【訃報】 ジャン・リュック・ゴダール監督死去 「勝手にしやがれ」など “ヌーベルバーグ”の代表的存在 [朝一から閉店までφ★]
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TBSテレビ
2022年9月13日(火) 17:48
ロイター通信はフランスの映画監督ジャン・リュック・ゴダールさんが13日、死亡したと報じました。91歳でした。
ゴダールさんはフランスで始まった新しい映画制作の動き「ヌーベルバーグ」の代表的存在とされ、「勝手にしやがれ」などの作品で知られています。
https://newsdig.tbs.co.jp/articles/-/151181?display=1 まあ、松浦寿輝の「折口信夫論」も、専門の研究者からはだいぶ批判されていたようだがな なんだ、まだやってたのかw
語学バカに付き合うつもりは毛頭ないので、ここは引用でケリをつけさせても
らおう。好きな奴は安久さんテギュがどうした、阿久さん汁コンフレックスが
こうしたと、夜明けまでやってるがよろしいw
「この作品が或る世代までの文学青年達に及ぼした影響は絶大だったと思うが、
それが及ぶ範囲はかなりはっきりと限定されていて、私の世代になると、
そもそもこれを読んでいる人自体が極めて珍しかったし、読んでいても、
何処かバカにされるような風潮があった。
その理由は、小林秀雄という人の存在感の問題に拘わっているのであろうが、
それ以上に、「誤訳が多い」という例の悪評のせいでもあろう。
しかし、私はそれを少し単純だと感じる。誤訳であろうと何であろうと、
ともかくも、小林秀雄訳の『地獄の季節』は、この国の文学史の中に出現し、
しかもその圧倒するような魅力によって一時代の人間の心を完全に捉えて
いたのである。その「書かれた物」としての価値は、翻訳が正確かどうか
という問題とはまた違う段の話である。」(平野啓一郎) >>385
当時の何も知らぬ読者の心を捉えたよね、という懐古的、慰撫的な評価にすぎない
似たような趣旨のことをスガ秀実も『必読書150』で書いてるけど、
評価としてはただの過去の遺物であって、これだけ研究が進んだ今となっては翻訳として失格の訳を読む意義などない
あなたはさんざん「誤訳でも感動したらよい」「それが誤訳と誰が決めたんだ?」という論を繰り返している
そこに検証は存在しないが、現代の水準では通用しない強弁にすぎない
俺は何度も繰り返す。「誤訳はそもそも作者の指し示すものを精確に示していないから、あってはならない」、
「文法や語法を間違えたり、原文を逸脱したら、誤訳である」と
翻訳とは誤訳を少しでも減らしてゆきつつ、フレッシュな言葉に須くアップデートされてゆくべきものなのだ
あなたの青春時代の思い出にまで泥を塗るつもりはない。感動したんだねよかったね。
しかし、欠陥の訳がこれだけ読まれ、しかも今も書店で売られていることは、はっきり言うが日本の恥だろう >>286
朝日新聞にも寄稿してはります(有料)
ゴダールが映画を一新…それは真っ赤な噓である 蓮實重彦さん寄稿
https://www.asahi.com/articles/ASQ9G543WQ9GULZU00H.html
>>>
「息たえだえに」を意味するフランス語の慣用句を原題とした長編第一作「勝手にしやがれ」(1959年)で
「世界に衝撃を与えた」といわれるジャン=リュック・ゴダールは、
その日本語の題名故に、わが国では「自分勝手」な映画作家と見なされがちである。
彼は、自分に相応(ふさわ)しい作品しか撮ってこなかったからだ。
しかも、ゴダールは、みずからの生命さえおのれで操るかのように、
自死同然の振る舞いで他界してみせたという。何ということだ!
>>> >>361
なんか率直すぎて感動しました
まぁ大学の先生にもそう思ってる人いっぱいいるし
てか古典語なんて不要っていう人までいるし
>>385,386
横からだけど、これは古典的な議論ながら翻訳原理主義?が気になる
原文からの逸脱って考えは主観だし、ほかの言語にした時点で逸脱だから
あきらかに意味を理解していない訳を肯定できない、これは当然だけど
詩型やレトリックの移植を優先して、省略や翻案してまう訳詩はありえる
七五調とかの定型にすると、語句を省略したり語順を変えたりすることもある
映画の字幕とおなじで
詩にしたってことは、見聞きしたもの感じたこと思ったことを、くっきり指し示さず
散文的に意味を説明しない、ある種の美しい手段を選んだわけ
「誤訳でも感動したらよい」てか Traduttore, Traditore で
正訳でも感動できないどころか、ぎこちなくて頭に入ってこない、
そんな翻訳でもいいんだろか? 小林訳ってそんなに誤訳?
上田敏のヴェルレーヌとか堀口大学の自由なのとか、誤訳と切って捨ててしまう?
あと、適切な訳語やきれいな表現がもう使われてると、いいと思っても避けざるをえず
ごつごつした、すわりの悪い文章になってしまう、これもありがち
文法や誤報を正確に移し、最新の研究を理解したうえの、そういう訳はある >>389
私は>>386の方ですが、
私は映画字幕における省略や言い換え(日本では一般的ではない商品名を、一般名詞名に置き換えて訳すとか)
は全然アリだと思いますが、しかし、時間芸術ではない書籍における訳には
それ以上の厳密性はあって然るべきだと考えています
一般に理解できないなら注をつけたってよいのだし、
翻訳であっても可能な限り原書で読むのと同じ体験をもたらすものでなければならないでしょう
言い換えるとシニフィエが同じでないといけないわけで、
「うろこ雲」と書かれた詩を「魚のうろこ」とか「目からうろこ」と訳されて、
それで勘違いされて感動されてもそれで作者は嬉しいかぁ?ってことです。
サブカルの固有名詞が乱舞する小説や詩があるとして、
それは勝手に省略や言い換えられてはならないし、
可能な限り正確に他言語に置き換えられなければならないでしょう
(例:ジュノ・ディアス『オスカー・ワオの短く凄まじい人生』とかピンチョンの小説とか)
つまり、相手の文化をそのまま受容させることに翻訳者は力を注ぐべきです
これはゴダールの映画を日本で観ること、北野武の映画をフランスで観ることにも通じます
七五調とかの定型にするという試みは、海外文学の受容の最初期にはあってもいいですが、
韻律は韻律、自由詩なら自由詩、と形式を同じにするのがセオリーでしょう 続き
くだんの小林秀雄の訳は、上記のような見地に立てば、翻訳としては「論外」の範疇にあります
具体的な批判は繰り返しませんが、研究の進んだ今となっては珍訳として語られるべき水準でしょう
ここまで読者を獲得し、今も版を重ね、上記のような頭の悪い崇拝者を産んでいるのだから、
まあそれ自体に魅力のあるテキストだったのでしょう
しかしそれは、自作の詩でやってください、という話です
あれがランボーのテキストとして読まれることは、繰り返しですが、冒瀆というべきというのが私の見解です。
Traduttore, Traditore という言葉は、誤訳や超訳を肯定する言葉ではなく、
別の原語に移し替える中で、翻訳者が最善の努力を尽くしつつも、そこからこぼれ落ちてしまうものがあること
(Lost in Translation)について述べた言葉であると私は考えています >>390
>これはゴダールの映画を日本で観ること、北野武の映画をフランスで観ることにも通じます
映画の魅惑はラングだパロールだを容易に超える
外国映画を字幕なしでも理解できること 「気狂いピエロ」←なんで「kit~」と打つだけで予測変換のトップに出てくるんだろ >>392
まあそれはかなり大変だと思うけどね
それこそ、その国に住みでもしないと真の理解には追いつかない
語学ができるだけでも不十分
北野武の映画にゾマホンがギャグ要員として出てきても、フランス人には「黒人がいるなー」としか思われない
誤訳はそれ以前の問題だけどな
何度も言うが、誤訳は論外です 明治末期に悪ガキどもが映画を真似た犯罪に走ったとして「ジゴマ」は上映禁止になった。
もともと映画は盛り場をウロつく浮浪児やら不良やら貧乏人向けの5セント銅貨一枚で買える娯楽で、上流階級の知的遊戯の場でなかったのは世界共通
映画館で字幕の誤訳ばかり探すということは、ストーリーを追うのが映画を見ることと同義なのだろう
まあゴダールではなくてストーリーテリングに長けるハリウッド娯楽向き まぁ、いくら映画で偉大な作品作っても、ハリウッド以外の映画は廃れてるから顧みられることもないな >>398
>映画館で字幕の誤訳ばかり探すということは、ストーリーを追うのが映画を見ることと同義なのだろう
>まあゴダールではなくてストーリーテリングに長けるハリウッド娯楽向き
意味不明かつ論理が飛躍しすぎてて草
あと俺は映画字幕で省略や言い換えは仕方ないと考えてるからな
>>390読めよ ここでサイレント映画持ってくるとか頭わいてんのか
(トーキー時代の作品だけど作りはサイレント) だからゴダールを語るような面倒くさい人間と飲みたくないのよ >>407
トレック?あれはダラダラ尺伸ばしすぎてもうね… >>115
この追悼記事からのリンク Sight and Sound 映画史ベスト100
ゴダールは4つ入ってる
The 100 Greatest Films of All Time
https://www.bfi.org.uk/sight-and-sound/greatest-films-all-time
13 「勝手にしやがれ」(1960)
21 「軽蔑」 (1963)
42 「気狂いピエロ」(1965)
48 「ゴダールの映画史」(1998) まだあったか、ここ
>>411
これの1位が「市民ケーン」から「めまい」になってた
ヒッチコックのつくりこまれた映画とゴダールは対局だが
どっちも評価する人は多い、ゴダールも別の意味で緻密なのか
ベルイマンがボロクソに言っていたようだけど
>>298
の詩の melee が映画では allée なのはなぜ?と思ったら
これはヴァリアントだそうで
寺尾次郎の訳では「太陽と共に去った 海が」
中原中也訳は「太陽もろとも去(い)つてしまつた。」
アルチュール・ランボーの「永遠」
ttp://www.hananoe.jp/culture/bouken/bouken196.html
>>415
気狂いピエロってずいぶん前に見たから異稿とは気づかなかった
とても興味深く読みました。ありがとう
9人の訳が並んでいるが、やっぱり小林秀雄を除いて全員「太陽と溶け合う(混ざった)海」と訳してるな
何故「海と溶け合う太陽」なんて誤訳したんだろうな
あと「また見つかった」について
>単に「見つかった」とする方が自然
としてるあたり、これ書いた人はフランス語できるんだろうな
もっとも、9つの訳を見ると「また見つかった」派と「見つかった」派は二分されてるみたいだな
俺の好きだった鈴木訳も「また見つかった」派でした
俺は篠沢秀夫の語学力には信頼をおいているので、篠沢秀夫が「見つかった」派で一安心 それにしてもこのサイト、凄いサイトだな
http://www.hananoe.jp
主筆?の阿部十三という人の、映画、クラシック音楽、文学への造詣に圧倒される >>416
太陽と溶け合う 海が だと七五調にならないからでは?
海と溶け合う 太陽が のほうが伍長がいい、という
>>390みたいに
「うろこ雲」を「雲(にような)うろこ」とか訳したらアウトだが
日没の描写だとすると、これはセーフかもとは思う
でも、小林秀雄のフランス語がそうとうあやしいのは
「ランボー 誤訳」などで検索したらわかったですw
ここがゴダール本スレか
【ゴダール】勝手にしやがれ【ベルモンド】
https://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/kinema/1281382026/l50 >>415
引用が雑だったので
「永遠」(1872)
C'est la mer allée / Avec le soleil.
地獄の季節』の「錯乱II 」(1873)
C'est la mer mêlée / Au soleil.
このラストシーンが撮りたい、から始まった映画だったりして。
映画の邦題はきつすぎるような
「道化の(愚かな)ピエロ」「ピエロのアホ」くらいな軽みが良き
>>418
そもそも原詩が韻文でもないのに七五調にこだわるのはおかしいし、七五調にこだわるあまり誤訳してたら本末転倒でしょう
いま気づいたんだけど、
C'est la mer mêlée
Au soleil.
だから海→太陽の語順で訳してしまったんではないですかね
つまり七五調とか以前の、単なる凡ミスなのでは >>419
それはわかります
邦題って結構そういうのが多い気がする
いま、パッといい例が思いつかないけど >>420
伝統的な(厳密な)客員ではないけど
[e] 母音をそろえてあって
5-5-5-5 (1873年では 5-5-5-3) の韻文ですね
1行8音節くらいがふつうだから、これは俳句みたいに短い
[e] [E] のアソナンス(おなじ母音をくりかえす)もあるし
ピリピリしてるというか、音楽的というか
>>418
>伍長がいい
語調がいい でした
>>422
>客員
脚韻 でした、すんません
>>391
>Traduttore, Traditore という言葉は、誤訳や超訳を肯定する言葉ではなく、
>別の原語に移し替える中で、翻訳者が最善の努力を尽くしつつも、そこからこぼれ落ちてしまうものがあること
はじめから、えいやって訳す人もいますね
とくにイタリア人はどうなんじゃ
この格言は、翻訳では原作の意味や感情や文脈をおなじように深く伝えることは
(がんばっても?)できない、という意味とされてるようです、やはり
Traduttore, traditore refers to the concept that “translation is always a betrayal of the true meaning of the original.”
In essence, no translation can ever fully convey the full depth of meaning, emotion, and context as the original work intended. >>422
そうでしたか
いま岩波文庫の対訳版で原文を見てるんですが、散文の中にあるこれも自由律と思ってましたが、見ていくとその通りのようですね
知ったかぶりですみません
ちなみにこの岩波文庫にはC'est la mer allée / Avec le soleil. の「永遠」の方も掲載されています
試訳
見つかった!
何が? 永遠。
太陽に
溶けた海。
若干七五調を意識するとしたらこんな感じかな
でも七五調にこだわると詩から伝わるものが減じるので、やはりあまりこだわるべきではないと思います
もちろん誤訳は論外です >>424
私もその格言の解釈はその通りだと思う
で、翻訳者は可能な限り精確に、作者の表現したいものを伝えられるように心を砕いて、でもこぼれ落ちてしまうのは仕方ないよね、ってことかと
「どうせ伝わらないんだから誤訳しようが超訳しようが構うもんか」ってことではないでしょう
これは若松英輔の「小林秀雄 美しい花」のあるページだが、
https://i.imgur.com/QgYyKx2.jpg
小林は最初から精確な訳なんてのは目指してなくて、自分の詩集のつもりで書いてるとしている
やっぱ、それっていかんでしょって思います >>420
>そもそも原詩が韻文でもないのに七五調にこだわるのはおかしい
原詩は韻文ですね
この「地獄の季節 錯乱U 言葉の錬金術」の中地義和解説によると、
「散文と韻文を交互に配し、劇的抑揚をはらませた展開」とあります
この「永遠」の修正版は「最も高い塔の歌」や「季節よ、城よ!」などと
ともに韻文グループの一つで、脚韻をきちんと踏んでいるようです
また、同氏による「永遠」解説にも、近似脚韻の多用が指摘されています >>427
その通りです
知ったかぶり恥ずかしい。全面的に誤りを認めます
手元の岩波文庫315ページにも、定型韻文詩のしくみと題したコラムがありました
せっかくなので改めて「地獄の一季節」その他、読んでみたいと思います >>419
ちなみに「地獄の一季節」の一編からタイトルが取られたレオス・カラックスの「Mauvais sang」の、
邦題「汚れた血」も誤訳だという指摘があります
https://twitter.com/TomoMachi/status/1513526839897206787
https://twitter.com/TomoMachi/status/894429641535967232
これは「けがれた」と読むならば誤訳とは言い切れない気もしますが、
邦題は観る気にさせないといけないし政治的配慮もいろいろあってこうなったのでしょう
ちなみに中地義和訳では「賤しい血」となっています
エドワード・ヤンの「獨立時代」も邦題は「エドワード・ヤンの恋愛時代」ですからね……
スイーツ(笑)
https://twitter.com/5chan_nel (5ch newer account) ゴダールの話をしだせば大体の女は興味失くすからな。 >>426
イタリア人はそんなのが多いんじゃないかなw
>>427
やはり
この板、けっこうインテリ崩れ?みたいな人がいるのですね
ランボーは母音へのこだわりがすごいみたいで、
例の母音のソネットもあるけど(Eは白)
音を聞くと色が見えてたんだじゃないか(いわゆる共感覚)
だから映像と相性がいいのか
この板ではと10分ちょい、120時間で落ちるのかな?
>>417
この阿部さん、HMVの情報誌などの編集長だそうで
この映画の字幕も3種類以上!見てて、最初のDVD?のは誤訳多いらしい
詩でも字幕でも、翻訳警察みたいのはよいと思うけど
しあがった文章がいいか、支持されるか、はまた別なので、なんとも
>>430
たしかに
そして、ゴダールの話をしだす女は敬遠したほうがいいかも
だいたい、フランス映画、(近現代)文学、現代哲学はセットで
もっともこじらせてる研究者が多いジャンルのような気がするので
ゴダールはサルトルとかデリダとかと並ぶアイコンだった気がする
とくに日本では、わかりやすく説明するのは邪道!みたいなw
>>432
もう落ちるのか
最後にあなたといろいろやりとりができてよかったです
基本的に私は、字幕は誤訳がないのが大前提で、その前提のもと、支持されるか否かだと思ってます
誤訳は本当に論外で、例えば「ブルース・ブラザース」のDVDも、ちゃんとした訳のDVD(無印)と
誤訳満載のDVD(なんとかエディション)が混在して売られているので悲しいですね ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています