>>119

古事記は記憶に優れ、語り部の一族になっていた大陸系の渡来人である綾部家出身の柿本人麻呂が
日本書紀は太安万侶がまとめたらしいですね。

出雲伝承ですと、一般には古事記序文では、稗田阿礼が習った歴史の記録をもとにして太安万侶がまとめたとされていますが、実際にはその逆であるとし、安万侶が役所から持ってきた歴史記録と、出雲国造の考えた出雲神話と、忌部子人がまとめた記録をもとに、人麿が古事記を書いたとするほうが可能性が高いと分析されています。
これは山辺赤人と繋がりのあった出雲の旧家ならではの視点ですね。

日本語的な漢文を書ける上に、古事記に記された格調高い和歌や世俗的歌謡など、当時、人麿以外にそれが書けそうな人は見当たらないという考え方の様です。

人麿は庶民向けに読みやすくなるよう物語性を重視し、和歌を織り交ぜ、そして後世の人が史実と違うことに気づけるよう、考え抜かれた例え話を混ぜたと思われます。人麿は万世一系にするという制約の中、できるだけ真実に近づくように知恵を搾り、一方安万侶は撰善言方式に従い、資料に基づいて詳しく書くことに徹したような印象。

日本書紀の神代に頻繁にみられる「一書に曰く」という記述は帝紀編集時に豪族たちの提出したレポートが元になっているのかもしれないですね。

「古今集序問答」に、人麿が聖務天皇の后と密会したため明石に流され、3年後に赤人と名を変えて都に帰った、という記載がある。実際には時期が合わないので聖務ではなく文武天皇の后であり、明石は石見の間違いとして、そのような何かの冤罪によって人麿は石見国に監禁される。のちに上総国へ流刑となったという。そして724年に77歳で没。

現在でも、石見の物部神社には、柿本神社が不自然に合祀されているのを確認できますよ。