【佐賀】世紀の大発見!?「邪馬台国時代の墓」を発掘、有力者の墓の可能性も…吉野ヶ里遺跡の「謎エリア」で発見された石棺墓 ★6 [樽悶★]
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表面の石に「線刻」と呼ばれる多数の記号
https://newsatcl-pctr.c.yimg.jp/t/amd-img/20230529-00010005-rkbv-001-3-view.jpg
佐賀県の国指定特別史跡「吉野ヶ里遺跡」にある「謎のエリア」で大きな発見です。邪馬台国時代のものとみられる石棺墓が新たに見つかりました。
■「線刻」と呼ばれる多数の記号
吉野ヶ里遺跡で先月末に見つかったのは、縦1.7メートル、横3.2メートルの「石棺墓」です。吉野ヶ里遺跡には長年、神社があり発掘調査ができていなかったいわゆる「謎のエリア」がありました。石棺墓は、去年5月に始まったこのエリアの調査の一環で見つかったもので、表面の石に「線刻」と呼ばれる多数の記号があります。一般の石棺墓より規模が大きく、見晴らしの良い場所にあります。
■来月に石棺墓の入り口を開ける
邪馬台国があったとされる時期と重なっていることから、王など有力者の墓の可能性もあります。佐賀県は、来月5日にこの石棺墓の入り口を開け、1週間ほどかけて副葬品などを調べる方針です。
5/29(月) 15:27配信
https://news.yahoo.co.jp/articles/b1ecc567bd0e979d7100aa006959d899e4beb142
弥生時代の大規模な環ごう集落の跡が残る佐賀県の吉野ヶ里遺跡で、弥生時代後期のものとみられる墓の一部が出土し、専門家は「かなり身分が高い人の墓の可能性が高く、さらに調べれば歴史的に大きな意味を持つ発掘になる可能性がある」と話しています。
吉野ヶ里遺跡では、歴代の王の墓とされる「北墳丘墓」のすぐ西側にあり、貴重な発見があるのではと注目されながら手付かずだった「謎のエリア」と呼ばれる場所で去年から、10年ぶりとなる大規模な発掘調査が行われています。
この調査で先月、4枚の平らな石が並んだ状態で見つかりました。
4枚を合わせると全長は2メートルほどになり、調査を行っている佐賀県によりますと、墓の「ふた」だということです。
弥生時代後期、1世紀から3世紀ごろの有力者の墓のふたとみられ、表面には「×」のように見える線が交差した記号のようなものが無数に刻まれていて、埋葬した際に何かしらの意図を持ってつけられたとみられています。
吉野ヶ里遺跡では、これまで弥生時代中期の王の墓が見つかっていますが、邪馬台国が存在したとされる弥生時代後期の有力者の墓だとすれば、初めてとなります。
吉野ヶ里遺跡の発掘に長年携わってきた考古学者の高島忠平さんは「『謎のエリア』の中でも最も高く、見晴らしのよい場所にあり、かなり身分が高い人の墓の可能性が高い」と指摘したうえで「さらに調べれば、当時の政治のあり方を読み取るうえで歴史的に大きな意味を持つ発掘になる可能性がある」と話しています。
佐賀県は今後、墓の中を調査することにしていて、副葬品などが見つかるかが注目されます。
2023年5月29日 5時40分
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20230529/k10014081181000.html
世紀の発見となるのでしょうか。佐賀県は5月29日、吉野ヶ里遺跡で邪馬台国時代のものの可能性がある石棺墓が見つかったと発表しました。
「邪馬台国時代の可能性が高い。いま、我々は非常に興奮してときめていて、これからどうなんだろうという気持ちが高ぶっています。」(佐賀県・山口知事)
吉野ヶ里遺跡で新たに見つかったのは、縦1.7メートル、横3.2メートルの石棺墓です。去年5月から発掘が始まった、「謎のエリア」と呼ばれる場所で見つかりました。
見晴らしの良い場所に単独で存在し、線刻といわれる記号が刻まれているなど、これまでにない墳墓だということです。
佐賀県は、吉野ヶ里遺跡でこれまで見つかっていない弥生時代後期、いわゆる邪馬台国の時代の有力者のものの可能性があるとしています。
6月5日から石蓋をあけ、副葬品などを1週間ほどかけて調べるということで、佐賀県の山口知事は「世紀の発見を期待する」と話していました。
5/29(月) 19:08配信
https://news.yahoo.co.jp/articles/b5e6e9a20939b8f67d4fe4a0042eb3cdfa748a0c
https://newsatcl-pctr.c.yimg.jp/t/amd-img/20230529-00530401-fbsnews-000-2-thumb.jpg
★1:2023/05/29(月) 19:34:47.21
https://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1685451589/ どーせチョッパリお得のゴッドハンドだろ
いい加減にしろ 一万人だかの国が三国志の魏に相手にされるか?
赤壁の戦いだけで93万人だぞ?
だからこの墓は天草四郎の墓なんだよ 公孫?の家来の趙雲
https://www.o-japan.com/?k=202347
公孫康に朝貢した卑弥呼
公孫?と公孫康は別系統の公孫氏らしい つまり、墓の上に神社があったのか?
バチが当たりそうで怖いな >>9
中国人の数字を真に受けるなよw
南京とかどんだけ盛ってるのよw 決着がついた感があって、なんか寂しいね。
畿内は今までゴッドハンドで誤魔化して来たけど等々メッキが剥がれたわけです。
九州説派の皆様、おめでとうございます。 地表を剥がして時間が経っていると
思うが、石の隙間から外気が内部に
侵入することの影響は無いんだろうか? >>15
全然関係ない東北のアマチュアの旧石器の捏造と、畿内説を混ぜてる嘘吐きの方が印象悪いけどな >>16
せめてビニールハウスで囲っておいて欲しいよな >>11
古墳と神社、遺跡と神社はセットみたいなものよ、墓だったっり、昔の居住地だったりが、元の意味は忘れられて
聖地として後から神社ができたりする。 権威保つために死ぬまで畿内説を言い続ける学者かあ
悲しい生き物だ >>17
そんなもんでしょう
700か7000くらいか >>11
墓に埋葬されてる人を祀る神社なら罰当たらないだろ 前スレの佐賀県民よ
早くじゃまたい国Tシャツを作るのだ 吉野ヶ里は神埼郡の前身かな
風土記によると景行天皇の行幸まで荒れてたとかなんとか >>10
公孫氏の末裔を自称するのが常世氏
神社もあるな まだやってるのかよw
今回見つかった石棺墓から何が出てきても
何もわからんだろ 邪馬台国時代?
そんな時代あったっけ?弥生時代だろ 前スレで女王国の範囲という話題になってたけど
調べたらいろんな説があるな
学者の論文にあった一つの説では不弥国は女王国ではなくて女王国の最西端は本州の山口県だというものだった ひみこのつかいがあらわれた!
コマンド
たたかう
にげる
ぼうぎょ
あやまる 公共料金の領収書とか請求書が出てきたら証明されるんじゃね? >>38
卑弥呼のマイナンバーカードとか出てくるかもよ
でもミスで他の人に紐づけられててまた誰だか分らなくなって混乱すると言うw >>39
公務員のミスで源義経さんに紐付けれてます
義経の墓ですね >>39
あの頃はマイナンバーカード無かったから源泉徴収票だな 邪馬台国論争なんてどうしても神功皇后が実在したとはしたくない連中のマッチポンプに過ぎない。
しかし、神功皇后の逸話は日本書紀にもないものを含め九州にものすごく存在し。畿内にも存在する。
年代が合わない説もなぜか日本書紀を否定しながら書かれている天皇の年齢を正しいとして積み上げるという。とんでもギミックを使っている。
それに対する解答は魏志倭人伝に倭人は年齢の数え方が年に二つという数え方をしていると書いてある。これを適用するなら年代も完全一致する。逸話も非常に多くが重なり神功皇后でないとするのは困難だと考えるのが普通で本居宣長もそこは否定できない。ただ朝貢は日本書紀にも書かれていないしやっていない。そこに何某かの嘘か間違いやギミックがあるとするのが女酋長説の原点。
東と南問題も当時の中国の日本列島の地図が大陸の東ではなく南へ延びていたんだから錯誤も何の不思議もない。地図を示されてどこだと聞かれたらここかな?となって、距離ではなく行程による記事もきかれたほうが実際に自分たちのやっている遠征の行程を具体的に教えた結果。 Wikipediaを読み漁ってたら、墓石や棺に線を入れるのは新羅の文化だと書いてあった
これ朝鮮人の王族の墓なんじゃね 邪馬台国って、記述通りに解釈すると辺鄙な場所になるんだろ?
んで、それは問題だからとボクちゃん解釈の果てに九州だの畿内だのと
辻褄合わせのボクちゃんの中の邪馬台国はココ合戦やってるけど
何で距離だけボクちゃん解釈にして邪馬台国の様式は信用してんの?
距離でボクちゃん解釈をするなら邪馬台国の様式を記した記述もボクちゃん解釈するのが当たり前じゃないの?
何で都合に合わせて信用したりボクちゃん解釈にしたりしてんの? >>45
水行というのは船で移動するというだけの意味ではなく
川沿いを歩いて行く時にも使う
それを踏まえて読めば普通に九州の範囲内で収まる >>47
それはただの俗説
スサノオは高天原から朝鮮半島なんて寄ってない >>44
割りと甕棺墓とか銅剣銅矛銅戈とか首刈りの風習とか大陸由来だし時代毎に大陸半島から移民してきたんだろう
北部九州はその玄関口として存在して、倭国大乱が発生したという流れでは 地元の菓子屋は競って邪馬台国まんじゅうを作り始めてるはず >>49
収まらんけど
鹿児島を越えて太平洋に出てしまうよ >>49
魏志倭人伝の行程を素直に読めば邪馬台国は四国内 魏志倭人伝に、大倭は市場の監視役をしていたと書いてある件、
仮に邪馬台国というのが日本列島を指すのだとすれば、
女王国エリアは北部九州、大倭は倭種の国の一つだった大阪
ダーワ(大倭) → ダーバン(大阪)
銅鐸時代に一世を風靡した大阪だったが、倭国大乱で敗北し、女王共立後は市場の監視役に格下げとなった
ぐらいしか考えられないな >>53
その系にいつもしゃしゃり出てくる吉野ケ里だぜ?w
とっくにやってるw
なんならキリストの墓とかも作りかねない >>51
渡来の玄関口だしいろんな時代にさまざまな渡来があったと思う
倭国大乱はタウポ火山の噴火による異常気象で黄巾の乱と同時代な気がする >>51
首刈りも大陸由来か・・・中華そのものが蛮族じゃん >>52
魏志倭人伝は「渡海」「水行」「船行」を区別しています。
「裸国・黒歯国 ・・・・・ 船行一年」
「船行」=「渡海+水行」と理解できます。
「渡海」= 海を渡ること。
「水行」= 海を渡らずに海や川を行くこと そもそも畿内説は桃の種と銅鏡しか根拠ないから弱すぎる
桃も銅鏡ももっと早くから伝わってきた可能性は高いし
古代人を舐め過ぎなんだよ畿内説は😡 >>62
正直、そうだと思う
宇佐八幡神託事件にあるように古代の宇佐の威厳はヤバい 魏志倭人伝にこだわらず、後漢書を見れば
倭国は日本の別種なり、とあるから
倭国は日本の西方の糞田舎にあったと確信している
邪馬台国が九州でも、そのもっと東には別の有力者がいたということ
そうでないとやんごとなきおかたは、なぜに近畿で発生したのかを説明できない 親魏倭王の金印が発掘されるくらいじゃないと終わらんよね >>68
意外と捏造する奴でないな
中国とかならもう100個はニセモノ出てそうなのに 宇佐は継体朝の正当性を主張するために継体の子の欽明天皇が先祖とする神功応神を祀った社でしょう
ただその元になった土着の信仰(渡来の神様?)というのはあったと思う
土着の信仰は謎が多すぎて何もわからないけども…… 親魏王の金印贈られたのはクシャーナ朝のヴァースデーヴァ王と卑弥呼の二人だけだが大国クシャーナ朝と弱小邪馬台国では全然釣り合いが取れない >>48
記述通りに解釈するなら初っ端の壱岐島にすら辿り着けない
魏志倭人伝の方角は南から東に徐々にスレていってる >>18
そのアマチュアの捏造を知りながら擁護してたのが、かつての歴史博物館の館長で畿内説の人なんだよ >>48
その通り!!
邪馬台国は日本じゃなくて、インドネシアのジャワ島辺りが妥当
おそらく、マレー半島から稲作を伴ってきた海洋漁撈民族が
伊都とか末蘆(マツラと読まれているが、マレーが正解だと思う)を名乗って
住み着いたのが正しい解釈
当時は、邪馬台国の支店みたいな役割だったはず(魏志倭人伝にもそんな記述があった)
ちなみに「邪馬台国」は間違いで、『三国志』の記述通り、「邪馬壱国」が正式なもの
読み方は、邪(Ja)馬(wa)壱(wut)で、インドネシア語で粟とか黍とか雑穀を意味する
邪馬壱国の支店日本国の古い地名に阿波や吉備があるのはそういうこと 渡来系のDNAは四国が最も多く、次いで畿内が多い
という調査結果を見ると
高天ヶ原が四国で畿内に神武東征というパターンもありだと思う。
神武東征の地名に四国がでないのは四国が出発点だったから。
この場合は邪馬台国と大和朝廷は無関係
大和朝廷がかつて九州に栄えていた邪馬台国の歴史を背のりして奪ったのが
古事記や日本書紀の記述なんだろう。
大和朝廷の箔付けに邪馬台国が使われた。
魏志倭人伝に書かれている卑弥呼ってウチの神功皇后ですよ
と歴史を改竄した。 そもそもなぜ、宇佐八幡が記紀にでてこない?
宇佐八幡がちょっと別ルーツだからでは?
そう、じゃまたい国系なのだ!
というファンタスティックな同人誌を描いてやるぜ さっさと開けて被葬者の性別確認しろよ
男だったらその辺の産廃で埋め戻しちゃっていいくらい重要な事だ >>73
西域から万七千里10万戸の大月氏がやってきて金印を授かった
その10年後東夷から万二千里(洛陽から帯方郡まで五千里)15万戸の邪馬台がやってきて金印を授かった……
……これは盛ってるでしょ >>58
https://cir.nii.ac.jp/crid/1390282680671563648
これだね、いつの時代も食糧と水は生存には不可欠だしね
異常気象なら日蝕も畿内より九州で見られたんだよね
>>60
古代殷(商)の王墓からは攻め立てた羌族の男子の首が綺麗に並べられてた状態で出土してる
他にも甲骨文字のように動物の骨を炙って入ったひびで吉凶を占ったりしてるけど日本でも同じような鹿の骨で出来た遺物が見つかったりしてるし、古代国家の夏、商、周などとの繋がりは少なからず日本にもあったのだろう >>48
都市から都市までの距離が百里単位で丸めてたり
海を渡れば一律で千里とか
そういう記述を見れば
数字はそれっぽいだけだなって分かるからじゃね?
東に進むと書かれてたとしても真東ばかりではないことも分かるだろ
東西南北の4方向しか書かれてないなら、北東から南東の範囲内を東と表してるんだろうという事も分かってくるわな >>83
高齢の独身女性なんだよなぁ
でもみんな妙齢の美女に描くんだよなぁw 邪馬台国は畿内
吉野ヶ里はお墓の人骨300体分が中国系の渡来人の特徴と似ている
と公式ページに書いてあるから伝説通り徐福集団の住まい >>73
魏としてはつり合いはとれてるよ。
支配領域の外にいた東西の勢力がどちらも恭順し支配下にはいった。
支配域内、とくに隣接の勢力間で印章に格差をつけて競わせることは重要だが、
西域のその先のクシャンと、半島のその先の島の倭と、互いに顔をあわせることもない。 縄文、弥生、邪馬台国、古墳時代っていう新しい時代の誕生なんか 被葬者はたいした人物じゃないだろ
権勢を誇った人物なら墓じゃなくて古墳だからなw >>85
東南って書いてる箇所もあるよ
だから方角は4方向ではない >>51
三種の神器もそうだけど初期の道教など大陸との祭祀の影響は大きいな
後の時代に密教が最新の祭祀として受け入れられたのと同じ >>91
なるほど、8方向か
ならその分狭めりゃいいだけだね
東北東から東南東までの範囲だと大雑把に捉えとけばいいんだろう
そこに誤差も含めて
北東から南東の範囲内という考え方もあるだろうな >>95
宗像三女神って日本書紀より前はどんな信仰だったんだろうな
あと八幡信仰とか秦王国とやらの渡来の神様かな…… >>91
こんなの地形をみりゃ明らかなんだよ
呼子から糸島の山を見れば真東に見える
糸島の平野部についたら山が北に見える
地図がなけりゃ東南に進んだと思うわな 邪馬台国から古墳時代につながるの?
もともと近畿になにがしらの大国があったんじゃね? >>90
畿内説さん、みっともない真似はやめて下さい >>4
少女はブルマーはくと、はくことも見られることも含め女性ホルモンが活性化し、社会に潤いをあたえ、
男はブルマーを見ることにより喜びと男性ホルモンが活性化し、社会に原動力をあたえるのだ
つうかおれは何を言ってんだ >>87
中国史書には倭人は呉越の子孫と書いてある
つまり中国系 なんかブルマの話で盛り上がってるのが笑うんだけどw >>98
「禁書令」で記紀より昔の歴史書は燃やされたもんねー
この令が出された時点でもっと古い歴史書あったろwみたいな >>104
うるせえBBAがはいても何にもなんねんだよw 石棺開けたら何か緑色のネバネバしたのが入ってて
それに触れた調査員がゾンビになるんだよ
そして周りの調査員たちも噛まれてゾンビ化
ゾンビランドサガ3!堂々公開! >>108
いつ、どの天皇がどんな内容で出したん? >>100
紀元前数千年前には各地に数百人〜数千人の集落があったから人は確実にいた
それが国の体制をどれたけ整えたかは時期や場所にもよる
それを邪馬台国と言い張ってるからおかしな話になってる >>93
道教に限らず彼らの崇拝する多神教(アニミズム)や文化風習建築そのまま日本にもたらされてると考えてる
百越のトン族のような釘一本も使わない建築はまるで現在の宮大工のよう
アカ族の村の境界に建てられる門は日本の鳥居のルーツのよう >>86
在位期間を考えると若い頃からBBAになるまでだぞ
最後は漫☆画太郎のババァみたいになってたんだと思う 3世紀中葉に纏向を中心として吉備大和伊勢濃尾の連合勢力が存在し、それが後のヤマト政権に繋がったところまでは確か
前方後円墳祭祀を始めた(確立した)勢力でもある
その連合に北九州が加わっていると考える→畿内説
その連合に北九州は加わっていないと考える→九州説
これだけ >>100
邪馬台国の時代にはすでに畿内にヤマト政権があった
纏向遺跡がその証拠 >>116
嘘つき乙
纒向は古墳造営キャンプ場だそうだ
地元の人もそう言ってた >>116
纏向に九州の痕跡がなさすぎるから九州の参画はもう少し後の時代だろうなあ >>114
残念だけど「大乱で即位した時に年すでに長大」なんや
即位時から既にBBAで独身なんや
熟女枠なんや >>121
なんにもないところに古墳は作らんだろ
権勢を誇示する狙いもあるんだから >>122
なるほど最強のババァとして君臨していたけれどさらに年を取ってやられてしまったのか… 近畿勢力ってあれでしょ
何の役にも立たない銅鐸作ってウホウホしてた変態軍団
しねばいいのに 謎のエリアから「謎のエリア古墳」になったな、しかも径百歩の >>19
黴とかに侵入されたら、厄介なんだけどねぇ
何にも無ければかまわんけど
未盗掘の可能性が高い様な気がするので
ワクワクしてるんだから >>128
邪の字を当てたのはシナ
自分たちが使ってたわけじゃない ほんの千数百年前の歴史すら曖昧な日本
朝鮮半島なら高句麗百済新羅の時代
ローマ帝国は全盛期、中国なんて昨日の事のように記録されている
日本の歴史は捏造と改竄だらけなんだろ
これだから嘘吐きジャップと言われるんだぞ >>111
『続紀』
元明天皇の和銅元年(708年)正月
元号の制定を祝って全国に大赦を行う詔が出されたことを記し
その中に「山沢に逃げ、禁書をしまい隠している者は、百日以内に自首しなければ罰する」という内容のものがあります。 >>132
そのころすでに半島にも倭人がいて勢力圏を持っていた >>124
デカい古墳だから広い空き地を選んだ
それだけの事
当時の被葬者は県外の人ばかり >>95
今でも宗像三女神祀ってるでしょ
アマテラスの娘やね >>135
畿内説は、卑弥呼の墓の候補地だったときは都の中心みたいなこと言ってたくせに、違うと確定した途端にコロッと言うことが変わったなw >>98
元々は一人の神だった
航海の神と混ざったのだろうね >>137
古事記と日本書紀は編纂が長かったのよ
禁書令で参考文献を燃やされたとされてる >>129
印象操作で畿内説を広めてきた毎日新聞が大騒ぎしないという事は、重要な事だという事 宮島に祀られる伊都岐島大明神とは何か
厳島神社は宗像三女神が祀ってありますが、
927年に編纂された延喜式によると、
祀っていたのは伊都岐島大明神でした。
いつから宗像三女神に変わったのか
戦国時代に変わったようです。よく調べてみると、「伊都岐島大明神」というのは
日本書紀や古事記やその他の書物にも全然登場していない正体不明の神だとなって、
名前の似ている市杵島姫神に合体させてしまったようです(笑)
清盛の時代に祀っていたのは伊都岐島大明神ということは、
厳島神社を収蔵した時、祀っていたのは宗像三女神ではないということになります。
宗像三女神は九州の「海上交通の女神」。だから厳島神社は清盛の日宋貿易のための神社だ
というのが定説なんですが、この正体不明の伊都岐島大明神という神は、いったい何者なのか?
実は、現在でも厳島神社で祀られているのは「伊都岐島大明神」です。
戦国時代の終わりに宗像三女神に変えられてはいるんですが、内部で祀られている神は変わっていません。
つまり、宗像三女神は対外的」な設定であって、厳島神社の神はずっと変わっていないわけです。
いやいや、そういう問題じゃないだろ。無茶苦茶過ぎる。
これでは、ほぼ総入れ替えだろ。
全く別の神社になったと思われてもしょうがない。
推測するに、さすがに正体不明の神ではマズいと宗像神に変えたのか。
まあ、この辺がアバウトな広島らしいというか、細かい事は気にしないというか
瀬戸内気質というか、ラテン系というか、もみじ饅頭は美味しいというか。 >>139
なんたって何十年もかけて纒向建物一つだけだもんな
住居も無いし出てくるのは
飯を炊く土器、残飯、土木用具ばかり >>142
いつから編纂してた?
何を燃やしてた? 箸墓が卑弥呼の墓だと言うならせめて開けてから言えと
たぶんモモソヒメどころか男王の墓だと思うぞ
何の功績も事績もなく、まんこに箸刺さって死んだ愉快な女にあんな巨大な古墳つくるとかありえんだろ >>137
古事記と日本書紀は編纂が長かったのよ
禁書令で参考文献を燃やされたとされてる
そもそも、似た内容の同じ文献がすぐに出されるのおかしいしょ?
前の文献を突き崩したのよ
その参考文献が燃やされた 出雲にしても83年に荒神谷遺跡が見つかるまでは、ただの神話の国扱いだった。
神話ではすごい国のように言われてるけど裏付ける遺跡何もないよねと。
まあ、箸墓古墳は未来永劫調査できないから邪馬台国が解明されることはない。
解明したければ国民が署名を集めて宮内庁を動かすしかない。 >>148
その割に日本書紀なんて、10個くらいの文献の記録を併記してるけど? >>100
九州から関東までの土器が畿内に集まってたから
おそらく当時日本最大の人の交流の中心地だった >>147
モモソヒメは崇神天皇の二代上の世代なんだよね。
崇神は10代目で1〜9代は実在が疑われている。
つまり、モモソヒメは実在が確定する天皇より前の話なわけ。 >>149
既に解明されてるだろ
これぞサイエンス? 邪馬台国の場所は「日食」で特定できるか
https://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1655311038/
卑弥呼の時代にいつ皆既日食が生じたか
247年3月24日と、248年の9月5日にあったことがわかります。
247年3月24日に日食が起こった時刻は、北九州では日の入りの頃でした。
太陽は日没までにほぼ皆既日食となって真っ暗になり、そのまま日が没したと考えられます。
一方、近畿では、その時刻にはまだ太陽は半分くらいしか隠れていないまま、日の入りとなります。
日没後も真っ暗にはならず、徐々に暗くなってゆきます。
この見え方の違いから、皆既日食によって世界が真っ暗になるという恐怖を体験したのは
九州の人たちであると斉藤は結論し、247年に福岡市で見えた日の入り時の皆既日食を
岩戸日食と断定すれば、議論は明快に片付く。そして卑弥呼の死亡年は247年となり、
邪馬台国も九州と言うのが有力となる >>147
しかしあれだけ大きな墓が天皇でもない女性の墓として伝わってるのには何らかの背景はあるんだろうな
そこを想像するのは面白い >>155
伝仁徳天皇陵もニントクさんのお墓じゃないらしいな いろいろ記録できる現代でもすぐ忘れちゃうからノートなんか無かった時代だと余裕で忘れるんだろうな
しかも寿命短いわけだし
100年ぐらいでも7,8代ぐらい代替わりしちゃうんだろう >>99
それだと里数が合わない
半島から対馬までと対馬から一支までと末盧までほぼ同じ距離なんだから
そもそも倭人伝が方角を間違えているのは伊都国だけではない
壱支の方角も奴国の方角も間違えている >>155
まんこに刺さった箸とか入ってたら信じる おまえら仮定の話好きだな
こんなもん神の手で1発やろ 纏向遺跡がこの先生きのこるには
<ソース>
読売新聞YOL(21.11.2018)
邪馬台国の候補地?見学施設、財政難で建設延期 社会
奈良県桜井市は、邪馬台国の有力候補地として注目される纒向(まきむく)遺跡で、
2020年度中の完成を目指していた「ガイダンス施設」の建設延期を決めた。
財政難が原因。整備を進める史跡公園の核となる施設で、遺跡見学の拠点として
期待されていたが、新たな完成時期は未定だ。
■纏向遺跡で出土した土器の産地
伊勢・東海系:49%
北陸・山陰系:17%
河内系:10%
吉備系:7%
近江系:5%
関東系:5%
播磨系:3%
西部瀬戸内海系:3%
紀伊系:1%
■学者の見解
「これら外来系の土器・遺物は九州から関東にかけて、および日本海側を含むものの、
九州由来もしくは朝鮮由来の土器は非常に少なく、この遺跡が大陸との交易は乏しかったと推定される。」 >>154
日食もそうだし、文献、遺物、状況証拠、全部揃ってるのは九州北部だけなんだよな >>138
宗像三女神の中で子供がいないのがイチキシマヒメ、後に弁財天となる >>158
昔九州説の人で珍しく魏志倭人伝の記述に方角の間違いがあることを認めた上で
九州に上陸してから記述通りに邑を探していこうと試みた人がいたけどどうもしっくりこなかったみたいだな >>144
>伊都岐島大明神は女神と夫とその子供の三柱の神さまがワンセットとなった神様です。そして、この三柱のうち「主祭神」は女神です。つまり、「厳島神社の神は女神」なんです ... >>158
千里刻みの水路や百里刻みの陸路がそんなに精密だと思ってるのか?
壱岐の方角も、比田勝からみればほぼ南だぞ >>156
じゃあ誰の墓で、なんで入れ替わったとされるん? >>161
これ、大和朝廷が卑弥呼の古墳を捏造しようとしたんだろう
我が大和朝廷は魏志倭人伝にも記述がある邪馬台国の末裔であり
極めて由緒正しい政府である
というプロパガンダの為に作った >>162
日食は小説家のただの妄想・ポエムでしょ。日食なんかほんの数分で終わるし曇ってたらそもそも見えない。 これって、半島からきた民族が倭国を侵略して後漢の支配下になったって話だろ?
何が大和民族だwwただの屈辱でしかない事実を捻じ曲げて歴史だ!文化だなんて叫ぶからおかしくなる >>168
誰の墓でなんでなんだろうな?
ニントクさんの墓と言い切れないから大仙陵古墳とか誤魔化してるみたいだぞ 意外と距離はいい感じなんだよな
唐津から糸島の山に囲まれた場所までの直線距離って対馬から壱岐までの距離の半分くらいでしょ >>169
頭悪くない?大和朝廷は卑弥呼は九州の女酋長か神功皇后の間違えでしょと解釈してるのに >>172
だから、もともと半島に倭人の拠点があったんだって
そして、その倭人や倭人と友好関係にあった百済人が渡来人としてやってきただけじゃないか >>172
前漢が日本なんだろ
単純にw
白村江で戦った相手はギリシャ >>174
誰の墓なのか書いてるわけでもないし、違うかも?なんて言い出せばきりがないけどな
文献資料に書いてあることを疑うのは良いけど、違うと言うならじゃあ誰の墓なのか?までは突き詰めないと
何でもらしいで終わってしまう そそそ。ギリシャギリシャw
コンスタンティヌスの事Szilágyiって >>173
宇佐は東に海があるから強力な候補だけど日田や八女もワンチャンあるよ >>181
藤村新一を吉野ヶ里に派遣すんのか?
流石にやめてくれ 宇佐は秦氏が最初に定住した場所。その後京都に移った。 >>182
考古学的に時代が合わないならどうしようもないので…… >>179
もともと、というのがわからん。
倭人はいずこから日本列島に来た人々だろう。
おそらく半島から来た人々が最も多い。
俺ら倭人が、半島を征服して拠点をつくってやる、みたいな意識があったかどうか。
水運でつながる日本列島と朝鮮半島に、いくつものクニが入り乱れ、倭人や半島人とのアイデンティティなしに、争ったり共闘したり、してたのではないかな。 もしかしてみんな>>133の禁書令を習ってない?
義務教育の中1で習ったぞ
まあ福岡やけど >>190
つまり仁徳天皇が142歳で崩御したのを正しいと読んでるのね? >>192
百済と新羅が対立してるから百済と同盟を組んで支援しようという意図はあったじゃないか >>172
魏志倭人伝には朝鮮半島の南端を「倭の北岸」と記している
つまり倭人の勢力は朝鮮半島の南端まで及んでいたということ >>189
宇佐神宮の宮司の宇佐氏は安心院出自の安曇氏だったかと もう邪馬台国とか無視してればいいねん
それよりわかってる近畿の政権を深掘りしていけや >>195
百済の成立は4世紀だな。
古墳時代の話をしているのかと思った、すまんな。
4世紀は、半島で大陸中原の影響が薄れ、高句麗・新羅・百済といった古代国家が整理する時期。
このころに、国家意識、国家への所属意識がうまれたのではないだろうか。
遅れて、日本列島にも大和王権という古代国家が成立し、新羅や百済とは別種の大和との意識が生まれたと考えられる。
国家意識があれば、他国と敵対したり、同盟を結んだりといった、世界が出現するな。
それ以前は、「もともと倭人の支配領域」といった観方に意味がないというか、
後の世の概念を古代世界に当てはめることによる間違いだと思う。 >>184
卑弥呼は日田に住んでいたのかとは思う。
久留米辺りを邪馬台国と仮定すれば日田は丁度日の出の位置に在る
これは奈良に対する伊勢神宮の位置に同じ
その後の日本の都市づくりのベースになったのではないか
古代九州において日田が日の出を意識して付けられた名称である可能生は濃厚で、近くに朝倉や夜明などの地名が残る
卑弥呼が日の巫女であるならば、日の出の場所に居を構えるのは不思議な事じゃない >>196
倭人が住んでいることと、倭人が古代国家を形成してある地域を勢力下に置くことは、全く別だからな。 >>196
魏志韓伝にも、韓国は東西は海で南は倭と接すると書いてある
それにも関わらず半島南岸を倭と認めないのは韓国人と畿内説 >>202
古代国家がないところに、支配域とか、勢力圏とか、あるわけないんだよ。 >>11
後付けで神社建てたのかもね。
何かの目印で。 >有力者の墓のふたとみられ、表面には「×」のように見える線が交差した記号のようなものが無数に刻まれていて
出雲の荒神谷遺跡で出土した銅剣もすべてに「×」が刻まれていたと
なにかの本で読んだ記憶がある >>205
そうなのか。知らなかった。おもしろいな。
唐子鍵遺跡(弥生後期)の土器にも、×や〇や線の組み合わせの記号が刻まれている。
あれは、なんだろう?
土器の内容物か、所有者の印か、はたまた想像もつかない何かか。
いずれにせよ、漢字がなだれ込まなければ、文字に進化したであろう何かだよな。 古代朝鮮の伽耶には日本人の遺伝子を持った高貴な人々がいたと判明
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/news4plus/1656071245/
縄文人が朝鮮半島に移住していた可能性
ウィーン大学で行われた研究によって、古代朝鮮の南部に存在した「伽耶」の古墳において、
日本人に特徴的な縄文人のDNAを多く持つ人々が埋葬されていたことが判明しました。 邪馬台国は普通に奈良や京都だろね
九州にはしょぼい住居跡しか出ないし >>199
任那や百済が滅ぶまで倭人の勢力が半島にあった
言いかえれば日本と半島の国境は海ではなく半島にあった
半島側の倭人は大陸と接してる都合上、列島より多民族の血が入りやすかった
それだけのことだ
現代日本人のルーツに変わりない >>204
神道の葬式は
あなたはこれから神になって残された家族や子孫を守るんですよ
と死者を神に祀り上げる儀式
普通に埋葬された人を祀る為に作られた神社だろ >>213
畿内にあるのはヤマト政権の遺跡だろ
邪馬台国とは無関係 >>200
日田は日本で1枚しかない鉄鏡の存在感が凄い >>203
国家とか関係なく、倭人は半島南岸を投馬国と呼び、北部九州を邪馬台と呼んでいた
それらを国と記したのは中国の勝手だ >>73
西域担当の曹真が大月氏との通交を開いた功績と、東夷担当の司馬懿の功績を並べるため、邪馬台国をクシャン朝並の遠くの大国に仕立てあげただけだからね
まあ陳寿も晋に仕える身だし仕方ない >>224
九州に王朝があったとしたらステキやん? >>214
「もともと倭国という古代国家が日本列島に存在し、その国家は国境管理を含む統治機構をもち、倭国の住人は自分は倭人であるというアイデンティティーをもっていた」という世界観だよな。
そんな近代以降の概念を古墳時代にあてはめて、おかしいと思わないかなというのが俺の指摘。
「もともと」って、その古代国家倭国はいつ成立したと想定してんだよ。 >>196
その言い方はおかしいんだよな
倭人の故地は半島だから
最後の倭人半島勢力は南部に残っていたというのが正しい >>175
俺もこれに気がついてた陸続きは直線距離で計ってるよな
当時の中国人はそういう計算技術を持ってたっていう記事だったか論文だったかで見た >>219
漢魏時代の「国」とは、城壁で囲まれた都市国家を中心とする共同体のことで、統治者は王と呼ばれる。
近代の国家とは別だよ。
魏の役人には、環濠や柵で囲われた共同体は国。 日韓がタブーにする半島の歴史
https://bookmeter.com/books/383638
古代日本は朝鮮半島から稲作などを学び国を発展させてきた
という定説は大嘘である。半島最古の正史『三国史記』には、
新羅の基礎を造ったのは倭人・倭種、中国の『隋書』には、
新羅も百済も倭国を文化大国として敬仰していたと明記されているのだ。
日韓古代史の「常識」に異義を唱え、韓国の偏狭な対日ナショナリズムと、
日本のあまりに自虐的な歴史観に歪められた半島史の新常識を提示する。 >>228
古墳時代に列島にはいくつもの倭人の国があった
半島にある倭人の国だけが国としての体裁を持ってなかったと考えるほうが不自然 >>230
三平方の定理で二点間の直線距離を求める事は計算では可能たけど、そんなことはしてないと思うよ >>229
だよな。
水運が陸運より容易な時代でもある。
対馬をはさんで、半島南部と北九州とで行き来していたんだろう。
それを、近代国家概念をあてはめて、
倭人が朝鮮南部を支配領域においた、
いや、朝鮮半島が日本列島を支配した、
みたいな対立をするのって、バカなのかと。 卑弥呼の船はなぜ大陸から帰れたのか
https://egg.5ch.net/test/read.cgi/scienceplus/1655463616/
「逆転の発想」から見えてくる邪馬台国
邪馬台国はどこにあったのか?
遺跡・出土品や『魏志倭人伝』の記述などさまざまですが、
どれも決め手を欠いている状況です。
そこで一つ、検討してみたいのが、中国大陸との交易路です。
卑弥呼は国づくりのため積極的に大陸に船を出し、有用な物資や技術を導入していました
しかし、朝鮮半島から対馬海峡を横断して日本に帰る航海は至難の業で、現代人による
実験航海でもほとんどが失敗しているのです。なぜ卑弥呼の船は戻れたのか?
播田安弘氏の仮説から、邪馬台国への意外なルートが見えてきました。
日本史サイエンス 邪馬台国、秀吉の朝鮮出兵、日本海海戦の謎を解く
https://bookmeter.com/books/19632105 >>234
近代国家ではないんだよ。
古代国家でもない。
古墳時代には、半島にも列島にもいくつもの国があった。
そのとおりさ。
環濠集落や柵で防衛した共同体(=国)が、いくつもあったんだ。 >>239
で、渡来人とはそういう人や、同盟を結んだ国の人が列島にやってきたにすぎない >>240
同盟を結ぶには、同盟の主体たる古代国家が成立していなければいけない。
古墳時代に成立していたの? >>235
思い出した
隋の時代には筑紫の東に秦王国という外国人国家が記載されている
つまり畿内説が主張する3世紀には九州から関東までの統一国家だったとする説は成立しない 本当に世紀の大発見ならマスコミがもっと大騒ぎすると思うがな >>241
現に邪馬台国は30か国の連合体
どうして半島では同盟ができない設定なんだよ >>243
マスコミは畿内説捏造グループの一員だからお察し >>243
同時代の中国の墓とかなら文字資料に副葬品、はては遺体まで残ってたりするけど
これはなんか石棺に線刻かなんかあるだけ
さらに副葬品ざくざく出たら面白いだろうけど 済州島が倭人の島だったからね
平戸方面から済州島に渡るのは不可能だから
半島南部は安全に移民すらできる倭の勢力下だったんだよねー
つまり白村江で負けるまで玄界灘は内海だったんDeathよ
常識だよ? >>244
日本列島の古墳時代に古代国家は成立していたのか、と聞いているだけだ。
同盟を結ぶには、その主体としての国家がなければならない。
半島北部では、すでに古代国家が成立している。
同盟は結べる状態だ。 >>243
長野の警官ころし、関東地震震度4、北朝鮮から飛翔隊
どれもこのニュースには勝てないよな
どれも >>248
いや、邪馬台国でできることが、なぜ同じ時期の半島ではできないのかと聞いてるのだが
倭人の集団がいたのは事実だぞ 「朝鮮に田植えをもたらしたのは日本」という話
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/news4plus/1680389394/
『朝鮮雑記 日本人が見た1894年の李氏朝鮮』著
本間九介さんによれば、それまで朝鮮半島では田植えはなく、
籾種を直まきして稲を育てていたことになります。これが本当なら、
稲の苗を育てて、それを水田に植えるという技術は日本から
朝鮮半島に伝播したことになります。 >>251
別に原住民である縄文人を殺しまくったわけじゃない
ユウゴウして弥生人になった >>250
>いや、邪馬台国でできることが、なぜ同じ時期の半島ではできないのかと聞いてるのだが
俺は、そんなことは言ってない。言ったやつに聞けばいいんでは?
>倭人の集団がいたのは事実だぞ
魏志に書かれた事実だな。
上の難癖と何の関連があるのかは不明だが。 >>253
その縄文人だって最初から列島にいたわけでもないし
弥生時代の後も古墳人の形成をもたらすくらいの渡来があった 素人の皆様でも邪馬台国は九州と一発で分かります
帯方郡から邪馬台国までは12000里です。
↓
帯方郡(平壌付近)→狗邪韓国(プサン)まで7000里
狗邪韓国→対馬まで1000里
対馬→壱岐まで1000里
壱岐→末盧国まで1000里
末盧国→伊都国(福岡県糸島市)まで500里
伊都国→奴国まで100里
奴国→不弥国まで100里
これで10700里です。どう考えても、残り1300里では畿内までたどり着けません。 >>254
祭器と思われる青銅器の類似や入れ墨などの習慣の類似を思うに、
俺も来たんじゃないだろうかと思うなあ。
でも、どうやっていつごろ来たのかがわからんね。
いつか解明されると楽しい。 日本は昔から超大国。だから黄金の国ジパング、ヤハウェがいる国、
神々の国ヤーパンと呼ばれリスペクトされた。
その黄金の国にたどり着くことが世界中で英雄とされ、大航海時代が始まり
アメリカ大陸の発見という快挙につながった。日本が世界史を動かしているのだ。
渡来したユダヤは日本に溶け込んだ。
そして、ヤハウェの変わりに八幡大菩薩を祀った。
全国に八幡社が一番多い理由がそれだ
八幡は音読みでヤハタ、これをヤハウェの変わりとして崇めたのである >>255
もともと倭人の集団がいた、に難癖つけてきたのはお前だぞ >>259
黄金の国になるのは佐渡の金山が見つかったあとじゃ >>257
対馬から壱岐が50〜60キロだから
文章上の1000里=50キロ〜60キロなんか >>256
一万年以上の歴史をもつ縄文人が、現在を入れても二千年経ってない間にチマチマと渡来した民族の血で薄まったりはしない >>260
IDがないので、発言を追うことはできないが、
もし、お前が、朝鮮南部に倭国の国境があった、倭人の支配域だった、もともと倭人の領域だった、同盟を結んだ、などと、
近代国家概念を古墳時代にあてはめて得意になっていたのと同一人物ならば、バカだなと思う。
違う人なら気にすんな。 >>262
1日の航海で着いたという程度の意味だよ >>230
一寸千里法やね
でも使ってないと思うw
そこまでして測るメリットない >>201
そりゃそうだろう
ただ倭人の勢力圏が半島南部にあったことは日中韓すべての史書や碑文に記されている事実でしょ 弥生時代になる頃は北東アジアからの渡来
古墳時代になる頃は東アジアからの渡来という話はあったな >>213
纒向には人が生活してた痕跡がない
突然計画的に作られて突然消えた都市 >>267
一寸千里法は夏至の時の同じ長さの棒を持って影の長さの差で二点間の直線距離を求めるもの
起点側の影の長さを測っていないと意味がないし、同じ時間に測らないと意味がない上、季節が進めば距離が変わる
こんなものを使ってホイホイ直線距離を計算できるわけがないよ >>226
>>227
エタヒニンてコンプレックスの塊だからすがる何かが欲しいだけだろ
九州土人は >>276
そんなことしなくても、ヤマト政権は九州南部の発祥だぞ
記紀にそう書いてる 見学できるの?いまから並んでいい?どこに問い合わせるの? >>276
その書き込みからもの凄い劣等感を感じるわw
畿内説が君の自尊心の拠り所なの?
www >>274
纏向ってまだ8割方未発掘なんだけどな
吉野ヶ里と同じように、神社があったりもするし、民家や畑、商業施設なんかがあるので
立ち退いてくれないと発掘ができない
畑は持ち主の善意で休耕してくれる事があるので、ちまちま発掘を進めてる状態 >>276
明治維新を起こして東京作ったの九州勢なんで大量に移民しとる
佐賀なら大隈重信の故郷で早稲田佐賀というラグビーで公立高校に108-0で初戦負けするような学校があり
毎年、早稲田卒の数%は佐賀・福岡民じゃ 神奈川県も鎌倉幕府あったし一万年前の遺跡、装飾品、土偶とか大量に出てくるけどみんなだから何?って感じ
九州は何でそんなに遺跡が好きなの? >>282
馬具が出てきた時点で、邪馬台国候補としては終わったけどな >>288
民家はないのか、まだ未発掘なだけなのか分からんという話し >>285
伊都国や奴国は福岡だが、邪馬台国は微妙だな >>289
ここの畿内説に、邪馬台国じゃない纏向なんて用はないよ >>229
倭人の先祖が長江河口あたりから流れ着いたら九州と半島南岸あたりに同時に辿り着くだろ、北方系が半島通って日本に来てるなら馬も一緒に来てないとおかしい 弥生時代の墓群から鏡、剣、勾玉が一緒に出土 佐賀県内初
https://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1626047399/
佐賀市は、七ケ瀬遺跡で確認された弥生時代後期の集団墓地の甕棺や石棺から
副葬品の中国製の青銅鏡や鉄剣、勾玉が出土したと発表した。
「三種の神器」に数えられるこれらが一緒に出土したのは佐賀県内で初めてだという。 >>257
残り1300里は女王国までの距離だぞ
邪馬台国と勘違いしてる? >>298
そりゃ福岡が欲しがってるなんて思い込みで語る奴と、意思の疎通は難しいよ 大和・大倭・大日本(おおやまと)の由来はヤマト王権が大和と呼ばれる地(現在の奈良県内)に在ったことに由来する。
邪馬台国=大和でしょ 畿内派のコメ見てると何も調べず無知な発言してる人ばかりで笑えるw >>300
なんだ糸クズだったのか
そりゃ意思疎通は無理だから、俺のことは無視してくれ >>294
居たかどうかもわからんのになんでそんなに卑弥呼に拘る?
現実の遺跡の方が重要だから >>301
ヤマト政権が統一する前から、邪馬台と名乗った国があった話 >>282
箸墓開けるのが一番早いのにね
ホント開けさせて欲しい >>308
倭国大乱を収めた国で、親魏倭王のいる国 九州からロクな遺跡が出てこない時点で蛮族の地でしょ >>310
その遺跡を調べましょうというスレでもある >>257
>帯方郡から邪馬台国までは12000里です
帯方郡から女王国までは12000里です
邪馬台国は女王国の一部でしかないです >>314
纏向がどうでも良いなんてことはないから >>313
よく分からんパチモンの鏡とか、馬具とかは確かに出てこないな なんか工作活動用のスレか?
何日このスレ上げてるんだ? 対馬と壱岐の距離で1000里の記述で
奴国と邪馬台国の推定距離が1300里なら
福岡から半径70キロ〜100キロ圏内
近畿はありえない
あり得るのは山口県や広島県の西側や島根県の西側まで 神武東征で神武がいなくなったとたん、滅んだ九州王朝
スゴいのは神武帝で九州はぜんぜんスゴくないということ
九州がスゴいのなら、神武がいなくなっても九州王朝は続いて栄えていたはず
九州がいくら、俺たちが元祖だと言っても
滅んでしまっては何にもならない
日本の実質的な歴史は畿内の奈良や京都からスタートだからな
福岡、佐賀、まったくからんでこない >>316
纏向には何もないと言ってた畿内説がいたからさ 魏志倭人伝は国や年代を間違えてる可能性もあるわけで >>301
近畿と北部九州とは一致する地名が多く、北部九州の方は原を「はる」と古語で読んだりしてるので
近畿の地名が後からついたとじっちゃから聞いた
ちなみに山門(やまと)あります 投馬国=宮崎県西都市妻 を推したい
西都原古墳群造れる勢力がいたワケだから >>309
来週今回の吉野ヶ里の墓が開くけど、それで確定できるものかな?
墓を開けたか解決する(ような物が入ってたら良いな)
どうせ箸墓なんて開けても関係ないと思うけど >>321
何言ってんだおまえ?
遺跡は調査する必要がある だいたいさ
自分の国を大きく盛って言うに決まってるよね
弱いなら占領したり奴隷扱いされるんだから >>320
神武は東征と呼んでるから、別に一族郎党引き連れて東に進んだわけじゃないだろ
船で進んでるから、そんなに大量には移動できない
留守番してた人たちだっていたさ ここが邪馬台国だっていう証明をする方法ってあるの?(´ ・ω・`) >>313
九州には国内最大級の銅鏡、鉄剣、勾玉、女性用のピアスが一緒に出てきた古墳があります。畿内にはないけどねw >>308
そうだよ
おまえ倭人伝すら読んでないだろ
南の狗奴国に負けそうだから、魏に助けを求めた
魏は皇帝の指揮下を示す旗・黄幢を与え、塞曹掾史の張政という顧問みたいなのまで派遣してる
どう見ても外患誘致の売国奴が卑弥呼
そんなのがいつまでも存続できるわけもなく滅んだから、日本側の記録にはまったく残ってない
なぜそれを大和朝廷の始祖にしたがるのか畿内説の連中はそんなに中国の属国だったと誇りたいのか 東征ってどうやって成功出来たんだ。凄すぎるやろ。
出発時点で瀬戸内や大和に味方とか居ないよね。 >>326
俺にいうなよ
どうでもいい扱いした畿内説にいえ 謎エリアで何かしらの印が見つかれば完璧に決まり
ただし畿内説派は何が何でも絶対に認めないだろうけどねwww >>333
だから何言ってんの?
未発掘が80%残ってると言ってたんだろ >>303
長江中流域との青銅器の類似が気になるよね。
現在の湖南省湖北省。
春秋時代でいうと、楚、呉、越。
難民は発生したと思うけど、会稽から東シナ海をつっきれるような大型船を運用できたのだろうか。
それとも、山東、遼東、半島西部、北九州という長旅をして、日本列島に定着したのか。
いろいろと謎。 >>328
神武天皇の親父が祀られてる宮崎神宮の本殿は
前方後円墳(船塚一号墳)にぶっ刺さってるんだよなぁ…
古墳の主何者だろ? >>328
東征後に留守番チームとの絡みって無いよね。
それも不思議だし、そもそも何で東征すんのかが分からん… >>334
邪馬台国と大和王朝は同時期にあったんだよ
九州は邪馬台国じゃん 論点は単純だよな
3世紀中葉に纏向を中心として吉備大和伊勢濃尾の連合勢力が存在し、それが後のヤマト政権に繋がったところまでは確か
前方後円墳祭祀を始めた(確立した)勢力でもある
その連合に北九州が加わっていたと考える→畿内説
その連合に北九州は加わっていないと考える→九州説 >>336
大事に探しゃいいじゃないか
だが、このスレとなんの関係がある?
関係なければ荒らしだが >>319
女王国って卑弥呼を共立した国の集まりのこと
卑弥呼の直接統治の及ぶ範囲のこと
いろんな国が女王国に含まれるから無茶苦茶広いと考えられる
女王国の中の一つに邪馬台国という国があった 福岡県民やが九州の人は先祖代々ゴミってコンプレックスが強いよ >>330
どっちにはあれがあるこれがあるって不毛だと思うよ?
自慢合戦にしかならない
それをやってもどこにもたどり着けない
間違った内容には突っ込むけど >>325
吉野ヶ里もあくまで候補の一つだしね、逆に卑弥呼じゃない証拠が出てきてもそれはそれでいいかなと思う >>336
ID:0はマトモじゃないから、相手しなくていいよ 結局ねコンプレックスなんですよ
九州人は鎌倉幕府から命令されてモンゴルと戦ったし歴史的には僻地の民だったから >>346
箸墓を開けてもすべてが解決!にはならんのと一緒よな これでも徳島説信じてる狂人は学問やめた方がいい
そいつら若い時にピピンアットマーク
買っちゃうような奴だし >>339
留守番チーム(神武と日向の妻との間の息子二人)と、移住チーム(神武と大物主の娘の間に生まれた息子)の
殺し合いだったら、日本書紀に描かれているね。
どっちが勝ったかというと……。 邪馬台国がでかいなら奈良の大和国
でも遺跡が無い時点で百人単位の小さな部族だろね 日本は当時いっぱい国があったんだよ
だから統一したら王では無く皇の文字を付けてるのさ >>343
30余の国邑だろ
今でいう県にも満たない領域や。
だから、魏を頼ってる。 >>354
畿内説がある原因の大半は、国ごとの戸数を真に受けたからだと思う
戸数が万戸単位なら、それに合うスケールの国じゃないと当てはまらないから >>351
箸墓古墳はミュー粒子観測で透視したはずなんだが、その後なんの報告も出されていない
何かマズイ物でも写ってたんだろうか >>340
奈良にもなんかしらのクニはあったやろうね >>344
福岡県民「やが」なんて福岡県民は使わないぞ >>345
畿内説の学者の間でも箸墓は誰の墓かで
意見が別れているのに墓を開けたところで卑弥呼の証拠が出てこない限りなにも変わらないよ >>358
ミューオンで調べられるのは、石室があるか埋まってるかくらいなんでしょ
空間の有無しかわからないものだから >>357
奈良は日本一可住地面積(人が住む事の出来るエリア)が狭い地勢なのにな >>356
自武帝滅朝鮮使驛通於漢者三十許國
武帝が朝鮮を滅ぼしたのが紀元前108年だから300年間の出来事だから >>363
この時代にも大和を名乗ってるかはわからんからね >>361
倭迹迹日百襲姫の墓だろ?
だが何が出てきたら倭迹迹日百襲姫証明になるのかもわからん >>364
まあ日本最初のすめらみことは奈良を都にしたけどな 九州人ってみんな頭おかしいし病気よな
朝鮮人そっくりだし朝鮮人だろ >>343
九州説のやつらは女王国を邪馬台国に置き換えて話を進めるからややこしい >>275
地球が丸いという概念もないしね
例え測ったとしても正確な値は出てこない >>359
唐古鍵に集落があったよ
卑弥呼時代の前に人が消えてしまった遺跡
どこへ引っ越したのかもわからないまま >>368
討幕派の肥前だから吉野ケ里からは無理だな >>364
それでも村や郡単位よりかは遥かに大きいよ なんでも起源を主張する朝鮮人と九州人
島流しの子孫でしょ九州人なんざ 魏志に描かれた30余りの国が、王朝(世襲王の継承ルールが存在する国)なのか、俺的にはとても気になる。
世襲王朝でないのなら、奪われたも乗っ取ったもないんだよな。
単に実力者(王)が交代しているだけ。
衰えた実力者は登り調子の新参者に交代されるものだ。 >>373
起点を洛陽に置かないと、緯度が変わればずれるしね
こんな使えないものにこだわる意味はないと思う >>367
魏志倭人伝で日本の2国が喧嘩してると書いてあるわ >>348
日吉神社に立ち退いてもらったのは佐賀県だからね >>371
DNA調べたら近畿人が最も半島系に近いと判明した >>282
あそこの団地もう寿命よね
ぶっ壊そうぜw >>368
徳川宗家まだあるから見つかっても「落し物」だけどな 糞ジャップの起源なんてどうでもいいよ(ㆁωㆁ*)
さっさと歴史から消えろ >>370
本当に対馬から壱岐島の半分の距離だな
偶然か?
もし歩数で計ってたら距離が合わないし ヤマタイ(国)=ヤマトや
ヤマトは奈良にあった王朝や
九州人は土人です悲しいけども >>325
前スレで指摘されてたけど、卑弥呼の時代より前の時代の可能性が高い
あまり邪馬台国と結びつけるのはどうかと >>337
中国に会稽から流されて日本に着いたと言う伝説があるよね、大型じゃなくても可能だったかもしれません あののー
九州は鎌倉幕府の時は1番の家来やけん
あんま調子のんなや >>390
取り敢えず男性の遺骨だったら、解散の方向で 当時は今のソウル辺りから南は日本と言うか倭人の国と魏志倭人伝に書いてあるからな >>380
男王がたってもまとまらないんだから世襲でハイ決まりとはならないのでは >>379
その反対である証拠がわんさか貼られるぞ
アレの習性を知っていれば一目瞭然
半島系固有DNAの分布
https://i.imgur.com/mbXNz7Y.png
邪馬台国時代の倭人は呉越の末裔と記されている
そして女王国の東の倭種の国の人は半島系と判明している
■邪馬台国は何処?
九州説:54.4%
近畿説:35.7%
その他:9.9%
https://i.imgur.com/L5Nc9eR.png >>395
なら何かい?
朝鮮半島に邪馬台国があったと? >>353
そうですね。ご指摘ありがとうございます。
皆さん詳しいですね… >>380
伊都国だけ「王がいる」と書いてるんだからほかはいないのが普通では
倭国大乱→卑弥呼を立てておさまる→卑弥呼が死ぬ→男王が継ぐ(卑弥呼に子はいない 弟か)→みな服さず内乱→13歳の宗女台与でおさまる
13歳でおさまるんだからこの地位は30カ国連合のお飾り的象徴か
男王は欲を出して権力を持とうとして排除されたのでは >>401
外洋の船での移動は危ないから、なるべく早く上陸した方が安全だと思うよ >>374
あそこは古くは湿地帯の川の中洲で、木材加工の作業場ではないかって
言われているらしい >>390
卑弥呼時代は2世紀に始まってる
女王に即位したのはAD180年前後
そこから247年まで >>398
まぁソウルから九州までが邪馬台国じゃん
邪馬台国の場所は大分だろ
対馬も邪馬台国だよ >>396
壱岐から唐津の遺跡の辺りまででしょ
これなら陸を避けて計ればだいたい同じ距離になるな もし仮に、魏志に記された邪馬台国の都が纏向ならば、
それは、もう古代国家と呼んでよい体制をもっていたはずなんだよな。
なにしろ、纏向から瀬戸内海から北九州まで支配する軍事力を維持し、つねに半島や中原の情勢に敏感に対応するべく情報網を維持している。
常備軍を維持するには、徴兵や徴税のための法が必要だ。
遠隔地と中央をつなぐ情報網を維持するためには、官僚機構が必要だ。
官僚組織ありの国家機関だよ。
もし仮に、邪馬台国が九州ならば、博多湾をおさえるために常備軍や官僚機構を持ってる必要はない。
古代国家でなく、いわゆる国邑でいいわけだ。
かように、邪馬台国が近畿か九州かは、当時の日本列島に古代国家が出現していたか否かをわける問いでもあると思う。 >>405
あと対馬海流の支流が玄界灘沿岸を北上してるんだよね >>393
勘違いしていらっしゃる。
畿内説をとる人々は、邪馬台国=日本で一番強い国=天皇と考えている。
そうではない。
卑弥呼は九州にいて、畿内には孝元天皇がいた。
卑弥呼は九州の地方豪族の首長に過ぎない >>337
そりゃ倭族≒越族って長江文明の担い手やし
越は上古語でwo、これは倭と同じ発音
中国人が勝手に違う字を当てただけで、本来は同じ民族だった
彼等は今の漢民族とは違う民族だから念の為 >>403
後漢書だと国にはみんな王がいて、大倭王は邪馬台国に居ると書いてるけどね 俺が知りたい謎は、卑弥呼がアマテラスと同一人物なのかってとこかな
女性で日本を統一してるって部分と不思議な力があるってところが同じだし、時代も近いしそこが解明してほしいわ
ちにみになんで中国がここまで古い歴史書類がたくさん残ってるのに日本だけ残ってないのが謎
文字もあっただろうし、書物もあっただろうしなくなったのが不思議 >>410
いや単なる霊園だったらしいよ
唐古鍵の変遷で調べてみ >>410
> もし仮に、邪馬台国が九州ならば、博多湾をおさえるために常備軍や官僚機構を持ってる必要はない。
> 古代国家でなく、いわゆる国邑でいいわけだ。
自女王國以北特置一大率検察諸國諸國畏憚之常治伊都國於國中有如刺史
女王国より北には伊都国に一大率を置いて諸国に睨みを効かせていたのだ 近畿の遺跡の年代はえらい気にしてるのに
吉野ケ里と平原はどっちが古いか気にならんか? >>413
当時は邪馬台国は大国だったんじゃん
ただヤマトも大国だったんだろ まあ発見された土地は金がいろんな所から転がり込むし必死にもなるわな 邪馬台国へ向かう魏の使者が上陸したのは末盧国
佐賀県の唐津と言われている
昔から外国との行き来に使われていた港
(津とは港という意味。唐の港というそのままの地名)
そこから伊都国へ行く。福岡県の糸島だというのが定説
だがその根拠は伊都と糸の名前が似てるからにすぎない
魏使者の上陸地点が唐津ならそこから糸島へは山越えの難路
https://www.google.com/maps/@33.4333524,130.0311195,33643m/data=!3m1!1e3
(今は海岸沿いに道路があるが当時はもちろんない)
そもそも船で唐津まで来てるんだからそのまま船で行ったほうがいい
さらに倭人伝で伊都国は、「東南へ500里」と書いてる。
だが唐津→糸島は北東で方角も違う
地図を見ると、ちゃんと唐津から東南へ道が伸びてる。
素直に読めばこの道を東南へ進んだと思える。
そうして行き着くのが佐賀平野。ここなら国があってもおかしくない。
(吉野ケ里遺跡も近い)
さらに佐賀の南には、山門(ヤマト)、八女(ヤメ)、柳川(ヤナガワ)、山鹿(ヤマガ)といったあやしげな地名が並ぶ。
山鹿の南には熊本県の菊池市がある。
倭人伝には、邪馬台国の南に狗奴(クナ)国という国があり、その官を狗古智卑狗(クコチヒコ)というとある。
クコチヒコとはキクチヒコのことで、クナのクコチヒコとは、熊(クマ)本の菊池ではないかという説は根強い
山鹿・菊池あたりには、ワカタケル大王と記した剣を出土した江田船山古墳をはじめ鞠智(ククチ)城、チブサン古墳、岩原古墳、トンカラリンなど史跡が多く分布している
http://i.imgur.com/nC7wYC3.jpg >>419
箸墓造営のための飯場説が最もしっくりする。
纏向はね。 >>417
記紀を作る過程で記紀より古い歴史書は焼かれた
禁書令という
わしは中1で習ったが世代により習ってないみたい
『続紀』
元明天皇の和銅元年(708年)正月
元号の制定を祝って全国に大赦を行う詔が出され
その中に「山沢に逃げ、禁書をしまい隠している者は、百日以内に自首しなければ罰する」という内容のものがある 当時の中国の使者が書いた文章や文字が見つかると面白そうだね。 >>372
邪馬台国は女王国(倭国)の首都くらいに考えたらいいよ
女王の統べるところだから 旧唐書より
倭国はいにしえの倭奴国である
日本は倭国の別種である
日本は小国だったが倭国を併合した >>379
>>378さんの図を見る限り渡来人は四国と畿内の方が圧倒的に多いわけたがw >>426
大国とは言えない。
邪馬台国が九州であるから、南にいる狗奴国も当然九州になる。
おそらく、熊本の一部が狗奴国。
この雑魚狗奴国ごときにてこずって、魏皇帝に泣きついている。 >>421
纏向から糸島ににらみを利かせるためには、官僚機構が必要。
糸島の南に女王国があるなら、官僚機構ってほどのものは不要。
そう考える。 >>435
そしてその人たちが畿内説を支持していると>>398 >>435
同じだって
縄文時代12000年弥生時代500年 >>428
唐津は松浦郡の郡衙の場所だから、多分人の集落はそっちにあると思う
そこまで船に乗ったか、最短距離で降りたか? >>437
女王国より北に睨むを効かせるのが伊都国の一大率だね
本州や畿内各国が伊都国の一大率を畏れる理由がない 工作員のスレかと思ったらみんな真面目に語ってんだなw >>410
別に当時の倭にそう言う国があっても不思議は無い
3世紀の倭は青銅器主体の鉄器も普通に流通してた時代だし
世界史的な文明発展段階からは、ある程度の領域を支配した国があっても全然おかしくない
あと、文字がなくてもインカは広大な地域を支配したしな >>429
でか過ぎるんだけど、本気なのか?
3平方キロの飯場、、、 >>439
だが、邪馬台国は熊襲すら併合できない小国
北部九州にとどまるのであるから大国とは言えない >>417
残念ながら文字はなかったね
ただ、九州の弥生遺跡から硯が見つかってるから、ワンチャンあるかも >>421
伊都国は太宰府
そこを抜け南に行った筑紫平野に邪馬台国は在る > なんで東征するのかが分からん
何度も言うように九州は攻められやすいからだろ
畿内は淡路島が防波堤となって攻め込まれないからな
https://i.imgur.com/unpXnr4.png
九州がどれだけスゴくても、攻め込まれた事を考えたら畿内に国を作るっつーのw
攻め込まれた時の事を考えない政権はない
つまり本丸は畿内で九州は交易の為の出張所
本丸を攻め込まれやすい九州に置いておくアホはいないw >>428
弘法大師も唐から帰還する途中に唐津に寄り岩窟に大日如来を彫ってる
つまり唐へのルートが確立されていたのだろう
松原から伊都国糸島までの道も太古あったなら
佐賀の可能性はあるが、吉野ケ里は内陸すぎるからありえない >>446
ヤマト政権が勢力を拡大して、内乱に明け暮れた邪馬台国じゃ太刀打ちできなくなった
大国が落ちぶれるなんてよくあること 邪馬台国は当時の最先端都市である奴国から見て山の隙間の向こうだからヤマト
そこはどこかというと筑紫野市から向こうに広がる広大な平野で吉野ヶ里はその端っこの拠点だろ
絶妙な位置にある朝倉は物部拠点である軍事都市であった遠賀川流域を背としてる
久留米以南は当時別の勢力
なぜなら南の球磨族は有明海の沿岸に勢力を築き海賊化していたとすると危険な場所となるから
多分実際に攻められ卑弥呼は死に、トヨの時代は山向こうの日田や田川を経由して宇佐へ
その後物部を先発として畿内入りを目指した >>450
伊都国は糸島市で太宰府は太宰府市だと思うが?
大率が変化して太宰になったという話なら同意だけど >>418
そりゃすごいな。
ソウル(当時の帯方郡)まで支配下においたのなら、立派な古代国家どころか、魏の対抗勢力だよ。
わざわざ奴隷10人を土産に帯方に恭順を示しに行く必要も、金印を授けてもらう必要もない。
なにしろ、帯方郡は自国領なのだから。 >>443
暇な爺さんが暴れずに大人しくさせていられる良いスレだw >>451
なるほど
実際に攻め込んだり攻め込まれて倭国大乱の起きてる畿内は、邪馬台国であり得ないんだね >>453
北部九州の領土でも大国と呼べるなら大国で良いが、俺の感覚だと北部九州にとどまる国は大国ではない >>445
けっこう本気。
唐子鍵との関係は正直どう考えていいかわからないけども。 もし纒向遺跡を訪れる機会があれば聞いてみよう
「卑弥呼には奴婢1000人がついていたそうですが纒向の大型建物は何人ぐらい収容できますか?」
「邪馬台国は七万戸あったそうですが住居跡はいくつ見つかりましたか?」 >>456
魏志倭人伝に書いてあるもの
奴隷と言うか職人を手配したんだろ
だから魏の皇帝はよろこんだのよ >>460
ヤマト政権は、元は南九州にくすぶってた勢力だったわけだが >>150
原本残っていないなら捏造し放題だな
禁書の目的は恐らくそれだろう まきむきは祭壇センターって話もあるよね
ちょうど箸墓古墳に眠ってる人も伝承じゃシャーマンらしい 人に委ねる→倭
鬼に委ねる→魏
何か意味あるんかな >>465
生口10人。
それで、自国領ソウルを魏にとられて帯方郡にされたことについては、巨大帝国倭国は怒らず、
魏の皇帝が喜んでなによりで済ませたのかい? 日本で一番の名家は俺の家だよ。倭国王の末裔だから。 どこぞの7世紀から突然しゃしゃり出てきた家とは違い、
2600年前から この 島国の王を千年続けてきたからね。 >>461
唐古鍵は普通に農機具とかも出てるし、場所も離れてるから普通に別の集落でしょ?
東西2km、南北1.5kmの飯場は流石にスケールでかすぎるよ >>466
まあ、別にあなたと戦いたいわけではないが、ヤマト人は旧唐書でこう言ってる。
「日本は元々は小国。後に倭国を併合した」 >>462
当時の倭に7万戸はどこにも無いと思うよ
纏向でも吉野ヶ里でも >>467
わざわざ一書曰を大量に併記して歴史書を書く意味は? >>455
軍隊を駐屯させて諸国を監視するに足る軍事的要地って九州じゃ限られるのよ
それは太宰府の場所以外考えられない
海を渡って来た船の監視っていうなら糸島でも良いのだろうが 纏向遺跡の大きな特徴が、纏向大溝という巨大な水路が見つかったこと。
幅5m、深さ1.2mの水路で総延長2.6キロにも及ぶ
おそらく大和川につながり運河として利用されていたと思われる
こんな特徴的なものが、「魏志倭人伝」には一言も書いていない >>471
魏に取られて無いけどな
魏に取られたなんか何に書いてあるのやらw 纏向遺跡は王宮であって周辺遺跡との関係は薄いと思ってる
これは伊勢遺跡も同じ >>474
つまり、ヤマト政権はもとは小国なんだろ 暇人の道楽、それが邪馬台国研究w
ほぼお爺ちゃんばっかり >>481
つまり邪馬台国とは無関係にそんな都市があったということ >>428
東松浦半島の先っちょで降りたら、東南に進めば伊都国の端っこに辿り着くよ >>365
馬韓は58国邑
辰韓は、12国邑
弁韓は、12国邑
辰韓は、面積の割に数が少なすぎる。
よって70国邑とし、
50000÷70×30=約21000km2
対馬を含む九州北部くらいや。
あくまで目安。 >>490
墓もあるけど、それは吉野ヶ里も一緒だし、そんなに大きな問題じゃないんでは? >>488
そうだねえ
とても千戸あまりの小さな集落には見えないね >>478
箔付け
都合の良い部分だけ引用したり引用する部分を微妙に改竄する
でも原本があると捏造や改竄がバレるから禁書指定して焼く >>410
結局、畿内説って紀元前後あたりから関東から九州までを統括する統一王朝があったと思い込みたい人の妄想なんだよな
ありえんよね >>481
箸墓古墳の再現イメージ画像を見ても同じことが言える。
極めてデカい。秦の始皇帝の墓よりも曹操の墓よりもデカい。
にも関わらず、魏志倭人伝には「径百余歩」としか書いてない。
すなわち、箸墓古墳は卑弥呼の墓ではない。
卑弥呼の墓はもっと質素な墓だ。 >>498
範囲はわからん
あくまで共立であって豪族が力を持っている >>496
スサノオが朝鮮半島に降りたのも一書曰だけどね
複数の書籍の色んな話を併記する歴史書を書きながら、禁書で燃やしまくったのも変な話し
と、書きつつ、各地の豪族が好き勝手に書きまくるから、それを禁じたのは確かだとは思う
一書の内容も結構バラバラだったりするからね 宇佐神宮は源平合戦のとき、源氏が乱入して古文書焼かれたからな 邪馬台国が畿内大和
というのは単なる願望だよな
偉大なる天皇家は魏志倭人伝の頃から続く由緒ある家系であって欲しい
という願望 邪馬台国レベルの国が、当時いっぱいあったんだから、これは別の王の墓だったとしてもがっかりするほどではない >>497
宇佐神宮、宇佐八幡の創建が持統天皇よりも後だからでは? >>506
ごめん、間違ってるわ
じゃあ墓しかないんじゃないの? >>498
統一王朝の成立はもうちょっと後だね。
3世紀ではない。 >>508
奈良がヤマトを名乗ってたのが誤解の元だな
仮にもしも紀元前に東遷が行われて九州から畿内に地名がコピペされたのなら
ヤマトという地名もその時にコピペされたのかもしれない
逆に言えば名前くらいしか根拠にできるものがないともいう >>508
畿内説には邪馬台国と大和と連続している説と連続していない説がある >>513
邪馬台がヤマトであっても七万戸だから奈良県じゃ収まらない 水の出入り口がミナト、山の出入り口がヤマト
日本中にあった地名だろう >>513
ただ当時中国人が勝手に付けただけかもな >>513
ヤマトは地形からとった名前だからしゃーないやん
他所が使ってるからコピペしよう!としたわけではない
福岡にも山門郡ってあるやん?
極ありふれた名前 >>516
まあどうせ戸数は距離と同じように盛ってるでしょ…… >>520
その考えにたどり着けると、畿内じゃねーやって気が付く 日本書紀「唐と戦争したのは倭国。我々は日本。百済、新羅、高句麗は倭国」 >>514
実際墓しかないし方形周溝墓はあんな感じで固まってる ぼくのかんがえたやまたいこくのしょうたい
ブログにでも書いとけ >>512
3世紀まで・・・九州中心
3世紀後半〜4世紀前半・・・九州から畿内へ遷移
4世紀後半以降・・・畿内から全国へ勢力拡大
この流れで矛盾ないと思うけどなぁ >>522
うん
まぁ間違ってないけど民族同じだろw >>520
筑紫平野全体の戸数なら7万ありそうな気がするが >>517
他にも○○ツも水に関する地名でよく使われる
カラツだとか、オオツとか、ツシマ
ハマなんかも多いね
地形の特徴から地名に転じるケースは大量にある
名前を奪ったとかそういう話じゃないね ちなみに、
この地域の重要な島「済州島」が、全く見当たらないんやが、どれや。
昔は、耽羅王国と呼ばれてたらしい。
百済の複属国だったらしい。
というのはわかってるんやが >>527
遺伝子的には中国の呉の南部のほうが出るんじゃないか?
日本全国に徐福伝説があるがどうも佐賀はガチっぽさがある
んで吉野ヶ里は徐福の部下が作った里の可能性も指摘されてる >>533
隋書では竹島から南に耽羅を見つつ東へ東へ進むけども
魏志では狗邪韓国から対馬に渡り南へ南へ進むから
出発点もルートも違うのだ どのくらいの範囲かなんてわからんけど
とにかくヤマト七万戸だと考えれば良い >>525
遷移以外は、同意だな。
4世紀に畿内に古代国家が成立し、日本列島各地や朝鮮半島に押し出ていった
5世紀に入ると、わゆる倭の5王が宋皇室に列島利権と半島利権を認めさせるべく奔走した
6世紀に中原に隋が出現し拡大を開始すると、危機感をもった倭は、一気に隋の諸制度を取り入れ、国家体制を整えた
7世紀には、唐との激突で敗れ、半島から撤退する 例えば河内を奴国、奈良盆地を筑紫平野と見てみると
山門である筑紫野市から向こうにある平野の先にある三輪山あたりは久留米か日田に相当する
そこにあるのは御井の祇園山古墳または日の昇る先にある日田か >>525
それだとクソでかい飯場?を作れてた説明がつかないよ >>534
中国人、中国人と言ってるが、
漢族は、中央アジアから侵入してきた
侵略遊牧民やぞ。
この遊牧民というのが癖モノで、
家畜に寄生して生活する為に、
働かない。やる気ない。ダメなら移住すれば良い。という寄生要素が満載なんやが。 つうか筑後平野の西側は大昔の阿蘇の大噴火の時に風向きによって助かった場所らしいから
人口は当時にしてはそれなりにいそうではあるんだが >>542
いや漢民族の事なんか全く触れてないやんw
呉越は漢民族とは別の民族なんで念の為 >>539
ん?
まぁ納得するが
魏に敗れたって言ってなかったか? 東遷を卑弥呼の時代に持ってこようとするのも誤解が大きそう
卑弥呼の時代にあったのはあくまでも倭国大乱による九州北部の衰退と、畿内は崇神の四道将軍派遣に見られるような畿内勢力の伸長であって
東遷と言われるもののタイミングは仮にあったとしても紀元前であり卑弥呼の時代とは関係ないと割り切った方がいいのでは 機内にも人は住んでただろう
そもそも邪馬台国が当時最強だったとは魏志倭人伝にも書いてないし とにかく邪馬台国七万戸なんてのは集落じゃないんだよ
だから吉野ケ里とかそんなんじゃないから 飯場+機材保存、機材加工、機材運搬、など、
古墳造営用に確保された平場だったのじゃないかな。 >>542
だよなw
違うだろ。全部中国人になってるけど >>536
元ネタの魏志倭人伝にはないんか?
というか、南に耽羅が見えるとか
結構近く通ってるんやな。
>>538
それは、南匈奴系漢族が南下してからや 当時、日本は祭司王と統治王がいて
祭司王の方が偉かったからな >>547
佐賀が邪馬台国ならスタンドプレーしてただけの予感よな その石棺には「定礎」って書いてあって中には今年の新聞が >>539
神武の逸話が丸ごと嘘とは思えないから、九州の勢力が畿内に合流して、さらにでかくなったんじゃないのかね? >>544
遺伝子的と書かれてたからやね
>>550
歴史を辿ると
YDNA-DとCがいました。
最終氷期があけてNがアジアに侵入してきました。
しばらくすると、Oが天山回廊を抜けて侵入してきました。
アーリア系の兄弟種Qがシベリア抜けて北米に行きました。
おおまかな、東アジア史。 ホント開けるのが楽しみだ
もし被葬者が女性だったらえらい騒ぎになりそうだ 吉野ヶ里遺跡の中心部は住宅地なんだな
どいて欲しいね >>560
Nはセルビアから来たのか?
スウェーデンから来たのか? >>417
それだけ交流があって日本には文字がなかったというのは有り得ないわけで
では何故文献が無いのか
ここけっこう重要だと思う >>171
皆既日食は日付けも時間も場所も判明してるじゃん
ヒミコが生きていた年と場所もドンピシャなんだが >>560
🇭🇺ハンガリー語のインパクトがデカ過ぎてw
見落としがちだけど🇷🇸セルビアもハプログループNだらけだろ ミミナリはオシホミミかな
天照とスサノオの子でニニギの親
天照は邪馬台国でスサノオは出雲大国主の義父
ニニギが宮崎へ行って兄のニギハヤヒは海を越えて畿内へ
要するに邪馬台国は負けて散り散りとなり大国主の地盤である畿内で集結しようとした >>558
人の移動はあったんじゃないかな。
東遷や遷移というとさ、九州に王朝があって、それが畿内に遷都して同じ王朝を続けたように聞こえる。
東遷や遷移の定義問題の気がする。
兄弟とともに日向を出奔した神武(ヒコホホデミ)は、苦労に苦労を重ね、
ついに三輪山の大物主に婿入りして、地位を築いたと日本書紀にある。
初代の逸話として嘘はなさそうだ。 >>568
あれっ?中国人?
って見間違える人いるだろ。セルビア🇷🇸 >>564
クロマニヨンYDNA-Cからの分派やね
2万年前の東欧で見つかってる
しかし、いちば氷期が強い時に
あのあたりにいるとか、相当寒さに強い >>508
卑弥呼は中国に泣きついた中国の犬
正始元年・4年・6年・8年と極めて短い期間でやり取りをした中国の犬
朝鮮のように三跪九叩頭の礼かそれに似たようなこともしただろう
極めて屈辱的 >>569
もっと時代が進んで推古天皇の時代ですら、中国の文献によると600年と607年に遣隋使を送ったのは倭王タリシヒコなんだからそんなの真面目に考えるだけ無駄 >>574
一万人しかいない国が赤壁の戦いで93万人と戦った国に泣きついて何がおかしい? >>575
だよ。
プライドばっかり高い関西人がなぜ邪馬台国は関西だーと声高に主張しているのか疑問。 卑弥呼がやった事は酷い
その時代はどうだか知らんが後の時代じゃ認めるわけにいかんでしょ 卑弥呼がもらった百枚の鏡を各地にばらまいたというのは勝手な妄想だろう
卑弥呼はそんなに気前よくない
墓から鏡が百枚出ると思う >>568
フィンランド人もや。
ちなみに、ロシアも比較的多い。
だから、最初の疑問は、
なんでアジア系と言われるNが
ここにいるんや?から始まった。
ちなみに、漢族Oの上の兄にあたる。
できは、だいぶ違うが >>570
出雲系(大物主系)と九州系(アマテラス・神武系)が畿内で一緒になったことで両者の正統をもつ畿内勢力が一気に西日本を統括出来たんじゃないのかな? >>582
もしそんなことがあったら、結構ドン引くだろうな >>582
そうかもなw
卑弥呼は、魏の銅鏡のコピーをつくりまくり、魏の宝を下げ渡すといって各地にばら撒いた。
しかし、本物の100枚は自分の墓に入れた。 >>587
それじゃまるでどこからか大量に出土してるパチモン鏡だ 大和王権は支える氏族があってこそ強大化したんでしょ
崇神天皇は物部一族からの出自
だから軍事化進んだ 先祖が西から来たという伝承がヤマトにあるのは確かだが、それを3世紀か4世紀だとする根拠はまったく何にも無いよな >>588
日本書紀の方が正しいと思う
古事記は編纂中に禁書令が出てるため抹殺した歴史があると思われる >>569
ミミナリは山国川川上の耳垂じゃないかと思ってる >>585
> 出雲系(大物主系)と九州系(アマテラス・神武系)が畿内で一緒になった
もしかして(ヒミコは無関係に)九州には比売大神(宇佐)の信仰があったのかな
それが大勢の土蜘蛛の姫に繋がりシャーマンに繋がり卑弥呼や台与らを受け入れる社会的な土壌になって
畿内勢力にとってはアマテラス信仰になったとか…… 近畿あたりも元々出雲族の土地
神武はそこに婿入りしたんでしょ
あの辺の部族間争いに担がれたんだよ >>591
>>378を見る限りその西は四国だと思うわ >>592
初代神武の婿入りのくだりは、古事記もおおむね同じ物語だよ。 >>589
パチモン鏡の正体は、そのうち工房が発掘されて解明されると思っている。 大国主の子供だけでも200人近くいたからそこから派生した部族がみな事大主名乗る 倭王武こと雄略天皇は、「使持節都督 倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事・安東大将軍・倭王」に任ぜられた。
というか、中華皇帝に「俺様をこれに任ぜよ!」と要求して、中国側は頭にきたが、国防上これを承認した。
すなわち、韓国の統治も任された。
この図々しさこそまさに関西人。
九州人である卑弥呼とは全く感性が違う。
卑弥呼は「お願い、中華皇帝さま〜」と魏皇帝に泣きついた。
旧唐書にも「日本人は不誠実であり、中国側は日本人を信用してない」とあり、かつ小野妹子は「日の没する所」と中国をディスった。
どう考えても、倭人=九州人と、日本人=関西人は別人種である。 卑弥呼はイチキシマヒメ
兕馬觚もイチキシマヒメ
大夫難升米はオオクニのヌシメイこと主命(ヌシノミコト)
都市牛利はトシグリこと年神(トシガミ)
卑弥弓呼はヒコホホデミこと山幸彦でありイワレヒコであり崇神天皇
狗古智卑狗は珍彦(うづひこ)
ここまでは合ってる >>515
結論ありきの多い九州説の学者と違って畿内説の学者は結論ありきじゃなあからな
考古学的発見を重視する人は連続してるってのが多いし歴史書重視の学者は連続してないってのが多い >>608
古事記にはうさぎが白かったなんて一言も書いてない 時系列で並べると
↓九州に比売大神の信仰があった
↓紀元前に九州から畿内に東遷があった
↓畿内に比売大神信仰が伝わりアマテラスの神話のもとになる
↓倭国大乱が起こって卑弥呼台与が共立される
↓九州にはたくさんの土蜘蛛の姫がいたが討伐された
宇佐に比売大神を祀り神功応神を押し込む
ちなみに比売大神信仰→ 伊都岐島大明神信仰→宗像三女神信仰と女神信仰が置き換わっていったのかも? >>4
日本史上
最悪クラスの大失政ちゃうかなー
人としての魅力を隠すとか 元伊勢の場所みたら天照は九州から来た神とは違う気がする >>605
箸墓古墳だって誰の墓か畿内説の学者の中で諸説あるしな >>608
稲羽の素兎(しろうさぎ)な
白兎と伝わってるならお前の家は詐称してる 東遷は九州から畿内ではなく四国から畿内
>>378を見ればそれは明らか >>498
畿内説でもいろいろあって、卑弥呼を大和朝廷の始まりとみる人は少ない。
なぜなら、崇神の時代にアマテラスは天皇家の神ではないとして奈良から伊勢神宮に追い出された。
つまり、卑弥呼と天皇家は王位継承の点では繋がるけど血のつながりはないということ。 >>515
九州説も同じや
ヤマト王権と関係ある説も分類すると交流あった説、継承した説、そのまま邪馬台国=ヤマト王権説がある >>200
さらに阿蘇山の向こうに高千穂
政権争いに敗れた高貴な一族が山へ逃れて隠れ住み、南九州に降りてきて定住したり、海に出て新天地を求めに行ってても違和感ないわ 伊都国の官は
順番にニニギ、山幸彦(火の弟)、海幸彦(火の兄)
邪馬台国の官は
順番に垂仁天皇、ヒコイマス、ツヌガアラシト、中臣連祖
これもほぼ考察済み
ゆえに邪馬台国の情報は
数十年あとの新情報であり
魏志倭人伝は、その情報に年代的な差がある >>561
被葬者はゾンビじゃないと面白くないよ
佐賀が邪馬台国のわけないから猟奇路線でアピールするんだ! >>620
でも天照って言うほど太陽神要素無いだろ
名前と天岩戸だけ 魏志倭人伝は同時代の文書だが
古事記や日本書紀は400年後の文書
正確性は魏志倭人伝の方が高い つまりは、神武東征で奈良にいたナガスネヒコを倒して奈良の地を手にしたということだけど、
そのナガスネヒコが卑弥呼=邪馬台国の末裔の王であり、その王の座と前方後円墳の墓制を
継承したのが神武=崇神というわけ。 >>603
安東は将軍位の中で一番下っ端、ちなみに百済王は鎮東、高句麗王は征東
序列は征>鎮>安の順だから、知ったかしてるとあとで大恥かくぞ そして、崇神が奈良を掌握してから関東へ進出していった >>628
いずれにしても、倭の五王が韓国を任せられたことは事実 >>605
結論ありきで魏志倭人伝の記述全無視しないと畿内にならんけどw >>632
魏志倭人伝なければ、邪馬台国論争なし
大部分は信じなければ、そもそも邪馬台国論争なんて起こらない >>287
でてきても金印だと簡単に移動するからなあ
決定的にはならない >>635
邪馬台国のことを書かれているのに
同じ時代を生きた可能性のあるアマテラスやスサオノのことが何故無いのかが不思議なんです >>633
別に任されてはいないよ
むしろ争わせようとしてたんだろう
例えばアメリカが日本にウラジオストクの知事に任命しますって言ってるようなもんだろう >>601
ニニギからヒコホホデミ(神武)まで、国を持たないんだよ。
記紀の物語では。
ニニギが降臨すると、オオヤマツミの神に見染められ娘と結婚(婿入り)
でも、二人の間の子がオオヤマツミの国を引き継ぐわけじゃない
ニニギの子の山幸彦は、オオワダツミの神に見染められてその娘と結婚する(婿入り)
でも、その子らがオオワダツミの国を引き継ぐわけじゃない
孫のヒコホホデミ(神武)は、兄弟とともに日向を出奔し、三輪山のオオモノヌシの神の娘と結婚(婿入り)
でも、その子らがヤマトをそのまま継承できるわけでもなく、息子がさらにオオモノヌシの娘と結婚する(婿入り)
婿入りストーリーが続くだけで、国は持ってない。
だから、記紀を根拠に、九州王朝東遷説を導くことはできない。 >>583
新羅と一緒にアジアへ来たのか??
ハプログループNは。
🇭🇺Szilágyiだぞw >>641
しかし、倭王武はしつこく「百済も俺らに任せろ!」と要求した
が、中国はそれだけは拒絶した >>612
そうそう。
それまで経験したことのない巨大建造のための場所だと思うなあ。 >>640
仮に神功皇后=卑弥呼だとしてもそれよりさらに死ぬほど前だぞ、アマテラスとスサノオは 天智天武以前のことは何一つわからない
卑弥呼どころか蘇我入鹿すら正体不明 >>645
そなんですね
誰と勘違いをしたんだろう 劉宋「その大倭王は邪馬台国に居る(今の名を案ずると、ヤマユイ音のなまりである)」 しかしもしも吉野ヶ里が邪馬台国なら
佐賀の公式ゆるキャラ古代美少女まほろちゃんがクビにぬらないか心配である >>648
隙あれば公文書捨てるのはDNAだと思う >>650
普通に卑弥呼=アマテラス説はある
ちょうどその時代に日食が起きてるから >>154 天の岩戸伝説と一致すると
卑弥呼に弟が仕えていたというのもスサノオと同じだと >>592
出雲神話が大幅に減った日本書紀
出雲と半島がドンパチやってたから都合悪かったんだね
ケッシ時代も 卑弥呼については中国の史書に使者を送ってきたという明確な記録が残っているからその実在性は確実だと思うが、問題は日本側の古代の記録がハチャメチャ過ぎて誰なのかサッパリわからん >>605
吉野ヶ里は第一人者でもこんなんだからな
「邪馬台国は近畿にさえなければいい」と発言したところ、かつての上司、弥生時代の研究の第一人者であった
故佐原真さんから「君はアンチ巨人ファンか」と言われました。「はい、そうだ」と。「やはりそうだな。奈良の国立
文化財研究所にいたときに、君の九州説はこてんぱんに、みんなからやられたからな。その時の怨念が、君の
九州説のエネルギーになっているんだ」と、こう言われました。なるほどそうかもしれないですね。基本的に、僕
は定説に抵抗する、あるいは反抗するのが、私の研究姿勢であります。
私の尊敬する奈良大学の元学長だった水野正好さんは、私に向って、「君は邪馬台国九州説絶滅危惧種だ」と
まで言われます。僕は、有り難くその言葉を頂いております。「いまや、邪馬台国九州説は徐々に増殖しつつある。
いずれ大勢を占めていくことになる」と抗っています。
https://munahaku.jp/wp-content/themes/munahaku/img/kiyou/vol07/pdf/06_kiyo2015.pdf >>656
なんで中華と交流しててこれだけ文字がないんだろうな
普通木簡ぐらい残るだろう >>656
別の集団のはなしだから当たり前に記紀には卑弥呼や邪馬台国のエピソードは無いのだ >>654
賢い人が居て助かりました
眠れない日を過ごすところでした >>647
卑弥呼 180年~250年
神功皇后 350年~400年頃 >>656
それは少し違う
卑弥呼は北部九州の地方豪族の首長に過ぎなかったので、記録が残っていないだけ。
仮に、卑弥呼が畿内にいたならば、卑弥呼=天皇であり、推古天皇より前に存在した女性ファーストエンペラーであり、絶対に記録に残ったはずだ。 >>257
魏志倭人伝に帯方郡から邪馬台国まで12000里なんて書いてない >>662
アマテラスは紀元前だしな
通底するところに女神信仰というのはあるのかもしれないが
女首長だからと同一人物にしてしまうのは無茶というものだ >>663
つまり邪馬台国は大和朝廷とは無関係なんだなw >>665
アマテラスは卑弥呼でさしつかえないでしょう。卑弥呼は日本国の始まりなのです。
中国の皇帝に認めてもらった。 >>654
そのこじつけをしたがるやつもマレにいるが、どうせトンデモ論と捨て置かれる >>666
そうだよ
どうみても邪馬台国は海人文化圏でしょ >>658
どっかの古墳から名前入りの鉄剣でも出てこんかなぁ >>668
栄光ある漢帝国に認められた漢委奴国王もいるし倭面土国王師升なんてのもおったぞ アマテラスやスサノウは神話だろう。
ただ神話の元になった史実があるのでは?
というのは良くある話で(トロイヤ等)
その史実が魏志倭人伝や>>154ではないか
という話 だって突厥碑文に出てこないじゃんw
中国
滅んでたんじゃ >>658
使っていたけど残ってないってことかと
倭よりずっと漢字に接していたはずの朝鮮半島にも匈奴にもほとんど漢字の記録が残ってないわけで、むしろ残ってなくて当然といったところなんじゃないかと >>674
それらは九州の小国で日本を統一してない >>677
3世紀の東京や東北や沖縄の記録が残ってませんけど? >>679
卑弥呼の時代は畿内ヤマトですら日本を統一していないわけですが…… >>676
タブガチは出てくるけど。
あと、滅んでるはずの高句麗?も出てくる 魏志倭人伝を素直に読むと邪馬台国は九州北部一帯が有力 記紀編纂時の8世紀の人たちには、魏志の邪馬台国も卑弥呼もなんのことかわからなかったのではないかな。
伝承を抹殺とか、残った文書を焚書とかではなく、単純に伝わってなかった。
それでも、日本書紀は中華にも見せるつもりで編纂しているから、中華の史書との整合性はとっておきたく、
女王っぽい神功皇后のところに魏志を引用しておいた。 >>667
二文字が好きだよな
なんで日本の国名は二文字に変えたんだろう?
三文字でも四文字でもいいのに >>678
朝鮮半島というのは正統なもの以外はすべて削除していくという風土なのかもしれません。
だから、異端になった途端、削除排除され歴史から消されていく。
それは、日帝の建物を破壊し壊して歴史から削除していく現在も同じことしてます。
あの国は言葉とか制度とかあらゆるものを徹底的にやるから。 >>687
日帝も撤退する時公文書焼きまくって帰ってきたからセーフ >>218
それが同じ鏡と思われる物がもう一枚あるんだ
それは飛騨こちらは九州から持ち込まれた物と考えられている
ひたとひだ、関連あるかもね >>658
それが今回出るかもしれないって期待があるよね。
当時の九州勢は自分らでは書かなかったかもしれないが、魏が文書主義なのは知ってたわけで、
保存はしていたろう。 天岩戸って日本各地にあるけど太陽信仰っていうより洞窟とか巨石信仰だよね >>685
普通に見れば、アマテラスと卑弥呼がそっくりだと気付きますよね。つまり、きづかないふりをして
卑弥呼はアマテラスじゃないと思いこみたかったのです。 >>692
死の暗喩
貴人が亡くなることを「お隠れになる」というが
その語源が天照大神の天岩戸伝説 >>693
年代的には神功皇后だけどね
女帝なので卑弥呼そのものですけどね >>692
縄文は太陽信仰ではないわな
甲賀三郎とか三湖伝説とかおどろおどろしい大地信仰を感じる
イザナミ、イザナギから突然、天照月読が出てきて唐突感が否めない たまたま九州の邪馬台国の卑弥呼が死んだ時に日食が起きただけでそれ以前から太陽信仰はあったし天岩戸信仰もあった
どこかで習合されたんだろう
そして邪馬台国のことは完全に闇に葬られてるし天照とは全く関係ない
そもそも大和では九州にそういう女王がいたことも知らなかっただろうし >>693
どのあたりがそっくり?
俺にはそっくりには思えない。
アマテラス 高天原在住
卑弥呼 倭国在住
アマテラス 子や孫がいる(孫のニニギを倭国に降臨させる)
卑弥呼 独身(後継者は女、縁者の台与)
アマテラス 出雲領有の正当性を主張し、オオクニヌシに国を譲らせる
卑弥呼 狗奴国との戦いに手を焼き、魏皇帝を頼る >>695
だから、神功皇后は4世紀の人物で結婚しています。まあ女帝でもありません。皇后です。 山口知事が佐賀のことを語り、
長崎知事が山梨のことを語る 残念ながら、卑弥呼の時代の天皇は孝元天皇
アマテラスは初代神武天皇より前の人物
したがって、アマテラスは18代天皇の孝元天皇よりはるか昔の人物であり、紀元前。
よって、アマテラスは卑弥呼ではあり得ない。
卑弥呼は独身だが、アマテラスには旦那がいる。 >>695
神功皇后は三韓征伐をした4世紀後半の人
南にいる狗奴国ごときにてこずって、中国様に泣きついた卑弥呼とは全く違う >>682
もちろんアヴァールも出てくる。
アヴァールが唐の事?? 佐賀さないでくださいっていう県名なのに、なんで見つけちゃうんだ…。 >>695
神功皇后は摂政で将軍
卑弥呼は王でシャーマン
同一視する要素ゼロやんけ >>678
好太王碑文として漢字の記録が残ってんじゃん >>705
出土品似てるらしいけど、ハンガリーの方から極東の方まで領土あったのか?? 紀元前 アマテラス
3世紀 卑弥呼
4世紀 神功
これくらい差があるので同一視は難しい >>707
ならば、アマテラスとかいう人物の存在も全く参考にならない
世界各地にある国生みの伝承をパクっただけ こうやってヤマト王権にすり寄ってくるのが、九州説が無理やりなこじつけをはじめ、ラノベ化していくところ >>712
元々は誰ということもない比売大神信仰というものだったかもしれない >>712
それはそうだろう
部族の統合に合わせて神の性格や神話が付加されたと見るのが妥当
一貫性がない >>605
さすがですよ、畿内派はこんな人ばかりですw >>713
それはあなたの勘違い
関西人はもっと中国と対等にやり合ったという誇りを持つべき。
残念ながら、卑弥呼邪馬台国は中国の犬 >>693
同一でも構わんが、普通に考えて神と巫女だから結構違う気はするな 東から来た蛮族は全員太夫名乗ってるwそんなわけないから現地行ったら刺青した蛮族だったw
こんな程度の話 >>718
卑弥呼がアマテラスという話と、どうつながるんだ? 例え卑弥呼の墓であったとしても全力で阻止をするのが畿内派の役目だと思いますw >>727
近畿には関係ない。地動説なんでね。
邪馬台国は近畿
卑弥呼が共立で九州へ >>723
種さ手に入れてしまえば、あとは夫は要らない系の女傑だよな。
記紀の仲哀天皇はとても気の毒な存在だ。 >>685
だろうね
いかにもここに入れたくなるところに入ってる感じ
こういうのはえてして作為のことが多い
個人的には神功皇后は複数の伝説をまとめたもので、この人が神功皇后ですと言える人は実在しないと思ってるけど、少なくとも卑弥呼の時代に三韓に攻め入る軍事力なんてあるわけないから、卑弥呼とは違うとは断言していいと思ってる 神功皇后は自分はアマテラスの生まれ変わりだと思っていたかもな 関西でアンケートを取ると、「邪馬台国は畿内だ!」とする人が多数となる。
それは、邪馬台国=凄い国=関西人の誇りであるからだ。
関西と四国以外のアンケートでは九州説が多数となる。
すなわち、関西人が畿内説を推すのは、単に邪馬台国が畿内であった方が関西人が「俺すげー」できると勘違いしているからである。
ところが、実際のところは、卑弥呼邪馬台国は南にいる狗奴国ごときに手こずって、中華皇帝に泣きついた中国の犬である 上陸しただけで三韓が降伏したとか、ハラマキで石巻いて冷やして一年以上出産を遅らせたとか、
神功皇后なんつー妄想ヒロインキャラは
天武天皇・舎人親王父子が皇統を華やかにするために創作したんだろ。
卑弥呼に投影出来るように時代設定に苦心したっぽい。日本書紀の中だけでも色々矛盾してる。 同じ時代の中国では古典の孫子で学んだ連中が連環の計から火攻め仕掛けたり
八門金鎖の陣を破ったりしてたのに日本はまだ文字で記録に残す文化すらなかったんだよな
蛮族扱いされて邪とか卑とかの文字当てられるのもしょうがないわな 北条政子が強かったのは神功皇后の生まれ変わりと称されていたから >>732
壹与以降だろうな。軍事でなく
経済だな。百済、新羅 建国をサポート
初めはいいが、仲違いが始まる。
統制が取れなくなって任那を置いた。
近畿 大前提として
日本書紀も古事記も西暦710年頃で
卑弥呼の時代は日本書紀古事記の400年前
記録や証拠が古代より沢山残ってる1600年頃の歴史ですら400年後の今でも諸説あって
新証拠が出る度に書き換えられるのに
日本書紀や古事記の400年前の記述がアテにならないのは火を見るより明らか。 >>700
神功を天皇じゃないとするようになったのは対ここ100年くらいの間だけだが、、、 ヤマトタケルからして複数の伝承が統合された物だろ
あんな日本中歩けるわけない >>8
勝ち負け以前にそんなものない
大和政権が畿内だから名前の似てる邪馬臺国も畿内のはずとかいう意味不明の願望で説ではない >>709
ほかにもリドク(変換出来ない)とかもあるね
ただ広開土王碑は単独のイベントだけで歴史の断面でしかないから、ほかにももっとたくさん碑文とかがないと時系列としては論じられないのね まだやってるのか
古参九州勢力を強大な新興畿内勢力が滅ぼして
箔付けのために伝統だけ乗っ取っちゃった
これで大体の矛盾は解消する >>743
神功皇后が天皇だとしても、神功皇后が4世紀後半の人物であることは動かしようがない スサノオはやはり朝鮮由来だから三韓征伐したんでしょ
自分をアマテラスと同一視してたから >>161
発掘調査出来たのは、なんも無かったごく一部だしな
建売住宅辺りや、団地の辺りも調査できれば
出てくるとは思うが >>657
九州説がイケイケだったのはナショナリズムが活発だった頃までだな
当時は畿内説を言うのもはばかられた雰囲気だったそうな ヤマトタケルって稲葉のうさぎの人ですか?
大黒さまとは別ですか? 千年後は岸田翔太郎の組閣ごっこ写真、話題になったことだけが伝わってるかもよ
令和天皇臣下岸田何某、日本をよく率いるとか言われてるかも >>750
見に行ったことがあるが、ま新しい建売住宅がけっこうあるのな。
あれ、考古学調査したいから、どいてほしいって言えねえわな。 >>750
福岡市なんて大都市すぎて何も発掘調査できませんが?
クソ田舎の奈良は発掘し放題ですけど >>161
邪馬台国の内陸部だな。
花の都、邪馬台国などはないのである。
近畿 >>752
ウサギを助けたのは、オオクニヌシ(オオナムチ)ですね。
アマテラスに滅ぼされた側の神様です。 >>751
畿内説の方がナショナリズムの皇国史観に思えるのだが >>749
スサノオは牛頭天王だろ
牛は昔高貴な動物なんだから征伐された奴をなぞらえるわけがないぞ >>757
似たような名前の神様が居すぎて分からなくなります
ありがとうございます >>755
発掘し放題なのに出てきたのがあちこちにある銅鏡と桃の種と土器… >>748
まあ素直に考えて卑弥呼は年代的にも倭迹迹日百襲姫命よな >>710
真アヴァールと偽アヴァール
東突厥と西突厥
色々間違って記録されてるのか?? >>161
各地の土器が集まってるということは当時から奈良はとてつもなく大きい交流地点だったということ >>759
魏志倭人伝には牛馬はいないと書かれている >>762
モモソも箸墓も4世紀以降の可能性大
馬具が出てきてんだよ
まだいなかったはずなのに >>762
全然違うよ
倭迹迹日百襲姫には旦那がいるが卑弥呼は独身の引きこもり >>767
大陸から鏡とか色々もらってるんだから
その中に馬具があって何かおかしいんか? モモソは結婚してすぐに亡くなってる
若かったはずだ
卑弥呼は御長寿 >>700
神功皇后は3世紀の人物ですよ
仲哀天皇の崩御後は実質女帝
天皇は祭祀を執り行うので巫女的側面もある
同時代に2人の女帝が日本に居たと考えるのは矛盾
つまり、卑弥呼=神功皇后
これは奈良時代の記紀編纂者も認識してた事 >>758
ごめん「畿内説は皇国史観」の意味が100%分からない
本居宣長から続く皇国史観では九州説かと思ってたから
マジで「畿内説は皇国史観」てどういう意味なの?何でそう思うの? 畿内のよくわからんところは、記紀を絶対視して話を進めるくせに、記紀の都合の悪いところは全力で黙殺するんだよなあ >>755
それで発掘できたのが2割、残りの8割は神社や民家や商店
大規模開発がされない分、発掘の機会が巡ってこない
まして、奈良盆地は人の住める範囲が少ないからね
後、何か建てようとすると、地下の調査が他の地域よりも深く調べなくちゃいけないので、そうすると大抵何かが見つかって工事が止まる
なので建て替えすら敬遠される >>764
交流?
開拓地だよ。三重、徳島同時に丹産出だ。
ゴールドラッシュでなく
マーキュリーラッシュ。 >>774
神功皇后は三韓征伐をした4世紀後半の人物
卑弥呼は3世紀半ば(247年ごろ)に死んだ人物 >>771
いろいろ?
あちこちにばら撒かれてる銅鏡くらいだろ
あ、あと桃の種かw
馬具は中国最古で4世紀
日本には5世紀以降に普及したんだよ >>774
大和朝廷の歴史を盛る為に創り上げたのが神功皇后
我が大和朝廷は魏志倭人伝に書かれている邪馬台国のことで
ずっと昔から続いている由緒あるやんごとなき政権なんだよ
とアピールする為に作られたエピソード
聖徳太子みたいなもんだな >>704
神功皇后の夫である仲哀天皇は熊襲征伐に失敗してる
最初は手こずってたんだよ
その後、神功皇后は熊襲を攻略するが
魏の後ろ盾があったからだ >>773
何に使うか分からんかったのでは?w
贈る方は馬くらいいるだろと思って送ったら
馬がいなかったということがあって、
わざわざ記録したとも考えられるじゃん
献上じゃなくて下賜なんだし、
そこまで考え無いんじゃないかな
ってか、現地に行った使いが珍しいものを持って帰ったとしてもおかしくないし >>775
偉大なる天皇家、大和朝廷は魏志倭人伝に書かれた邪馬台国で
遥か昔から続いてるという史観
天皇家の起源をより古く盛る為の説が邪馬台国畿内説 >>782
魏志倭人伝ちゃんと読んだ?
卑弥呼は滅多に人前に姿を見せない引きこもり
三韓征伐した神功皇后とは真逆 >>785
神功皇后(じんぐうこうごう、旧字体: 神󠄀功皇后、成務天皇40年 - 神功皇后69年4月17日)は、
日本の第14代天皇・仲哀天皇の皇后。
『日本書紀』での名は気長足姫尊で仲哀天皇崩御から応神天皇即位まで初めての摂政として約70年間君臨したとされる(在位:神功皇后元年10月2日 - 神功皇后69年4月17日)。
なお、実在したとすれば後述の広開土王碑文、三国史記や七支刀に加えて
纒向遺跡の廃絶年代、陵墓の年代などからも総合して4世紀後半頃と見ることが出来る。 >>784
天皇家は紀元前600年じゃないのか
皇国史観なら
紀元後200年が古いとか何の皇国史観なん? >>769
神功皇后は未亡人だから独身
寡婦と書くと失礼だから
「夫は居ない」と記したんだよ え?w
畿内説って箸墓が卑弥呼の墓って言ってんの?w 九州には馬はいなかったかと大和にはいたんじゃないの
出雲から入ってきてたのかも >>785
好太王碑「391年、倭が襲来し、百済や新羅を臣民とした」
日本書紀「神功皇后が海を越えて三韓を成敗した」
この二つを整合させようとすると4世紀の人となるだけ。 >>775
中国と外交出来るような国は大和朝廷でなくてはならない
だから卑弥呼は皇女の誰かに比定しなければならない
そしてそれらは畿内に存在しなければならない
って言う発想がすごく皇国史観に思えるのだが >>790
魏志倭人伝ちゃんと読んだ?
卑弥呼は滅多に人前に姿を現さない引きこもり
神功皇后は三韓征伐するほど多動なジャンヌダルク
真逆すぎるし、そもそも神功皇后は4世紀後半の人物で確定している なんか箸墓古墳の馬具の件ググったら↓こう書いてあるんだけど、箸墓古墳の年代と関係ないんじゃん、、、
なお、周濠が機能停止し埋没し始めた後に堆積した土層からの出土であることから、古墳本体の築造年代論とは直接関連しない。 最近は大和朝廷という言葉は死語になったと聞いたがここでは現役なんだな
昔の教科書の知識で語ってないか >>21
捏造したのは東北大考古学の一派だよ
おバカさん >>200
筑前と豊後の二見ヶ浦のちょうど真ん中だしな
太陽信仰という意味でもすごくそれっぽい >>748
馬韓、辰韓、弁韓の三韓は、
魏の楽浪、帯方の二郡によって
正始七(246)年に消滅させられているので
もしも神功皇后が4世紀の人物であれば
神功皇后が討伐するのはムリですが? こう言うの怪しいんだよ。変に名声の為とか、活動費の為とかで工作する輩が多いからなぁ そもそも天皇なんて邪馬台国に全く関係ない
畿内説論者はなぜか全く関係ない天皇とか大和政権とかの話を無理やり出してきて畿内説を唱え出す >>802
それはガチな質問ですか?
ギャグですか? >>762
モモソヒメのまんこエピソードが卑弥呼と重なるとはどうしても思えません >>785
記紀によると神功皇后が摂政の時代に、百済の王族が死んでるんだけど
その王族がみんな4世紀の人物だから >>806神と結婚してるし
神の怒りに触れて死んでるし
それっぽくない?
箸をまんこにぶっ刺して死ぬ発想がどこからきたのかは分からんがw >>798
死語っちゅうか 朝廷って概念ではなかった
かなり甘めに判定して律令制以降が朝廷、それ以前は部族の集まり 邪馬台国の話で日本書紀とか古事記とか後世の創作出す奴らも話にならないので無視するしか無い 日本書紀や古事記にも考古餓鬼的な根拠が見つかってるものもある 出雲大社と宇佐神宮の2つだけは参拝の仕方と、しめ縄のねじれが他神社と逆
出雲大社は大国主命を封じ込めるための施設なので注連縄は逆、柏手も4拍手ですね。
国譲りでは大過なかった事になってますが、あれほど恐れていたということは、だまし討ちくらいしたのでしょうね。
だからこそ参拝方法を変えてまで恐れたのでしょう。
宇佐神宮も同じ封じ込めと考えるべきでしょう。
主祭神は神功皇后、応神天皇、ヒメ
ヒメ大神が怪しい。
大国主命と同じような悲惨な死の運命をたどった人物と言えないでしょうか。
該当するような大物で女性となると卑弥呼しか思いつきません。 >>815
そもそも風土記もほとんどのこってないけどね
江戸時代にはまだコンプリートされてたって話だけど、その後大半が散逸して、ちゃんと残ってるのは5つだけ(5国だけ)
残りは後世に書かれた続風土記ばっかり 宇佐神宮で神功皇后は神話にあやかったんでしょ
アマテラスのつもりだから >>818
水戸黄門様の功績
若い頃は辻ぎりの悪党 ひみこのパンティはシルク
邪馬台国は養蚕をやっていたので確実 >>808
デジタル・タトゥーどころの話じゃないよなw >>805
ガチ ビリ ドン
変な日本語w語源は? 神 神 神祇官
ピーヒャラピーヒャラピーヒャラピーヒャラ >>825
現在でも、作れないスケスケの薄さだそうだ。
聞いた話によると。 とにかく日本中の古墳は学術的観点から全部掘り起こして欲しいな 畿内説と九州説が有力だが、邪馬台国がどこにあったのか日本では不毛な議論ばかりしている。魏志倭人伝を書いたのは中国人なんだから、中国か台湾の学者に見解を聞いてみればいい。 >>835
そんな七面倒くさい事せず直接邪馬台国に行けよ >>821
江戸表の武家屋敷には揃ってたみたいだけど、幕末の動乱で散逸したっぽい >>835
謝銘仁 「邪馬台国 中国人はこう読む」 (徳間文庫) ワイ筑後の生まれで福岡市に行くと筥崎宮にも寄るんだが
大体不運な事が重なるんで相性悪いと思ってたら祭神が神功皇后なんやな >>840
慶喜さんね。たぶん、薩摩が没収
後はわかるだろー >>835
NHKの番組で中国人の歴史の権威3人に聞いたところ、3人とも九州説を支持した。
・魏晋南北朝史学会の副会長である陳長崎氏
・世界漢字学会の会長であるゲンコクワ氏
・台湾大学教授である周徳望教授
特に興味深いのが陳長崎氏の魏志倭人伝は欠陥資料であるという指摘。
魏志倭人伝では刺史を監察官(要するにCIA、ゲシュタポみたいなもの)と書いてるが、刺史が監察官であったのはせいぜい2世紀後半までであり、陳寿が魏志倭人伝を書き始めた3世紀後半の刺史は単なる行政官にすぎなかったという指摘。 >>849
さらに、台湾大学の周徳望教授はこう指摘する。
魏志倭人伝に「倭国に牛馬なし」の記述を見て、牛馬がいなければ、物資の運搬や人の移動はかなり大変だったはずであり、
外国との繋ぎ役を果たす伊都国(福岡県糸島市)と邪馬台国が遠く離れていたとは到底考えられず、邪馬台国は北部九州でしかあり得ないという指摘。 >>848
武家は記録を大事にしない
公家は記録魔 吉野ヶ里の石棺墓発掘で教科書の内容が変わる。更に何かしらの印が見つかればもう最高ですね。
権威により曲げられた歴史が修正をされるわけですよ。 伊勢神宮で祀っている天照大御神は、本来男性です。
しかし記紀編纂後は女神という認識になっています >>835
こんなのもあるぞ
「邪馬台国の全解決」 中国「正史」がすべてを解いていた (著者 孫栄健)
この人は伊都国のすぐ南、お墓は平原古墳と言っている >>849
魏志倭人伝は大昔の時代の史料から引用したりしてつぎはぎだらけの内容だったんだろうな >>852
海、忘れている。
シカもいる。
小型馬の骨の出土はある。 >>856
〇〇孫さん?
クヌート ソン…
あーー!! >>852
日本の物流って江戸時代まではほぼ海運頼みだったからね
だから陸の道は貧弱、内地は陸の孤島 >>850
佐賀が唯一輝いていたのは幕末
開国前に日本初の反射炉と蒸気船を自作して日本で初めて近代的な軍隊を組織した
薩長土肥の「肥」は肥前佐賀藩
弥生時代は福岡の勝ち 天照はトヨで初代妖巫女だと矢吹健太朗先生が言ってた >>865
でも副葬品が凄いんだよ
銅鏡、鉄剣、勾玉、ピアス、ほか >>856
大阪在中の作家だな。
九州説出せば売れる事は知っている。 >>867
そうそう
遣隋使・遣唐使、貿易商人、朝鮮通信使…みんな福岡から畿内を目指すなら博多湾から関門海峡を抜けて瀬戸内の海を通る水路
魏志倭人伝は北部九州を歩いて移動してる時点で畿内には向かってないw そりゃ発掘すれば「邪馬台国時代の墓」は日本中に数えきれないぐらいあるさw
だが、もし福岡城の本丸中心あたりに卑弥呼の墓があったとしたら、それは永遠に見つからないだろ。 >>599
神武天皇と応神天皇は名前に神の字が入ってる
外からの征服者を意味しているのかも
神の字を持つ天皇はあとひとりいる。崇神天皇
だが崇神天皇にはそんなエピソードはない
だか奇妙な話がいくつかある
たたりがあったためオオモノヌシの子孫のオオタタネコを探したという話
崇神天皇が神武天皇の子孫なら、自分もオオモノヌシの子孫のはずなのになぜ別の子孫を探したのか
またアマテラスを宮中で祀るのはよくないと言って追い出してしまった
アマテラスはあちこちたらい回しにされ、次の垂仁天皇の代になってやっと伊勢神宮で祀られることになった
だが天皇がアマテラスを宮中から追い出すというのも変な話だ
崇神天皇の和名はミマキイリヒコという
これにちなんで、任那と名付けたというエピソードもあるが
ミマキイリヒコとは、任那から入ってきた天皇という意味なのかもしれない >>870
これで大勢の殉葬の痕跡とかあったらもう卑弥呼確定って感じだよね
無いなら台与あたりの可能性はあんのかな >>872
当然よ。近畿には向かう。
若狭湾、大阪湾、伊勢湾
丹や鉱物資源の搬出だな。 馬具が出てから顔面蒼白、忘れたくても思い出したら顔面蒼白
邪馬台国ではなかった、やっぱり大和朝廷だったって話 >>832
ヒルメはイザナギとイザナミの間に産まれた子で女神です。
一方、イザナギの禊ぎによって生まれた天照大神は男神です
この天照大神はイザナギの実子ではありません。
別の神がイザナギに任命されたという事です。
禊ぎ天照大神とでも >>866
ハンガリー人とも遺伝子ちょっと違うんだろ?
アヴァールって。
アジア人の方が近い >>879
鹿に使った
結局、ダメだったんだな。
馬鹿な話よ >>882
未知の巨大な国あったけど滅んて散り散りに逃げたんじゃ >>876
その名前をつけたのは、8世紀の淡海三船だよ? >>887
なんの理由もなく適当につけたわけではないだろう
何か知っていたのでは 応神が売国天で仁徳はその子供かwww
応神は殺されたか?wwwwww
怪しすぎるぞ!wwwwww 別にどこにあったかなんてどうでも良くない?文系って何で役に立たない趣味的なことばかりやってんの?穀潰しなの? >>784
あなた頭悪いですね。なんでそんな気持ち悪い発想するのか理解できません。
畿内説は科学的に分析して畿内説と説いているのです。事実は一つしかありませんから。
歴史にifはありません。妄想で捏造することはできますが。
そういう捏造抜きで考えた場合に畿内説を説いているのですね。
で、卑弥呼は天皇家ではないし、北九州か吉備、丹後あたりの出身と考えます。
天皇家は卑弥呼の邪馬台国を乗っ取った征服王朝という考えです。 邪馬台国はあって卑弥呼はいなかった可能性もあるなwwwwww >>875
陣内孝則が売れない頃、バイトで遺跡発掘をしていた
何か見つかると上の人を呼んで見つけた状況を報告したりめんどうなので
怪しいのが出てきてもゴミの方へ投げ込んでいたという
「まさに時代を変えたロックバンド」というのをネタにしてたが、さすがにヤバいと思ったかこの話は封印された >>853
武家は捏造するし破壊する
公家は記録する >>899
まあ、邪馬台国は近畿
卑弥呼が共立で九州だけどな >>884
百余歩って、周囲100歩じゃなかろうか >>897
畿内説は文献の整合性もなく、考古学的な発見もないのに、とにかく皇女の誰かに卑弥呼を当てはめようとする連中 >>889
そんな適当な、、、
仮説の上に仮説を積み上げるなら、なんだって言えるよ 肥前は長崎を含んでいるからね
江戸時代は日本の玄関であり最先端国 >>902
薩長に作られるんだよ。
富国強兵には欠かせない。
暦や農、養蚕に関する事は天皇
近畿 >>909
江戸時代から明治時代までは九州で1番栄えたのが長崎
対馬も大陸貿易の拠点として豊かだったらしい
古代も対馬ー壱岐ー北部九州は鉄板航路 >>1
なぜ謎のエリアなんてのを最後まで残した?
そこだけがわからん
吉野ヶ里に20年くらい前に行ったけどコンクリばっかりでさ
取り組む順番おかしい >>894
考古学は今や理系抜きではできない分野だよ
地学の先生カモン そんな昔のことが分かってどうすんの?
年金が倍になるとかじゃないんだろ? >>904
周百余歩なら良かったんだけど、径百余歩って書いてあるんよな >>901
こんなふうに捨てられた歴史的大発見もあったんだろうな、、、 >>893
天照大神はイザナギの実子ではないので、イザナギの権威を直接継ぐ事が出来ません。
そこで、ヒルメが禊ぎ天照大神の血筋の保証先となります。
ヒルメの血筋の娘を約束事に従って入れる事で、イザナギの子である天照になるわけです。
ヒルメが一説に天照大神であると書かれているのはこういう事なのです 文献史学は自分の仮説に都合のいい材料だけを集めて言葉遊びをする人
相手にしないほうがいい >>919
その文献をとことん叩いてから読むんだよ
その辺の新書とは違う >>917
古い由来があるけどあまり立派な社殿じゃない神社は建て替えたとしても地面深くは掘り返さない=調査しないし、そもそも建て替え自体も滅多に行わないだろうから、
そこが世紀の発見級の遺跡だったとしても見つからないままだね。 >>923
梨田が困ってたな、ちょっとした新聞ネタになってたw >>922
遺跡見つけたら自腹で発掘だもんな
そりゃ見ないふりして工事進めちゃうわ・・・ これを機に畿内説なんて霊感商法詐欺を排除しましょう >>873
アマテラスはもともと男神だっていう説ね
これだと卑弥呼がアマテラスってのは全く成り立たなくなるやね
だいたい裸踊りをチラ見したくなるとかどう考えても男だよなって >>924
ある程度の重量のビル等なら
深く掘る。遺跡調査は法的義務と思うよ >>898
古代中国人は古英語話者だったのか?
ハンターの事をhuntaフンって
あーー!! >>788
だから日本書記には
日本書紀「第九巻:神功皇后」
神功皇后摂政
卅九年、是年也太歲己未。
魏志云「明帝景初三年六月、倭女王、遣大夫難斗米等、詣郡、求詣天子朝獻。太守鄧夏、遣吏將送詣京都也。」
卌年。
魏志云「正始元年、遣建忠校尉梯携等、奉詔書印綬、詣倭國也。」
卌三年。
魏志云「正始四年、倭王復遣使大夫伊聲者掖耶約等八人上獻。」
と書かれているし、
『魏志』(韓伝)では、正始七(246)年に
魏の楽浪、帯方の二郡が三韓を滅亡させたと記されている
4世紀に三韓なんかねぇよ >>927
ユンボで掘ってて土の色が変わったら
慌てて違う土で薄く埋め戻したり真砂入れたり
いろいろ大変w >>918
アマテラスの別名は
大日孁貴神(おおひるめのむちのかみ)[3]。
「ひるめ」じゃなくて「むち」に思えるけど。 >>930
同性婚地裁 性別による婚姻は差別にあたる
憲法違反だそうだ
古代からあったのにね。 畿内纒向説がこの先生きのこるには。。。
■魏志倭人伝に書かれた卑弥呼の居住区の様子
『宮室樓觀城柵嚴設常有人持兵守衛』
宮殿や高楼は城柵が厳重に作られ、常に武器を持った人が守衛している。
[佐賀県]高貴な人が住んでいたと思われる警備厳重かつ頑丈な建物
吉野ヶ里の大型建物と人
https://i.imgur.com/NHwxcAf.png
■畿内説にとって唯一の頼みの綱
[奈良県]古墳完成までの遺族向け宿泊所と思われる無防備で貧弱な平屋物件
纏向の大型建物の柱と人
https://i.imgur.com/LL8YcSm.png 後漢から遼東太守に任命された公孫氏は
同じく後漢から金印を印綬された九州の倭奴國の漢委奴国王に玉璽を与えて
後漢の第14代皇帝「献帝」から帝位を強奪した魏の曹叡(明帝)と司馬懿に反旗を翻して挙兵してる
このときの、公孫氏が漢委奴国王に与えた玉璽が吉野ヶ里遺跡の墓から出てくると面白くなる >>932
ツクヨミの記録はすくないから判断できないとしか言えない >>939
吉野ヶ里 卑弥呼がいた所
纏向遺跡 邪馬台国の内陸部 >>942
九州説も田川説、博多説、大野説etcはボツ 邪馬台国がどこにあったか、興味のある人は多いでしょう。しかし文献史料は既に研究し尽くされており、判断は
ほぼ不可能です。また、よく誤解を招いているのが、卑弥呼が「邪馬台国の女王」だったという説です。中国の
『魏志倭人伝』には「倭国の女王」「女王国の女王」としか書かれていません。中国から王国として認められたの
は「倭国」「女王国」であって、邪馬台国はその一部、つまり女王がいた場所を指す、都やムラだと考えられてい
たのです。
https://yumenavi.info/vue/lecture.html?GNKCD=g004875 台与が貢献した記録が残る西暦266年から、わずか14年後に、西晋の陳寿により完成された『魏志』(倭人伝を含む)には
女王がいる邪馬台国は、それまでの倭王の漢委奴国王がいた倭奴國よりも遥かに遠いと書かれているからねぇ
漢委奴国王がいた倭奴國が九州にあったんだから
女王がいる邪馬台国は少なくとも、九州より遥かに遠い場所にないとね >>200
日田の東に日出があるんだよな。日田の小迫辻原遺跡は気になる場所だな。日田は卑弥呼の保養所で、政治の中心は太宰府と思う。太宰府は北の水城が有名だが南にも同じ水城が確認されてる。白村江の防御固めのみでなく南からの攻撃にも備えてる。 畿内説
100年頃倭国大乱
↓
出雲の大国主が北陸・中部~山陰、四国を統一。奈良に都を置く。
↓
北九州・吉備勢力に共立された卑弥呼が中国王朝の権威を盾に大国主に国を譲るよう要求。大国主は武器と引き換えに
譲るとしてすべての国から回収された武器を貰い出雲へ引っ込む。それを荒神谷遺跡へ埋める。
↓
220年~250年頃。共立された卑弥呼は奈良へ移住しマキムクのあたりに都を築く。積極的に魏に遣いを送る。
↓
250~台与・男王(ナガスネヒコ)時代
↓
300年?~南九州から神武(崇神)東征 邪馬台国は陥落し王位権を天皇家に譲る
↓
300年?~ 天皇家は東国へ積極的に侵攻し征服する >>1
あの時代に石棺に入るなら、そりゃ、その土地の有力者だろうよ >>950
だからさぁ
日本書記には
神功皇后摂政
卅九年、是年也太歲己未。
魏志云「明帝景初三年六月、倭女王、遣大夫難斗米等、詣郡、求詣天子朝獻。太守鄧夏、遣吏將送詣京都也。」
・・がありました
卌年。
魏志云「正始元年、遣建忠校尉梯携等、奉詔書印綬、詣倭國也。」
・・がありました
卌三年。
魏志云「正始四年、倭王復遣使大夫伊聲者掖耶約等八人上獻。」
・・がありました
と書かれてるんだから、
神武東征は卑弥呼が親魏倭王になるずーーーーーっと前の話 >>952
そりゃまぁそこら辺のおっさんではないだろうな >>915
墓の規模は伝聞なんだろ
実際に見たわけじゃないから盛ってるんじゃないの 纏向には九州の気配はほとんど無いし
東遷エピソードは仮にあったとしても紀元前の話であって卑弥呼の時代に持ってくるのは不適切
アマテラスと卑弥呼と神功もそれぞれ時代が違いすぎるというふうにどんどん切り分けていけば
ごくシンプルに九州邪馬台国は畿内ヤマトに飲み込まれたという構図が残る 邪馬台(ヤマト)国は耶馬渓・山門(やまと)として名が残り、
都があった場所として福岡県京都(みやこ)郡の名が残され、
台与は豊(とよ)の国として、記紀の中つ国は中津として名が残っています
卑弥呼の墓(冢)は宇佐神宮境内の亀山山頂付近です。
真の天照大神本柱は宇佐神宮にヒメ(卑弥呼)大神として祀られています。
ですから、道鏡事件で朝廷は伊勢神宮ではなく、宇佐神宮に神託しました >>950
君、卑弥呼がいるなら、
南至邪馬壹國 女王之所都 水行十日陸行一月
官有伊支馬 次日彌馬升 次日彌馬獲支 次日奴佳鞮 可七万餘戸で終わらないよ。
詳細な方向や宿泊地等は記述する。
卑弥呼が九州にいるから、行く必要性もない
あっさりした紹介で終わっているだろ。近畿 >>954
『魏志』(倭人伝を含む)によると
卑弥呼が死んだときには
邪馬台国に帯方郡太守が派遣した塞曹掾史の張政等が居た
冢を大きく作った。直径は百余歩、徇葬者は奴婢百余人
の時も、邪馬台国には帯方郡太守が派遣した塞曹掾史の張政等が居た
その後、新たに男王を立てたが、国中が不服で互いに殺しあった。当時千余人が殺された。
時も、邪馬台国には帯方郡太守が派遣した塞曹掾史の張政等が居たし
卑弥呼の宗女、壱与(イヨ)、年十三、を立てて王と為し、国中が遂に治まった
時も、邪馬台国には帯方郡太守が派遣した塞曹掾史の張政等が居た あの事件のおかげでこの手のやつ信用できないんだよな 機内から魏鏡がたくさん出土してるがあれが大陸製だろうと国産だろうとあのあたりに大きな勢力があったと推測はできるのよな >>744
>ヤマトタケルからして複数の伝承が統合された物だろ
熱田神宮の周囲の小神社では、尾張連の首長が、関東遠征軍を指揮し、大高の港から軍船を連ねて出発し、遠征は成功したが、帰路の最後で衣浦(三河湾の北西の挙母川河口)で船が荒波で転覆し水死したと伝承されている。草薙の剣は、彼の剣。
景行天皇を武力で支えた(各地への遠征部隊を全部出した)、彼の本名は「スサノオ」・・と神社では伝承されている、と、とある研究者の本に書いてある。伝承のダブルチェックはしていないウソかも 九州にあったかもしれない比売大神信仰は畿内に広がった結果アマテラス信仰に繋がったのかもしれないが
それと卑弥呼は関係無さそうかな
そこをごっちゃにするとどんどんトンデモに行ってしまいそう >>947
諸国は共に卑弥呼を立てて王としたと書いてあるから
卑弥呼は倭国(=女王国)の女王なんだよな 吉野ヶ里遺跡は何もかもが魏志倭人伝のイメージ通り
石棺の周りの甕棺墓が殉葬に見えるだろ?
絶対前方後円墳なんかじゃないんだよ >>954
つまり1/10くらいだったとしてもおかしくはないか
それは確かにあり得る >>963
九州文化の少ない当時の畿内において唯一残るそれも強烈な痕跡が天照信仰と鏡祭祀なんだよね
これらは共に饒速日から来るもので饒速日の後ろにあった勢力としての邪馬台国と卑弥呼がヤマトと天照大神として神話化されたのではないかと 『魏志』(倭人伝を含む)によるとヘタしたら
帯方郡太守が派遣した塞曹掾史の張政等が
卑弥呼の死後に男王を親魏倭王にしようとして失敗した
ことも考えられる
卑弥呼が死んだ
・・時には、
帯方郡太守が派遣した塞曹掾史の張政等が邪馬台国に居た
冢を大きく作った。直径は百余歩、徇葬者は奴婢百余人
・・の時も、
帯方郡太守が派遣した塞曹掾史の張政等が邪馬台国に居た
その後、新たに男王を立てたが、国中が不服で互いに殺しあった。当時千余人が殺された。
・・の時も、
帯方郡太守が派遣した塞曹掾史の張政等が邪馬台国に居たし
卑弥呼の宗女、壱与(イヨ)、年十三、を立てて王と為し、国中が遂に治まった
・・時も、
帯方郡太守が派遣した塞曹掾史の張政等が邪馬台国に居た >>932
ツクヨミを信仰していた隼人は巫女文化だから対になる神は男神のような気がする >>971
おとなしいけど後でツクヨ巳
筑紫の世になるんだな。 八幡神がはじめて文献に登場するのは、『日本書紀』の続編である『続日本紀』です。このとき(737年)は「広幡乃八幡大神(ヒロハタノヤハタノオオカミ)」という名前で登場していますが、応神天皇のことはなにも書かれていません。少なくとも奈良時代中期までは、応神天皇とは無関係の神だったのです 崇神の頃には天照大神が移されるんだけどこれは明快な九州文化の弱体化を図ってると思われる
記紀で復活するけどね
物部氏は石上に、大国主は三輪山にそれぞれの祭主を立てて大王家を創始するという意思が見受けられる 記紀と考古学はハマるかもしれないが
そこに卑弥呼と邪馬台国はまったくハマらない異物だから困る しっかり見ておきましょう
【参考】
福岡県北九州 城野遺跡発掘調査のもよう
https://youtu.be/QxvY4FBnXq0?t=288
石棺を開けるシーン 宇佐神宮の本当の主祭神(主神)は比売大神=卑弥呼
二所宗廟とはもともと、宇佐神宮と伊勢神宮のことを指していました。
ただ大和(奈良)から九州の宇佐神宮は遠すぎるので、京都にある石清水八幡宮と交代したんです。石清水八幡宮が二所宗廟となったのは中世からです「宇佐神宮が二所宗廟に選ばれたのは、祭神が応神天皇だからではないか」という説がありますが、これは順序が逆 >>975
簡単な話だよ
邪馬台国は滅びた
後の大和政権と全く関係ない 邪馬台国なんて大乱時代の強国の1つでしかなく全く盤石ではなかった
狗奴国にいつ滅ぼされてもおかしくない国 >>976
こんな感じで鉄や青銅の副葬品は劣化してわけわからん状態だろうな
今このスレでわちゃわちゃしてる奴らも
一月後には忘れてそう 宇佐神宮の本当の主祭神(主神)は比売大神=卑弥呼
応神と神功皇后は後世に付け加えられた
これが比売大神だけ正体不明になってる理由 >>969
魏志倭人伝以後の4世紀になると畿内でも三種の神器が副葬されるようになるというのもある
卑弥呼の頃は九州にいて4世紀に東征したんだな まあ地理的に考えれば九州しかないよな
畿内とかいうのは豚の発想だわ >>984
ちゃんと三角縁神獣鏡で3世紀から副葬されてます ちなみに、源平合戦時の平氏は源氏に追われ、宇佐や大宰府へ逃げていたりもした 奈良は200年~250年頃にパラダイムが変わったのですね。銅鐸から銅鏡へ。
また、前方後円墳へ。 畿内の古墳から出土する鏡は国産のコピー品だともう判明している
http://mainichi.jp/articles/20180118/dde/018/040/020000c?inb=ra
> 一方の国産説も決め手に欠けたが、1年前、画期的な新説が現れた。昨年この欄で紹介した「国宝・金印論争」にも登場願った鈴木勉・工芸文化研究所所長の著書
> 「三角縁神獣鏡・同笵(どうはん)(型)鏡論の向こうに」(雄山閣)である。
> 鈴木氏は金工や金石学が専門。物の形や文様の変化を追う考古学とは違い、実験が裏付ける製作技術の観点から製作地に迫った。
>
> 着目したのは、鋳造後の仕上げ作業。三角縁神獣鏡の文様には、三角形が連続する「鋸歯文(きょしもん)」がある。
> 鋸歯文を拡大画像で比較すると、ヤスリや砥石(といし)で磨かれるなど、種々の異なる加工痕が残っていた。
> 加工痕の違いは工房や工人、工具の違いを示すものという。
>
> そこで、黒塚古墳(奈良県天理市・33面出土)など、三角縁神獣鏡が出土した10以上の古墳を対象に加工痕を比較した。
> 結果は簡明。仕上げ加工痕は出土古墳ごとに見事にまとまっていた。
>
> 三角縁神獣鏡では同じ型の鏡が複数存在する。同笵(型)鏡と言い、別々の古墳からも見つかるが、同型同士でも加工痕は古墳によってさまざまだ。
> 一方、出土古墳が同じなら、異なる型の鏡にも同じ仕上げが施されている。つまり加工痕は鏡の型ではなく、出土古墳に規定されているのだ。
>
> 鋳造の最終工程で施される仕上げのまとまり具合から導かれる事実は明らかだ。鏡の製作地は、日本列島内の出土古墳近くということになる。
>
> その上で鈴木氏は見つかる鏡の少なさなどから、工人が各地の出土古墳近くに定住しているのではなく、大和地域に本拠を置く複数の移動型の工人集団が
> 各地の依頼で現地に出向いて製作する「出吹(でぶ)き」を想定した。
> 鋳造の最終工程で施される仕上げのまとまり具合から導かれる事実は明らかだ。鏡の製作地は、日本列島内の出土古墳近くということになる。
> 鋳造の最終工程で施される仕上げのまとまり具合から導かれる事実は明らかだ。鏡の製作地は、日本列島内の出土古墳近くということになる。 >>989
新しい祭祀が入ってくると割とあっさり入れ替わる
古墳つくってた豪族がこぞって寺建てたり厨子の装飾に勾玉砕いて使ったり 単に卑弥呼が九州から近畿に移動しただけ
邪馬台国は卑弥呼が東征する上で付けた小国連合の総称
で、最後に辿り着いた奈良に最終拠点を構えてそこをヤマトとした
しかし卑弥呼死亡で強固だった連合が実質氷塊して寄合レベルになった
こっから古墳時代やね 結局畿内説というのは全てがウソと欺瞞で出来た詐欺でしかないんだよね トヨの時は既に奈良(ヤマト)が主体と思われる
この辺からヤマトは中国との交流を深めていく このスレッドは1000を超えました。
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