【歴史】古代日本を統治した「大和王権」と「邪馬台国」に関連性はあったのだろうか? [樽悶★]
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邪馬台国と大和王権はよく聞く言葉であり、古代日本を統治していたということは周知のとおりだが、改めてこのふたつの国、王権の関連性は、と聞かれると「?」マークがでざるをえない。このふたつのものに果たして関連性はあったのだろうか?
■邪馬台国と大和王権の関連性はあったのだろうか?
古代に日本列島を統治した「倭国」のことを、国内では「やまとのくに」と呼んだ。
漢字表記は、「大和」「倭」「日本」などいくつかあったが、これを当時「やまと」と読んだことは、たとえば『万葉集』の「山跡(やまと)乃国」とか「山常(やまと)」などといった表記や、『日本書紀』神代上・第四段に「大日本〔日本、此 耶麻騰(やまと)と云ふ。下皆此に效へ〕」とあることによって知られている。「やまと」は元は大和国城下郡大和郷(現在の奈良県天理市から桜井市)の地名であって、原義はここにそびえる三輪山(みわやま)の麓という意味であろう。もともとこのような小さな地名であったものが、のちに大和国(現在の奈良県)の国名となり、さらには国家の名前にまでなったのである。これはひとえにこの地域の政治勢力が、奈良盆地全体を治めるまでに成長し、さらにはこの列島の大半を統治し、都を定めるまでに発展したからに他ならない。
「倭国」や「日本国」を普通には「やまと」と読めないにもかかわらず、そう読むのはこうした事情があるからである。 『魏志倭人伝』にみえる「邪馬台国」を、「ヤマト」、「ヤマタイ」国と読むこともほぼ異論はないだろう。3世紀初頭から半ばにかけて卑弥呼が中心地としていたのは、この邪馬台国であった。筑前国や筑後国、またそれ以外にも「ヤマト」という地名は存在しており、邪馬台国がこれらの地名に由来する可能性がないわけではない。
しかし合理的に考えて、この邪馬台国と『記・紀』万葉にみえる「山跡乃国」「山常」が偶然の一致である可能性は、きわめて低いのではないだろうか。
もちろんこの一事のみで邪馬台国=大和国説を唱えるのは早計だが、このことを軽視したり無視したりはできない。
そして卑弥呼の時代にこの「ヤマト」一帯に広がっていた一大集落が纏向(まきむく)遺跡である。ここには最古の巨大前方後円墳である箸墓(はしはか)古墳がある。その築造は3世紀半ば過ぎと推定され、卑弥呼の墓である可能性は十分にある。
この周辺一帯には、箸墓を含む「オオヤマト古墳群」(あるいは「大和・柳本古墳群」)がある。箸墓古墳の後にも、西殿塚古墳、行燈山(崇神陵)古墳、渋谷向山(景行陵)古墳と当時最大級の巨大前方後円墳が造られていた。
このうち西殿塚古墳を卑弥呼の後継者・壱与(いよ)の墓とする説がある。ただ行燈山古墳の被葬者を崇神天皇、渋谷向山古墳の被葬者を景行天皇と確定するには慎重な考察が求められる。(以下ソース)
9/25(月) 17:40配信
https://news.yahoo.co.jp/articles/4fcac89b433d4a7d61439cd653efa990692cd4b1
https://newsatcl-pctr.c.yimg.jp/t/amd-img/20230925-00031500-rekishin-000-1-view.jpg 邪馬台はヤマトと読むべきだろ
纏向に卑弥呼がいたのは間違いない
何故そこにいることになったのか、
ってのが重要 九州北部の田舎の集落に立寄って村人に
「お前ら誰?」と質問したら
九州弁で何やら「…>*たい!」と返事をしてきたので、それを国の名前と勘違いした 邪馬台=ヤマトはいまの奈良だよな、素人のおれは普通にそう思うは だからと言って、侵略を引き起こしていた人間側が有能とは限らない 奈良県橿原市にある瀬田遺跡は纏向石塚古墳よりも前のもので、前方後円墳の原型になった円形周溝墓と考えられている。
纏向遺跡を作った征服王朝は、最初は纏向の内部に墓を作らず、橿原に作っていたのだろう。
理由は不明だが、纏向がまだ未完成だったからかもしれない。
あれだけの計画都市を作るとなると、何年もかかるだろうからな。
神武が畝傍山の麓に宮を構えたとか畝傍山の麓に葬られたというのは、瀬田遺跡の時代の王たちの記憶の残滓なのだろう。
これが神武をはじめとする欠史八代の正体だと思う。
纏向石塚も崇神以前の大王墓だろう。
天皇家の崇神以前の大王は卑弥呼の男弟として政務をとっていたのだろう。
ネトウヨは邪馬台国九州説なる虚構を主張するが、ジャップは中国に朝貢していたのである。 >>87
まあそれが真実だと思う。
そして、その後に実家を攻めて大和朝廷の傘下に入れて国を統一 どこの古墳ここが有力っていい争っているが決定的な物証が出ていない巻向もそこまで言うなら証明しろよってレベル >>99
空白の150年の間に古代イスラエル失われた10支族の一族が日本へ渡来してきた
そこから統一国家への歩みが始まっていく 大陸的には日本は土人のようにしか思ってなかったから邪馬台国の位置とか適当で良かったんだろうな・・・
彼らにしちゃ畿内であろうが九州であろうがどっちでも良かったと思う ネトウヨ思考
・日本人は縄文人の子孫
・日本語は縄文語の子孫
・Y遺伝子Dが自慢
・縄文文化を縄文文明という
・邪馬台国は九州と主張
・日本が中華に朝貢したのが許せない
・アイヌ人はシベリアからやってきた虐殺者
・なぜかエベンキという民族に関心がある
・古史古伝や日ユ同祖論などのオカルトを信奉
・邪馬台をじゃまたいと呼んでしまう低学歴
・国学者の九州説をなぜか反皇国史観と思い込む
・魏志の漢字を何故か現代音で分析してしまう 蒼天航路的に言えば
曹操「使者殿!、国の名はなんと言われる」
使者「ヤマトと申します」
曹操「荀ケ!字をあてよ!」
荀ケ「あいやー!殿ー!邪馬台はどうでしょうかー!」
曹操「使者殿!王の名は!」
使者「日の御子と読んでおります」
曹操「荀ケ!字をあてよ!」
荀ケ「ははー!殿ー!卑弥呼はどうでしょう!!」
曹操「ならばよし!」 正統竹内口伝 でも一時は九州行ったりしてたが最後は大和に行った。魏志倭人伝の頃は九州だった。 秦氏とか弓月君ってずっと百済人だと思ってたわ
そうか!ユダヤ人だったのか
納得(笑) 大和の国→ヤマトコク→ヤマトコク
邪馬台国→ヤマタイコク
似てるよね 朝鮮半島から流れ着いた新モンゴロイドの大和王権は
日本列島の一部を支配しただけ >>69
それは『国記』『天皇記』だっけ、聖徳太子の書庫にあったのを、蘇我氏(日本乗っ取り計画の渡来人)が燃やしてなくなったんでしょ
だから、半島で唐新羅の侵入浸透乗っ取りを許したりの天智天皇の流れで日本書紀は、6世紀あたり以降の歴史しかなんでしょ 何故かネトウヨが九州説を主張する不思議。
ネトウヨ学説では「天皇家が中国に朝貢したなどけしからん」という江戸時代の国学者の説が主流らしい。
いや、ネトウヨどもよく聞け。
邪馬台国=ヤマト王家で、中国に朝貢してたんだぜ。
歴史修正主義もいい加減にしろよ。 スクナヒコナが去ったのは潮岬、イザナミが眠るのは熊野のアリマであり熊野は重要な古代史の舞台だな
熊野川の阿須賀神社の境内とその周辺からは弥生時代末期〜古墳時代前期の集落跡が見つかっている
祭神は事解男、イザナギがイザナミと話し合いの末別れ際に吐いた唾の神さまだな
事を解く男、王を解任する力があったのかもな
対岸のゴトビキ岩という磐座からは銅鐸の破片と銅鐸を模した石製品が見つかっている
銅鐸の勢力が一時熊野に避難してきたのかもね
ゴトビキはヒキガエルのことらしい
伊勢の興玉神石もヒキガエルの神さまだったな
ヒキガエルは谷を渡って移動するが必ず元いた場所に戻ってくる習性がある
この習性に注目した性質を持つ神さまなのかもね
卑弥弓呼への言及がなくなったのは事解男が関係しているのかもな
能の三輪は興味深い
伊勢の神も三輪の神も一体分身で磐座とある
思えば伊勢と三輪の神、思えば伊勢と三輪の神、
一体分身の御事、今更何と磐座や 諸卿らも知っておると思うが
あくまで魏志倭人伝というのは
陳寿の正史「三國志」の一部であって
オマエらの好きな
曹操とか荀ケとか荀攸とか程cとか
劉備とか関羽とか張飛とか孔明が
主役なんだよ? ヤマトは帥升(すいしょう)が自称した倭面土国が初出。 うわーやられた(´・ω・`)
意図的なID被り
これ、公開請求しよっかな 空白の1世紀とか何があったのか何も書いていないが、書いてるのがさらに数百年後だから。今の奴に江戸時代について記述しろって言っているようなもんで、正確なことがわかるわけがない >>122
司馬昭くらいなら多少聞いたことあるけど
他は無名だよね このころ既に何となく知られてる日本全体を、大和と呼ぶようになっていた可能性はないのかね
と書いてて改めて気付いたが、大和と書いてヤマトと呼ぶこと自体当て字か
やっぱり、倭国には幾つも国があれど、その倭国全体をヤマトと呼ぶ共通認識があったんじゃないかって気がしてきた というかもともとヤマト国しかなかったのになぜか邪馬台国とかいう謎の読み方の古代国家が江戸時代の国学者の間で急に発生した
厳密にヤマトと邪馬台国が違う国であるという検証もしないまま違う国として扱っていること自体が異常なだけ 邪馬台国は北部九州の一小国に過ぎない
ヤマト王権とは別だよ 中国「お前の国は何て言うんだ?」
日本からの使者「ヤマッタイ」
中国「ヤマッタイ?じゃあ『邪馬台国』と記しておくか」
最後の「タイ」は現在の九州弁にもある接尾語「〜たい」のことであり
日本からの使者は「『ヤマト』タイ」って言いたかったんだろ 奈良は色々と観光資源があるんだから何もない佐賀に譲ってやれよ。 ヤマトは山の麓の意味だな。
即ち三輪山の麓、即ち纏向遺跡のことだろう。
纏向遺跡のその昔の名前は「ヤマトの邑(クニ)」だったと考えるのが自然。ヤマトとは三輪山の麓の都市国家の名前だったわけだよ。
邪馬台国=ヤマト国。ネトウヨは全ての古史古伝を捨てて正しい歴史観を持とおな。 皇室には苗字がない。
古来から日本の支配者だった。 文字がなかった時代九州と畿内は音の響きが同じ言語喋ってたの?
当時にしちゃかなり距離離れてると思うが >>132
邪馬台をじゃまたいと呼んでしまう低学歴 三代目安寧
安は、新婦が廟にお参りをして清めをし、嫁いできたことを祖先の霊に報告し、嫁いできた家の霊を受けて、この家の人になる儀式をしていることを示している漢字
寧は、屋内に水盤を置いて神に願い事をし、心を安らかにする意味の漢字
伊勢遺跡は夜に水の祭祀をしていたらしい
三代目から伊勢遺跡を使い始めたのかもな
安寧天皇の片塩浮孔宮は『古事記伝』『大日本地名辞書』によると柏原市が候補地になるようだ
河内の伝承によると奈良から降りてきた龍神が柏原の地に留まり大和川の治水を行った後堺の方に去ったという
奈良の橿原の弥生時代後期の遺跡から龍の絵画土器が見つかっている
柏原には弥生時代後期の大規模な遺跡が残っている(大部分は現代の大和川の堤防の下になったが)
龍神のエピソードは弥生時代後期だろうな
伊勢遺跡が誕生した時代に重なる
四代目は懿徳でうるわしい立派な徳という意味かな
宮は軽の宮だな
徳がつくのは仁徳、聖徳、孝徳、
記紀で仁徳天皇の時代に枯野伝説がある 楠が切られ軽船が作られる話
叡福寺の七不思議によると、聖徳太子の母の棺の轅を植えたら楠が生えた
孝徳天皇は諱が軽だな
摩湯丘陵の池上曽根遺跡のある和泉には楠の元に堅い木でできたお地蔵さんがやってきた伝承が残っている
堅い木は樫カシだな
ちなみにスサノオの眉から生えてきたのが楠 >>135
そのレスのバイト代っていくらっすか?w 学界で「畿内説」が優勢になった根拠である纏向遺跡の年代ですが…
用いられている「炭素14年代測定法」「年輪年代測定法」でいずれも国際基準より100年程古い算出結果が出ており、
はっきり言って悪質な捏造が行われている可能性が高いです。
その証拠に、607年創建で600年代後半に再建された法隆寺は
この測定法では500年代後半と判定されています。
【纏向の古墳群の年代は旧来通り卑弥呼より100年程後】だと考えるべきです。
こういった行為を野放しにしている学界は非常に危うい状態と言えます。 >>127
おいおい
曹操の参謀
荀ケ、荀攸、賈詡、郭嘉、程c
無名だと?
曹操「荀ケ!おまえは無名らしいぞ!」
荀ケ「あいやー!そうでありましたかー(涙)」 神功皇后=台与で実は邪馬台国を滅ぼしたのが台与
神功皇后をはじめ天皇家にはトヨ(豊)の系譜が入り込んでいる
知らんけど! 近年、大きな注目を集めているのが金銀錯嵌珠龍文鉄鏡(きんぎんさくがんしゅりゅうもんてつきょう)です。
金銀錯嵌珠龍文鉄鏡は1933(昭和8)年に大分県日田(ひた)市のダンワラ古墳で出土した鉄鏡で、金銀玉の装飾が施されています。
金や銀をはめ込んだ鉄鏡は権威の象徴であることから、卑弥呼が魏の皇帝から贈られた鏡ではないかという見解も出されています。
この説はあまり支持されませんでしたが、2019(令和元)年、中国・河南省の曹操(そうそう)の墓から鉄鏡が出土し、それが金銀錯嵌珠龍文鉄鏡によく似ていると発表されたのです。
曹操は魏の武将。金銀錯嵌珠龍文鉄鏡が魏の皇帝から贈られた鏡の1枚であれば、九州説の裏づけとはならないまでも、信ぴょう性は増します。
中国での発見は邪馬台国論争に一石を投じることになっています。 もし邪馬台国がヤマト王権になったとすると仮定すると、卑弥呼には子供がいないので皇統が絶えていると解釈されるという大問題になってしまうのだが、、 「やまと」「やまたい」て発音単語自体がきっと古代日本で「国」「軍事行動可能レベルな組織的なデカい集落」て意味だったんじゃねーのかな、て割とマジで思う。
んで一番デカくなって全国統一した「やまたい」がそのまま統一王権になったって考えれば普通に辻褄が合う 中華思想の国が大和と書くわけないだろ!
邪悪な馬の字を当ててヤマトの国を
邪馬台国って書いたんだよ!
その国をおさめたのが卑弥呼だぞ?
中国から見たらヤマトの卑しいミコだよ!
皇子と書いてミコと読むよな? 天皇のことだよ! >>127
どちらかと言えば司馬昭の方が三国志で脇的扱いやろ・・・ 国作りと言えば出雲なんだが島根と畿内ってかなり関係が深いんだよな
出雲地方で栄華を極めていた加茂岩倉遺跡は紀元前後に営みを終え、その後加茂岩倉遺跡の銅鐸が奈良の上牧、大阪の陶器、和歌山の黒田などから見つかるようになる
加茂岩倉遺跡の人々は近畿地方に移住したのかもな
松江の西川津遺跡も興味深い
古くは縄文時代早期の痕跡が残る遺跡だな
弥生時代前期からかなり栄えていた集落で漆器を含め木製品が大量に作られていた
もちろん銅鐸や勾玉も見つかっている
興味深いのは弥生時代前期の樫で作られた鳥形
西川津遺跡と同じ形の鳥形は鳥取の弥生時代中期の青谷上寺地遺跡、弥生時代中期の大阪の池上曽根遺跡、亀井遺跡、雁屋遺跡から見つかっている
これらの集落は関係が深かった可能性がある
池上曽根遺跡辺りには楠の元に堅い木でできたお地蔵さんがやってきた民話が残っている
銅鐸と鳥形を見ていくと倭国大乱前の弥生時代後期の状況がわかる
弥生時代後期になると近畿や東海では銅鐸文化が花開き、長野や神奈川まで銅鐸は広がる
首長連合の祭祀場跡と考えられる伊勢遺跡が誕生し、近くからは近畿式と三遠式銅鐸の両方の特徴を併せ持った巨大な銅鐸が見つかっている
琵琶湖北部〜敦賀には河内と同じ形の鳥形が一斉に広がり(石川は元々鳥形の地)、東海には摂津の玉津田中遺跡と同じ形の鳥形が一斉に広がり、鳥形のあった登呂遺跡が誕生する
滋賀の伊勢遺跡を舞台にした国作りが東海さらに関東や信州迄拡大する
伊勢遺跡の時代、弥生時代後期は銅鐸、鳥形、龍の絵画土器(唐古・鍵遺跡、橿原、池上曽根遺跡)、ヒスイの勾玉の時代だな くだらない権威主義と学閥争いを一旦置いて冷静に考えれば大分県でほぼ間違いない。 邪馬台国は海賊の国
大和に滅ぼされて吸収された
ワンピースはその話 中二病を拗らせた無知蒙昧なキッズがボクの中の歴史とボクの中の解釈を語る様はマジで滑稽だよ 大和王権は畿内に実在する史実だが
邪馬台国はファンタジーに過ぎない
それと「邪馬」などと言う、中国人が日本を卑下して付けた当て字を使い続けるのはいい加減に止めろや 魏志倭人伝を残した魏という国は朝鮮半島の西部まである、東西を縦に半分
そして朝鮮半島の東部も倭人の国
倭寇(海賊、賊)もだいたい地理的に同じ
>前期倭寇は主に北部九州を本拠とした日本人で一部が高麗人であり、主として朝鮮沿岸を活動の舞台として中国沿岸(登州、膠州など黄海沿岸)にも及んだが、李氏朝鮮の対馬を中心とする統制貿易、日明勘合貿易の発展とともに消滅した[1]。高麗王朝の滅亡を早めた一因ともいわれる[1]。 邪馬台国九州説だと仮定して九州のどこの県にあったんだ? >>1
>『魏志倭人伝』にみえる「邪馬台国」を、「ヤマト」、「ヤマタイ」国と読むこともほぼ異論はないだろう。
はあ?教科書やテレビでも「ヤマタイコク」としか言わないし、つまり歴史学/考古学者さんとやら達もそうとしか言ってないだろ
あと、当方が以前にここで、「徳川トクチョン朝鮮人(反日主義者)類が『邪馬壹國=邪馬登国=ヤマト国』
をわざと『邪馬臺國=邪馬台国=ヤマタイ国』と広めたんじゃないか。」という旨を書いたんだけどね 銅鐸文化人は九州からやってきた征服王によって西暦170〜180年に消滅している。
伊勢遺跡は纏向文化人と文化も宗教も違っていて、邪馬台国滋賀説はなりたたない。
纏向学の論文を書いている人の中に、この説を唱えている人がいるがいるから正面切って否定するのは気まずいのだが、匿名掲示板だからまぁいいだろう。
どうもジャップの選民思想が気に障るよな。 >>160
そら大物はでしゃばったりしないでしょ
アホみたいなファンタジーよりも仕事のほうが大事なんだから
目立ってもしゃーない 大和も邪馬台も当て字でしょ
日本語で「やまと」ってどんな意味か考えてみればわかる
矢と的だ
つまり
どういうことだ? ヤマトは(聖なる)山の麓の意味。
纏向のことだな。 体裁のとれたバカを担ぎ上げておけば大衆はそれで納得するからな 九州説と畿内説の間を取って邪馬台国は岡山にあったということで決着にしようじゃないか 当時の魏が村落レベルの地方都市を国として扱うわけないだろ >>170
それはただの日本の簡体字なだけだろ
戦後直後までは新聞も旧字体使われてるよな
大学の校章って「學」を使ってるのが今でも多く残ってるし >>1
>しかし合理的に考えて、この邪馬台国と『記・紀』万葉にみえる「山跡乃国」「山常」が偶然の一致である可能性は、きわめて低いのではないだろうか。
バカ丸出しだな 字で言うと大和はダイワじゃん
邪馬台国から少しは引き継いでないとヤマトとかいう読み方の意味が分からなさすぎる 寺澤薫の試算する奈良盆地の戸数は7000戸
「王都を擁する「磯城下」と「磯城上」の二つの大共同体をあわせてもせいぜい四〇〇〇人。ならばヤマト国(邪馬台国)全体でも最大に見積もって一万五〇〇〇人ほどだろう。奈良盆地全体なら三万五〇〇〇人、戸数にして七〇〇〇戸ほどだ。」
—『卑弥呼とヤマト王権 (中公選書)』寺沢薫著
4000人は少ないな、吉野ヶ里だけで5000人だから。 魏から親魏大月氏王の称号をもらった者が、インド・クシャン朝のヴァースデーヴァであることを考えると、
親魏倭王の称号をもらった卑弥呼が、九州地方の一豪族と考えるのは、ちょっと無理じゃないかね。
少なくとも西日本一帯を支配する程度の勢力があったものと考える方が自然だと思うよ。
少なくとも魏は邪馬台国を、インド・クシャン朝と同程度の大きさの国と認識していただろうから、
邪馬台国を日本全国と考えても、小さいくらいだからな(笑) 親魏倭王の金印は魏との外交が継続しているから、卑弥呼から台与に渡ったのはほぼ確定やろな
その後どうなったか?
延喜式によるとウカノミタマの別名はトヨウケ
台与はウカノミタマと総称される勢力の姫だったのかもな
信太山の葛の葉伝説
配下の者がした行いのお詫びにウカノミタマが黄金の箱と水晶玉を授ける話
信太山の和泉黄金塚古墳からは葛の葉伝説の通り日本最大の水晶玉が見つかっている
和泉黄金塚古墳からは大量のヒスイなどの勾玉も見つかっている
4世紀後半親魏倭王の金印は勾玉の勢力に譲られた可能性があるね
勾玉は卑弥呼より前の時代畿内で流行っていた
唐古・鍵遺跡や池上曽根遺跡など畿内のたくさんの遺跡からヒスイの勾玉が見つかっているが弥生時代末期でみな営みを終える
弥生時代末期に何処かに避難したのか何なのか
仁徳天皇陵古墳の時代、考古学的に再び勾玉ブームが訪れる >>178 >>1
温羅/岸/アベ/モリカケ/橋本龍太郎スパイ朝鮮人類の根拠地岡山がヤマトの国だったわけないだろ >>178 >>1
温羅/岸/アベ/モリカケ/橋本龍太郎スパイ朝鮮人類の根拠地(潜伏地)岡山がヤマトの国だったわけないだろ >>182
どう考えても大和と書いてヤマトとは読まないなあ
日本も当て字を使ったから都合が悪かったからどこかの史書でコリエイトされたと思う 和泉黄金塚古墳からは「景初三年」在銘の画文帯四神四獣鏡が見つかっているから邪馬台国の勢力と何らかの縁があったのは間違いないだろうね YOU TALKIN' TO ME ?
YOU TALKIN' TO ME ? 邪馬台国は北部九州で大陸外交をやってた国
漢の倭の奴国王の金印が北部九州から出てるように大陸への玄関口であることを利用してあの辺りが外交をしていた
半島南部もその勢力下においていたから、外交に血道を上げていた
倭の内部事情は大陸に伝わりにくいので、大和朝廷が挙げた成果を自分のものとして利用していた
一方、大和朝廷は倭の平定に力を注いでいたので、邪馬台国の当時は外交はしていなかった
そのうち、大和朝廷の軍門に降った邪馬台国は地方政権として命脈をつないだのかすっかり吸収されたのか
磐井の乱みたいな反動もあったと >>178 >>1
温羅/岸/アベ/モリカケ/カン/橋本龍太郎スパイ朝鮮人(似非保守:リアル左翼)類の根拠地(潜伏地)岡山がヤマトの国だったわけないだろ >>182>>189
大和と書いてダイワと呼ぶのはCMの影響だろ 魏から親魏大月氏王の称号をもらった者が、インド・クシャン朝のヴァースデーヴァ。
魏から親魏倭王の称号をもらった者が、邪馬台国の卑弥呼。
自分はやっぱりこの対比が気になる。中国の魏は邪馬台国を、インドと同程度の大きさの国と
認識していた可能性が高いから、邪馬台国を九州の一地方国と考えるのは、やっぱり無理だと思う。 だから倭の内部事情は大陸に伝わりにくい
玄関口である北九州勢力がなんとでもごまかせた
志賀島で発見された金印っていう実績もあるだろw
あんなんでも金印なんだよ 弥生時代の海のシルクロードの終着点は伊都王国。卑弥呼の実家だよ ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています