【歴史】国内最古、箱形の矢入れ「靫(ゆき)」 卑弥呼時代、滋賀の稲部遺跡 [愛の戦士★]
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共同通信 6月28日(水)18時27分
滋賀県彦根市の稲部遺跡で出土した繊維片が、箱形の矢入れ「靫(ゆき)」の一部で、靫としては国内最古の古墳時代初頭(3世紀中ごろ)のものだったことが分かり、市が28日発表した。靫は首長が執り行った水辺の祭祀跡とみられる溝跡から出土。年代は靫などの放射性炭素分析や土器から240年ごろとみられ、卑弥呼(248年ごろ没)時代の祭祀の実態を知る手掛かりとなる。繊維片は、2019年9月に出土。絹糸と植物繊維の織物で、表面には黒漆が塗られていた。木の板、ガラス玉、モモの種などの祭祀具とともに出土。靫の出土地点では、溝をまたぐような建物跡も見つかっており、覆い屋の下で祭りが行われていたとみられる。
https://www.47news.jp/9517951.html
https://i.imgur.com/hkPlV6E.jpg ちなみに大和朝廷が
712年に完成した古事記
720年に完成した日本書紀
で
神武東征…つまり
天之御中から彦瀲までの32代が筑紫城にいて、彦瀲の子供の神武が大和に移った
と言うストーリーを書き上げ、
1060年に完成した新唐書で宋(960年 - 1127年)が合意する
前の、中国の認識は
636年に完成した隋書
日出ずる所の天子、書を日没する所の天子に致す。恙なきや。という国書を持ってきた日本は「邪靡堆」を都としており魏志の邪馬臺である
後晋(936年- 946年)の時代945年に書かれた『旧唐書』
日本国は倭国の別種である。
その国は日の出る所に近いので、日本という名称を国号としている。
つまり、大和朝廷は邪馬台国 何か資料(史料)があると、その解釈を一意に確定させてしまうのは、歴史学者や考古学者()の悪い癖だな とりあえず邪馬台国=伊勢が確定したら
路頭に迷うのは九州説というのは分かった
どうすんだいー? まずね「朝貢」というのがキーワードです
倭国や邪馬台国が普通にやってたことを
そしてそれによって中国様の歴史書に
きちんと記されていたことが
なぜかぷっつり途絶えた←コレ >>133にチラッと書きました
でも結果的にその系統は途絶え
継体天皇が「越前」からやって来た
そこでまた元の系統に戻ったてことです 邪馬台国亡き後、新興大和朝廷は
新羅という国を執拗に攻撃します
何があったのか?ずっと不思議でしたが
大和朝廷の武力(鉄器)を前にして
泣く泣く?国を譲ったはずの出雲が
新羅と親密な関係にあった
というところにヒントがあった >>530
単に百済と組んでたからだよ
当時は百済の方が圧倒的だったからな >>531
それは高天原だし、やっぱり32代も続いたとはならん
筑紫城は九州説を拗らせたやつの寝言 >>533
ずーーっと九州を拠点にしてたことに変わりは無い
そもそも
天之御中から彦瀲まで九州の倭奴國
彦瀲の子供の神武が東征して奈良の邪馬台国を制圧
邪馬台国のあった場所に大和政権を樹立して
天皇となって現在に至る
日本は「万世一系」
で、朝鮮人や中国人が悔しがって
いや邪馬台国は九州にあったから
日本は「万世一系」では無い
と言い出したのが九州説だからな >>512
自国のことはチェックできてもいったこともない辺境の地のことをどうしてチェックするw
こんなの書き放題。王が気に入るように書けばチェックスルー。
遺跡の裏付けに勝るものはない。 >>534
ちゃんとお薬のんだか?
筑紫城なんか、何一つ物証もない空想上の産物 >>532
神功皇后:4世紀後半頃
百済:4世紀前半? - 660年(7世紀半ば)
百済の全盛期はいつですか?
日本と新羅が険悪な関係になった所に
流入してきたのが百済系の渡来人です >>534
筑紫城を持ち出す畿内説とか始めてみたわ
かなり胡散臭いけど 神武とヤマタイを繋げたい馬鹿がスレを荒してる
邪魔だ
九州なのはほぼ確定だが神話持ち出すと意味不明になるからな >>540
国史が神話ベースに語られてるんだから
仕方なくない?w >>543
福岡、佐賀、大分、あるいは熊本のどこか >>543
あらら
福岡説なら神功皇后スルー出来ないじゃん
卑弥呼か台与と言われてるのに >>542
その中でも明らかあり得ないのと他国の文献や物証から事実に基づいてそうなのは分けて考える
常識だろ
妄想で語るなら誰でも出来るんだよ >>544
佐賀はハズレだった
九州中部以降は海が主な交通手段だったこと、大陸と関係してたことから厳しい
よって福岡の南部?辺りと思われる
>>545
また妄想かよ・・・
時代が違うだろ明らかに ああ、皇后が居たってのが事実と仮定しての話な
いたって言ってんのは変な奴で今のところは疑わしいってのが常識になってる >>547
別にその他に有力な候補があるわけでもないし、吉野ヶ里以外の佐賀でもええんやで >>540
その神話が造られた奈良時代
・中央集権国家が確立したのに、なぜな九州だけ納税先は平城京ではなく太宰府
・記紀で「天皇の祖は九州から来たんだぞ(ドヤ顔)」とアピール
・道鏡事件で皇位継承に関わる神託を受けたのは九州の宇佐八幡宮
東遷があってもなくても、九州に何か意味があったんだと思うし
それが卑弥呼だったとしても矛盾はない >>550
普通に別勢力が畿内で隆盛したってだけ
何で無理やり引っ付けようとしてんの >>546
仮に神功皇后が実在しなくても
半島をやたらと攻撃していたのは
あちらの史料にも残っているのでね
当時の倭国はなんだか荒れ狂ってるよね
ここらでやっと記録に出て来くる↓
倭新羅任那加羅秦韓慕韓六国諸軍事
413年から478年まで、倭国の倭の五王は、東晋と宋に朝貢し、朝鮮半島南部での倭国の支配権の国際的承認を求めた[33]。 >>552
百済本紀見たらもっと前から倭人襲来しまくってるよ >>549
有力な候補地は朝倉、久留米、八女あたりだろう
吉野ヶ里から見て筑後川の向こう
とくに朝倉には6重環濠の平塚川添遺跡は何か特別な意味があったとしか思えない
この辺りは鉄鏃などの武器が出土するのに、この環濠の中だけ鉄製武器が出てこない
中国の貨幣や祭事に使われた青銅器が出てきてるから、そこそこ大きなクニだったはずなのに >>552
百済と手組んで大和は南から新羅を攻めてた
そんだけの話 >>551
3つとも史実じゃん
指摘されたら何か困るの? >>553
初期の頃はせいぜい
倭寇みたいなやつだと思ってる
私が言ってるのはヤマト政権の天皇
直々レベルのこと >>557
襲来の規模までは百済本記には書いてないのだよ >>554
そのどれかかも知れないし、他かも知れない
邪馬台国がどれか?を断定できるような証拠がまだどこからも見つかってないからね >>560
断定できてるなら、こんなにいっぱい説が出てくることはない まあ神功が実在しようと何だろうと邪馬台国とは関連性ねーけどな
畿内は後から隆盛した別勢力としか言いようがない 大体、神功=トヨ?卑弥呼?とかどっからそんな妄想出てくるの >>564
まあ七支刀が実在してる以上は、神功皇后も実在してたんだろうさ >>566
それは早計だろう
七支刀のどこにも神功に贈るなんて書いてない
日本書紀には神功に贈られたと書いてあるが、書紀の記述は相当怪しい
実際、遣隋使の答礼で607年に日本に来た裴世清は書紀の記述では推古女帝のときとしているが
隋書の記述では裴世清が面会したのは倭王・多利思比孤と書いてあり男だ
つまり裴世清が来た607年が推古朝というのは誤りである
7世紀の出来事さえ誤って記録されている書紀に信が置けないのは当然だろう 41世紀に薩摩がどこにあったか分からなくなっている
「明治政府が東京にあったんだから薩摩も東京」 →これが畿内説
「パリ万博の記録によると薩摩は徳川とは別で独自に出展し、欧州各国も薩摩と徳川は別の国の認識している」 →これが九州説 >>567
史書の文言だけなら信頼性が低いが、現物が出てるのが大きい 畿内説 →「東京を発掘したら先進的なものが見つかった。ここが薩摩」
九州説 →「当時の鹿児島や佐賀では高性能の反射炉が見つかっている。佐賀からは日本最古の鉄道ミニチュアも発見された。これが東京の鉄道の原型。薩摩は九州のどこか」 >>568
その割に筑紫城には完全にだまされきってる >>567
文献と現物があって信じないというのは、漢委奴国王印を信じないのと同じ事
何でも無条件に信じるのも違うが、真偽に自分の嗜好を混ぜるのも間違い ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています