【歴史】国内最古、箱形の矢入れ「靫(ゆき)」 卑弥呼時代、滋賀の稲部遺跡 [愛の戦士★]
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共同通信 6月28日(水)18時27分
滋賀県彦根市の稲部遺跡で出土した繊維片が、箱形の矢入れ「靫(ゆき)」の一部で、靫としては国内最古の古墳時代初頭(3世紀中ごろ)のものだったことが分かり、市が28日発表した。靫は首長が執り行った水辺の祭祀跡とみられる溝跡から出土。年代は靫などの放射性炭素分析や土器から240年ごろとみられ、卑弥呼(248年ごろ没)時代の祭祀の実態を知る手掛かりとなる。繊維片は、2019年9月に出土。絹糸と植物繊維の織物で、表面には黒漆が塗られていた。木の板、ガラス玉、モモの種などの祭祀具とともに出土。靫の出土地点では、溝をまたぐような建物跡も見つかっており、覆い屋の下で祭りが行われていたとみられる。
https://www.47news.jp/9517951.html
https://i.imgur.com/hkPlV6E.jpg これで邪馬台国は千葉、滋賀、佐賀のいずれかに絞られたな 別ソース
> 絹糸と植物繊維が使われ、大部分は中国・三国時代に用いられた「綾織(あやお)り」で編まれ、
>福井県鼓山(つづみやま)古墳で出土した古墳時代前期ごろの靫の繊維と織り方が似ているという。
>一緒に出土した土器の特徴や、放射性炭素年代測定の結果などから、西暦240年ごろのものと推定している。
(中略)
> 森岡秀人・古代学協会客員研究員は「綾織りという高い技術が、3世紀中ごろの邪馬台国から
>倭国形成への移行期に大陸から入ってきていたことがうかがえ、中国外交の証とも言える。
>纏向遺跡で約50年前に出土した繊維製品も同様のものとみられ、先駆的なものが日本海ルートで
>北近畿に入った可能性もある。当時の近畿の中心地が纏向だけでなく、北部の北近畿にあったとの
>見方もできる」としている。
https
://news.yahoo.co.jp/articles/e4bf4964121ac4d97f90a82725ee62bb42a2fbf1
一応邪馬台国畿内説を裏付ける物証とみることもできる様子。 >>17
ルートは京都、滋賀方面から入って、奈良に落ち着いたって感じだね。 箕子朝鮮の始まりは紀元前11世紀
高句麗の始まりは紀元前1世紀
縄文文明の始まりは紀元前150世紀 >>16
天照大神は海の民の神様だよ、伊勢神宮も元伊勢も良港の奥深くにあるだろ
神武天皇自体が船乗りだし なるほど、大和朝廷の前進は滋賀にあったわけだ。これで倭国九州の邪馬台国とはまったく別物だと証明をされたわけた。
畿内説派は墓穴をほったねwww 桃の種って重要アイテムなんだよな
邪馬台国畿内説の纏向遺跡と吉備で桃の種が大量に見つかってる
鬼道で桃使うから、おそらく鬼道の祭祀のあと 滋賀って言ったら伊勢遺跡というミステリアスな遺跡があって、関連あったら面白い 卑弥呼は弥生時代末期の人だったはずなのに
いつの間に古墳時代ってことにしたの? 丹波、近江、畿内、東海
この辺りが邪馬台国ができる直前に連合を組んでたような気がするな
んで巨大な纏向遺跡作ったと >>37
何が酷いかって
卑弥呼を古墳時代にしようってのがミスリード
箸墓「古墳」に葬られたことにしたいみたいだけど、だいぶ無理がある 人は記憶型と思考型に大別できる
漢字ができた時には大弓族が大陸にいたんだ
で、いつ滅んだのかが解らん
春秋戦国の末期には大陸に大弓族の姿なし
大陸では弩が主流になってた
弩とは、ボーガン 824 日本@名無史さん[sage] 2023/06/28(水) 20:55:55.69 ID:
【おしらせ】邪馬台国関連遺物の出土状況(2023年6月)
[九州説]
・魏志倭人伝の行程とほぼ合致
・卑弥呼の時代から存在するクスノキ
・吉野ヶ里の日吉神社の下の甕棺墓で絹を纏った巫女の遺骨発見
・大量の鉄製武器、鉄製工具他(魏志の記録に合致)
・絹および紡績用具
・警備厳重な城柵に囲まれた吉野ヶ里遺跡
・中国から授かった漢委(倭)奴国王の金印
・すずり、およびすずり工房(文書を用いていた)
・魏王の鏡と同型の鉄鏡
・殉葬と思われる多数の墓に囲まれた祇園山古墳
・八女市でも弥生後期の集落発見(調査中)
[畿内説]
・定住者がほとんどいない大集落
・東海・伊勢産の飯炊き土器と残飯各種(鯖の骨、猪の骨)
・柱の細い大型建物(古墳被葬者の遺族向け宿泊所?)
・農具は無く、大量の木製土木用具
・東日本で流行った仮面(木製)
・大型建物の柵列の下の穴に捨てられていた桃の種
・同じく蛙の骨
・箸墓古墳で出土した馬具(中国のより古い4世紀初のもの)
・唯一の弥生遺物「銅鐸の破片」 矢入れが追加されて良かったね
弓矢って縄文時代から使ってなかったっけ…? >>34
標準パターンが完全公開されている酸素同位体比年輪年代法で
https://i.imgur.com/mfoWr0Q.jpg
庄内式土器(後期)で矢板が全て227年
布留0式が伴った纒向木材で230年代前半(※今後標本が増えて更に精度が上がっていくと思われる)
邪馬台国古墳時代説が確定した >>42
絹製品が邪馬台国時代に広く流通していた証拠になる >>43
卑弥呼は180年くらいに即位したのに?
変なの >>44
祭祀跡にあったんなら絹が超貴重品だったんじゃね? >>46
即位する前には歴代の男王、倭国大乱
即位したのは180年くらい
連続性がない気がするけど 魏の紀年銘鏡が11面中1面しか出土しない九州
https://i.imgur.com/h041sFh.jpg
九州説は考古資料・魏志倭人伝・日本書紀全てを無視しなければ成立し得ない 卑弥呼が死んだのは247年以降だぞ
魏志倭人伝にそう書いてある >>50
180年に即位してから引っ越してきたの? 吉野ヶ里の墓から何も出てこなかったのが痛いな
これは畿内説で確定か・・ >>54
九州説は主に朝倉、久留米、八女だよ
吉野ヶ里には期待してない >>54
https://courrier.jp/news/archives/170410/
> 吉野ヶ里の墓から何も出てこなかったのが痛いな
> これは畿内説で確定か・・
ちんコサック出てきたらどうすんのwwww 邪馬台国と大和朝廷は別物って事だよ。またまた残念な話ですけど、もうね、畿内の邪馬台国はめちゃくちゃ厳しい現状だよ つかキンタマはガードしないの?
寧、キンタマだろwwww >>34
弥生末期と古墳時代初期は重なってるからそこは別におかしな話じゃない。
邪馬台国九州説だって、例えば久留米説では祇園山「古墳」が卑弥呼の墓と推定されてる。 最近よく見かける邪馬台国時代とか卑弥呼時代って何だよ。
そんな名前の時代はねーよ。 >>1
ん?
またクソジャップが韓国兄さんへのコンプレックスから歴史をゴッドハンドしたのか?www 残念ですが邪馬臺国の場所はとっくの昔に判明しているのです
■『広志』(編纂:晋の郭義恭)
広志いわく、---東南500里で到る伊都国、又南、至る邪馬臺国-----(魏志と同様に周辺国の紹介へと続く)
伊都国:福岡西区であり倭国の守衛国
↓
又南至る
↓
邪馬臺国:吉野ヶ里、甘木・朝倉、八女など有明海と取り巻く筑紫平野に存在した小国群の総称
2023/3/30
福岡・八女市に弥生後期の環濠集落跡 吉田・辺田ノ上遺跡 岩戸山古墳の南西
https://www.nishinippon.co.jp/item/n/1073771/ 【基礎知識】
卑弥呼時代はちょうど鉄器時代の真っただ中でした。
魏志倭人伝に倭人が「鉄のやじり」を使っている記述があり、この時代の日本には既に鉄器文化が到来していたことがわかります。
また、『3世紀の中国の歴史書「魏志東夷伝弁辰条」には、朝鮮半島南部の地域に鉄が多く出て、「韓、注意1(ワイ)、倭みなしたがってこれをとる。
諸市買うにみな鉄をもちい、中国の銭をもちうるがごとし」と記されています。
鉄を求めて、弥生人がさかんに朝鮮半島南部に出かけていった様子が描かれています。』
よって弥生時代の鉄器の出土量が多い地域が、当時の倭人達の経済共同体であったと見なせます。
弥生時代の鉄器出土量
https://i.imgur.com/UKtbTwc.png 滋賀のあたりは遺跡が多いな
日本海側と畿内を結ぶ海運の要衝だったからか IQが低い人は魏志倭人伝の行程をすべて直列だと勘違いしてしまいます
魏志倭人伝がどのような情報に基づき編纂されたのかよく考えましょう
<魏志倭人伝>
中国側の認識と倭人が訪れた際の記録をもとに後世の陳寿が編纂したものです。
「里数」表記の行程は中国側に残っていた記録であり、
「日数」表記の行程は朝貢に来た倭人からの伝聞記録です。
それぞれ表現方法が違うだけであり帯方郡から北部九州までの道のりです。
久しぶりに訪れた倭人に女王国までの行程を確認したところ、
・帯方郡から南に船で20日行けば半島南部の投馬国
・更に南に10日進み北部九州=邪馬台国に上陸します
・上陸後、女王の都までは徒歩です
・合計三十日の道のりです。
行程と位置関係:https://i.imgur.com/x9GfeDT.png
これを陳寿は誤解し、南に水行三十日,陸行一月と記した可能性があります。
その他の記述を見ると、
・女王国の東の海を渡るとまた倭種の国々があった。
・南に敵対する狗奴国があり卑弥呼時代に戦争が勃発した。
・後漢時代の倭は100国あったが女王国は30国である。(馬韓が50国なので割と小規模)
なお、女王国の西側の国については一切触れられていないことから、おのずと女王国は倭の西部に位置することがわかります。 >>54
江戸時代に財政に困った各藩が結構盗掘したなんて話もあるな 魏志倭人伝には対馬と壱岐の位置関係が南北と記されていますので
里数行程を辿るとこうなります
https://i.imgur.com/CXaIkoI.png >>62
230〜250年頃の時代です。卑弥呼が魏に遣いを送り卑弥呼が亡くなるまでの時代。
つまり、この時代を特定できると邪馬台国が見えてくるのです。 >>76
嘘はいけませんね
倭国大乱を収束させるため女王が共立された
つまり2世紀末(180年頃)に卑弥呼が女王に即位
【卑弥呼時代】
180年頃:倭国大乱終結および卑弥呼が共立女王となる(邪馬台国誕生)
193年:倭人が飢饉。多くの避難民が半島にわたって来た
~ 卑弥呼が最も活躍した時期 ~
239年:卑弥呼、魏に使いを送り「親魏倭王」の号を受け取る
~ 卑弥呼の力が弱くなった? ~
2XX年:女王国vs狗奴国の戦争勃発
247年:卑弥呼死去 つか、思いっきり捕まって捕虜になっとるしwwww
モンゴル帝国滅亡の頃までイギリス系中国人沢山いたんじゃ 嘘つきは畿内説のはじまり
■ニュース:2001年12月
「箸墓の周濠から、馬具と布留1式土器が同時に出土した。」
奈良県桜井市箸中の箸墓古墳の周濠から、乗馬の 際に足を掛ける馬具、
木製の輪鐙(わあぶみ)が見つかり、桜丼市 教委は三十日、
「輪鐙は4世紀初めに周濠に投棄され たと推定され、国内最古の馬具である可能性が高い」
と発表した。
■鐙のルーツ
鐙のルーツは西晋時代の中国もしくは満州に在り、確認できる最古の物は
各々302年と322年に埋葬された鮮卑と東晋の墳墓から出た陶馬俑であり、
実物として最古の物は北燕貴族の馮素弗の副葬品である。
そのため鐙が発明されたのは西暦290~300年頃とされる。
5世紀には木製の鐙が普及し朝鮮半島や日本でも使用されていた。 >>69
なるほど すつきりしていて
おかしなところもないし
この通りぽい >>14
ずっと後の時代の継体天皇は越前国が本拠地で、なぜ越前?って思うけど
福井県あたりが邪馬台国時代から栄えていたのなら納得か
そうか、崇神天皇が四道将軍を派遣して北陸道を征服しているから、
この時代の北陸に、征服されるのに値するほどの勢力があったわけだよな 箙とどう違うんか、って思ったら、
靭よりも箙が進化形らしい >>5
千葉は元から無いわ
千葉に邪馬台国なんて聞いたこと無い >>21
朝鮮人の始祖は、熊を獣姦レイプして朝鮮人を生んだ
そんな獣姦レイプを小学生向けの国定教科書に載せて義務教育で教えてる下等遺伝子民族朝鮮人w >>64
下等遺伝子奴隷民族朝鮮人は、古代から日本人の奴隷 >>65
まったくこの通りだね
邪馬台国の卑弥呼って言うなら、
卑弥呼自体が国家間の争いを止めさせるための共同女王なら、
卑弥呼が居た、とされる地点の周辺に沢山の小国があるはず 出雲にも大きな遺跡があるし。卑弥呼の時代は日本海から若狭湾。そこから南下がメインルートっぽいな。同じ勢力がこのルートを支配してたことが伺われる。 鏃なんかが出る時代だから、靫が出る可能性は当然あるが
絹に黒漆という材質は面白いな
漆器自体はもっと昔からあるけど、絹のコーティングに使ったんやな 時代が同じなら邪馬台国とかアホすぎ
倭には100国あったがそのうち女王国は30国
女王国の東に海があり、それを渡り千里行くとまた倭種の国々があると書いてある
女王国の南には対立していた狗奴国というが男王国があるとも
女王国は倭の西の端という事
つまり北部九州が女王国 >>102
北部九州は漢の言う倭国
漢委奴国王の倭奴國
魏に対して反乱を起こした公孫氏の帯方郡に属していた 女王(卑弥呼)に服属しているということと、女王国の版図であるということとは違うんだけどな >>103
魏が公孫氏を平らげた後、卑弥呼の朝貢が来たと書いてある >>102
邪馬台国が奈良にあれば滋賀は邪馬台国の範囲なんだよ。北陸・東海も範囲に入る。 >>106
女王国の東には海があり渡海1000余里で又国がある、皆倭種
だぞ? >>103
北九州は大陸との窓口だったし、筑紫平原に有明海等の好漁場、一大勢力圏が出来ないほうがおかしいんだよ
大和盆地の中に引きこもった豪族が覇を叫んでも無理だよ、南九州、安芸に吉備、播磨の豪族達が何方に付くか考えなくても判るだろ
大陸からしたら窓口は北九州の邪馬台国しかないんだよ
ライバルは日本海交易の一つ出雲や丹後・若狭かな >>109
だいたい同じ意見
でも、出雲系は別系統で南九州は北部九州と同じ系統じゃないかと思うわ
太古の九州でも後継者争いから南北朝時代に突入
南九州の本家(南)は分家の一族を吉備に派遣、出雲系と同盟を組んで畿内を従わせて連合国を形成、そこから一気に北部九州を制して本家(北)を滅ぼした
ところが今度は権力を握った分家が南九州の本家(南)と対立、南九州だけ正当性を主張して新政権に何百年も抵抗し続けた
…とかね
まぁ、証明しようがないから想像だけど 常識的に考えて邪馬台国は小国群の総称であり規模は7万戸
という事は、卑弥呼が女王となった2世紀末時点で7万戸に近い人口規模であったはず
魏志倭人伝の倭人の暮らしぶりや気候の描写や集落の密度を合わせて考えると北部九州一帯とくに筑紫平野がピッタリなんだよな
あと方角が合わないが山陰や若狭湾付近かな なんでいちいち卑弥呼とか邪馬台国と入れるんだろうな >>110
北九州に政権が出来て、安芸や吉備、出雲等の豪族たちか棲み分けて安寧に暮らしていたが
大陸が混乱し、その圧力から逃れる為に天然の要害な大和盆地へ疎開したのだと思っている
だから、大和朝廷初期から豪族達の力が衰えていないだろ
日本って城壁都市か一つも無い世界でも珍しい国なんだ、小さな環濠集落は有ったが城壁都市は無い、中国は城壁都市国家…囲碁は城壁都市世界わ模した戦略ゲームだからね
韓国のソウルも周囲を城壁に囲まれていた街だよ、なのに中国の影響を受けた日本列島には城壁都市が一つも無い
コレは日本列島では豪族同士の争いが無かった証拠で、記紀の争いの記述も中国や欧州とは大きく違っている、いわゆるお家騒動やヤクザの縄張り争いの大きいヤツなんだよ >>112
記録に残ってんのがそれだけだから
あとは記紀の神話 >>115
帥升がいるけどな
恐らく個人名が記録に残る最古の人 畿内にあったのは韓半島から出雲経由で渡来した渡来人勢力
渡来人が韓半島から持ち込んだ鉄器と馬で九州の邪馬台国を滅ぼして倭国を統一した
渡来人だから中国道教の神である『天皇』を自称した
つまり天皇家の血統は渡来人である韓民族 >>114
それは日本は島国でよく似た民族同士で争うからだと思う
民は土地を耕す奴隷でいなくなったら困るから、勝ったほうは民ごと土地を奪って支配する
ところが大陸や半島だと、全く違う民族の民を支配するのが難しいから民を皆殺しにするのが当たり前
結果、民も協力して城壁都市を形成して自分たちを守ってきたんじゃないかな >>117
今だに渡来人説かw 日本列島には石器時代以前から人が住んでいて、代理とも半島とも行き来がある世界だよ、少数の渡来人が征服できるはずが無いだろ
ソレは渡来人の文化が残っていないのが証拠だよ
騎馬民族説…騎馬民族が持つ去勢の技術も知恵も無かった
大陸系農耕民族なら大陸の城壁都市文化の痕跡があるはずなんだが、全く無い >>118
日本人は南洋系漁労民族だからすぐに海に逃げるんだよ、農作物は年に一度だけしか収穫出来ない、代替作物を植えても収穫まで何ヶ月も掛かる、よって隣の街を襲うしかない
魚は不漁でも翌日挑戦出来る、年中穫れるから隣の街を襲う必要が無い…面倒な城壁はイラネ
漁労民族の証拠は、日本家屋は高床な建物南方系のツリーハウスの流れだからね、大陸系は土間生活なのに日本だけ不便な高床生活 >>111
邪馬台国は単なる一都市の名称であって、連合体の名前ではない
根拠
魏志倭人伝には、邪馬台国にも他の国と同じく、官と副の名前が書かれている
この事から一国の名前が邪馬台国だということが裏付けられる
飽くまでも他の国と同列?の扱いで書かれている
官有伊支馬 次日彌馬升 次日彌馬獲支 次日奴佳鞮
また当時人口が7万戸、約35万人にも達するような都市は存在していない
現代の都市人口すら引き離すような都市国家の遺跡はどこにもない
例
現代の都市人口
八女市6万人、宇佐市5万人、佐賀市20万人、太宰府市7万人
7万戸、35万人規模の都市は現実的にありえない これと関連する遺跡や出土品を探せばいいんだよ
180年頃:倭国大乱終結および卑弥呼が共立女王となる(邪馬台国誕生)
193年:倭人が飢饉。多くの避難民が半島にわたって来た
~ 卑弥呼が最も活躍した時期 ~
239年:卑弥呼、魏に使いを送り「親魏倭王」の号を受け取る
~ 卑弥呼の力が弱くなったか? 〜
2XX年:女王国vs狗奴国の戦争勃発
247年:卑弥呼死去 >>122
何処から見てんの?
邪馬台国は博多湾より南だが?
陳寿が南国をイメージしているので記録に南と書いてあったのは確かだ 魏志 女王国の東に海を渡るとまた倭種の国がある
後漢書 東に海を渡るとみな倭種といえども女王に属さず
宋書 倭王武「先祖が西に66国平定した」← ← ← ← ← ← ← ← ←
隋書 (東に海を渡ると)十余国で(難波津の)海外に達する 筑紫より東はみな倭に属す
魏志から隋書まで並べてみると当時の日本に何があったか一目瞭然だった >>123
景初三年(239年)や正始元年(240年)という魏の年号の入った
畿内で見つかる三角縁神獣鏡や画文体神獣鏡 >>119
それ。弥生時代後期に大陸や半島から秦氏(O-M112)などの渡来系は土木技術などを持ち込んだが、これは明瞭に記録にも残っている。
それ以前からいた日本に多いアジア系(O1b2)は朝鮮に多いグループと7900年前に分岐しておりこれは縄文時代である。縄文海進の時代と符合し、その共通祖型はそれ以前にすでに列島にわたっていたことが推定される。
これが物部氏のニギハヤイだと規定でき。いわゆる出雲系もこの系統で弥生時代には北部九州、半島南部、山陰、北陸、中部、関東、東北含む広範囲にすでに存在していた。また、物部氏と関係が深かった中臣氏も同じ系統でその根拠地とされる中臣遺跡からは旧石器時代の遺物が出てきている。日本海を仕切っていたグループでもあり滋賀も物部の強い地域である。火焔方土器(最近の研究でこれは水がモチーフだとわかってきている)の分布域とも重なる。
それに対するニニギは天孫系でD系統であり蘇我氏もこの系統である。太平洋岸に多く九州南部、四国南部、紀伊半島、東海に多く存在していた。土器も火焔型土器の出土はなく縄文土器であっても弥生土器のような装飾がないものがほとんどである。秦氏などの渡来系はこのグループが当用を始め土木工事などによる勢力拡大の基礎となり古墳時代に至る。
以上から国譲り神話にあるようにこの二系統の対立からの和平が日本の先史の始まりである。
蘇我氏が排除されたのは渡来系を重視しすぎ物部や中臣の排除に向かったからで日本の両系統の和平による先史を重視するグループによって排除された。 >>127
景初三年(239年)の銅鏡はどこの古墳から出たの? 蘇我氏は土着の縄文系だと思う
系統でいうと諏訪大社とかの方 天孫系というのは鉄器をもたらした
中国系という説があって私はこれを支持 狗奴国=出雲系が元々あって@畿内半島
天孫系は婚姻により皇統をジャックした
それが邪馬台国=女王の国を滅ぼし
大和朝廷が成立‥というシナリオ なぜ大王から中国の神の名である天皇に変えたのか
(日本なら天照の末裔を名乗ればよかったのに)
それは天皇家が渡来人だったから >>109
>>110
お二人のように魏志倭人伝に引っ張られない方が良いと私も思います
南シナ海沿岸から北上した海人族が海賊団(海商)を作って、漢の衰亡で親漢海賊団VS親魏・親呉海賊団が倭国大乱と呼ばれる事かも
朝鮮南岸へ行ってた海賊団の流派が丹後・若狭湾に来て奈良に入ったのかも
で、最初に鹿児島に上陸して宮崎県へ行った流派が九州東海岸を北上して瀬戸内から奈良へ入ったのかも
神様が女性ってのが海人族の信仰かもしれません
アマミキヨやアマテラスや比売大神や宗像三女神や、厳島神社の祭神に宗像三女神の一人が入ってますから 自女王國以北 其戸數道里可得略載 其餘旁國遠絶 不可得詳
なぜ女王国より以北は、その戸数や距離をおおよそ記載出来るのか、それは女王国に来る時に通ってきたから
自女王國以北 特置一大率檢察 諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史
なぜ女王国に来る時に通ってきた国々には、特に一人の大率を置いて監視しなければならず
女王国に来る時に通ってきた国々は、これを恐れはばかっているのか
それは女王国に来る時に通ってきた国々は、天照大神が武力制圧した出雲諸国だから
東南陸行五百里到伊都國 官日爾支 副日泄謨觚柄渠觚
有千餘戸 丗有王 皆統屬女王國 郡使往来常所駐
王は出雲主王
常に出雲で政務を執っているのは、奈良の天照大神が派遣した天照大神の孫の瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)
ちなみに古代出雲王国は、2つの王家、東の向(むかい)家と西の神門臣(かんどのおみ)家が、交代制で主王と副王を勤めており
天照大神が國譲りを迫ったときは8代目の王の時で
主王は西出雲王家の神門臣家の八千矛(大国主)
副王は東出雲王家の向家の八重波津身(事代主)
ちなみに国引き神話で有名な人物は6代目主王の、西出雲王家の神門臣家の臣津野で、その息子は、隠岐の吾田片隅
大和政権が使用した海人宗像氏の祖である >>120
ツリーハウスか、なるほど
確かに弥生時代は稲作のイメージが強いけど狩猟採集と併用していたようだし、不作なだけならお隣から奪うより海に行くね
小さな島々もあるし、北部九州は島を信仰する習慣もあったんじゃないかと思う
志賀島や能古島の神話も面白いよ >>132
すすんだ製鉄技術は秦氏でこれが土木工事の基礎だった。
天孫系はこの系統とは違う。D系統で男系が守られてきたことで証明出来ている。これが歴史的には重い。奈良には現在の皇室と少し違うD系統があるようで蘇我氏がこれかもしれない。
天智天皇は滋賀とも関わりが深く。O1b2との和合が権力の基礎であっり。その男系継承者である光仁天皇の婦人の高野新笠が百済王の家系ということはO2系統の家系の可能性も高くにほんの現在の主力3系統のバランスの上に立っているといえる。京都の位置は秦氏と中臣氏の根拠地が東西にあり。南北は出雲系と熊野系の接点の位置にある。 ヒントは天照と素戔嗚の「誓約(うけい)」
伊勢-中部地方出雲系各氏と
出雲-北九州(宗像)との政治的トレード >>134
改新の詔を読めば明白。
大王(自らも含め)はじめ各豪族の支配から離脱し天皇の下に集まれという王家によってできた革命政権だから。
それで初めて戸籍(日本人登録)を作った。
天皇は君という二人称で呼ばれる(国民と同格)存在になった。
英国で王室を二人称で呼べばぶっ殺されます。 >>139
それはもう藤原氏が歴史書を書ける立場
になった後の時代の話だね いい加減に無関係な邪馬台国の話ではなく、滋賀の話でもしたら?
黒漆でコーティングされた絹の靫なんて、なかなか面白いものだぜ? >>143
そうまさにそう
なんでもかんでも邪馬台国とか言い出すから肝心の話が何も出来ない
この遺跡も靫を祭祀に使ったとか現代の神道祭祀にも通じる面白そうな話なのに
しかも絹で黒漆塗りだからな
この前の吉野ヶ里もバカみたいに邪馬台国言うから棺の印とか面白い話は誰もしやしない >>142
渡来人重視しすぎの蘇我氏打倒の正当性をいうために列島の歴史を深掘りし日本という概念を打ち立てた。
中国から見れば日の本というのは、東の国という意味で中華思想的には受け入れ可能。日本人的には日の根本というアイデンティティを作り出した。
よって、真南(潮岬)方向に熊野本宮をおき。日が昇る方向に伊勢神宮をおき。これはあまり現在は意識されていないが日が沈む方向に日前神宮・國懸神宮を配置した。
そして京都には熊野本宮の真北に下鴨神社をおいた。
京都にある玉座の高御座の位置を動かせない理由はまさにこれ。 現在の皇室はあるべき位置から宗教的・精神的には外れているので本来は南中方向を向いて行う儀式を北を向いて鏡に向かい伊勢神宮を擬似的に日が昇る方向においてなされている。 漆塗りの絹製品と言うと纏向にも出てるな
纏向とこの稲辺遺跡と近くの伊勢遺跡の祭祀と共通点が沢山あるから相互に関係があるのかも知れない
面白いな >>124
儂は太宰府だと思う、後年に九州を治める官庁を作るときは
地勢的に良く道路網も整備された土地…都跡を使うはずだよ
卑弥呼の宮は太宰府に有ったとおもうな 天皇位と言うのは高御座に今でも宿る天皇(天智天皇)によってその羽織を与えられるという解釈なので、その位にあるものは鏡を使って儀式を行えても玉座を動かせば天皇はおられなくなるという発想。
なので昭和になって京都で大嘗祭を行えなくなったのは実は痛恨事で、警備上の問題と言われているが実質は米国のGHQコードでそうなった。 昭和天皇は天智天皇を祭った近江神宮を建立され。旧社格制度をGHQによって廃止される1日前に近江神宮を官幣大社にするという強い意思表示をされた。 また、GHQ配下の皇室がなくなることをご心配され。旧宮家に成子内親王を嫁がされた。 仮屋を作っての祭祀とかも神社の萌芽を感じさせるな
水、弓矢、仮屋など現代の神道にも通じるのが面白い 「出雲族」というのが現在の祭祀の原型を
確立したのは間違いないだろう
そこに藤原氏の時代に様々な上書きがされた
伊勢が神道として祀られたのもその時代 >>3
ヤマトとは国の名前
関西でもあるし九州でもあるし東北でもある 伊勢神宮の宇治橋は真っ直ぐ伸ばせば京都御所にどんぴしゃ。
だから御所から伊勢神宮を拝めた。東京に移られてからはそうではなくなったので伊勢神宮に直接いかれて宇治橋をわたられて参拝されるようになった。
現在の神社の様式は藤原不比等によって仏教の組織や参拝方法を参考に固められ統一されたもの。それまでは神社は土着の宗教で統一的な様式や組織形態まではなかった。神仏習合は神社系の中臣鎌足が近江宮の袂の中臣氏の根拠地に山階寺を建立したときに始まり。現在は不比等によって奈良に移転され興福寺となっている。 滋賀って事は日本武尊を偲んで都を滋賀に移した景行天皇の関係かな? 自女王國以北 其戸數道里可得略載 其餘旁國遠絶 不可得詳
自女王國以北 特置一大率檢察 諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史
なぜ女王国より以北は、その戸数や距離をおおよそ記載出来るのか、それは女王国に来る時に通ってきたから
なぜ女王国に来る時に通ってきた国々には、特に一人の大率を置いて監視しなければならず
女王国に来る時に通ってきた国々は、これを恐れはばかっているのか
それは女王国に来る時に通ってきた国々は、天照大神が武力制圧した出雲諸国だから
東南陸行五百里到伊都國 官日爾支 副日泄謨觚柄渠觚
有千餘戸 丗有王 皆統屬女王國 郡使往来常所駐
王は出雲主王
常に出雲で政務を執っているのは、奈良の天照大神が派遣した天照大神の孫の邇邇藝命(ににぎのみこと)
ちなみに古代出雲王国は、2つの王家、東の富家(向家)と、西の神門臣(かんどのおみ)家が、交代制で主王と副王を勤めており
天照大神が國譲りを迫ったときは8代目の王の時で
主王は西出雲王家の神門臣家の八千矛(大国主)
副王は東出雲王家の富家(向家)の八重波津身(事代主)
国引き神話で有名な人物は6代目主王の、西出雲王家の神門臣家の臣津野で、
その息子は、隠岐の吾田片隅
大和政権が使用した海人宗像氏の祖である
神武東征で、大和地方で東征に抵抗した豪族の長は、東出雲王家の富家(向家)の
登美能那賀須泥毘古(とみのながすねびこ) 奈良の春日大社の真北に近江神宮を建立する皇室の歴史に対する抜かりなさはやばい。
そして、この経度で地図を折れば択捉島と与那国島になる。 調べてみたら、景行天皇が高穴穂宮を置かれたのは彦根からずいぶん遠いな。
景行天皇はあまり関係ないかな。 滋賀って意外にも?縄文貝塚あるしね
京都〜滋賀は昔からいろんな人住んでたと思う
ただ前述の新興大和朝廷に地理的に近いため
早々に服従したと思うよ そして今上天皇のオックスフォードでの博士論文は琵琶湖疎水と淀川水系(=琵琶湖)。テムズと共にの意味は深すぎます。 神話を見ると水と祭祀が関係する記載が多い
伊弉諾命の禊、天照大神とスサノオノミコトのウケイ、神武天皇の丹生川上祭祀などなど
また魏志倭人伝でも倭人が穢れに会うと水に入って身を清めると書かれてる
清らかな水や水源が重視されてる様子が見える
また弓矢についても神武天皇がナガスネヒコに対して天孫である事を示すのに弓矢を証拠の一つとして出してる
アメノワカヒコの裏切りとその天罰を与える道具も弓矢だった
水と弓と祭祀の場と言う構造は日本の祭祀の原点を示していると言えるかも知れないな >>144
240年頃は邪馬台国が魏に遣いを送ったあたりの一番大事な年代なので邪馬台国抜きには考えられません。 琵琶湖周辺は湧き水(琵琶湖から取水するわけじゃない)がすごいから水に苦労しない。大きな遺構が出てきても驚きはない。
この水を目当てにハイテク工場が集積してるから今でも日本のホットポイント。 >>1
根拠も無いのにあたかも邪馬臺国に関係しているかのように印象操作する行為は、いわゆる霊感商法の一種であり、犯罪です。
邪馬臺国の場所はとっくの昔に判明しているのです
■『広志』(編纂:晋の郭義恭)
広志いわく、---東南500里で到る伊都国、又南、至る邪馬臺国-----(魏志と同様に周辺国の紹介へと続く)
伊都国:福岡西区であり倭国の守衛国
↓
又南至る
↓
邪馬臺国:吉野ヶ里、甘木・朝倉、八女など有明海と取り巻く筑紫平野に存在した小国群の総称
2023/3/30
福岡・八女市に弥生後期の環濠集落跡 吉田・辺田ノ上遺跡 岩戸山古墳の南西
https://www.nishinippon.co.jp/item/n/1073771/ 滋賀県は導水祭祀が弥生時代の古い段階からも行われてる
単なる水辺じゃなくて水をコントロールする祭祀だから独自性が強い 炭素式等の年代測定法のお陰で古代の謎に迫りつつある 川沿い、湖のほとりってのは古代文明が栄える為の必須項目みたいなもん
調査進めればまだまだ出て来そうだな 土着の縄文人と出雲族とを分けるのが
青銅器だね
ここで最初の異文化の流入があった
天皇家や藤原氏の祖はこの辺りでしょう 導水施設の埴輪とか見ると導水の場を隠してる感じになってる
儀式は誰にも見せない神聖な物なのかもしれないな 卑弥呼時代はちょうど鉄器時代の真っただ中でした。
魏志倭人伝に倭人が「鉄のやじり」を使っている記述があり、この時代の日本には既に鉄器文化が到来していたことがわかります。
また、『3世紀の中国の歴史書「魏志東夷伝弁辰条」には、朝鮮半島南部の地域に鉄が多く出て、「韓、注意1(ワイ)、倭みなしたがってこれをとる。諸市買うにみな鉄をもちい、中国の銭をもちうるがごとし」と記されています。
鉄を求めて、弥生人がさかんに朝鮮半島南部に出かけていった様子が描かれています。』
弥生時代の鉄器の流通量を見ると、当時の経済共同体が浮かび上がります
弥生時代の鉄器出土量
https://i.imgur.com/UKtbTwc.png 邪馬台国畿内説のキチガイが現れるから、関係ないのに卑弥呼や邪馬台国の文言を入れるな >>166
魏志倭人伝自体が外国人が伝聞で書いたもので正確性があまり担保されんがな。
古史古伝よりは信用できると思うが。 鉄器(武甕槌)VS青銅器(出雲)という
勝ち目のないのを悟って「国譲り」した
という話として解釈出来る
諏訪の出雲族(土着縄文系)は抵抗したが
最終的には服従したとかね モモの種も纏向に共通の祭祀だな
滋賀の祭祀遺跡は纏向とかなり密接な関係があると言えるな
面白い >>178
こら韓国式ウリナラ起源詐欺よ
あたかも纒向起源であるかのような言い草してるが、それ犯罪だからな
桃の種といえば岡山県の吉備だ
万単位で出土してるのは吉備だけだ
纒向のは吉備勢力の古墳建造時に吉備から持ち込まれた物だ 畿内派メディアによる印象操作
「纏向遺跡の建物は祭祀場であり、大量の桃がお供えされた」
しかし桃の種が発見された場所は柵列の下の別の遺構
https://i.imgur.com/J2EZhbs.png
纒向の建物と桃の種が同時期に存在していたわけではないと判明
畿内説は建物を取り壊した後に桃が埋められたと言っているが、なぜ取り壊したのかは不明 岡山桃ハンパないなw
吉備といえば温羅伝説だが
この辺りがヤマト族と出雲系弥生人との
怨嗟の象徴だと思うの >>181
纏向の桃核は最新のIntCAL20で炭素年代測定してるけど?
AD220〜340の間のものと判定されたはずだけど、何言ってんのさ?
あー、印象操作の実例ってこと? >>183
遺構の状況からして建物と桃は関連性無し
物理的に同時に存在する事は不可能
大型建物も一気に建てられたのではなく古い時代から部分的に建てたり壊したりを繰り返してる
つまり3棟同時に建築された建物かどうかもわからない
纒向遺跡の想像図は縮尺を操作しているね
実際のところ周辺の倉庫は一般家庭の物置ぐらいしかない >>184
しかし、農民が生活していた痕跡は皆無
つまり皇居なんだわ >>185
頭おかしい
纒向説が統一教会だと言われる理由が良くわかる >>184
建物と関係してない
柵の脇での祭祀だよ >>187
頭おかしい
纒向説が統一教会だと言われる理由が良くわかる >>188
纏向は単に巨大な市場(と、もしかしたら京城) >>190
古墳といえば古墳なのだけど
↓この表現からは円墳ぽいby魏志倭人伝
卑彌呼以死 大作冢 徑百餘歩 徇葬者奴婢百餘人
卑弥呼の死去によって、大いに冢が作られ、直径が100歩ほど、奴婢100人あまりが殉葬された。 卑弥呼は絶対に北九州だから、滋賀で卑弥呼時代はないだろ! >>190
卑弥呼はAD180年頃女王即位
弥生末期だよ
卑弥呼が活躍した時期は180〜230年ぐらいまで
239年に親魏倭王になると引き篭もりになった
女王国の東の倭種の国というのはいわゆる銅鐸文化圏と言われた地域 >>181
わろた
古墳の年代詐欺もバレないといいねw この地域は息長宿禰王つまり神功皇后の父親が治めていた地域で神功皇后の神がかりもこの遺構との関係は深そうだ。 神功皇后の九州遠征のときは丹波、但馬、若狭の海人300人集めて船長にしてということらしいから、日本海ルートだったんだろうね。 つまり神功皇后の事績とされた三韓征伐の頃の4世紀の話でないと時代が合わないはずなんだよね >>188
統一教会の工作員が疑われてる九州説がなすりつけを始めた 滋賀県彦根市の稲部遺跡は3世紀中頃のもの
卑弥呼だ、神功皇后だと関係ない話ばっかするなスレチだ >>198
統一教会は畿内説だろ
ウリナラ起源は大和ニダーとしておいて後で、大和のDNAが韓国人と一緒だから大和王権は韓国製ニダー
と言い出すのが目に見えてるだろ 畿内説ってのは要するに半島系によるウリナラ起源説よ
2015年末アンケート結果
■邪馬台国は何処?
九州説:54.4%
近畿説:35.7%
その他:9.9%
都道府県別結果と半島系固有DNAの分布
https://i.imgur.com/2prBRwa.png 兄は夜更け過ぎに靫(ゆき)へと変わるだろう
silent night holy night🎵 古代出雲王国は、2つの王家、東の富家(向家)と、西の神門臣(かんどのおみ)家が、交代制で主王と副王を勤めており
天照大神が國譲りを迫ったときは8代目の王の時で
主王は西出雲王家の神門臣家の八千矛(大国主)
副王は東出雲王家の富家(向家)の八重波津身(事代主)
ちなみに
国引き神話で有名な人物は6代目主王の、西出雲王家の神門臣家の臣津野で、
その息子は、隠岐の吾田片隅
大和政権が使用した海人宗像氏の祖である
神武東征で、大和地方で東征に抵抗した豪族の長は、東出雲王家の富家(向家)の
登美能那賀須泥毘古(とみのながすねびこ)である >>200
統一教会は九州説。もともとは朝鮮が支配してた国を天皇家が奪ったのがサタンの国である日本。 >>200
九州説こそ邪馬台国は大和国じゃないから大和朝廷の成立はよくわかりませんねとやって
どさくさに紛れて朝鮮渡来の王族が大和に王朝を打ち立てたのかもしれませんねとやる積りだろ
日本乗っ取りは統一教会の悲願らしいし 旧唐書などを持ち出して、7世紀まで九州の勢力(朝鮮勢力)と二分されてたとか言い出してる連中は非常に怪しい。 統一教会工作員の九州説の策略はごちゃごちゃしたニセ情報をいっぱいバラまいて
歴史をよくわからないものというように認識させて嘘つき放題でニセの歴史を信じ込ませること 九州説だろうが畿内説だろうがどちらにしたってヤマト王権はこの日本海ルートの渡来人による王権なのは明らかだぞ >>208
天孫系D系統は黒潮に乗って太平洋岸に漂着したが有力だが。 >>208
残念、ヤマト王権は隼人の太平洋黒潮ルートだ 天皇の出自は伝承によれば呉の建国者の太白
一応系図もある >>204
>>205
>>201でバレてるんだからさあw
まさに半島人だなw こういう物品が九州からあんまり出ないのが苦しいところだな
九州民はとりえあず舗装されていないところを全部掘り返せよ
何か出てくるだろ >>213
という無知畿内説特有の言動パターンw
少しは調べろチョソw 天皇や源氏のルーツは北魏です。
天皇は北魏で確立した道教、五胡十六国の天王から来てます。 >>217
東征した神武は、筑紫城の漢委奴国王の第4皇子
だからな 纒向遺跡を目の当たりに見てきた人の見解
坂靖・著『ヤマト王権の古代学―「おおやまと」の王から倭国の王へ』(2020/2/5)
著者の坂氏は奈良県立橿原考古学研究所付属博物館の学芸課長を経て、現在、奈良県地域振興部文化財保存課の主幹という、
現役の奈良県の考古学者でありながら、邪馬台国北部九州説の立場をとっています。
(中略)
「ヤマト王権は、布留式期に日本列島各地に強い影響力を行使することをはじめたのであって、
初期のヤマト王権の版図は、きわめて限定されていたとみるべきである。
・・・弥生時代中期から後期の近畿地方においては、中国との直接交渉を示す資料がほとんど知られていない。
楽浪形土器は北部九州に集中し、松江市以東にはまったく認められない。
邪馬台国の時代、すなわち庄内式期においても、魏と交渉し、西日本一帯に影響力をおよぼしたような存在が、奈良盆地にはみあたらない。
邪馬台国の所在地の第一候補とされる纏向遺跡の庄内式期の遺跡の規模は貧弱であり、魏との交渉にかかわる遺物がない。
さらに女王卑弥呼の居所は、出入りするものは男子が一人いただけであり、そこに宮室・楼観・城柵が厳かに設けられ、
常に人がいて、兵が守衛するような場所であったと記されるが、纏向遺跡にはそのような場所を認めることはできない。」 女王卑弥呼の居所は、出入りするものは男子が一人いただけであり、そこに宮室・楼観・城柵が厳かに設けられ、
常に人がいて、兵が守衛するような場所であったと記されるが、九州の遺跡はどこも、農民が居住している痕跡がある 3世紀に今の皇居をベースに妄想する低偏差値畿内説w 【おしらせ】邪馬台国関連遺物の出土状況(2023年昨日時点)
[九州説]
・魏志倭人伝の行程とほぼ合致
・卑弥呼の時代から存在するクスノキ
・吉野ヶ里の日吉神社の下の甕棺墓で絹を纏った巫女の遺骨発見
・大量の鉄製武器、鉄製工具他(魏志の記録に合致)
・絹および紡績用具
・警備厳重な城柵に囲まれた吉野ヶ里遺跡
・中国から授かった漢委(倭)奴国王の金印
・すずり、およびすずり工房(文書を用いていた)
・魏王の鏡と同型の鉄鏡
・殉葬と思われる多数の墓に囲まれた祇園山古墳
・八女市でも弥生後期の集落発見(調査中)
[畿内説]
・定住者がほとんどいない大集落
・東海・伊勢産の飯炊き土器と残飯各種(鯖の骨、猪の骨)
・柱の細い大型建物(古墳被葬者の遺族向け宿泊所?)
・農具は無く、大量の木製土木用具
・東日本で流行った仮面(木製)
・大型建物の柵列の下の穴に捨てられていた桃の種
・同じく蛙の骨
・箸墓古墳で出土した馬具(中国のより古い4世紀初のもの)
・唯一の弥生遺物「銅鐸の破片」 >>212
九州説は日本の歴史もよく知らない事はもうバレてる
半島由来の統一工作員が九州説 こんだけ探してないんだから畿内でも九州でもないんだろうな >>230
邪馬台国はあなたの心の中にあるのです。 なぜ伊勢に意識が向かないんだろうね
闇が深すぎるのかもしれない >>1
無駄無駄
南にある狗奴国と戦争していた痕跡があるのは九州だけ
87 :ニューノーマルの名無しさん :2020/10/28(水) 02:23:05.26 ID:02Gx9kmc0
面白いものを見つけた
BS-TBSの諸説あり!の映像らしいが、弥生時代の鉄鏃が大量に出土した場所が
九州を横断するように存在している
どう見てもここが邪馬台国と狗奴国が戦闘してた戦線=国境ラインだろ
https://pds.exblog.jp/pds/1/201707/23/45/a0237545_12273741.jpg >>224
現実だから仕方がない
女王卑弥呼の居所は、出入りするものは男子が一人いただけであり、そこに宮室・楼観・城柵が厳かに設けられ、
常に人がいて、兵が守衛するような場所であったと記されるが、
九州の遺跡はどこも、農民が居住している痕跡がある
纏向遺跡は、2世紀末から4世紀前半にかけての遺跡であるが、農民が居住している痕跡が無い 大陸「同年同月同日に生まれることを得ずとも、同年同月同日に死せん事を願わん!」
日本「桃うめぇ」 女王卑弥呼の居所は、出入りするものは男子が一人いただけであり、そこに宮室・楼観・城柵が厳かに設けられ、
常に人がいて、兵が守衛するような場所であったと記されるが、九州の遺跡はどこも、農民が居住している痕跡がある
纏向遺跡は、吉野ヶ里遺跡の3倍の広さの2世紀末から4世紀前半にかけての遺跡であるが、農民が居住している痕跡が無い >>233
それが女王国と狗奴国の境目だな
わかりやすい >>212
半島固有のDNAが西日本に多いのは明治以降の移住者による。それを歴史資料として扱うのは明瞭なギミック。 >>65
考古学者は墓制がどうのこうので弥生後期に既に広域国家が日本にあったとかいう妄言を言う事をやめて欲しいわ
文章でこうやって記録されている事を無視するなと言いたい >>241
だって九州説や東遷説を受け入れたら、政権発祥の地を九州に取られるじゃん
調査費を出してもらえなくなるし、観光資源にならなくなるから必死で否定するよ >>197
その4世紀の根拠が好太王碑と神功皇后の三韓征伐の記録だが、神功皇后の遠征場所は新羅周辺のみで好太王碑に書かれている事績は雄略天皇に近い。だとすると神功皇后は日本書紀に書かれているように卑弥呼と同時代となる。
今回の発掘が伝承に残る神功皇后の実在性の根拠となり。その伝承を集めて書いた日本書紀の正確性も裏付ける可能性がある。そこから欠史八代(神社に伝承が残っていない)の解明にもつながる可能性も出てきた。
口述よりも文書だから事実を書いていると限らないのは現代でもよくあること。 日本書紀では魏志倭人伝にある卑弥呼は神功皇后の摂政の時代のこととは書かれているが、卑弥呼が神功皇后だとは言っていない。
それをとらえて、本居宣長が卑弥呼は神功皇后を装った九州の女酋長だと主張している。 >>241
そうだね
北部九州では前方後円墳以外の古墳の方が早く造られてるし
畿内説の考古学者は前方後円墳が造られた地域は畿内勢力の傘下だとか言い張ってるが、そんな社会ルールはたぶん人類の歴史上には無いよ 神功皇后については九州や滋賀に残る多くの伝承に加えてその根拠地だったとされる場所からのヤマトにつながる祭祀の遺構の発見とその実在性を規定してもよいレベルとなった。
滋賀はかなりポイントの場所で、近江宮、大仏をつくろうとした紫香楽宮など天皇とは関わりが深い場所の一つ。物部の勢力も強かった地域であり。平城京設立の際もその木材を伐採し瀬田川経由で運んだ場所が現代にも残っており。天智天皇の近江宮遷都も唐突で白村江で負けたから引きこもった説まであるが、神功皇后を支えたより主戦的な地域に移ったとも言える。 ちなみに、聖徳太子の有名な「日出る処の天子、書を、日没する処の天子に致す。恙なきや。」の書簡を持っていった小野妹子も生まれは滋賀であり。そこにの住宅街にあるさびれた小野妹子神社には外務省の人の訪問が今でもあるとか。 日本史は調べれば大陸との関係が不可避になるから
ウヨクやってる奴らがいかにこの国の歴史に無関心無知なのかわかる
歴史を無視してやたらと近代の戦前戦中ことばかり喚くのもそこから来てるんだろう >>249
調べれば調べるほど日本の独自性が明らかになっているわけだが。 日本(倭)の独立は天王=天皇が君主号になった五胡十六国時代よ。朝鮮半島が中国の直接支配から離反したのと連動している。 >>234
それ内宮で
外宮は弟(実質的な王)の居館跡だろう
畿内説は伊勢説に鞍替えしる
奈良盆地は狗奴国てことにして
女王の国とは海域の海洋権益を争ってた
てことにすれば辻褄が合うw >>252
わろた
でも纏向説よりは説得力があっていいと思うわ >>253
マジで言ってんのよ?w
マップで宇治山田神社て調べてみて
墓の記載とサイズ感ピッタリだし >>252
女王卑弥呼の居所は、出入りするものは男子が一人いただけであり、そこに宮室・楼観・城柵が厳かに設けられ、
常に人がいて、兵が守衛するような場所であったと記される
が、
九州の遺跡はどこも、農民が居住している痕跡がある
纏向遺跡は、吉野ヶ里遺跡の3倍の広さの2世紀末から4世紀前半にかけての遺跡であるが、農民が居住している痕跡が無い >>252
女王卑弥呼の居所は、出入りするものは男子が一人いただけであり、そこに宮室・楼観・城柵が厳かに設けられ、
常に人がいて、兵が守衛するような場所であったと記される
が、
九州の遺跡はどこも、農民が居住している痕跡がある
纏向遺跡は2世紀末から4世紀前半にかけての遺跡で、
吉野ヶ里遺跡の3倍の広さがあるが、
農民が居住している痕跡が無い >>254
見てきた
これいいね
纏向説は違和感だらけだけど、伊勢ならありそう
おもしろい >>256よりこっちを信じるわw
纒向遺跡を目の当たりに見てきた人の見解
坂靖・著『ヤマト王権の古代学―「おおやまと」の王から倭国の王へ』(2020/2/5)
著者の坂氏は奈良県立橿原考古学研究所付属博物館の学芸課長を経て、現在、奈良県地域振興部文化財保存課の主幹という、
現役の奈良県の考古学者でありながら、邪馬台国北部九州説の立場をとっています。
(中略)
「ヤマト王権は、布留式期に日本列島各地に強い影響力を行使することをはじめたのであって、
初期のヤマト王権の版図は、きわめて限定されていたとみるべきである。
・・・弥生時代中期から後期の近畿地方においては、中国との直接交渉を示す資料がほとんど知られていない。
楽浪形土器は北部九州に集中し、松江市以東にはまったく認められない。
邪馬台国の時代、すなわち庄内式期においても、魏と交渉し、西日本一帯に影響力をおよぼしたような存在が、奈良盆地にはみあたらない。
邪馬台国の所在地の第一候補とされる纏向遺跡の庄内式期の遺跡の規模は貧弱であり、魏との交渉にかかわる遺物がない。
さらに女王卑弥呼の居所は、出入りするものは男子が一人いただけであり、そこに宮室・楼観・城柵が厳かに設けられ、
常に人がいて、兵が守衛するような場所であったと記されるが、纏向遺跡にはそのような場所を認めることはできない。」 ちなみに魏との橋渡しをしたのは
北九州の海人族で
こちらは素戔嗚との「誓約」によって
結ばれたと考えられるていう >>250
その独自性を示す古代の遺物が大型銅鐸だ
中国には無い未だに意味不明な大型銅鐸崇拝?文化だ
かつて銅鐸文化圏と言われた山陰、近畿、東海は中国への朝貢を嫌い独自の独立国家形成を目指した
朝貢を怠ったので中国史書に彼らの記録は無い
魏志倭人伝では東の倭種の国と一括りにされた >>252
伊勢神宮は場所を転々としてる
元伊勢って聞いたことないか? >>263
場所を伊勢に定めた途端祟りが収まったという話は面白い
この地にどんな意味が有ったのかと >>263
元伊勢の出立点は三輪山檜原神社
つまり纏向のすぐ近くてことで
狗奴国がその後の大和朝廷のベースに
なっていると私は考えている
邪馬台国は滅んだと史籍に書いてあるのに
そこをなぜすっ飛ばすのか? >>266
何処にも書いてないよ
大和の史書である記紀にも書いてない
デマは犯罪ですよ >>266
明史倭国伝に秀吉は薩摩州の奴とかいてあると言い張るようなもんだな >>259
九州説だった東大が、なぜ纒向遺跡を
圧倒的で、邪馬台国だろうと思っているのか
女王卑弥呼の居所は、出入りするものは男子が一人いただけであり、そこに宮室・楼観・城柵が厳かに設けられ、
常に人がいて、兵が守衛するような場所であったと記される
が、
九州の遺跡はどこも、農民が居住している痕跡がある
纏向遺跡は2世紀末から4世紀前半にかけての遺跡で、
吉野ヶ里遺跡の3倍の広さがあるが、
農民が居住している痕跡が無い >>269
何で吉野ヶ里集落と比較してるの?
邪馬台国は7万戸の北部九州連合国だよ? >>267
南北朝の宋(420年 - 479年)の時代、432年以降に
後漢(25年 - 220年)について書かれた『後漢書』には
後漢(25年 - 220年)は57年に、九州の倭奴国を「漢委奴国王」に任じたと書かれている
唐(618年 - 907年)の時代、太宗の命で編纂された『隋書』には
遣隋使を派遣した大和政権のことを【「邪靡堆」を都としており魏志の邪馬臺である】と書かれている
後晋(936年- 946年)の時代、945年に書かれた『旧唐書』では
その、「邪靡堆」を都としており魏志の邪馬臺である日本国のことを
古の倭奴国(九州の漢委奴国王の倭奴国)とは違う国だと書かれていて
北宋(960年 - 1127年)の時代、1060年に書かれた『新唐書』では
日本は、筑紫城に居住する彦瀲の子の神武が移って統治していると書かれている
日本の記紀では
九州にあったのは、出雲から山幸彦が訪れた、豊玉彦命(綿津見大神)の「海神(ワダツミ)国」となっている >>270
100年間以上
吉野ヶ里の3倍もの範囲で
農民が生活した痕跡がない
纏向遺跡 >>269
纏向は当時の遺跡としては群を抜いて日本最大の物だから
それと農民がいた形跡がない事から、逆に京城であると見なされたんだろう つまり >>271
初代天皇「神武」は、倭奴國の漢委奴国王の子孫
東征した先にあったのが邪馬台国 >>272
だからあの辺一帯は唐古鍵閉鎖後は墓域だったと寺澤さんが言ってただろ
いわば纒向は古墳建造指定区域だよ 基礎知識ぐらい身につけておこうね
<1~2世紀>
「建武中元二年(AD57年)、倭の奴国、奉貢朝賀す。使人自ら大夫と称す。倭国の極南界なり。
光武賜ふに印綬を以てす。安帝の永初元年(AD107年)、倭の国王師升等、生口百六十人を献
じ、請見を願ふ。桓・霊の間(2世紀後半)、倭国大いに乱れ、更々相攻伐し、歴年主無し」
【ポイント】
・倭人は呉越の末裔だった
・奴国が倭の最南端だった
・2世紀時点で倭を治めていた王は「師升」
・2世紀後半は倭国大乱となり統一王は存在しなかった
<2~3世紀>
「旧百余国。漢の時、朝見する者有り。今、使訳通ずる所は三十国なり。」
「女王国より以北は、その戸数、道里の略載を得べきも、その余の旁国は遠くして絶へ、詳を得べからず。次に斯馬国有り。~」
「その南に、狗奴国有り。男子が王と為る。その官は狗古智卑狗有り。女王に属さず。郡より女王国に至るは、万二千余里なり。」
【ポイント】
・倭国100国のうち魏に朝貢したのは女王国30国のみ
・戸数や里数表記された国々は女王国の北部に位置する国々である
・女王国の東には海があり、その先1000余里にまた倭種の国がある
・女王国の南には反女王派の狗奴国があった
・帯方郡から女王国まで約12000里である >>274
新唐書の筑紫城は宋の時代の偽書に踊らされてただけだよ
根拠
淡海三船(722〜785)が諡号するまでは、歴代天皇には中国風の漢風諡号は存在していない
※諱と和風諡号しか存在しなかった
新唐書には、筑紫城にいたとされる歴代天皇を漢風諡号で書いている
つまり722年以降に作られた内容を元に新唐書は書かれている >>277
新唐書は日本が渡した日本記の丸写し
ヤマトが大和州と記されている >>278
奝然(938-1016)作の王年代記だよ 補足
新唐書は明確に間違いだとハッキリするのは、雄略天皇も筑紫城に住んでいた事になる点
雄略天皇(ワカタケル大王)は、金錯銘鉄剣、銀錯銘太刀で、生存年と宮の場所が明確にわかっている
筑紫には居ない 倭人伝のオリジナルに近い文献を重視すべき
■『広志』(編纂:晋の郭義恭)
広志いわく、---東南500里で到る伊都国、又南、至る邪馬臺国-----(魏志と同様に周辺国の紹介へと続く)
伊都国:福岡西区であり倭国の守衛国
↓
又南至る
↓
邪馬臺国:吉野ヶ里、甘木・朝倉、八女など有明海と取り巻く筑紫平野に存在した小国群の総称 >>277
ちょっと違う
夏・殷・周・春秋・戦国時代を経て、
秦・漢・魏・晋・五胡十六国・南北朝・隋・唐・五代十国・宋・遼・金・元・明・清
という中国の歴史上の皇帝の中で、
漢・唐・宋・明は、れっきとした漢民族出身の皇帝
奈良が国交を回復したのちの唐・宋・明にとって
魏・晋は、裏切り者の簒奪者
親魏倭王はその手下 九州説だと狗奴国は九州南部になるけど
そこが天孫降臨した日向の国てこと
邪馬台国はそこに滅ぼされてるはずなのに >>283
魏略、魏志、広志が編纂時に参照した記録類自体は共通だろう
解釈がそれぞれ微妙に異なるだけで 何か重要なことを隠蔽(封印)することで
この国の建国神話は成り立っている
このままファンタジーをあれこれ論ずるのか
それとも歴史的事実に向き合うのか >>286
まーなー
魏略だと伊都国は万戸だったりするから、魏志倭人伝間違ってねーか?とか思うけど 魏略なんて方々の他書に引っ張られたのを集めただけだしな >>289
新唐書の筑紫城が嘘という明確な物証があるってお話し >>286
一次資料が残ってるとしたら平壌近郊か
発掘調査出来る日は来るのだろうか 【基礎知識1】
参考:https://i.imgur.com/YN7VCTk.png
【基礎知識1】
・倭人伝は中国の史書なので、倭国の地名も倭人の発音に合わせて中国漢字で表記されています
・魏志倭人伝に書いてあるのは邪馬「壹(壱)」国であり、魏の公用語であった呉語(上海語)で読むと「シャマイ」国となる
・以降の史書に出てくる「邪馬臺」や「邪摩堆」は語尾が「タイorダー」であり「ト」と発音する文字は使われていない
※トと発音する場合は「都」という文字が使われている→伊都国(イトコク)
・後世のヤマトは識字能力が低かったのか、邪馬壹=ヤマトと読んでいたが、新井白石と本居宣長がこの誤読に気付き、邪馬台国論争が始まった
・「大和」は、魏志倭人伝では女王国で市場の監視役として使われていた「大倭」と記載されている
※魏志倭人伝より『国国有市 交易有無 使大倭監之』 >>292
その時代に邪馬台国=大和ていう
ストーリーが出来上がってたてことだね
遣隋使を派遣したときやね>聖徳太子 >>296
畿内はヤマトとは名乗っていない
畿内がヤマトではなくヤマタイと名乗ったのであればオレオレ詐欺
魏志倭人伝を参照した筆者の解釈を記載したというのが妥当 >>296
ちなみにそのころどんなストーリーが出来上がってたというの
邪馬台国は畿内にあった派の聖徳太子が
九州説の抹消を企んで隋に邪馬台国は大和国と吹き込んだとでも言うつもり 邪馬台国の人が九州人であることが判明しましたよ
魏志倭人伝に記載されているのは「邪馬壹(ヤマイ)国」
後漢書では「邪馬臺は邪馬惟(ヤマイ)が訛ったものだ」と書かれています
https://i.imgur.com/Y4EHDju.png
邪馬台国の人が「ヤマイ」のことを九州弁で「ヤマイたい」と答えたのでしょう 隋書には倭の都の邪靡堆(邪摩堆)は
魏志にある邪馬臺の事であると書いてるから
魏志には邪馬壹じゃなくて邪馬臺と書いてあった事になる
邪馬壹は後世の誤記 隋書の使者は倭国の位置も歴史も知らない
畿内までの道のりが魏志倭人伝の道のりと全く違うので倭人は里を知らないと書かれてしまった
畿内の倭人も邪馬台国なんて知らない状態
そうした状況で書かれたのが隋書なので
「邪靡堆はたぶん魏志の邪馬臺だろう」
と筆者なりの解釈を記載した
畿内が中国とずっと交流していたのならこれらの文章は必要なかったはずだ
他の史書と同様に行程紹介の箇所で「〜東至邪馬堆」と書かれて終わる話
わざわざ改めて紹介されたのは、魏志の記録とはあまりに位置が違ったからである
つまり魏志の邪馬臺と隋書の邪靡堆は別物だ >>298
そもそも聖徳太子の頃に九州説なんか
存在しないだろw
どいつもこいつも邪馬台国→ヤマト政権
という流れに固執しての位置論争なわけで なんかIDコロコロしてるが
プロバイダのせいだからな >>301
邪靡堆(邪摩堆)は倭の都とあるから
大和の事だよ >>302
それがあるんだよ
筑紫城にいて、天智・天武で遷都してきた
法隆寺はその時移築したっていう、最狂な九州がね >>302
607年
奈良の飛鳥京から「日出処の天子……」の国書を持参した小野妹子が遣隋使として派遣され
小野妹子の帰国に同行するかたちで、煬帝が勅使「裴世清」を派遣
608年
煬帝の勅使「裴世清」の帰国に同行するかたちで
奈良の飛鳥京が、再び小野妹子を遣隋使として派遣
636年 唐(618年 - 907年)の時代
太宗の命で編纂された『隋書』に
遣隋使を派遣した大和政権のことを【「邪靡堆」を都としており魏志の邪馬臺である】と書かれた
720年
唐の学者を招いて、九州から神武が奈良に東征したのだという日本書記が完成する つまり、
北宋(960年 - 1127年)の時代、1060年に書かれた『新唐書』では
日本は、筑紫城に居住する彦瀲の子の神武が移って統治していると書かれている
より300年前にはすでに
大和は
「邪靡堆」を都としており魏志の邪馬臺である
筑紫城に居住する彦瀲の子の神武が東征して統治している
というストーリーが出来上がっているむ >>306
筑紫城にロマンを感じて、辞められない止まらない
因みに何処に筑紫城があったのかというと、太宰府政庁跡の地下にあって発掘できなくて悔しいらしい
だいたいこの層が、筑紫の日向を筑紫国の日向峠だと言い張ってる層と重なる 残念ながら日本は非漢民族の立場から皇帝になるために、血統、人種を超えた魏晋の実力主義(禅譲、国譲り)を採用しちゃった民族w >>313
最新の炭素年代測定でもAD240〜340
後ろの方だと言いたげなやつもいるけど、データはそうなってる 607年
奈良の飛鳥京から「日出処の天子……」の国書を持参した小野妹子が遣隋使として派遣され
小野妹子の帰国に同行するかたちで、煬帝が勅使「裴世清」を派遣
608年
煬帝の勅使「裴世清」の帰国に同行するかたちで
奈良の飛鳥京が、再び小野妹子を遣隋使として派遣
636年 唐(618年 - 907年)の時代
太宗の命で編纂された『隋書』に
遣隋使を派遣した大和政権のことを【「邪靡堆」を都としており魏志の邪馬臺である】と書かれた
720年
唐の学者を招いて、九州から神武が奈良に東征したのだという日本書記が完成する
つまり、
984年に宋に留学した東大寺の奝然が太宗に職員令と「王年代記」と呼ばれた年代記を献上した250年前
北宋(960年 - 1127年)の時代、1060年に書かれた『新唐書』に
日本は、筑紫城に居住する彦瀲の子の神武が移って統治していると書かれた300年前にはすでに
中国
大和は「邪靡堆」を都としており魏志の邪馬臺である
日本
筑紫城に居住する彦瀲の子の神武が東征して統治している
というストーリーが出来上がっている >>316
それが正解
本場中国ではそれが結論だったはず
日本人は余計な事考えすぎるから答えが出ない 984年に宋に留学した東大寺の奝然が太宗に職員令と「王年代記」と呼ばれた年代記を献上した250年前
宋(960年 - 1127年)の時代、1060年に書かれた『新唐書』に
日本は、筑紫城に居住する彦瀲の子の神武が移って統治していると書かれた300年前にはすでに
唐
大和は「邪靡堆」を都としており魏志の邪馬臺である
大和政権
筑紫城に居住する彦瀲の子の神武が東征して統治している
というストーリーが出来上がっている
しかし、遣唐使が廃止されると、
九州から商売には来るけれど
大和から挨拶には来ない日本国
に対して、中国に疑念が生じる
後晋(936年- 946年)の時代、945年に書かれた『旧唐書』
その、「邪靡堆」を都としており魏志の邪馬臺である日本国のことを
古の倭奴国(九州の漢委奴国王の倭奴国)とは違う国だと書かれる
そこで平安時代末期、平清盛が宋との貿易拠点を
博多を素通りさせ、九州から神戸に遷すにあたって
984年に宋に留学した東大寺の奝然に職員令と「王年代記」と呼ばれた年代記を太宗に献上させ、あらためて
日本国は古の倭奴国から、彦瀲の子の神武が東征して統治していると説明し信用させたんだわ 靫は「ゆぎ」(アクセントは「ぎ」)と読んでほしい。 ちなみに
神武東征で、大和地方で東征に抵抗した豪族の長は、
東出雲王家の富家(向家)の
登美能那賀須泥毘古(とみのながすねびこ) 古代出雲王国は、2つの王家、東の富家(向家)と、西の神門臣(かんどのおみ)家が、交代制で主王と副王を勤めており
天照大神が國譲りを迫ったのは8代目の王の時で
主王は西出雲王家の神門臣家の八千矛(大国主)
副王は東出雲王家の富家(向家)の八重波津身(事代主)
国引き神話で有名な人物は6代目主王の、西出雲王家の神門臣家の臣津野で、
その息子は、隠岐の吾田片隅
大和政権が使用した海人宗像氏の祖である >>93
西洋でもレダとゼウスとか
王妃パシパエとか有名だろ
ネトウヨは韓国博士なのに日本や西洋の知識ゼロだから
ネトウヨが批判する韓国の物は西洋にもある事だったり日本にもある事だったりする
もし西洋にもある事だとネトウヨ憧れの西洋と韓国が近縁になってしまうし
もし日本にもある事だとブーメランがネトウヨに刺さってしまう >>1
やはり邪馬台国は滋賀にあったか
琵琶湖の底が最有力第一候補らしいな こういう話題になったら九州派がまじで必死になってコピペ連発するよな
火のない所に煙を立たそう、嘘も100回言えば押し通る、の精神なんだろうな
どっかの国の人そっくりだ 滋賀も卑弥呼捜索大作戦クラブに加盟希望か
次はどこが参加するかな、大穴で青森かな >>330
つまり、出雲を武力制圧したのは奈良
当時朝鮮は、
半島西岸の馬韓
半島東岸の辰韓
半島南端の弁韓
に分かれており、
辰韓には鉄が出て、韓、濊、倭がみな、従ってこれを取っていた
当初は鉄を取りに来るのは九州の漢委奴国王だったが
そこに出雲6代目主王の、西出雲王家の神門臣家の臣津野が、その息子の、隠岐の吾田片隅を使って
出雲から半島東岸の辰韓に直接渡って参戦
それが奈良の天照大神の耳に入り、出雲を武力制圧して
三国史記新羅本紀
西暦173年 倭の女王卑弥呼の使者が新羅へ来た
九州から半島東岸の辰韓に鉄を取りにくるよりも
出雲から半島東岸の辰韓に鉄を取りにくるほうが近いこともあり
『魏志』(韓伝)
桓帝の末と霊帝の末(169年~189年)には韓、濊が強く盛んになり、郡や県は制御することができず、住民が韓国に流入することが多かった。
建安9年(204年)に公孫康が楽浪郡の屯有県以南の荒地を分けて帯方郡と為した。この後、倭と韓はついに帯方郡に属し
後漢の皇帝「献帝」から襄平侯・左将軍に任命された遼東の公孫康と
後漢の皇帝「光武帝」から漢委奴国王の印綬を賜った九州の倭奴國が
半島東岸の辰韓の鉄を独占し、出雲・奈良連合は鉄を取りに行けなくなる
その後、「魏」が「後漢」を滅亡させると、公孫と九州の漢委奴国王は魏に反旗を翻し、
「魏」の軍事面でのトップの司馬懿に討伐され、公孫と九州の漢委奴国王の残党は対馬・九州に引きこもり
武力併合した出雲から半島東岸の辰韓に渡ってくる、奈良の女王が親魏倭王となる 公孫と九州の漢委奴国王の残党は対馬・九州に引きこもり
武力併合した出雲から半島東岸の辰韓に渡ってくる、奈良の女王が親魏倭王となる
と、当然、半島東岸の辰韓は、奈良の女王が親魏倭王となる邪馬台国との交易で発展してくる
で、魏は、国力をつけた韓が公孫氏のように、反魏となることを恐れ
246年、辰韓八国を楽浪郡に編入しようとする
辰韓を管理していた馬韓の辰王は激しく抵抗
魏は三韓全体の反発を招くこととなり、韓全体と戦うことになる。
帯方太守、弓遵が戦死するほどの激戦の末、韓王の箕氏一族はやはり、対馬に渡って漢委奴国王の倭奴國に逃げ、朝鮮半島南部から根絶させられる。
その結果、九州の漢委奴国王の倭奴國の元には、
対馬を経由して司馬懿軍から逃げてきた、遼東太守の公孫淵勢力と、
対馬を経由して司馬懿軍から逃げてきた馬韓・辰韓・弁韓の三韓勢力で膨れ上がり
魏の司馬懿と手を組んで親魏倭王となった邪馬台国を倒して倭で帝国を造ろうと攻撃を開始する 当時の船で出雲から直接辰韓まで渡ることは出来ないよ で
奈良・出雲連合軍は果敢に防衛するも、その最中に奈良の女王は死去
出雲から東出雲王家の富家(向家)の
登美能那賀須泥毘古を王として迎え入れたがうまくいかず
女王の後継として宗女をたてるも
魏が派遣した軍事顧問「張政」たちが邪馬台国を見限って出雲から新羅に脱出
出雲から奈良に来て孤軍奮闘してた東出雲王家の富家(向家)の登美能那賀須泥毘古が降伏し
九州の漢委奴国王が邪馬台国を倒して倭で帝国を造り、司馬懿の孫が建国した西晋と完全に国交を断絶する >>340
出雲国風土記国引き神話
八束水臣津野命は、国引きを決意
朝鮮半島の新羅の岬に余った土地があるぞと見つけられ、切り取り、島根県出雲市大社町の稲佐の浜との間に航路を拓いた 出雲ルートは
出雲→宗像→沖の島→対馬→新羅じゃねえかな そういう合戦のストーリーを描くには
奈良盆地は狭すぎるんだよ 実際「難波宮」てあったくらいだし
海に開けてる大阪に目が行くのは必然
古墳時代全盛期は特にそうだったと思う >>257
そうやって出てきた物を勝手に解釈してはダメ🙅 聖徳太子が生まれたのが574年?
邪馬台国が滅んでから約300年経ってる
この人が「魏志倭人伝」を見聞きしたとして
邪馬台国って何だ?何処にあったんだ?と
大阪には大量の大古墳があるという状況
そして周囲にあれこれ勝手なこと言ってる
渡来人も大量にいる
こいつらを黙らせるための「国史」を
どうやってまとめていくべきか?と >>343
帯方郡ー韓国
- 海を渡る1000余里 絶海の孤島「対海國」
対馬では無く鬱陵島
日本名は【磯竹(五十猛イソタケル)島】
- 海を渡る1000余里 「一大国」
壱岐では無く、宗像氏の祖先「吾田片隅(アタカタス)」がいた【隠岐】
- 海を渡る1000余里 末廬国
「国来(くにこ)、国来」と引いて来て縫いつけた国
去豆の折絶(出雲市小津町)から八穂米支豆支の御埼(出雲市大社町日御碕)まで
上陸地点は
この国を繋ぎ固めるために立てた杭(目標)、石見国と出雲国との堺にある佐比売山の麓、新羅に渡ったスサノオとイソタケルが帰ってきた上陸地、現在の大田市五十猛海岸周辺から
またその引いた綱(航路)、薗の長浜、現在の島根県出雲市大社町の稲佐の浜までのどこか
まともな港などではなく、生口を10人渡航させるのが精一杯の
「草木が盛んに茂り、行く時、前の人が(草木に隠されて)見えない」ところ
そこから歩いて
- 東南に500里 伊都国(出雲)
王:出雲主王 一大卒:天津彦彦火瓊瓊杵尊 - 東南に100里 「奴国」因幡
出雲の奴国 大国主の最初の妃「八上比売」の国
- 東に100里 「不弥国」摂津住吉
長官「多模(たも)」:田裳見宿禰の祖
- 南に水行20日 「投馬国」近江
長官「彌彌(ミミ)」:天忍穗耳尊
ー南に水行10日、陸行1月 「邪馬壱國」奈良 >>344
>>345
いや、その時代の湾は奈良の方まで入り込んでたんだよ
知らんのかいな >>348
- 東南に500里 伊都国(出雲)
王:出雲主王 一大卒:天津彦彦火瓊瓊杵尊
なに勝手に(出雲)とか書き足してんの
お前の脳内はどうなっとるんや >>345
邪馬台国が難波にあったかもーならまだ分かるけど
何で纏向なんだろ
どう見てもしょぼい小屋の集まり
古墳造営のためのキャンプ場にしか見えんわ >>353
残念すぎる>縄文時代
https://www.suito-osaka.jp/special/history/history_2.html
奈良盆地には元々の縄文系の人たちが
いたのは知っています
彼らは大和朝廷に最後まで抵抗し
「土蜘蛛」などという蔑称で呼ばれました >>351
東南陸行五百里到伊都國 官日爾支 副日泄謨觚柄渠觚
有千餘戸 丗有王 皆統屬女王國 郡使往来常所駐
王は出雲主王
常に出雲で政務を執っているのは、奈良が派遣した天照大神の孫の邇邇藝命(ににぎのみこと) 自女王國以北 特置一大率檢察 諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史
なぜ女王国に来る時に通ってきた国々には、特に一人の大率を置いて監視しなければならず
女王国に来る時に通ってきた国々は、これを恐れはばかっているのか
それは女王国に来る時に通ってきた国々は、天照大神が武力制圧した出雲諸国だから >>354
神世七代の「伊邪那岐神」は、九州筑紫城の、何代目かの漢委奴国王
その妻の「伊邪那美神」は、出雲と伯耆の堺近辺の出雲東部一帯を治める、東出雲王家の富家(向家)の根之堅洲国の姫
「伊邪那岐神」と「伊邪那美神」の間に産まれた大綿津見神(豊玉彦)は
伊邪那岐神の次の九州筑紫城の、何代目かの漢委奴国王になる正統な後継者で、その孫が、出雲・奈良に東征した神武
一方
伊邪那美神の死後に伊邪那岐神が、
伊邪那美神の侍女だった誰かに産ませたのが
天照大御神・月読命・須佐之男命の三人
九州 海神国 筑紫城には、【男系直系の】大綿津見神(豊玉彦)がいるので伊邪那岐神は、
天照大神は
奈良の高天原に分家
月読命には
死んだ伊邪那美神が奉られている出雲と伯耆の堺近辺の出雲東部一帯を治める、東出雲王家の富家(向家)に嫁がせ
男子の建速須佐之男命は
大綿津見神(豊玉彦)の跡を継いで海神国王に
と遺言したが
建速須佐之男命は大綿津見神(豊玉彦)に
九州 海神国 筑紫城を追い出されて
伊邪那美神の侍女だった母の出身地「須賀の地」
西出雲王家の神門臣家が治める島根県雲南市大東町須賀へ行き宮を建てる >>357
魏の使節が邪馬台国に至る過程を記す
魏志倭人伝の記述だと思うけど
私の解釈は>>140と>>260に書いた
「ここらは女王の国です〜」的な解説をしてる
のは船頭をしている海人族の人という設定 神世七代の「伊邪那岐神」は、九州筑紫城の、何代目かの漢委奴国王
その妻の「伊邪那美神」は、出雲と伯耆の堺近辺の出雲東部の根之堅洲国を治める、東出雲王家の富家(向家)の姫
「伊邪那岐神」と「伊邪那美神」の間に産まれた大綿津見神(豊玉彦)は
伊邪那岐神の次の、九州筑紫城の何代目かの漢委奴国王になる正統な後継者で、その孫が、出雲・奈良に東征した神武
一方
伊邪那美神の死後に伊邪那岐神が、
伊邪那美神の侍女だった、西出雲王家の神門臣家が治める島根県雲南市大東町須賀の誰かに産ませたのが
天照大御神・月読命・須佐之男命の三人
天照大神が國譲りを迫ったのは8代目の王の時で
主王は、
天照大神の母の出身地、島根県雲南市大東町須賀を治める西出雲王家の神門臣家の八千矛(大国主)
副王は、
伊邪那岐神の次の九州筑紫城の何代目かの漢委奴国王になる正統な後継者「大綿津見神(豊玉彦)」の母
「伊邪那美神」の実家の東出雲王家の富家(向家)の八重波津身(事代主)
天照大神が
当時の出雲主王の西出雲王家の神門臣家の八千矛(大国主)に国譲りを迫ったときに
当時の出雲主王の西出雲王家の神門臣家の八千矛(大国主)が
副王の「伊邪那美神」の実家の東出雲王家の富家(向家)が同意するなら従います
と言ったのはそういうわけでもある あと邪馬台国は滅びてるわけだから
女王と邇邇芸との連続性を【神話】
という設定で誤魔化したと考えている
結果として天皇は神の子ってことになり
現在に至ると >>355
万葉集に天香久山に登って海を見下ろす歌が有るんだよね
鴎も飛んでて海辺が近いのは確実
万葉集って縄文時代の歌も入ってるのか? >>362
高天原の天津神がどこにいたのかは、どこの史書にもヒントはない
筑紫にいたというのは、個人の感想でしかない
少なくとも天の磐船で天孫降臨するのに、徒歩で行ける九州は可能性が低い >>364
自分はどう思うのよ?w
万葉集の頃に奈良から大海原が見えたと? >>366
香久山から真西に進むと太子町を抜け、百舌鳥古市古墳群の方向に抜ける(標高が低い)
大仙古墳のすぐ西まで海が来ていたので、その辺の海鳥が見えた可能性は普通にある 神世七代の「伊邪那岐神」は、九州筑紫城の、何代目かの漢委奴国王
その妻の「伊邪那美神」は、出雲と伯耆の堺近辺の出雲東部の根之堅洲国を治める、東出雲王家の富家(向家)の姫で
産まれた大綿津見神(豊玉彦)は漢委奴国王の正統な後継者
一方
伊邪那美神の死後に産まれた天照大御神・月読命・須佐之男命の三人の母は
伊邪那美神の侍女だった、西出雲王家の神門臣家が治める島根県雲南市大東町須賀の誰か
天照大神が國譲りを迫ったのは8代目の出雲王の時で
主王は、
天照大神の母の出身地、島根県雲南市大東町須賀を治める西出雲王家の神門臣家の八千矛(大国主)
副王は、
伊邪那岐神の次の漢委奴国王の正統な後継者「大綿津見神(豊玉彦)」の母
「伊邪那美神」の実家の東出雲王家の富家(向家)の八重波津身(事代主)
奈良の天照大神が
当時の出雲主王の西出雲王家の神門臣家の八千矛(大国主)に国譲りを迫るのも
当時の出雲主王の西出雲王家の神門臣家の八千矛(大国主)が
副王の「伊邪那美神」の実家の東出雲王家の富家(向家)が同意するなら従いますと言ったのも
そういうわけでもある >>366
個人の想像なんて余り興味はないね
ただ、池を海に見立てたなんて無茶苦茶な解釈する風潮が有るみたいだけど、流石にそれはちょっとねw.
纏向が栄えたというなら、それを維持するのに水路は必須なわけで
それが海かは知らんけど、少なくとも海に繋がる運河は在ったでしょうくらいな感じかな
で、当時の海岸線って地質学的にどれくらい確定してるの?
当時の遺跡とかある場所はまあ確実に陸地だったんだろうけどさ >>366
あと山辺の道ってのも不思議よね
縄文時代なら判るよ
何で記紀の時代になってもあんな山裾を縫うような不便な道を利用していたのかと
奈良盆地が形成されてたなら普通に平地を歩けば良いじゃん
なんか利用出来ない事情でもあったんか? 大和には 群山むらやまあれど
とりよろふ 天あめの香具山
登り立ち 国見くにみをすれば
国原くにはらは 煙けぶり立ち立つ
海原うなはらは 鴎かまめ立ち立つ
うまし国ぞ 蜻蛉島あきづしま 大和の国は
舒明天皇の国見歌
舒明天皇
誕生593年
崩御641年11月17日百済宮
普通にこの天香久山は歌枕?とかで
生駒山とかに登ったら海見えるのでは? >>372
あれは石上神宮と三輪山辺りを結ぶ
便利なルートなのでは?祭祀用というか 初代国王「天御中主」が建国した九州筑紫城は
57年に、漢の光武帝から印綬を賜って倭奴國となり
神世七代の「伊邪那岐神」は
出雲と伯耆の堺近辺の出雲東部一帯を治める、東出雲王家の富家(向家)の根之堅洲国の姫「伊邪那美神」を妻として
淡路島を足掛かりにして
四国
隠岐島
九州・壱岐島・対島
佐渡島・本州
と次々に勢力を拡大した
しかし
出雲と伯耆の堺近辺の出雲東部一帯を治める、東出雲王家の富家(向家)の根之堅洲国の姫「伊邪那美神」が死とともに変化が訪れる 魏志倭人伝に旧国名ってほとんど出てきてないわな
対馬、壱岐が辛うじて、ってくらいで、投馬国イヅモ説もはっきりしないし、チクシとかヒノ国とかトヨノ国とか魏志には見当たらない
同様にツノ国とかカハチ、イヅミとかもはっきりしない
投馬国和泉説なんかあまり聞かないしな
そこへヤマトだけ孤立してしっかり載っかってる、って言う方が嘘くさい 物凄く大雑把に言うと
初代国王「天御中主」が建国した九州筑紫城は
57年に、漢の光武帝から印綬を賜って倭奴國となり
神世七代の「伊邪那岐神」は
出雲と伯耆の堺近辺の出雲東部一帯を治める東出雲王家の富家(向家)の゛姫「伊邪那美神」を妻として紀伊半島(高天原)にも進出
淡路島を足掛かりにして
四国
隠岐島
九州・壱岐島・対島
佐渡島・本州
と次々に勢力を拡大した
しかし
出雲と伯耆の堺近辺の出雲東部一帯を治める東出雲王家の富家(向家)の根之堅洲国の姫「伊邪那美神」が死とともに変化が訪れる
伊邪那美神の死後に、伊邪那岐神が
伊邪那美神の侍女だった、西出雲王家の神門臣家が治める島根県雲南市大東町須賀の誰かに産ませた、天照大御神・月読命・須佐之男命の三人が魏と手を結び、奈良の邪馬台国を首都として親魏倭王となってしまったのだ
でも結局、「伊邪那岐神」と「伊邪那美神」の間に産まれた大綿津見神(豊玉彦)の神武が奈良に東征して
日本はずっと、九州筑紫城を建国した初代国王「天御中主」一族が統治している
というのが【万世一系】 >>382
筑紫城は架空のネタ
・8世紀まで実在しない漢風諡号で天皇の名前が書いてある
・雄略天皇が在位期間、宮が確認されている
・神武の前には32代もいたとすると、口伝の人類の記録を更新する
完全に嘘 >>383
残念ながら
984年
宋に留学した東大寺の奝然が太宗に職員令と「王年代記」と呼ばれた年代記を献上する250年前
1060年 宋(960年 - 1127年)の時代に書かれた『新唐書』に
日本は、筑紫城に居住する彦瀲の子の神武が移って統治していると書かれる300年前に
すでに
636年 唐『隋書』
大和は「邪靡堆」を都としており魏志の邪馬臺である
720年 大和政権『日本書記』
筑紫城に居住する彦瀲の子の神武が東征して大和を統治
というストーリーが出来上がっている それではなぜ
636年 唐『隋書』
大和は「邪靡堆」を都としており魏志の邪馬臺である
だけど統治しているのは、邪馬台国の卑弥呼の末裔ではなく
720年 大和政権『日本書記』
筑紫城に居住する彦瀲の子の神武が東征して大和を統治
でなければならないのか
それは
唐・宋・明は、れっきとした漢民族出身の皇帝
唐・宋・明にとって魏・晋は、
漢民族から帝位を奪った裏切り者の簒奪者
親魏倭王はその手下だから >>384
それが全部ネタだと言うことだ
冷静に考えれば簡単にわかる >>382
天照大神(女神)の孫が天皇家の祖
ていう設定で男系は否定されるのになあ >>325
現宮崎県旧日向国に神門、津野、八重みたいな地名あるのですよね
いつ頃からの地名なのかは知らない
八重は山間部にあちこちにある
津野は今は都農と書くが古くは津野と書いたようである日向国一宮の所在地
神門はミカドと読みつまり神をミと読む
美々津という地名があるが神々のという意味になる
耳津とも書いたようである 黙示録第六のラッパ
第六の御使が、ラッパを吹き鳴らした。すると、一つの声が、神のみまえにある
金の祭壇の四つの角から出て、 14ラッパを持っている第六の御使にこう呼びかけるのを、
わたしは聞いた。「大ユウフラテ川のほとりにつながれている四人の御使を、解いてやれ」。
15すると、その時、その日、その月、その年に備えておかれた四人の御使が、
人間の三分の一を殺すために、解き放たれた。 16騎兵隊の数は二億であった。わたしは
その数を聞いた。
17そして、まぼろしの中で、それらの馬とそれに乗っている者たちとを
見ると、乗っている者たちは、火の色と青玉色と硫黄の色の胸当をつけていた。そして、
それらの馬の頭はししの頭のようであって、その口から火と煙と硫黄とが、出ていた。
18この三つの災害、すなわち、彼らの口から出て来る火と煙と硫黄とによって、人間の
三分の一は殺されてしまった。 19馬の力はその口と尾とにある。その尾はへびに似ていて、
それに頭があり、その頭で人に害を加えるのである。
口から出る火と煙と硫黄はワクチンは安全などの嘘
火の色と青玉色と硫黄の色の胸当ては創〇学会のシンボルカラー
へびの頭とは蛇はサタンの象徴だからサタン思想
そう見えるね >>385
唐(鮮卑)と日本(倭)にとって劉氏の血、漢民族、中華思想にこだわってた儒教を破壊した魏晋は恩人だけどな。
魏晋がなかったら天王を名乗る異民族の興盛はないw
日本書紀に魏志、晋起居注の外交記事をわざわざ載せる=大和の天皇は魏晋の皇帝と仲良しって意味だよw >>61
久留米出身だけど聞いた事ない古墳だからググったら高良山のふもとにあるのか
はじめて知った
邪馬台国は吉野ヶ里か甘木だと思ってた >>387
天照大神(女神)の孫が天皇家の祖?
初代天皇の神武の父は
天津日高日子波限建鵜葺草葺不合命(彦瀲)
天津日高日子波限建鵜葺草葺不合命(彦瀲)の父は
天津日高日子穂穂手見命(山幸彦)
天津日高日子穂穂手見命(山幸彦)の父は
天津彦彦火瓊瓊杵尊(ニニギ)
天津彦彦火瓊瓊杵尊(ニニギ)の父は
正哉吾勝勝速日天忍穗耳尊
正哉吾勝勝速日天忍穗耳尊の父は
建速須佐之男命 大分の日田って、昔は日高だったようだな
日高と書いてヒタ 纒向遺跡を目の当たりに見てきた人の見解
坂靖・著『ヤマト王権の古代学―「おおやまと」の王から倭国の王へ』(2020/2/5)
著者の坂氏は奈良県立橿原考古学研究所付属博物館の学芸課長を経て、現在、奈良県地域振興部文化財保存課の主幹という、
現役の奈良県の考古学者でありながら、邪馬台国北部九州説の立場をとっています。
(中略)
「ヤマト王権は、布留式期に日本列島各地に強い影響力を行使することをはじめたのであって、
初期のヤマト王権の版図は、きわめて限定されていたとみるべきである。
・・・弥生時代中期から後期の近畿地方においては、中国との直接交渉を示す資料がほとんど知られていない。
楽浪形土器は北部九州に集中し、松江市以東にはまったく認められない。
邪馬台国の時代、すなわち庄内式期においても、魏と交渉し、西日本一帯に影響力をおよぼしたような存在が、奈良盆地にはみあたらない。
邪馬台国の所在地の第一候補とされる纏向遺跡の庄内式期の遺跡の規模は貧弱であり、魏との交渉にかかわる遺物がない。
さらに女王卑弥呼の居所は、出入りするものは男子が一人いただけであり、そこに宮室・楼観・城柵が厳かに設けられ、
常に人がいて、兵が守衛するような場所であったと記されるが、纏向遺跡にはそのような場所を認めることはできない。」 >>396
天照大神は
建速須佐之男命を追放したあと
残された建速須佐之男命の子の正哉吾勝勝速日天忍穗耳尊を養子にしただけ >>399
安心して下さい
卑弥呼に子供はいませんよ >>400
はい
天照大神は
弟の建速須佐之男命を追放したあと
残された弟の子の正哉吾勝勝速日天忍穗耳尊を養子にし
正哉吾勝勝速日天忍穗耳尊は、天照大神が奈良を治めるのを助けている
『魏志倭人伝』
卑弥呼は非常に高齢で、夫はいないが、弟がいて国を治めるのを助けている。 卑弥呼がどこにいたのかもわからんのに、勝手に卑弥呼に結びつけるのは、脳みそがないのでしょうか? >>402
残念ですけど
984年
宋に留学した東大寺の奝然が太宗に職員令と「王年代記」と呼ばれた年代記を献上する250年前
1060年 宋(960年 - 1127年)の時代に書かれた『新唐書』に
日本は、筑紫城に居住する彦瀲の子の神武が移って統治していると書かれる300年前に
すでに
636年 唐『隋書』
大和は「邪靡堆」を都としており魏志の邪馬臺である
720年 大和政権『日本書記』
筑紫城に居住する彦瀲の子の神武が東征して大和を統治
というストーリーが出来上がっている >>404
古代出雲王国は、2つの王家
伊邪那美神の実家の「東出雲王家の富家(向家)」と
天照大御神・月読命・須佐之男命の三人の母の実家の「西出雲王家の神門臣(かんどのおみ)家」が
交代制で主王と副王を勤めている
宗像氏の祖は
国引き神話で有名な6代目主王
西出雲王家の神門臣家の臣津野の息子の
隠岐の吾田片隅 >>405
母の実家?てことは母系なのでは
まあ元々日本は母系相続と言われており
天皇家や武家などの男系の考え方は
大陸文化圏と考えられるのですが あんまりテキトーなことばかり言ってると
罰当たりますよ
なんだかんだそこは神々の領域なので 箱形の矢入れはえびらっていうの以外にも種類あるんだな >>406
神世七代の「伊邪那岐神」は
死んだ伊邪那美神に会うために
東出雲王家の富家(向家)治める
出雲と伯耆の堺近辺の根之堅洲国に行ってる
伊邪那美神の死後に生まれた須佐之男命は
母に会うために須賀の地…
西出雲王家の神門臣家が治める島根県雲南市大東町須賀
に行きたいと伊邪那岐神に告げて、伊邪那岐神に激怒されている
天照大御神・月読命・須佐之男命の三人の母親は、
東出雲王家の富家(向家)治める
出雲と伯耆の堺近辺の根之堅洲国の伊邪那美神
では無いのよ まあ、伊邪那美神が死んでから産まれたんだから当然だけどね >>409
神話だと出雲っていうのは高天原から
素戔嗚神が降り立ったところという設定
アナタの妄想は神話とリアリティが混同
してる上に神話の設定も狂ってるんだよ >>1
卑弥呼の時代だからと言って邪馬台国とは限らない 訂正
神世七代の「伊邪那岐神」は
死んだ伊邪那美神に会うために黄泉の国…
東出雲王家の富家(向家)が治める
出雲と伯耆の堺近辺の闇見国(くらみのくに)に行ってる
伊邪那美神の死後に生まれた須佐之男命は
母に会うために根之堅洲国の須賀の地…
西出雲王家の神門臣家が治める島根県雲南市大東町須賀に行きたいと伊邪那岐神に泣いて告げて、伊邪那岐神に育て方を間違ったと激怒されている
天照大御神・月読命・須佐之男命の三人は
父は神世七代の「伊邪那岐神」だけど
母親は、
東出雲王家の富家(向家)が治める
出雲と伯耆の堺近辺の闇見国の伊邪那美神
では無いのよ
まあ伊邪那美神が死んでから産まれたんだから当然だけどね
ちなみに須佐之男命は、激怒した伊邪那岐神に筑紫城を追い出されて奈良の天照大神の元に行き、
奈良の天照大神からも追い出されて出雲から、朝鮮半島東岸の辰韓12国のうちの一国で「斯蘆」と呼ばれていた新羅に渡り
新羅から現在の島根県大田市五十猛海岸周辺に戻ってきて
母の故地、西出雲王家の神門臣家が治める根之堅洲国にある須賀(すが)の地(島根県雲南市大東町須賀)に宮殿を建てた ちなみに須佐之男命は、激怒した伊邪那岐神に筑紫城を追い出されて奈良の天照大神の元に行き、
奈良の天照大神からも追い出されて出雲から、朝鮮半島東岸の辰韓12国のうちの一国で「斯蘆」と呼ばれていた新羅に渡り
新羅から現在の島根県大田市五十猛海岸周辺に戻ってきて、
ヤマタノオロチという怪物に毎年娘を食われているアシナヅチ・テナヅチの夫婦と、その娘のクシナダヒメに出会い、クシナダヒメとの結婚を条件にヤマタノオロチの退治を申し出た
須佐之男命の素性を知らないアシナヅチとテナヅチは訝しむが、彼が天照大神の弟と知ると喜んでこれを承諾し、クシナダヒメを須佐之男命に差し出した
そして須佐之男命は母の故地、西出雲王家の神門臣家が治める根之堅洲国にある須賀(すが)の地(島根県雲南市大東町須賀)に宮殿を建てた
そして須佐之男命の娘が、8代目の出雲主王の西出雲王家の神門臣家の八千矛(大国主)と結婚して、大国主は出雲を葦原中国にまで成長させると
須佐之男命とおなじ母を持つ、須佐之男命の姉の、奈良の天照大神が國譲りを迫る
8代目の出雲主王の西出雲王家の神門臣家の八千矛(大国主)は
副王である、伊邪那美神の実家の出雲と伯耆の堺近辺の闇見国を治める東出雲王家の富家(向家)の八重波津身(事代主)が承諾するなら譲りましょうと答え
八重波津身(事代主)が承諾し、奈良の天照大神が出雲を武力併合
173年 倭の女王卑弥呼が使わした使者が、朝鮮半島東岸の辰韓12国のうちの一国で「斯蘆」と呼ばれていた新羅を訪れた 初めて聞いたけど外食で割り箸が入ってるケースみたいなやつかな? >>394
だから男子男系じゃないと血統がつながらなくなるってことよ 「筑紫城」を持ち出す奴は、自分の頭で考えれない壊れたスピーカー
間違った事を吹聴するのが趣味なので、読む価値はない >>418
筑紫州の城と読めば、瓊瓊杵命の笠狭宮の事と読めないことはないけど、神武以前の存在なんか何も証明されてないし
やっぱり雄略天皇の物証が上がってるので否定される >>418
史書に記録されている事ですから
むしろ史書に全く記録のない「ヤマト」こそがデマなんですよ
邪馬台をヤマトと読むなんて勝手解釈はアジア圏の漢字文化に対する冒涜です
素直にヤマトとは後世の造語ですと認識を改めるべきです >>420
なんで後世に造語しなきゃいけないのか
邪馬台国を畿内にあったことにするため? >>422
魏志倭人伝には邪馬壹(ヤマイ)と書いてあり、後漢書の注記には「邪馬臺(ヤマタイ)は邪摩惟(ヤマイ)が訛ったもの」と記されている
本当はヤマイが正しかったのかもしれない
語尾にタイを付ける方言は九州にしかない >>422
>ちなみに史書には大和は邪摩堆と書かれてる
ちなみにこうした虚偽の事実の流布は犯罪です ヤマトという何かが居たが、中国史書にはそれに該当する文字が見当たらない
万葉集にはあらゆる文字が当て字に使われており長らく試行錯誤していた形跡が見られる
■万葉集における「ヤマト」と読む当て字は多種有り
『倭』 19首(1)
『山跡』 18首
『日本』 14首
『夜麻登』 5首
『八間跡』 1首(1)
『也麻等』 1首
『夜萬等』 1首
『夜未等』 1首
例)
大倭には 群山あれど、とりよろふ 天の香具山。
登り立ち 国見をすれば、国原は 煙立ち立つ。
海原は 鴎(カモメ)立ち立つ。
可怜し国ぞ。
あきづしま大倭の国は。 邪馬臺国は後漢書にも記載されているので1~3世紀中頃まで継続している遺跡しか該当しないはず
つまり3世紀に突如現れたという纒向遺跡は全く適合しない >>420
偽書ってものが世の中にはある
筑紫城が登場する、新唐書(その出典元となった王年代記)は
淡海三船(722-785)が一括諡号で作った歴代天皇の漢風諡号を使っている
つまり8世紀後半まで存在すらしなかった名前が登場する偽書である
この時点でメルヘンは半分崩壊
そして極めつけは、金錯銘鉄剣と銀錯銘大刀という2つの物証により
5世紀半ばにはワカタケル大王(雄略天皇)が奈良県に実在したことと
関東から九州までがワカタケル大王に従属関係似合ったことが証明された
これで筑紫城は完全に創作の中での存在と証明完了
文句があるなら筑紫城の物証でも見つけてくればいい >>426
じゃあ三重の環濠跡を持つ弥生最大級規模の
畿内の唐古鍵遺跡の方だね >>424
後漢書(百衲本版) 北史 通典に
邪摩堆とある >>428
【参考】唐古・鍵遺跡の変遷
■ムラの衰退(古墳時代前期)
弥生時代中・後期には大環濠はなくなり、ムラの規模が縮小します。環濠の一部は再掘削されますが、 井戸などの居住区関連の遺構は大幅に減少します。
■ムラのその後(古墳時代以降)
遺跡の中央付近で古墳時代後期の前方後円墳がみつかっています。この時期にはムラは消滅し、墓域となっていたようです。 >>431
学者曰く古墳時代前期は3世紀前半だそうだ なお古墳時代は奈良で始まったわけではありません
実際のところ古墳時代は2世紀の東日本の前方後方墳で始まっています
奈良盆地の前方後円墳から始まったわけではありません
東日本では2世紀ごろから前方後方墳が造られ西へと広まっていきました
https://i.imgur.com/DeSj4Lv.png
前方後円墳より先に、遠く離れた北部九州にも前方後方墳が造られています
古墳時代の始まりは卑弥呼と関係ありません >>427
おまえさ、何度もおなじようなこと言ってるが
新唐書は、どの時代に書かれたのか知ってるのか? >>429
後漢書(百衲本版) 北史 通典
それぞれ何年に書かれたものか記載しましょう >>434
淡海三船が一括諡号したのが8世紀
奝然が宋に留学したのが10世紀
新唐書が書かれたのは11世紀 両方とも、もう、日本国なんだけど
後晋には、日本は使者を遣わしていねーから
わからなかった
後晋(936年- 946年)の時代
945年に書かれた『旧唐書』
【倭国伝】
倭国は古の倭奴国である。
倭国王の姓は阿毎氏で、一大率を置いて諸国を取り締まらせている。諸国はみな一大率を畏れて服従している。十二等の官職を設けている。
貞観五年(631年)、倭王は使者を遣わして地元の産物を献上させた。
【日本国伝】
日本国は倭国の別種である。
その国は日の出る所に近いので、日本という名称を国号としている。
あるいは、このように言っている。「倭国はその名称が雅美でないことを嫌って、日本に改めた」と。また「日本は、もと小国であったが、その後、倭国の地を併合した」とも言っている。 >>438
倭人が「あいつらとは別種だから」「併合したんだって」てのはまあ言ってたのだろう
だから倭国と日本が別の国という認識に至ったと思われる >>417?
>>421
なるほど九州説の人ですか >>426
それ倭国>後漢書
ちなみに出雲方言と青森方言に
一人称「わ」ていうのがある >>436
淡海三船が一括諡号したのが8世紀
奝然が宋に留学したのが10世紀
新唐書が書かれたのは11世紀
11世紀に書かれた筑紫城が登場する、新唐書(その出典元となった王年代記)は
8世紀に淡海三船(722-785)が一括諡号で作った歴代天皇の漢風諡号を使っている
当然だな >>439
中国の皇帝になったから挨拶に来いと、何度言っても、日本(平安京)は遣使を派遣しなかったから
古の倭奴國と日本国は違うと嫌味で書いた
という話もある >>444
720年
唐の学者を招いて、九州から神武が奈良に東征したのだという日本書記が完成する ちなみに、平清盛が、貿易拠点を太宰府から神戸に遷すために遣使を送った「宋」が書いた「新唐書」では
720年に完成した
唐の学者を招いて、九州から神武が奈良に東征したのだという日本書記が
ちゃんと反映されている ちなみに、平清盛が、貿易拠点を太宰府から神戸に遷すために遣使を送った「宋」が書いた「新唐書」では
唐の学者を招いて720年に完成した
九州から神武が奈良に東征したのだという日本書記が
ちゃんと反映されている >>447
だから?
新唐書が雄略天皇の物証で破綻してしまう現実を見ろよ 弥生人系とヤマト人系の外見として
「チャゲ&飛鳥」をイメージすると
とても分かりやすい
奈良盆地にいたのは
チャゲ&小倉久寛
日向に到来したのがギフハフ >>435
後漢書5世紀
北史7世紀
通典8世紀だが何か >>452
471年前後に奈良県に雄略天皇がいたことは
金錯銘鉄剣に刻まれた銘文ではっきりしている
これを突破できない限り、筑紫城は日の目は見れない >>432
なら畿内には卑弥呼の時代から前方後円墳が存在していた事になるね
径百歩の大きなものとある卑弥呼の墓はやはり畿内の前方後円墳 滋賀も手を挙げたか。
考古学的には邪馬台国はさいたまで決着がついているのだが。 >>454
おまえバカだろ
宋(960年 - 1127年)の時代、1060年に書かれた『新唐書』
日本は古の倭奴国である。
その官位には十二等級があり、国王の姓は阿毎氏である。
その国王が自ら言うには、
初代の国王は天御中主と名乗り、彦瀲に至るまで、およそ三十二代とされている。彼らは皆、尊を尊称として、筑紫城に存在していた。
彦瀲の子の神武が継ぎ立ち、あらためて天皇を名乗り、大和州に移り住んでその地を治めた。
初代天皇「神武」のあとの
第21代天皇「雄略」が
奈良(大和州)にいるのは当然だろ >>455
畿内の古墳には殉葬の痕跡はないので非該当です
史書に書いてある卑弥呼の墓の規模
「大作塚」「径百余歩」「殉葬百余人」
なお倭人の「塚」に関しては
「棺を土で封じ土を盛って塚と成す」
なので葺石が確認されている箸墓古墳は非該当です >>459
表面に葺石をしても
「棺有りて槨なし。土で封じ冢を作る。」
に変わりは無い やはり女王の国の覇権は埼玉辺りまで
と考えるべきなのか
アマテラスとスサノオの誓約より
天之忍穂耳命:伊豆山神社(静岡)
天之菩卑能命:鷲宮神社(埼玉)←※
天津日子根命:多度大社(三重)
活津日子根命:生國魂神社(大阪)or彦根?(滋賀)
熊野久須毘命:熊野?(和歌山)
※稲荷山古墳のわりと近く >>460
他人の話をちゃんと読んでるか?
「殉葬百余人」
なお倭人の「塚」に関しては
「棺を土で封じ土を盛って塚と成す」 >>433の続き
東日本では2世紀ごろから前方後方墳が造られ西へと広まっていきました
https://i.imgur.com/ropaqAT.png
前方後[円]墳より以前に、遠く離れた北部九州にまで前方後[方]墳が造られています
つまり卑弥呼と古墳の形式は無関係でした こういう視点も非常に重要
> 畿内説ってのは要するに半島系によるウリナラ起源説よ
>
> 2015年末アンケート結果
> ■邪馬台国は何処?
> 九州説:54.4%
> 近畿説:35.7%
> その他:9.9%
>
> 都道府県別結果と半島系固有DNAの分布
> https://i.imgur.com/2prBRwa.png 滋賀県は犯罪の宝庫、出土品が捏造だという可能性は考えられるな。 歴史素人は九州説を信じ
歴史学者は幾内説を推す
この溝が埋まらないのは何故 清水眞一 前・奈良県桜井市教委文化財課長
私は二十年間、大和の中央部・桜井市で「邪馬台国は何処」とのテーマを持って、
発掘調査に従事してきた。その結果として、邪馬台国が成立して女王卑弥呼を擁立する
までの弥生時代中・後期に、大和には他地域を圧倒するような「ムラ」や「墓」が
見られないことに気付いた。
代表的なムラである唐子・鍵遺跡も、畿内の同時期の池上・曽根遺跡や田能遺跡などと
比較して、飛び抜けて大きいムラとは思えなかった。逆に、墓に関しては、
西日本各地と比べて遅れた地域との思いも抱いたことだった。
であれば、その次の古墳時代に入って、纏向の地に百メートル以上もの巨大古墳が、
なぜ突如として築造されるのか。これは、大和の地に別の地域の人々が入って来たと
考えざるを得ない状況とみた。
では、誰が何処からきたのか?考古学の資料からは、特定の地域が限定できない。
となれば、卑弥呼の邪馬台国は、北部九州のどこかではないかと思われる。 纒向遺跡を目の当たりに見てきた人の見解
坂靖・著『ヤマト王権の古代学―「おおやまと」の王から倭国の王へ』(2020/2/5)
著者の坂氏は奈良県立橿原考古学研究所付属博物館の学芸課長を経て、現在、奈良県地域振興部文化財保存課の主幹という、
現役の奈良県の考古学者でありながら、邪馬台国北部九州説の立場をとっています。
(中略)
「ヤマト王権は、布留式期に日本列島各地に強い影響力を行使することをはじめたのであって、
初期のヤマト王権の版図は、きわめて限定されていたとみるべきである。
・・・弥生時代中期から後期の近畿地方においては、中国との直接交渉を示す資料がほとんど知られていない。
楽浪形土器は北部九州に集中し、松江市以東にはまったく認められない。
邪馬台国の時代、すなわち庄内式期においても、魏と交渉し、西日本一帯に影響力をおよぼしたような存在が、奈良盆地にはみあたらない。
邪馬台国の所在地の第一候補とされる纏向遺跡の庄内式期の遺跡の規模は貧弱であり、魏との交渉にかかわる遺物がない。
さらに女王卑弥呼の居所は、出入りするものは男子が一人いただけであり、そこに宮室・楼観・城柵が厳かに設けられ、
常に人がいて、兵が守衛するような場所であったと記されるが、纏向遺跡にはそのような場所を認めることはできない。」 >>470
霊的シャーマンであった女王卑弥呼は
ギフハフによる襲来と滅亡を予見していた
大量に朝貢した背景には少しでもそれを
食い止める意図があった
なので魏から使節が来るとなったとき
「この国の場所を決して悟られてはならない」
と先導役の海人にきつく申し伝えた
とかね 畿内説はこのように身勝手な解釈とこじつけで成り立っています
471 名前:ウィズコロナの名無しさん[sage] 投稿日:2023/07/02(日) 14:42:08.90 ID:yUIPMQIy0
>>459
古墳の埴輪が殉葬の痕跡 やはり「ヤマト」の語源は「山門」という方が多いですね
奈良文化財研究所名誉研究員の狩野久氏は、邪馬台国は本来「崇敬な山の入り口」の意味の
「山(やま)門(と)」だとする説を紹介し「邪馬台国が九州にあった可能性は高い」
との見解を示した。 箕子朝鮮の始まりは紀元前11世紀
高句麗の始まりは紀元前1世紀
縄文文明の始まりは紀元前150世紀 中韓にも石器時代あるから
中国はなんだったら北京原人いるし >>476
埴輪が殉葬者の代わりだったことは古事記や日本書紀に出てくる割と有名な話
このように九州説は基礎的な日本史の知識にも欠ける >>477
巫女女王の山門ならヤマト政権に滅ぼされてたよ >>482
箸墓に殉葬者の代わりとされる人物埴輪はないよ
これは卑弥呼の墓だったとしても不思議じゃないなあ >>458
つまり神武からは大和にいたと認めるんだな? >>484
神武は卑弥呼と同じかそれより数世代後の人物って説がある
まぁ、あんなに長生きな訳ないからね 神武とか言い出すと頭おかしいと思われるからやめたほうが良いよ 神話だけどモデルになった人物はいても変じゃないと思う >>462
石室とかナシで棺をそのまま土に埋めて冢を造っていれば
表面に葺石をしても「棺有りて槨なし。土で封じ冢を作る。」に変わりは無い >>484
少なくとも、日本書記を完成させた大和朝廷と唐から招いた学者はそう書いてる 倭王武「使持節 都督倭・百済・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓七国諸軍事 安東大将軍 倭国王」
上表文「東征毛人五十五國,西服眾夷六十六國,渡平海北九十五國」 日本人の「完成」は古墳時代だった?
https://www.asahi.com/sp/articles/ASP9K55ZJP9JULBJ00Z.html
金沢大や鳥取大などの国際研究チームが18日、米科学誌サイエンス・アドバンシズに発表 大陸からの渡来の波は、古墳時代を通じて断続的に押し寄せたが、それは中央政権の支配が拡大するにつれて、農耕が全国的に普及したためである。
このように渡来形質をもつ農民集団が本土の広い範囲に進出したからといって、古墳人の地域差が縮まったわけではない。
大陸要素の濃度という点からみれば、古墳人の地域差はむしろ拡大している。したがって、古墳人の特徴も、地域を無視して一概には論じられないが、
大ざっぱにいうと、大半の古墳人は現代日本人に類似する特徴を多かれ少なかれもっている。
百々幸雄らは、頭蓋小変異の出現頻度によって、縄文人・渡来系弥生人・古墳人・歴史時代日本人に分割され、現代人の特徴は古墳時代まで遡れると結論している。これらの特徴はすべて大陸に由来するものである。
各地の古墳時代男性頭骨の弥生・縄文判別関数値
(池田次郎・京都大学名誉教授による)
+2.12…畿内
+1.47…南近畿
+1.08…四国
+0.76…東中国・西近畿
+0.70…西中国・北東九州
+0.51…関東・南東北
+0.40…北陸
-0.87…南九州・西九州
※+は弥生(朝鮮)側、-は縄文(アイヌ)側 筑紫城はぽっと出て消えた編者が想像で書いた勝手な造語
そういうところはあったけどそういうものだと分かるよう書いていたのが
勝手な想像完全な捏造に劣化した
後漢三国時代から中国人の質がだんだん下がってる 結局は文書だけでは証拠にならない。その書いた時代の都合が優先される。文書とそれを裏付ける遺跡がでてきて初めて歴史的事実と認定できる。
そういう意味では日本書紀(文書)に対応する遺跡は続々と出てくるので思ってる以上に信憑性が高い。 >>496
『日本書紀』って
『北斉書』・『梁書』・『陳書』・『隋書』・『周書』・『晋書』を一気に編纂した唐の学者を
大和朝廷に招いて編纂したものだからねぇ >>495
神武の前に32代続いたって時点で、人類史に挑むようなレベルのお伽話だからな
単なる記紀の拡張ネタだよ >>473
>>474
纒向遺跡ほか大和地域で遺跡掘りまくった人たちが口を揃えて邪馬台国の痕跡ないと言いきってるもんな >>497
唐の学者も加えただけ。だから卑弥呼の条項も存在するがそれは日本の記録では神功皇后摂政の時代のことであると正確に記載されている。
今回の発見はその正確性を裏付けた。魏志倭人伝の誤謬性が明確になってきた。外国のガイドブックが正確な訳がないなんてのは当たり前w >>498
一応神武天皇が初代という設定なんだが
どこの国の話をしているんだ あとムーとかに特集組んで欲しいのは
橿原神宮のとこの神武天皇陵は
本当は饒速日だった!?みたいなやつね
中の人ちゃんと仕事しろよ そうなると当然だけど神武天皇的な人は
大山古墳てことになるよね
そこと西都原古墳がリンクします >>501
新唐書、筑紫城を信じてるやつは、神武天皇の前に32代が筑紫城いたと信じている
まず間違いなく、文字が存在していないと遡れない時間 そんな、附隋國が書いた文章
誰が信用すんのwwww 仮に邪馬台国が滋賀にあったとしたら
魏志倭人伝に琵琶湖の記載があったはず >>504
九州説の柳田康雄國學院大學教授も
福岡の糸島市の三雲・井原遺跡や平原遺跡
佐賀の吉野ヶ里遺跡
北部九州の鏡やすずりなどの出土品
が
57年からの漢委奴国王(筑紫城)のモノなのか
238年からの親魏倭王(邪馬台国)のモノなのか
年代論の解決が決定的な課題だっつってるんだけど >>504
なるほど
九州説はそこまで拗らせてたのか >>509
>57年からの漢委奴国王(筑紫城)のモノなのか
>238年からの親魏倭王(邪馬台国)のモノなのか
わずか181年間に32代も代替わりするわけないだろ >>500
そうかぁ?
『北斉書』・『梁書』・『陳書』・『隋書』・『周書』・『晋書』は
すべてをチェックする尚書左僕射(尚書省長官、筆頭宰相)・監修国史の元に編纂されている
大和朝廷が招いた唐の学者は『日本書紀』を編纂するにあたり
口伝の大和朝廷の言うことより、中国の史書のほうを優先したと思うぞ
ことあるごとに「いやそれは、史書の話しと違う」って言われて 漢鏡も魏鏡も出ない時点で畿内が邪馬台国ってことは無いだろ 特に、史書にハッキリ書かれている
建武中元二年(57)、倭の奴国が貢を奉り朝賀した。使者は自ら大夫と称した。倭国の最南端にある。光武帝は印綬を賜った。
安帝永初元年(107)、倭国王の帥升等が百六十人の捕虜を献じ、参内して天子にお目にかかることを願い出た。
建安9年(204年)に公孫康が楽浪郡の屯有県以南の荒地を分けて帯方郡と為した。この後、倭と韓はついに帯方郡に属した。
『宋書』倭国伝(502年)の倭の五王
なんて、唐の学者は日本書記にも記載していただろうし
『隋書』に
遣隋使を派遣した大和政権のことを【「邪靡堆」を都としており魏志の邪馬臺である】と書いたぐらいだから
もちろん、邪馬台国の話も記載していただろう >>509
天之御中から彦瀲までの32代が筑紫城にいて、彦瀲の子供の神武が大和に移ったと言うのが新唐書の概要
倭奴国王が居ましたなんてショボいレベルの話ではない
自言初主號天御中主 至彥瀲 凡三十二世 皆以尊爲號 居築紫城
こんな与太話だけど、中国の史書だから!と言うだけで、何も証拠も見つかってないのに真に受けるアホ でもそれは、大和朝廷が望む歴史では無かった
そこで大和朝廷は同時進行で「古事記」を書きだした
そして唐の学者が「日本書紀」を完成させて帰国した後に
「古事記」にそって「日本書紀」を差し替えた
だから、後から書きだした「古事記」のほうが完成した年が早く
先に書いていた「日本書紀」は「古事記」より送れて完成している
その部分が
巻1―13
天地開闢から、中国の『宋書』・『梁書』に記される「倭の五王」中の倭王興に比定されている安康天皇まで
巻22―23
遣隋使の推古天皇から
遣唐使の舒明天皇まで
巻28-29
古代日本最大の内乱である壬申の乱 >>515
天之御中から彦瀲までの32代が筑紫城にいて、彦瀲の子供の神武が大和に移った
と言うのは、
712年に完成した古事記
720年に完成した日本書紀
の概要
宋(960年 - 1127年)が1060年に完成した新唐書は
それを引用しただけ 新唐書に書かれているように
まさしく「その国王が自ら言うには」なんだよ >>517
古事記にも日本書紀にもそんなことは一切書いていない >>520
筑紫城に32代いたなんてどこにも書いてない ちなみに大和朝廷が
712年に完成した古事記
720年に完成した日本書紀
で
神武東征…つまり
天之御中から彦瀲までの32代が筑紫城にいて、彦瀲の子供の神武が大和に移った
と言うストーリーを書き上げ、
1060年に完成した新唐書で宋(960年 - 1127年)が合意する
前の、中国の認識は
636年に完成した隋書
日出ずる所の天子、書を日没する所の天子に致す。恙なきや。という国書を持ってきた日本は「邪靡堆」を都としており魏志の邪馬臺である
後晋(936年- 946年)の時代945年に書かれた『旧唐書』
日本国は倭国の別種である。
その国は日の出る所に近いので、日本という名称を国号としている。
つまり、大和朝廷は邪馬台国 何か資料(史料)があると、その解釈を一意に確定させてしまうのは、歴史学者や考古学者()の悪い癖だな とりあえず邪馬台国=伊勢が確定したら
路頭に迷うのは九州説というのは分かった
どうすんだいー? まずね「朝貢」というのがキーワードです
倭国や邪馬台国が普通にやってたことを
そしてそれによって中国様の歴史書に
きちんと記されていたことが
なぜかぷっつり途絶えた←コレ >>133にチラッと書きました
でも結果的にその系統は途絶え
継体天皇が「越前」からやって来た
そこでまた元の系統に戻ったてことです 邪馬台国亡き後、新興大和朝廷は
新羅という国を執拗に攻撃します
何があったのか?ずっと不思議でしたが
大和朝廷の武力(鉄器)を前にして
泣く泣く?国を譲ったはずの出雲が
新羅と親密な関係にあった
というところにヒントがあった >>530
単に百済と組んでたからだよ
当時は百済の方が圧倒的だったからな >>531
それは高天原だし、やっぱり32代も続いたとはならん
筑紫城は九州説を拗らせたやつの寝言 >>533
ずーーっと九州を拠点にしてたことに変わりは無い
そもそも
天之御中から彦瀲まで九州の倭奴國
彦瀲の子供の神武が東征して奈良の邪馬台国を制圧
邪馬台国のあった場所に大和政権を樹立して
天皇となって現在に至る
日本は「万世一系」
で、朝鮮人や中国人が悔しがって
いや邪馬台国は九州にあったから
日本は「万世一系」では無い
と言い出したのが九州説だからな >>512
自国のことはチェックできてもいったこともない辺境の地のことをどうしてチェックするw
こんなの書き放題。王が気に入るように書けばチェックスルー。
遺跡の裏付けに勝るものはない。 >>534
ちゃんとお薬のんだか?
筑紫城なんか、何一つ物証もない空想上の産物 >>532
神功皇后:4世紀後半頃
百済:4世紀前半? - 660年(7世紀半ば)
百済の全盛期はいつですか?
日本と新羅が険悪な関係になった所に
流入してきたのが百済系の渡来人です >>534
筑紫城を持ち出す畿内説とか始めてみたわ
かなり胡散臭いけど 神武とヤマタイを繋げたい馬鹿がスレを荒してる
邪魔だ
九州なのはほぼ確定だが神話持ち出すと意味不明になるからな >>540
国史が神話ベースに語られてるんだから
仕方なくない?w >>543
福岡、佐賀、大分、あるいは熊本のどこか >>543
あらら
福岡説なら神功皇后スルー出来ないじゃん
卑弥呼か台与と言われてるのに >>542
その中でも明らかあり得ないのと他国の文献や物証から事実に基づいてそうなのは分けて考える
常識だろ
妄想で語るなら誰でも出来るんだよ >>544
佐賀はハズレだった
九州中部以降は海が主な交通手段だったこと、大陸と関係してたことから厳しい
よって福岡の南部?辺りと思われる
>>545
また妄想かよ・・・
時代が違うだろ明らかに ああ、皇后が居たってのが事実と仮定しての話な
いたって言ってんのは変な奴で今のところは疑わしいってのが常識になってる >>547
別にその他に有力な候補があるわけでもないし、吉野ヶ里以外の佐賀でもええんやで >>540
その神話が造られた奈良時代
・中央集権国家が確立したのに、なぜな九州だけ納税先は平城京ではなく太宰府
・記紀で「天皇の祖は九州から来たんだぞ(ドヤ顔)」とアピール
・道鏡事件で皇位継承に関わる神託を受けたのは九州の宇佐八幡宮
東遷があってもなくても、九州に何か意味があったんだと思うし
それが卑弥呼だったとしても矛盾はない >>550
普通に別勢力が畿内で隆盛したってだけ
何で無理やり引っ付けようとしてんの >>546
仮に神功皇后が実在しなくても
半島をやたらと攻撃していたのは
あちらの史料にも残っているのでね
当時の倭国はなんだか荒れ狂ってるよね
ここらでやっと記録に出て来くる↓
倭新羅任那加羅秦韓慕韓六国諸軍事
413年から478年まで、倭国の倭の五王は、東晋と宋に朝貢し、朝鮮半島南部での倭国の支配権の国際的承認を求めた[33]。 >>552
百済本紀見たらもっと前から倭人襲来しまくってるよ >>549
有力な候補地は朝倉、久留米、八女あたりだろう
吉野ヶ里から見て筑後川の向こう
とくに朝倉には6重環濠の平塚川添遺跡は何か特別な意味があったとしか思えない
この辺りは鉄鏃などの武器が出土するのに、この環濠の中だけ鉄製武器が出てこない
中国の貨幣や祭事に使われた青銅器が出てきてるから、そこそこ大きなクニだったはずなのに >>552
百済と手組んで大和は南から新羅を攻めてた
そんだけの話 >>551
3つとも史実じゃん
指摘されたら何か困るの? >>553
初期の頃はせいぜい
倭寇みたいなやつだと思ってる
私が言ってるのはヤマト政権の天皇
直々レベルのこと >>557
襲来の規模までは百済本記には書いてないのだよ >>554
そのどれかかも知れないし、他かも知れない
邪馬台国がどれか?を断定できるような証拠がまだどこからも見つかってないからね >>560
断定できてるなら、こんなにいっぱい説が出てくることはない まあ神功が実在しようと何だろうと邪馬台国とは関連性ねーけどな
畿内は後から隆盛した別勢力としか言いようがない 大体、神功=トヨ?卑弥呼?とかどっからそんな妄想出てくるの >>564
まあ七支刀が実在してる以上は、神功皇后も実在してたんだろうさ >>566
それは早計だろう
七支刀のどこにも神功に贈るなんて書いてない
日本書紀には神功に贈られたと書いてあるが、書紀の記述は相当怪しい
実際、遣隋使の答礼で607年に日本に来た裴世清は書紀の記述では推古女帝のときとしているが
隋書の記述では裴世清が面会したのは倭王・多利思比孤と書いてあり男だ
つまり裴世清が来た607年が推古朝というのは誤りである
7世紀の出来事さえ誤って記録されている書紀に信が置けないのは当然だろう 41世紀に薩摩がどこにあったか分からなくなっている
「明治政府が東京にあったんだから薩摩も東京」 →これが畿内説
「パリ万博の記録によると薩摩は徳川とは別で独自に出展し、欧州各国も薩摩と徳川は別の国の認識している」 →これが九州説 >>567
史書の文言だけなら信頼性が低いが、現物が出てるのが大きい 畿内説 →「東京を発掘したら先進的なものが見つかった。ここが薩摩」
九州説 →「当時の鹿児島や佐賀では高性能の反射炉が見つかっている。佐賀からは日本最古の鉄道ミニチュアも発見された。これが東京の鉄道の原型。薩摩は九州のどこか」 >>568
その割に筑紫城には完全にだまされきってる >>567
文献と現物があって信じないというのは、漢委奴国王印を信じないのと同じ事
何でも無条件に信じるのも違うが、真偽に自分の嗜好を混ぜるのも間違い ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています