明治40年の土砂災害を漢文で伝える石碑=30日午後、広島市安芸区矢野東
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岡山県倉敷市立川辺小にある、昭和51年の水害の水位を示す石碑=20日
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 西日本豪雨の被災地の中には過去にも土砂災害や水害に遭った所があり、石碑を建てて被害を今に伝えていた。昔の人が自然の威力に打ちひしがれながらも、死者の霊を慰め、後世に二度と同じ思いをさせまいと残したメッセージ。現代のハザードマップにも通じる教訓を、私たちはどう生かせばいいのか。

 高梁川支流の堤防が決壊して大規模浸水が発生し、多数の犠牲者が出た岡山県倉敷市真備町地区。災害派遣の自衛隊車両が集まっていた市立川辺小の片隅に、小さな石碑がひっそりと立つ。昭和51年の記録的な大雨による水害を受け設置され、大人の膝下ぐらいの水位線を刻んでいる。

 地区はたびたび水害に見舞われてきた。今回の浸水域も市のハザードマップとほぼ一致。市立小で使う副読本は、高梁川の改修工事の歴史や石碑の写真を掲載してきたが、本多卓郎校長(57)は「先人の知恵で安心して暮らせるようになったとの内容で、『大丈夫だよ』という意識付けに働いてしまったのかもしれない」と肩を落とす。

 川辺小近くにある源福寺境内の高台には、白壁と瓦屋根で造られた「御霊屋」がある。明治26年、台風で地区が浸水し、この屋内に避難した人が屋根を破ってさらに上へ逃れたと伝わる。そばの供養塔は、一帯で200人余りが死亡したと記している。

 寺の近所に住む片岡和章さん(60)は、昭和51年に一帯が浸水したことを踏まえ、土地をかさ上げして自宅を建てた。御霊屋の伝承も知っていたが、近年は大雨が降っても大きな被害は出ておらず、今回も「2階に避難すればいい」と考えていた。しかし水は2階付近まで到達し「こんな高さまで来るとは」と振り返った。

 広島県でも、かつて土砂災害に遭った地域が再び襲われた。広島大の熊原康博准教授(自然地理学)らは平成27〜29年、県内に残る石碑50基を調査。熊原准教授によると、今回被災した同県坂町や広島市安芸区にも碑が残されていた。

 安芸区にある碑は、死者64人に上ったという明治40年の土砂災害を「土砂に覆われてしまったこの惨状は言い表すことはできない」「一晩でこれほどの大災害を引き起こすと誰が予想できたであろうか」(現代語訳)と漢文で伝える。

 石碑は、その地が被災場所であることを伝えるとともに、慰霊や教訓の伝承を目的に作られてきた。昔から繰り返し津波に襲われている東北や東海、西日本の太平洋沿岸にも数多くの碑が残っており「此処より下に家を建てるな」(岩手県宮古市)といった戒めの碑もある。

 2011年の東日本大震災後、津波の被災地では新たな碑を設ける動きも生まれている。宮城県女川町の中学生(当時)は、千年後の命を守ろうとの思いを込め「女川いのちの石碑」を考案。町内21カ所で津波の到達点よりも高い場所に建てる計画で、設置が進んでいる。岩手県大槌町では、碑をあえて木製にして、数年ごとに建て替える取り組みをしている。

 東北などで昔の石碑をデジタルカメラで撮影し、影を抽出して判読する活動を続ける、国文学研究資料館の上椙英之客員研究員(民俗学)は「碑の教訓は日常では忘れていても、危険が迫ったときに思い出せればいい。定期的に碑と併せて地域の行事をしたり、学校教育に組み込んだりすると効果がある」と話す。

 本多校長も「教育の力は大きい。地域の教訓は学校が引き継いでいかなければ」と語る。神戸学院大の前林清和教授(社会防災論)は「碑の教訓は、過去の教訓だと注意する必要がある。それに縛られると想定外の災害に対応できない。教訓を超える可能性があることを含めて碑を捉えることが重要だ」と訴えた。

産経新聞 2018.7.31 06:55
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