フロイス日本史からすると
秀吉は秀次派の大名を朝鮮に追放したかったらしい

秀次派だった毛利・小早川が土佐国蠧簡集の朝鮮への国替えリストに
入ってることも、それを支持している

フロイスの1595年年報には秀次の朝鮮出兵を促す秀吉に対して
秀次は「太閤は俺を日本から追放する気だな」と考えていたように書いてある

フロイスはこれが秀次切腹事件の原因の一つとしてる
文禄の役後に秀次が死ぬことになったタイミングと整合性は取れている

「日本吉利支丹史鈔」より「関白殿薨去の報知」(ルイス・フロイス一五九五年年報)
>朝鮮征伐の間に、太閤様は二度までも関白殿をして出陣せしむるに定め、其準備をば促したり…そを以て是れぞ明に、己をこの國より追ふ計画なりと猜し