【歴史】古代日本を統治した「大和王権」と「邪馬台国」に関連性はあったのだろうか? [樽悶★]
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邪馬台国と大和王権はよく聞く言葉であり、古代日本を統治していたということは周知のとおりだが、改めてこのふたつの国、王権の関連性は、と聞かれると「?」マークがでざるをえない。このふたつのものに果たして関連性はあったのだろうか?
■邪馬台国と大和王権の関連性はあったのだろうか?
古代に日本列島を統治した「倭国」のことを、国内では「やまとのくに」と呼んだ。
漢字表記は、「大和」「倭」「日本」などいくつかあったが、これを当時「やまと」と読んだことは、たとえば『万葉集』の「山跡(やまと)乃国」とか「山常(やまと)」などといった表記や、『日本書紀』神代上・第四段に「大日本〔日本、此 耶麻騰(やまと)と云ふ。下皆此に效へ〕」とあることによって知られている。「やまと」は元は大和国城下郡大和郷(現在の奈良県天理市から桜井市)の地名であって、原義はここにそびえる三輪山(みわやま)の麓という意味であろう。もともとこのような小さな地名であったものが、のちに大和国(現在の奈良県)の国名となり、さらには国家の名前にまでなったのである。これはひとえにこの地域の政治勢力が、奈良盆地全体を治めるまでに成長し、さらにはこの列島の大半を統治し、都を定めるまでに発展したからに他ならない。
「倭国」や「日本国」を普通には「やまと」と読めないにもかかわらず、そう読むのはこうした事情があるからである。 『魏志倭人伝』にみえる「邪馬台国」を、「ヤマト」、「ヤマタイ」国と読むこともほぼ異論はないだろう。3世紀初頭から半ばにかけて卑弥呼が中心地としていたのは、この邪馬台国であった。筑前国や筑後国、またそれ以外にも「ヤマト」という地名は存在しており、邪馬台国がこれらの地名に由来する可能性がないわけではない。
しかし合理的に考えて、この邪馬台国と『記・紀』万葉にみえる「山跡乃国」「山常」が偶然の一致である可能性は、きわめて低いのではないだろうか。
もちろんこの一事のみで邪馬台国=大和国説を唱えるのは早計だが、このことを軽視したり無視したりはできない。
そして卑弥呼の時代にこの「ヤマト」一帯に広がっていた一大集落が纏向(まきむく)遺跡である。ここには最古の巨大前方後円墳である箸墓(はしはか)古墳がある。その築造は3世紀半ば過ぎと推定され、卑弥呼の墓である可能性は十分にある。
この周辺一帯には、箸墓を含む「オオヤマト古墳群」(あるいは「大和・柳本古墳群」)がある。箸墓古墳の後にも、西殿塚古墳、行燈山(崇神陵)古墳、渋谷向山(景行陵)古墳と当時最大級の巨大前方後円墳が造られていた。
このうち西殿塚古墳を卑弥呼の後継者・壱与(いよ)の墓とする説がある。ただ行燈山古墳の被葬者を崇神天皇、渋谷向山古墳の被葬者を景行天皇と確定するには慎重な考察が求められる。(以下ソース)
9/25(月) 17:40配信
https://news.yahoo.co.jp/articles/4fcac89b433d4a7d61439cd653efa990692cd4b1
https://newsatcl-pctr.c.yimg.jp/t/amd-img/20230925-00031500-rekishin-000-1-view.jpg 邪馬台国時代に牛や馬は居なかった
情報の伝達速度、遠くて運搬不可能な物品もあった時代
その時代を頭に描いてみろ
邪馬台国畿内説がいかに頭おかしいかよくわかるだろ? >>796
鉄から探る邪馬台国
> 825 :名無しさん@1周年 :2019/09/07(土) 22:55:12.63 ID:d3rkd5G50
> 弥生時代の鉄分布と北部九州を代表する海人族阿曇の分布がよく一致する
> 鉄は海人族とともに九州からやってきたんだな
> http://inoues.net/tango/tango_z1.jpg
> http://livedoor.blogimg.jp/kodaisikawakatu/imgs/7/b/7b77c3d5-s.jpg
> 828 :名無しさん@1周年 :2019/09/07(土) 23:01:52.61 ID:yQGATf5S0
> >>825
> 福岡の1621に対して奈良の13が光るねwwww
>
> そこから読み取れるのは、奈良は九州を支配するどころか近隣の山城や河内さえ支配できてなかったってことだな
> そして4世紀以降急に発展するのは九州の海人に征服されてその東国攻略の前線基地になったおかげ、と
> 841 :名無しさん@1周年 :2019/09/07(土) 23:23:21.53 ID:1L9obXG40
> >>825
> >>308の資料と照らしても間違いなさそうだな
> 弁韓の鉄材と鉄加工の技術を持った海人が西日本を席巻していき、やがて東日本をも射程に捉えたので畿内を前線基地にしたのだろう
> だが東に版図を広げるにつれて遠い九州が本国では不便になり、畿内に都を移した、というのが一番しっくりくるストーリーだ >>788
はっきり書かれてるけど・・
>有千餘戶,世有王,皆統屬女王國
>南至邪馬壹國,女王之所都
>倭國亂,相攻伐歷年,乃共立一女子爲王,名曰卑彌呼 >>796
絹から探る邪馬台国
733 :名無しさん@1周年 :2018/02/20(火) 22:32:15.88 ID:MmmtVobm0
なお絹研究の権威、布目順郎氏の見解によると・・・
https://www.jstage.jst.go.jp/article/fiber1944/45/6/45_6_P277/_pdf
> (iv)九州から本州への養蚕伝播――
> 弥生絹は今のところ福岡,佐賀,長崎の3県以外からは出ていない。
> それが古墳時代前期になると近畿,中国,北陸からも絹が出るようになり,九州では北部のみでなく熊本県からも出るようになる。
> すなわち,養蚕がわが国へはじめて伝えられてから少なくとも400年間は九州北部で独占していたことになる。
> 九州から本州への伝播経路としては,瀬戸内海ルートと日本海沿岸ルートの2つが想定される(図4)。
> 魏志倭人伝は,邪馬台国において養蚕・絹織が行われていると記し,その時期は弥生後期に当たる。
> そのことと,上記の事柄とから,邪馬台国の所在地としては,九州北部とするのが妥当と考える。 >>784
生誕が紀元前711年という設定なので、魏志倭人伝とは何ら関係ない時間軸の話になる >>796
鏡から探る邪馬台国
中国鏡の専門家によれば卑弥呼の時代の鏡は北部九州が出土の中心です
http://yamataikokunokai.com/katudou/kiroku366.htm
>■徐苹芳氏の意見
>中国社会科学院考古学研究所の所長をされた考古学者、徐苹芳氏はのべる。
>「考古学的には、魏および西晋の時代、中国の北方で流行した銅鏡は明らかに、方格規矩鏡・内行花文鏡・獣首鏡、?鳳(きほう)鏡・盤竜鏡・
>双頭竜鳳文鏡・位至三公鏡・鳥文鏡などです。
>従って、邪馬台国が魏と西晋から獲得した銅鏡は、いま挙げた一連の銅鏡の範囲を越えるものではなかったと言えます。
>とりわけ方格規矩鏡・内行花文鏡・?鳳鏡・獣首鏡・位至三公鏡、以上の五種類のものである可能性が強いのです。
>至位三公鏡は、魏の時代(220~265)に北方地域で新しく起こったものでして、西晋時代(265~316)に大層流行しましたが、
>呉と西晋時代の南方においては、さほど流行してはいなかったのです。
>日本で出土する位至三公鏡は、その型式と文様からして、魏と西晋時代に北方で流行した位至三公鏡と同じですから、
>これは魏と西晋の時代に中国の北方からしか輸入できなかったものと考えられます。」
中国社会科学院考古学研究所所長・徐苹芳氏が挙げている銅鏡はいずれも北部九州からの出土が多数
http://yamataikokunokai.com/katudou/image3/366-16L.gif >>799
出雲の鉄を馬で運んだと思うか?
当時の運輸担当ならお前首だぞ
船だろ船 瀬戸内海航路 >>792
>北九州は3世紀にヤマト王権に支配されてる事実
ヤマト王権が九州支配したのは4世紀でしょ
何を根拠にして言ってるの? >>782
出てきてないってのは捏造だな
中心は畿内に移るが、九州からも出ているはずだが? >>792
トナカイ発見!
トナカイのフェイク7連発
①隋書で方位を修正したと唱える
↓
航路が変わっただけだと論破される
②大津くんがテレビで絹がなんちゃら言いました
↓
そんな事実は無かった
③黒塚古墳の副葬品は黄幢です
↓
公孫氏の赤幢の絵を使ったフェイクだった事がバレて大恥をかく
④九州説を許さないと言い放った後に、九州説に転向すると宣言
↓
大嘘でした
⑤ Metaの「Threads(スレッズ)」でコミュニティを作る
↓
作りませんでした
⑥岡上氏を持ち上げる
↓
岡上氏が東遷論者と気がつくとさっさとハシゴを外して岡上の呼びかけにもシカトする
⑦他人にコテを要求
↓
今は自分が名無し
このようにこの男は基本的に他人の褌で相撲を取るが、いつも土俵の真ん中で褌が解けてしまって大恥をかくのが常である >>796
位至三公鏡から探る邪馬台国
1:中国で主に西晋時代に流通した「位至三公鏡」は主に福岡、佐賀県から出土し
奈良から確実な出土例はない。
2:「位至三公鏡」より形式的に前の中国鏡についても北部九州を中心に出土する
3:九州出土の「位至三公鏡」は弥生時代の遺跡から出土するものもあるが
九州以外の「位至三公鏡」はまず古墳時代の遺跡から出土していて
伝世鏡か踏み返しによって作られた鏡か
どちらにせよ古墳時代に埋葬されたものと見られる
4:これらのことから魏の後を受け継ぐ西晋の西暦300年頃まで鏡の出土分布は九州北部が中心だったと思われる。
5:「位至三公鏡」よりも形式的にも出土状況も後の時代の「三角縁神獣鏡」は畿内、奈良を中心に出土する。
6:西晋の記録には西暦266年に倭国の女王の使いが来たことが書かれている。
この際に鏡を受け取ったのならそれは「位至三公鏡」であった可能性が高い。
7:西暦266年に受け取った鏡が「位至三公鏡」であるのならその鏡が主に出土する九州北部が
西暦300年頃まで
中国との外交の窓口であったと思われる。
結論:邪馬台国は九州北部 調べた事もない他人の墓を勝手に卑弥呼の墓に仕立て上げてる畿内説は詐欺
史書に記された「殉葬百余人」を論理的根拠も無く無視している時点で詐欺確定だろ >>798
邪馬台国時代に九州は朝貢してないし>>604、3世紀に北九州が畿内に支配されていた地域特有の前方後円墳が築造された事実
お前が反論出来るのはファンタジーと妄想だけだろ?
否定するなら、ちゃんと学術的証拠と根拠に基づいて否定しろよ
妄想やお前の感想はもういいから やまとこくがやまたいこくに聞こえただけなんじゃね知らんけど >>792
鏡の出土が減っていることを根拠に九州が朝貢を行ってないと解釈するのは飛躍がありすぎる
むしろ、倭国大乱で国力を著しく落とし、ろくに貿易もできず貴重な鏡が入らなくなったからこそ、魏から鏡100枚もらったとも言える
何百枚も古墳に雑多に埋葬して出てくるような状況なら鏡なんかなんのありがたみもないだろう >>806
3世紀後半に石塚山古墳が築造されてるよ
畿内支配地域特有の前方後円墳 >>782
それ捏造データだとバレてるぞ
>>614-615 >>804
三角縁神獣鏡は???
ひみこのかがみの
さんがくぶちしんじゅうううきょおおおはああああああああ!??!?? 弥生時代の奈良盆地は海で、瀬戸内海の突き当り
遺跡も盆地の周辺部に点在してる
そこに日本の祖となる国が誕生したのは自然な成り行きかと >>811
だから捏造データを使って日本人騙そうとするの止めてくださいよ
本当に迷惑なんです >>806
4世紀にヤマトは九州支配なんかできてないわ >>816
そのデータが捏造だろ
なぜ日本出土の位至三公鏡と中国出土の位至三公鏡をごちゃ混ぜにした?
これを根拠にするからにはお前が説明しろよ >>817
日本の鏡職人が心を込めて作らせて頂きました
http://mainichi.jp/articles/20180118/dde/018/040/020000c?inb=ra
> 一方の国産説も決め手に欠けたが、1年前、画期的な新説が現れた。昨年この欄で紹介した「国宝・金印論争」にも登場願った鈴木勉・工芸文化研究所所長の著書
> 「三角縁神獣鏡・同笵(どうはん)(型)鏡論の向こうに」(雄山閣)である。
> 鈴木氏は金工や金石学が専門。物の形や文様の変化を追う考古学とは違い、実験が裏付ける製作技術の観点から製作地に迫った。
>
> 着目したのは、鋳造後の仕上げ作業。三角縁神獣鏡の文様には、三角形が連続する「鋸歯文(きょしもん)」がある。
> 鋸歯文を拡大画像で比較すると、ヤスリや砥石(といし)で磨かれるなど、種々の異なる加工痕が残っていた。
> 加工痕の違いは工房や工人、工具の違いを示すものという。
>
> そこで、黒塚古墳(奈良県天理市・33面出土)など、三角縁神獣鏡が出土した10以上の古墳を対象に加工痕を比較した。
> 結果は簡明。仕上げ加工痕は出土古墳ごとに見事にまとまっていた。
>
> 三角縁神獣鏡では同じ型の鏡が複数存在する。同笵(型)鏡と言い、別々の古墳からも見つかるが、同型同士でも加工痕は古墳によってさまざまだ。
> 一方、出土古墳が同じなら、異なる型の鏡にも同じ仕上げが施されている。つまり加工痕は鏡の型ではなく、出土古墳に規定されているのだ。
>
> 鋳造の最終工程で施される仕上げのまとまり具合から導かれる事実は明らかだ。鏡の製作地は、日本列島内の出土古墳近くということになる。
>
> その上で鈴木氏は見つかる鏡の少なさなどから、工人が各地の出土古墳近くに定住しているのではなく、大和地域に本拠を置く複数の移動型の工人集団が
> 各地の依頼で現地に出向いて製作する「出吹(でぶ)き」を想定した。
> 鋳造の最終工程で施される仕上げのまとまり具合から導かれる事実は明らかだ。鏡の製作地は、日本列島内の出土古墳近くということになる。
> 鋳造の最終工程で施される仕上げのまとまり具合から導かれる事実は明らかだ。鏡の製作地は、日本列島内の出土古墳近くということになる。 >>815
はあ?
前方後円墳は必ずしも畿内の支配圏示すものじゃないだろ
まさかお前「前方後円墳は畿内の支配権を示す!」なんて説を本気にしてるのか?? 「九州は鏡の数が減ってる」
じゃない
「九州は邪馬台国時代というか弥生時代後期から古墳時代までの200年間鏡が全く出ない」
だから
考古学的な状況はもう明らか
むしろ鏡は九州説にとっては致命的なマイナス点だと言って良い >>820
捏造の根拠すら捏造するやつに何言われてもな
まともな証拠出せってw
出せないくせにw 支配というか東北から北九州までの各地の豪族の大連合だろ中心が近畿で大和の正体 ポリスみたいな感じ
で熊襲だけはぼろ糞でカワイソウ(;^_^A >>821
史書の記述によれば間違いなく4世紀
考古学的には・・どうだろうねえ?もう少し遅れるかな >>824
土地ごとの特徴はあっても前方後円墳は畿内支配地域特有の古墳だよ
その中でも石塚山古墳は典型的な畿内型の前方後円墳 >>822
むしろなんで日本出土の位至三公鏡が中国の位至三公鏡ではないと考えるんだ?
中国の専門家のお墨付きなら
>>804にあるぞ 弥生末期の大和では、既に北は東海や関東から西は本州の西端までの大規模な交易が成立している
これは>>704なんかで散々貼られてる事実なので、誰しもが同意できることだと思う
(しかも実数にすると1000個の土器の分布)
また同時代には奈良県内には箸墓を始め、巨大な前方後円墳が造成されている
これはそれだけの人間を動員できたことの証明
さて、そんなところに東遷がしれっと成立するのか?
九州が大和に入れるのは、紀元前の時代でないと無理なんだよ
弥生時代が終わり古墳時代になってから引っ越そうにも
もう時期的に不可能
鉄器にしてものカズがからのと言っても、少数に鉄器をもたせても
大した戦力にはならない
ただかうのは生身の人間なので、鉄で殴られても石でも青銅でも、殴られれば怪我をする >>604
しかもこの鏡の数って、コピー多数の三角縁神獣鏡も含めたデータじゃないの
話にならんわな 関連性あれば時代時代で定期的に名前位出てくるだろ
それがないって事はないんだよ >>824
それなんだよね
墓の形は畿内支配とはなんの関係もない
当時の宗教的流行だと考えるべき >>827
連合さえしてないよ
前方後円墳は支配権ではなくただの文化の波及であり"流行"
文化圏・交流を端的に示すとは言えるね そして九州で出土してる古い時代の鏡片や破鏡の出土状況が九州という地域がまともな勢力も存在しない雑然とした場所である事を示している
鏡の欠片が王墓などの中心地もなく、そこらの集落や個人的な墓地などでみつかるようになってる
これはかつて王や有力者が手に入れた鏡が打ち割られて個人が交易などで入手する様な無秩序な状態になっていることを示している
九州が勢力としてのまとまりを喪失し鏡を破壊してただの交易品として流通させている様子が見える >>835
前方後円墳=支配ではなくただの文化波及
ってのはもうちょっと周知されて欲しいよね 前方後円墳に眠るのは権力者
前方後円墳を作らせるほどの権力者が他国の真似をするとは考えられないので、
畿内の豪族が勢力を伸ばして行ったと考えるのが自然 >>833
漢の鏡だが
否定するなら根拠と証拠をどうぞ しかし中国で三国志の時代に日本がどんな状況だったのか全くわからないって悲しいよね 日本の縄文土人もいたけど卑弥呼の時代に既に地方豪族が渡来系だったから
中国、朝鮮半島から戦乱で逃げて来た人たちが集まってできた日本
あながち 2位じゃダメなんですか? も正解だったなw >>840
宗教は国境を越える
これ基本中の基本な? >>840
ねえねえ、各地の前方後円墳に眠る被葬者って畿内から派遣された征服者なの?
なわけないよね?
ちゃんと自分の頭で考えればわかることだよね?これって >>835
3世紀に北九州に出来た石塚山古墳ほ畿内支配地域の象徴
ここで巨大な前方後円墳を作ることで九州の支配地域に目を光らせてたんだよね >>842
それを言うなら今現在世界の覇権を握るアメリカも
500年前には影も形も存在しなかったわけで >>832
妄想とファンタジーで「真実!キリッ」
痛すぎw >>848
じゃあとりあえず石塚山が畿内有力者のうち誰の墓なのか説明してみ?w
一応聞いてやるw >>847
?
個人の感想で反論されてもw
早く証拠出しなよw >>835
墓の形式は支配があったと解釈してもいいだろうが、例えば石塚山古墳を3世紀なかばと断定するのは捏造
4世紀と解釈しても妥当
4世紀ならばなんの不思議もない 九州説信者ってとうとう前方後円墳体制も否定するようになったか
もう学問からかけ離れたラノベだと白杖してるようなもの >>842
桃園の誓いが184年頃かぁ
王騎将軍がその約400年前だからビビるな ジャップランド(;^_^A >>837
だからこそ魏志倭人伝の遅れた文明のように書かれた邪馬台国と合う
奈良周辺で発掘される品は邪馬台国とにつかぬ洗練された豪華な品が多いし
ヤマト王権の前身となる勢力が洗練された進んだ文明をもって
日本のほとんどを勢力下に置けた
邪馬台国ごときの遅れた古い文明ではあれほど勢力を広げるのは無理 >>839
反論も何も
日本の位至三公鏡は中国の位至三公鏡とは違う
というあなたの主張がキチガイ過ぎて
まずそこを証明して貰わないとw >>849
ヨーロッパ人に発見されてなかっただけで先住民が住んでたでしょ >>853
それを感想と言って反論とみなさないなら、鏡の出土が減っていることを根拠に「朝貢してない」などとするお前の言葉は感想以下だな 葬儀と言うのは大変な意味がある「自分がどんな権威で権力を継承するか」を天下に示すイベントとして重視されている
これは九州においても同様で九州は中期まで福岡を中心とした独自の墓制を広めて北部九州全域にその方式を採用させていた
ところが弥生後期後半にはこの秩序が崩壊して各地域で好き勝手な葬儀が行われるようになっていた
後期前半まで存在していた有力者がいなくなり無秩序な状態になっている事が伺える
この後に終末期になると九州ではそれまで一切行われて無かった「大きな墳墓を作って葬儀を行う」という方法が畿内式の葬儀が採用される
これに先立って生活土器も畿内式に塗り替わっており、九州が畿内の強力な影響下に入っている事が伺える
そしてこの方式は時代を追うごとに色濃く、より規格化された物になりその背景に政治的な支配力の波及を見る事は明らかと言える
古墳の波及はただの流行などではなく政治的背景を持った拡大だと解釈される >>851
畿内型前方後円墳
畿内支配下の地方豪族だろ >>855
実際、一体なんのために「畿内以外の地域の前方後円墳」は作られたの?
被葬者は畿内の権力者なの?違うよね?
各地の副葬品の連続性からその地域の豪族・権力者であると考えるのが自然だよね?
これ、つまりは”勝手に”作ってない?
畿内発祥の権力者の象徴である祭礼古墳を、畿内の権力者に断りなく作ってね? >>860
まじで?これで反論した気になってんの?やばすぎw
俺の言ってることが証拠だ!ってやつかw >>1
基本的に政体としての連続性はないだろうな
普通に考えたら九州を中心とした西日本に
それこそ「邪馬台国」が広がっていただろう
誰に聞いても我が国こそが邪馬台国といったんじゃないか
だとしたら奴国だの色々な呼び方の国があったとして、
それは蔑称か、もしくはもともとのその地域の呼び名だった可能性が高い 鋸歯文(きょしもん)はヤマト王権の工房で使われていた紋様だな。
二世紀末に征服されたと思われる磯城の唐子鍵遺跡の銅鐸にも鋸歯文が入っている。
神武東征伝説によると、神武は大和入りすると磯城の邑に降伏勧告を行ったが、首長の兄師木の一党が反抗したの彼らを殺した。兄師木の弟の弟師木とその一党は降伏して神武の軍に合流したとある。
磯城の邑は今の唐子鍵遺跡の事だろう。
考古学的にも唐子鍵の集団の一部は外来の銅鏡文化人に合流して、磐余の大福で銅鐸破壊と武器生産をしていた事がわかっている。
唐子鍵の生き残りの職人たちがヤマト王権の工房で働いていたのだろう。
鋸歯文は飛鳥時代になると寺院の瓦に刻まれるようになる。鋸歯文があればヤマト王権の工房で作られたものとみて良いだろう。
三角縁神獣鏡の鋸歯文を見ると、これは魏のものではなく国産鏡だろうと思われる。 >>69
一応日本書紀は引用しているぞ
ただし神功皇后に比定しているが >>865
そりゃ存在しない元号を彫り、漢字を左右反対に作ってしまった鏡を送ったと考えるよりも、手本を元にど素人がコピーを作ったんだなと考えるのが妥当だわな
であれば同じようにコピーした鏡が大量にあると考えるのも妥当
それを否定するなら話にならんわな
終わりで >>507
はいでは邪馬台国は岡山ということですね畿内説派さん!
岡山からはいっぱい桃の種出てますねぇ! 邪馬台国は存在しなかったって何度言ったら分かってもらえるんですかねえ >>868
アホに教えてやるが神功皇后が仮に実在してたとしても4世紀後半だぞ 魏書などのシナの書には「畿内にある大和国は、むかし九州にあったよ」と言っている。 九州の邪馬台国連合で戦乱に嫌気がさした一派が東に流れて行って大和政権の元になったのじゃよ
って向かいのおばあちゃんが言ってた そもそも邪馬台国って中国側の資料でしかないし
使節派遣して金印貰っただけで
日本をどれだけ統治してたかなんてわからんし
単に九州の一国だった説で終わりだろ そもそも邪馬台国が畿内にあったという証拠がこのスレでは示されてないな
邪馬台国が九州にあったという証拠やデータは山ほど出たが。
妄想とファンタジーなのはむしろ畿内説の方では?
あ、NHK謹製のゴッドハンド地図は要らないから >>873
だから、これを妄想と判断するならお前の主張は妄想以下だから終わりでいいってこと
終わりで 記紀の熊襲国討伐には一切触れない九州人 ケンチャナヨー 古墳についてはよく卑弥呼の墓などと言われる祇園山古墳に付いても
「畿内の影響のもとでもちこまれた九州でもかなり早い段階の畿内式古墳」として判断されている
その前段階に墳丘を作る伝統もなく突然畿内のような墳墓が現れている事からも九州の墓制が根本から上書きされている証拠と言える
出てくる土器も畿内系の土器が多く祇園山が九州の外から持ち込まれた文化の産物である事が明白と言える 台には下という意味があって下部の意味もある悪字。
邪馬台は邪→悪字 馬→動物文字は悪字 台→悪字 >>845
その割には世界中で宗教上のイザコザが絶えないねえ
神道と仏教が同居してるのは日本ぐらいだろ?
氏神様と菩提寺の両方に御参りしないといけないから大変 >>878
そもそも邪馬台国連合は30カ国にすぎず、首長級の弥生式墳丘墓から判断するに九州だけで30カ国程度はあったと言われている
まあそもそも奈良には首長級の弥生式墳丘墓は存在しないわけだが
後漢書にも倭は100国とあり、畿内東海から九州まで支配した邪馬台国であれば30国では到底収まらない 日本列島は弥生時代に朝鮮の人に侵略されたってこと? 一字一句厳密な史書で
イトを伊都と記してるのに「邪馬台」ではトを台と記すはずがないんだけど
現代のトの音が古代の日本語に複数あったかの検証はされてるの? 九州に大きな国など無かったよ
だから、ジンムが東を攻めた時、補給が無かった
280年の日本で前線に補給を送れるのは、尾張と伊勢をもつ大和だけだったよ
穀倉地帯の有無が、長距離派兵のキモなのだが、
古墳時代の稲作は丘陵地の谷戸で行われ、平野は不毛の地だったよ >>877
どれだけ統治してたかってのは凡そわかってる >>882
それ卑弥呼の時代よりもずーーーと後の時代のお話ね 邪馬台国もヤマト王権も銅鏡文化人。
畿内の先住民である銅鐸文化を滅ぼした後に、新しく生まれた国ということになる。
よって邪馬台国=ヤマト王権と推定するのが妥当。 紀元前から日本各地で五銖銭や銅鏡が発見されてるから中国王朝とは倭国が国家として交易してたことは確実
卑弥呼についての記述が当時の日本の統治状況から見るとちょっと変
朝廷側が朝貢する必要性に迫られて足利義満方式で女王卑弥呼を国王として朝貢したんだろうとは思う >>889
その解釈で良いよ
ただし、奈良の軍事的バックは尾張と伊勢であり、
奈良自体は弱体だったのだ
なぜ奈良が尾張と伊勢を従えられたか、これは本当に謎だね ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています