前列中央が牟田口廉也中将。インパール作戦を指揮したが、戦後は敗戦の将として非難を浴びた
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太平洋戦争中、日本軍に甚大な被害をもたらしたインパール作戦から今年で75年。祖父が従軍者だったことから長年、生還者・遺族と交流してきた筆者は、彼らの色褪せぬ戦争の記憶と平和への願いにいまこそ目を向けるべきだと訴えかける。

■インパール作戦につながる「金属板」

庭で畑仕事をしていたら、出てきたのだという。

ミャンマー中部の町ザガインで、知人から板状の金属製品を見せられた。ミャンマーが「最後のフロンティア」ブームで騒がれる直前、2011年のことである。このとき私は大学院に在籍中で 、18世紀のミャンマー語碑文の調査のため現地に滞在していた。

小さい楕円形の板には、漢字の文字が縦書きで三行刻まれていた。「八九〇五」、「西六六」、「番九三一」とある。これが日本軍の「認識票」であることはすぐにわかった。

アジア・太平洋戦争当時、「ビルマ」と呼ばれていたこの国での戦闘や日本軍のことは若干の知識があったからだ。認識票は戦死した兵士を特定するものであるはずだ。ならば、この番号をたどれば持主にたどりつけるのではないか。そう考え、帰国後に改めて調べることにした。

ところが、それは考え違いだった。相談のために持ち込んだ資料館で即座に否定されてしまった。日本軍の場合は認識票が兵士個人と直接結び付けられていないのだという。

戦闘の前に認識票を与えておき、後で生還者から回収する。すると未帰還者の数だけは正確に把握できる。このような運用方法だったので、この三行の数字から持主個人の特定はできない。持主につながる手がかりに思えた認識票の実態は、兵士個々人の人生に無関心な発想が作り出した金属板に過ぎなかったのである。

それでも所属部隊の推定はできた。「八九〇五」という数字は部隊の通称号で、「菊第八九〇五」部隊を指すのだろう。ならば第18師団所属の歩兵第114連隊のことである。

昭和17年、日本軍は英国の植民地だったビルマに侵攻した。中国とビルマを結ぶ交通路を遮断するためである。第18師団は侵攻作戦に投入された師団のひとつで、古都マンダレーの攻略を担当している。昭和19年以降は北部ビルマでの戦闘で兵員の大半を失った。ただ、資料からはザガインと部隊との関わりが確認できず、認識票が埋まっていた経緯はわからない。

一方でひとつ、興味深い事実がある。侵攻作戦時の第18師団長は、後にインパール作戦を指揮する牟田口廉也(むたぐち・れんや)中将であった。

■死傷・重傷者4万人、大半が餓死や病死

インパール作戦は、インド・ビルマ国境に聳(そび)えるアラカン山脈を陸路突破し、連合軍の拠点となっていた英領インド・マニプルの中心都市インパールの攻略を目指す作戦だった。

昭和19年3月に第31師団、第15師団、第33師団という3個師団の約6万人以上が進軍を開始した。しかし、攻勢は連合軍の堅陣に阻止され、雨季の豪雨により補給も途絶。武器弾薬はおろか食糧や医薬品も欠乏した。しかし、軍司令部による作戦中止の判断は遅れた。

不信感を抱いた前線の師団長が独断で退却を開始するに至り、正式な撤退命令が下ったのは7月のことだった。約4ヵ月の間に参加兵力の約7割に相当する約4万人が死亡または重傷を負ったが、死者の大半は雨季の豪雨が続く山中で生じた餓死や病死だった。

この作戦は、日本軍指導部の無責任な組織運営と人命軽視の典型例として知られている。当初から作戦計画の不備が指摘されていたが、連合軍の戦力に対する侮(あなど)り、戦場となる土地の社会と自然環境についての認識不足、華々しい戦果予測への妄信などが重なり合い、最悪の結末を迎えてしまった。重要な意思決定の場で、正確な情報や明確な責任分担、関係者間の合意形成が常に欠けていた。

兵士たちは人知れず雨の山中に斃(たお)れ、身に着けていた金属製の装備品だけを残して、そのまま土に帰っていった。(続きはソース)

8/14(水) 20:30配信
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