【漢委奴王】畑で見つかった金印など展示の企画展 見学者「第一印象は『小さい』でした」・山梨 [水星虫★]
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金印など展示の企画展 印章にゆかりの峡南地域の人たちが見学
https://www3.nhk.or.jp/lnews/kofu/20230314/1040019573.html
※NHKローカルニュースは元記事が消えるのが早いのでご注意を
印章の役割などについて歴史的、文化・芸術的な視点から紹介している県立博物館の企画展を、
13日、金や印章とゆかりがある峡南地域の人たちが見学しました。
見学会は、印章・ハンコが峡南地域の主要な産業であることなどから、身延町の湯之奥金山博物館が企画し、12人が参加しました。
参加者は、金山博物館の出月洋文館長から、国宝の金印は福岡県の志賀島の畑で見つかったなどの説明を受けてから展示室に入りました。
そして、ガラスケースに収められた2.3センチ四方の輝く金印に見入っていました。
所蔵する福岡市博物館から特別に貸し出された金印は、今月21日まで展示されています。
また、山梨県の印章産業の歴史を紹介するコーナーでは、材料を固定したり彫ったりする道具が展示されているほか、
日本一大きいとされる2メートル四方、高さ3メートルのハンコで押した
「動かざること山のごとし」の4文字の印影も展示されていて、興味深そうに見ていました。
参加者の女性は「金印の第一印象は『小さい』でした。でもすばらしいもので、
2000年前からの中国と日本の関係が分かって感動しました」などと話していました。
県立博物館の印章の企画展は5月8日までで、期間の途中で展示替えが行われます。
03/14 11:26 一生懸命オナニーしなさい。
そうすれば全てを忘れ夜ぐっすり眠れるから。 畑でそんな小さな物が見つかるのがおかしい
ツタンカーメンを執念で掘り当てたハワードとカーナボン卿に失礼 動画、 2.3センチ角って聞こえた、金で出来てるなら大きいかもな >>8
藩的に政争もあったみたいだし
出所は謎のままなんだよな 教科書の写真で見ると
そこそこデカそうに見えるけど
小さいんだよな 子どものころに東京国立博物館にあった複製の展示見て
あまりの小ささにガッカリした思い出 パソコン(ワープロ)とかの添削プログラムで「の」の重複を指摘するというのが出た頃に、「かんのわのなのくにのおう」なんかどうなるよ、と思った記憶。 そもそも遺跡から発掘されたわけでもないのに本物なのかというのはあるわな
と思ったけどこの印より後に中国で墓や遺跡から出土した漢代の金印とデザインや字体も酷似してるらしいからまあ本物と思っていいのか そういえば
横山三国志のマンガに出てくる
伝国の玉璽も小さく描かれてたな >>8
>>10
そもそも福岡藩はゴッドハンド常習犯だからなぁ。福岡藩と薩摩藩は箔付けと資金繰りの為にめちゃくちゃやっとる
なので福岡と鹿児島の遺跡や寺社仏閣、出土品はいまいち信用できん 何もない田んぼから唐突に金印一個だけが出土したから怪しさ満点 ちなみに甚兵衛さんはお代官に報告した本百姓で
実際に発見したのは水呑百姓2名(名前失念)
文書にもちゃんと書いてある >>20
金印自体は>>17があるから物自体はどうやら本物っぽい(恐らく江戸時代当時だと参考にできるような同時代の金印が中国でもまだ発掘されてないから書物を読んでそれらしく作るのは難しい)けど発見にまつわる部分はなんか眉唾なんだよな
1世紀に埋めたり隠したりしたものなら大々的に発掘調査でもしないと出てこないくらい深く埋まってしまってそうだし >>18
そういえば伝国の玉璽も戦乱のどさくさで孫堅の手に渡ったんだよな
金印も国家興亡のどさくさで畑に埋められたんだろう 本当に大事なはんこなら、田んぼになんか埋まってるはずがないと思うんだよね 箱に入れて埋めてたんだと思うが1700年くらいの時を経て箱は腐り金印だけ残ってしまったんやろうな
志賀海神社と関係ありそう 田んぼを開墾しようとしたところで発見だから荒地ではあったんだろう
あと巨石の下に埋まってたとのこと >>31
田んぼなのか畑なのかそこからハッキリさせよう >>32
調度、政争してたみたいなんだよね
藩に2つの学校があって争ってた
見付けたと発表した方は遅れをとってて手柄が欲しかった >>8
3方を岩で覆われた箱型の中に納められていた 元々神社に寄贈されたのを島の百姓がパクって畑に隠したんじゃねえのか >>31
大昔に巨石の下に隠したものなら田んぼの開墾くらいでは見つからないくらい地中深く埋もれてそうだけどね
島だから土砂に埋もれていくペースが遅いのかな? >>17
そもそも東夷ごときに金印を与えた支那皇帝は存在しない。 おれも分からず屋じゃないから
百歩譲ってあの金印出てきたとしようや畑から
だがなんでそんなもんくれたんだよ漢は
王認定が2センチ四方の細工って
おれが卑弥呼だったら苦笑だわ
なによ漢漢って偉そうだけど
この程度の技術しか無いわけ?
いいから首をはねてしまいなさいその使者の ゴッドハンド事件で明るみになったことの一つに、
日本の考古学そのものが世界的に信用されていないという話があってだな・・・ >>34
それだと大事になって贋物と発覚したら、藩潰されるよ なんでそんなとこに埋めた(まさか落とした?)んだろね
志賀島って昔の役所なり宮殿なりがあったわけじゃないんでしょ? >>44
いやいや。
出土品がおかしいから漢の古墳をモンゴル帝国時代に中央アジアの人たちが再利用したんだろう
って事にしてる。中国はw >>35
当時学問といえば漢学だったからね。
金印が出たから由緒正しいとか言ってたんだろう
金印そのものは国宝になってしまい、同位体解析で
年代や産地を推定できなくなってしまった。 漢の奴隷王と書かれてる
日本の成り立ちが漢の奴隷だったとか >>46
漢がハンガリーとかセーケイ人とかなら
そんな矛盾はないんじゃ?
あの中国人王だと(゚Д゚)∣ժ̅ぁ??だけどw >>32
20世紀になってから中国で出土した廣陵王璽とデザインや字体がよく似てるからなぁ
他になにか江戸時代に参考にできる伝世品もあまりなさそうだしそっちも偽物でなければ奴王印も色々発見の状況が怪しいけど本物と認めざるを得ないのでは? >>48
今もその学校続いてるみたいだしね
尚更、今更贋物とするには問題ありそう >>51
あったと立証は不可だから誰も言わないけど
当時そういう資料があったと仮定すると問題ないのでは 秀吉が半島の高麗古墳を荒らして略奪した方が納得するわ。
当時の半島に住んでたのはモンゴル奴隷の現行朝鮮人だし
高麗文化なんてわかりゃしないからな。 >>43
金印以外なにもこれといった古い出土物がないのがちょっと怪しいんだよな
何らかの理由があって骨董屋かなんかから入手した伝世品や他のところで見つけたものを志賀島で見つかったことにしたのかも? タイムリープできるゴッドハンドが埋めたんじゃないかね 金印が出てきたのが
本居宣長の時代ってのがめっちゃ匂うけどね
卑弥呼が大和の王だったってことが都合悪くて
九州のまだ統治されてない国の王が
勝手に金印貰ったってことにしたかったんだろう >>51
印の押された漢書なら日本国内にも流通して
知識階級ならこれら書物に触れることが出来た。
大判をつぶして架空の金印を作るのは
金かかるけど難しくない。 >>66
だから印自体のサイズや意匠なんか江戸時代に誰も解かんないんだよ
現代になってやっと中国やらベトナムやらで同系の印が発見されてんだから
そんなものを江戸時代にピッタリ偽造できる訳ねえだろっつう これだけ探して見つからないなら
元からなかった、もしくは大した国ではなかったのかもな >>69
実は帝王としてはそこが弱点。
功臣や有力な豪族の力はある程度削がないと
朝廷の力が十分に振るえなくなる。
明の方の洪武帝はやり過ぎだがw
徳川はその点も本多正信の息子とか上手く削ったと思う。 最近ふと思い立って歴史を勉強し直してるんだけど、志賀島の金印って卑弥呼に送られたやつじゃないのな
存在がわかってる金印は2つあって卑弥呼のほうのやつはまだ発見されてないって今さら知ったw
中学生の頃もっとちゃんと勉強しとけばよかったな 偽物だったら委じゃなくて倭にしてた、というのは聞いたことあるな 西暦4000年くらいの人類も
今の我々の生活品目が出土すれば博物館で展示するんだろうな
4K動画カメラ付きスマホ
オナホール
銀行印 金印は中国からも出土しているので、容積を測り重量を調べたら金印の純度が
判るから志賀島の金印が本物か偽物かは簡単に判るし、すでに調べているので
今頃になって偽物説を唱える奴の知能の低さを疑う必要がある。 歴史のは教科書に必ず載ってる有名なやつか
後漢の光武帝劉秀だっけ ( ゚∀゚)
( ∩ミ 第一印象は『小さい』でした
| ω |
し ⌒J 一応中国の正史に記録があるんだな
『後漢書』の記述との対応
『後漢書』「卷八五 列傳卷七五 東夷傳」に
建武中元二年 倭奴國奉貢朝賀 使人自稱大夫 倭國之極南界也 光武賜以印綬
「建武中元二年、倭奴国、貢を奉じて朝賀す、使人自ら大夫と称す、
倭国の極南の界なり、光武、印綬を以て賜う」
— 強調引用者
という記述があり、後漢の光武帝が建武中元2年(57年)に奴国からの朝賀使へ(
冊封のしるしとして)賜った印がこれに相当するとされる。
中国漢代の制度では、冊封された周辺諸国のうちで王号を持つ者(外臣)に対しては、
内臣である諸侯王が授けられるよりも一段低い金の印が授けられた(詳しくは印綬の項を参照)。 今日、本来置いてあるはずの福岡市博物館でレプリカ見てきたわw
本物じゃねーのかよー!
ってw >>1
. . . . . . __
. . . . / . . . \ NHK死ね
. . . / ─ . . ─ \
. . / . (●) .(●) .\
. | . . . (__人__) . . |
. ゙ 、 . . . .`⌒´ . . / 教科書では拡大されて載ってたから4㎝×4㎝ぐらいの大きさかと思ったら
実物はそんなに大きくなかった
まあ、所詮ハンコなんだからそんな大きい訳ないんだが >>92
.
_, ,_ .・(U) ボ
( ゚Д゚).;;.;∵ヽ('∀' ) ン
( .;..;’' ヂ
| ★";'. /
し ⌒J ッ
(U)
( '∀')ノ 金印ならぬインキンです! ナの国とかダンバインかよ!
弥生人は富野作品信奉してるとか大したことないなww ここが志賀島の金印が発見された場所と言われてるけど、発見された場所は今は海の中らしいんだよね。
https://i.imgur.com/gFx3zzm.jpeg
ということは、右下にある岩みたいなところが古墳とか?
しかし、この場所も大正時代に中山平次郎て考古学者が推定したもので確たる証拠はないとか。 この当時、飢饉が続いて大問題になっていた。
そこで頭の良い為政者が畑で金印が見つかったことにした。
知らせを聞いた者が金印探してあちこち掘りまくったせいで日本中の畑が耕されて、後の飢饉を免れた。
本当みたいな嘘の話。 京都の国宝展あほみたいに人が並んでたな。90分待ちとかだった気がしたな 学研の付録のレプリカのインパクト大きいよな
ああいうのは良いね 悠久の歴史がムカつくから印鑑廃止グレートリセットで思う壺 >>31
俺の実家の太宰府も掘れば何か出てくるから家やマンションを建てる時は何か出てきても見てないフリでそのまま埋めるのが常習化 近所の博物館にレプリカあるがやはり学研が配ったのが影響大
いまガチャとかにねえの >>69
リアルチートなのにあまり創作のネタにならない人
一応日本でも小説はあるが…
欠点がある方がネタとしては面白いのかね >>110
項羽と劉邦な
才能があって周りを頼らず自分でなんでもやりたがる項羽と人たらしの劉邦 >>18
一方中国ドラマ 三国志 Three Kingdomsに出て来る玉璽は両手で抱えるような大きさだった。
あれはさすがに印章として現実的なサイズではないと思ったよ。 九州の当時の弥生人は中国大陸から来たから、
漢字の読み書きが出来たのだな? >小さいでした
そら昔の発掘技術でそんなデカいもんが作れるわけないわな。 今は家を建てる時には土の中から古代の物が出てくれば、徹底的に調べるから
うやむやにする事は出来んようになっている、そう言う事をしたら
多額の罰金が科せられる。 写真の印象だと10センチ角ぐらいありそうだけど
実際はグリコのおまけぐらいか かんのわのなのこくおう → ×まちがい
かんのいとのこくおう → ○せいかい!
実際に糸島神社に奉納されていた金印が近世に盗まれたという記録がある
伊都国が滅びる時に神社に奉納されたものであろう >>79
日本語じゃないの?
の、が二重にかかるのって 金印ドッグって名前のホットドッグが発見場所近辺のキッチンカーで売ってた記憶 深夜でも売ってるけど大将をベルで起こさないといけなかった >>124
🇫🇮フィンランド語も二重に「や」がかかる?
あ! >>122
中国語だと二重に「の」がかからないでしょ? 実際には近くの神社の御神体で、
それを盗んだのがバレたら村ごと連座が及ぶから用水路で見つかったことにした https://ja.glosbe.com/fi/ja/ja
🇫🇮フィンランド語、🇯🇵日本語そっくりw
A ja B ja.で通じるだろ 後漢書光武帝紀の倭が委の間違いなんだろう
後漢書自体劉宋の時代に書かれたものだから無理もない 大きさよりも何故田んぼに放置されてたのかが気になる そもそもこの国は本当は日本ではなく倭国なんだよな。1000年続いた太宰府を首都とした国家があり、日本は関西の単なる
小国だった。それが7世紀白村江の戦いで破れた倭国は援軍を送るという日本に騙され水城を開けてしまった。そこに日本兵が
なだれ込み滅ぼされてしまった。これは中国の歴史書唐書にはっきり書いてある。しかし明治維新後これを軍部が歴史学者に
圧力をかけて倭国を歴史から抹消したんだよ。日本書紀も古事記も出鱈目だよ。 唐の歴史書にはっきり書いてある日本と倭国は別種である。当時日本から遣唐使が来ていたので唐の役人が、君達さ~突然
日本って名乗ってるけどは倭国じゃなかったの?倭国と日本国てどう違うの?って質問したらしい。そしたら遣唐使が
はっきり答えたそうだ。倭国と日本国は別の国です。日本国が倭国を滅ぼしましたってね。 >>93
魏志倭人伝より前の話なのね。
卑弥呼より200年ほど昔か。 >>1
2000年も昔の中国からの金印が200年前の江戸時代に農民により偶然畑から発見されたとか胡散臭すぎるだろ。
[国宝へようこそ] 4K 漢委奴国王 金印 The Gold Seal BS4K8K NHK
youtu.be/AsEA_y_KwC8
漢委奴国王印
museum.city.fukuoka.jp/sp/gold/
金印は江戸時代、博多湾に浮かぶ志賀島(しかのしま)で農作業中に偶然発見されました。その後、筑前藩主である黒田家に代々伝わり、1978年に福岡市に寄贈されました。
金印に刻まれた「漢委奴国王」の五つ文字からは、漢の皇帝が委奴国王に与えた印であることが分かります。そして中国の歴史書『後漢書』には、建武中元二(57)年に、光武帝が倭奴国王に「印綬」を与えたことが書かれており、この「印」が志賀島で見つかった金印と考えられるのです。
漢委奴国王印
ja.m.wikipedia.org/wiki/%E6%BC%A2%E5%A7%94%E5%A5%B4%E5%9B%BD%E7%8E%8B%E5%8D%B0
upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/a/af/King_of_Na_gold_seal.jpg
材質
金95.1%、銀4.5%、銅0.5%、その他(1989年蛍光X線照射による分析)
寸法
一辺の平均2.347cm、鈕(ちゅう、「つまみ」)を除く印台の高さ平均0.887cm、総高2.236cm、重さ108.729g、体積6.0625cm³
文字 漢委奴國王(かんのわのなのこくおう)
製作 不明
発見 筑前国那珂郡志賀島村東南部(現福岡県福岡市東区志賀島)、1784年4月12日発見とする説あり
所蔵 福岡市博物館 (1990-) >>132
発見の経緯が変なせいで真贋論争がずっとある
本物だと考えてる人たちの中では田んぼに落ちてたというのが嘘なんじゃねーかと考えてる人が多い >>132
ただの偶然なのかね。
奴国が滅びたときに隠したか、紛失したのか。 >>136
金印受けたのが奴国であっても委奴国であっても大和朝廷に滅ぼされたならそう答えるだろ >>135
唐書の記述だと『日本国は倭国の別種なり。その国、日の辺に在るをもって、ゆえに日本をもって名となす。
あるいは曰く、「倭国自らその名の雅やかならざるを悪み、改めて日本と為す」と。
あるいは云う、「日本、古くは小国なれども、倭国の地を併せたり」と。』と書いてある
つまりは『倭国という名前が雅じゃないから嫌って日本と改名したとも、
昔は小国だった日本が倭国を併合したとも言われてる。』と二つの説が併記してあって、
唐側も唐は倭国と日本が別国だったのか同じ国の改名なのかわかってない感じだったけど
はっきり書いてあるって唐書のどこに? >>8
んなことはない、放牧地にオリハルコンが埋まってたことあるし >>136
はっきり書いてないよ?
136のレスは三行目を省いてる
「倭国が名前が雅じゃないので日本と改名しました」という異なる話も併記されてるのを省いて
はっきりしてるというのはミスリードでは?
唐書 日本
日本國者、倭國之別種也。
以其國在日邊、故以日本為名。
或曰:倭國自惡其名不雅、改為日本。
或云:日本舊小國、併倭國之地。其人入朝者、多自矜大、不以實對、故中國疑焉。
日本国は、倭国の別種なり。
その国、日の辺に在るをもって、ゆえに日本をもって名となす。
あるいは曰く、「倭国自らその名の雅やかならざるを悪み、改めて日本と為す」と。
あるいは云う、「日本、古くは小国なれども、倭国の地を併せたり」と。 >>57 >>66
倭奴國王の使者に印綬を授けたことはちゃんと後漢書にも書かれてるから
別に後世の日本が勝手に作ったとかどっからかもってったなんて疑う所はないよ これ福岡の博物館で見たことある。写真禁止とあったがこっそり撮った記憶がw >>139
農夫が発見したと自称して持ってきたものを儒学者の亀井南冥がお墨付き与えただけだからな
椿井文書並み 後世に偽物を作るメリット皆無なのと偽物なら光武帝紀に合わせて委を倭と書いただろうから本物だろう。田んぼで見つかったのは不思議としか言えないが盗賊がどっかから盗んで埋めて隠したまま死んでそのままになったってあたりか、あるとするば。 >>148
畑に単体で埋まってた時点で大して重要ではなかった証拠
大陸の同時期の印綬は皆ちゃんと王墓近辺で見つかってる
倭人にそんなもんいらんと突っ返されちゃったんで困った使者が埋めたと推察 >>153
王墓を壊して畑にしちゃった可能性は?
っていうか、公印だろ
墓に埋めるなよ
代替わりしたら新しい判子もらえたんか? 江戸時代に複数作った偽物
但しもとになった印があったか
情報から1から作り上げたかは不明 当時の状況から考えて
倭奴王印ならわかる
倭奴國王印というのがちょっと怪しすぎる
書に國と記載があるからといって
國を彫ったというのはちょっと信じがたい 彫り師の人から当時と彫り方が違う可能性が高いと
言われてる時点で相当怪しい
大体日本ではちょっとレベルが違う学者である
宮崎市定氏までもが疑問を呈してる代物 >>161
だから後漢書にも書かれてるんだってばよ >>163
志賀島が奴国領だったか伊都国領だったかは分からないが王墓は本土に作るだろ 疑ってる阿呆は志賀島が何処にあるかも分かってなさそう 西暦57年の時点でジャップ島みたいな世界の辺境に
チャイナ皇帝から金印もらえる先進国があったとか
どう考えてもおかしいだろ漫画の世界だぞそれ 同時代の滇王之印を見ると字の彫り方や形そのものが拙くいかにも古代の制作物だとわかる
志賀島の金印は字が複雑過ぎるし
彫り方や形が洗練されすぎている >>169
そのチャイナの歴史書に皇帝が印あげたと書かれてるので… いっぺん中国に送って後漢代のものと齟齬がないか鑑定して貰うと良い >>64
だね
金だし大きかったら手がプルプルして使い物にならない 福岡でこのも本物の金印をみたわ
思ってよりも展示が地味
それなりにしっかりと説明展示とかあるんだけど >>176
宮内省玉璽担当官
「なんやと?!!ちょっとお前ツラ貸せや!!玉璽ってデカいんやぞ!!!!!!」 秦の始皇帝がつくらせた伝国璽は唐代まで受け継がれたのに後晋の皇帝が遼に捕えられたときに紛失した 後漢光武帝ゆかりの品とか中国でもあまり残って無さそう 朝鮮半島では銅印しか発見されていないので金印を目の仇にしている
だから頭から否定しているヤツの多くが半鮮猿 >>110
中国の真に優れた皇帝といえば
後漢の光武帝
唐の太宗
北宋の太祖
清の康熙帝
ですかね。
後一人いればちょうど5人できりがいいんだけど、他にいませんかね? 漢委奴国王 金印以外にも金印は見つかっているが、彫師は同一人物とは
言えないから掘り方の違いを議論しても無意味。それよりも金の純度の
方が遥かに重要。この点からも福岡市で出土した金印は紛れも無い本物だな >>171
>そのチャイナの歴史書に皇帝が印あげたと書かれてるので…
金印とは書いていないし倭国が日本かも怪しい。 >>201
おたからは井戸の底や壺を割って見つけるのが常識だな >>153
むかし学研の漫画には奴国が戦争で苦戦したので金印を盗られないように隠したとあったな
それぐらい当時の倭国は混乱していたみたい どこかで買ってきた金印の漢字のところを彫りなおした偽物 >>187
皇帝では無いが大秦天王苻堅を推したい、何故なら彼が南北朝の動乱を収めていれば日本史に空白の4世紀は生じなかった >>207
江戸時代に農民が金印買ったんか…
他の出土品と同じ蛇印にしてるのも凄いわ 8年 漢皇帝の劉氏から天命に基づいて禅譲を受けたとして王氏が自ら皇帝に即位、「新」を建国
この出来事は歴史上で初めての禅譲であり、簒奪(身勝手な禅譲)となる
14年 出雲から倭人が兵船百余隻で新羅の海辺に侵入
25年 王氏に滅ぼされた漢王朝の皇族「劉秀(光武帝)」が漢を再興し「後漢」とする
57年 九州の倭奴国(筑紫城)が後漢に貢を奉り朝賀し、光武帝から印綬を賜り、「漢委奴国王」に
173年 倭の女王卑弥呼が使わした使者が新羅を訪れる
204年 公孫氏が韓と倭を制圧して帯方郡とし、朝鮮半島南半から北部九州の漢委奴国王の倭奴國までの統治体制を築く
207年 公孫氏が曹操へ恭順し、自らが支配下に置くのは遼東と、遼東の南の楽浪郡と、そのまた南の帯方郡と、そのまた南の韓とそのまた南の倭だと述べ、曹操から襄平侯・左将軍に任命される
同時期に司馬氏も曹操へ出仕して、曹操の息子の曹丕に仕える
220年 曹操が死去すると、息子の曹丕(文帝)が魏王に即位、後漢の献帝に皇位の禅譲を迫り魏の初代皇帝になる
226年 曹丕(文帝)が病床で重体に陥ると、司馬氏は、その長男の曹叡(明帝)を皇太子に立てて皇帝に即位させる
235年 司馬懿は三公の一つ太尉に就任し、魏の軍事面でのトップとなる 237年 司馬懿と同じく曹操に仕え、曹丕が京兆王曹礼を後継ぎにしたいという考えを持っていたことを知る公孫氏は猛反発し、ついに燕王を称し、曹叡(明帝)と司馬懿からの独立を宣言し、韓と倭を掌握して玉璽を与え、挙兵する
238年 曹叡は司馬懿に全権を託し4万余の兵を与え、公孫淵征伐を命じ出兵し、公孫氏は滅亡して燕の残党は対馬伝いに倭、つまり九州の「漢委奴国王」倭奴国(筑紫城)に敗走
同時期に出雲から、奈良の邪馬台国の卑弥呼の使者が帯方郡に現れて魏の皇帝に朝貢
239年 曹叡が病床に伏し、死期を悟った曹叡は、幼年8歳の皇太子の曹芳の補佐をすることを司馬懿と、皇族の曹爽に命じて崩御
240年 帯方郡太守「弓遵」が親魏倭王の詔書、印綬を持たせた建中校尉梯儁等を出雲ルートで邪馬台国に派遣
243年 曹芳が元服し、建中校尉梯儁等の帰国に際して卑弥呼が再び魏に出雲ルートで使者を派遣
247年、魏が韓を滅亡させて帯方太守王頎到官。朝鮮半島の直轄化が完了
奈良の邪馬台国の卑弥呼から狗奴国、つまり燕の残党が逃げ込んだ九州の「漢委奴国王」倭奴国(筑紫城)と戦争状態だと報告されて、塞曹掾史の張政等を出雲ルートで派遣するも卑弥呼が死去
249年 司馬懿がクーデターを起こして曹爽一族、一党を追放・誅殺
曹芳は司馬懿を丞相に任じ、これ以降の魏は事実上司馬一族が支配する >11
それ分かる気がする
私も彼氏のを初めて見た時
あまりの小ささに愕然としました
目の錯覚かと思わず目をパチクリしたぐらい
オッサン同士なんだけどね >>209
そもそも発見した農民というのがすでに怪しいとされているんだけどなw
ここまでいわくつきの金印なら何でもありってところやでw
持ち手が蛇印の物が他国向けにあったというのはもっと古くから知られている内容 土人すぎてせっかく下賜された金印の意味がわからないで
なんじゃこりゃ?食えねえだろポイってしたんだろうな 俺は地元だからわかるんだがあそこで金印出るのは当たり前なんだよ。
志賀島は昔沖ノ島みたいな場所だった。
昔は女人禁制の島なんよ。
昭和まで女が入っちゃいけないとことかあった。
なんで志賀島というかというと早良平野がシカという地名だったから。
シカの島。
日本最古の三種の神器入りの吉武王墓の近くに遺跡があって5000年前から弥生時代まで続いた四箇遺跡。今は団地が建ってる。
シカがなぜ重要かというと服を編むのも鹿の角で釣り針も鹿の角で作ってたので鹿は神様だった。
志賀島の志賀海神社は建立年不明。明らかにその辺の神社と違う。
鹿の角が大量に奉納されてる。
海幸彦、山幸彦伝説とも関係がある。
福岡で金印を埋めるならあそこしかない。 貴重な金印の用途を考えたら、大きくする必要は無い 小さな金印で充分だ >>215
九州 海神(ワダツミ)国 筑紫城の
天之御中主神
高御産巣日神
神産巣日神
宇摩志阿斯訶備比古遅神
天之常立神
国之常立神
豊雲野神
宇比邇神・須比智邇神
角杙神・活杙神
意富斗能地神・ 大斗乃弁神
淤母陀琉神 ・阿夜訶志古泥神
伊邪那岐神・伊邪那美神
大綿津見神(豊玉彦)
天津彦火火出見尊(山幸彦)
天津日高日子波限建鵜葺草葺不合命(彦瀲)
は、本家筋で、
後漢の皇帝から授かった金印を受け継ぐ
代々「漢委奴国王」だからな 西暦57年頃だと、まだ北部九州も統一国家は無かったはずなので
邪馬台国は無く、北部九州で一番有力な奴国が漢に行って挨拶を
したんだろうが、漢の兵士が奴国を支配した訳じゃないので
当時は漢の属国になったとの気分は無かったと思う お土産でゆるキャン△の金印を作って売ればいいと思う 『きんいん』と読めば有り難みがあるけど
『キムじるし』と読むとキモくて縁起悪いな 日本という国名は大化の改新以降だろ
その前までは大和朝廷
中国の蔑称読みだと大倭 未開の国の蛮族が小汚い恰好をしてきたけど
まぁ一応周辺国家の紹介だからあってやった。
あまりに蛮族すぎて何言っているんだかわからないけど、お土産に金のハンコを渡した。
これからは来る時は事前にそのハンコを押した文書を役人に提出する事。
文字くらいかけるだろ?
え?文字ないの? >>17
成分(金以外の不純物の含有量)とか見たらまあだいたいわかるんじゃね?
それを調整する贋作作るのはかなり難しいかと >>48
古墳も調査しないし
日本の文化財行政は非科学的だよな >>41
「日本の土器は世界最古」
「ホモサピエンス(新人類)が日本にやって来るよりも数十万年前の遺跡」
とかあるけど、どこまで本当か分かったもんじゃないよね >>82
明治時代の出土品ですら博物館で展示してるけど? >>118
そんな事ないですよ
調査費用は建築したい人が払わなければいけないから、みんな気にせずそのまま土やガラと一緒に捨ててしまう
調査費用を文化財行政側で持たないシステムがゴミクソなんだよ >>135
まあ明らかに日本にはたくさんの国があって争ってたよね
天智天皇以前の歴史は、いろんな豪族の伝承を繋ぎ合わせて全部天皇の祖先ということにしてしまった
古墳はとある豪族の墓かもしれないが、天智天皇の祖先である可能性など1パーセントも無いのでは?
邪馬台国論争も、単にこの捏造の歴史を正当化したい人達が思う以上に多いことから続いているだけの話
冷静に見ればロクな証拠も無いのにずっと同じ王家が繋がってるわけない >>214
当時の奴国の外交担当は現代の外務大臣、外務官僚より優秀w >>131
倭と委って
山田花子と山田隆夫ぐらい違うだろ?
前漢は日本語使ってたんじゃないの? 発掘なんて意味ないよ
本物だとしても
ゴッドハンドが「私が埋めました」と言ったら偽物になるからな >>1
★★★猿でもわかる邪馬台国の九州否定説★★★
邪馬台国 論争の背景
http://www.yoshinogari.jp/ym/topics/yama02.html
伊都国(福岡県糸島市)
↓
↓百里
↓
奴国(福岡県博多湾付近)
↓
↓百里
↓
不弥国(福岡県糟屋郡宇美町付近)
↓
↓水行二十日
↓
投馬国(不明)
↓
↓水行十日、陸行一月
↓
邪馬台国
まともな地図を作れなかった古代では距離や方角を常時正確に測ることは難しかった可能性が高い。
しかし、古代であろうと水行、陸行日数を数え間違える可能性はほぼゼロに等しい。
ということは、もうこの時点で方角に関係なく、不弥国のすぐ近くにある(北部)九州の可能性が
一番最初に消えることは猿でもわかるはずだよね???
考古学会も畿内説でほぼ固まっている。
九州説を主張してる人は振り上げたこぶしを下ろせないだけでしょ?
いい歳した大人がいつまでもみっともないよ。
もういい加減あきらめようぜ。 あれだろ?三国志だと持ってるだけで皇帝を名乗れるやつだろ? >>215
問題は、何故そんなに大事なものを埋めてしまったのか? 明仁上皇陛下(当時天皇陛下)が92年に訪中した際、中国側からの贈答品の中に印鑑が入ってた
でも付き人が機転を利かせて断ったっていう話は感心した >>1
邪馬台国論争で奈良説と福岡説のプロレスを延々やるために徳川トクチョン朝鮮人がわざとそういうことにしたんだろうな
===========
来歴
1931年(昭和6年)に、同金印は当時の国宝保存法に基づく国宝(文化財保護法の「重要文化財」に相当)に指定され、世に知られるようになった。
金印の出土地および発見の状態は詳細不明。福岡藩主黒田家に伝えられたものとして明治維新後に黒田家が東京へ移った際に東京国立博物館に寄託された。
1978年(昭和53年)に黒田茂子(黒田長礼元侯爵夫人)から福岡市に寄贈され(黒田資料の一つ)[4]、1979年(昭和54年)から福岡市美術館、1990年(平成2年)から福岡市博物館で保管・展示されている。
出土地
文献上は筑前国那珂郡志賀島村叶崎(かなのさき)または叶ノ浜とされている。志賀島(現・福岡県福岡市東区)の島内であるが、正確な場所は明らかとなっていない。
発見の状態について
江戸時代天明年間(天明4年2月23日(1784年4月12日)とする説がある)、水田の耕作中に甚兵衛という地元の百姓が偶然発見したとされる。 そもそも、福岡市博物館という地方の展示物であるという時点で、差程価値の高いモノではないとわかるでしょう。
ただ、陛下に忠誠を誓った最初期のアドミラルの可能性はありましょう。 専門家の間では偽造てのが定説なんだよな
めちゃくちゃ疑わしいけど100%否定する材料が無いから放置されてる感じ やっぱりいっぺん現物を中国に送って鑑定して貰うのが良い >>210
>226年 曹丕(文帝)が病床で重体に陥ると、司馬氏は、その長男の曹叡(明帝)を皇太子に立てて皇帝に即位させる
>>211
>237年 司馬懿と同じく曹操に仕え、曹丕が京兆王曹礼を後継ぎにしたいという考えを持っていたことを知る公孫氏は猛反発し、
>ついに燕王を称し、曹叡(明帝)と司馬懿からの独立を宣言し、韓と倭を掌握して玉璽を与え、挙兵する
妄想?? >>208
苻堅の死にっぷり知ってるのか?
とても名君と呼べる器じゃないぞ >>251
日本の後に見つかったペアになる中国の金印も偽造したのか
どうやって中国のものまで偽造したのか教えてほしいものだ その後は海外使節の送り迎えをしていた士族なんでしょ >>242
そんなに不満なら掲示板じゃなくて直接言えよ 金印は間違いなく偽物なんだが、それを完全に否定出来んから
やむおえず国宝にしているだけ。 国宝級の金印がそんなド田舎の畑に埋まってるわけなかろう
与太話もいい加減にせぇよ >>261
昭和になってから中国で見つかった金印とペアになるデザインや字体を江戸時代に作れるなんて
贋作したやつには予知能力でもあったんかな >>255
最後は不運も重なって命を落とす結果になったがそれでも名君と呼べる逸材だろう もうハンコの時代じゃねえんだよ
デジタルにしろいい加減にしろ 金印の使用目的は泥封だから大きくする必要は無い、貴重な金を
使う訳だから最小限の大きさがあれば良い >>265
不運が重なった?
いやそんなことないだろ
そして自分のために命を投げ出す臣下が皆無という衝撃の事実
あそこまで見事な国家崩壊は無い
孫権あたりと比べてもスリーランクくらい落ちるわ 福岡藩に金印を偽造するメリットが何にもない
江戸の幕府や京都の朝廷に献上して褒美頂く訳でもなし
これが偽造したものだと判明したら、江戸時代だと偽造者は打ち首になる
そんなリスク犯して偽造する理由がない 地味な福岡藩を日本中に目立たせるには金印発見は最高だった
しかし、当時の福岡藩はどうやって金印の形や印字が判ったんだろうか?
かなり学識のある人物がいて贋作を指導したと思っているよ >>275
当時はまだ発見されてなかった中国側の金印と同じデザインに出来るのだから
もう学識があるとかいうレベルの話じゃないな
昭和からのタイムトラベラーか古代人の生き残りのどちらかだろう >>264
そうだから金印は本物だろうけども
本当に志賀島の畑に埋まっていたのかは分からない
何処とは言わないがゴッドハンドしてた藩あるいは藩閥はあるからな >>56
有ったと仮定すると問題ないが
そんなものあるはず無いから
問題だなw >>279
南北朝の動乱を避けて南朝から移り住んて来たものが多かったのだろう この金印は江戸時代に発見されたが
鑑定の上で江戸時代に作られた物との説がある。 >>270
江戸時代って骨董の偽造天国だし鑑定者が偽造で打首になったなんて聞いたことがない
偽造で打首になるソースくれ >>283
祭りの見世物で河童や人魚のミイラを偽造するのとは違い、これは福岡藩庁と言う公儀に届け出てる
武士を欺いてタダで済む訳がない >>284
お前の感想はどうでも良い
打首になるソースを提示せよと言ってるんだ >>32 漢の印章の仕様は年代毎に違うんだ
それがはっきり分かったのは20世紀に入ってからなんだよ
だから贋作は有り得ないという見解が優勢 教科書とか結構デカく載ってるから、そこそこ大きさと思うけど、実物はメッチャ小さいのな
まあ会社の角印と言えばそんなもんか >>135
>それが7世紀白村江の戦いで破れた倭国は
>援軍を送るという日本に騙され水城を
>開けてしまった。
>そこに日本兵がなだれ込み滅ぼされてしまった。
>これは中国の歴史書唐書にはっきり書いてある。
これは知らなかった。
ところで防衛戦で水城を作って
その湖の中に籠城する者なのかな?
これは水責めになっているけどw >>288
福岡藩がこれを本物と認めたから打ち首になってないのが全てだ 敗北の証拠を隠蔽するために水城の水門を開けて博多湾沿岸を洗い流し、その時に流された金印が現在の志賀島で発見されたんだと思う >>249 >>1
やっぱり徳川トクチョン朝鮮人関係の、今の安倍晋三高市早苗三浦瑠麗なんかと同じ、最初から嘘吐き詐欺師ゴッドハンドでっちあげだったんだろうなあ
=============
黒田氏/出身地 称・近江国伊香郡黒田村
(黒田)孝高は織田信長に従い、その重臣である羽柴秀吉の麾下に入った。..1587年(天正15年)豊前国中津城主12万石となる。
1600年の関ヶ原の戦いで孝高・長政父子は徳川方につき、軍功により筑前国52万3千余石を与えられ、福岡藩を立藩。
長政が初代藩主になった。以後黒田氏は代々福岡藩主となり国替もなく幕末に至る。
第6代目藩主継高の時.. 後継問題に見舞われ.. 岡山藩池田氏から外孫・長泰(後の相良長寛)を養子に迎える予定だったが、
幕府の要請により治之が一橋徳川家から養子に入った。その後も養子が続き、多度津藩京極氏・薩摩藩島津氏・伊勢津藩藤堂氏から迎えている。 百済を救援に行ったはずの倭国が、逆に百済系の難民に乗っ取られたんだと思いますけどね 金閣寺、原爆ドーム、世界遺産ちっさいあるある
唯一デカいのは堺市の古墳 >>32
日本史自体が江戸時代の暇なおっさんが作ったラノベだったら… 委奴国の中枢、岡本遺跡は水城の北側にあるよ
その時に志賀島まで流れたんだなきっと
ケーケケケ
WBCなかなか面白い^^ >>76
中国の記録によれば、1の金印が倭の王に授けられたのが57年、
卑弥呼に授けられたのが239年だから年代全然違う 西暦57年か
そんなん日本じゃまだ未開の時代だろ
どうやってシナまで渡航できたんだよ? 壱岐、対馬を経由して半島西海岸を船で往航してたんでしょ
半島の陸地は危険だし 航路は最初の方はシナの船に先導して教えてもらったのかな これは余談なんだけど、春日基地の防衛力強化は誠にありがたい。
以上 >>284
畑の地主や小作人の名まで記されているんだろ?
仮に出土地偽装するとしたら藩も地主小作人もグルでなければならない
福岡藩のメリットは何だろうか?と考えると
全て偽り無い真実と考えるのが自然かなあ?と感じるね 見つかった場所は古代祭祀のある島
金印が埋められていたから崇められていたのか、聖地だから金印を埋めたのかは分からないけど 岩戸山古墳、磐井の墓には猪を盗んだ盗人の石像が残っている
黒曜石の産地、イワイの姫島のアカルヒメ伝説も興味深い
委奴は普通に読めばイナ、猪名と思うが レプリカをガチャで売ればウケルと思うけどあるのかな 息長鳥シナガ鳥の猪名
シナ津彦は神風の神さま
関係ないけど石見神楽って面白いな
石見神楽の切目
切目「「それ神といつぱ、天地未分の昔より、虚空円満におはします。これは即ち一元の神、又五行別像のその理はいかに。」
介添「木火土金水、青黄赤白黒の色を得て、五柱の神と現はれたまふ。」
切目「さてその垂跡は」
介添「事解男、速玉の男、伊弉諾の神社。」
切目「無念の鼓は。」
介添「父母の声。」
切目「羯鼓太鼓は。」
介添「幼兒の声。」
切目「みな神風の源は。」
介添「重波よする伊勢の宮。古歌に曰く、片そぎの千木は内外に變れども誓ひは同じ伊勢の神風。」 播磨風土記に五色の石神、丹後国風土記の浦島太郎の話には五色に輝く亀姫が出てくる
香川に五色台という旧石器時代から続くサヌカイトの産地がある 邪馬台国は連合国の名前なんだからどこにあるとかおかしいわな
国外から成田だか羽田に降り立った後に
日本国を探すようなもの >>250
日本史を塗り替えた稲荷山鉄剣は行田市の埼玉県立さきたま史跡の博物館
縄文のビーナスと呼ばれる土偶は長野県茅野市の考古館
が所蔵しているので地方の博物館所蔵だから価値が低いということはない >>317
そうですね
その日本史を覆しそうなのが元岡出土の庚寅銘大刀
だけども全国的に話題にはなってないんですよね
製作年代が確定している貴重な大刀なんですが… 大泊瀬幼武天皇
隠りくの泊瀬、海人小舟の泊瀬
浦島太郎かもなあ >>1
金に含まれる不純物を分析すればおおよその産地(金の産地ということになるが)はわかりそうなものだけどな 志賀島は安曇族の本拠地だったとこだよね。関係あるのかな? 発掘者や届出人には功労金か何かあげて
金印は福岡藩が所有していたの? お前らが受けてきた歴史教育は明治政府とGHQの創作だから全くの捏造 108.729g * 金95.1% * 9000円/g
金価格だと93万か
確かに小さいな ワタツミの声はもう届きませんよ
春日高射群
見学に行きたかったな 朝鮮半島南部と九州北部は同一国家
高句麗対策で漢が属国にした
これ以降日本人が高句麗に攻め込むようになった 魏志倭人伝には朝鮮半島のプサン付近の国名は狗耶韓国との記載が
あるので北部九州とは異民族の韓民族の国だった事が判る
任那日本府と言う狭い地域に北部九州の倭人が住んでいた。
韓民族は古墳時代に大勢が関西の滋賀県や奈良県に移住してきたから
関西人はほぼ朝鮮人と言う事になる 天智天皇と中臣鎌足は朝鮮人で日本史で思い切り捏造のあるところなんだってね 出所が非常に怪しい、ということを何故か言ってはいけないタブー製品の1つじゃないですか >>267
あぁ文書に押すのではなくて、泥封につかうのか。
なるほど日本にはまだ文字なんてなかったからなぁ。 黒田家の家臣に歴史に詳しい者がいて黒田の殿様が黒田家を目立つ
存在にしたいので偽物の金印作りを思い立ったんだろうな
高松塚の古墳の壁画も地域愛に溢れた者が明治以降に描いたんだろう
それにしても日本は嘘だらけの国だな、国民性だろう。 漢時代の鋳造物と同じ成分構成だったらしいから本物だと思うけどね
江戸時代に成分構成真似て偽造できたとは思えないし 金を用意できる人間がなんで農民やっとんねんという一言で偽造は否定できる 偽造しようにも金印の正確なサイズやデザインを知りようがなくね? 奴国が金印を授かったのが57年で、
50年後の107年には倭面土国王帥升が、
奴隷を引き連れて朝貢しているので、
この時に奴国は倭面土国に支配されてしまった。
魏志倭人伝にも奴国に王は居ない。
このときに奴国王だった阿曇氏は、
志賀島に逃れて行ったのだろう。
ということで、倭面土国は、
北部九州の支配者となった
邪馬台国であることは間違い無いだろう。 コピー品を見せられてるだけなのに
本物は国が持ってる 奴国ではなく猪名国でしょう
弥生時代後期〜は博多辺りからは播磨の土器が多数見つかる
無数の磐座のある六甲、麓の廣田神社、香川のサヌカイト、摂津国風土記にある飯盛山のトヨウケ
猪名の地の痕跡 金印が畑で見つかるわけがないんだよな。
邪馬台国は明らかに埼玉県浦和市のことなのに、キチガイどもが九州だの奈良だのとわめいてる。
ああいう妄想狂ってどうにかできないもんかね。 邪馬台国が埼玉にある訳が無い、どんなに考えてもある訳が無い
邪馬台国は現在の青森市付近だったのは間違いない、陸奥湾周辺が
邪馬台国の中心地だった訳だ >>346
韓国や中国の古文書より、卑弥呼は韓国からの渡来人であることが分かっている
古代韓国人は北九州経由で日本に渡ってきた
そのため、邪馬台国は北九州以外に存在し得なかった >>346
それは考古学的に見て完全な間違い。
青森にはキリストの墓がある。
旧約聖書の記述を見ても、ユダヤの民がエジプトを出てイスラエルに至るのに40年がかかっていることから、
青森がイスラエルであったことは完全に明らか。
青森は邪馬台国ではなくイスラエル。 >>347
はい間違い。
邪馬台国は埼玉県浦和市。
謝罪して訂正して。 >>108
建設現場から遺跡が出たら文化財保護法ですごい面倒なことになるってミナミの帝王で見たわ 高2の頃に付き合ってた子が歴女だったので
デートは博物館や古墳ばかりだった
なので今でも博物館や古墳に行くと
思い出してフル勃キしてしまう 実際見ると物凄い小さいから本当にびっくりするよなw 不思議なんだけどさあ、2000年前になんで金が貴重な金属元素だと分ったんだろうな
今でこそ埋蔵量が少ないって常識だけどさ、当時はそうゆうデータなんかないわけだよね
金属の性質とか光沢から特別な存在価値を見出したのかね >>355
金は時間を経ても綺麗なままなのが大きいと思う
古代日本に青銅が入ってきて、その後鉄が入ってくるが
最初はどの金属も金ピカで綺麗なのにだんだん色が変色して青くなって粉を吹いたり、黒っぽくなって腐食してしまう
金はほぼ劣化せず、いつまで経っても美しい 親魏倭王の印も金印のはずだから今後見つかるかもだが
まあ溶かされてそうだよな
一緒に渡されたという使者用の銀印は腐食してるだろうから絶望的か >>359
銀印と、あと銅印も貰ったんだったかな?
卑弥呼の金印だけじゃなくこれらの印も出てくると面白いよね
調べ直さず書くから記憶違いあるかもだが、卑弥呼の部下の都市牛利が銀印銅印受け取ってたなら
どこかに埋葬することなくその子孫に手渡しで受け継いでそれが1800年の時を経て日の目を浴びるとかね
都市って名字の一族の発祥は長崎らしい
その都市さんの末裔が持ってるとか、またはどこかに埋葬したのを口伝で教わって知ってるとか
妄想するの楽しい 猪名は東瀬戸内海摂津だよ
摂津の一等地は大阪城で古墳だったと云われている石山があったところだな
播磨風土記には五色の玉を持つ石神の話が残る
五色に輝くえべっさんが堺に降臨して五色の石を埋め磐山を作ったという伝承がある
その磐山が何処か不明だが大阪城の石山かもしれん 猪が片目の事代主に
播磨風土記によれば五色の石神は片目を新羅人に掘り潰され涙を流していたとある
石神の胸にも涙の跡があったらしい サヌきの五色台はサヌカイトの磐が豊かにある地、まさに磐余
余は溢れんばかりに豊かなという意味 これ、扱いは大きいけど真贋はいまだに不明なんだよね。 マーライオンみたいに大きいレプリカを作ればいいんだな >>359
筑後平野だろうから、近年のような大雨で流されたのかもな >>366
中国の学者が見ても否定する要素がないのも事実 >>19
後年発見された物との比較で似ているから、本物で間違いない >>345
浦和市ではありえないわ俺は与野市だと思う 都市牛利は道主宇志比古の事で
丹波道主命の事だろう。 ちなみに彌馬升は御馬皇子の異名がある
大若子命=大幡主命である事が確定した。
御間城崇神では無かった様だ。
ということで、彌馬獲支は大若子命の弟、
乙若子命であることも確定した。 あと張政の子孫も分かった。
弓長氏である。
大分に代々住んでいるということで、
張政も大分に居た様だ。
伊都国では無かった様だ。 お前らの第一印象も背が小さい、イチモツが小さい、器が小さい 張政は19年倭国に滞在して、
それで晋に帰って行った事が分かっている。
弓長氏は子供達だろう。
で、この19年という年月が、
丁度子供が成人する年月だが、
コレがモチーフになった物語が、
竹取物語のかぐや姫である。
で、迦具夜比売命は垂仁の后として実在しており、
この父が大筒木垂根命ということで、
大筒木垂根命が張政である。
で、弟に彦湯産隅命が居た様だが、
コレが温泉に関係している神のようで、
ということで、張政は温泉が好きで、
別府に滞在して、竹細工等を作って生活していた様だ。 >>318
それ高価な上に、印影がデタラメなヤツでは? 南北朝の動乱期には倭の諸国の首長は誰も北朝にも南朝にも朝貢しなかったのな 邪馬台国の勢力は、
丹後から近江そして尾張伊勢東国と、
倭健命の東征のルートを辿って、
本州各地に進出して行った。
一方の日向生目の勢力は、
瀬戸内海から吉備播磨を通じて大和纏向に進出して行った様だ。 この吉備播磨纏向の勢力が崇神で、
考安→孝昭→孝霊→孝元と
徐々に吉備から大和纏向へ進出して行った。 ということで、
邪馬台国の丹波國造と、
日向生目氏と、吉備御間城氏の
三氏の物語を一系にまとめたのが
日本書紀や古事記で、
神武の東征はなく、
日向生目氏は婚姻関係によって、
日向→邪馬台国→吉備播磨→大和纏向へと進出して行った。 ぶっちゃけた話
邪馬台国は海洋民族の土人
大和王朝は中国の戦乱から逃げてきた避難民が作った物
まったくの別物だよな 奴国の印ではなくて伊都国の印という説もあるよな
史書に記述が漏れている金印の例って他国にあるのかな >>358
そのうえ、柔らかくて加工しやすいときたもんだ
上級の装飾品には完璧な素材だろ >>388
由来はともかく
邪馬台国と大和朝廷をむりやりでもこじつけたい頭の悪い勢力が、邪馬台国論争を混乱させてるだけなんだよな
九州だろうが近畿だろうが
無理矢理くっつけようとするのやめようや 南北朝時代、北朝は仏教を南朝は道教を信仰していたが日本に仏教が入ってこなかった所を見ると戦乱を避けて大陸から日本に移住したのはほぼほぼ南朝江南の民と見ることが出来るだろう 中国大陸南方からの渡来人は甕棺墓制だから、北部九州の一部だけにしか
来なかった、本州に来たのは方形周溝墓制の北方系渡来人が北朝鮮の
平壌付近から渡来してきた。要するに日本人と言っても北部九州人と
それ以外の日本人では異民族だったと言う事だ 金印は地元の漁師の縄張り争い的な理由で出土地を誤魔化した報告してるっぽいな
余計な事しやがって
出土地や詳細不明じゃ史料としての意味が減るだろうが >>394
昔からの疑問として
こんな小さなものをよく見つけたと思うし
また偉い人に差し出したなと思う
詳しい経緯はあまりわかってないよな
農民が見つけて…とは言われてるが
このモノの価値を理解していたのか
それとも小作農なら、土地の持ち主のものとして
地主に差し出したのか
とか、そのへんのことも >>346
邪馬台国は九州に決まっとるだろ
当時の航海技術や文化からして、そんなに遠くにある都市と交流できるわけがない
青森まで行く前に、まず九州と交流するでしょ >>1
これマジでよく見つけたよな。
1000年に一度の大発見と言っていいよマジで。 誰かタイムマシン作ってくれ
出土するトコ俺がちょっくら見てくるから >>396
役所に提出する際の口上書によると、発見者がしばらく保管してたけど噂になって騒ぎになったので届け出たとあるな 福岡県の志賀島の畑で見つかった金印はそれ以外何もなかったらしいね。
普通は他の遺物も一緒に出るらしいのに、金印の場合はそれだけで非常に不思議らしい。 卑弥呼は実在しなかったとの説。
邪馬台国も真偽不明。
奈良に王朝ができるまでの歴史はよく分かってないそうだ。 金印について
「発掘者、出土場所、状況が全く不明」
①発見地が叶の先とあるがそれがどこかわからない。地図に印も何もない
②発見者の名前が最初と変わっており、最初の発見者の甚兵衛と言う人物は実在が確認されない
③巨石の下にあったと言うが発見地とされる場所に巨石も何らかの遺跡も何もなかった
④金印の時期の発見地は当時は浅瀬の海岸で物を埋めるような場所じゃない
「金印について」
①前漢武帝時代の?王への?王之印と大きさ、文字型式、蛇紐などが一致
②大きさが漢代の尺に一致
③印の文字や位の表現が外の印と一致
④金の成分が当時の他の物とほぼ同質
⑤倭を委の文字に簡略化する手法
※これらは江戸時代に知り様がない情報なので偽造不可
出土状況=×
金印が本物かどうか=〇 >>397
出雲ー朝鮮半島東海岸は、対馬使わないぞ >>406
このルート興味深いのにあまり話題にされないよね
あと北陸なんかも朝鮮半島とのルートありそう なんで埋めたのかも謎だな
①隠した=巨石があったとの事で隠すにしては目立つ
②大切に保管した=周りに何もなくこの埋納物しかないので不自然
③捨てた=情況を考えるとあり得る
④実は全く別なところで見つかっていた物を志賀島で見つかったと嘘をついてる
最有力は④だろうと思う >>408
④だと江戸時代の人にとって、志賀島は「そういうものが出てきてもおかしくない場所」と認識されていたってことだよな?
それも興味深いな、何か神聖な由来でもあったのだろうか。 当時の日本人は字が読めなかったからそこらに捨ててしまうのも仕方ない >>407
北部九州の倭奴国(筑紫城)の漢委奴国王のが
対馬経由で朝鮮半島西海岸の公孫氏の帯方郡と
独占交易していたところ
奈良の邪馬台国の卑弥呼が出雲を武力併合して
出雲ー朝鮮半島東海岸(新羅)で対馬を使わず独自交易開始して親魏倭王になっちまったもんだから
北部九州の倭奴国(筑紫城)の何代目かの漢委奴国王の
天津日高日子波限建鵜葺草葺不合命(彦瀲)の四男坊の神武が、
漢委奴国王である父の命を受け
奈良の邪馬台国の、対馬を使わない出雲ー朝鮮半島東海岸(新羅)の独自交易ルートを潰しに行ったのが
神武東征だからねぇ >>410
前半は、まあまあ納得
後半は、想像力が先走っている感じ。 北部九州の倭奴国(筑紫城)の漢委奴国王が
対馬経由で朝鮮半島西海岸の公孫氏の帯方郡と
独占交易していたところ
奈良の天照大神が建速須佐之男命の出雲を武力併合して
出雲ー朝鮮半島東海岸(新羅)で対馬を使わず独自交易開始して親魏倭王になっちまったもんだから
北部九州の倭奴国(筑紫城)の何代目かの漢委奴国王の
天津日高日子波限建鵜葺草葺不合命(彦瀲)の四男坊の神武が、
漢委奴国王である父の命を受け
奈良の天照大神の、対馬を使わない出雲ー朝鮮半島東海岸(新羅)の独自交易ルートを潰しに行ったのが
神武東征だからねぇ >>409
でも志賀島って遺跡で大したものほとんど出てないんだよな
永い間使われていたんだけど重要な物がない
細型銅剣の鋳型くらいだな
実際大した場所じゃない可能性が高い
だから考古学なんて影も形もない時代で江戸時代の人が重視する意味が分からないな 隠した理由は戦争だろう。倭国大乱が起きたとき
金印なんか持っていたら無事である保証がない
魏志倭人伝にも奴国が登場してるが、強大な王の存在は伺えず
官の名前から邪馬台国の影響下にはいってるのがわかる。
つまり倭国大乱前後で奴国に変化があったということ。 自己レス
間違えてた
>>405
①叶崎の場所は書いてあるけどそこは③④の状況だったため発見場所としておかしい
すまん >>415
何代目かの漢委奴国王の大綿津見神(豊玉彦)の娘と結婚して、跡を継いだのが、彦火火出見尊(山幸彦)
その彦火火出見尊(山幸彦)の次の漢委奴国王が、天津日高日子波限建鵜葺草葺不合命(彦瀲)で
その第4皇子が、父の漢委奴国王の命で東征した
神倭伊波礼毘古命(神武) >>40
超大国が土人国に金印くれること自体が
ありえないくらいの高待遇だろ
漢が高層建造物をバンバン建ててた時に
日本は竪穴式住居だぞ 黒田官兵衛は大阪城の普請に関わっている
漢委奴国の金印は大阪城の石山から見つけたというストーリーは考えやすい
摂津はかつて猪名県と呼ばれていて、漢の猪名国、播磨〜摂津を中心にした国だった可能性がある
猪名の地域は旧石器時代から人々の営みの痕跡が残り、縄文時代晩期には炭化米や石包丁が見つかり稲作が行われていた可能性が高い場所
猪名の枕詞はシナガ鳥
シナガの地は元々箱根の東の神奈川辺りで、後々聖徳太子絡みで河内にもできる
箱根には猪の伝承があり神奈川の寒川神社の御神体は猪の頭
イワ大神の子伊勢津彦が神風を起こし逃れた先はシナノ
伊勢の風の神さまはシナツ彦シナツ姫
播磨風土記にある五色の玉を持つ石神は暴風を起こした
六甲山系は磐座だらけなんだよな
最後に五色に輝くえべっさんは堺に降臨して五色の玉を埋め磐山を作ったという伝承がある
丹後風土記の和歌によれば大和辺に風が吹き上がって大変なことになったらしい。百舌鳥古市古墳群の終焉かもな
近い時期に九州では磐井が亡くなっている(岩戸山古墳には猪を盗んだ盗人の石像がある)この時代に石神が力を失っていったのかもしれないね
五色の石神が大切なものを埋めたのは堺近辺の磐山、古墳だろう
大阪城の石山が一番ぴったりくる >>19
歴史改竄の常習犯は東北地方だと思うけどね?
十三湊のアレとか、会津(山川)史観とか
それこそ馬場壇A,Bのゴッドハンドとか
なぜか某維新志士の絶筆と称する物が何種類も
東北各地に存在したり、目茶苦茶だぞ? 金印偽物って言いたい人の気持ちもわかるけど、数十年学者たちが様々な角度から検証してるんだよ。
で本物って結論になった。
まぁ本物と考えていいと思うよ。 伊豆や甲斐は聖徳太子の領地が多く、神猟の神事も残っていたと風土記にある
聖徳太子は甲斐の【黒】馬に乗り富士を越え、河内のシナガの地にやってきたと伝承にある
シナガは元々は伊豆の東側の地でそこの人々が河内に移り住んだのかもしれないね
河内のシナガの地叡福寺にある聖徳太子廟は【無数の結界石】で守られている >>428
そんな気持ちは全く分からん
偽物だというのならそれなりの根拠を出してくれないと意味ないよね
疑うだけでは >>308
藩に藩校2つあって政争してた
遅れを取った方が見つけた 福岡藩(殿様の遺言で2校開校)
甘棠館(1784-1798年)火事で消失し再建しなかった
修猷館(1784-)現在も存在
金印1784年発見 開校4日後に発見
村人から知り合い?に渡され更に豪商に渡されその知り合いの学長へって流れ >>400
あーそうなんだ
その他の情報(レス)も詳しくありがとうございます 誰かが神社かどっかにあったのを自宅に保管していて
その子孫に畑からでたって言い伝えたとかは? 金印が無事ならええんよ
そんなことよりも、今のうちに博多湾沿岸域をミサイル攻撃し、証拠を全て消して再起不能にしようぜ(笑) このあたりの奴らってみんな部落だろうから、その方が都合が良いわな 神武東征とかアホな書き込みを見かけるが、奴国の金印は東征よりも
200年以上前の事なんだぞ、北部九州の国々もまだ統一されていなかった
時代に有力な奴国が漢に挨拶に行ったと言う事なので、本州などは国が
あったとは思えんし、あっても漢と言う国の存在すら知らなかったのは
間違いない。 おそらく奴国は戦争かまたは本能寺の変のような謀反が起きたかで
光武帝から戴いた金印を奪われかねない事態に追われてたと見る
そこでごく少数の幹部数名で金印を土に埋めて隠そうという計画が決まり
奴国があったとされる地域から船で渡った先の志賀島という誰にもさとられないような土地を選んでる。
物証は覆らないからな。後で発掘できるよう巨石を上から置いたのも金印を守るためと思われる >>444
神武東征→奴国の順だよ
神武東征では、波速之埼を抜け湾内に侵入して白肩津という海岸にある草香邑から上陸したと書かれてる
これは大阪平野がまだ海だった時代でないと使えないルート
河内湾が堆積物でせき止められて淡水湖になる前の時代というのは、紀元前の頃でないと絶対に不可能
地質調査も年代測定もおぼつかない7世紀の書物に、その時代の地形を書けてた理由は、その当時の地形を見て記録していた以外にはあり得ない
橿原遺跡に至っては、昭和に発見されて、年代測定で紀元前7世紀と判明してる
こういう物証を想像で否定することは不可能だよ >>447
金印が永遠に見つからなかったら、意味ないけどな >>442
おたくはまず基本的な歴史から学んだほうがいいな
5ちゃんに毒されすぎ 金印は本来中華王朝に返すものらしいから
日本で見つかること自体イレギュラー 誰かに見つけてもらうなんて考えてないな
むしろ見つけられないようにしたとしか思えない
自分らで埋めた場所がわかるように金印を巨石でカバーして
だから1800年もの長い間誰も金印を見つけられなかった。
王の証を埋めるなんてのは相当切羽詰まってたと思えるし、敵に追いかけられて
金印を持って逃げた先で隠したという見方もできる
いずれにせよその事実は伝わっていないのだから金印を埋めた奴国の人間も
倭国大乱で殺されたのかもな >>447
後漢書には倭の奴国の位置は「倭國之極南界也」とある
魏書の言う奴国は九州北部かもしれないが、後漢書の言う倭の奴国はおそらく別物
でないと、極南界(最南端)とはならない
現存する後漢書が范曄が後世に再編したしたものであり、先行後漢書が消失しているため
どれだけ何を信じれるか、結構怪しい書物ではあるけどね ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています