【歴史】家康と徳川家臣団、名家自称も実際は出自不明な流れ者の集団か ★2 [樽悶★]
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森岡浩(姓氏研究家)
徳川家の菩提寺、大樹寺(筆者撮影)
https://byline-pctr.c.yimg.jp/t/iwiz-yn/rpr/moriokahiroshi//00341518/title-1684710236363.jpeg
今年のNHK大河ドラマ「どうする家康」は、これまでの狸おやじのイメージを覆す、情けない家康を描いた斬新なドラマである。
殿さまである家康は情けないが、その家臣団の団結力はどの戦国大名にも負けない強固なものだった。とはいえ、その譜代の家臣団たちは、絶対服従の織田家や、カリスマに率いられた名門武田家などとは違い、殿さまと家臣の距離感を含めてなんだか怪しげな雰囲気を醸し出している。
■松平氏のルーツ
徳川家康は三河の国衆松平氏の出身である。松平氏は家康の代には落ちぶれていたが、もともとは西三河を代表する有力国衆であった。そして、その先祖は清和源氏新田氏の一族である得川氏で、そこからのちに名字を「松平」から「徳川」に変えたとされている。
しかし、これは自らを権威付けするためのウソで実際の出自はわかっていない。
三河の山中の一武士だった松平氏に婿入りした、流れ者の親氏という人物が松平一族を一躍発展させたものだ。
孫の信光の代には山間の松平郷から岡崎平野に進出、多くの子を各地に配して勢力を広げたが、京の室町幕府とも関係を築き、その弟の益親は京で金融業を営むなど、他の土豪層とは違った活動を見せていたことがわかっている。
■家康の家臣たちのルーツ
主である松平氏が出自不明なため、その譜代の家臣たちの出自もよくわからない。家臣団筆頭の酒井氏は松平氏の分家とされる。ただし、二系統ある酒井氏は、その先祖についての伝承が異なり今一つはっきりしない。
大久保氏は、家伝によると藤原姓で遠祖は下野の名門宇都宮氏の一族。南北朝時代に泰藤が南朝に属して転戦、新田義貞の死で越前国から三河国碧海郡上和田(現在の愛知県岡崎市上和田)に来住したというが、これも伝承の域を出ない。
鳥居氏は熊野の鈴木氏の一族で、忠氏が父との不和から三河国渡(現在の愛知県岡崎市渡町)に移り、その17代の孫にあたる忠吉が岡崎城主松平清康に仕えたというが、忠吉以前の鳥居氏の動向ははっきりせず、歴史上に登場したのは忠吉以降のことである。しかも、鳥居氏は通常の武士ではなく、商人としての側面もあった。
そして、家康家臣団に数多くの流れがあった本多氏は、藤原北家の一族で助秀が豊後国本多に住んで本多氏を称したのが祖というものの、この豊後本多という地がどこにあるかはわからず、豊後からどうして三河に移り住んだのかも不明という謎の一族である。
さらに、石川数正は河内石川氏の子孫というがやはり怪しく、服部半蔵は伊賀の名家服部家の出であるのは間違いないが、なぜか父の代に伊賀を出て三河に住んでいた。
■流れ者の集団
ようするに、みな名家の末裔とはいいながら、実際にはよくわからない他国からの流れ者達である。
そして、やはり流れ者から地元名士の婿に収まった松平氏のもとに集結した、流れ者集団であったことになる。(以下ソース)
5/24(水) 12:20
https://news.yahoo.co.jp/byline/moriokahiroshi/20230524-00341518
★1:2023/05/28(日) 01:23:31.86
https://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1685204611/ >>333
徳川幕府の異常さはその後の恐怖支配によく現れている。
鎖国、キリスト教弾圧、参勤交代、関所。。。
世界中で同じことやった国って他にある?w >>1
坂本カス龍馬の高知県民が徳川家をディスってますね
高知県民は敵
森岡浩
姓氏研究家
1961年高知県生まれ。 >>339
普通にあるだろ
鎖国にキリスト教禁止も中国朝鮮もやってたわけだが
馬鹿なのか高卒だな >>339
当時のキリスト教なんて政治利用される物でオウムと変わらんからな そういや徳川は大政奉還したし江戸城無血開城もしたし
まともな方の統治者だったね >>340
単純に四国のカッペは物を知らないだけでは?
三河の源頼朝、三河の足利尊氏から受け継いだ伝統と歴史を継承する責務を受け継いだのが三河の徳川家康の捉え方が出来ない
源義家は郎党NO1NO2が三河武士と伝え、嫡男義親の生母は源隆長(三河守)の娘であり、実は義家実子と言われる為義の生母も源隆長(三河守)の娘と思われる
そして義国の正室は三河国造家中原季成の孫娘
源義家(1039~1106)
藤原季兼(1044~1101)
生没年がほぼ同じの、この二人、三河を舞台に繋がり持ったとしか思えないのである
義家の曾孫は源頼朝、足利義兼であり、季兼の曾孫も源頼朝、足利義兼なのである
三河の藤姓熱田大宮司家(藤原南家貞嗣流)
系図:藤原実範(三河守)→藤原季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令)→藤原季範(初代藤姓熱田大宮司家、額田冠者(三河国額田郡))
■藤姓熱田大宮司家(本貫地:三河国額田郡乙見、三河県岡崎市)
・頼朝の母方の曾祖父藤原季兼(三河四郎大夫)は、三河国司を多数輩出した一族(祖父の兄、父、弟)に生まれる
・季兼は、伊勢神宮領荘園の荘官として都を下り三河国加茂郡(三河県豊田市)に土着
・季兼は、三河国加茂郡(三河県豊田市)の未開拓の土地を開発し、高橋荘・高橋新荘(後世 八条院領大覚寺統)を立券する
・季兼は、三河国額田郡(三河県岡崎市)に移り住み、青木川菅生川流域(菅生郷)を開発、荘園化せず自らの本拠とする(後に、権益は血縁である足利氏に)
・季兼は、三河国設楽郡稲木(三河県新城市)の稲木長者を滅ぼし、東三河を支配下におく
・季兼室の松御前(尾張員職の娘)は、晩年新城市稲木で過し没した(城ヶ峰の山頂(三河県新城市)に墓あり)
・季兼は、藤原資良(父の従兄弟)が尾張守になり、息子(藤原季範、額田冠者)と共に三河に住みながら尾張目代を務める
・季兼の息子である藤原季範(額田冠者)は、藤原南家として初めて熱田大宮司となる(大宮司職の簒奪)
・藤原季範(額田冠者)の娘(由良御前)は源義朝の正室となり、源頼朝を生む
・藤原季範(額田冠者)の娘(養女(実父は藤原範忠))は源義康の正室となり、足利義兼を生む >>1
キングダムの信は李信将軍なる人がモデルだか、出自がほぼ不明のため好き放題描ける。 >>1
喜連川の縁戚ということにしとけばよかったのにな
系図ぐらいちょちょっと直せるだろ 発祥地の松平郷は山奥の谷間の山姥でも住んでそうな郷なんて呼び名さえ粉飾に感じる僻地だろ
林業っていうけどなんなら元は秀吉より下賤だったんじゃねえかサンカとかの類の
それが武士の歴史で最も繁栄した家になるんだから面白いけども 三河は伝統的に足利が強くて一門の仁木、一色、細川等の清和源氏が支配してきた
流れ者集団というか時世に乗って土豪を切り従えて
国人衆の頭目まで成り上がり下剋上したのが松平 >>348
マイナーな話だからネット調べても出てこないけど、現在の長野県下伊那郡地域は、ここは奥三河と隣接している地域なんだけど
ここら辺は南北朝時代に合戦があった地域で、サンカが住んでいるとかと言った地域じゃない
そもそも宗良親王が信濃国大河原(現下伊那郡大鹿村)に30年も暮らし、拠点にしていたと聞けば、人がいないような場所じゃなかった事は解ると思う
大鹿村に30年も滞在した信濃大王「宗良親王」とは?尹良親王の伝説も
https://skima-shinshu.com/muneyoshi/
もっとも天竜川の西岸地域は、南北朝時代に城主格クラスの落ち武者が家臣を引き連れて何人も落ち延びて来たそうで
彼らが無人野だった西岸地区を開墾し、そのまま土着した、とは言われているけどね
それに伊那街道(三州街道)もあったので、意外と人の行き来はある
あと三河熊谷氏の子孫である旧家が奥三河から下伊那郡にかけては結構あると言われていて、山林を大量に保有している事でも知られている しかし、どうしても徳川家や松平家を貶めたい人がいるんだなw
何が目的か知らないけど
大体、足助は今言った伊那街道(三州街道)が普通に走ってるし、街道が整備されてるから
そりゃ山奥なのは違いがないが、人の行き来がないわけでも、人が住んでないわけでもないからな 先祖を辿っていけば
日本人全員がアフリカからの流れ者の集団だろ >>339
鎖国で日本は長いことやっていけたんだから別に失政じゃない
逆に開国していたらずっと緊張状態でもしかしたら武力で他国にやられていたかも知れない
繁華街で常に戦闘ポーズのイキリチンピラがすぐ刺した刺された状態になるのと同様
堅気はそんなに喧嘩には巻き込まれない >>350
何回も説明してんだが
奥三河は大覚寺統の本拠地
■三河国高橋荘・高橋新荘
豊田市ほぼ全域とみよし市は源頼朝の曽祖父が開発し、後に皇室に寄進された最大の皇室領荘園
高橋新荘から松平家が、高橋荘からはトヨタ自動車が発祥した
・開発者は源頼朝の曽祖父、藤原季兼か?
・寄進者は藤原季兼の妹の子供、高橋惟康(藤原伊周の孫)か?
・平安末期~戦国期に見える荘園名
・矢作川中流域の低地と山間部、豊田市(旧上郷町・高岡町を除く)・三好町・藤岡町・小原村にまたがる大荘園
・八条院領目録に院分御荘として「参河国高橋荘」「参河国高橋新荘」とあり、鳥羽院政期の院領寄進系荘園の一例とみられる
・寄進者は藤原(高橋)惟康か←藤原伊周の孫、源頼朝曽祖父の妹の息子
・八条院没後、春華門院昇子ー順徳天皇ー後高倉院→安嘉門院邦子ー亀山天皇ー後宇多天皇ー昭慶門院憙子と相伝される
・昭慶門院目録に、高橋荘は亀山院の時石清水八幡宮に寄進、新荘は冨小路前大納言(小倉実教)とあるのは領家職とみられる >>349
松平信光の正室が一色氏の娘と記録されているのは、今川氏の正史たる今川記
成り上がり感が無いのが松平だ
家康は唯一、武士の憧れを一心に集めた源為朝の血を引いていた
徳川家康は受け継ぐ遺伝子
源義家
足利義兼
足利義氏
今川国氏
一色公深
吉良長氏
源為朝
安達盛長
足助重範
楠木正成
■今川記(1553年成立)より
松平信光(第3代目当主)
正室:一色氏の娘
一色満範の娘の仮定する
源義家→義国→義康→足利義兼(初代源姓足利氏)→義氏→泰氏→一色公深(初代一色氏)→範氏(母親は今川国氏(初代今川氏)の娘)→範光→詮範→満範→娘→松平親忠→長親→信忠→清康→広忠→徳川家康
■熊野国造家 和田家系図より
松平親忠(第4代目当主)
正室:鈴木重勝の娘
・加茂(足助)重長→足助重秀(母親は源為朝の娘)→重朝(母親は安達盛長の娘)→重方→親方→貞親→重範→鈴木重員(母親は楠木正成の娘)→重勝→娘→松平長親→信忠→清康→広忠→徳川家康 部外者が決めつける松平氏像は、史実とはかけ離れている
普通の家じゃない
松平がブレークしたのは信光の功績が大きいが、正室は一色氏の娘であり、その孫が洛中の知識階級のトップに君臨した存牛
この存牛は生前の信光と面識があり、家康が6才の時も生存していた
この松平の歴史の全てを知るエリートから家康は薫陶受けていたわけだな
存牛
文明元年(一四六九)—天文一八年(一五四九)一二月二〇日。尊蓮社超誉。高顕真宗国師。知恩院二五世。知恩院を復興させた室町時代末期の僧。三河国岩津(三河県)城主松平親忠の第五子。文明一三年(一四八一)同国信光明寺存冏ぞんげいに師事して出家、のち大恩寺了暁につき、永正八年(一五一一)には信光明寺三世となる。同一七年知恩院二四世訓公の遺言で後継者に推されたが、これを固辞。後柏原天皇の綸旨りんじと知恩院本末寺院の懇請によって、翌年知恩院二五世に推戴された。応仁の大乱以降荒れ果てた知恩院の復興に尽力するとともに、皇室との関係を深め、浄土教の布教に努めた。その結果、大永四年(一五二四)正月一八日後柏原天皇より法然上人の祥忌月の法要を「御忌ぎょき」と称すべき旨の鳳詔ほうしょうが下され、次いで後奈良天皇より「知恩教院」「大谷寺」の勅額を賜った。知恩院復興後は、同七年知恩院を退いて信光明寺に帰り、天文一四年(一五四五)に三河高月院に隠居して念仏生活を続け、同一八年に入寂。死後、安政四年(一八五七)、孝明天皇から国師号を賜っている。 天皇も一回官位を与えるのを拒んだ
そんくらい出自不明の流れ者 昔の話を色々と思い出していてふと繋がったんだが、ID:JlAF3r+R0氏が投下してる情報って、もしかすると南北朝時代の「消された歴史」と言われてるあたりの話か?
下伊那郡の根羽村か売木村、平谷村だったかもしれないが、あそこらには合戦があったとする伝承があって、そこら辺が正史上はなかった事にされてるんだよな
あるいは書物に記述があるだけなので信憑性が低いという扱い
確か虎沢という変わった名前の武将(武将が名乗った偽名と言われていた気がしたが)が奮戦していたという記録があるんだよね
そこら辺の地域伝承と繋がってる話だとしたら、意味はわかるよ >>315
サルはスゲーよなw
氏素性がわからない百姓が源平藤橘を超える豊臣という氏を天皇に作らせたからなw >>357
松平家は室町期中期から天皇とダチの家だつーの
3代目松平信光創建
・信明光寺(1451年創建)
1479年、後土御門天皇勅願所綸旨発給
・妙心寺(1461年創建)
1481年、後土御門天皇勅願所綸旨発給
4代目松平親忠創建
・大恩寺(1477年創建)
1493年、後土御門天皇勅願所、紫衣着用が許される
信光が創建した信明光寺は、開いた坊さんの師匠は増上寺を中興した聖聡で、聖聡の母親は新田義貞の娘もしくは新田義貞の嫁 >>333
>>334
小山のボス猿同様ただの野蛮な輩であって
天下統一なんてする必要もないし
持ち上げるのは時代劇の見過ぎ
武士オタ愚の骨頂ワロス 秀吉は六本指だし、種なしだし、サルと人間のハーフだったんじゃないかと疑っている 功成り名を遂げたから歴史に残ったんであって
つまり有名になる前のことは歴史には残ってなくて当たり前だろ
じゃあなにかい、代々の名家と呼ばれる家以外は全部出自のわからん馬の骨なのかい >>352
その前に遡れば、侍はほぼ入ってると思う。武士の世は700年あったんだからね。
栄枯盛衰があり成り上がったり、帰農したりしてただけの話でね。 豊田市~松平郷~岡崎が車も少ないしちょっとした峠道でドライブコースとして好きでよく行くんだけど
猿もいなさそうな何も無いマイナーな山奥からよく分からん流れ者の末裔が水野氏に取り入って天下取るまでに成長したんだというのはロマンがあって好きよ
別に徳川氏を貶めようと思ってはないぜ 松平郷へは豊田市駅からおいでんバスで40分、松平郷バス停で下車して徒歩5分と思う吉宗(=松平健)であった。 >>348
>発祥地の松平郷は山奥の谷間の
豊田(挙母)から谷間を7-8km入っただけでそれほど山奥でもない
設楽とか稲武までいって、ようやく奥三河。どちらも小さい盆地でちょっとした豪族が城を構えたりはしていた >>333
アイスランドやスイスはどうでしょうか、先生! >>365
源頼朝の跡継ぎの正室を輩出したの見りゃ、タダの山の中じゃないのが分かるだろう
家康は、その跡継ぎ正室の兄の血を引く
源頼朝は嫡男の正室に、曽祖父が開発した三河国の荘園の荘官をしていた足助重長の娘を選んだ
源頼朝の曽祖父は三河県豊田市民→三河県岡崎市民
源頼朝の祖父は三河県岡崎市民
源頼朝の嫡男の正室(辻殿)は三河県豊田市民
その嫡男の息子が鎌倉鶴岡八幡宮でやらかした公暁
・吾妻鏡では辻殿を妻、若狭局を愛妾としている
・源頼家(2代目鎌倉将軍)
藤原実範(三河守)→藤原季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令)→藤原季範(初代藤姓熱田大宮司、額田冠者(三河国額田郡、三河県岡崎市))→由良御前→源頼朝 →頼家→公暁
・辻殿
足助(加茂)重長(三河国加茂郡足助、三河県豊田市)→辻殿(母親は源為朝の娘)→公暁 松平郷、岡崎城、トヨタ本社を三角形に結ぶ地帯の矢作川流は、日本最強のパワースポットなんだと、何でわからんのかな
細川護煕墓参記念碑(三河県岡崎市)
http://sakuraoffice.com/hosokawamorihiro.html
現代社会における日本の由緒正しい支配層(金では買えないステイタス)
公家(No.1、No.2)
・近衛家←現当主は細川家(三河国額田郡細川、三河県岡崎市)からの養子
・鷹司家←現当主(伊勢神宮大宮司)は大給松平家(三河国加茂郡大給、三河県豊田市)からの養子
武家(No.1、No.2)
・足利家(喜連川家)←現当主は細川家(三河国額田郡細川、三河県岡崎市)からの養子
・細川家(三河国額田郡細川、三河県岡崎市)
細川家
菩提寺
・隣松寺(三河県豊田市幸町隣松寺126)
・蓮性院(三河県岡崎市細川町字権水56)
氏神
・村積神社(三河県岡崎市奥山田町字山田46)
大給松平家
菩提寺・墓所
・松明院(三河県岡崎市細川町字根古屋123)
・蓮性院(三河県岡崎市細川町字権水56)
・大給城(三河県豊田市大内町字城下)
氏神
・村積神社(三河県岡崎市奥山田町字山田46) >>374
もう1人いたんだ。秀勝は織田の子しか知らなかった
秀頼を秀次って書いてしまった笑 >>334
武家は元々開拓農民。
近畿で農民をやってたら、天皇や公家から高額な税金(年貢)を掠め取られるので、それが嫌で当時は未開の地であった関東へ。
そこを開墾し生活してたら、また天皇や公家が
税金(年貢)を所望。
そこで武力を持って天皇や公家に対抗したのが
始まり。 >>376
秀勝は3人
最初が秀吉の実子とされる石松丸秀勝
あなたが言ってるのは信長の四男である小吉秀勝
もう一人秀吉の姉の子供が養子に入った於次丸秀勝
たぶん2人目3人目は幼くして死んだ石松丸の後継者にしたかったんだと思う 西三河は徳川氏と豊田氏の天下人二人を産んだんだから凄いパワースポットだわな >>140
商人には課税されなかったと言うね
泣きを見るのは百姓だけ >>379
足利尊氏は?
岡崎城から直線距離で約1.5キロの所にあった上杉氏の屋敷は、幕末に火事になるまで岡崎藩が使用していた
おそらく足利尊氏直義は、足利氏の大門屋敷の南方すぐ近くにあった上杉氏の日名屋敷で生まれた
■上杉氏
太田亮
上杉-勧修寺家支流と称するが疑問が大きい。
丹波国何鹿郡上杉庄より起り、上野を本拠として、越後や関東各地等に分る。
『東鑑』を含め確実な史料には、先祖重房の下向記事が見えず、足利家家人の上椙三郎入道(上杉頼重)より前は不明。
その出自は難解であるが、三河の日下部(穂国造一族か)と関係をもった場合も考えられ、その場合は、同国の足利被官で藤姓を称した杉山氏や大草氏と同族か
足利尊氏、直義が生まれたであろう日名屋敷
■日名屋敷(事実上の始祖である上椙三郎入道(上杉頼重)の 屋敷)
鎌倉末期に三河国額田郡日名(三河県岡崎市)にあった上杉氏の屋敷。
足利貞氏室となり尊氏・直義を産んだ上杉頼重の娘清子が、暦応2年(1339)10月15日に丹波国光福寺(現綾部市安国寺)へ日名屋敷を寄進、
翌年4月5日に清子の甥上杉重能がこの屋敷を光福寺雑掌へ渡すよう岩堀右衛門三郎に命じている。
頼重は額田郡を含む足利氏所領群を管理する奉行人のひとりであったから、現地支配の拠点として上杉氏がこの屋敷を所領とし、頼重から女子清子に譲与されたものであろう。
日名屋敷跡伝承地の近くの墓地に14世紀後半の宝塔の笠1個がある。 三河キチガイって年中書き込んでるよね、しかも手動で
狂気そのもの パンピーが内蔵飛び出したり取り合いしてる合戦とか見たらうんこ漏らしそう 徳川家康のルーツの話になると足利がどうたらとか細川がどうたらとか延々と書き込むキチガイがおんねん
こういうのをアク禁にせえよ >>377
半世紀以上前の歴史教科書の記述だなw
開発領主兼武士団の棟梁は元々皇族か公家ですぜ
「軍事貴族」って歴史用語知らんかね? >>386
関東の場合は上級武士が賜姓皇族の子孫だけど
実働部隊は武蔵七党をはじめとする地元勢力だよ
地元勢力の多くは馬飼部の部民の流れを汲むという説があるね そもそも武士の起源の一つである開発領主達は土地を摂関家や朝廷に寄進して荘園にし、自分はその運営管理者となることで荘園拡大の権利を得たり国衙に土地を収用されることを防いできた
関東の武士のほとんどが先祖を京から下向してきた貴族としているのも、彼等が中央とのコネクションを何よりも重視していたから ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています