【奈良】古墳の鏡100枚超、邪馬台国の卑弥呼と関係か 専門家「邪馬台国の所在地だと考えるのは自然」「ヤマト政権への連続性が…」 ★6 [樽悶★]
レス数が1000を超えています。これ以上書き込みはできません。
14年前(2009年)に奈良県桜井市の古墳から見つかった、大量の鏡の破片を県立橿原考古学研究所が分析したところ、もとの鏡は100枚を超える数だったことがわかりました。
ひとつの古墳から100枚以上の鏡が出土した例はほかになく、専門家は邪馬台国の女王、卑弥呼と関係している可能性があるとしています。
およそ1700年前の古墳時代前期に造られた奈良県桜井市の桜井茶臼山古墳では、14年前に青銅製の鏡の破片が大量に見つかり、発掘調査を行った県立橿原考古学研究所は当時、もとの鏡の数は少なくとも81枚としていました。
研究所が鏡の破片を3次元で計測し、コンピューター上で組み合わせて復元したところ、もとの鏡の数は103枚以上だったことが新たにわかったということです。
鏡は14種類あり、最も多かったのは邪馬台国の女王、卑弥呼が中国から授かったという説もある「三角縁神獣鏡」で26枚でした。
研究所によりますと、ひとつの古墳から100枚以上の鏡が出土した例はほかにないということです。
【専門家“邪馬台国有力地”】
今回の調査について古墳時代の鏡について研究している大阪大学の福永伸哉 教授は、「出土した鏡1枚だけでも有力な首長と言えるのに優れた鏡が100枚以上納められた古墳があるとは思ってもみなかった」と考古学的に非常に価値の高い発見だとしています。
中でも「画文帯神獣鏡」と「三角縁神獣鏡」が数多く見つかっていることについて、福永教授は「邪馬台国」の女王、卑弥呼と大きく関係していると指摘しています。
「画文帯神獣鏡」は、「邪馬台国」の時代と重なる同じ奈良県桜井市にあるホケノ山古墳でも見つかっていて、卑弥呼が政治で使ったとされ、19枚も見つかったのは今回が初めてということです。
また「三角縁神獣鏡」は卑弥呼が中国から当時の日本の王と認められ「親魏倭王」となった後に使っていたとされ、26枚が出土しています。
このことから福永教授は「邪馬台国の所在地としてこのような場所がかなり有力だと考えるのは自然だと思う」と述べたうえで、「邪馬台国からヤマト政権への連続性がはっきりとたどれ、ヤマト政権の王が桜井茶臼山古墳に葬られている可能性が非常に高い」と話しています。(以下ソース)
09月07日 17時01分
https://www3.nhk.or.jp/kansai-news/20230907/2000077699.html
https://www3.nhk.or.jp/kansai-news/20230907/2000077699_20230907185154_m.jpg
★1:2023/09/10(日) 23:31:20.59
https://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1694658115/ すでに吐血下血で瀕死だった畿内説がお亡くなりになっただけ(´・ω・) 【文春】ドリル事件以来の要職、小渕優子に新たな不透明政治資金処理「ファミリー企業に1400万円超」3
2023/09/14(木)
>>1
> 2014年9月には、第2次安倍政権で重要閣僚とされる経産相に就任した。
> ところが、その直後の2014年10月.. 「小渕優子後援会」などが開催.. 支出が収入を大幅に上回るなど..「週刊新潮」が報道。
> 東京地検特捜部が捜査に乗り出し、小渕氏は経産相を辞任.. 2015年10月、小渕氏の元秘書2人には有罪判決が下された。
> 「以降、小渕氏が要職に起用されることはなかった。
ああ〜完全に安倍晋三(モリカケ利権、IR中華カジノ利権、太陽光メガソーラー利権、風力発電利権etc.. )に嵌められたわけだ
卑弥呼の里として定着してる
https
://stat.ameba.jp/user_images/20210826/18/earomania/c2/50/j/o1080081014992207765.jpg 人口が多い姓は民族によっても、地域によっても異なる。中国では王、李、張が多く、朝鮮では金、李、朴が多い。世界の約1億1000万人は李で、中国約9300万、韓国679万、ベトナム、日本に約1万人 (1966世帯) である。李は世界で最も多い姓としてギネスブックにも紹介されている。
おちんちん付いてんのか 福岡でも佐賀でも大分でも奈良でも徳島でもなんでもいいけど
殉死者100名の人骨出たら起こしてくれ
それまで寝る かつてここまで邪馬台国スレが立ち続けたことはない
吉野ヶ里の墓以降ずっとやってやがる 文字は出なかったか
漢字マニアとしてはそっちが気になる 卑弥呼はこれを知っていた可能性がある。。
其疾如風: 其の疾はやきこと風の如ごとく、其徐如林: 其の徐しずかなること林の如く、
侵掠如火: 侵掠しんりゃくすること火の如く、
不動如山: 動かざること山の如し、 邪馬台国のスレって頻繁に立つけど結局事実は何も分からないというのが結論なんだろ >>26
大陸に近い九州ではなく、関西に渡来人が多いってのは興味深いな 考古学は矮小な思考を捨てて、文化的、遺伝的な要素を考える必要がある
文化的な要素としては、魏志倭人伝に描かれる邪馬台国の風習は明らかに縄文よりであること
渡来人の習俗ではない
次に最新の遺伝的な考察から判明してる日本人の特徴を考えると
縄文人に渡来人が少しずつ入ってきて平和的に縄文人と渡来人が和合してること
ここから言えることは、弥生人は多くの縄文文化を受け継いでいること
ところが、古墳時代になって急速に大陸・朝鮮系の遺伝子が近畿地方を中心に流入して
現在でも大阪周辺や徳島香川などの瀬戸内に縄文人の遺伝子がほとんどないことを考えないといけない
邪馬台国は縄文人に渡来人がミックスした縄文文化を受け継いだ人々の国であり
畿内のヤマト王権は古墳時代に後から入ってきた渡来人を中心とした政権であるということを認識するべき
そうすると、現在の遺伝的な分布を考え合わせても
邪馬台国は縄文遺伝子を半分受け継いだ北九州に存在し、
ヤマト王権は縄文人がほとんど入らない近畿を中心に栄えた完全に別の国だという結論になる 弥生時代にあって、先進文化に抵抗した人々がいる、っていう学説が出ているよね。、
意外にも、大阪湾沿岸がその地域にあたるんだよね。
古墳時代前の古層っていうのは、まだいろいろ解明の余地があるよ。 銅鏡なんて瓦みたいにいろんな場所で大量生産できるんじゃね? 九州で何かひどい目にあった人達が命からがら奈良あたりに逃げてきてヤマト政権になったんでしょ >>29
弥生人より新しい集団の古墳渡来人が大和を作ったって説に則ればしっくりくるな
というか飛鳥時代や奈良時代に何の躊躇もなく渡来人を招き入れてたり半島に介入しまくってるのを見るとね
ちょうどこれな感じだな>>34 >>31
下戸のとか耳垢の乾湿のとか大体同じ傾向出るな 大和王権が編纂した記紀に卑弥呼の存在も邪馬台国も記されてないの
畿内説ファンタジーはモモソヒメを卑弥呼にしたり神功皇后を卑弥呼にしたりいろいろ忙しい >>34に加えて、もう一つ重要なのは家族の継承ルール
縄文人から続く元々の日本文化は男系にこだわることがなく
むしろ娘に優秀な婿を迎えて家を存続させていくスタイル
縄文文化のような小集団で家族中心に暮らしてると
ライオンなどもそうだが確実に遺伝子を継承できる娘を安全な手元において
息子の方を外敵がいる外に出して遺伝子を広くバラ撒こうとする
これは現代でも普通に行われている日本文化
息子より娘が可愛くて大切に育てる
そうした中で、忽然と異常なほど男系にこだわる集団が出現した
これこそヤマト王権が古墳時代になって大量流入した渡来人を中心とした政権であった何よりの証拠
中国人や朝鮮人王朝が男系にこだわる熱意は一般の日本人からしたら異常 >>42
ヒメヒコ制という名残は大和王権に斎王として残ったが
神事も芸も女性の役割が渡来系にレイプされて男の職になっていった 芸能を遡れば神事に辿り着きその神はストリップでヒキコモリ天照を引きずり出した
巫女であり芸の神アマノウズメ そもそも魏志倭人伝はただの
ライトノベルだぞw
ラノベを史実にする気かよwwwww >>41
ヤマトのおかしなところは全く邪馬台国時代に懐古しないところ
普通政治は革新と懐古を繰り返すがヤマトは全く邪馬台国に懐古せず
それに相応する時代をあやふやな神話で濁していてるばかり
>>42
おそらく大陸で馬に乗って略奪する盗賊集団から国に発展する文化から男系が生まれたんだろうな
ヤマトになってからだな馬を本格的に戦闘用に使うようになったのは >>46
大陸から馬賊が日本に押し寄せて縄文土人を粛清。
つまりチンギスハンが大和を築きあげたという結論に至るわけか納得 >>48
今は三重構造説やな
征服されたかどうかは知らんが 黒王号に乗った拳王侵攻隊により
大和帝国が完成した。土着の縄文土人は拳王様に降伏した。って事ですよね? 騎馬民族とは言い切らないけどな
古代中国や朝鮮半島にいた民族は騎馬民族でなくても戦闘に馬を使うのは倭人より遥かに長けていたはず 黒王号に乗った拳王と配下の拳王軍が大和を建国してるときにエジプトではサウザーが聖帝十字陵を完成させていた。ってくらいの
ファンタジーが魏志倭人伝だぜ (´・ω・`)(´・ω・`)
>>1
チョンチョ、チョンチョン、朝鮮人〜
天皇 先祖は朝鮮人〜 >>49
騎馬民族征服説は騎馬民族ゆかりの副葬品が古墳から出たことによって起こった説だったような
交易品だろjkと当時、2chの古代史板で征服説力説してたボンクラに突っ込んでた 女の地位が高かった縄文文化を継承していた国が並立してた北九州において
女王卑弥呼を立てて丸く収まるというのは普通に有り得るが
男系優位に考えてしまう渡来人たちが多数派のヤマト王権エリアで乱世に女王を立てて丸く収まるというのは有り得ない
紀元前から続くであろう古い信仰である宗像三女神が北九州であるというのも偶然ではないでしょう
こうした根本的な文化の違いを考えることができない考古学者たちはアホの集まり 神話が淡路島から始まるのも渡来人然としてるよな
土着の民なら間違いなく本州から創造するだろ 宗像三女神は海神として有名だが
韓国の済州島も海神を祀ってる
そこの神話には済州島の三人の王子に嫁いだ三人の倭の姫の存在が記されてる
はてさて面白い偶然もあるものだな? 宗像三女神は神の贄として海に流された三姫だった
その姫たちは済州島に流れ着き王子と結婚してめでたく暮らしましたとさ 南九州の民を熊襲
東日本の民を東夷
なんて呼んでおきながら朝鮮半島とは懇意にしてるヤマトって一体どんなやつらなんだろうな 加古川警察署事件受理番号令和5年100963
詐欺証拠
https://kansaihanji.up.seesaa.net/image/E4BA8BE4BBB6E794B27E8A990E6ACBAE7AB8BE8A8BCE382B3E383A1E383B3E38388E4BB98E3818D-4bc08.pdf
https://carcreatehiro.seesaa.net/article/500257228.html ビッグモーターを超える詐欺 加古川警察署事件受理番号令和5年100963
飽きたホ平
壌
地獄の責
死んたのか?
詐欺 証拠
絶賛拡散中
加古川警察署事件受理番号
令和5年100963
そこもあそこもあっちもそっちも
ヒソヒソ
後ろ指
夜逃げしかない
おもろ詐欺 証拠
絶賛拡散中
加古川警察署事件受理番号
令和5年100963
そこもあそこもあっちもそっちも
ヒソヒソ
後ろ指
夜逃げしかない
おもろ加古川無法地帯
やりたい放題
地獄の責
おもろ!飽きたホ平
壌
地獄の責
死んたのか?
詐欺 証拠
絶賛拡散中
加古川警察署事件受理番号
令和5年100963
そこもあそこもあっちもそっちも
ヒソヒソ
後ろ指
夜逃げしかない
おもろ詐欺 証拠
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加古川警察署事件受理番号
令和5年100963
そこもあそこもあっちもそっちも
ヒソヒソ
後ろ指
夜逃げしかない
おもろ加古川無法地帯
やりたい放題
地獄の責
おもろ! >>62
恭順したのは日向隼人で阿多は度々反乱起こしてたはず
熊襲も隼人と同種だと言われてるがどうなんだろな >>64
天孫降臨の地は宮崎県と鹿児島県の二つある
これは何もおかしなことではなくてそれぞれの地を征服するために作った話だから二つある
そしてそれぞれに服従したものが隼人となった
まあ最果ての地だから手抜きして度々反乱されたんでしょ なぜかいつも
○○が大量に見つかった・大規模な遺跡 → 邪馬台国 に結び付けがち >>60
"東夷"は中華思想のパクリだからな
かつてはエミシは愛彌詩と書いた
律令制から蝦夷という蔑視語が生み出された >>51
中国や朝鮮半島は騎馬民族地帯じゃない
もっと北方 騎馬民族自体は地球上どこでも来てんだけど
それと戦後の朝鮮媚び媚び論を合体させたのが
騎馬民族征服王朝説
この説が否定されても騎馬民族自体が否定されるわけじゃない >>68
中華思想を丸パクリしたからな
そもそも中国から日本が東夷と見られてたのにw
>>69
いや民族そのものが騎馬民族である必要はないってこと
戦闘集団がある程度馬をウマく扱えればいい
三国志でも騎馬民族が参戦してるし漢民族にもその技術はある程度伝播してるはず 阿多隼人と言えば神阿多都比売(ニニギの嫁のコノハナサクヤヒメの別名のほうが有名
日本書紀でも古事記でも本名にアタが入るが何故本名を隠して別名を有名にしたのか日本の闇を感じる >>71
騎馬民は中国や朝鮮からではなく
直接騎馬の本場のシベリアから来てるので
朝鮮を経由する必要はないよ 一部の少数民族を除き大陸では大弓が廃れた。駆逐された
なぜ日本に大弓が残ってるのか?
征服されてないからさ
日本の大弓族は大陸の支配を受けることなく現在に至る >>76
別にどの民族だったかとか断定してない
むしろシベリアから直接と断定出来る論拠を聞きたいわ
ただ馬が果たした役割はデカかったしそれが外来勢力であった可能性が相当程度に高いという話だ
と言うか馬✕鉄の組み合わせが劇的に飛躍している >>55
宗像の祖は、隠岐にいた、出雲王の息子
隠岐が一大国で、壱岐は一大国の支国 >>78
いやあのシベリアが大体なんで
人類のルートがそうだから
中国や朝鮮にもシベリアからたくさん来てるだろ
インドやヒマラヤから来てると思ってんの?
山登ったり降りたりして?
ヒマラヤンアイベックスかよ 邪馬台国に関連する学者はもう感情論で動いていて役たたずばかりだな。 シベリアと言うと怒り出す中韓信者が苦手
なんのコンプレックスに触れるんだろ もう、
狗奴国・男王「卑弥弓呼」は
九州筑紫城・綿津見
邪馬台国・女王「卑弥呼」は
出雲を併合した畿内熊野・天照大神
で決まり もう、
狗奴国・男王「卑弥弓呼」は
九州筑紫城・綿津見
邪馬台国・女王「卑弥呼」は
出雲を併合した畿内熊野・天照大神
で決まり
どちらも父はイザナギで男系だけど、母が違う異母兄妹 シベリアから来てると言うてる人はあれか
バイカル湖起源説 >>81>>83
何言ってんだこいつ
シベリアから米が入って来たのか?w >>86
そこが起源とは言ってないけど
新モンゴロイドってどっから来たか知ってる?
そもそもなんで黄色人種がいるか分かってない奴がいる
そんな政治的なことは言ってない
当たり前のことがわからないのは厳しい 松浦の北東に糸島があるのに、末盧国の東南陸行五百里で伊都国
糸島の北東に博多があるのに、伊都国の東南百里で奴国
魏志倭人伝の方角はおかしい 寒冷適応した結果の外見なんだから
寒冷地から来たに決まってる
怒る理由がわからん >>88
新モンゴロイドって確かカビの生えた古い概念じゃなかったか? 寒冷適応するわけないじゃんバカ
アイヌが寒冷適応するの何時だよwww 何かすげえ馬鹿なやつ現れたな
騎馬民族はステップ気候の草原で発生した文化なんだが
それを人種と結び付けだしたぞw 元々寒冷地に強い人種がそこで生き残っただけだろうに
寒冷適応とかあほすぐる
昔にそういう論があったのは知ってるが >>93
アイヌは南方からだよ
ユーラシアから来た者は北方だ
北方を出すと狂うやつはなんなのか
キチガイでは
あんた方中国や朝鮮もどっかから来たんだが
頭大丈夫かよ韓流オタは >>97
はあ?
シベリアとモンゴル高原が一緒?
華南平野が一緒?
頭大丈夫かこいつwww もう、
狗奴国・男王「卑弥弓呼」は
九州倭奴國・綿津見
邪馬台国・女王「卑弥呼」は
出雲を併合した畿内熊野・天照大神
で決まり
どちらも父はイザナギで男系だけど、母が違う異母兄妹
ちなみに
中国が、漢委奴国王のイザナギの子の兄妹を、
卑弥弓呼、卑弥呼と呼んだのでそれ以降
自分より後の世代の親族のことを卑族と言うようになった 中韓系が北方民族を蔑視してるのはわかるが
かと言って東南アジアも差別してるし
自己矛盾の化け物だな
病んでる >>98
華南平野ってなに?
マイナーなもん混ぜないで
カナンって中東?
シベリアとモンゴル高原が同じってなんだ?
違うに決まってんじゃん
シベリアから来たの
駄目だこりゃ >>96
ああなんだネタで遊んでるだけか
つんでもないキチガイかと思ったわ >>101
まあそういうのもいるな
遊牧民の始まりはコーカソイドっぽい
別にコーカソイド形質も日本の北方に来てると思うが
ワガママ言って暴れてるのはそっちだろ 魏志倭人伝を全文読む限り、邪馬台国は九州にあるとしか思えないのだが。九州に比定される地名が出てくるし。 >>103
いや発狂者に同レベルで相手してるだけで
極めて無知で偏った連中だと思ってるよ >>103
どう見てもキチガイでしょ
どういう思考してるのかさっぱり分からんw >>107
だからなに言ってんだ
そんなもんお前以外このスレ全員しってるわ >>108
黙れ差別主義者
北方から来る話をすると暴れるお前がキチガイ >>106
突厥もフン族も知らずによういうわ
古臭いネタで回転してるのは分かるが流石にネタでしかない >>110
いやおまえ全くルート説明してないだろ
そんで米はどこから来たんだよ?
おまえ米食ってないのか? >>111
お前が俺より知ってるわけないだろ
俺の話はトルコ学では常識だからな
メテハンも知らん無知な中華論者にオグズとかわかるはずない >>112
お前米なのか?
人間なんで食糧草の移動なんて知らん >>113
キチガイのフリしてないわ
一番の侮辱やw >>116
人間が持ち込んだんだけどそこから言わないと分からないのかな?キチガイくん
でどこから持ち込まれたと思うかな?キチガイくん >>42
その男系を示すY染色体はどういうわけか縄文固有の系統がDだけで4割近く、他を含めて7割が縄文由来なんだがw >>115
ていうかお前九州説信者とかいう荒らしじゃないの?
どっちでもいい立場だけど
九州説側にキチガイいるのは知ってるぞ
なんの目的?なんの集団? >>115
分からん茶々入れたいだけじゃねえか?
俺もネタぶち込んで遊ぶこともあるが
奴はネタの練り込みが足りないのですぐに破綻してまう
下地の知識が圧倒的に不足してるわ >>118
はいはい
なんで日本人をジャップと呼びながら九州説推してるの?
九州の人にも失礼じゃね >>1
三角縁神獣鏡見つかったなら邪馬台国確定だな
九州では三角縁神獣鏡ほとんど見つかってないらしいし
これこそ九州に邪馬台国がない証拠だよ >>121
オグズとメテハンわかったか?
中国史学者がトルコ語るのは百年早いよ >>124
知ってるで古代のシベリアにいたんやろ! >>125
関係ないし似てない
それ言い出したら日本人もみんな似てるわ >>126
おらんわ!
ああいたかも
メテハンは中国史では冒頓単于だ >>121
いやガチで自己矛盾と戦ってるヤツで
それに刺さるようなレス見ると自分のこと言われてる気になって発狂してんじゃないかなこれ
何かヤバい臭いするわw >>129
もうお前正体割れただろ
>>130
へえそうなん
トルコ系ならなんでもいいよ
モンゴル系でも
神話では狼なんで >>131
何と戦ってんだこいつw
ヤバい事件起こしそうだな >>131
トルコ系だと誰が決めた?
匈奴にレイプされて産まれた単于がさあ >>017
祇園山は方墳で魏志倭人伝記述の
徑百歩は円墳、前方後円墳とは
違ってるというのが従来の定説だが
これは幕末明治時代以降の早トチリ
俺は「徑」が直径だとは考えてない
>>027
マッカーサーのM資金 そもそも卑弥呼なんて架空の人物だし
魏志倭人伝はファンタジーだって認めろよアホ共
実在したと信じたいやつは
TOLAND VLOGでも観てろよw >>132
荒らしだろこいつ
>>133
うわヤバ
レxプとか言い出した
こいつもやばいわ
お前らみたいなクズがネットをどうこう出来ると思うなよ?
お前らみたいなクズは例え匿名のネットでも居場所が無いと覚えておけ
差別主義者たち >>136
お前の願望を論破してすまんな
単于はトルコ系じゃないんだ >>138
匈奴なんでトルコとか無い
こいつはトルコ神話の神がモンゴルのそれと同じことを知らんだけ
お前みたいに他民族の神をレイパー扱いするゴミに
物言う資格は無い
荒らしに誘われて悪党化かじいさん >>138
祖先がオオカミなら何でもいいらしいぞwww >>141
まだいたのか
お前ら二人しかしゃべってないぞ
自作自演すんな オレの新説o(`・ω´・+o) ドヤァ…!
卑弥呼=日出処の天子
日出処の神子の略称が卑弥呼
つまり卑弥呼は女ではなく天の子
天=神
天の子=神の子=神の血を受け継いだ初代天皇=神武天皇 >>140
なんやウリナラファンタジーの類か
そら匈奴がトルコ系も飲み込んでるから神話も飲み込んだだけだな
>>141
犬祖神話が変形して狼になったという説もあるんだよなあ >>144
飲み込んでるんじゃない
時代が全然違う
匈奴の方が古い
ボロ出したな。知識がバラバラの出まかせ >>56
淡路島に弥生時代の鉄鍛冶遺跡が見付かったらしい
天孫族による日本侵略の最初の拠点だったのかもね。 深夜に二時間も他人攻撃して暇なのか高齢者
恥ずかしくないのこんなことばっかやってて
俺今朝も普通に仕事だよ
昔からネットなんかいじるから朝も昼もないだけで >>145
中央アジアには幅広く犬祖伝説がある
狼はそれが変化したもんにすぎないのだよなあ >>143
卑弥呼=日出処の天の子=神武天皇
であるならば出生地は九州
邪馬台国は九州であり
邪馬台国を模倣して奈良に大和を建国
結論出たな 日本史の専門家は中国朝鮮の専門家が多くて騎馬民族を理解してない
騎馬民族というのはモンゴル高原のような天然の豊穣な草場にあって騎馬だけで生きていける狩猟系部族のこと
家畜業だが養豚などは蔑視してる
農業もやらない豚も飼わない、理由は"ダサいから"という自尊心の固まり
食糧は放牧で全栄養素が賄えるので普段はほぼ働かない
だが外貨や別の作物も欲しいので、農業は奴隷を集めてやらせる
戦闘と自由に特化した集団
これ日本の武士にそっくり 中央アジアに広く分布する犬祖
ヨーロッパには皆無な犬祖
トルコの犬祖がどこから伝わったのか分かりやすいあるね >>105
そう、魏志倭人伝には畿内を匂わせる記述は一つもないよね、なのて畿内説はまず最初に倭人伝の曲解から始まる、あとはひたすら箸墓を卑弥呼に合うように解釈するだけ、終いには桃の種が出れば卑弥呼が使っていたことにしようという恣意的な解釈までするようになる、史料検証にも考古学にも非常に不誠実なんだよな 三角縁神獣鏡は5世紀後半以降の銅鏡だから邪馬台国や卑弥呼とはほぼ関係ないだろ そもそもヤマト王権というものからして、
九州出身の海賊ジンムを取り込んだ、藤原氏による創作
瀬戸内海でワンピースやってた時代があったんだよ 九州で山林の樹木を切り倒して
ハゲ山しか無くなったので
煮炊きに使う樹木が無くなって
九州族の民族大移動
卑弥呼を血祭に挙げたのが神武こと崇神 【兵庫】ランニング中の少女の尻触り 5分後再び遭遇し胸触ったか 19歳大学生の男を逮捕(2023/09/02
>>9 >>1
そんなのとか盗撮とか ホモ愛人(枕営業)ジャニタレ変態趣味[LGBT]糾弾騒ぎ(のアベ百田産経朝鮮糞マズゴミカス)とかより、
アベトモ山口敬之(朝鮮名不詳)とかアベトプロレス山本太郎(〃)みたいな強姦犯外人を先に捕まえろよアベ創価警察や司法は 特別企画展『よみがえる邪馬台国』〜倭人伝のクニを探るX〜 佐賀・吉野ヶ里遺跡 ★2(2023.8.30
/newsplus/1693406204
>>1
儒教徳川トクチョン朝鮮人[反日主義者]連が始めた、奈良福岡二者択一ヤマタイコク論争が江戸時代当時
から何も変わらないのは、奴らがわざとそうしているから(当たり前)w news.yahoo.co.jp/articles/0e1c2cfd5d3b8e42a1574569e66b327583409ad9
www.chosunonline.com/site/data/html_dir/2023/08/29/2023082980041.html
関東大震災100年:「不逞鮮人が放火」…フェイクニュースに加担した文豪・芥川竜之介
2023/08/30
関東大震災が起きた翌月に芥川が書いたエッセー「大正十二年九月一日の大震に際して」は、彼が朝鮮人に関する流言飛語をどれほど信頼していたかを示す。小説家の菊池寛(1888−1948)との対話を取り上げた一文で芥川は、自分は「(関東大震災のときの)大火の原因は不逞(ふてい)鮮人(日本の支配に従わない不穏な朝鮮人)の放火だ、ボルシェビキ(極端な共産主義)の手先だ」と信じていたが、菊池寛から「嘘(うそ)だ」と一喝された、と記した。さらに芥川は「野蛮なる菊池寛は(私の話を)信じもしなければ信じる真似(まね)もしない。これは完全に善良なる市民の資格を放棄したと見るべきである。善良なる市民たると同時に勇敢なる自警団の一員たる僕は菊池の為に惜をしまざるを得ない」とつづった。明示的に書きはしなかったが、朝鮮人に関する流言飛語を「信じる真似」でもしてこそ善良なる市民だとの暗示が込められている。
上記の一文にも記したように、芥川は関東大震災当時、自警団の活動に参加した。ただし、自警団の活動が朝鮮人虐殺への関与を意味するものではない。週刊朝日は、昨年9月の「文豪たちの関東大震災」という記事で「芥川も菊池も永井荷風も、多くの文豪が夜警活動についていた」と記した。大震災の混乱した状況の中、まちを守る活動に参加したという意味だ。それほどまでに、自警団の活動には幅広い人が参加し、文豪たちですら朝鮮人暴動説をある程度信じていた−と週刊朝日は伝えた。
========
「関東大震災、朝鮮人が毒を入れようとしたのはデマではなく事実」は誤り(2023.9.8 / 日本ファクトチェックセンター
/newsplus/1694307366
>>9 >>1
芥川(自警団活動にも参加した)が信じたことは事実だったと思うけどね。つまり↑ がフェイクニュース 桃は中国の戦国時代から魔除けに
効果が有ると信じられてきた
西王母の誕生日には桃で祝った
桃符は陰暦の元旦に門にかかげる魔除 (まよけ) の
札。 桃の木の板に百鬼を虎に食わせるという
二柱の門神の像や吉祥の文字を書いた。
中国系シンガポール人やマレーシア人は
現代でも陰暦の正月に厄除けとして
飾り付ける。 >>160
芥川龍之介は統合失調症だったからね
つまり毒を盛られているというデムパを受信した連中が日本人や朝鮮人に襲いかかったんだよ >>65
天孫降臨神話は大隅の曾君を狙い撃ちしたもの
宮崎は後世の後付けだって過去の邪馬台国スレで教えてもらった 倭迹迹日百襲姫命は100%卑弥呼ではない
卑弥呼である可能性は0
理由1
倭国大乱の後に複数の国から女王として共立されたことを示すエピソードがない。
理由2
魏に使者を送り金印等を得たことを示すエピソードがない。
卑弥呼と倭迹迹日百襲姫命の共通点は
優秀な巫女だったという1点しかない 卑弥呼、男王、台与更にその後の時代の古墳なんだけどな
崇神天皇の時代の前で開化天皇の時代の辺り
宮が春日にあったり、欝色雄命など穂積氏の祖先の物部が活躍した時代
藤白の鈴木さまも関係するのかな
この時代辺りから記紀では白い動物が吉兆として描かれている 奈良だろ 昔は奈良湖があって古墳の前ぐらいまでは湖で更に大阪湾に繋がってる
九州にも拠点あっただろうが当然大陸との懸け橋になるので貿易軍事拠点だろ 九州 >>156
古代からワンピースあったんだ その名残が村上水軍??? >>166
あったね
邪馬台国九州説の根拠の一つだね >>168
弥生時代には湖じゃなくて川の多い低湿地だったと思うよ 自称、三角縁神獣鏡の専門家が多すぎるな
あの鏡に不審な点は唯一つだけ
中国から出土していないことだけ
それとて、未発掘なだけと言われればそれまでのことだし >>143
つまり神武は三世紀の人物だったということでよろしいか? >>56
日本書紀では大日本豊秋津洲が最初みたいよ >>172
畿内出土の銅鏡は国産コピー品だともう明らかになりました
> 一方の国産説も決め手に欠けたが、1年前、画期的な新説が現れた。昨年この欄で紹介した「国宝・金印論争」にも登場願った鈴木勉・工芸文化研究所所長の著書
> 「三角縁神獣鏡・同笵(どうはん)(型)鏡論の向こうに」(雄山閣)である。
> 鈴木氏は金工や金石学が専門。物の形や文様の変化を追う考古学とは違い、実験が裏付ける製作技術の観点から製作地に迫った。
>
> 着目したのは、鋳造後の仕上げ作業。三角縁神獣鏡の文様には、三角形が連続する「鋸歯文(きょしもん)」がある。
> 鋸歯文を拡大画像で比較すると、ヤスリや砥石(といし)で磨かれるなど、種々の異なる加工痕が残っていた。
> 加工痕の違いは工房や工人、工具の違いを示すものという。
>
> そこで、黒塚古墳(奈良県天理市・33面出土)など、三角縁神獣鏡が出土した10以上の古墳を対象に加工痕を比較した。
> 結果は簡明。仕上げ加工痕は出土古墳ごとに見事にまとまっていた。
>
> 三角縁神獣鏡では同じ型の鏡が複数存在する。同笵(型)鏡と言い、別々の古墳からも見つかるが、同型同士でも加工痕は古墳によってさまざまだ。
> 一方、出土古墳が同じなら、異なる型の鏡にも同じ仕上げが施されている。つまり加工痕は鏡の型ではなく、出土古墳に規定されているのだ。
>
> 鋳造の最終工程で施される仕上げのまとまり具合から導かれる事実は明らかだ。鏡の製作地は、日本列島内の出土古墳近くということになる。
>
> その上で鈴木氏は見つかる鏡の少なさなどから、工人が各地の出土古墳近くに定住しているのではなく、大和地域に本拠を置く複数の移動型の工人集団が
> 各地の依頼で現地に出向いて製作する「出吹(でぶ)き」を想定した。
> 鋳造の最終工程で施される仕上げのまとまり具合から導かれる事実は明らかだ。鏡の製作地は、日本列島内の出土古墳近くということになる。
> 鋳造の最終工程で施される仕上げのまとまり具合から導かれる事実は明らかだ。鏡の製作地は、日本列島内の出土古墳近くということになる。 あと「国生み」に出てくる「大洲」が気になったんだけど、
島根北部の半島部分じゃないかって説があるみたいだな。
確かに「出雲風土記」では「国引き」してきた島だしな 知りたければ大抵のことは目の前のスマホなりPCが教えてくれる 九州説のソース
個人ブログや邪馬台国の怪みたいな素人同好会 >>72
地元の豪族の娘(神阿多都比売)との婚姻エピソードを全力で盛って
土着の火山神(木花咲耶姫、火闌降命)たちと親族になる話へと変えた名残りじゃないかな
彦火火出見尊の別名火折尊なんて火闌降命と兄弟にするために創った名前のように見える >>175
日本が自前の銅が手に入るのは、もっと後の奈良時代に銅鉱床がみつかってからだ
銅山がなければすべて原材料となる銅は輸入品
成分分析したところで同じ中国産の銅や青銅製を成分分析してるだけ
メイドインジャパンとでも書いてなけりゃ、日本製かどうかなんてわかるわけがない >>23
古代支那の王族違うんだろ
あいつらじゃなくて >>153
それ、支那だけ食べられたからよく分からないw 三角縁神獣鏡は、あまりに出土数が多いこと、銘文の押韻が古い音韻に基づいているものがあることなどから、少なくとも大部分が仿製鏡だという意見が強い >>34
邪馬台国が縄文を半分受け継いだってのが噴飯もの
弥生末期、古墳時代の時点で倭人は現地の縄文人を少数吸収した渡来人の種族で、縄文語と倭人語にも繋がりなどあるわけもなく
縄文語の直系はアイヌ
>>26などみを見て関西四国は弥生系で北東北南九州は縄文系などと言ってる馬鹿がよくいるが、
実際はごく狭いゲノムの差異を相対化しただけで、こいつらは全部渡来人だ
しかし倭人の王朝の成り立ちを考えるうえでこの分布は役に立つだろう
https://i.imgur.com/HzRn6xG.jpg
https://i.imgur.com/Vr3DuMS.jpg >>183
鉄鍛冶って知ってる?
不要な鉄器や鉄のインゴットを溶かして必要な鉄器を作るの。
倭人は朝鮮半島で争うように鉄を買い求めた
みたいな記録もある。
三角縁神獣鏡もそうやって作ったんたよ 百田新党(仮)改め「日本保守党」爆速でフォロワー20万人超えも大手メディアはガン無視の不思議
/newsplus/1694701283 2023/09/14(木)
日本保守党&S田新党、正式名称発表 ...保守本流」経緯明かす 有本氏「国際的な連携も模索する」
/newsplus/1694701474
>>158 >>1
この百田糞党の立ち上げが、第一アベ党公明創価、第二アベ党大阪維新、第三アベ党国みんみん(+れいわN国参政)、
第四アベ党自民アベ系(高市スガ小泉カン鳩山河野木原含む)を潰すだろうな まあ、鏡から邪馬台国のアプローチをやるんだったら、
方格規矩四神鏡の時代の見直しが先でしょう。
本当は平原遺跡の方格規矩四神鏡が
卑弥呼に贈られた銅鏡って分かってんだろう??
だからあえて時代の見直しが出来ない。 日本史板の畿内説スレより
(桜井市)教育委員会の学芸員が畿内説布教活動してたもようw
>459:日本@名無史さん:2023/09/14(木) 20:17:47.62
>玄人気取りの教育委員会の学芸員がマウント取ろうとして即撃沈されてたなw
>
>https://i.imgur.com/aWxTWGT.png 立岩遺跡(福岡県飯塚市)の甕棺に入ってた前漢鏡は数十字くらい銘文が入ってたが、「詩」なんだよな
歴史がわかるような内容が書かれていたらもっと大発見だったろうし、国産鏡であれば当時の倭に文字があった証拠にもなってたかもしれないのにな
http://inoues.net/ruins/tateiwa.html 大豪族が居たからと言って邪馬台国へ論理が跳躍するのは非論理的だろ
藤村新一と同じメンタリティー >>181
熊襲はその辺りの完全空白の歴史が欲しいから適当な事言うんだろうな
韓国と同じメンタリティ―w 倭国大乱って奈良関係ないでしょ
奈良はずっと平穏だったのに 鏡は古墳ごとに加工跡が違うことが判明して
さらに従来の舶載鏡と仿製鏡の区別があてにならずに曖昧になってしまったから
数千枚すべての鏡をあらためて調査し直して中国出土の鏡ともに研究し直さないと役に立たん >>199
畿内説の人には何故かそれが分からない
やっぱり邪馬台国は畿内にあって欲しい
という願望に引きずられているんだろうか。
あ、俺は常陸国だから邪馬台国は九州にあって欲しいという願望はない。
客観的に九州が一番有力だと思ってる 九州の内乱勝者の卑弥呼達と落ち延びた先の辺境の奈良とは関係ない >>201
???「落ち延びたのではない、東征したのだ!」 大乱のおかげで落ち延びた人達によって文化は東に伝わっただろうけど 撤退ではない、東征するのだ!
1700年後
撤退ではない、転進するのだ! 奈良に女王国なんてないんだけど
ずっと一人の王が統治してた平和な場所だったし この桜井茶臼山古墳は崇神の墓だと思うんだけど、そうしたら
崇神=神武の東征の時期がイマイチ納得できないんだよね とうほぐは、常陸と陸奥と常磐と常盤の違いが紛らわしい 崇神は実在してたけどそれ以前はあやしい
実在してないというか養子とかそういう形で継いできたのでは
だから年代が合わない
盛って記述したのもあるだろうし 卑弥呼は倭国の初期の体制に叛乱を起こした勢力に担がれ、魏に朝貢し倭王のお墨付きをもらったんだろう
倭国の旧体制側の王は狗奴国の卑弥弓呼の可能性がある
引き金は2世紀後半のミニ氷河期、食糧難だな
生き延びる為の悲劇としかいいようがない 畿内説はもっと本を読みなさい
【重要】
邪馬臺国に関する記録文献は魏志倭人伝だけではありません。
伊都国のすぐ南と書かれている文献もあるのです。
『広志』(編纂:晋の郭義恭)
広志いわく、
---東南500里で到る伊都国、又南、至る邪馬臺国--
---(このあと魏志と同様に周辺国の紹介へと続く)
伊都国:福岡西区であり倭国の守衛国
↓
又南至る
↓
邪馬臺国:吉野ヶ里、甘木・朝倉、八女など有明海と取り巻く筑紫平野に存在した小国群の総称
筑後川の遺跡群
https://i.imgur.com/oMjsFIX.jpeg
【New】2023/3/30
福岡・八女市に弥生後期の環濠集落跡 吉田・辺田ノ上遺跡 岩戸山古墳の南西
https://www.nishinippon.co.jp/item/n/1073771/ 池心に宮があった孝昭天皇のモデルは卑弥弓呼だよ
三輪山の荒魂、狭井の神のモデルも同じだろう 倭国大乱と崇神天皇まで1世紀しかない
多分神武と崇神はたいして世代開いてない
神武のひ孫くらいの関係 狗奴国はもと委奴国
委奴国が消滅した時に南の端は(狗)奴国に北の端は奴国に
金印を埋めた大倭王一族は九州から東に逃れて畿内へ
そうして大倭王が居なくなった倭国(九州)では倭国大乱が始まった
とかだと面白いけどね
文字記録がないからなんもわからん >>179
全部最近の話じゃん
卑弥呼の時代は
若杉山辰砂採掘遺跡(徳島県阿南市水井町)
伊勢国丹生(現在の三重県多気町)
大和水銀鉱山(奈良県宇陀市菟田野町)
吉野川上流 だから崇神が神武の血統というのもあやしい
傍系なんじゃないの?
途中で途絶えてたろうし二代目天皇からして大国主の血筋 >>217
松浦の丹は掘らなくても落ちてるから拾うだけ >>171
古墳~万葉集の頃は大きな湖だったのよ奈良 北側に平城京、南側に藤原 真ん中に湖 奈良湖
大倭(やまと)には 群山(むやらま)あれど、
とりよろふ 天の香具山。
登り立ち 国見をすれば、
国原は 煙立ち立つ。
海原は 鴎(かまめ)立ち立つ >>213
「炭化米」じゃなくて「炭火米」が出土してるのは他の遺跡とは何かが違うのだろうな 女王国があったのは九州でしょ
奈良に女王国などなかったしましてや卑弥呼の墓もない
その両方があるのは九州 鏡面磨きYouTuberに磨かせると
銅鏡でも一応実用レベルでピカピカになるんだっけ 漢風諡号から導かれた仮説だが
安は嫁いだ娘を表す漢字だな
孝の娘をもらったという意味の孝安の漢風諡号のモデルは卑弥呼の次の男王だろう
霊は巫女を表す漢字
孝の巫女という意味の孝霊の漢風諡号のモデルは台与だろう
元は冠を被った人の承継で、始まりとか首長を意味する漢字だ
台与の後、孝自身が姿を表して、神の世から人の世に移る体制を整えたんじゃないか
神さまたちを山の奥に逃す手配とかしたのかもな
熊野なのか東国なのか六甲の山なのか、それらの地全てにか
畿内のヒスイの勾玉が見つかった多数の集落は弥生時代末期で営みを終えている
注目は弥生時代末期に現れる熊野の阿須賀神社などかな >>223
あの辺りて卑弥呼よりももう少し古代じゃね?もしかしたら紀元前
飛鳥の巨石文化 香久山にもある 巨石文化大阪の北の方にもあるよな 3世紀くらいの奈良の土人には治水能力はなく、百済や大陸からの知恵者の渡来人を待たなければならない
それなりの人口を支えられる農耕ができるようになったのは5〜6世紀だろうな 崇神は吉備の豪族で、
広形銅剣の分布する範囲が勢力範囲。
考昭考安考霊考元辺りが祖先になる。
一方、垂仁は日向生目の豪族で、
コレが宇佐に進出後、
吉備津彦の播磨稲日大郎姫と婚姻して、
纒向に進出して景行成務と大和政権を確立した。
コレを下に日向高千穂→宇佐→吉備→大和の進出劇を創作して、
崇神と一系にするために、
考昭考安考霊考元の前に神武を持ってきたのが神武の東征。
大和の戦闘シーンはニギハヤヒの天磐船伝説からのパクリです。 三角柏みつの柏、大谷渡りという伊勢神宮の神事は興味深い
柏の葉で食事を取らないといけないような紀伊山地の大きな谷を渡る大逃避行があったのかと色々想像が膨らむ >>228
地すべりで有名な亀の瀬が崩れたんだよ 治水 氾濫するのは大阪側
その後江戸時代まで大阪大和川は大変だったみたいだが
奈良湖の周りに古代遺跡多い 奈良湖で検索 古墳的に言うと、
吉備特有の特殊器台埴輪の装飾のある箸墓が、
崇神など吉備系の王などの墓で、
外山茶臼山古墳はソレがなく、
副葬品が北部九州化しているため、
日向から邪馬台国の長官になった後に
大和に進出した景行やその子供の墓と考えられる。 3世紀の九州と奈良ではまだ奈良は発展途上国だっただろ >>165
倭迹迹日百襲姫命は、卑弥呼である。
・倭迹迹日百襲姫命は、箸墓である。
・箸墓は4段築成であり、3段築成の天皇陵よりも格上の形状である。(物的証拠)
・箸墓の形状(物的証拠)から当時の人々が倭迹迹日百襲姫命は、天皇よりも偉いと認識していたのは明らか。
・日本書記でも倭迹迹日百襲姫命は、アマテラスと同格の最高神・大物主の妻であり、明らかに天皇よりも格上である。
はい、論破 >>237
全く魏志倭人伝の卑弥呼に結びつかんなあ。 大陸からの鉄が伝わったのが最初は九州で無論発展しただろうが
卑弥呼以前に古代の肥沃な大地で大きな権力持ってたのが大和だろう
九州で急速に鉄背景に発展するが、その技術が大和に漏れるのは時間の問題
争いやって結局は九州も貿易軍事の要だしで日本的に融和したんじゃね?? >>39
百済や新羅が滅んだから移民が増えただけ。
関東平野も彼らが開拓した。 >>239
そりゃ、中国側の認識と日本側の認識が同じわけないでしょ
とにかく倭迹迹日百襲姫命は天皇よりも格上の人物だし
日本書記の中でも記述の多い最重要人物の一人 後漢時代からつづく邪馬台国時代はちょうど鉄器時代の真っただ中でした。
魏志倭人伝に倭人が「鉄のやじり」を使っている記述があり、この時代の日本には既に鉄器文化が到来していたことがわかります。
また、『3世紀の中国の歴史書「魏志東夷伝弁辰条(ぎしとういでんべんしんのじょう)」には、朝鮮半島南部の地域に鉄が多く出て、「韓、注意1(ワイ)、倭みなしたがってこれをとる。
諸市買うにみな鉄をもちい、中国の銭をもちうるがごとし」と記されています。
鉄を求めて、弥生人がさかんに朝鮮半島南部に出かけていった様子が描かれています。』
よって弥生時代の鉄器の出土量が多い地域が、当時の倭人達の経済共同体であったと見なせます。
猿でもわかる卑弥呼時代の鉄器文化圏
https://i.imgur.com/v0XeHSj.png >>241
最高神・大物主がいるのは三輪山だよ
今回の発見>>1 が凄いのは
この古墳が三輪山の真南にあり、古墳の位置的ににも日本の歴史上
最も偉大な王であったことがまちがいないこと >>241
最高神・大物主がいるのは三輪山だよ
今回の発見>>1 が凄いのは
この古墳が三輪山の真南にあり、古墳の位置的ににも日本の歴史上
最も偉大な王であったことがまちがいないこと >>238
本物のほうの主祭神は神功のモデルになった渡来の神様「辛国息長大姫大目命」 大和は元々、北部に長髄彦、
南部に大物主の勢力に分かれていた。
長髄彦に結びついて大和北部に進出したのがニギハヤヒで、
ニギハヤヒに結びついて大和に進出したのが孝元天皇辺り。
この後モモソヒメと大物主が結びついて、
大和統一が初めて成し遂げられたと言えるが、
もし仮に、卑弥呼がモモソヒメなら、
魏志倭人伝には大物主との婚姻よる大和統一という重大事件が
明記されていなければならないがそんな気配は何処にも無い事を持って、
モモソヒメは卑弥呼とは全く無関係と言い切れるだろう。 百襲姫は崇神より格上じゃないけど?
格上だったら大物主を祀る大神神社の祭主に自らなっただろ
九州の卑弥呼だったら卑弥呼自らを大田田根子と神託してなってただろうな >>243
アンタの根拠のない妄想は考古学ではない。 >>244
北部九州が奈良県に支配されてただけだよ
北部九州の主な古墳は発掘調査済みで
邪馬台国の時代には畿内に権力が移行してるのは
北部九州の主な古墳は発掘調査の結果(物的証拠)から明らかなんだから諦めろ >>189
だから成分分析をして国内産だと明確にわかる根拠がないんだよ
中国の銅であれ、鉄であれ、溶かして叩いて再利用しただけのもの
日本製か中国製の区別をつけるというのは、古代中国の全ての
鍛冶工房の鉄なり銅なりの特徴を調べ上げてる必要がある
そんなの無理ゲーなのよ >>199
奈良の地形を見ればわかります。奈良は天然の城塞なんですね。
だから、神武も攻めるのに苦労し、なんと三重県の山奥の秘境から攻めたのです。 >>250
???
根拠は提示してるが。4段築成(物的証拠)
日本書記の記述(歴史書) >>251
権力が移動なんてしてないぞ
それぞれ別々にかたや衰退かたや繁栄しただけだ 箸墓という魏志倭人伝の記述のない
前方後円墳を卑弥呼の墓の物証としてしまうのは
畿内説信者の妄想癖によるもので、
考古学と言えるようなモノではない。 >>257
もう一回書くけど「北部九州の主な古墳は発掘調査済み」だよ
発掘調査の結果(物的証拠)から畿内に権力が移動してることは明らかなんだよ。
だから99%の学者は畿内説なわけ >>261
ただの妄想
纏向が九州を支配下に入れていたなんてことはないし
九州が畿内勢に取り込まれたのは3世紀後半の話で卑弥呼時代は別々の勢力 記紀に邪馬台国と卑弥呼が出てこないので関西とは全く繋がりがなかったんでしょう
聞いたことあるけど漢字わからなかった >>260
魏志倭人伝の記述にあるよ
当時の認識としては前方後円墳の円墳部分が墓であり、方墳部分は祭祀スペースという認識だから
一致しる
魏志倭人伝の記述と箸墓の円墳(お墓の部分)の大きさは一致してる 考古学的に言うと、
当時の纒向政権は、
外来土器の分析によって、
北部九州に進出していない事がわかっており、
ソレが記紀の四道将軍の派遣範囲に
北部九州が含まれない記述と一致する為、
纒向の崇神は北部九州に進出出来ていない政権ということになり、
邪馬台国とは結びつけることができなくなってしまったのが
前世紀の日本の考古学の成果。 >>261
妄想じゃない
発掘調査の結果と書いてるだろ
たぶん九州説の人は発掘調査の結果しらないんだろうな
学者はみんな知ってるからみんな畿内説 奈良に卑弥呼がいたとしたらそれは崇神になるわけだけど
崇神は女だったわけ?神託もやってた巫女的な王だったけど >>264
アンタの妄想は邪馬台国を考察するうえでレベルが低いのよ。 崇神が大和王権を作った
それまではただの出雲系の地方豪族だったでしょ
崇神が自らの出雲神託によって国作りやったんだよ >>263
日本書記の神功皇后記に魏志倭人伝が引用されてるよ
日本書記では、神功皇后が卑弥呼
神功皇后が即位したのは201年なので
卑弥呼が権力を握った時期と一致してる >>261
権力が移動したのは古墳時代で、
三角縁神獣鏡は晋の時代以降に
長江流域の銅山が晋の領土になることで、
入って来た銅から作られた銅鏡。 >>51
日本には馬の去勢技術が見当たらず、騎馬民族説はガセだとされている >>266
発掘調査の結果、畿内に大きな勢力があったことはわかっても
創作キャラのモモソが卑弥呼とか言い出したらそいつはアマチュ歴史ファンレベルだよ これが卑弥呼の墓なら、やっぱり邪馬台国=大和政権なのかな?
語感も似てるし
機内にあるのも納得できるな >>244
鉄器の年代測定精度ってどんなもんなんだろうな?
その図の場合はC-14年代測定法で特定されたものの集計じゃないよね?
遺跡から出た鉄器の合計数かな?
地中や水没してる場合と地面に露出してる場合でも鉄の残り方には差が出るしね 吉野ケ里遺跡だけでその前の文化が見えんのよなぁ九州 BCでも卑弥呼の150年前だしな 三角縁神獣鏡が出てしまった事で、
コレは晋時代以降の政権下で作られた墓である事が
判明してしまったと言える。
方格規矩四神鏡を持っていたということで、
邪馬台国に関係する勢力の一派が纒向に進出したなと言う事も分かる。
古墳時代前期に纒向進出した邪馬台国の一派=生目垂仁景行ということが、
考古学上判明したのである。 >>57
そりゃ日本人は漁労民族だから海の神様を祀るよ
記紀によれば神武天皇自体も海賊だし、彼らの氏神様が天照大神
だから天照大神…伊勢神宮…元伊勢も含めて良港の奥に祀られているだろ 倭国大乱で初めて日本を統一したのは卑弥呼
纏向がそのヤマトの初めての都と言う感じか >>275
先ず重要な事は、
邪馬台国の超重要拠点の伊都国の、
卑弥呼の死亡時期に作られた
平原遺跡が方墳である事で、
邪馬台国は初期の前方後円墳の築造を権威の象徴とする勢力なる畿内説は完全崩壊しており、
考古学では跡形もなく消え去っている。
前方後円墳を卑弥呼の墓とか言うのは、
今後は一切妄想として切り捨てられる事が確定している。 特別企画展『よみがえる邪馬台国』〜倭人伝のクニを探るX〜 佐賀・吉野ヶ里遺跡 ★2(2023.8.30
/newsplus/1693406204
>>160 >>1
儒教体制徳川トクチョン家康朝鮮人[反日主義者]連が始めた、奈良福岡二者択一ヤマタイコク論争が江戸時代当時
から何も変わらないのは、奴らがわざとそうしているから(当たり前)w スレのテーマよりID:jUqM0i2I0の文章能力の低さが際立ってるな
文才というか思考力が弱い人が長文になりがちなだけかな? >>281
素人だから色々教えてほしい
>邪馬台国の超重要拠点の伊都国
なんで超重要拠点なの? >>283
日本語を読む能力がない事を曝け出さなくてもいいぞ。
アンタがいくら中傷しても、
他の人達はああなるほどと納得しているからな。 >>240
奈良の弥生遺跡はどれだけ掘りまくっても王墓らしい墓が全く出てこない、古墳時代以前の奈良に大和王権につながる勢力がいなかったと言うのは畿内説を唱えてる考古学者すら認めていること >>285
句読点の打ち方と改行の仕方が低学歴にありがちなそれだから、
一般的な文章になれてる人にはすごく読みにくいって自覚出来ないか >>198
やっぱり竹田氏も言ってるこの説が一番無理がないよな。邪馬台国は九州にあって当時奈良にあった初期ヤマト王権とは無関係。
纒向遺跡には卑弥呼と同時期の3世紀前半に前方後円墳が作られていて、その3世紀中に作られたものだけで数大きさともに北部九州で発見されたものを圧倒している。
100メートル超えの巨大前方後円墳は畿内、特に奈良に集中。最古の前方後円墳は出雲の松本1・2号墳で、その出雲も畿内の勢力下。
これが狗奴国に手こずる邪馬台国な訳がないし、どう考えても九州の小勢力事情。 >>284
北部九州を軍事的に支配する為の一大率が置かれていた。
外交上、大陸の贈り物を留めおいて管理していた。
北部九州を国々の中で唯一代々王が存在していた。
伊都国の長官は神社の役職でナンバー2の爾支=禰宜が居た。
平原遺跡は卑弥呼の死亡時期では最も豪華な埋葬品の出土した遺跡で、
伊都国が実際に魏志倭人伝に書かれた通りの、
邪馬台国の超重要拠点である事が証明されている。
平原遺跡では巫女の殉死も16体確認されている。 卑弥呼により衰退した邪馬台
崇神により栄え日本統一を果たした大和
名は似てるけど全く別物
倭だの大和だの邪馬台だの全部読み方似てるけど実際別物
日本を指す言葉なだけ >>289
そもそも邪馬台国の場所も確定してないなら伊都国の場所が九州北部なんてわからないでしょ
ただの推測? >>288
竹田は首を絞めちゃったなあ。
もし仮に竹田が本当に天皇家の血筋なら、
北部九州から丹後を経て畿内に進出していった記憶が、
遺伝子の中に記録されているはずだが、
ソレが無いということは、
何処かで背乗りの可能性が高くなって来た。 >>261
古墳時代以前の話と古墳時代以降の話を混ぜるなよ >>291
ソレはアンタの願望で、
伊都国が糸島怡土は揺るがない。 >>294
素人だから単純な疑問
何か確定的な証拠でもあるの? >>286
鉄伝来以前の文化が九州にないのよなぁ
明日香村、磐船神社、春日大社、六甲比命神社の岩遺跡とか卑弥呼以前のがなく唐突九州論
244氏のマップが正しいんじゃね? 結局、九州と大和で揉めたら鉄だけじゃなく数の勝負になるし >>292
遺伝子の記録とか言い出したらもうオカルトだよ。
当時近畿に九州よりずっと大きい勢力があり、戦乱の後も伝承もないのに、
3世紀の九州にあった邪馬台国がヤマト王権でそれが東遷して大和朝廷を打ち立てたなんてトンデモ過ぎる。 >>296
平原遺跡の出土品の中でも、
方格規矩四神鏡は魏の銅山の銅が混ぜられ作られた特異な銅鏡で、
同一工房で長江流域の銅が枯渇して、
魏の銅が混ぜられ作られた銅鏡である事も分かっており、
漢鏡V期の中でも新しい型の鏡ほどその傾向があり、
それらは魏鏡と言える特徴を示しており、
時代編年の見直しによって、
平原遺跡の方格規矩四神鏡が魏鏡であり、
平原遺跡が卑弥呼の死亡時期と
同時期に作られた墓であることは
揺るぎない事になる。 大和は奈良湖で水産、農発展しの貿易港は出雲、九州は魏と近く鉄で発展
大和と九州一族の話がごっちゃになったのが魏志倭人伝の卑弥呼でよくね?
ご飯ないと国栄んよ >>299
鏡を邪馬台国から貰ったとしても何の疑問もないけど?
まあ自分の所に置いてる鏡の数の方が譲ったものより少ないだろうから単純に鏡が多く発掘された墓が卑弥呼の墓じゃないのか
それに墓の違いをいってるけど、邪馬台国が纏向にあって卑弥呼がいたとしても、卑弥呼の時代は統一直後の話でしょ?
平原遺跡が伊都国だったとしても、それだけ離れてるなら墓の作り方のルールまで浸透するのかなり時間かかるでしょ
違いがあっても何の疑問もないし、むしろ自然じゃないのかな 奈良が九州までを統一したのは4世紀になってからでしょ
崇神の孫の景行天皇から >>302
ソレは、初期の前方後円墳の築造が、
邪馬台国の権威の象徴なる畿内説を、
自ら完全否定している事になるぞ。 Jタウンネット調べでいきなりチョウセンガーかよww
じゃぁ卑弥呼はユダヤ人の末柄 ハイ論破 あほらしwww >>297
>>244の地図は淡路島の鍛冶工房の載ってない古い時代の地図 >>300
>>265で自分で、外来土器の分析を根拠にして纏向は北部九州には進出していなかったと言いながら、北部九州からは纏向に進出したと言い張る矛盾。
引っ越してきた痕跡がないのに?
ムーとかにありそうなただのオカルト信仰だよねそれ。
挙げ句に感情的になって朝鮮系渡来人の感想とか言い出しちゃったらもうヤバい奴だなとしか。 >>305
素人だからそんな説は詳しくないぞ
単純に疑問を言ってるだけ
墓を作る規格をいつ決めたか知らんけど、そんな統一直後に浸透できるもんじゃないでしょ 邪馬台国が近畿で、武力を持った勢力がうじゃうじゃいる西を征服できていたのなら、
なぜ東側を征服できてなかったのだ? >>310
単純に東側より西側の方が弱かっただけじゃないの? こういう事を言っておかないと資金確保できない世界
本人たちも内心んなわきゃないって思ってるよ 九州の邪馬台国は卑弥呼の死後から4世紀初めの半世紀の間に滅んだか内乱で分国化した
狗奴国である熊襲が優勢になった後に奈良王朝にまとめて征伐された 大和朝廷を作ったらしい古墳人という別民族の出自や
弥生人との関係がねえ >>310
出雲のように勢力下にあったかは分からないけど、関東の方まで影響下にあったのは搬入土器から分かるね。 https://i.imgur.com/8x3djN0.jpg
纏向の勢力範囲は不思議と崇神の四道将軍エピソードに似てる
そして纏向に九州のかげはほぼない
畿内勢力が九州を支配下に組み込むのは3世紀後半以降だろう
記紀で言えば景行、ヤマトタケルの時代以降
宋書で言えば倭王武の先祖が東に55国、西に66国、さらに海を渡って北に95国平定する時代
それは3世紀後半から4世紀にかけて
つまり卑弥呼の時代の話ではない 邪馬台国を畿内に結びつけたいなら
滅茶苦茶な古代天皇の年齢をなんとかするのが先だろう
西暦160~248年頃は誰が天皇だったか分からんでは話になら無い 西都原と吉備には土器の流れから交流が強かったのは確実なので
記紀とあわせると宮崎→吉備阿波→大和の流入はあったんでしょう
特に記紀では神武の吉備からの記述が急に詳しく書いてあるから
吉備→大和が東征の正体なんじゃね? 大和朝廷と邪馬台国は別モノだろ?
卑弥呼や壹與に該当する天皇もいない
入れ墨を入れる文化もない、馬鹿なのか? >>265
連合政権だからね。侵略とかではないし。 >>307
鉄器は出なくてスラグしか出ないんじゃないの? >>237
・倭迹迹日百襲姫命は、箸墓である。
↓
魏志倭人伝には卑弥呼を箸墓に葬ったという記述はないから証拠にはならない。
むしろ魏志倭人伝には邪馬台国の倭人は手掴みで食べるとあるから
『箸』墓という時点で『卑弥呼の墓ではない』という証拠になる。
・箸墓は4段築成であり、3段築成の天皇陵よりも格上の形状である。(物的証拠)
↓
魏志倭人伝には卑弥呼の墓を4段築城したという記述はない。
古墳が何段築城か、天皇より格上かどうかは卑弥呼の墓を比定する証拠にはならない。
・箸墓の形状(物的証拠)から当時の人々が倭迹迹日百襲姫命は、天皇よりも偉いと認識していたのは明らか。
↓
箸墓の形状は前方後円墳であり卑弥呼のいた時代にはまだ無かった。
また、前方後円墳という中国にはない特異な形状なら魏志倭人伝にその旨記述される筈だがそれもない。
つまり箸墓の形状は卑弥呼の墓ではないことを証拠する証拠である。
・日本書記でも倭迹迹日百襲姫命は、アマテラスと同格の最高神・大物主の妻であり、明らかに天皇よりも格上である。
↓
卑弥呼は生涯独身であったとされるため
大物主の妻であったとする日本書紀の記述は
倭迹迹日百襲姫命が卑弥呼『ではない』ということを証明する証拠である。
結論
倭迹迹日百襲姫命は100%卑弥呼ではない
証明終わり >>253
鉄鍛冶は大陸から輸入したインゴットや大陸から輸入して使わなくなった鉄を溶かして再利用してるから
成分自体は大陸産になる。
だから鉄の成分分析しても国産かどうかは分からないよ 蟠桃会(ばんとうえ)は西王母の誕生日祝のパーティー。
桃を贈ってお祝いした。
首都を鎬京 (こうけい) から東方の洛邑(現在の洛陽)に
移した東周時代に書かれたとされる『山海経』の大荒西経に
よると、西王母は「西王母の山」または「玉山」と呼ばれる
山を擁する崑崙の丘に住んでいた。 >>297
奈良の前方後円墳の傍で銅鏡を鋳るやり方が北部九州で1世紀以前から行われていたやり方なんだよ
三雲南小路遺跡や須玖岡本遺跡のようにね >>324
銅でも同じようなもんだよ
国産の銅は奈良時代になってからじゃないと手に入らないから
再加工するには、輸入品に頼るしかない
叩いて伸ばしてやっても、成分分析したら一緒
大量の銅(鉄)製品を溶かして混ぜたら成分が混ざるけど
それが何処産かは、中国の工房の全ての成分分析ができてないと
判別がつかない
中国のでも再利用はしてたわけだしね 箸墓が三輪山信仰関連だとしたら前方後円墳は大物主や三輪山と関連してる >>308
考古学の見解として、弥生時代を通じて首長墓に鏡や剣を副葬品にするのは九州が中心だった、一方で同時代の奈良では銅鐸を作ってて、墓に鏡を入れる風習はなかったのに古墳が現れてから急に鏡や剣を副葬品にするようになった、つまり奈良の弥生遺跡と古墳に連続性は見られないが、九州の弥生遺跡と古墳には連続性が見られるってのが考古学の見解
九州が奈良を征服したってのはこの考古学的見解に神武東征神話を混ぜ合わせた「だったらいいな」的な説だよ https://i.imgur.com/kw6cunh.png
ごちゃごちゃと上書きして見にくいけども
こうしたら古代の日本列島の姿がおぼろげに見えてくる
漢書→魏志→後漢書→宋書とすべて繋がってることがわかる >>327
ただし、加工には癖が出る
古墳毎に特徴的な加工跡がある
ということはその鏡がその古墳に埋めるために作られたことを意味する
つまり三角縁神獣鏡は国産 >>327
絹もそうなるな
出土した絹が九州産か輸入かがわからない
鉄剣の束(つか)に巻かれている絹は大陸の完成品で持ち込まれたものの気がするけど
https://www.yamataikokunokai.com/tousennsetu/kinu.htm 茶臼山古墳が魏志倭人伝が書く卑弥呼の墓とするにはかなり大きすぎる。
山裾を利用したとはいえ、戦乱下でこんなに大きな墓を作る余裕なんてない。
卑弥呼の墓は九州の平原遺跡の可能性大。 >>329
だが知識を持って九州から奈良に人の移動があった証明にはなってるだろ?
もしかしたら、高度な文明を学びに北部九州へ留学した奈良土人がいた可能性もあるだろうけど 卑弥呼の時代のその後、奈良に都が出来て九州には大宰府(軍事外交)で卑弥呼の時代そのままの流れじゃね?
大和と小さな国の連合、お前ら嫌いな絆で戦になったら九州が勝てると思わん >>331
銅製品、鉄製品は古墳ではなく、工房の癖に依存するね
例えば青銅器は銅と錫の配合比の癖が出るし、銀などのその他の癖も出る
だから、中国のある特定の工房の、ある特定の時期の癖というのは成分分析によって判断ができる
だからといってすべての工房のすべての時代を網羅した成分分析は不可能
三角縁神獣鏡が卑弥呼の鏡云々は置いといて
三角縁神獣鏡がすべて国産を証明することは不可能だよ
面倒なのは三角縁神獣鏡に複数デザインがあること
おそらく工房が違うからデザインが違う
後は、三角縁では無く、斜縁や平縁の神獣鏡もあり
運がいいのか悪いのか、中国から見つかってたりもする
神獣鏡はミステリーたっぷり過ぎて、今の時点であまり断定的な
物言いは避けたほうがいいよ 卑弥呼九州説の背景にはクマソ感もあるのかなぁ
/\
/注意\
/∩__∩\
/ / \ /ヽ \
/ | ● ● | \
\ ミノ(_●_)ヽ彡 / クマ
\彡 |W| ミ/
\ ヽノ / 三角縁神獣鏡って中国で出土してないのになんで卑弥呼が貰った鏡になってんだ? >>338
鋳物ってのはベースの凸型があれば、粘土とかの凹型が無数に作れて後から意匠加工が追加できるんだよ
石で作った型だと現代まで残ってる可能性が高いが、土製は焼かれてないと残りにくい 首都ってその国に唯一、一つだけだと現代の常識ではみんな思ってるけど、
そっから疑え 当時の邪馬台国には首都が二か所あった だから特定でき
ないでいる説
分かるようたとえるなら、夏の離宮、冬の離宮みたいな感じか >>1
★★★猿でもわかる邪馬台国の九州否定説★★★
邪馬台国 論争の背景
http://www.yoshinogari.jp/ym/topics/yama02.html
伊都国(福岡県糸島市)
↓
↓百里
↓
奴国(福岡県博多湾付近)
↓
↓百里
↓
不弥国(福岡県糟屋郡宇美町付近)
↓
↓水行二十日
↓
投馬国(不明)
↓
↓水行十日、陸行一月
↓
邪馬台国
まともな地図を作れなかった古代では距離や方角を常時正確に測ることは難しかった可能性が高い。
しかし、古代であろうと水行、陸行日数を数え間違える可能性はほぼゼロに等しい。
ということは、もうこの時点で方角に関係なく、不弥国のすぐ近くにある(北部)九州の可能性が
一番最初に消えることは猿でもわかるはずだよね???
考古学会も畿内説でほぼ固まっている。
九州説を主張してる人は振り上げたこぶしを下ろせないだけでしょ?
いい歳した大人がいつまでもみっともないよ。
もういい加減あきらめようぜ。 方角を間違えるのはあり得ない
太陽の位置は誤魔化せないからな
要するに、魏志倭人伝は根本的に信用ならんって事だ
それに頼るしかないから余計混乱するわけだ 絹も鉄もあるって記述について言うと「魏志倭人伝は創作」と言い出すのが畿内説よな 倭人伝の記載は、魏の里で換算すると
帯方郡から松浦国の旧道の道のりで
おおよそ5倍になっている。
それから、あとの距離も同じように5倍の記録、
つまり実距離が1/5になっていると換算すると
全く矛盾せずに熊本あたりに到着する。 隋書にいわく
東西五月行、南北三月行
これが隋の時代の倭の大きさ 投馬国が畿内で邪馬台国が九州なら、
帯方郡から出発して大阪湾に船で20日、九州中部に船で10日と歩きで1月くらいだろ
畿内説論者は、箇条書きの意味が読み方で変わることを覚えよう >>349
街道未整備の陸行は時間がかかるからな
江戸時代は街道ができて江戸-大阪間が早馬で3〜4日だ こいつのキチガイっぷりよ
ID:9km0crfv0 敵対勢力いたし道がないから九州沿岸南下して北上して東岸の方から入ったんじゃないの 魏志倭人伝は正直、やっつけぽいよ
倭なんか誰も興味ないし適当書いたんだろう
俺は伝聞じゃないかと疑ってる _ _
(O>――<O)
/(・) (・)ヽ
○ /▼\ ○ 熊襲 ソてネラー用語かよ
|(ヽ二フ) |
/  ̄ ̄ ̄ ヽ
f ヽ / |
ヽ \ / ノ
|\_ )(_/|
| |
| |
| | ̄ ̄| |
(_ノ ヽ_)
邪馬台国 狗奴国と戦ってたというけど前後に王同士で殺し合う戦争あったしはっきりいって敵だらけだったでしょ卑弥呼一派 今の自民党みたいに党内部でも派閥争いはあるわけだし、強いリーダーシップを失えばすぐ瓦解するだろ
それより数百年の間に何度も立太子で骨肉の争いを続けたのが天皇家だし 九州説はただの妄想だろ
弥生時代に伊都国や奴国が栄えてたし大陸に近いから邪馬臺国もたぶん九州!
こんなのばっか
遺跡はよく分からないけどこれから探すとか、邪馬臺国は小国だからそれらしき遺跡は無くてもOKとか
もうただの大喜利ネタレベル 弥生時代末期と古墳時代前期は併行しているね
畿内はちょうど鉄器文化が浸透し始めた頃に古墳時代が始まっている
古墳時代は2世紀に東日本の前方後方墳で始まり、3世紀には西日本の纒向メクリ1号墳や北部九州の焼ノ峠古墳など広く浸透している
その後西日本では前方後円墳が流行りこれが東日本へと広まった
しかし墓の形式が統一された時代は存在しません 卑弥呼
日巳子 天照
壱与 たいよ 太陽
臺與 豊受 >>358
畿内説の事にしか見えないが?
鏡見てるの?w モモソヒメを卑弥呼だの卑弥呼が天照だのほざく畿内説が妄想じゃね? >>342
三角縁神獣鏡の画像検索で、いろいろなパターンが見れると思うけど、意匠追加で済まなさそうなのも結構あるよ 鏡は古代のマストアイテム
現代のスマホ
だから国内生産してんの 低IQの畿内説でもわかるはず
>244:ウィズコロナの名無しさん:2023/09/15(金) 08:38:35.91 ID:kkkZwHsK0
>後漢時代からつづく邪馬台国時代はちょうど鉄器時代の真っただ中でした。
>
>魏志倭人伝に倭人が「鉄のやじり」を使っている記述があり、この時代の日本には既に鉄器文化が到来していたことがわかります。
>また、『3世紀の中国の歴史書「魏志東夷伝弁辰条(ぎしとういでんべんしんのじょう)」には、朝鮮半島南部の地域に鉄が多く出て、「韓、注意1(ワイ)、倭みなしたがってこれをとる。
>諸市買うにみな鉄をもちい、中国の銭をもちうるがごとし」と記されています。
>鉄を求めて、弥生人がさかんに朝鮮半島南部に出かけていった様子が描かれています。』
>
>よって弥生時代の鉄器の出土量が多い地域が、当時の倭人達の経済共同体であったと見なせます。
>
>猿でもわかる卑弥呼時代の鉄器文化圏
>https://i.imgur.com/v0XeHSj.png >>308
矛盾など一切無い。
コレは考古学の発掘上の事実。
纒向の外来土器に北部九州のモノが一切無いという学術上の事実と、
外山茶臼山古墳に北部九州の鏡や鉄武器が埋葬されているという学術上の事実。
これによって箸墓と茶臼山の埋葬者の出自が別れる事が分かると言う事だよ。 どう考えても卑弥呼以前の文化の繋がりないし九州説
邪馬台国は魏の人が夏休みの自由研究で作ったクマモンソでいいだろ(;^_^A 卑弥呼の墓の大きさ径百歩は陳寿の想像です
魏志倭人伝における卑弥呼の墓に関する記事は倭人からの伝聞であり
距離の単位である里すら知らない倭人が歩という単位を使って墓の大きさを説明するはずがない
陳寿は倭人からの伝聞記録にあった殉葬100余人という情報をもとに、その大きさを中国人にも分かりやすく径100余歩と記述したのである
なので墓の大きさは不明であり、重視するべきは卑弥呼の後を追って死んだ者が多数居たという事です
前方後円墳ではないという事は確かですね
卑弥呼の墓はおそらく祇園山古墳のような状態であると考えられます
https://i.imgur.com/pjfObaD.png 発見すればするほど
文字を持たないポンコツさが浮き彫りになるな >>366
出雲は朝鮮半島に領土を持っていたので
鉄をとっていた倭は出雲 >>367
糸島って平原遺跡がある場所だぞ。
オレはそこまで降りて書き込みたくないんだよ。
アンタがオレのレベルまで弥生の知識を上げてこいよ。
畿内説信者は低レベルだって、
自分で宣伝してる様なモンなんだが。 九州出身が平城京作ったらなら少ししてから朝廷に従った九州民が隼人<ハヤト>で敵対したのがヤマトタケルにやられたの説明つかんだろ
クマソ(;^_^A >>370
卑弥呼に仕える奴隷達を百人殺したんだろ
後を追って殉死したみたいなミスリード >>373
>鉄をとっていた倭は出雲
IQ30ぐらい?w >>273
去勢の漢字あるんだろ?
中国で去勢してたんだろ 古代シュメールの粘土板に牛の去勢の記録がある[2]。そのほかに、旧約聖書のレビ記、アリストテレスの『動物誌』などにも去勢の記述が見られる[2]。
甲骨文字に豚の去勢を示す字がある[3][2]。また、兵馬俑にある馬の像が騸馬(去勢馬)であるという指摘もある[4]。 >>373
古代の出雲に巨大建築があったって言われてるが
渡来人じゃん出雲 >>374
5つの墳丘墓があるだけで、
軍事的に支配する為の一大率が置かれていた建物の痕跡も
外交上、大陸の贈り物を留めおいて管理していた倉庫の痕跡も
国々の中で唯一代々王が存在していた王宮の痕跡も
神社の痕跡も
なんもねーじゃん >>380
そうです
出雲は製鉄技術があったから鉄をとっていた
九州倭奴國は製鉄技術が無かったから製鉄された鉄を輸入していた 邪馬台国は既に後漢書で紹介されており、代々王を継ぐ国30国が朝貢していた
そのうち倭奴国が倭の南極界だ 畿内説論者の浅はかな所は、
鏡が100枚超えだから、
大和が邪馬台国ヤー
とか言っちゃってる訳だが、
これだけ多くの鏡を割っちゃってるということは、
確実に破鏡の風習を持つ北部九州の部族が、
古墳時代初期に纒向に進出した事を
確定させちゃってる訳で、
弥生後期の邪馬台国=北部九州を
決定づけていると言い切れる事であるな
と言う事だよ。 >>389
2世紀の出雲で製鉄?
それ日本の出雲じゃないなw 北海道や沖縄、ついでに対馬は日本じゃなかった
いずれの説も日本を中国様に奉還するのだ 古墳の9割が盗掘されているにも関わらず三角縁は600枚も発見されている
もともと数千枚は出回ってたと考えられる
つまり国産の大量生産品 >>388
邪馬台国に魏から派遣されてた軍事顧問
その名は張政! 中国の冊封体制下にあった超辺境に回帰するのだ
超辺境らしいことに何も分からないが
あっ、超偏狭だから何も分からない、これFAじゃん 「女王国の東、海を渡る千余里、また国あり、皆倭種なり」(同)
倭国の領域の東の海を渡ると別の国々がある、同じ倭人だよ、と言っている。この記述は畿内説の弱点としてしばしば目にする。九州説なら、豊後水道の東に卑弥呼の倭国とは別の倭人の国々があるというだけの話だ。吉備でも大和でも何でもいい。しかし、畿内説では渡るべき海がない。(以下ソース)
2023/8/21
https://mainichi.jp/articles/20230821/dde/014/040/004000c?inb=ra 大和には日向生目の垂仁の系統が
吉備津彦の娘の播磨稲日大郎姫との婚姻を通じて進出しただろうと考えていたが、
予想通りだな。
一方の丹後には臺與と彦坐王の一族家臣が進出し、
丹後王国を形成したのも間違い無いだろう。 中国冊封体制下の超辺境、それは一体どこらへんにあったのか問題
↓は正解例の一つになります
「どこでもいいじゃねえかそんなもん」 >>399
>畿内説では渡るべき海がない。
当時は渡る海あったよ 瀬戸内海>河内湾>大和川>奈良湖 奈良に船で行けるし荒れない内海
奈良湖
https://ameblo.jp/narapapi/entry-12660008157.html 佐賀はだめだ東に海がないし使者が目撃し書き記した阿蘇山もないよって大分 >>370
その測量図だと祇園山古墳は円墳でなくて方墳だけど? >>404
水行ではなく海を渡ると書いてある
違いがわかるかね? 「女王国の東、海を渡る千余里、また国あり、皆倭種なり」
ありますね
奈良から伊勢湾を渡って静岡
静岡から駿河湾を渡って伊豆
伊豆から東京湾を渡って房総「天津小湊」
天津小湊から北上して香取神宮・鹿島神宮
さらに北上して、大洗磯前神社
邪馬台国と同時代の、3世紀中頃から4世紀後半の大規模集落「髭釜・一本松遺跡」の首長墓群とされる磯浜古墳群 >>329
解説ありがとう。
でもそれ単純に古墳時代頃の畿内地域が力を付けて当時高価で先進的な鏡や剣が各地から集まってきたってだけのことに思えるけど。
それより一般的に使用される土器に九州と近畿で関連性がほぼないことのほうが決定打になってるよね。人の移動が無いんだから。
>>368
上記同様。
九州のものと言い張ってるが、変なイデオロギーでねじ曲がってる君の話がまず信憑性が無いのと、3世紀末には北九州がヤマト王権の勢力下に入って貴重品を畿内に持ち去られてる可能性。 >>407
>女王国の東、海を渡る千余里、また国あり、皆倭種なり
ああ 元記事読んだら卑弥呼が九州でそのほかの大和があっても良いって話かw
九州がその後繁栄したのかは知らんw 熊襲 卑弥呼九州でいいよ(;^_^A >>406
史書には単に冢と記されており、円墳か方墳かなんて書いてない
俺も祇園山古墳の「ような」様相だと書いてるだろ ちなみに
天照大神が出雲を併合するのを助けた建御雷神は
奈良から伊勢湾を渡って静岡
静岡から駿河湾を渡って伊豆
伊豆から東京湾を渡って房総「天津小湊」
天津小湊から北上して香取神宮・鹿島神宮
さらに北上して、大洗磯前神社
邪馬台国と同時代の、3世紀中頃から4世紀後半の大規模集落「髭釜・一本松遺跡」に辿り着き
神武が東征したときは
邪馬台国と同時代の、3世紀中頃から4世紀後半の大規模集落「髭釜・一本松遺跡」の首長墓群とされる磯浜古墳群から
海岸の大洗磯前神社
鹿島神宮・香取神宮と南下して房総「天津小湊」
東京湾を渡って伊豆
駿河湾を渡って静岡
伊勢湾を渡って熊野
で、
九州から畿内の邪馬台国を東征するのにてこずる神武を助けてる 九州説の人は同時期にいた畿内の国は誰なのか説明しないのが説得力として弱いところ >>412
イヨがチャイニーズ軍監を送り返してから歴史から消えた
ヒミココに蹂躙されたんだろうな
ヒミココ狗奴国は熊襲だと言われてるがはてさて 纒向には纒向メクリ1号墳という前方後方墳があり、それは箸中古墳など前方後円墳より古い物だ
現在は大幅に削られ小さな墳墓しか残っていない
なぜ削られたんだろうな?
東日本発祥の前方後方墳の存在が都合悪いからか?w >>415
低IQのグレーゾーン乙
「女王国の東、海を渡る千余里、また国あり、皆倭種なり」 >>415
倭国大乱で奈良に逃げ移り住んだ神武一派が土人相手に無双してた >>271
なるほど
あなたのレスが一番分かりやすい 勘違いしているヤツが多いがそもそも
初代天皇神武の後の天皇家は万世一系だが
初代天皇神武の前の筑紫城の王は万世一系では無い
第一代王・天御中主尊
第二代王・高皇産霊尊
第三代王・神皇産霊尊
は、親子でも兄弟でも無い
伊邪那岐命も
筑紫城の6代王の国常立尊の子孫の、
四国を治める天万尊から生まれた、
中国地方を治める沫蕩尊の子で
筑紫城にいたわけではなく
淡路島 - 四国 - 隠岐島(山陰) - 九州 - 壱岐島 - 対馬 - 佐渡島 - 本州と、倭國を次々に制圧して(国生み)
第12第の筑紫城の王になったんだわ >>172
卑弥呼の鏡を使った鬼道が絶大な人気を
博したのだから青銅鏡国産化の動きが出たのは
自然な事 疑問視する余地は無い >>375
宮崎熊本薩摩半島はあっさり朝廷に尻尾を振ったが大隅の強力な豪族が恭順しなかったというだけ そもそも、伊都国は糸島だとなぜ決めつける
糸島には、邪馬台国が派遣した一大卒がいたという伝承も、王がいたという伝承も無い
しかし出雲には
朝鮮半島に領土をもっていた伝承も
天照大神が天津彦彦火瓊瓊杵尊を派遣したという伝承も
大国主という王がいたという伝承もある >>428
伊都国=糸島というわけじゃない事すら知らないのが低IQ畿内説
旧地名の地図の伊都=怡土
https://i.imgur.com/rphYSMP.png >>428
現実とファンタジーとがごちゃ混ぜになってるで
ニニギが伊都国に派遣された一大卒かよwww 出雲の伝承にはきっと卑弥呼が魏に遣わした使節団と
魏から軍事顧問として送り込まれて伊予の代に送り返したチャイニーズの伝承もあるんやろなあ()
あ、スサノオか! 経済界のトップがジャニーズ事務所の姿勢を厳しく批判 「“チャイルドアビューズ”を認めることになる」 ★3 9.14(木)
>>282 >>1
>「チャイルドアビューズは絶対に..『ジャニーズ事務所』を使うということは..(経済同友会・新浪代表幹事)
ホモ小児性愛変態趣味LGBTは良くなくて一般のセクハラ性犯罪強姦犯等はいいんだなこのアベ類(=朝鮮=親中派=反日)経済バカは たまにさりげなく古史古伝ぶっこんでくるバカ居るよな >>399
その部分は倭国内各国への行程の列挙とは離れたところに書いてあって、別の扱いをしないといけない
続きにさらに東南方に侏儒国や黒歯国、裸国などの中国古来の神話に出てくる国々の名前が出てくるなどしてて、現実のことが書かれてるとは見なされていない
魏志倭人伝がネタ元にしたことが確実な『魏略』逸文では、この部分に「東」という方位は書かれておらず、陳寿が神話に合うように書き足した可能性がある >>435
当時の倭国の状況と合致するんで普通の妥当性が高い記述でしょ
>現実のことが書かれてるとは見なされていない
一体誰によってよ? >>429
九州説言うやつって誹謗中傷始めるから本当に好きじゃない >>79
隠岐は沖ノ島のおき
九州の地名が全国に広がっているのと同じ
事実として宗像大社は格が高いが籠神社は格が低い。沖ノ島は世界遺産だが隠岐は流刑地 >>436
すまん、いま『魏志倭人伝の謎を解く』という本を読んでる途中で、仕入れた知識をすぐに使いたくなって書きこんでしまった
この本の著者は神話説だが、どのぐらいの中国古文書の専門家が神話と見なしてるかは分からん .
邪馬台国は、宮崎県西都市の西都原(さいとばる)で決まり。 >>415
いやそれは邪馬台国の比定とは別の問題だよ 人が住みやすいから江戸が栄えたわけで
奈良は攻められ難い防御の地形をしてるから、戦時にはいいけど現代では人の流れが止まるから首都に向いてない 関東には歴史的建造物がない
これが存在しないってのは
東夷地域が本来日本ではないという明確な証拠なんだよな
実に皮肉な話だよね >>422
神功皇后が卑弥呼の時代というのは大嘘だよ
崇神天皇119歳
垂仁天皇139歳
景行天皇143歳
成務天皇107歳
仲哀天皇53歳
応神天皇111歳
仁徳天皇142歳
履中天皇70歳
反正天皇75歳
允恭天皇78歳
安康天皇56歳
雄略天皇
神功皇后「3年前のセックスで懐妊した天皇の子供を福岡で産みました」
武内宿禰「応神天皇が生まれた福岡のカダの近くにわしが祀られております。わし、ずっと神功皇后と一緒で一緒に福岡を通りました」
????「旦那の天皇の名前は仲哀天皇とする」
明治の人「神功皇后を歴代天皇から外せ!はやく!」
大正の人「外しました」 九州説の人は吉野ヶ里遺跡が邪馬台国よりも古い時代のものとすでに判明していて年代が合わないから、学者からは邪馬台国の候補からすでに外されていることにはだんまりじゃん 畿内説のあかんところは奈良ありき
滋賀推すで俺は! >>448
邪馬台国より古い時代にあれだけの村があるというのは
当時の九州が如何に栄えていたかという証明になるんだよ
しかも邪馬台国の中心でもない村であの規模 >>445
江戸は当時ひどい湿地で寒村しかないぞ
自然に栄えるような場所じゃないけど徳川家康という強い権力によって西国から人を大動員して街が作られた
一方当時の奈良には湖があって人が自然に栄えるにはいい環境だった
https://stat.ameba.jp/user_images/20230602/14/narapapi/05/e7/j/o0698102415293038566.jpg 奈良の湖はネタとして使われてるのかガチなのか判断に悩む
時代がな・・・ 奈良のこれは邪馬台国とは明らかに別の流れ
ただ奈良時代以前の古墳からいろいろ出て来ましたをどう解釈するか
ポッと沸いてきたとしたら邪馬台国以外どこから来たのか
答えの選択肢はそれほど多くない >>455
奈良は古墳時代にポッと沸いてきた
後は言わずとも分かるね? 邪馬台国=早期ヤマト王権な。
桓霊の頃、即ち西暦170〜180年頃に畿内で突如銅鐸文化が廃絶して、九州系の銅鏡祭祀に文化が変わる。そして纏向遺跡の建設が開始からされて、纏向型前方後円墳が出現する。
これは九州系の集団によって畿内が征服された事を意味している。
普通に考えれば、これが邪馬台国の出現であり、ヤマト王権の始まりだろう。
九州から軍を率いて畿内を征服した王がいただろう。
彼が神武のモデルになった人物で、卑弥呼は初代ヤマト王が擁立した斎王だろうな。 倭国大乱前に男王の治世が約80年
いわゆるヤマト政権とされる近畿に国の中心ができるのは1世紀後半だな >>454
万葉集にも読まれてるよ 奈良湖は弥生から平城京まで主要な
交通手段だった 取り巻く河内、大和側辺りからも土器出てる
藤原京のあたりは背にする葛城山など金剛山系の水と農耕と水運の場所
歩いてくると大阪湾から生駒超えないと駄目になるので重い鉄とかフリだし
堺の原型は存在したみたいだが
https://intojapanwaraku.com/rock/culture-rock/133249/
九州は2世紀の遺構の前の遺構がない<あることにはあるが>ので九州は栄えた豪族でしょう
近畿一円にそれ以前の遺構が多々あるのに九州邪馬台国が奈良土民を滅ぼしてとか無理がありすぎる >>457
倭国大乱を納める為に女王卑弥呼擁立
キンキキッズは倭国大乱から逃げ出した神武 >>456
一体何を言っているんだ?
奈良には唐古・鍵遺跡という縄文土器から青銅器まで見つかる弥生時代全期に渡る大集落の跡があるが
かなり古くからの人口集住地だぞ 銅鐸と勾玉、龍の絵画土器と鳥形、ヤマト政権の始まりでもあり国作りでもあり記紀では消された欠史の歴史なんじゃないか >>459
万葉集にも読まれてるよじゃなくてね
奈良の湖があったのは何時ん時代だよってね 九州説の人はそこに古墳があって鏡出てきたて話で
魏の言うところの卑弥呼の民だったのかもしれんが
そもそもの魏志倭人伝で明確にされてなくて、
日本の地方豪族だったて言ったらなぜに怒るのだろ???
ポンと都作ればって物ではなく手前に数百年以上の歴史がある考えるのが普通だろうに
近畿だよ >>461
無名もいいとこ弥生三大遺跡の一角にも数えられない雑魚 スルーされて流れちゃったからもう一度聞いてみよう
みんなは出雲口伝の富王家伝承に関してはどう思ってる? >>466
竹内文書と同じ類かなってムーミンが言ってた >>453
>一方当時の奈良には湖があって
何万年も昔の話でしかもオカルトだぞ
もし湖だったなら水生物がぎっしり詰まった層が出てくるはずだろ 安寧天皇の片塩浮孔宮は『古事記伝』『大日本地名辞書』によると柏原市が候補地になるようだ
安寧という漢風諡号は興味深い
安は、新婦が廟にお参りをして清めをし、嫁いできたことを祖先の霊に報告し、嫁いできた家の霊を受けて、この家の人になる儀式をしていることを示している漢字
寧は、屋内に水盤を置いて神に願い事をし、心を安らかにする意味の漢字
伊勢遺跡は各地の首長たちが集まって夜に水の祭祀をしていたらしい
伊勢遺跡の始まりと安寧の漢風諡号は関係があるかもしれないね
話は変わるが、『和名類聚抄』には「河内国大県郡鳥取郷」とあり、古代の 寺院・集落跡があって「鳥取千軒」とも呼ばれてきた、柏原市青谷(あおたに)の周辺であろうといわれている
鳥取の青谷上寺地遺跡と柏原の地は何か関係があるんじゃないか
この遺跡からは港の跡や銅鐸、鳥形が見つかっている
青谷上寺地遺跡の鳥形と同じ形の鳥形が、池上曽根遺跡や河内の雁屋遺跡から見つかっている >>463
200万年前の二上火山の噴火で奈良湖が形成
約1万年から縄文時代にかけて水位が低下して
弥生時代には水位50mぐらいの巨大な湖
7世紀には水位が低下したらしいが万葉集には歌ってるね
2世紀がどうか誰もわからんが、突然九州より
弥生から大和まで奈良で栄えた方が確率高い気がするわー
奈良湖
https://www.pref.nara.jp/59787.htm ヤマト政権始まりの地とされる橿原には高地性集落など弥生時代後期の集落跡が複数見つかっており、龍の絵画土器が見つかっている
龍の絵画土器は池上曽根遺跡や奈良の唐古・鍵遺跡からも見つかっていて、唐古・鍵遺跡からは鳥装のシャーマンの絵画土器も見つかっている >>464
卑弥呼の墓=古墳とは書いてない
倭人の風習として墓の形式は棺有槨無であり土を盛って塚と成す、としか書いてない
そして卑弥呼の墓には殉葬者百余人と書いてある
畿内説は何の根拠もなくこの記述をガン無視してる韓国式ウリナラ起源説だろ >>474
九州のアレって共同墓地じゃないの?w 書いてあることが絶対なのか?
歴史って過去のつながりがあるから、突然九州勢が奈良にやってきたとか
口承でもなにか伝説残るだろうに 熊襲は悪い意味で後世に残ってしまったが 奈良の伝承によれば奈良湖には元々石亀さんが暮らしていたらしい
亀と言えば浦島太郎だが、丹後風土記の浦島子の話に五色の亀姫が登場する
石亀は播磨風土記の五色の玉を持つ石神のことかもしれないね
尾張までの国作りを行った伊和大神 >>472
池を海原といって盛ってる奈良人にとっては巨大な湖だったのかもしれんが
現実はどうなんだろうなあ >>472
だからあ、奈良湖の話は偏差値40による想像説だって >>452
でも邪馬台国の時代に一番栄えてたのは奈良で間違いない以上、過去に九州が栄えててもその言い訳は通用しないよね
吉野ヶ里遺跡は邪馬台国と年代が合わないんだもん >>475
中国人感覚で殉葬と解釈しただけだろ
倭人は単に「卑弥呼の後を追って100人以上が自害しました」と説明しただけで
墓の説明は朝貢記録の箇所に記載されてるから倭人からの伝聞だ >>446
抑、瀬戸内海無いよ?
陸地だった。水入った >>465
まじ?
鍵遺跡も知らないでそんなにレス伸ばしてたの? >>475
>突然九州勢が奈良にやってきたとか
>口承でもなにか伝説残るだろうに
神武東征を知らないなんて・・・ 司馬懿が公孫氏を滅ぼし、その結果倭国が朝貢してきた。
司馬懿の孫の司馬炎が晋を建国する。
三国志は晋代に編纂された。
皇室の祖である司馬懿の功績を強調する必要がある。
そのため邪馬台国はより遠く、人口が多く、呉の背後をつける場所にある国とされた。
司馬懿に族滅された曹爽の父親である曹真によって朝貢してきた大月氏国(クシャーナ朝)を上回る国として誇張された。 弥生時代後期になると伊吹山の麓の長浜や若狭地方に河内や摂津と同じ形の鳥形が一斉に広がり、鳥形が見つかった登呂遺跡が誕生する
愛知、静岡や沼津には摂津の玉津田中遺跡と同じ形の鳥形が一斉に広がり、三遠式の巨大銅鐸が作られる
1世紀後半には滋賀の野洲川の辺りに伊勢遺跡が作られ、近くからは近畿式と三遠式の両方の特徴を併せ持った巨大銅鐸が見つかっている
弥生時代後期には尾張を越えて国作りが広がった時代だな
尾張で終わりの伊和大神の国作りは弥生時代中期末〜弥生時代後期初頭だろうね >>477
近江な感じか
舒明天皇@7世紀はこの地帯は昔当時から遡って500年,1000年
湖で栄えというバックの背景知ってたのかもしれんな まぁ九州大和説と同じ妄想だけど
九州何もないw >>480
邪馬台国時代に一番栄えてたのは普通に北九州なんだけど・・ >>486
呉への牽制も加えて想定される事実と乖離しがちな記述、つまりは方角・戸数を読む必要あるね ヤマト王権は銅鐸祭祀とは無関係な。
磐余の大福遺跡では銅鐸を壊していた痕跡が見つかっている。恐らく初期ヤマト王権は銅鐸を回収し破壊していた。銅鐸祭祀は邪教扱いだったのかもしれない。
卑弥呼も銅鏡祭祀の巫女だった。
邪馬台国もヤマト王権も銅鐸文化とは関係がない。 >>483
日本の弥生三大遺跡しってるかい?
それに数えられない程度の雑魚だといったらなぜそのような解釈になるのか謎 鳥取の弥生時代中期の青谷上寺地遺跡や池上曽根遺跡、雁屋遺跡の鳥形は、弥生時代前期の松江の西川津遺跡の樫の鳥形と同じ形なんだよな
元々山陰と大阪は関係が深い
出雲地方の栄華を極めていた加茂岩倉遺跡は紀元前後に営みを終え、その後加茂岩倉遺跡の銅鐸が奈良の上牧、大阪の陶器、和歌山の黒田などから見つかるようになる
出雲地方の人々は近畿地方に移住し国作りに参画したんじゃなかろうか? >>493
ガラケーからスマホに移り変わったように新しいモノに転換しただけ 邪馬台国は日本語に中国人が当て字だろ
ヤマタイ、ヤマ=山?として、タイというのはなんだろう
音読みぽくて日本語は思い浮かばないな
タ=田、イ=井とか
ヤマトなどが中国なまりでヤマタイとなったと考えた方がしっくりくる >>484
時代が違う上に伝承に言う神武東征の出発地は日向
この伝説の真偽はともかく、言えるのは卑弥呼が記された頃にはすでに奈良に大和朝廷と思われる強力な国があった >>488
やはり気付いたか?畿内説なら滋賀だよ邪馬台国は
九州説なら大分 日本の祖神は畿内にいたんだろずっと
神武天皇の東征は男系神話の創作だよ ヤマト政権始まりの地橿原、安寧天皇の宮の候補地である柏原はどちらもカシが付く
池上曽根遺跡の鳥形は松江の西川津遺跡の樫の鳥形と同じ形で、池上曽根遺跡のある泉州には楠の元に堅い木でできたお地蔵さんがやってきた伝承が残っている
堅い木といえば樫カシだな >>498
倭国大乱で戦争しまくってたのを卑弥呼が女王になり収めたのは分かるな?
つまり倭国大乱で逃げ出した神武一派が奈良に辿り着いて土人に無双したら大和王権が出来た それか政争に敗れて九州に左遷されてたのが上洛しただけかもしれない 邪馬台国はヤマト王権であり、中華に属国として朝貢した。
ネトウヨは韓国を中華の属国というが、日本もそうだったわけだ。
ねぇネトウヨ、今どんな気持ち〜♪どんな気持ち〜♩ 吉野ヶ里って、幻の邪馬台国公園みたいな観光活動をやってんだっけ。
めちゃくちゃだよな。 弥生末期の九州はある程度の鉄器が普及していたが、畿内は未だ青銅器文化のまま。
九州系の征服者が鉄の鏃を使えば、それは畿内の人間の防具を軽く貫く。畿内の人間が青銅や石の鏃を射ってきてきても、鉄の防具はそれを弾き飛ばす。
弥生末期ならば九州系の集団が畿内を征服するのは容易だったろう。武器のレベルが違う。 >>498
神武天皇=崇神天皇説ってのがあってな
それだとドンピシャになるんだわ
崇神天皇119歳
垂仁天皇139歳
景行天皇143歳
成務天皇107歳
仲哀天皇53歳
応神天皇111歳
仁徳天皇142歳
履中天皇70歳
反正天皇75歳
允恭天皇78歳
安康天皇56歳
雄略天皇
明らかに嘘の年齢が混じってるから平均在位期間で遡ると
平均在位12年なら132年
西暦456-132年なら西暦324年
崇神天皇=初代なら大和朝廷成立は4世紀中頃
古墳時代やね >>510
崇神天皇=神武天皇とするなら邪馬台国を蹂躙して東征した狗奴国ヒミココが神武の正体か 天皇制がなかった自体の王~族長を天皇って言うの、やめませんか? >>511
狗奴国が東遷したんじゃなくて
狗奴国に九州から叩き出された勢力が奈良で大和朝廷を開いたんだと思うわ 畿内説による公費横領事例
> 卑弥呼の墓? 箸墓古墳を素粒子「ミューオン」で調査(2020/1/9)
> https://www.sankei.com/article/20200109-TTULALNZJBJXTMQXN35Z46OUTE/
>
> あれから3年以上経過
> いまだに結果発表無し(畿内説は都合の悪い結果は一切公表しない事で有名) 崇神は行燈山古墳の構築時期から考えて西暦300年頃に大王だった人物だろうな。
そうするとスレタイにある桜井茶臼山古墳の被葬者が崇神の父親世代の人物になる。
神武のモデルになった人物はいただろうが、欠史八代は怪しいな。
あえて欠史八代に比定しうる人物がいるのならば、それは纏向石塚と勝山と八塚、東田大塚、ホケノ山、西殿塚、桜井茶臼山、メスリ山の被葬者だろう。神武と欠史八代を合わせると九つの墳墓なければいけないが、これだと一つ足りない。 >>492
三国志は陳寿が個人的にまとめたものだよ
別に史書編纂を命じられたわけでもないし、そんな部署の仕事をしていたわけでもない
ただし、陳寿が師事した師匠が儒学と史学の先生だったから
陳寿にも史書編纂の素養があっただけ
詳しいことは晋書の列伝の中の陳寿伝に書いてある
陳寿は法律関係の仕事をやってたらか、地方の太守(知事)職をやってただけ
西晋での陳寿は飛ばされたり、あまりいい目を見ていないで
辞めさせられた
その後皇太子のお世話係に誘われたが断ってる
そして何より、三国志を編纂した時期には、すでに呉は滅んでる >>516
海部尾張系の神社の延喜が崇神→神武に変遷してたりするのよね >>513
部族や村の族長を王といった
複数の王を束ねた王の王を大王と言った
大王が天皇を自称した
別におかしかない
さいたま〜熊本まで従えた王の事を、ワカタケル大王と当時呼んでたって金錯銘鉄剣に書いてある >>518
そもそも奈良の唐古鍵遺跡の住居時から奈良で作られた図面を取り寄せて、吉野ケ里の楼閣を作ったことを謝れw
※吉野ケ里の楼閣は完全にパクリです >>521
唐古鍵の土器の絵は、吉野ヶ里の楼閣を見学に来た際にスケッチしたもの
そして唐古鍵にもミニチュアを建てた
それが例の物見櫓 所詮はウリナラ起源説よ
◆畿内派による印象操作
「纏向遺跡の建物で祭祀が行われ、大量の桃がお供えされた」
しかし桃の種が発見されたのは柵列の下の別の遺構
https://i.imgur.com/J2EZhbs.png
建物と桃が同時期に存在したわけではないと判明
◆畿内説の根拠なき反論
「建物を取り壊した後の祭祀で穴を掘って桃を埋めた」
以降沈黙 >>523
証拠がない妄想
そもそも奈良と交流は無いはずなのに謎の言い訳 【基礎知識】
宗像氏の祖は、出雲の隠岐島の吾田片隅
(出雲6代主王の息子)
安曇氏の祖は、福岡の志賀島の綿津見大神
(神武の高祖父の豊玉彦) どんなに九州説を必死に推しても、考古学者の殆どは邪馬台国を奈良と見てるからな
倭国大乱を終結させて日本を統一した邪馬台国が吉野ヶ里遺跡や有明湾北岸の位置にあったとは考えにくいんだよ
伊都国が最も栄えていたのは2世紀
邪馬台国は3世紀
そもそも年代が違うんだから
後漢王朝が衰退するに伴い伊都国も衰退し、西日本の主要なクニが集まって話し合い、卑弥呼を新たな倭国の女王として共立させた
このときの新たな倭国の都として建設されたのが纒向遺跡
絶対王がいる伊都政権とは違い、卑弥呼政権は連立王権であり、領域も遥かに拡大したものだった
新しい倭国は3世紀後半に「ヤマト政権」と呼んできた政体そのもので、日本が王国という段階に達したことを意味するもの
殆どの考古学者はこう見てるよ
これが今の定説 >>527
邪馬台国時代は1〜3世紀前半
畿内が鉄器を使い始めた頃より前の時代な >>529
邪馬台国が一世紀から始まったソースをどうぞ 小日向しえ、顔出しした17歳長男がイケメンだと話題「息子さんイケメンすぎ」「かっこよすぎて目を奪われた」父はココリコ・田中直樹
https://hguiy.voidbits.com/0915/5qjbrc2y.html ヤマトとは日本の別名
そんな狭い範囲を示す名称ではない
九州も近畿もともにヤマト >>504
少なくとも厩戸皇子の頃にはもう朝貢すらしてなかったわけだけど >>528
違う
宗像氏の祖である出雲の隠岐島の吾田片隅は
新羅を国引きした出雲6代主王の
西出雲王家の神門臣家の八束水臣津野命の
息子
建速須佐之男命の娘とケコンしたのは
第8代出雲主王の西出雲王国の神門臣家の八千矛(大国主) >>520
「天下を治めた」と書いた剣が埼玉と熊本で出ただけで、その間を全て
従えていたどうかは不明 邪馬台国連合は後漢時代ですでに出来上がってる
それが倭国大乱に陥り卑弥呼共立で立て直したわけ
210:日本@名無史さん:[sage]:2023/09/11(月) 11:08:45.67
後漢書によれば邪馬臺は後漢時代すでに存在しており代々王を継ぐ30国からなる事が記されている
魏の時代で7万戸規模という事は後漢時代からそれなりに大規模な勢力であったと推測されます
しかし180年頃共立された女王卑弥呼の権力も240年頃には狗奴国と戦争に陥ってしまうほど衰退していたと思われます
こうした記録と全く整合しない畿内説の根拠は全てフィクションですね >>516
そもそも行燈山古墳が崇神の墓というのが懐疑的なんだよな >>531
1世紀に邪馬台国があったなんて後漢書には書いてないやろ >>531
後漢書の一世紀の記述は、倭奴国王が後漢に使いを送り、光武帝より「漢委奴国王」の金印を受け取ると書いてあるだけで、邪馬台国ではありません。
漢委奴国王の金印は志賀島からすでに出土しています。 >>517
書いたときは呉がいたでしょ
陳寿は記録をまとめただけ
呉の後ろに倭国があると書いてる >>528
違う
宗像氏の祖である出雲の隠岐島の吾田片隅は
新羅を国引きした出雲6代主王の
西出雲王家の神門臣家の八束水臣津野命の
息子
建速須佐之男命の娘とケコンしたのは
第8代出雲主王の西出雲王国の神門臣家の八千矛(大国主)
天照大神・月読・建速須佐之男命の母の故地である西出雲王国の神門臣家の、
第8代出雲主王の八千矛(大国主)が、天照大神に国譲りしようとしたしたときに、
ただ一人猛反対したのは
伊邪那美の出身地であり、伊邪那美の墓所がある闇見国を治める第8代出雲副王の、
東出雲王家の向家(富家)の八重波津身(事代主)の弟の建御名方
建御名方は、同じ伊邪那美を母とする、九州の倭奴國の大綿津見神(豊玉彦)の息子の宇都志日金拆命と共に徹底抗戦する
しかし結局負けて捕らえられ、建御名方と大綿津見神(豊玉彦)の息子の宇都志日金拆命は一緒に長野の諏訪に幽閉されて、人質にされてしまう
建御名方と宇都志日金拆命の息子たちを人質ににとられた、伊邪那美の出身地の東出雲王家の向家(富家)と筑紫城の大綿津見神(豊玉彦)は、
天照大神と天照大神・月読・建速須佐之男命の母の出身地の西出雲王家の神門臣家に手出しをすることが出来なくなり
代々男王だった出雲王国は、畿内と共に女王アマテラスを共立して、出雲を天照大神に譲る >>540
奴国は倭の南極界の国であり邪馬台国連合の一国
それが金印貰った後に倭国大乱勃発
収拾がつかないので卑弥呼を共立した
邪馬台国は卑弥呼が女王になってから出来た国というわけでは無い >>547
それだと奴国があったのは確かだけど、同時期に邪馬台国があったか
どうかは不明なんじゃ?
例えば「卑弥呼を立てた時に周辺の国をまとめて邪馬台国とした」とか 神道は前日本の古代文明の痕跡を消す為に作られた文化で卑弥呼に纏わる神社などもないのはそのせいじゃないの?
或いは神道と卑弥呼の権力闘争の末葬りさられた
卑弥呼の文明は巨石由来系のものでその場所に宇佐神宮などを封印と天皇神話で記憶のすり替え >>542
それ邪馬台国があった根拠なのか?
何で1世紀からあるって言えるん?
1世紀って西暦二桁やぞ? >>547
うりならファンタジー乙
まずは歴史のお勉強からしような 神道は弥生大陸系で卑弥呼が縄文からの由来
やはり一度淘汰されてるかもだな >>535
スサノオ
↓
八島士奴美神
↓
布波能母遅久奴須奴神
↓
深淵之水夜礼花神
↓
八束水臣津野命
つまり吾田片隅の祖はスサノオ。 考古学的に九州は近畿政権の配下だったとされてんだろ?
だが当の大和朝廷の歴史書に魏と交渉した記事は載ってない
つまり勝手に九州の勢力が魏と交渉を持っていたと解釈するのが妥当だろう
とすれば邪馬台国は九州ってことにならざるを得ないわけで
九州からは金印が出土してる実績もあるし、大陸への窓口な地勢でもあるわけで、
近畿とは別個に大陸と交渉を持っていたと考えて、何が不都合なのか? ネトウヨ思考
・日本人は縄文人の子孫
・日本語は縄文語の子孫
・Y遺伝子Dが自慢
・縄文文化を縄文文明という
・邪馬台国は九州と主張
・日本が中華に朝貢したのが許せない
・アイヌ人はシベリアからやってきた虐殺者
・なぜかエベンキという民族に関心がある
・古史古伝や日ユ同祖論などのオカルトを信奉
・邪馬台をじゃまたいと呼んでしまう低学歴
・国学者の九州説をなぜか反皇国史観と思い込む
・魏志の漢字を何故か現代音で分析してしまう 九州から入手した本物から複製作って量産してたんだろ?
それバラまいて「俺たちは海の向こうの大国と付き合いあるんだぜ~?」
「これが証拠だぜ~?」「言う事聞くならやるぜ~?」ってやってた >>318
神武東征の様な動きは軍事的に無い、有ったとしてもあの様な記述には絶対にならない
大和盆地を攻めるのに大台ケ原越えは補給や連絡等から絶対に有りえない、破るなら枚方⇒木津川⇒ドリームランドを経由して南下する一択
そして大戦争が起こり、関ヶ原の戦い並みの記述になる
東征なら先ず南九州を押さえ、次に日本海交易の要…出雲を押さえ取り敢えず若狭まで行く
同時に瀬戸内海沿岸…四国側も淡路島までを順繰りに押さえて淀川西岸まで確保…西国大経済圏が出来上がる
何も軍事行動は取らずとも、中国製の珍しい文物をバラ撒けば皆んな北九州側に来るよ、大和盆地に引きこもって居るやつも出てくるんじゃね >>547
戦乱から避難してきた人々が大量に暮らしていた遼東は、いつまた反魏の温床になるかわからないということで、遼東の15歳以上の男子を数千人(一説に7000人ほど)殺すぐらいだから
司馬懿は
公孫氏一族が帯方郡として管理していた倭奴國を親魏倭王にする気は更々無い
公孫氏一族が帯方郡として管理していた三韓も滅亡させた
対馬を経由して戦乱から避難してきた人々が大量に暮らしていた九州の倭奴國、漢委奴国王も、対馬を経由して司馬懿軍の侵攻に備えて、鎖国状態
それ以来、魏は、九州の倭奴國を狗奴國と呼ぶ そもそも大陸に朝貢して王の名前を貰うにしても卑なんて字を友好国につけないだろ?
卑しいだぞ?
蔑む文字だ
そうなると何らかの意図日本の国内に相応の対抗勢力があってそいつらを押して
日本の実権を奪わせ卑弥呼の痕跡や日本のそれまでの文化を消し去った
出来上がったのが天皇神話だ >>553
全然違う
>>528
違う
宗像氏の祖である出雲の隠岐島の吾田片隅は
新羅を国引きした出雲6代主王の
西出雲王家の神門臣家の八束水臣津野命の
息子
建速須佐之男命の娘とケコンしたのは
出雲6代主王の西出雲王家の神門臣家の八束水臣津野命の孫の
第8代出雲主王の西出雲王国の神門臣家の八千矛(大国主) 1世紀も3世紀も伊都国も奴国もゴチャゴチャ
「弥生時代に伊都国や奴国が栄えていたし大陸に近いから3世紀の邪馬臺国も九州だろう」
九州説の解像度はだいたいこのレベル 邪馬臺国に関する記録文献は魏志倭人伝だけではありません。
伊都国のすぐ南と書かれている文献もあるのです。
『広志』(編纂:晋の郭義恭)
広志いわく、
---東南500里で到る伊都国、又南、至る邪馬臺国--
---(このあと魏志と同様に周辺国の紹介へと続く)
伊都国:福岡西区であり倭国の守衛国
↓
又南至る
↓
邪馬臺国:吉野ヶ里、甘木・朝倉、八女など有明海と取り巻く筑紫平野に存在した小国群の総称
筑後川の遺跡群
https://i.imgur.com/oMjsFIX.jpeg
中国史書を読んだ中国人の解釈
>https://i.imgur.com/hGyWM1v.png 景行天皇が九州を統一し
天智天皇が朝鮮半島に出て
白村江で大敗するまでは全部九州政権の話。
天智天皇が白村江で大敗して
近江大津に疎開しても
九州政権として、近江で好き勝手していたが
地元の天武天皇がムカついてクーデターして
天智系を倒して政権を奪った。
それから、天武系になり、畿内政権となった。
天皇家万世一系のため脚色はしてあるが
概ね歴史書である古事記、日本書紀に書いてある。 要するに
北部九州に邪馬台国があり、
その東の海を渡るとよくわからん倭種の国、
そして南側は狗奴国
さらにその東の倭種の国の一つ橿原あたりに大和が居た
それだけの事よ そもそも東夷、南蛮、北狄、西戎と周囲を見下してるのがデフォなんだから、
友好国というよりは下々の国 そもそも、なんで現中国や現韓国の連中は当時の漢や三国を自分たちの祖先だと思い込んで、日本の歴史にマウントを取りに来るのか?
民族も領土も違うだろう >>338
「畿内から三角縁神獣鏡が沢山出た」「三角縁神獣鏡こそ卑弥呼の鏡だ」…をスッパリ捨てればそんなに複雑じゃないよ
卑弥呼の鏡が特注品か、取り敢えず市場から掻き集めた鏡かだよ
特注品なら卑弥呼さんゑと書かれているはず、拝領の鏡として家宝になるから、墓に入れるはずが無い
将軍家拝領の茶器を墓に持っていった大名は居ないだろ
市場から掻き集めたのなら、雑多な種類になるから鏡で卑弥呼…邪馬台国を比定出来ない 関東人は欲深く臆病で
人を裏切るのは朝飯前な気質
スポーツ、武芸、争い、格闘技全てが苦手なヘッピリで戦に出れば日本一弱いw >>345
土佐日記では、平安時代なのに土佐⇒京都が船で55日掛かっている、コレが昔の旅だよ >>567
下々の国の中ではまともな扱い
皇室の祖である司馬懿が朝貢のきっかけを作ったから、わりとアゲアゲしてる >>562
畿内説も
「卑弥呼はモモソに違いない!」
だから箸墓は卑弥呼の墓で
箸墓のある纏向は邪馬台国に違いない
桃の種が証拠
だもんね
どの説も適当すぎるわ >>573
「死に際の明帝の徳を慕って、世界の果てから大国が朝貢してこれたのは、東夷を平定した司馬懿のおかげである」
こんな美味しい構図を司馬懿が見逃すわけないよな
生口たった10人布少々のくっそしょっぱい木っ端使節が金印を授かってしまう謎がソコにある >>453
しかし大勢は養えない、周りを剣呑な山に囲まれた桃源郷だっんたろうが、逆に天下に号する為の兵は養えない >>558
なぜそんなことが言える?
正面から行ったら負けて兄を失った
自分らは日の御子だから太陽に弓引いちゃなんねえ、西に向かって攻撃すべき
方違えで熊野経由すると続々と帰順してくるものがあり、太陽を背に戦うことで敵の目を眩まし奈良平定
むしろ夕陽を背にした(つまり西日を背に東を攻める)方が眩しいだろうとも思うが
割と具体的に軍事行動を記述してるよね 神武東征って言葉が良くないよな
アレは逃避行なんだから
東遷ならあり >>575
張政と愉快な仲間たちをわ國に派遣したのは何故 (-_-;)y-~
配りもせず100枚埋めるっておかしいよなぁ。
社会的に配る必要がなくなったから埋めたとしか思えんけど。 >>477
瀬戸内海並みの大河を見知っている中国人に海とは言えんだろ、、馬鹿にされるだけだよ、溜池だよ 北九州の大国にあった数千という鏡のうち
この100枚もまた、遠路はるばる近畿までやってきたと考えるとロマンがあるよね 神武は大和の有力者と婚姻関係になって入り込み乗っ取ったんでしょ >>579
負けて逃げた王なんて誰にも支持されやん
だから神武東征という神話と王権神授が必要 奈良には鏡作り部があったからね、古墳の近くには鏡作り神社もある >>1
あ!
おちんちん付いてない人間は
我们womanだーー😂🙊🤣 ザックリ言うと、邪馬台国は3世紀に九州で栄えた国
一方、ヤマト王権は3世紀後半に南九州から逃げ出して畿内に定住し4世紀を通じて力を蓄えて日本の支配権を手に入れた
かつては追われる側だったのに大逆転だな >>588
それだと2世紀に栄えた吉野ヶ里遺跡以上の大きな遺跡が出てきてない時点で整合性が取れないんだよ
九州で3世紀に吉野ヶ里遺跡以上の遺跡はないだろ
邪馬台国は3世紀
纒向遺跡は2世紀末から4世紀前半の遺跡
妄想や願望ではなく、年代と根拠に基づいて考察しないと歪むよ 熊襲が狗奴国なら、小勢力ながら相当粘ったってことだ 藤原不比等は所謂魏志倭人伝も読んでいただろう
当然卑弥呼の事も大陸に使者を送った事も知っていた
ただ、その事を日本書紀に書くわけにはいかなかった
ヤマト王権とは全く関係ないからだ そりゃ🇯🇵日本と軍事同盟結びたがるわ
滅んだ🇬🇧大陸イギリス領土? >>588
細かく言うと邪馬台国卑弥呼時代はは3世紀初頭ぐらいまで
衰退してきたから朝貢を出して魏を後ろ盾にした
しかし3世紀中頃には南の狗奴国に攻め込まれ崩壊
臺与女王で立て直すも3世紀末で消滅 >>578
アレは神武漂流記よ、、しかも年齢とか考えたら何人かの話をチャンポンしているはず
軍団が徒歩で大台ケ原を越えられない、食料の補給が無理、水も怪しい、そして山で迷って全滅する、GPSどころか地図も無いのに山越えなんて無理だよ
山岳ルートは守る方が何倍も有利で、取っては駄目な戦術だよ
北九州から淀川西岸まで押さえた大経済圏だよ、大軍が動員出来るんだよ、小さな盆地に住む土人がかなうはずが無い
淀川西岸まで押さえないと神武天皇の奇襲攻撃も無理でな、途中でキャンプしている所を襲われて全滅する
当時は丸木舟だから時速4キロほど、天候次第で簡単に転覆する舟だし、レーダーも灯台も無いから夜間航行は無理、逆潮は前へ進まない、海が荒れたら浜に引き上げて回復を待つしかない
記紀によれば吉備から生駒山まで200kmを半月掛かっている、一日15kmほど、大半は浜でキャンプだったろうな、そこを賊に襲われたらひとたまりもない、生駒で蹴散らされたのはそれだった気がする、そして潮に流されて熊野へ打ち上げられた、、 中国台湾では邪馬台国は3世紀末まで九州にあった幻の国だと言われてた >>589
「古事記上巻系譜」は
建速須佐之男命-八島士奴美神(八島篠)-布波能母遅久奴須奴神(布葉之文字巧為)-⑤深淵之水夜礼花神-淤美豆奴神
つまり吾田片隅の祖はスサノオ >>580
時系列は以下
おそらく景初中に司馬懿が東夷を平定した後、東夷は魏の治世と折り合いが悪くなり衝突するようになった
そして魏は荒れ始めた東夷をふたたび力で抑えようとする
難升米に黃幢を授ける→張政に持っていかせる のもその一環なのではなかろうか
正始元年(240年) 太守弓遵 遣建中校尉梯儁等 奉詔書印綬詣倭國
其六年(245年) 詔賜倭難升米黄幢 付郡假授
↓
【魏書三少帝紀】
七年(246年)春二月 幽州刺史毌丘儉討高句驪 夏五月討濊貊皆破之 韓那奚等數十國各率種落降
246年になると東夷各国が反抗的になり楽浪郡、帯方郡と衝突するようになり帯方郡の南側も荒れる
↓
【魏志韓伝】
部従事呉林以楽浪本統韓國 分割辰韓八國以與楽浪 吏譯轉有異同 臣幘沾韓忿攻帯方郡崎離營
時太守弓遵楽浪太守劉茂興兵伐之 遵戦死 二郡遂滅韓
太守弓遵はこの戦いで戦死してしまい帯方郡の太守が空白になる → 247年には太守王頎が到官する
そして楽浪郡、帯方郡の2群はついに韓を滅ぼした
↓
其八年(247年) 太守王頎到官 (中略) 遣塞曹掾史張政等 因齎詔書黄幢 拝假難升米 卑弥呼って60年間邪馬台国統治してたんでしょ
その間に繁栄もしてただろうけどその分死んだらまた九州で大乱起こるの当たり前 スサノオは色んな人を習合させ作られた神
だからガイジであり英雄とトンチンカンな神様になった 吉野ヶ里はたまたま工業団地予定で
発見されてから国立公園予定で交渉し
広く発掘できたから大きく発掘できただけ。
普通は建物の建築時に発見されて
建築物の範囲でしか発掘できないから
大きくできないだけ。
遺跡地図などを見れば
市街地全体が遺跡だろうと
推定できるところがいくつかあるが
もちろんそんな広範囲を発掘できるわけがない。
例えば吉野ヶ里の西の小城市は
市街地いっぱいに遺跡がある。
福岡の須玖岡本遺跡とか博多遺跡も
かなり広域だ。 >>581
最新の研究だと古墳のすぐ側で作られたと考えられている
要するに古墳に埋めるために作られた鏡が三角縁神獣鏡
鏡面仕上げしてないから鏡として使えないし
紐を通す穴すらちゃんと空いてないものもある >>604
倭国統一→大乱→邪馬台国→大乱→トヨ
これが魏志倭人伝から伺える話
続きは、魏志倭人伝から世界を滅亡させようと立ち上がったプーチンにある
トヨ以降、八女辺りで邪馬台国が分裂したんだよ
どいつもこいつも女首長を立てた、8人いたんじゃねえの
勿論ロシアの分断工作だ!
プーチンはネオナチと戦う為に邪馬台国に攻め入ったのは紛れもない事実
しかし邪馬台国は中国の支援によりドローンを大量に使って見事防衛した!
ところが米がついにトランプ大統領になったのでトヨがピンチになって八女が誕生したのだ 邪馬台国や卑弥呼を瀬戸内海の奥の大阪や奈良県にしたいのは
天皇の政治の連続性に拘っているからだろ
そもそも大和をヤマトと読んだ経緯さえわかっていないのに
どうして日本と大陸交易の始まりを大和朝廷にしたいのか?
100人規模の人数とたくさんの交易品を持ってきた大型船だろう
大陸からの使者が九州の松浦に上陸している
大陸との交易も皇帝から金印を受け取ったクニも、もう九州以外考えられないだろう
弥生時代の国なんて今でいう市や村の大きさ、一国で現代の県よりも小さいんだぞ
奈良県に執着する、政治的に天皇に繋がるなんて執着するのは歴史学を冒涜している つまり狗奴国=プーチン・ロシアで確定
近畿は米から支援を受けて東の蝦夷・イラン連合軍とやり合っていた
ハイマースが当初は頑張っていたが、イランはとうとう奥の手を使い始めた
すなわちイスラエル それに一万二千里ならば九州でしょ
女王国なんて奈良にはない >>614
九州だね
中国に近いから
きんぺーだってアホじゃないから一応ロシアを裏では牽制している・・・はず 中国から九州にやって来た時は卑弥呼の統治末期でかなり不安定だったんだと思う
だから遠回りして入ったし直接会うことも出来なかった 英中が邪馬台国に近づき、ロシアがこれを奪おうと
米は近畿?当時の関東はイランの支配下だった >>617
それは単純に狗奴国=ロシアとの戦いが激しさを増していたから
卑弥呼倒れた後に倭国大乱化したのは狗奴国が分断工作をかましたんだ
プーチンのやりそうなことだ 実は我が国は外国に対しては
国名は倭か日本としか呼称していない。
倭人伝、倭国伝、日本伝など。
ヤマトがあったとしても
それは国ではなく地方名でしかないが
そもそも、ヤマトという呼称が古事記、日本書紀にはない。
平安時代あたりに、
倭、日本はヤマトと読むなり
という後付がされただけである。 古墳と祭祀遺跡は、いずれも古墳時代を考える上で重要な要素である。
石製模造品は、その両者を共通して分析できる数少ない遣物の一つであり、古墳時代中期を代表する祭祀遺物である。
畿内を発祥の地とし関東地方で盛行することから、大和政権の東国に対する勢力伸長を反映するものと理解されてきた。
この考えは、今日にいたるまで基本的な視点として受け継がれている。
ヤマト王権版図
https://i.imgur.com/PyRM1oH.png
赤線は内陸部主要交通ルート
https://i.imgur.com/k2LAIg2.png
宮城県栗原市鳥矢ヶ崎古墳群(蝦夷の族長伊治公砦麻呂の墓とされるが、発掘人骨は渡来系であった)
宮城県大崎市青山横穴古墳群、大崎市混内山横穴古墳群、塩竈市清水洞窟
山形県米沢市戸塚山古墳、福島県喜多方市灰塚山古墳、福島県郡山市正直古墳群
いずれの古墳人も、縄文人の特性は見られず渡来系の特徴を持つ
東北南部は4世紀から5世紀にかけて、ヤマトの土師器・墓制を持った関東から多くの移住があったと思われる ヤマト王権の二大拠点
https://i.imgur.com/0xStLVu.png
https://i.imgur.com/A5yhT4F.jpg
三陸河北新報社2022年8月24日
【東北学院大博物館学芸員 佐藤敏幸氏】
宮城県は弥生時代の集団遺跡がとにかく少ない。人類の生活の痕跡が見えない中、古墳時代前期(4世紀)になって突然、蛇田の新金沼遺跡に集落が出現する。
石巻地方に古墳時代人が登場したのである。
突然、大集落が出現しただけでも驚きなのに、さらに驚いたのは住居から出土した土器である。関東・東海地方の特徴を持つ弥生土器よりも装飾のない「土師器(はじき)」と呼ばれる土器である。
東北地方の古墳時代は関東・東海地方の人々の移住から始まったのである。
ともかくも、こうして東北各地に移民による拠点集落ができていった。
岩手奥州の中半入遺跡、石巻の新金沼遺跡、大崎の名生館遺跡、多賀城の山王遺跡、仙台平野の南小泉遺跡、名取の清水遺跡などが有名だ。
いずれも結構な数の須恵器の出土が見られる。
当然、さまざまな道も生まれていった。
仙台平野から大崎平野をへて北上盆地に向かっては「山道」(さんどう)と呼ばれた幹線道路があったことも知られている。
「道奥」は道がなかったわけではなく、中央ヤマトがそのようにみなしただけだった。 古墳時代前期から中期に該当する4~6世紀には、前方後円墳・箱式石棺や横穴式石室・横穴墓が東北南部にも数多く造営され、北限は岩手県奥州市にまで分布域を広げるようになる。
しかしこれとは別に、東北北部では、土坑墓と考えられる独自の遺構群の存在が確認されている。さらに7~10世紀には高塚古墳に似て非なる「終末期古墳」が築かれ、北上川流域を主たる分布域とするようになる。 しかし東北北部の土坑墓や終末期古墳では、断片的な骨格の部位が確認されればまだましな方で、土壌中における腐食や盗掘による撹乱あるいは風化によって、人骨が完全に消失しているケースがほとんどである。
実際に保存状態の良好な古人骨が出土するのは、もっぱら東北南部における横穴墓、洞窟遺跡に限られているのが実態である。
顔面平坦度に関する項目を含めた頭蓋計測値18項目に基づいて集団間でペンローズの形態距離を求めると、
宮城県塩竈市清水洞窟や仙台平野熊野堂横穴墓集団などは西日本弥生人・東日本古墳人に類似するが、東日本縄文・北海道アイヌとはまるで正反対の領域に位置づけられる。
東北南部には開拓を期して特に関東を中心とした各地から数多くの移民が入ってきたことが、この墓制が彼らによって導入されたとみてよい。
ミトコンドリアDNA分析の結果
https://blog-imgs-144-origin.fc2.com/g/e/n/genomuseum/emishi.jpg
核ゲノム分析の結果
https://blog-imgs-144-origin.fc2.com/g/e/n/genomuseum/emishi2.jpg
参考文献
JSPS 科研費 26440257 基盤研究 (C)エミシとは誰だったのか―学際的研究で探る東北古代人の人類学的・考古学的実像―(代表:安達登)
JSPS 科研費 16K18631 若手研究 (B)古代ゲノム分析による関東古墳時代人の親族関係と遺伝的構造の解明(代表:神澤秀明) まあ東大阪のあたりで負けて「東から攻めよう」ってなったら
普通はせいぜい紀の川(中央構造線)に沿って東へ進んで
吉野あたりから宇陀へ出る方がずっと近いし、早いよね。 邪馬台国はどこにあった?
→倭奴国の中、すなわち九州
何故なら倭国大乱で分裂した小国の内の一つだから
狗奴国はどこにあった?
→ロシア
阿蘇〜日向はロシアの植民地だった為
畿内はその頃何してた?
→米の実質植民地
米から独立するのはヤマト政権誕生より少し後であり、古墳時代前期までは工場でひたすら車作ってたよ >>624
狗奴国は南の国や
馬鹿はもう黙ってろよロシア工作員がよ
NGすんなカス 245年 難升米に黃幢あげることにするね
↓
246年 東夷各国がうるせーから逆らうやつらは討伐するわ
楽浪、帯方郡がついに韓を滅ぼす
↓
247年 倭が載斯烏越を遣わす「もともと狗奴国と揉めてんスよ」 説相攻撃状
張政「難升米くん黃幢もってきたよ、わかってるよね?」 為檄告喩之
ここで、卑弥呼の死!! 根本的なレベルで勘違いしてる人がいるが狗奴国は邪馬臺国の南じゃなくて「東」の国な
後漢書で明確に方角が修正されてる
狗奴は毛野という説もあるが、言語学的には3世紀東海方言の久努と同じって説もあるな 邪馬台国
倭奴国内にあった小国なので、吉野ヶ里〜八女辺りすなわち久留米確定!
反論ある奴は根拠示せよ
狗奴国
邪馬台国の南もいくつか女王国連合なので阿蘇〜日向のことだろう
神話の時代の連中の国のことだと思われる
侏儒国
明らかに九州最南部なのでハヤト確定、海渡ってないし島という記述もない為 >>632
魏志倭人伝見て書いてんのに修正しようがねえだろ
単なる記述誤りだよ >>606
もうそういうのいいから
根拠だけ出せよ
今の考古学者の定説は奈良の纒向遺跡だよ >>632
作者のひと魏志倭人伝をまとめるときに魔改造コピペしただけだと思うよ
魏志
其南有狗奴國 男子為王 其官有狗古智卑狗 不屬女王
女王国東渡海千餘里 復有國 皆倭種
後漢書
自女王國東度海千餘里至拘奴國 雖皆倭種而不屬女王 辰砂が産出する徳島が邪馬台国第一候補
古事記の舞台も徳島県 >>602
高天原を追放されて出雲に降り立ったスサノオは、ヤマタノオロチという怪物に毎年娘を食われているアシナヅチ・テナヅチの夫婦と、その娘のクシナダヒメに出会った 古事記に九州は、筑、肥、豊、熊襲と別れており
熊襲は、日向、大隅と言われる。
言及されていないが、おそらくは薩摩も入ると思われる。 >>635
纒向w
魏志倭人伝と全く異なる遺跡を根拠だとかw
まさにチョソw >>600
瀬戸内海をうろうろしてるから漂流記と言えなくもないが、要するに各地の勢力を味方につけて回ったってことだろう
同時に噂も流したと
熊野にも噂は届いていて、味方を得られたってことなんじゃないかな
山中越えは困難かもしれないが、地元民の案内者がいればいいわけで、八咫烏が讃えられるのもそうした功績だろう
>>622
古墳の被葬者のDNAを調べたところ、縄文系だったって例はいくらもある >>631
菊池郡という地名は7世紀くらいから記録され出すから
邪馬台国の頃はもっと南だった可能性がある
というか狗奴国に熊本平野奪われて奈良に行った可能性すらあるんじゃないかと。 >>642
そもそも魏志倭人伝の年代に出てくる遺跡が九州に無いんだが 九州で弥生遺跡が多いのは福岡だが
福岡からは水銀朱は出ていない。
大分、長崎、熊本からは出土している。
水銀朱を扱ったとされる丹生神社も各地にある。
丹生神社は川沿いにあることが多く
流れてきて堆積した土砂から
水銀朱を選別していたと推測される。 動もすれば。
🇭🇺időじゃんwwwww
🇯🇵日本人が作った偽高句麗語なのか >>645
そんなことはない。
吉野ヶ里だって1世紀から9世紀までの複合遺跡なんだから。
住みやすいところはずっと住み続けるもんだ。
縄文からの複合遺跡が、唐津の菜畑遺跡で
たしか7層くらいまであった。 卑弥呼の死んだ頃の畿内古墳に銅鏡があるなら
卑弥呼の墓かもしれないし、そこが邪馬台国かもしれないが
なんで卑弥呼が死んで数十年・数百年たった畿内古墳に銅鏡があると
邪馬台国がそこにあることになるのか分からん? >>646
末盧国(松浦)
そもそも日本列島ならどこでも水銀は珍しく無い >>646
黒塚古墳の朱はほとんどがベンガラだぞ無知 >>645
吉野ヶ里も那珂も筑紫平野全体が継続遺跡だぞ?
お前本当に日本人か? >>627
堺や泉南が誰の支配下かとか考えたら、簡単に迂回攻撃なんて無理だよ
補給線を叩くのは太古からの常識でな、分捕れば食えるし
大台ケ原の住民は大和盆地の支配下なのは間違いないし、山道を知ってるし、迂回攻撃で糧秣を現地調達なんてやったら反撃を食らうのは間違いないし
だから大軍の攻撃はジワジワ押して行く戦略になる 邪馬台国がどこかなんかよりも、侏儒国、黒歯国がどこかを探求した方が面白いぞ。
ロマンがある。 卑弥呼、天皇→祭祀王、国家安泰、太陽を崇め五穀豊穣を祈る
卑弥呼のシャーマニズムが天皇家へ宮中祭祀として継承されている
天皇家は古事記に天照(卑弥呼)から続く正当な日本の支配者として編纂
邪馬台国はヤマト王権の前身であり、近畿、出雲、北部九州の連合国 卑弥呼はヤマトの女王
当時のヤマトの支配地域は
九州の北部 四国中国に近畿
そして東は岐阜愛知まで
静岡西部がクノ国
ヤマト連合王権と争っていたのは東海連合 >>648
吉野ヶ里遺跡の最盛期は2世紀
3世紀の邪馬台国を主張するなら、吉野ヶ里遺跡を越える3世紀の遺跡を根拠にするべき
で、九州のどこの遺跡のこと言ってるの?ないでしょ九州に >>652
誹謗中傷はいいから
3世紀に吉野ヶ里遺跡以上の遺跡をお前が示せばいいよ >>661
考古学者の殆どは奈良の纒向遺跡と見てるよ
今の定説は奈良 クノ国とヤマト国
中間地点がちょうど伊勢なんだよな
あそこって倭国大乱の戦場だった可能性がある >>634
>>636
東と南をうっかり転記ミス?勝手に魔改造?范嘩は全然仕事できない人なのか
まあ魏志も陳寿が先行資料からうっかり方角転記ミスしてるかもしれないし方角論争は意味ないな 奈良が吉備を完全平定したのは四道将軍以降でしょ
九州平定とか景行天皇辺りの4世紀 >>660
毎度疑問に思うんだが最盛期を過ぎていると、
どうして邪馬台国にならないのか不可解
邪馬台国は滅んで空白の四世紀が来たと見たら
むしろ衰退国の可能性もあるのでは? >>630
チョーセーはイヨに追放されてる
やっぱり工作員だったんだな 方角ミスの原因は古代日本語のネシが原因らしいと言われている >>660
中国の倭人伝に邪馬台国の最盛期に関する情報は一切無いが?
半島の三国史記には卑弥呼時代に倭国で飢饉が発生した事が書いてある
当時の気象に関するデータから卑弥呼時代は異常気象に見舞われていた事がわかっている
まさか畿内説とかいう漫画を読んでそう思ったのか? 邪馬台国が3世紀半ばで滅んだから奈良王朝が西に進出出来たんだろうね >>660
そもそも史書の記述から邪馬台国時代の北部九州政権は大乱を経て弱体化・斜陽なのは常識 >>674
そもそも邪馬台国全盛期に畿内にはそんな力はなかった >>665
何の痕跡も無いのに可能性があるとか?
学問に向いてないんじゃない? >>677
伊勢に天照が祀られた経緯が草
皇室追い出されて彷徨った末に伊勢だし >>639
>>602
高天原を追放されて出雲に降り立ったスサノオは、ヤマタノオロチという怪物に毎年娘を食われているアシナヅチ・テナヅチの夫婦と、その娘のクシナダヒメに出会った
そしてヤマタノオロチを退治して、クシナダヒメを嫁にとり根之堅洲国にある須賀の地に宮を建てた
アシナヅチ・テナヅチの夫婦は、私達の娘は、天照大神の弟の天津神に嫁いだと大騒ぎだ >>655
宮中祭祀なんてできたのは八世紀以降かなあ?
それ以前は部下の物部神道と新興宗教の仏教だろうし、何より
アマテラス自身は伊勢神宮に追いやられてし つか、二文字姓三文字姓一文字姓
いわれ残ってないの?なんで二文字にしたの? >>679
何度同じことかいてんだよ
それが邪馬台国とどう関係あんねん >>603
邪馬台国「魏が怖すぎ、南北に広い大国に見せかけよう」
司馬懿「半島の背後、呉の沖合にある大国と同盟を結べば反乱しがちな半島やライバルの呉を牽制できる
俺、出世できるやん」
陳寿「朝貢する国が遠いほど、大国で豊かで礼儀ただしいほど、皇帝の徳が高いというもんね
司馬懿をアゲアゲしておこう
あぁ、司馬懿が朝貢のきっかけを作った邪馬台国は何て遠くて豊かで広いのでしょう」
こんな感じかと思ったわ
三者三様の思惑が一致したからこそ、幻の邪馬台国が出来上がったんじゃないかと
つまり、伊都国から邪馬台国までの距離や人口、民度をだいぶ盛ってんじゃないかと予想 >>666
自分の見解では三国志執筆時=3世紀時点では
九州邪馬台国にとって南の狗奴國=南九州の球磨人が脅威だったが
後漢書執筆時=5世紀時点では後の時代の情報が加わり、
東の拘奴國=ヤマト政権の脅威を取り入れたんだろう >>669
なんでだと思う?
歴史を知ってたら簡単な理由だけど思い浮かばない?
邪馬台国は倭国大乱を終結させて日本を統一した3世紀のクニ
ここまではいいだろ?
じゃあ2世紀に最盛期を迎え、3世紀には衰退してる吉野ヶ里遺跡やその周辺のクニが、3世紀に最大規模に政治的に発展してる纒向遺跡よりも上だとは誰も思わないからだよ
九州説を出すなら邪馬台国があった3世紀に、せめて吉野ヶ里遺跡以上の大規模な遺跡を出さないとな このスレの人たちが述べる見解はどれこれも古い。
もっと新しい学説を述べないと。
邪馬台国だって、当時の帯方郡の変動を敏感に察知してたように、
当時の大陸の情勢の影響が大きかったんだよ。
そして、3世紀末から4世紀初頭は、北方遊牧民が中原を荒らしてた時代だ。
その影響は日本にも当然あった。もっとグローバルな視点が必要だよ。
邪馬台国にしろ奈良の大和王権にしろ、ツングースあたりの騎馬民族が日本に流れ着いて
これを討伐し、政権を打ち立てた。それが応神天皇以降の河内王朝だよ。
崇神、景行あたりで隆盛を誇ったヤマト政権にしろ、邪馬台国にしろ、打倒されたんだ。
こういうグローバルな視点は無視できないね。天才・手塚治虫も同じような見解だ。 >>684
戸数は多分倍くらいだと思う
ただ対呉牽制説を取れば、本来東を南と記述した可能性出てきて畿内の弱点の一つが無くなるんだよね >>684
魏から軍事顧問の張政が
愉快な仲間たちと邪馬台国に派遣されてんねんで! 3世紀に壱岐対馬の朝鮮交易路を抑え、伊都国と奴国と投馬国を従え、その他30カ国が参加する連合の盟主で都なんだろ?
邪馬臺国は
五万戸とか七万戸とかは誇張だろうがそれなりの格ってもんがあるだろ
伊都国や奴国よりショボいのはどういうことよ 九州説はさすがに無理がある
3世紀の200メートルクラス巨大古墳が奈良には複数ある トヨの後に、男王が立ってるだろ。あれも大事なんだよ。 >>687
今更騎馬民族征服説とか面白いな君
騎馬民族はC系統、ハプロ的にはほぼ完全に否定されたと言って良い
ただ三重構造説→O2漢民族征服説が新たに出てきた感じだね 奈良は大陸情勢どころか九州情勢すら知らなかったと思う
神武の故郷くらいにしか思ってない 竹内文書によると、倭国大乱で一時九州に帰って吉備倒して大和へ行ったんだって。最終的には畿内に来たんだよ >>688
畿内なら東を「南」と書き換えただろうし
九州なら距離を盛ったんだろうし
どっちもどっちかな 殉葬がある祇園山が卑弥呼の墓だろ
殉死という名の粛清だと思うけど >>689
張政は帯方郡の軍人だから、司馬懿が不利になるような証言はしないと思う 邪馬台国は魏と外交をやっていた国
邪馬台国論争のスタートラインに立つために必要な資格は魏と交流した痕跡があること
九州説の人はまず魏との交流痕跡を頑張って探すこと
もちろん伊都国や奴国の領域以外で
今の状況では邪馬台国論争に参加する資格さえない >>699
そう、C系統は縄文で既に流入しており古墳時代に大量流入した形跡が無い >>701
なら根拠を示せば?
それをいうならお前は根拠を示せるんだろ?
3世紀に吉野ヶ里遺跡以上の、纒向遺跡以上の、遺跡を出しなよ
九州はもう3世紀には衰退してるじゃん 箸墓と巻向で決まり
九州説は墓も宮殿もわからないw >>646
某首相ではないが「ボクは丹生神社には詳しいんだ」……
というのは嘘だけど、和歌山の丹生都比売神社を筆頭とする
丹生神社は、おそらく丹の採掘に携わった丹生氏の氏神だった
ものが、採掘場が川沿いに多いために水の神様である「罔象女神」
とも混同されるようになって、その数をさらに増やしたものと
思われる。
もっとも全国の丹生神社の中には後年になって丹生都比売神社や
その他の丹生神社を勧請してきて地元の氏神にしたところもあって、
本当に丹(辰砂)を産したかどうかはきちんと由来等で判断した
ほうがいいとは思う。
ちなみに丹生神社のある川沿いには「赤滝」という名前の滝が
あるところもあって、それこそ丹(辰砂)によって赤く見えた
のではないかと思ったりもしている >>700 >>702
邪馬台国は筑紫平野概ね山門付近、卑弥呼の墓は祇園山
はっきり言ってほぼ確定してるわけだけど、そんな当たり前の事話すより
大宰府説やら宇佐説やら話す方が楽しいじゃん? 黒歯国、侏儒国、裸国は南洋諸島からアメリカ大陸だろうな。
その当時からポリネシアやアラスカ経由でアメリカ大陸と交通があったのだろう。 >>705
しかし縄文と見られてる琉球沖縄が
o2bのメッカだね >>706
だからその纒向が妄想じゃんて
纒向遺跡出土品
イノシシよけの垣根に囲まれた柱の細い平屋一軒
木製土木用品
資材運用運河(小川)
東海製飯炊土器
残飯各種(サバの骨、イノシシの骨、カエルの骨、桃の種)
仮装用木製仮面
何処が女王国なんだよ?www 今時の畿内説は詐欺だろ
テンプレ③
纒向遺跡を目の当たりに見てきた人の見解
坂靖・著『ヤマト王権の古代学―「おおやまと」の王から倭国の王へ』(2020/2/5)
著者の坂氏は奈良県立橿原考古学研究所付属博物館の学芸課長を経て、現在、奈良県地域振興部文化財保存課の主幹という、
現役の奈良県の考古学者でありながら、邪馬台国北部九州説の立場をとっています。
(中略)
「ヤマト王権は、布留式期に日本列島各地に強い影響力を行使することをはじめたのであって、
初期のヤマト王権の版図は、きわめて限定されていたとみるべきである。
・・・弥生時代中期から後期の近畿地方においては、中国との直接交渉を示す資料がほとんど知られていない。
楽浪形土器は北部九州に集中し、松江市以東にはまったく認められない。
邪馬台国の時代、すなわち庄内式期においても、魏と交渉し、西日本一帯に影響力をおよぼしたような存在が、奈良盆地にはみあたらない。
邪馬台国の所在地の第一候補とされる纏向遺跡の庄内式期の遺跡の規模は貧弱であり、魏との交渉にかかわる遺物がない。
さらに女王卑弥呼の居所は、出入りするものは男子が一人いただけであり、そこに宮室・楼観・城柵が厳かに設けられ、
常に人がいて、兵が守衛するような場所であったと記されるが、纏向遺跡にはそのような場所を認めることはできない。」 ていうか、普通に考えて邪馬台→ヤマトでしょ
やまたいは古代中国語ではヤマドゥと発音するらしいし はっきり言って考古学的にも史学的にも畿内説は問題外で、
イデオロギーで主張してない限り畿内唱える人間は絶望的にセンスが無いとさえ思う >>715
上古音でヤマドゥと読んだならば筑紫山門だろうね >>686
?
邪馬台国は武力ではなく女王を共立して成立した国
武力的に衰えたからといって女王の権威が維持されている限り、
崩壊はせんだろう >>712
そんな纏向邪馬台国があってもいいじゃん
平和だからこそ環濠のない広い場所に都市計画できたんだし、曹操の薄葬令はスルーで巨大な古墳を造れた
遺跡そのものからは鉄鏃は出てこない
歴代の王や巫女の墳墓も、戦死者の墓も出てこない
平和で牧歌的でのんびりした国ができて、それがヤマト政権に繋がっていくなんてロマンがあるじゃないか 古墳の鏡は古墳時代の遺産
邪馬台国と関連付けるのには無理がある 後、纏向より吉野ヶ里が下だと
なんで吉野ケ里が邪馬台国にならないのかも理解不可能
むしろ「吉野ケ里邪馬台国が纏向ヤマト政権に滅ぼされて
空白の四世紀になった」でいいのでは? >>718
記紀によると4世紀の筑紫の土蜘蛛征伐時に女王が乱立してたから
邪馬台国は衰退・分裂しつつも女王の権威が残存してたと思われるんだよね >>0719
纏向の周りは古墳ばっかりなんですがそれは…… 魏志倭人伝の大きな戦乱起こってたのは九州であって東海じゃないでしょ
九州と奈良が連合ならば魏に頼む前にお互いで援軍出し合ってるでしょ 畿内はとりあえず古墳が古墳時代じゃなく弥生時代に造られたという歴史コリエイトを止めようぜ >>727
銅鏡や鉄鏃、数々の副葬品が出てきた古墳を邪馬台国時代のものとしないと、畿内説は成立しないじゃん いつまでやってんだよ
もう誰か石板に「卑弥呼の墓」とか掘って近場に埋めといてやれよ >>712
邪馬台国があった3世紀に、纒向遺跡は考古学的にも後世に至るまで市的機能を有し、王権祭祀、王権関連建造物を有する巨大な集落
こんな巨大な集落は邪馬台国があった3世紀の日本列島には他に存在しない
この3世紀の纒向遺跡こそが「ヤマト王権」と呼ばれる列島最初の王権の都が置かれた年であった可能性が高い
こんな今大注目の纒向遺跡をその程度の知識しか要してないでよく反論出来るわ 畿内説は時代がおかしいんだよ
150年以上は後のもの
九州の邪馬台国などと畿内出雲勢力の争い 纏向遺跡は4世紀から5世紀なんだろ
政治的思想で歴史をコリエイトするのはやめろよ 3世紀の九州のどこに衰退してもなお30カ国を従える女王の権威を示す遺跡や副葬品の痕跡があるんだろう
1世紀2世紀に伊都国や奴国に権威があったのは分かるが >>722
倭国大乱を終結させて邪馬台国が日本を統一したからだよ
3世紀には衰退している吉野ヶ里遺跡周辺国が邪馬台国だと考古学者は誰もみてない >>733
纒向遺跡の年代をググってからレスしようね 倭国大乱って九州でのことでしょ
日本統一どころか狗奴国すら統一出来てない
邪馬台国も九州北部の暫定連合国家 >>735
邪馬台国に継続性がないんだわ
鬼道なんて残ってないし
滅んだのが正解 >>305
こんな素人質問にも答えられないなら畿内説が死んだと言うのも眉唾ものだね >>714
>ヤマト王権は、布留式期に日本列島各地に強い影響力を行使することをはじめたのであって、
>初期のヤマト王権の版図は、きわめて限定されていたとみるべきである。
邪馬台国どうこう以前の問題として、この主張は日本史の定説に反するこの人の独自説に過ぎない
>弥生時代中期から後期の近畿地方
弥生中期って紀元前なんだが?
そんな時期のことはどうでもいい
>中国との直接交渉を示す資料
北部九州を通じての間接交流なんだから直接交渉を示す資料がないことに問題はない
邪馬台国と魏が直接交渉したのは2回のみだからそのときの痕跡は見つからないだろうけど
>庄内式期においても、魏と交渉し、西日本一帯に影響力をおよぼしたような存在が、奈良盆地にはみあたらない。
西日本一帯を面で捉える必要はない
モザイク状の統治範囲で十分
畿内説を唱えるなら、西日本一帯すべてを統治した強大な権力の存在が必要と言うのは難癖に近い >>664
東海大学教授の考古学者北條芳隆氏
「いわゆる邪馬台国がらみでも(旧石器捏造事件)と同じようなことが起きている」
「証明を抜きにして仮説だけがどんどん上積みされておりマスコミもそれをそのまま報じている」
「近畿地方では古い時期の古墳の発掘も多いが
、邪馬台国畿内説が調査の前提になっているために
遺物の解釈が非常に短絡的になっている。
考古学の学問性は今や崖っぷちまで追い詰められている。」 >>731
俺は畿内説派だが、纒向についてそな考察してるアホは誰だ?
足引っ張んなよ >>687
天皇絡めて語るのは止めた方がいいよ
古代天皇の編年に関してはデタラメだから 奈良は戦争より疫病に悩まされてたんだけど?
それで必死に崇神が大物主を三輪山に奉ったんだろ >>735
倭国大乱で暦年主なし
これで九州倭国は壊滅的なダメージを負った
其俗國大人皆四五婦 下戸或二三婦
身分の高いものは妻を4,5人、身分の低いものですら妻が2,3人はいる
その戦災ダメージは深刻な男不足をもたらしてる
そんな戦災から逃れようとした人々はみな東の倭種の国々に逃げ出した
九州は卑弥呼の時代を通して立ち直れないほどのダメージを受け
そのおなじ時代に東の倭種の国は急激に栄えた
安帝の永初元年、倭國王帥升は生口160人を送った
一方卑弥呼の送った生口はたったの10人だった
倭国大乱によるダメージがもたらした衰退は深刻だった
2世紀末、そんな風に衰退した地域を探せばよい
そこが卑弥呼の共立された場所だ >>738
邪馬台国は3世紀後半に出来る「ヤマト王権」の政体そのもので継続してるというのが今の考古学の定説だぞ >>1
魏志倭人伝を書いた者です
ごめんなさい🙏全て嘘です
噂や伝聞に物語のパクリを織り混ぜて
適当に書きました
多少は真実も混じってるかもしれませんが
大半はフィクションです
日本にも行ったことないのw
無職のオジサンたちも怪しげな邪馬台国本なんか読んでないで
早く仕事に戻ってくださいねw
あ、すべて自分のせいでしたね
ごめんなさい🙇🙇♀ 邪馬台国がどこにあったかは不明だけど
3世紀後半から畿内の豪族がまとまり始め、ヤマトという国が誕生した
ここまでは合ってるよね? >>741
なら3世紀の邪馬台国と年代が合う九州の遺跡を示せばいいのにね
ないのにグチグチ笑えるw >>747
考古学なんて
国家神道が作り上げたものだからな
未だに調査もできない あるかどうかわからない邪馬台国より
平城京跡を横切る近鉄の踏切を撤去する方が先
あのゴミを野放しにしている今の奈良に歴史を語る資格はない >>753
考古学すら否定するなら、俺は何も言うことはないからもう俺にレスしなくていいよ
お前の妄想に付き合うつもりねぇもん ちなみに空白の四世紀って帯方郡を高麗に占領されるわ、西晋が
滅んで五胡十六国になるわで、どこに朝貢していいのかわからなく
なったからじゃないの? >>755
天皇陵がいい加減なのは事実だろ
調査もしてないのに
何を持って定説なんだろ きっと酒造りが疫病退散したんだろうね
アルコールだし >>749
いや、まとまったのは3世紀初頭(あるいは2世紀末)
定型化された前方後円墳が全国に築造されたのが3世紀後半
では、3世紀前半はどうなのかというと、纒向型前方後円墳というプロトタイプの前方後円墳が築造され、畿内系土器が各地に浸透していった時期 >>511-512
スサノオを神武天皇に比定してる人はアマチュアに多いね
プロが比定するには材料が少なくてファンタジー領域に入ってしまうが >>757
266年晋の初代二年目を最後にそれまで頻繁に続いていた女王国の朝貢が突然に途絶える
その後4世紀になるころまでは他の東夷各国がしきりに晋に朝貢をくりかえしてるにも関わらずだ
266年以降、女王国にいったい何が起こったのだろうか…… >>758
宮内庁が調査させないんだよな。きな臭い事実が出てくるものだから >>34
ツッコミどころ満載なんですが逆ですよ逆w
ヤマト王権になってから弥生人たちの風習である入れ墨が完全に禁止されるようになった事から考えても分かるでしょう >>741
この人、まともなこと言ってるな。こんな人もいるのね。 >>175
卑弥呼の銅鏡を使った鬼頭が絶大の人気で
魏から輸入される渡来鏡が待てないとなると
国産化に移行するのは極自然なことよなw >>719
願望じゃなくて真実が知りたくはないの? 卑弥呼の末裔は奈良県南部の森の中の部落に今も生きていて、その一帯は日本国憲法が通用しない。
ある年齢以上の奈良県民ならほとんどがその事実知ってるが、知らないふりをして生きている。 ヤマトの上流階級は入墨をしていなかったようだ。
血の匂いを忌むのがヤマトの宗教だからな。
これは今の日本神道にも引き継がれている。
ヤマト王権は当時の日本ではかなり進歩的な政策を取っていた。
渡来人を大量に呼び寄せて宮のお膝元に住まわせるのが常だった。
少なくとも今のネトウヨよりは頭が良かった。
韓国や中国の人たちに冷たくはなかった。 >>735
毎度思うんだが畿内説は懐良親王を無視してるのはなんなの?
北九州の覇権を数年維持しただけの懐良親王だって
「日本国王」と中国に認定されている
北九州に数年覇権を維持しただけの国でも
日本国王にしてくれるのが中国ですよ
魏志倭人伝の記述からして卑弥呼邪馬台国と中国が交流した期間も
懐良親王と大差ないし、懐良親王と同程度の立場だったのでは? >>750
同じ年代だから邪馬台国に違いない
とか幼稚すぎるぞ? >>762
まあ35年くらいは朝貢できないこともあってもおかしくない気はするけど。
それこそ三世紀末は高句麗が半島の北側でどんどん勢力を強めてただろうし。 >>641
仲哀天皇の神功記では八代平野に住む熊襲に敗北
筑紫平野は民を従える女王の国が乱立しており神功に征伐されているので
当時から福岡平野、香椎の辺りまでは天皇に従っていたとみて間違いない
熊襲祭りは宮崎県都城市
隼人弥五郎祭りは宮崎県日南市、都城市、鹿児島県曽於市
奈良時代『大宝律令』夷人雑類の項では、毛人(蝦夷人)、肥人(肥前、肥後人)、阿麻弥(奄美人)らの類を「異人」と記し、
「隼人・毛人を列島内では異人と謂ふなり」とも記述している。
「西方民族の名称の古史に見ゆるもの、隼人あり、熊襲あり。肥人・薩人あり。種禰人・夜句人・阿麻弥人あり。
海神の部下にありと思考せらるる海部・安曇部など、また西方民族の系統に属するもののごとし。」
夷人雑類の肥人。水野祐はこの異族を西九州の漁労民にあてている。熊本県の箱式石棺墓から出ている西九州の古墳人は、低顔という点では南九州古墳人をしのぎ、大腿骨骨体の柱状性も強いなど、その特徴は南九州古墳人によく似ている。
肥人は西北九州の漁労民と深い関わりをもつ異族だと言われているから、在来系の特徴をもつ西北九州弥生人は、肥人につながる人たちだったのかもしれない。
土井ヶ浜遺跡人類学ミュージアム2022年度研究報告第19号
https://i.imgur.com/EjGYJUH.png
https://i.imgur.com/tC3JELn.png 箸墓よりも前のデザインがまだ未完成で規格が不統一の前方後円墳(型墳墓)を纏向形前方後円墳という
卑弥呼(モモソヒメ?)の古墳である箸墓からは、高麗尺が使われて規格の統一された美しい墳墓になる。
卑弥呼の都には韓半島系の渡来人がいたはず。
纏向遺跡からは半島系の犬の骨や方相氏の仮面も出ている。
九州説ネトウヨのいうような話と違って、かなり纏向は大陸系の文化が強い地域だったはずだ。 >>776
とりあえず世界遺産になった仁徳天皇稜と応神天皇陵くらいは
掘らせてくれよって感じ。 >>770
女性は生理の血で穢れいうのは
仏教から来てるので支配層はトライ人だな 1、九州邪馬台国が畿内ヤマト政権に倒される
2、畿内邪馬台国が畿内ヤマト政権になる
3、畿内邪馬台国が拘奴国ヤマト政権に倒される
空白の四世紀を説明にするには1しかないと思ってたんだが
3の可能性もあることに気付いた
ただ3の場合、古墳時代になり次第、
畿内勢力が朝鮮半島に及ぶようになることの説明がつかない気がする >>778
アレ? 九州説が特亜認定されてて、畿内説のほうが
皇紀2600年の万世一系は絶対!のネトウヨなんじゃ
なかったの? >>762
狗奴国に滅ぼされたか弱体化・分裂した
まあ記紀の記述からすれば後者 魏志倭人伝に書かれた卑弥呼の居住区の様子
『宮室樓觀城柵嚴設常有人持兵守衛』
宮殿や高楼は城柵が厳重に作られ、常に武器を持った人が守衛している。
[佐賀県]
吉野ヶ里の大型建物
https://i.imgur.com/keDBaPY.png
高貴な人が住んでいたと思われる警備厳重かつ頑丈な建物
[奈良県]
纒向の大型建物のほっそい柱
https://i.imgur.com/LL8YcSm.png
古墳完成までの遺族向け宿泊所または作業員の飯場でしょうね 日本保守党を作ったあのハゲや武田宮など、日本会議系の連中は九州説を採用している。
何故ならば彼らは国学者の説を引き継いだ明治の古神道なる新宗教の信者だからだ。
信教の自由があるから何を信じても良いが自民党や維新を支持するのは許し難いわ。 >>774
そこでいう35年というのは他の東夷の国々が朝貢しまくってる期間だよ
女王国の朝貢は266年で途絶えて終わる
それまでは数年おきに朝貢しまくってたのに
そしてそのまま空白の四世紀に突入する >>783
伝統的には九州説の方が「古代王権が朝貢してたなんてあってはならない!」という右派 畿内派学者の捏造コンセプト
・ドラマチックであること
・発言者が権威ある人であること
・結論が畿内説につながること
・マスコミが報道してくれること
・予備知識のない大衆を騙せること >>789
100年くらいあとだっけ?なんていう史料だったけか >>791
あらゆる物を3世紀にズラしたから4世紀がスカスカなんだよ >>792
俺もちょっと失念しちゃったけど、主体が倭人だったと思う
300年頃倭人が朝貢したって記述ある あとあまり取り沙汰されない記述と言えば6〜7世紀頃に琉球が滅ぼされてる >>771
横レスだが
・数十年にわたり楽浪郡、帯方郡から役人が北部九州に来て、倭国の情勢についてかなりの情報を得ていた
・旁国21ヶ国も含めて倭国の国々についての情報もあった
・玄界灘沿岸の国は末盧国、伊都国、奴国で、それらは邪馬台国ではない
・3世紀の中国との交流痕跡があるのは日本列島の中で基本的に3ヶ所しかなく、それは伊都国、奴国、畿内の3ヶ所
・懐良親王に相当する九州勢力の場所を具体的に挙げた九州説論者は1人もいない
こんな状況であえて逆張りして懐良親王みたいなケースを考える必要はない
懐良親王みたいなケースがあると主張したいなら、まずは自分から九州のどこの場所の勢力かを提示すべき イル?
何がいるの?
Teisė ir Teisingumas 纏向遺跡の発掘調査から分かるのは、方相氏の仮面や桃の種など大陸系の宗教儀式が行われていたことだな。
方相氏というのは具体的イメージが難しいかもしれぬが、今の節分の豆まきを思い浮かべれば良い。
鬼の格好をしたやつを追い払うことで厄を祓うという行事だ。
これは明らかに大陸起源。弥生文化的なものではない。
纏向の文化は中国の道教の影響が強く、ヤマトには大陸との交流の証拠がないというのは明らかな嘘。
纏向の犬の骨は大陸系の品種だった。大陸系との合流がないどころか、大規模な渡来人の移住があっただろうな。 >>787
ちょっとググっただけなんで変なことを言ってたらすまんけど、
その頃の倭と地理的に似た条件の百済と新羅は四世紀になってから
ようやく初めて朝貢しはじめたみたいなので、帯方郡がやばくなって
きた三世紀後半頃にはもう倭も朝貢できなくなってたってことはないの
だろうか? >>796
アホ?
倭奴国はじめ筑紫平野連合国=邪馬台国だろ
『広志』(編纂:晋の郭義恭)
広志いわく、
---東南500里で到る伊都国、又南、至る邪馬臺国--
---(このあと魏志と同様に周辺国の紹介へと続く)
伊都国:福岡西区であり倭国の守衛国
↓
又南至る
↓
邪馬臺国:吉野ヶ里、甘木・朝倉、八女など有明海と取り巻く筑紫平野に存在した小国群の総称
筑後川の遺跡群
https://i.imgur.com/oMjsFIX.jpeg なお、邪馬台国の人が九州人であることが判明しました
魏志倭人伝に記載されているのは「邪馬壹(ヤマイ)国」
後漢書では「邪馬臺は邪馬惟(ヤマイ)が訛ったものだ」と書かれています
https://i.imgur.com/Y4EHDju.png
邪馬台国の人が「ヤマイ」のことを九州弁で「ヤマイたい」と答えたのでしょう 唐子・鍵は吉野ヶ里に勝るとも劣らない42万ha
吉野ヶ里が唐子鍵の出土品の絵を盗作して
楼観を建てたと吉野ヶ里のHPに書いてあった
魚拓をとって置けばよかった >>781
ヤマト政権の成立は3世紀中頃から後半
考古学者によっては3世紀初頭からヤマト政権とみなしてる人もいる
例えば寺澤氏
日本史の教科書みたいにコンサバなスタンスだと3世紀中頃から後半というところ >>800
晋書武帝紀というのに西晋のころ東夷各国が朝貢してきたという記録が残ってる
で女王国の最後の朝貢が266年、そのあとも東夷各国はしばらく朝貢しまくってるという話 >>806
はい、デマ拡散罪タイホ案件
吉野ヶ里が唐子鍵の出土品の絵を盗作してX
唐子鍵の出土品の絵を参考にして○ >>806
いや、別にそれは秘密でもなんでもない周知の事実だから >>798
トシドンとかナマハゲの系譜じゃないの? このいい加減な発表もタイホ案件だよな
■ニュース:2001年12月
「箸墓の周濠から、馬具と布留1式土器が同時に出土した。」
奈良県桜井市箸中の箸墓古墳の周濠から、乗馬の 際に足を掛ける馬具、
木製の輪鐙(わあぶみ)が見つかり、桜丼市 教委は三十日、
「輪鐙は4世紀初めに周濠に投棄され たと推定され、国内最古の馬具である可能性が高い」
と発表した。
■鐙のルーツ
鐙のルーツは西晋時代の中国もしくは満州に在り、確認できる最古の物は
各々302年と322年に埋葬された鮮卑と東晋の墳墓から出た陶馬俑であり、
実物として最古の物は北燕貴族の馮素弗の副葬品である。
そのため鐙が発明されたのは西暦290~300年頃とされる。
5世紀には木製の鐙が普及し朝鮮半島や日本でも使用されていた。 >>778
>>卑弥呼(モモソヒメ?)の古墳である箸墓からは、高麗尺が使われて規格の統一された美しい墳墓になる。
長さや重さの単位はその国のアイデンティティに強く関わるから、国の政権に大きな異変があった証拠だろう。 >>1
うるさい🇯🇵日本人黙らせるのなら
🇨🇳中国を王様にしてパシリにした方が都合いいって話だろ? >>809
だからその「東夷」に倭と似たような地理的条件の百済と新羅は
含まれていないようなので、倭が帯方郡あたりの騒乱が原因で
朝貢できなくなった可能性はあるんじゃないの?ってことなんですが 時空を超えて来る箸墓・纏向学
時代をクリエイトしていこうぜ こうした犯罪まがいな事を繰り返して出来たのが畿内説
畿内説印象操作事例
『出土品の一つ、祭祀(さいし)用と考えられるモモの種の年代が、卑弥呼の時代と重なるとした論文は、
邪馬台国畿内説を補強するとして新聞各紙を飾った。』
しかし桃の種の発見場所は柵列の下に位置する建物とは別の遺構だった
https://i.imgur.com/AKoIOjv.png
建物と同時期のものでは無いと判明した そもそも卑弥呼ともその弟とも謁見出来てないんだろ
援軍呼んでおいて何で? ある?
何があるの?🇨🇳アレルギー?
ar jūs alergiški kokiems nors vaistams 古墳文化が波及しなかった北海道と南西諸島、古墳人骨がほとんど出土していない北東北などを除く日本列島9地域の古墳人集団に
縄文人、弥生人、現代人の4集団を加え、頭蓋計測値の形態距離で集団関係を分析すると、男性の場合、古墳人集団は大きく2群に分かれる。
第1群は畿内、北東九州・西中国、東中国・西近畿、四国瀬戸内、関東・東北南部、南近畿(磯間人骨を含む)の6集団で、
第2群は南九州、西九州、北陸の3集団である。
近畿、四国瀬戸内、中国、北部九州、関東、東北南部には渡来形質が強く渡来系古墳人とよべる人々が広がっていたが、渡来系古墳人の最たるものが畿内古墳人である。
また、畿内古墳人は畿内現代人とほぼ同程度の頭蓋長幅示数をもち、上顔示数もかなり大きいが、バジオン・ブレグマ高は畿内現代人よりはるかに低いので、
短頭・高顔という畿内現代人の地域性は古墳時代すでに出現していたが、この地方における頭高の増大は古墳時代以降に起きた現象である。
鼻骨平坦示数は縄文時代人45、北海道アイヌ人44、渡来系弥生人27、東日本古墳人31、南九州古墳人47~51
例えばコーカソイドはロシアスラブ系白人45、インド人47程度
遺伝系統近縁樹
https://i.imgur.com/zvSculN.png
アイヌーーーーーーー琉球ーーー南九州ー山陰ー北九州、東北ー関東ー北海道ー東海ーーー近畿
古墳時代から謎のルートで畿内に大規模な渡来集団が現れて東征西服統一国造りを始める、その後も全羅道出身とされる蘇我氏が百済から先進技術や仏教を取り入れ秦氏を呼び寄せて近代化を進める→律令国家 【最新】邪馬台国関連遺物の出土状況(2023年9月現在)
[九州説]
・魏志倭人伝の行程とほぼ合致
・卑弥呼の時代から存在するクスノキ
・吉野ヶ里の日吉神社の下の甕棺墓で絹を纏った巫女の遺骨発見
・大量の鉄製武器、鉄製工具他(魏志の記録に合致)
・絹および紡績用具
・警備厳重な城柵に囲まれた吉野ヶ里遺跡
・中国から授かった漢委(倭)奴国王の金印
・すずり、およびすずり工房(文書を用いていた)
・魏王の鏡と同型の鉄鏡
・殉葬と思われる多数の墓に囲まれた祇園山古墳
・八女市でも弥生後期の集落発見(調査中)
[畿内説]
・定住者がほとんどいない大集落
・東海・伊勢産の飯炊き土器と残飯各種(鯖の骨、猪の骨)
・柱の細い大型建物(古墳被葬者の遺族向け宿泊所?)
・農具は無く、大量の木製土木用具
・東日本で流行った仮面(木製)
・大型建物の柵列の下の穴に捨てられていた桃の種
・同じく蛙の骨
・箸墓古墳で出土した馬具(中国のより古い4世紀初のもの)
・唯一の弥生遺物「銅鐸の破片」 国内での銅鏡生産は紀元前2世紀ごろ
福岡県春日市教育委員会は27日、市内の須玖タカウタ遺跡で、国内最古となる
紀元前2世紀ごろ(弥生時代中期前半)の青銅鏡鋳型の破片が見つかったと発表した。
これまで鏡の国内生産は紀元後1世紀ごろから始まったとされ、それをさかのぼる青銅鏡鋳型の出土例はなかった。
専門家は「鏡の製作史を見直す貴重な発見」としている。2015/05/27 商人に紛れて極秘にやってきて接触も無しに帰っていった感じ 纏向閉鎖が4世紀中頃
渡来人、100年早く奈良に移住か 最古級の建物跡発見(2018年11月29日)
https://www.asahi.com/articles/ASLCX5JHQLCXPTFC01S.html
大壁建物が4世紀末~5世紀初めに築かれ、渡来人の同町への移住時期が100年近くさかのぼる可能性が出てきた
4世紀末に倭人より立派な住居が立ち並んでいたわけだ >>831
八王の乱や西晋崩壊や帯方郡自体の滅亡では? >>773
何度も言ってるが
だったら邪馬台国の3世紀に九州のどの遺跡が邪馬台国かの根拠を示せばいい
否定ばかりで何も根拠を示さないゴミになに言われてもなんとも思わん >>832
女王国の朝貢が途絶えたあと東夷が朝貢しまくって、その後のはなしか >>833
邪馬台国と思しき遺跡なんて一杯あり過ぎてな
一つに絞れんのよ、何しろ数万戸だし >>685
それぽいな
ウリナラの九州説は大陸ぽいしなぁ
クマソ イジメたるなよ オレの見解だが、卑弥呼を神功皇后とするのは渡来人の史観からきていると思う。
新羅本紀に倭国の女王卑弥呼から新羅に使者がきた旨が記されている。これは西暦173年とされているのだが、本当の出来事とは考え難い。
新羅側の記録で神功からの使者を卑弥呼の使者と混同してしまっていて、それが日本書紀に取り入れられたのではなかろうかと思う。
ときど卑弥呼=神功というウルトラネトウヨルナティックがいるが、卑弥呼が神功というのはない。年代がまるで合わない。 >>834
うん、実際に滅亡しちゃったのは四世紀に入ってからみたいなんだけど、
それ以前にも帯方郡なんて西晋にとっては北の端の国なわけで、本国が
乱れ始めたらすぐに制御が効かなく気がするんだよね >>833
現実逃避するなよ
『広志』(編纂:晋の郭義恭)
広志いわく、
---東南500里で到る伊都国、又南、至る邪馬臺国--
---(このあと魏志と同様に周辺国の紹介へと続く)
伊都国:福岡西区であり倭国の守衛国
↓
又南至る
↓
邪馬臺国:吉野ヶ里、甘木・朝倉、八女など有明海と取り巻く筑紫平野に存在した小国群の総称
邪馬台国=女王国30余国
https://i.imgur.com/80bFvKA.png >>788
その後に推古天皇、聖徳太子が朝貢してるだろ
金印は貰っていないようだが >>839
1世紀の奴国なんかと比べたら大乱を経て相対的に衰退してるだろうね
狗奴国=熊襲とよく言われるけど狗古智卑狗の記述見ると倭人と同族臭いんだよね
大乱前は狗奴国も普通に北部九州政権の版図だったんじゃねえかな >>841
「聖徳太子は朝貢じゃなく対等な関係を構築した!」 はい
ここまでの集計結果
■邪馬台国は何処?
九州説:54.4%
近畿説:35.7%
その他:9.9%
都道府県別結果と半島系DNAの分布
https://i.imgur.com/Vqxgjwv.png >>844
現実的に、多くの邪馬台国に興味を持つ者は筑紫平野だと考えてるよ
考古学・史学、あらゆる情報勘案すれば普通にそうなる >>845
独自路線にこだわってた倭人に対し、中国先生に教えてもらえと諭したのが聖徳太子 >>833
なんとも思わんほうがおかしいっつううの。 >>846
その恣意的なハプロ分布図貼るのやめなよ
ほんと好きだねそれ ネトウヨ思考
・日本人は縄文人の子孫
・日本語は縄文語の子孫
・Y遺伝子Dが自慢
・縄文文化を縄文文明という
・邪馬台国は九州と主張
・日本が中華に朝貢したのが許せない
・アイヌ人はシベリアからやってきた虐殺者
・なぜかエベンキという民族に関心がある
・古史古伝や日ユ同祖論などのオカルトを信奉
・邪馬台をじゃまたいと呼んでしまう低学歴
・国学者の九州説をなぜか反皇国史観と思い込む
・魏志の漢字を何故か現代音で分析してしまう コレだけ畿内じゃない証拠が揃ってるのに何とも思わんって、バカか。
思えって。 俺が一番不思議なのは地球46億年だろ?
人類の歴史は20万年程度なのよ。
地球からしたら人間の誕生なんて3日前くらいの話しなのよ1億年前とか2億年前とか、実はとんでもない文明あったんじゃね?
たかだか20万年くらいでここまで発展するんだから、過去にもたくさんこんなのあったんじゃねん >>683
高天原を追放されて出雲に降り立ったスサノオは、ヤマタノオロチという怪物に毎年娘を食われているアシナヅチ・テナヅチの夫婦と、その娘のクシナダヒメに出会った
そしてヤマタノオロチを退治して、クシナダヒメを嫁にとり根之堅洲国にある須賀の地に宮を建てた
アシナヅチ・テナヅチの夫婦は、
私達の娘は、天照大神の弟に嫁いだ
ウチの婿さんは、倭奴國国王イザナキ様の子の天孫スサノオ様だ
と大騒ぎだ
スサノオとクシナダヒメの間にスセリヒメが産まれると、東西の出雲王家のみならず、出雲周辺の八百万の国々が、嫁にしようと集まってくる
スサノオは、母が何処の誰かわからないとはいえ、倭奴國国王イザナギの直系男子
その娘を嫁に迎え入れれば、へたすりゃ倭奴國王家の一員になれるのだから無理もない
しかしスサノオの娘のスセリヒメは狙いを澄ませたように、西出雲王家神門臣家の八千矛(大国主)を婿に選ぶ
それと同時にスサノオの姉のアマテラスが、出雲を熊野の高天原、邪馬台国に譲り配下となれと言ってくる >>855
長い、ウザい、神話は参考程度に留めろ、三行にしろ >>851
あんなにハッキリ出るとは思わなかったからな
DNAが人格を継承するという貴重な資料だよ 大和王権大和自生説は完全に否定されたんだから今更大和にこだわらんでいいだろうに
大和は、関西は王権の通り道 >>857
ハプロとしてかなり分岐した葉末だよね?
そんな葉末だとたまたま半島・大陸と近畿で繁栄した分岐を恣意的な選択出来るから非常に不適切だろ?
そもそもそれ出典どこなの? 俺は九州説やな
あの頃まだ大陸に渡るには対馬経由しかなかった
当時対馬や対馬に渡る現在の糸島辺りは九州の豪族が押さえてた >>862
俺これまで幾度も指摘して注意してるよね?
なんで不適切な画像を九州説に乗った畿内侮蔑・レイシズムに乗せてしつこく貼るの?
自分で不誠実で悪質だと思わないの? 学問的には畿内説で決着つきそうなんだけどな
根拠も示さず素人が考古学を語るのが九州説 生目王国(成務天皇):日向宇佐瀬戸内大和美濃
↕同盟
吉備王国(吉備 武彦?):吉備瀬戸内大和
↕同盟
丹後王国(臺與→神功皇后):山陰北陸近江東海関東
↕同盟
邪馬台国(仲哀天皇):北部九州
X敵対
熊襲:球磨薩摩大隅
↕同盟
新羅
コレで丹後王国が日本を再統一して新羅と戦うのが古墳時代の4世紀だよ。 O1b2は弥生人の主体で弥生時代開始と同時に列島に入植、
中国東北部・半島の弥生系が現代日本人の8割のゲノムを占め、畿内にその傾向が高いのは周知
ただし>>846の文脈で提示するのは錯誤を誘発するし著しく不適切
古墳時代以降入植したとされる三重構造説では入植者はO1b2ではなくO2と想定されている >>864
北部九州説の根拠は明確に示されており、
今後覆ることは、理論上不可能なレベル。
ソレを見なかった事にしているのが畿内説という事。 >>864
そうそう
学問は給料もらって「仕事」しているプロの学者のもの
学者が
「卑弥呼はモモソに違いない
だから箸墓は卑弥呼の墓で纏向が邪馬台国
纏向が巨大都市で桃の種が出てきたのが何よりの証拠」
なんて言っても学問 何度言っても>>846貼るやつ居るんだよな、出典ウヨ系サイトだと指摘したことあったけど
突っ込まれたくないのかそれやめてスレで拾ったとか抜かしてんのがまた小賢しい >>869
スルー出来ない時点で、
遺伝子に操作されてんだよwww >>850
3世紀に吉野ヶ里遺跡以上の、纒向遺跡以上の九州の遺跡の根拠を示せと言ってるのにだんまりw 4世紀は古墳がクソほど残っているので、
そこを発掘していけばいいだけ。
その前時点の丹後王国や吉備纒向政権、日向生目王国、北部九州邪馬台国、
南部九州熊襲など、
3世紀の状況をしっかり抑えておく必要がある。 >>872
そんなモノは高良大社から玉垂宮の間にクソほど埋まっている。
掘りゃあ良いだけの事よ。 >>846
高麗新羅系が数千人単位で移民したグンマーサイタマーに無いってことは、平安期以降に半島に出現したハプロってことだから邪馬台国スレで言ってる渡来人の後裔ではないよね?
元寇や朝鮮通信使に種付けされた売春婦の子孫が関西に多いってくらいの事にならねえ? >>872
戦乱続きの九州は環濠集落か山城を作るしかないんだから小さい集落にならざるをえない
平和な国なら平地に環濠のない巨大都市を計画できる
纏向は平和でよかったじゃないか
日本一の纏向! 吉野ヶ里遺跡遺跡は、
スサノウが泣いて放棄して出雲に行った様な場所で、
華奴蘇奴国(神埼国)というその他大勢の国として魏志倭人伝に登場する。
吉野ヶ里遺跡で小国の一つということで、
邪馬台国=高良大社ー玉垂宮の間に、吉野ヶ里遺跡を遥かに上回る
当時の都の遺跡が眠っているのは確実な状況だ。 >>877
そのハプロは弥生期に入植した弥生人のもので
そもそも邪馬台国スレで古墳時代のハプロと錯誤するよう提示するのは不適切 >>874
で、吉野ヶ里遺跡以上の規模で纒向遺跡以上の巨大な集落が3世紀の九州にねぇw
そんな有名なら名前言えるだろ?
言ってみろよ >>872
だから纏向以上の遺跡がなんで必要なのか分からんわー
空白の四世紀を説明する上では
「強大な九州政権が畿内政権を征服した」でも説明がつかんでしょ
文書を使用していた邪馬台国が、文字も知らない蛮族に滅ぼされたから
空白の四世紀は生まれたんだと思う >>884
吉野ヶ里遺跡は魏志倭人伝に
華奴蘇奴国として登場する
小国の一つでしか無く、
高良大社から玉垂宮の間に、
吉野ヶ里遺跡を遥かに上回る
邪馬台国の遺跡が埋まっていることは
100%確実な状況。 >>884
いや、そもそも筑紫平野の広い範囲で連合した国なんで
魏志に記述された戸数は幾分誇張だろうけど3万はあっただろうね
つまりは一つじゃねえのよ >>884
だからさ、纏向が日本一だって
九州は戦乱ばかりで集落は環濠集落か山城になるから小さなものばかり
平和な纏向だからこそ、平地に環濠のない巨大都市を造れた
良かったじゃん てか、高良大社から玉垂宮の間に、
まだ邪馬台国の都に相当する遺跡はないのにもかかわらず、
100パー間違い無いと言い切れるだけの状況証拠が揃っているのが、
邪馬台国北部九州説をより確かなものにしているのだよ。 宇佐八幡宮神託事件などを見ると、
始祖は九州から来た部族。 「邪馬台国は筑紫平野近辺」
こんな当たり前の事は前提知識として色んな突飛な説を楽しむのが邪馬台国談義だぞ
そんなとこに本気で畿内説唱えるヤツはセンス無いし、何より面白くない 高良山から吉野ヶ里遺跡は見える。
華奴蘇奴(神埼)国は取るに足らない小国だなと、
言い切れるだけの風景が、
高良山からの眺望に展開されていた訳よな。
で、玉垂宮は邪馬台国の港だから、
高良山玉垂宮の間に、
邪馬台国の都があったのは100パー間違い無い状況です。 >>891
何かありそうだよな、奈良政権
・記紀で「初代天皇は九州から来た」とアピール
・中央集権国家を確立して全国の租庸調を平城京に納税させたのに、九州だけは太宰府に納税
・道鏡事件では皇位継承について九州の宇佐八幡宮から信託を受ける >>886
邪馬台国が2世紀末にでき、3世紀中期にヤマト王権が出来た以上、空白の4世紀は関係ないよ
だって4世紀はヤマト王権の時代じゃん
空白の4世紀が知りたければ邪馬台国ではなく、大和時代を調べるべき
そもそも年代が違うよ >>833
大切なのは大陸との交易や
比定されてる伊都国(九州)との関係を示す出土物
https://i.imgur.com/kJQCRWL.jpg
これは纒向遺跡が邪馬台国ではないことを示している。
邪馬台国自体が九州にあったかどうかは分からないにしても
『纒向遺跡が邪馬台国ではない』ことは確定的に明らか >>887
2世紀の吉野ヶ里遺跡がなんて?w
年代が違うんだがw 4世紀って
ヤマト政権が筑後山門(ヤマト)の巫女女王を倒しただの何だのなかったっけ? >>888
邪馬台国は連立王権
これ読んでね>>527 もし邪馬台国が奈良だとしたら、魏志倭人伝は途中省略し過ぎ。 空白の4世紀wとか言われてるけど
普通に記紀に「筑紫の土蜘蛛女王たちを殲滅した」って書いてあるんだよなあ
なんだよ空白てw >>896
これ、纒向遺跡が周辺国家を統一している表だろw >>901
天皇の没年齢見てみなよ
雄略天皇以前は嘘八百の歴史だよ >>527
それだけでっかい連合体を作ったのに
狗奴国に攻められて魏に助けてもらうwww
狗奴国はどこだろねぇ >>902
九州は支配できてない
大陸との交易を示す出土品もない 日本の歴史の凄い所は、
スサノウ、大国主、天照大神、月読命が前3~2世紀に実在した事が確定しちゃう所よ。
4世紀まで淀みなく日本の歴史が再現されてしまう。 >>907
神武天皇127歳
孝昭天皇114歳
孝安天皇137歳
孝霊天皇128歳
孝元天皇116歳
開化天皇111歳
崇神天皇119歳
垂仁天皇139歳
景行天皇143歳
成務天皇107歳
応神天皇111歳
考安天皇は考昭天皇が80歳の時の子供
考霊天皇は考安天皇が86歳の時の子供
考元天皇は考霊天皇が70歳の時の子供
これを丸っと信じてるのは馬鹿かカルト信者
まともに考えれば神武天皇の即位が紀元前660年だというのは嘘だと分かる 1. 大和に一大勢力があった。
2. 魏志倭人伝の邪馬台国は九州にあった。 >>888
残念ながら3世紀ではないんだわ
じゃあどれと聞いても場所を言えないところが九州の弱いところw
あの辺り全部!としか言えないw 3〜4世紀を通じて近畿政権は強大化した
1世紀から続く斜陽の北九州政権は弱体・分裂し4世紀に近畿に征服された
ただそれだけの話 >>910
3世紀の遺跡が沢山あるんだけど
全盛期過ぎた吉野ケ里もずっと存続してるんだけど >>906
狗奴国が九州だからなw
だが300年には北九州にも前方後円墳が出現してる以上の確実にヤマト王権の支配下に入ったよな九州w 後漢書 倭伝
「倭在韓東南大海中 依山㠀為居 凡百余国 自武帝滅朝鮮使驛通於漢者三十許国 国皆稱王丗丗傳統 其大倭王居邪馬臺国」
倭は韓の東南、大海の中にある。山島に居住する。およそ百余国。武帝が(衛氏)朝鮮を滅ぼして以来、漢と交流のあったのは三十国ほどである。国はみな王を称し、代々受け継いでいる。その大倭王は邪馬台国に居る
このあと、倭国大乱時代へ突入 >>914
前方後円墳は王権力の波及ではなく伝播
つまりはただのブーム 月読命が派遣された青海原は、
食べ物を口の中から出して食べさせる地域と記紀に書かれている。
コレが実際に山門八女に、
口の中に入れたモノを吐き出して
発酵食品を作る風習として残っている。
つまり青海原は山門八女で決まっている訳だよ。 >>912
邪馬台国の南なんだから吉野だろ
あ、東を「南」というから東海かなw >>913
そりゃ人が消えるわけではないからなw
衰退した吉野ヶ里遺跡やその周辺のクニ程度の規模で、倭国大乱を終結させて日本の統一は無理
そもそも3世紀の邪馬台国と年代が違う で、月読ということで、
月齢観測=潮位観測であり、
港に居たのは間違い無い事で、
干満の大きい有明海の潮位を、
月齢観測によって予測していた神が、
玉垂宮辺りに派遣されたのである。 邪馬台国は大和、委奴国は猪名県だった摂津、狗奴国は河内和泉、狗奴国の官は河内彦
これでいいと思うよ >>919
そもそも邪馬台国は日本を統一していない
南の狗奴国と戦争し、東にも支配下にない倭種の国がある
だいたい以前の奴国・帥升と比べて貢物が格段にショボくなってるし
何より魏に幾度も”救援”を求めている
なんで邪馬台国が大国家だなんて思い違いしてるの?史書見れば斜陽国家なのは歴然なのに
一度でも原文読んだことある? >>919
日本統一なんてどこにも書いてない
どこを切っても妄想しか出てこない畿内説という金太郎飴 一方、太陽観測をしていた天照大神は、
実際に弥生の太陽観測施設が見つかっている
伊都国にいた事は間違い無い状況で、
高天原から青海原に月読命を派遣したということで、
当時から既に伊都国と山門八女は
強いつながりがあったことが分かる。 >>916
前方後円墳は大和政権の支配下で見られる墓だが
知らなかった? >>926
勿論知ってるさ、一般的にはそう解釈されてるね
自分は必ずしもそうは思わないという話かな くそ簡単だぞw🇭🇺ハンガリー語
なんか🇯🇵日本語に似ててw >>926
単なるお前の妄想
一方、国立歴史民俗博物館の松木武彦教授(日本考古学)は「本当に力がある集団は前方後円墳を築かない」
と指摘し、前方後円墳の存在が目立たない出雲東部や奈良盆地南西部を例に挙げた。
城野地区は方形周溝墓を巨大化することで権威を示したとして、衰退期にあったとの見方を否定した。 >>884
毎度思うんだが、むしろ畿内にこそ巨大集落が発見されてないだろ
鳥取県の妻木晩田遺跡、福岡県の平塚川添遺跡などの
住居跡が数百ある規模の集落が
弥生時代の畿内には見つかっていない
「大きな労働力を必要とする古墳があるんだから、たくさん人はいた!」と
言い張る畿内説者もいるが、古墳など少人数でも長時間かければ作れる >>906
>九州は支配できてない
3世紀中頃の那珂八幡古墳
>大陸との交易を示す出土品もない
ほれ
https://i.imgur.com/96qEpxT.png
で、九州で3世紀の中国との交易を示す交易品は?
もちろん伊都国と奴国の出土物は除外してだ
出せないなら、ギブアップだぞ >>930
邪馬台国があった3世紀に纒向遺跡以上の巨大な集落が存在しないんだが
なんで基本的なことすら理解してないのに反論してるの? >>931
鏡は魏との通交の証し、つまりは権威財として送られた
ゆえに、偽銘年があるんだなあ
何も不思議なことは無いね 当時の鏡工場の失敗作の捨て場所だったってオチなんでしょ
そもそも鏡が貴重だったのもの怪しいし、当時の百均で売ってるレベルだったかもしれん
歴史なんてそんなもんw
千利休が輸入した彼の国の便器を、これはすごい!と嘘信じて床の間に飾るレベル
適当な夢のある話を創作してゴミを有難がるのが考古学 >>931
2世紀末~3世紀
まさに邪馬台国の時代なんだよな 神話は得てして天体要素が多いから
古来宗教と占星術や星見が関係してる可能性はあるな
それが土着の民か渡来系かは分からないが星を観測しやすい地に権力の中枢があったのかもと想像するのもそれはそれで面白い >>933
邪馬台国から属さない倭種の国に送られたということね 5chで妄言垂れ流してる畿内説は学者の話とも全く異なるんだが一体どんな連中なんだろうね
https://i.imgur.com/HnuJH9P.png >>922
まさにそう
限られた地域の集落の寄せ集めで
陳寿が忖度でアゲアゲしただけのしょぼい国にしか見えない >>935
数値で表現しよう
AD170年~230年あたり >>929
墳の形で支配下にあるかどうかあたってるやん たまには坂さんでもはるか
庄内式期の纒向遺跡は,北部九州ばかりでなく,近畿地方において,纒向遺跡からは大和川下流にあたる河内湖岸の遺跡,大阪府中田遺跡群,加美・久宝寺遺跡群との比較において,その規模,集落構造,生産力,対外関係,影響力いずれの点をとっても劣っていることは明白である。
庄内式期の纒向遺跡は約1km2で,西日本の集落遺跡のなかでは大型とはいえるだろうが,東西方向の小河川や谷地形に分断され,居住適地は東西400m,南北100mほどの狭い太田微高地に限られている。それに対し,河内湖岸には,萱振遺跡(南部)・東郷遺跡・小坂合遺跡・中田遺跡など庄内式期の集落遺跡が南北3.5km,東西1kmに亘って連続的に展開しており,中田遺跡群として評価することが可能である。
さらにその西側の旧流路沿いの加美遺跡と久宝寺遺跡も庄内式期の集落域と墓域が隣接して展開している巨大遺跡である[大阪府立弥生文化博物館2015]。
同時期の北部九州の福岡県三雲・井原遺跡群,比恵・那珂遺跡群の規模や地形環境も,もちろん纒向遺跡に勝っている。比恵・那珂遺跡群は,庄内式期の道路遺構が検出されていて,纒向遺跡との規模の格差は明らかである。
纒向遺跡は布留式期にようやくその規模において,比恵・那珂遺跡群に勝る約3km2に及ぶ規模となるのである。 テンプレ①
関川尚功
「どうやったら箸墓古墳の土器が3世紀という事になるのかまったくわからない。どう観てもあれは古墳時代の土器で、卑弥呼の時代のモノではない。3世紀の墓に4世紀の土器をどうやって埋葬するのだろうか」 テンプレ②
清水眞一 前・奈良県桜井市教委文化財課長
私は二十年間、大和の中央部・桜井市で「邪馬台国は何処」とのテーマを持って、
発掘調査に従事してきた。その結果として、邪馬台国が成立して女王卑弥呼を擁立する
までの弥生時には代中・後期に、大和には他地域を圧倒するような「ムラ」や「墓」が
見られないことに気付いた。
代表的なムラである唐子・鍵遺跡も、畿内の同時期の池上・曽根遺跡や田能遺跡などと
比較して、飛び抜けて大きいムラとは思えなかった。逆に、墓に関しては、
西日本各地と比べて遅れた地域との思いも抱いたことだった。
であれば、その次の古墳時代に入って、纏向の地に百メートル以上もの巨大古墳が、
なぜ突如として築造されるのか。これは、大和の地に別の地域の人々が入って来たと
考えざるを得ない状況とみた。
では、誰が何処からきたのか?考古学の資料からは、特定の地域が限定できない。
となれば、卑弥呼の邪馬台国は、北部九州のどこかではないかと思われる。 テンプレ③
纒向遺跡を目の当たりに見てきた人の見解
坂靖・著『ヤマト王権の古代学―「おおやまと」の王から倭国の王へ』(2020/2/5)
著者の坂氏は奈良県立橿原考古学研究所付属博物館の学芸課長を経て、現在、奈良県地域振興部文化財保存課の主幹という、
現役の奈良県の考古学者でありながら、邪馬台国北部九州説の立場をとっています。
(中略)
「ヤマト王権は、布留式期に日本列島各地に強い影響力を行使することをはじめたのであって、
初期のヤマト王権の版図は、きわめて限定されていたとみるべきである。
・・・弥生時代中期から後期の近畿地方においては、中国との直接交渉を示す資料がほとんど知られていない。
楽浪形土器は北部九州に集中し、松江市以東にはまったく認められない。
邪馬台国の時代、すなわち庄内式期においても、魏と交渉し、西日本一帯に影響力をおよぼしたような存在が、奈良盆地にはみあたらない。
邪馬台国の所在地の第一候補とされる纏向遺跡の庄内式期の遺跡の規模は貧弱であり、魏との交渉にかかわる遺物がない。
さらに女王卑弥呼の居所は、出入りするものは男子が一人いただけであり、そこに宮室・楼観・城柵が厳かに設けられ、
常に人がいて、兵が守衛するような場所であったと記されるが、纏向遺跡にはそのような場所を認めることはできない。」 >>940の修正
卑弥呼時代はAD170年~230年あたり
邪馬台国時代は1世紀~270年頃まで テンプレ④
東海大学教授の考古学者北條芳隆氏
「いわゆる邪馬台国がらみでも(旧石器捏造事件)と同じようなことが起きている」
「証明を抜きにして仮説だけがどんどん上積みされておりマスコミもそれをそのまま報じている」
「近畿地方では古い時期の古墳の発掘も多いが
、邪馬台国畿内説が調査の前提になっているために
遺物の解釈が非常に短絡的になっている。
考古学の学問性は今や崖っぷちまで追い詰められている。」 >>931
方格規矩四神鏡に青龍三年鏡が出土した事で、
漢鏡V期とされていた方格規矩四神鏡は、
実際には魏鏡まで下って、
時代編年をやり直さなければいけなくなっている。
実際に平原遺跡の漢鏡V期の後期の方格規矩四神鏡は、
実際に魏鏡である特徴を示しており、
平原遺跡に集中して魏鏡があるという図が出て来るのが今後の考古学会の展開だ。
その図は古いんだよ。 >>946
邪馬台国が一世紀から始まったとかその程度の知識しかないのが九州説なんだよな
突き詰めたら全部妄想でしたってオチ
3世紀に吉野ヶ里遺跡以上の、纒向遺跡以上の、大規模な遺跡を示せなくて
ポツポツと人が住んでたこの辺り一帯が邪馬台国!となんの根拠も遺跡も示してくれねんだもん 🇭🇺ハンガリー語と文法一致してるところあんじゃん!! >>895
関係ある
中国と交流し、文書も運用していた邪馬台国が崩壊せずに
なんで中国との交流をやめて、文書も使わなくなるのか?
ヨーロッパ暗黒時代を生み出したゲルマン大移動のように
航海術や文書を知らない蛮族の征服があったと見るべきだろう 方格規矩四神鏡に青龍三年鏡が出たら、
方格規矩四神鏡の時代編年を、
魏まで広げて再構築せざるを得ないって、
誰がどう考えてもわかる事。
ソレをあえて、考古学会がスルーして、
平原遺跡の方格規矩四神鏡が2世紀の鏡とか
言っちゃってる意図がどこにあるのか?
ということでしかなくなってしまっている。 >>914
狗奴国の北に邪馬台国があり戦争してるんだぞw
邪馬台国は九州で決まりだなwww >>951
戦乱に明け暮れた九州は小さな環濠集落ばかりだね
纏向は平和だから平地に環濠のない巨大都市を造れた
良かったじゃないか >>951
纒向はでかすぎるんだ
これが畿内説の否定材料になることがわからんのか?
畿内説派なら纒向を出すな >>932
纏向は遺跡の範囲こそ広いが人が住んだ住居はほとんど発見されていない
多摩霊園や八王子霊園ほど広い墓地が23区内にないが
じゃあ墓地の広い多摩や八王子の方が人口が多いか?
墓地が広いだけじゃ人口が多い証拠にはならん オレたち一般人が理路整然と弥生の考古学を整理して、
正論を叩きつけないと、
考古学会は正しい歴史を構築しようとしないわけよ。
我々一般人が揺るぎない理論を考古学会に叩きつける事で、
日本の歴史の1ページを進めていくしか方法がない以上、
我々は何者にも屈せず、
理路整然と弥生の歴史を再構築していくのみだな。 卑弥呼のパイセン
参考サイト
吉野ヶ里 日吉神社の北に眠る絹を着た女性と前漢鏡
https://lunabura.exblog.jp/24248954/
被葬者は女性。40~50歳。両腕に南海産貝殻性腕輪36点。絹の布片、朱などが発見されています。貝殻は沖縄・奄美地方で採取されるイモガイです。
銅鏡は中国前漢時代につくられた連弧文鏡(内行花紋)で、「長く会わなくても、お互い忘れないようにしましょう」という銘文が鋳出されているそうです。 考古学者が畿内説をとる理由も「学者が支持してるから」だと思うぞw >>876
Miért なぜ
nem ノー
futo足
ttál?たる? 九州にあったのは邪馬壹国だと何度言えば分かるのか? 弥生時代後半九州は博多や遠賀川の勢力が播磨の協力を得て国作りを進めたんじゃないの
女王国の傍国に奴国やハリ国があるでしょ
奴国も播磨も卑弥呼の共立には加わらなかったと思うけどね 纒向は霊園だ
だから古墳が多いのはあたり前
古墳が多いから副葬品の出土が多いのも当たり前
しかし古墳は奈良県外の人のもの
副葬品も然り 外山茶臼山古墳の鏡は、
80枚じゃなくて100枚超えでしたーって、
コレ、北部九州の破鏡の風習が、
ココに
大々的に伝播した事を意味する訳よ。
三角縁神獣鏡は西晋時代の仿製鏡だから、
3世紀後期に、北部九州の部族が、
外山茶臼山古墳周辺に進出したか。。。
っていうのが正しい考古学上の解釈の仕方な。 >>965
3世紀と書いたのに、無関係なものを出しても無意味
もう一度聞く
九州で3世紀の中国との交易を示す交易品は?
もちろん伊都国と奴国の出土物は除外してだ
邪馬台国の怪みたいな素人同好会のサイトばっかり見てるからそんなおかしなものを出して来るんだw >>958
狗奴国は九州、東海色々あるさ
邪馬台国と同じくらいロマンがあるよな
だが残念ながら北九州は3世紀中期には畿内の支配下に置かれてる
考古学者が邪馬台国の九州説はあり得ないと思ってる理由だよ >>975
あの画像元データを示してないからな
証拠にはならん
畿内説は旧石器捏造並みのやらかしするからw >>1
「とにかく、日本人には腹立つ事が多い!」
こう考えるw
八つ当たりすんなw
Szilágyiだろ?新羅
王様に怒れ >>978
弥生時代って600年以上あるやん
なに言ってるの? >>977
旧石器時代や縄文時代を認めたくないんだろうが日本人の歴史は数万年前の旧石器時代からだよ
旧石器時代からの刃物作りの伝統、石工の伝統が現代まで脈々と同じ地で続いているのだ ~ 中国史書に記された卑弥呼時代 ~
魏志韓伝によると、ちょうど鉄器時代ということもあり、
半島では中国に供給できるほどの鉄が取れ、倭人たちも
鉄を求めてやって来ていた様子が描かれている。
(弥生時代の鉄器出土量)
https://i.imgur.com/UKtbTwc.png
卑弥呼とは、倭国大乱で対立していた国々によって共立された女王である。
その女王に属する国々が女王国=邪馬台国連合である。
しかし女王国の南にはまだ反対派の狗奴国があり、戦争が勃発していた。
海を挟んで東には他にも倭人の国がたくさんあった。
少なくとも卑弥呼時代においては、全国統一には至っていない。
なお三国史記にも卑弥呼時代が記録されており、卑弥呼が女王となったのは2世紀後半と推測できる。
AD173年:倭の女王卑弥呼が使者を送った
AD193年:倭人が飢饉。多くの避難民が半島にわたって来た
248年、卑弥呼が死に、次の王として男王が立ったが、国中が納得せず内乱となり、1000人以上の死者を出す始末。
そこで卑弥呼の親戚でまだ幼かった臺与を女王とすることで、ようやく平和が訪れた。
しかし臺与時代AD266年の朝貢を最後に、女王の記録は途絶える。 >>977
論点ずらしては九州には3世紀の中国との交流を示すものはないと認めたということだな
つまり九州説は成り立たないことを自ら認めたということ もしも纏向が崇神の宮で箸墓がモモソの墓だというなら
九州が畿内の勢力下にはいったのは景行の時だろね
倭王武は先祖が東に55国、西に66国、海を渡って北に95国平定したと主張した
畿内勢力が東西に121国を征服したというならそれはヤマトタケルあたりのエピソードだろう
そして海を渡って北に95国は三韓征伐を想起させる 邪馬台国は山門八女で、
纒向は吉備津彦や崇神の王都って、
知らずに死んでいっちゃう人達が居るのが
可哀想で仕方がない。
オマエラ、どう責任とるつもりだ?? 池上曽根遺跡はサヌカイトの剣や槍、石器の祠、数千点に及ぶ石包丁が見つかった磐村だな
高野山には無数に和泉の石工の作品がある
江戸時代には、和泉の石工は全国の藩から引っ張りだこで招かれて全国に移住した歴史がある
旧石器時代の二上山のサヌカイトの石刃に始まる刃物作りの伝統は、池上曽根遺跡を経て現代の堺の包丁作りに至る
浜寺の現役の墓地は調査の結果、縄文時代から絶えることなく使われ続けてきたのが分かっている 空白の4世紀なんて、
実際にはクソほど古墳が残っているので、
発掘すれば相当な確度で歴史は再構築出来る。
その前に、3世紀までを
キチンと整理して置かなければいけないな。
その為には、畿内説とか、
寝ぼけた事を言っていちゃいかんのよ。 湯津磐村はどこにあったのか
池上曽根遺跡のある摩湯丘陵には湯が湧き栄えた集落の伝承が残る
池上曽根遺跡は無数の石器が見つかっている弥生時代の集落跡だな
和泉から堺にかけての海岸線は井戸を掘ると塩湯が湧く
奈良時代や平安時代には都から堺の塩湯に湯浴みに来ていたと文献に残っている
明治に入っても奈良から婦人たちが列をなして堺に湯浴みに出掛けていた
現代でも湯が湧き続け銭湯が営まれている >>984
三韓征伐(4世紀末)
香椎宮(福岡平野北東端)で信託を受ける「痩せた土地の熊襲など放っておいて金銀財宝の眠る朝鮮半島を攻めよ」
神功皇后と仲哀天皇らが筑後平野に乱立する大勢の民を従える女王ら(土蜘蛛)を征伐して回る
信託に従わなかった仲哀天皇が八代平野で熊襲の矢を受けて戦死 >>1
阿波風土記に
アールパードとか書かれてないの?
なぜ消えた? 明治まで普通に残ってたんだろ?
内容がマズイから消した? >>990
纏向を崇神、箸墓をモモソと比定してしまうと畿内勢の九州侵攻は、自動的に卑弥呼時代ではないことになるという罠 大阪に伝わる民話の仲良し3人組の話でしょ
なにわの【軽】業師の【寅】吉、【高橋】の【薬】使いの医者、【高間】寺の【山伏】
山伏は山の磐座で修行する人々だな
仲良し3人組が同じ時期に亡くなったが、【ハリ】の山をぴょんぴょんと飛び越え薬や【温泉】の秘術を使い甦る話
その復活劇は一寸法師の話でしょ
法師は修行僧だな
住吉さんや播磨の石神さまを味方につけて鬼退治
住吉さんに祈り、【針】を刀に、【軽】い椀を船に、【ハシ】を櫂に一寸法師の鬼退治
播磨風土記の楠から速鳥が作られる伝承、記紀の枯野伝説と雁が卵を生む話、百舌鳥古市古墳群の始まり、勾玉ブームの復活でしょ 崇神は三世紀後半から四世紀初期の人物だと思う。
神功の在位が四世紀後半だと思われるから、崇神を卑弥呼時代にすると大王たちの治世が長くなりすぎる。
崇神は桜井茶臼山以降の人だろう。
ヤマト王権と邪馬台国の銅鏡祭祀の共通性から見て卑弥呼は天皇家と繋がっているとは思う。
もし欠史八代がいるのなら卑弥呼の時代の男王たちだろうな。 >>526
宗像三女神の子孫の吾田片隅が宗像の祖?
古神道は新しいのに古いみたいなことだろな >>526
隠岐は宗像の子孫
その子孫も当然宗像だから、そのさらに子孫の代に昔は隠岐にいた人の子孫だよと言ってるだけ
論理が読めないと伝承をアスペ的に受け取って時空が歪む そもそも卑弥呼は実在していたのか?
卑弥呼とか中国がつけた蔑称やん。
普通、名前に卑しいの卑なんか使わない。 このスレッドは1000を超えました。
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