の大江氏に連れられ長州に移り住み、三河の萩を忘れない為に萩と名づけた
徳川と毛利は裏で繋がっていた
源頼朝の側近が大江広元だったように、徳川の側近の酒井は大江広元の五男の家系、萩氏庶流ではないか
家康が生まれた岡崎の平安時代の領主、高階惟長の嫁は大江広元の娘だった
明治維新とは江戸の三河武士から、長州の三河武士への国譲り
実は明治政府というは三河国宝飯郡萩に隠れ住んだ南朝落人の政権で、同じく南朝系を称した徳川政権から禅譲されただけ
譲られただけだからこそ江戸城は無血開城され、今までどおり東京が首都になった
事実上現代社会、徳川幕府は崩壊していない
酒井氏は海東流萩氏
三河国宝飯郡萩と大江広元(毛利氏の祖)
大江忠成(海東忠成)
・鎌倉幕府評定衆
・大江広元の五男
・三河の藤姓熱田大宮司家に養子入り
・熱田大宮司
藤原実範(三河守)→季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令)→季範(初代藤姓熱田大宮司家、額田冠者(三河国額田郡))→範忠→忠季→忠兼→海東忠成(養子入り)→萩忠茂(三河国宝飯郡萩、萩大宮司)) >>713
三河武士は、公武合体で家格を上げ
現代社会も日本に君臨しているのが分からんのか?
細川護煕墓参記念碑(三河県岡崎市)
http://sakuraoffice.com/hosokawamorihiro.html
現代社会における日本の由緒正しい支配層(金では買えないステイタス)
公家(No.1、No.2)
・近衛家←現当主は細川家(三河国額田郡細川、三河県岡崎市)からの養子
・鷹司家←現当主(伊勢神宮大宮司)は大給松平家(三河国加茂郡大給、三河県豊田市)からの養子
武家(No.1、No.2)
・足利家(喜連川家)←現当主は細川家(三河国額田郡細川、三河県岡崎市)からの養子
・細川家(三河国額田郡細川、三河県岡崎市)
細川家
菩提寺
・隣松寺(三河県豊田市幸町隣松寺126)
・蓮性院(三河県岡崎市細川町字権水56)
氏神
・村積神社(三河県岡崎市奥山田町字山田46)
大給松平家
菩提寺・墓所
・松明院(三河県岡崎市細川町字根古屋123)
・蓮性院(三河県岡崎市細川町字権水56)
・大給城(三河県豊田市大内町字城下)
氏神
・村積神社(三河県岡崎市奥山田町字山田46) >>717
大島栄城だが、全個体電池をアメリカ共和党に盗まれずに開発するには
俺が天上の電気照明とか端末の電力で感電ししないといけない
とかおまえなごやんが決めたのかね >>608 小牧長久手といっしょじゃない?
家康相手に野戦やるほど愚かじゃないよ
堅固な陣地築いて、外交で東軍を切り崩し、家康本体を外交的孤立に追い込んで屈服させる >>719
大島栄城だが、俺が猿と思ってたらおまえか松岡
俺にいまやってることじゃないか >>671
あずみに家康が打たれて影武者で乗り切った時
DL学園の変な先輩の口癖がいーえやすっ!だった時 >>616 師匠の信長に鍛えられまくっていたからなw
機動力を誇った織田軍団の最精鋭が秀吉と光秀
両者の激突は歴史の必然だったな んなこたー無い
江戸期通じて上方の方が文化力経済力は高いし明治は当初予定の大阪が首都なら江戸の壊滅は確定的
昭和だって高度成長までは東京は大阪の経済力を抜けてない >>722
信長のムチャ振りがいかに凄かったかってことだよな
全国の諸大名が秀吉にあっけなくやられるんだもん
対抗できたのは同じムチャ振りについていけた家康だけ >>666
「キリシタン弾圧した秀吉がキリシタン大名を信用していた」は普通はあり得んやろ
そうだというなら特別な根拠を示す必要があると思う
また「西軍で頑張って戦ったやつは豊臣家忠臣」も明確な間違いやろ
西軍で頑張って戦ったけど島津は秀吉に逆らった前科があるし、
小西だって秀吉の伴天連追放令に逆らって宣教師を匿ったという
それにそうだったら「東軍についたやつ」「西軍で頑張らなかったやつ」は
「豊臣家の不忠者」になるが、朝鮮への国替え予定勢の
毛利、黒田、加藤、福島は見事に該当するではないか
それに忠誠心だけではなく謀反可能性も秀吉は考えていただろう
伊達のように忠誠心が低くても都から遠くて、都の安全上のリスクが低いやつらは
朝鮮への国替えを計画していない
>>705
肯定にも反論にもなってないことを言い出さないでほしいわー よく260年先に毛利や島津にやられたことがネタにされるが、天皇の権威があってこそだからな
家康は幕府が滅びるとしたら、それは天皇だって予期して、天皇シンパの水戸藩を作った
最後の将軍が天皇大好き水戸藩出身だから内戦があっけなく終わったんだわ
ここまで先を構想してるのが家康の凄さなんだわ
ガチの現人神と言っても過言ではない 全国都市圏別GDPランキング
https://multipedia.jp/metroarea-ranking-japan/
1 東京 157兆8196億
2 大阪 45兆3625億
3 名古屋 22兆4971億
4 京都 10兆1173億
5 福岡 8兆9223億
6 神戸 8兆4272億
7 札幌 7兆4385億
8 岡山 5兆5389億
9 仙台 5兆4142億
10 広島 5兆3849億
11 前橋 5兆2516億
12 北九州 4兆8888億
13 浜松 4兆7628億
14 宇都宮 4兆4535億
15 富山 4兆3421億
16 静岡 4兆0238億
17 新潟 3兆8047億 まあ結局天才的ではあったが自身もワンマンだった秀吉の組織じゃあ勝負にならないんだよなあ
秀吉と接触した西の大名は哀れだよ、島津だけ戦術で戦略をひっくり返すよく分からない事して逃げ切って幕末でリベンジしたけど イエズス会の「1599~1601年 日本諸国記」によると
小西行長、石田三成は豊臣家の忠臣で
豊臣家を追い落とそうとする家康に対して「反内府様同盟」を作ったという
また「反内府様同盟」の張本人の1人である安国寺恵境が
毛利輝元を操っていたという
また「イエズス会 1599年度年報」によると
五大老の権力が大きすぎるのを恐れた秀吉が
自らの寵臣を五奉行にしたという
つまり五大老は秀吉に忠臣と見なされてなかったらしい
西軍は「豊臣家忠臣+反徳川勢力の反家康同盟」といった所だったみたいだな >>730
割と倒幕運動初期から水戸、尾張、越前、備前など
徳川家出身者が藩主の藩が加わってたのを知らないのかな?
徳川本家vs薩長+徳川分家みたいな構図だよ
「徳川家へのリベンジ」だったら、そんな構図にはならない >>490
あんなのウソばっかだし、たまに混じってる事実も
情報通は既に知ってる後手の情報だからかなw
とマジレス この戦の解説作品は
・ ドリフターズ (平野耕太) 第81話
・センゴク宮下英樹「大乱 関ヶ原」 ※新連載 >>712
信長こそ全然だろ。信長の人生知らないの?
常に裏切られ続けて裏切ったやつを殺し続けて最後に明智光秀に捲られて完 >>713
徳川政権はなくなったけど徳川家は続いてるぞ >>713
大政奉還によって幕府は終わったけど
徳川慶喜は駿河の大名70万石として廃藩置県まで大名だったし、その後も貴族院に所属して上級生活を謳歌してるよ。大正時代の76歳没 やっぱりトヨタと徳川は姻戚あるんじゃないかな
政界進出して民主制廃止あるで >>666
秀吉は謀反人を朝鮮に追放したいのであって朝鮮出兵のみでは微妙なんだよ
以下のように朝鮮への国替え予定勢は
秀次派、キリシタン、関ヶ原東軍、秀吉九州攻めの反秀吉方で
豊臣に逆らった、将来逆らう、逆らう不安要素がある大名がほとんど
・朝鮮への国替え予定勢(土佐国蠧簡集、組屋文章、フロイス日本史)より
毛利輝元…秀次派。西軍だが東軍と戦わず
小早川隆景…秀次派。関ケ原前に死亡。
福島正則…東軍
毛利吉成…西軍
宇喜多秀家…西軍
黒田長政…東軍。キリシタン
加藤清正…東軍
小西行長…西軍。キリシタン
長宗我部元親…関ケ原前に死亡
島津義弘…西軍。秀吉九州攻めの反秀吉方
大友吉統…元キリシタン大名。西軍
有馬晴信…キリシタン大名。東軍 もう一つ重要な点として秀吉が忠臣とみなした
五奉行に朝鮮への国替え勢がいないということ
やはり忠臣は朝鮮に追放されないみたいだな 石田三成が首謀者って言ってる研究者も今はほとんどいないんじゃないか
勿論西軍の中心メンバーの一人ではあるけど
佐和山に蟄居処分されて失職中の三成が単独で自由に動き回れるとも思えんし、
通説で言われる上杉との東西挟撃作戦の密謀が事前に交わされてたのも、
真田家文書にある三成と真田昌幸のやり取りで既に否定されてる
7月12日 毛利輝元に対して前田玄以・長束正家・増田長盛から、大坂の仕置について
意見を伺いたいとして上洛要請の連署状が大坂から発せられる
同月15日 三奉行連署状広島到着&輝元広島出発
同月19日 輝元大坂城入城
大坂城入城までの異常なスピード見ても、輝元が事前に上洛の準備してたのは明らかでこの4人が西軍の首謀者だな >>655
ワイもそう思う
統率だけ優れる人らが勝っても、権力を使ってやることが
間違ってたら国がどこへも行かないのは
この25年ぐらいではっきり分かってる
こんな時勢になんで大河で家康なのか
幕末とかやったら明らかな扇動になるから言って
逃げを打ったからとしか 見てない人からお金を取るなよ 09/18 18時25壺 >>743
幕末の尊攘テロリストは結局日本を滅ぼしたじゃん
徳川から政権盗んでたった70年で 徳川から豊臣秀頼に嫁いだ千姫は、
幼い自分を嫁がせておいて
関ケ原と大阪城で豊臣と戦った父と祖父に激おこだったらしいねw
夏の陣の頃は18歳くらいで秀頼とラブラブだったらしい >>743
大河と言えば昭和天皇が死んだから
太平記がやれるようになった説もあるみたいだな
戦前教育では足利尊氏は逆賊の大悪党扱いだったみたいだからな
それにしてもやはり家康が読書好きだったから
江戸時代になったら武士もよく学問するようになったのかな
まぁでも江戸時代の身分制度とかは支配層的な思想だし
やはり日本は明治維新で近代化する必要もあったか 藩閥政治はほぼパーフェクトだろ
日清日露戦争日英同盟日米英露仏協商
常任理事国
人口爆増の勢いも明治から平成まで落ちてない
ここから負ける議会制官僚制がオカシイ >>742
以下によると西軍首脳で処刑される3人(三成、安国寺、小西)の内、
三成が最も重罪なので引き回しの先頭になったという
イエズス会「1599~1601年 日本諸国記」
(石田)治部少輔はもっとも重罪で、同盟の張本人というので先頭、
仏僧安国寺は真ん中、後尾にドン・アゴスチイノがいた。 >>736
あんだけ急拡大して関わる人間が多くなれば裏切りは避けられないんだけど、フロイスが他の大名は家臣がやんややんやと騒いでるのに、信長の家臣はみんな静粛に聴いてるって驚いてるからな
それだけ信長の感覚が進んでて逆らえる余地がなかった。現代の感覚ですら古さを感じないどころか追いついてない部分もあるからな
秀吉も家康も汚い工作しまくったけど、信長存命中は
織田家に対して一切そういうことはやらなかったからな
いかに信長を畏怖していたかという証明でしかない >>743
大河なんてもう痴呆のジジイババアしか見てねえよ >>751
秀吉は上杉攻めの時に信長の命令を違反して勝手に自軍を引き上げとるよ
(謹慎処分ですんだ)
家康もなんか反抗したエピソードはあったと思う >>753
あれは勝家への反抗や
勝家が頭悪すぎるからキレて帰る
賤ヶ岳の伏線やな
でも信長に成敗されるの怖いから
わざと酒宴でドンチャンやって頭悪い猿です演技して
信長の怒り鎮めようとしとる >>750
宣教師は内実までは知らんし三成が乱の首謀者だと勘違いしてもしゃーない
石田、小西、安国寺も西軍首脳であることは事実だし
東軍諸将の書状見ても謀叛発生の初期段階では石田、大谷、毛利の謀叛としか言ってない
そういう噂を聞けば宣教師たちも張本人だと思ってもおかしい話ではないしな
7月16日付堅田元慶宛蜂須賀家政書状
「仍今度石治・大刑逆意、無是非存候」
7月21日付家臣宛細川忠興書状
「石治部・輝元申談色立候由、上方ゟ内府へ追々御注進候」
7月27日付秋田実季宛榊原康政書状
「然者於上方石治少・大刑少別心仕ニ付而」
毛利は関ヶ原合戦の前日9月14日に領地安堵(実際は減封)の起請文を交わしてるし、戦後大坂城も素直に明け渡してるし輝元の命までは奪えない
となれば誰かに責任取らせないといけない
下記のように家康は宇喜多と島津もわざわざ名指しで捕えるよう田中吉政に伝えてる
家康は本来ならこの二人も斬る算段だったと思われる
そしてこの書状では小西を捕らえたことも書かれてるな
9月19日付田中吉政宛村越茂助書状
「仍而備前中納言(宇喜多秀家)・治部少輔(石田三成)・嶋津(義弘)如何様ニも御才覚候て、
御さかし出被成候へと被申候、小西をハ美濃山中ゟ搦取参候」 >>750
追記で各書状の簡単な現代語訳も
7月16日付堅田元慶(毛利輝元家臣)宛蜂須賀家政書状
「仍今度石治・大刑逆意、無是非存候」
さて今度石田三成と大谷吉継が逆意を表したことはどうしようもないことです。
7月21日付家臣宛細川忠興書状
「石治部・輝元申談色立候由、上方ゟ内府へ追々御注進候」
石田三成・毛利輝元が相談して謀叛に及んだそうだ。上方より家康へ次々と注進が届いている。
7月27日付秋田実季宛榊原康政書状
「然者於上方石治少・大刑少別心仕ニ付而」
上方で石田三成・大谷吉継が謀叛した件ですが…
9月19日付田中吉政宛村越茂助書状
「仍而備前中納言・治部少輔・嶋津如何様ニも御才覚候て、
御さかし出被成候へと被申候、小西をハ美濃山中ゟ搦取参候」
さて宇喜多秀家・石田三成・島津義弘をどのような手立てを使ってでも探し出せとの家康様のご命令です。
小西は既に美濃山中で捕らえました。 フロイス日本史からすると
秀吉は秀次派の大名を朝鮮に追放したかったらしい
秀次派だった毛利・小早川が土佐国蠧簡集の朝鮮への国替えリストに
入ってることも、それを支持している
フロイスの1595年年報には秀次の朝鮮出兵を促す秀吉に対して
秀次は「太閤は俺を日本から追放する気だな」と考えていたように書いてある
フロイスはこれが秀次切腹事件の原因の一つとしてる
文禄の役後に秀次が死ぬことになったタイミングと整合性は取れている
「日本吉利支丹史鈔」より「関白殿薨去の報知」(ルイス・フロイス一五九五年年報)
>朝鮮征伐の間に、太閤様は二度までも関白殿をして出陣せしむるに定め、其準備をば促したり…そを以て是れぞ明に、己をこの國より追ふ計画なりと猜し >>755
その中のどの書状も三成の名前が先頭に来ていて
引き回しの時同様、首謀者扱いしてるようにしか見えないが…?
むしろあなたの見解を否定する材料ではないか?
これらが誤解だといえる根拠の方が分からん >>742
以下によると輝元は安国寺に操られていたようにある
輝元がやったからといって、輝元自発の意思だったかは微妙な所なんだよ
(輝元の責任回避のために安国寺を犠牲にしたとも言われている)
イエズス会「1599~1601年 日本諸国記」
安国寺(恵瓊)[仏僧で、九カ国の国主毛利(輝元)殿が父のように敬愛し、
その助言によってすべてを治めており、反内府様同盟の張本人であった >>758
三成が首謀者ではないとする根拠は>>742に書いた通り
それで東軍諸将も当初は三成が首謀者だと思ってたのはさっき挙げた書状類
一次史料上で三成が動き始めるのが確認できるのは7月30日以降
それまでは大坂にもいないし動向が不明なのにそれで首謀者だとは言うのは難しい
それに対して三奉行は輝元に上洛要請し、輝元は早々に大坂城を占拠してることが一次史料で確認できる
輝元がどう行動したかを見るべきであって、輝元が誰かに操られてたとかは些細な問題だな
8月17日付吉川広家宛黒田長政書状でも毛利を味方に付けるため、この騒ぎを安国寺一人の責任にしようとしてるが、
輝元は家康の留守居追い出して大坂城占拠してるし、家康も輝元が首謀者だったことは十分承知してたはず
味方に付けるために目をつぶっただけ
さっき書かなかったことも補足したが、これで分かってもらえないならもうあなたと話すことはないな
宣教師の史料妄信するのもいいけどもう少し他の史料にも目を通した方がいいよ >>726
>「キリシタン弾圧した秀吉がキリシタン大名を信用していた」は普通はあり得んやろ
>そうだというなら特別な根拠を示す必要があると思う
論理が支離滅裂だなw
思い込みじゃなくて実際の歴史の方を見とけ。
そっちが最初に
「キリシタン弾圧をする秀吉にとっては信用できないやつらだから」
「秀吉の人を見る目は確かで後に東軍入りする不忠者だから」
加藤・福島を朝鮮送りにしたと書いてんだろ。.
現実には西軍入りして敗死するまで
忠誠を尽くしたり、いい働きしたのも多いし親族レベルのものも送ってるから、
「実際に東軍に入った不忠者云々」も根拠として崩れてるわけ。
東軍の主戦力となるような連中はむしろ温存されてる。
勢力を削ぐならどうみても遠い関係の方を送る方が合致するわな。
むしろ「子飼いの方に手柄を立てさせる」のを優先した結果だな。 >>732
外野はこの程度の歴史理解力だからw
薩摩が何故?徳川の反対勢力に回ったのは
それは将軍家を継ぐことを許されていなかった
徳川御三家の中で最も格下水戸徳川の慶喜が
幕府の重臣達の猛反対を押し切って将軍家に継いでから
幕府内おろか時代情勢まで完全おかしくなって行き
親徳川家だった西郷隆盛は鳥羽伏見の戦いでは
徳川幕府軍として薩摩藩を指揮し反徳川側と戦った
しかし水戸徳川の慶喜が無理矢理、将軍家を乗っ取り
徳川幕府を水戸慶喜が好き放題にし始めたことから
薩摩藩率いる西郷隆盛も長州藩側に付いた歴史があるからね
ググって調べればわかるよ >>761
同意
黒田、加藤、小西なんかも信頼してたからこそ島津征伐の後唐入りに備えて九州に配置したと考える方が自然なことだしな
譜代の家臣がいない秀吉にとって子飼いに手柄立てさせて加増することは当然なこと
戦力を削ぐためなら徳川は何をおいてもまず渡海させきゃおかしいしな
フロイスの記述って主観が入り過ぎてて陰謀論みたいになってる箇所も多いから全面的には信用ならん >>764
訂正
☓ 鳥羽伏見の戦い
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