https://www.sankei.com/article/20211020-X3UJYBQUXJMSDPJJBJ3EYKPT6Y/
 古代史最大の謎として江戸時代から続く邪馬台国(やまたいこく)の所在地論争。
「女王・卑弥呼(ひみこ)は、北部九州や吉備(岡山)を中心とした勢力によって擁立され、奈良・纒向(まきむく)遺跡を首都として国を治めた」との説が打ち出された。
有力候補地の纒向遺跡(奈良県桜井市)などを調査してきた寺沢薫・桜井市纒向学研究センター所長が、県内で行われた講演会で披露した。
「卑弥呼は纒向にいたとしか考えられない」としながらも、九州勢力の関与を指摘。「畿内VS九州」という二者択一ではない、新たな見解に注目が集まる。

■文献研究では限界も
寺沢さんは講演会の冒頭、「かつて『考古学者は邪馬台国に足を突っ込むな。あれは文献の世界だ』と言われた」と振り返り、
「文献では、江戸時代以来300年にわたって研究されても結論は出ていない。考古学的な視点が必要」と述べ、近畿や山陰、瀬戸内、
九州各地の遺跡の状況を示しながら、考古学の立場から解説した。

魏志倭人伝には、女王・卑弥呼が誕生した経緯や、中国との外交について年代も含めて詳細に記されている。
記述によると、倭国では長年、各地の勢力が互いに争っていたが、2世紀末頃に卑弥呼を共立。
卑弥呼は239年に中国の魏に使者を送り、銅鏡百枚などを下賜(かし)され、「親魏倭王」の称号と金印が授けられた。248年ごろに亡くなり、大きな塚(古墳)を造ったと記す。

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