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【歴史】信長の軍勢に攻められ滅亡する5カ月前、戦国武将・朝倉義景出陣の書状発見/福井 [無断転載禁止]©2ch.net
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0001イセモル ★
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2017/04/28(金) 10:36:29.08ID:CAP_USER9
■近江と越前、戦況詳しく

県立一乗谷朝倉氏遺跡資料館(福井市安波賀町)は27日、織田信長に敵対した戦国武将の朝倉義景(1533〜1573年)が、朝倉氏滅亡の約5カ月前に発した書状が見つかったと発表した。資料館は「慎重に情報収集を行い、出兵の機をうかがっていた様子がうかかがえる貴重な資料だ」としている。義景は出陣を渋り弱腰とされてきたが、従来とは異なる人物像が浮かび上がった。

書状は元亀4(1573)年3月12日付で、近江朽木荘(滋賀県高島市)を拠点とする武将、朽木元綱(くつきもとつな)(1549〜1632年)宛てで、縦11センチ、横約37センチ。信長との関係が悪化した室町幕府最後の将軍、足利義昭の求めに応じ、義景自身が敦賀に向けて出陣したと伝えている。

元綱は元亀元(1570)年の合戦で織田信長の京都撤退(朽木越え)を助けたとされているが、書状には「道中の通行の安全を約束していただき、安心して敦賀へ出陣した」との内容がしたためられていた。同資料館は、元綱が朝倉軍の道中の安全を約束し、朝倉側は近江経由で義昭の出兵要請に応じようとしていたと分析している。朝倉軍は結局、戦局の変化で越前に引き返し、信長の軍勢に攻められ滅亡した。

http://www.sankei.com/smp/region/news/170428/rgn1704280026-s1.html
0740名無しさん@1周年
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2017/04/29(土) 02:57:26.89ID:KTgz++3I0
>>736
戦国中期まで足利政権に任命された領地で争ってたからな
足利関係なしの下克上で地侍が上がってくるには100年かかった
0741名無しさん@1周年
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2017/04/29(土) 02:58:27.56ID:UGp2s3/p0
>>736
三河政権たる室町幕府は終わっとらんがな
三河政権たる室町幕府は足利将軍期と徳川将軍期で500年続いたと考えるべき


室町幕府の支配層一覧(三河繋がり優遇)

■将軍御一家
【三代将軍足利義満時代】(3家)
・西条吉良氏(三河国幡豆郡吉良、三河県西尾市)
・今川氏(三河国幡豆郡今川、三河県西尾市)
・渋川氏(上野国群馬郡渋川)

【八代将軍足利義政時代】(4家)
・西条吉良氏(三河国幡豆郡吉良、三河県西尾市)
・東条吉良氏(三河国幡豆郡吉良、三河県西尾市)
・石橋氏(三河国設楽郡石橋、三河県新城市)
・渋川氏(上野国群馬郡渋川)

■三管領(将軍に次ぐ最高の役職、将軍を補佐して幕政を統括)
幕府執事(管領の前身)(3家)
・高氏(三河国額田郡菅生、三河県岡崎市)
・仁木氏(三河国額田郡仁木、三河県岡崎市)
・細川氏(三河国額田郡細川、三河県岡崎市)

管領(3家)
・細川氏(三河国額田郡細川、三河県岡崎市)
・斯波氏(三河国碧海郡矢作、三河県岡崎市)←初代足利家氏は、祖父より三河国碧海郡碧海荘を相伝し本拠とした
・畠山氏(武蔵国男衾郡畠山)←初代畠山義純は三河国生まれ

■七頭(管領家とともに幕政に参加できた七家)(7家)
・一色氏(三河国幡豆郡一色、三河県西尾市)(四職)
・山名氏(上野国多胡郡山名)(四職)←初代山名義範の実父は、矢田城主(三河国幡豆郡矢田、三河県西尾市)の矢田義清
・京極氏(山城国葛野郡京極)(四職)←京極高秀(佐々木道誉の嫡男)親子は三河国額田郡下和田郷(三河県岡崎市)の領主
・赤松氏(播磨国播磨郡赤松)(四職)←善住寺(三河県豊川市)に赤松円心親子の墓あり、赤松円心は一時、赤田和城(三河県岡崎市)に隠れ住む
・土岐氏(美濃国土岐郡)(五職)
・上杉氏(丹波郡何鹿郡上杉)(関東管領)←事実上の初代上杉頼重の屋敷あり(日名屋敷、三河県岡崎市)
・伊勢氏(出自不明)(政所執事)←活動を記録した最古の資料では、初代伊勢俊継は父、叔父、従兄弟と共に三河国額田郡賀茂郡(三河県岡崎市・豊田市)で活動
0742名無しさん@1周年
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2017/04/29(土) 02:59:02.67ID:9zWTb0FW0
>>724
同じ斯波氏の家来でライバル関係だった>織田と朝倉
あの時代は先祖からの因縁を相当引きずる時代だからな。
0743名無しさん@1周年
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2017/04/29(土) 02:59:10.12ID:fcWeFDEN0
>>733
光秀以外は地政学的に信長に対立してきただけで足利義昭の力は無かったと思う
上杉謙信はただ戦いたかっただけ
0744名無しさん@1周年
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2017/04/29(土) 02:59:19.43ID:110rPrlk0
>>716
朝倉滅亡の主役だよね
0745名無しさん@1周年
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2017/04/29(土) 03:02:43.32ID:9zWTb0FW0
>>725
だから晩年にそれを気にし始めて

・重臣の粛清
・森蘭丸といった直属の官僚集団の育成

をやってた。本能寺の変もそれ絡んでる臭い。粛清されるん
じゃないかと勘違い?した明智が謀反したと子供小さく当人は60前後の
爺さんだったから家の先行き心配
0746名無しさん@1周年
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2017/04/29(土) 03:02:50.99ID:UGp2s3/p0
足利尊氏と徳川家康は、ご近所で生まれた 
これが三河政権だ



おそらく足利尊氏直義は、足利氏の屋敷、大門屋敷(三河県岡崎市)の南方すぐ近くにあった上杉氏の屋敷で生まれた


■上杉氏

太田亮
上杉−勧修寺家支流と称するが疑問が大きい。
丹波国何鹿郡上杉庄より起り、上野を本拠として、越後や関東各地等に分る。
『東鑑』を含め確実な史料には、先祖重房の下向記事が見えず、足利家家人の上椙三郎入道(上杉頼重)より前は不明。
その出自は難解であるが、三河の日下部(穂国造一族か)と関係をもった場合も考えられ、その場合は、同国の足利被官で藤姓を称した杉山氏や大草氏と同族か


足利尊氏、直義が生まれただろう日名屋敷


■日名屋敷(事実上の始祖である上椙三郎入道(上杉頼重)の 屋敷)

鎌倉末期に三河国額田郡日名(三河県岡崎市)にあった上杉氏の屋敷。
足利貞氏室となり尊氏・直義を産んだ上杉頼重の娘清子が、暦応2年(1339)10月15日に丹波国光福寺(現綾部市安国寺)へ日名屋敷を寄進、
翌年4月5日に清子の甥上杉重能がこの屋敷を光福寺雑掌へ渡すよう岩堀右衛門三郎に命じている。
頼重は額田郡を含む足利氏所領群を管理する奉行人のひとりであったから、現地支配の拠点として上杉氏がこの屋敷を所領とし、頼重から女子清子に譲与されたものであろう。
日名屋敷跡伝承地の近くの墓地に14世紀後半の宝塔の笠1個がある。
0747名無しさん@1周年
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2017/04/29(土) 03:02:55.17ID:+mPU7uMO0
>>736
室町9代将軍義尚以降京都で死ねた将軍は暗殺された義輝だけ
あとは京から追放されたり、他国で出陣中だったり
たしかにいつ滅んでてもおかしくない状態

もともと室町幕府自体が強力な将軍直属軍を持っていなかったから
有力大名を操縦してうまくやってく以外に将軍のとるべき手がなかったのも事実
0748名無しさん@1周年
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2017/04/29(土) 03:03:59.07ID:eAitSIVw0
膠着状態を見て朝倉義景は一乗谷への帰還と農民の一時帰宅を選択
整然とした撤退は織田信長の追撃で敗走に一変
その頃一乗谷では朝倉景鏡が謀反、義景一族を殺害し一乗谷は炎上

朝倉義景は街道沿いで朝倉景鏡を呪詛しながら切腹
朝倉景鏡は織田信長に投降し領地を委任されるが、一向一揆が勃発し敗死
一向一揆鎮圧後、柴田勝家に改めて領地が与えられた
0749名無しさん@1周年
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2017/04/29(土) 03:04:17.51ID:Yq6DhpLS0
>>743
謙信ほど最後まで足利将軍家の権威をアホみたいに大事にしようとしてた大名いないぞ
仮にも管領だからな。それこそ大義名分に異常に拘る

>>744
最後悲惨な殺され方したから許してあげて。因果応報だけど
>
0751名無しさん@1周年
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2017/04/29(土) 03:04:54.08ID:9zWTb0FW0
>>743
謙信は手取川の合戦で勝ってるんだからそのまま進撃したら近江まで制圧容易だったのに
なぜか反転した。レイテの栗田の反転以上に謎だ
0752名無しさん@1周年
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2017/04/29(土) 03:07:39.76ID:UGp2s3/p0
>>745
そんなんで忠臣が出来るかつーの
武士は三河の王に臣従するように出来てんだよ


鎌倉幕府の支配層一覧(三河つながり優遇)

【鎌倉将軍】源頼朝(母方:藤姓熱田大宮司家(三河国額田郡、三河県岡崎市)

■将軍御一家(頼朝姻族、頼朝女系の一族)
・足利氏(下野国足利郡足利)←母親が頼朝母と姉妹(藤姓熱田大宮司家(三河国額田郡、三河県岡崎市))の家系
・北条氏(伊豆国田方郡北条)←頼朝正室の家系、政子の父・北条時政の母は伴為房の娘(三河伴氏)
・一条氏(藤原北家中御門流)←頼朝同母(藤姓熱田大宮司家(三河国額田郡、三河県岡崎市))姉もしくは妹(坊門姫)の嫁ぎ先の家系

■御由緒家
・安達(小野田)氏(三河国八名郡小野田、三河県豊橋市)←安達(小野田)盛長は頼朝幼なじみ
・足助(賀茂)氏(三河国加茂郡足助、三河県豊田市)←源頼家に室を出し、生まれた息が源実朝を暗殺した公暁
・比企氏(武蔵国比企郡)←頼朝乳母(比企尼)の家系←源頼家に正室を出す
・八田氏(常陸国八田郡)←頼朝乳母(寒河尼)の家系←八田知家の猶子である中条家長は高橋荘(三河国賀茂郡、三河県豊田市)地頭
・結城氏(下総国結城郡)←頼朝乳母(寒河尼)の家系

■門葉(鎌倉将軍と血縁関係がある源氏)
・源範頼(三河守)←頼朝異母弟
・源広綱(駿河守)←古井城主(三河国碧海郡古井、三河県安城市) ←太田道灌の先祖
・平賀義信(武蔵守)
・山名義範(伊豆守)←実父は矢田城主(三河国幡豆郡矢田、三河県西尾市)の矢田義清
・大内惟義(相模守)
・足利義兼(上総介)←母親が頼朝母と姉妹(藤姓熱田大宮司家(三河国額田郡、三河県岡崎市)
・加賀美遠光(信濃守)
・安田義資(越後守)

■執権・連署
・北条氏(伊豆国田方郡北条)←頼朝正室の家系、政子の父・北条時政の母は伴為房の娘(三河伴氏)

■政所(一般政務・財政を司う機関)
・大江氏←初代別当の大江広元は牛田城主(三河国碧海郡牛田、三河県知立市)
・二階堂氏(相模国二階堂)←初代令の二階堂行政は、母親が頼朝祖父(初代藤姓熱田大宮司(三河国額田郡、三河県岡崎市))の妹

■侍所(軍事・警察を担った機関)
・和田氏(相模国三浦郡和田)
0754名無しさん@1周年
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2017/04/29(土) 03:08:04.15ID:9zWTb0FW0
>>736
腐っても鯛というやつで地方では一応まだ権威はあったんだよ>幕府
大義名分に使えるんで

上杉謙信はそれを利用して越後支配の正統性や、関東侵攻の大義名分を得てた。
0755名無しさん@1周年
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2017/04/29(土) 03:08:36.41ID:Yq6DhpLS0
>>751
松永弾正はしばらく「なんでよおおおおおお!?」って叫び続けてたと思う
あの人も運いいんだか悪いんだかわからんよな。裏切って許され→強い奴が上洛しそうだから裏切ったら死んだとか引き返したとか→そしてまた許される
0756(。・_・。)ノ ◆jN6K3cbEWjLT
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2017/04/29(土) 03:08:38.23ID:XimsVeOK0
>>617
明智光秀の家老・主な家臣は土岐氏一族や美濃国出身者が多いんです
彼らには土岐氏一族再興という悲願がありました
織田信長の岳父・斎藤道三によって美濃国守護の土岐氏は没落してます
斎藤道三の息子・斎藤義龍が実は土岐氏の落胤ということで、それで美濃国の武将たちは斎藤義龍の元に集まり斎藤道三を滅ぼしました
斎藤義龍はやがて死んで(斎藤義龍存命中は家臣団の結束も固く信長も美濃国が攻略できませんでした)その息子・斎藤龍興が継ぎますが織田信長に負けてしまいます
明智光秀の元に集まった家臣たちはこうして主家を失った人たちなんです
こういう背景があるため、織田信長を本能寺で襲う時に家臣団は一糸乱れぬ形でできました
0757名無しさん@1周年
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2017/04/29(土) 03:09:03.01ID:110rPrlk0
>>750
一門なのに裏切った穴山梅雪
0758名無しさん@1周年
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2017/04/29(土) 03:09:32.16ID:UGp2s3/p0
>>749
あたりめーだろ




おそらく足利尊氏直義は、足利氏の屋敷、大門屋敷(三河県岡崎市)の南方すぐ近くにあった上杉氏の屋敷で生まれた


■上杉氏

太田亮
上杉−勧修寺家支流と称するが疑問が大きい。
丹波国何鹿郡上杉庄より起り、上野を本拠として、越後や関東各地等に分る。
『東鑑』を含め確実な史料には、先祖重房の下向記事が見えず、足利家家人の上椙三郎入道(上杉頼重)より前は不明。
その出自は難解であるが、三河の日下部(穂国造一族か)と関係をもった場合も考えられ、その場合は、同国の足利被官で藤姓を称した杉山氏や大草氏と同族か


足利尊氏、直義が生まれただろう日名屋敷


■日名屋敷(事実上の始祖である上椙三郎入道(上杉頼重)の 屋敷)

鎌倉末期に三河国額田郡日名(三河県岡崎市)にあった上杉氏の屋敷。
足利貞氏室となり尊氏・直義を産んだ上杉頼重の娘清子が、暦応2年(1339)10月15日に丹波国光福寺(現綾部市安国寺)へ日名屋敷を寄進、
翌年4月5日に清子の甥上杉重能がこの屋敷を光福寺雑掌へ渡すよう岩堀右衛門三郎に命じている。
頼重は額田郡を含む足利氏所領群を管理する奉行人のひとりであったから、現地支配の拠点として上杉氏がこの屋敷を所領とし、頼重から女子清子に譲与されたものであろう。
日名屋敷跡伝承地の近くの墓地に14世紀後半の宝塔の笠1個がある。
0759名無しさん@1周年
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2017/04/29(土) 03:09:35.29ID:KTgz++3I0
>>747
足利政権が結構実力主義に寄った政権
なので強力な直属軍に領地を与えたら家督争いで敵味方に
0760名無しさん@1周年
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2017/04/29(土) 03:10:13.92ID:110rPrlk0
>>751
戦争マニアだから統治には興味なし
0761名無しさん@1周年
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2017/04/29(土) 03:10:28.58ID:bI42RhKa0
五月雨は 露か涙か 不如帰 我が名をあげよ 雲の上まで 足利義輝
時は今  雨が下しる 五月かな 明智光秀
0762名無しさん@1周年
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2017/04/29(土) 03:11:17.04ID:vXmlV9760
>>13
髑髏に口を付けて酒呑んだ、は記録も無い創作

あの時代は、敵方の首級への態度として
生首を洗って綺麗に化粧したり、肉が腐った後は髑髏を化粧したりして飾り
それを家臣達との酒宴であの世に送ってやるのは
討った敵将に対する表敬行為だったの

真面な家なら何処の大名もやってる
並の首なら、化粧して暫く飾るだけで済ませるケースが多かったようだけど。
逆に、敵の大将首を血濡れのまま葬るのは侮辱の意になった

金塗り酒宴は義景ら3人に際立った敬意を示した結果だったろうに
下品というか悪意のある改竄だわな
0764名無しさん@1周年
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2017/04/29(土) 03:11:32.31ID:Yq6DhpLS0
>>757
ここしかないって突破口を無傷で明け渡してんだもんなぁ
でも寝返らなくても時間の問題だったとは思う
0765名無しさん@1周年
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2017/04/29(土) 03:12:20.05ID:9zWTb0FW0
>>753
そうなのか、兵站がもう少し大丈夫だったら確実に上洛できてたでしょ。
松永久秀恒例の謀反真っ最中の上、上杉来たとなれば近畿は混乱しただろうから。
そういう意味で信長はツキがあり過ぎた。

>>750
二人とも裏切り者として地元では評判悪いからな。
0766名無しさん@1周年
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2017/04/29(土) 03:14:42.91ID:UGp2s3/p0
>>747
頭がおかしいのか?持ってるよ
要は徳川の武士団だろうが
強力だろうが



室町幕府 三河国の日本支配構造

【奉公衆】
・奉公衆は、室町幕府に整備された幕府官職の1つ
・将軍直属の軍事力で、5ヶ番に編成された事から番衆、番方などと呼ばれた
・奉公衆の人数は全国合計250〜300人
・三河国の奉公衆は全国で最大人数、又三河国出身の奉公衆も最大人数

・5番衆の番頭
一番番頭 細川氏、二番番頭 桃井氏、三番番頭 上野氏、四番番頭 石垣氏(畠山氏)、五番番頭 大館氏

三河国の奉公衆一覧(全52家)

【藤姓熱田大宮司一族】
千秋、萩、星野、二階堂、毛利(大江氏流)
【足利一族】
荒川(戸賀崎流)、一色、伊奈、上野、吉良、天竺(細川氏流)、仁木、細川、三淵(細川氏流)、和田
【足利被官】
饗庭、朝倉、飯尾、岩堀、大草、高、久下、小嶋、中条、二宮、彦部
【三河源氏】
足助、水野
【三河伴氏】
設楽、黒瀬、富永
【美濃源氏】
土岐、長山(土岐氏流)
【桓武平氏】
伊勢、神谷、山下
【その他】
宇津野、大内、借宿、河内、小林、疋田、桜井、進土、杉山、堤、長、西部、本郷、丸山、三浦、大和
0767名無しさん@1周年
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2017/04/29(土) 03:15:17.43ID:yUf0QBEo0
悔しとも うら山し共思はねど 我世にかはる世の姿かな 今川氏真
0768名無しさん@1周年
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2017/04/29(土) 03:15:39.00ID:9zWTb0FW0
>>762
というかそもそも信長は下戸で酒飲めなかった。
代わりに甘いもの好きで下戸の甘党の典型。

だから晩年は糖尿病や動脈硬化を疑われる症状出てる。
晩年になるほど行為が過激化したというのも動脈硬化進んで
脳に影響与えてるから
0769名無しさん@1周年
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2017/04/29(土) 03:17:51.97ID:9zWTb0FW0
朝倉の場合、本願寺と和解できないから京都に近いのに上洛できなかった。
後方から一向一揆がいつ攻撃してくるか分からない状態。
0770名無しさん@1周年
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2017/04/29(土) 03:19:34.47ID:aVzsBONi0
近江の琵琶湖の湖畔の安土城に於いて
尾張の戦国大名織田信長は日本の「新王」と成ろうともしたのだろう
しかし臣下の明智光秀が阻んだ 阻止した
京都の天皇家は守られた
0771名無しさん@1周年
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2017/04/29(土) 03:19:44.59ID:KTgz++3I0
>>765
その兵站で戦できる大名が戦国時代でも少ない
だから大勝しても相手を滅亡しきれずぐだぐだやってるところが多い
0773名無しさん@1周年
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2017/04/29(土) 03:23:33.65ID:110rPrlk0
>>765
上杉が上洛して何すんの?
0776名無しさん@1周年
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2017/04/29(土) 03:26:52.46ID:UGp2s3/p0
>>772
そうだ、この一覧に載っているだろ、長山(土岐氏流)
東三河の奉公衆、長山氏の出だからこそ若い頃、東三河の牧野氏に仕えていたんだろう
 

室町幕府 三河国の日本支配構造

【奉公衆】
・奉公衆は、室町幕府に整備された幕府官職の1つ
・将軍直属の軍事力で、5ヶ番に編成された事から番衆、番方などと呼ばれた
・奉公衆の人数は全国合計250〜300人
・三河国の奉公衆は全国で最大人数、又三河国出身の奉公衆も最大人数

・5番衆の番頭
一番番頭 細川氏、二番番頭 桃井氏、三番番頭 上野氏、四番番頭 石垣氏(畠山氏)、五番番頭 大館氏

三河国の奉公衆一覧(全52家)

【藤姓熱田大宮司一族】
千秋、萩、星野、二階堂、毛利(大江氏流)
【足利一族】
荒川(戸賀崎流)、一色、伊奈、上野、吉良、天竺(細川氏流)、仁木、細川、三淵(細川氏流)、和田
【足利被官】
饗庭、朝倉、飯尾、岩堀、大草、高、久下、小嶋、中条、二宮、彦部
【三河源氏】
足助、水野
【三河伴氏】
設楽、黒瀬、富永
【美濃源氏】
土岐、長山(土岐氏流)
【桓武平氏】
伊勢、神谷、山下
【その他】
宇津野、大内、借宿、河内、小林、疋田、桜井、進土、杉山、堤、長、西部、本郷、丸山、三浦、大和
0777名無しさん@1周年
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2017/04/29(土) 03:27:10.35ID:/nguTXUg0
信玄が急死していなければ朝倉は滅亡しなかったのに
0778名無しさん@1周年
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2017/04/29(土) 03:28:05.49ID:aVzsBONi0
>>767
駿河・遠江の戦国大名今川義元は
戦国時代の京都に於いて天下に号令を掛けようとしていただけに・・
0779名無しさん@1周年
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2017/04/29(土) 03:28:12.29ID:9zWTb0FW0
>>771
それが出来たのが信長だったから。
近畿を抑えてるので軍需物資はカネさえ出せば豊富に手に入る
物量作戦で長期戦になれば有利に立てると

武田が金山の金が少なくなってあっという間に滅亡したのを
考えると上杉はかなり経済的に恵まれてた。金に加えて海運やら
アオソの生産で金満だったので謙信は戦やりまくれた
0780名無しさん@1周年
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2017/04/29(土) 03:30:22.99ID:ArldpWcC0
信長の忍び面白い
0781名無しさん@1周年
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2017/04/29(土) 03:30:38.07ID:fcWeFDEN0
>>763
逆賊にすら寛容な日本の国民性の中に創造性が有ると思う
将門や純友の乱によって貴族制は終焉を告げて武士の時代が到来する
時代が動く時には必ず理由があり、失った命も決して無駄ではない
そしてその一族の血も現在まで繋がっている
日本における権威とは絶対君主制のようなものではなく、太陽のような寛容さだと思う
0782名無しさん@1周年
垢版 |
2017/04/29(土) 03:30:54.73ID:9zWTb0FW0
>>777
信玄は死ななくても農閑期という時間に縛られるから上洛は
無理だったんでは?織田軍は木曽川、長良川、揖斐川を防衛線にして
抵抗しただろうから結局春になり時間切れになって退却。

現に駿河制圧作戦もそれがネックになって時間がかかり過ぎてる
0783名無しさん@1周年
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2017/04/29(土) 03:31:42.23ID:UGp2s3/p0
>>778
間抜けな事言うなよ、今川は那古野荘を取り返しに西に向かったんだよ


■那古野荘(名古屋)
・開発者:小野法印顕恵(東大寺別当)

藤原顕隆→顕頼→小野法印別当
藤原顕隆→顕頼→女→平滋子(建春門院)


■平安時代
・小野法印顕恵が開発
・小野法印顕恵は姪の平滋子に領家職を譲る

■鎌倉時代初期〜中期
・領家職は、小野法印顕恵の兄、惟方の孫である経長に移り、女系が伝領する

■鎌倉時代末期〜南北朝
・足助氏(三河国賀茂郡足助、三河県豊田市)が領家職となる

■室町時代
・今川那古野氏が領家職となる
初代は、名越高家と今川国氏(三河国碧海郡今川、三河県西尾市)の娘の子である名越高範か?
・1522年頃、今川氏親(三河国碧海郡今川、三河県西尾市)が那古野城築城

■江戸時代
・徳川家康(三河国額田郡菅生、三河県岡崎市)が那古野の呼び名を名古屋に固定、名古屋城築城

■現代
・豊田佐吉(三河吉田藩山口村)がトヨタグループを発祥させる
0784名無しさん@1周年
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2017/04/29(土) 03:32:01.19ID:yUf0QBEo0
>>773
もし足利義昭を擁したり、もしくは義昭に自己の正統性を認めさせるだけでも…
関東管領としての権威が増し、戦わずして勢力を拡大できる(弱小大名の帰順はもちろん守護・守護代への影響力大)。
また、たったそれだけで著しく攻められにくくなる。

が、まあそれだけといっちゃあそれだけかもしれない。延々と戦国時代が続くだけ。
0785名無しさん@1周年
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2017/04/29(土) 03:36:43.76ID:9zWTb0FW0
>>778
斉藤や浅井、六角がいるのに上洛は無理でしょ。
将軍の要請とか御教書出てるならともかく。

信長も上洛するのに幕府の命令に加えて綸旨まで取得してる
ように大義名分いるんでなかったかあの時代でも。

上杉謙信は関東や信濃に攻め込む理由を関東管領だから、
武田信玄は信濃侵攻は信濃守護だからとしてた。秀吉も
北条攻めを停戦命令を破ったからと
0786名無しさん@1周年
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2017/04/29(土) 03:36:57.94ID:UGp2s3/p0
>>456
人質だから優遇とかアホか
優遇されたのは家康は初代今川氏、今川国氏の血を引いているからだろ
ちなみに源為朝の血も引いている

  

■今川記(1553年成立)

松平信光(第3代目当主)
正室:一色氏の娘

一色満範の娘の仮定する

源義家→義国→義康→足利義兼(初代源姓足利氏)→義氏→泰氏→一色公深(初代一色氏)→範氏(母親は今川国氏(初代今川氏)の娘)→範光→詮範→満範→娘→松平親忠→長親→信忠→清康→広忠→徳川家康


■熊野国造家 和田家系図


松平親忠(第4代目当主)
正室:鈴木重勝の娘

・加茂(足助)重長→足助重秀(母親は源為朝の娘)→重朝(母親は安達盛長の娘)→重方→親方→貞親→重範→鈴木重員(母親は楠木正成の娘)→重勝→娘→松平長親→信忠→清康→広忠→徳川家康
0787名無しさん@1周年
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2017/04/29(土) 03:37:08.02ID:lCvxYf7J0
負けちゃえば、何とでも言われる
0788名無しさん@1周年
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2017/04/29(土) 03:42:37.48ID:9zWTb0FW0
>>773
自分の政治力が増す。
謙信は何度か上洛してるけどそれはすべて自分の権威を上げるため。
朝廷や将軍を利用して国内の国人を抑えたり、関東に攻め込む際の大義名分に
してる。


塗輿OKー昔は身分で乗れる乗り物あった
裏書御免ー他大名に手紙出す際は自分のサインいらない(目上の人が出す命令書と同じ)

みたいな特権を謙信得てたはず
0789名無しさん@1周年
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2017/04/29(土) 03:48:40.60ID:9zWTb0FW0
>>463
その高待遇が今川の家臣反感を買って、何かしらイジメみたいなこともされてる。
後年に孕石を昔の恨みから切腹させてるように嫉妬ネタミも多かったんでは?

>>466
物心ついて育ったところが駿府だからな。

・土地勘が一番利く
・狩場が多くて狩猟マニアの家康には好都合
・京都と江戸の途中なので大名は絶対に駿府で挨拶していく(秀忠と勝手に大名が組まない)
0790名無しさん@1周年
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2017/04/29(土) 03:51:00.14ID:bI42RhKa0
かねて身の かかるべしとも 思はずば 今の命の 惜しくもあるらむ 朝倉義景

意味が?
死ぬことは惜しくないと言っているのか?
0791名無しさん@1周年
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2017/04/29(土) 03:52:21.50ID:pVVI2t310
まさか五百年後に数値付けられて雑魚キャラとして遊ばれるとは思わんかっただろうな…(´・ω・`)
0792名無しさん@1周年
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2017/04/29(土) 03:52:38.51ID:pWss9H/p0
1568年9月、織田信長が足利義昭を奉じて上洛を果たし、足利義昭を室町幕府第15代将軍とした。

その後、信長は将軍義昭の命令として各地の大名に上洛を要請した。しかし、義景はこの要請を2度
にわたって無視している。これは義景が信長への従属、そして長期間・本国を留守にすることを嫌ったもの
であるとされている。

1570年(永禄13年4月20日)、これに信長は”義景に叛意あり”として、義弟・浅井長政との「朝倉へ
の不戦の誓い」を破り、越前へ攻撃をしてきた。

織田・徳川連合の攻勢を前に、支城であった天筒山城と金ヶ崎城が陥落させられると、義景は後詰のため
に浅水(あそうず、現在の福井県福井市)まで出兵するも、居城・一乗谷で騒動が起こったとして引き返した。

しかし突如、浅井長政が信長から離反し、織田・徳川連合を急襲。挟撃の危機にさらされた信長は京都
へ撤退し、義景は難を逃れたのであった。しかし、同年6月28日(元亀元年に改正)、体勢を立て直した
信長が浅井長政への報復のため、近江へ進軍を開始した(姉川の戦い)。

長政から援軍要請を受けた義景は朝倉景健を総大将に8,000の援軍を派遣。しかし、浅井・朝倉連合は
敗戦し、長政は支城・横山城を失ってしまう。

8月25日に摂津で反織田勢力の三好三人衆らが挙兵すると、石山本願寺の顕如もこれに呼応し、
織田軍は摂津国への出兵を余儀なくされる(野田城・福島城の戦い)。

これに乗じて義景は長政とともに出陣し、南下して織田領の近江坂本へ侵攻し、信長の重臣・森可成らを
討ち取るなど戦功をあげた。しかし、これを知った信長は摂津戦線をあきらめて軍を近江に引き返してきたため、
義景ら浅井・朝倉連合軍は比叡山の協力を得て延暦寺に立てこもり、織田軍と長期の対陣となった。
0793名無しさん@1周年
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2017/04/29(土) 03:54:26.21ID:9l0FUWVS0
>>705
その歴史家の評価も残された資料を元にしかできない訳で・・・
今でこそ甲陽軍鑑とかだーれもマトモな資料としては扱ってないけど、
昔はそれなりに参考にされててそれで武田神話が出来ちゃった。
0794名無しさん@1周年
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2017/04/29(土) 03:56:04.76ID:9zWTb0FW0
>>790
普段から死ぬ気で行動してたら、今死ぬことが惜しいとは思わなかった

って意味では?

「やらない後悔よりやった後悔」ってやつ
0795名無しさん@1周年
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2017/04/29(土) 03:56:59.29ID:pWss9H/p0
しかし、各地で反織田勢力が挙兵したため、織田方から講和が持ちかけられ、義景ら浅井・朝倉連合はこれ
を受け入れて和睦となった (志賀の陣)。

1571年(元亀2年6月11日)、義景は顕如(本願寺)と和睦して、娘を顕如の嫡男・教如(きょうにょ)
と婚約させている。

元亀同年8月、義景は浅井長政と共同で織田領の横山城、箕浦城を攻撃。しかし、信長に戦場の後方を
脅かされ敗北した。さらに9月には信長が志賀の陣で浅井・朝倉連合に協力したとして、比叡山延暦寺を焼
き討ちにして壊滅させた。

1572年(元亀3年7月)、信長が再び北近江への攻撃を開始、小谷城を包囲して虎御前山、八相山、
宮部の砦を整備し始める。これを知った浅井長政は義景に「長島一向一揆が尾張と美濃の間を封鎖したので、
今出馬してくれれば織田軍を討ち果たせる」と嘘を言って援軍を要請、義景は1万5,000もの軍勢を率いて
近江に駆けつけた。

しかし義景は織田軍に対し積極的に攻撃をしかけることはしなかった。そして織田軍から間をおいて攻撃を受
けると前波吉継や富田長繁といった有力な家臣たちが信長方へ寝返ってしまった。

元亀同年9月に信長の整備した砦が完成すると、信長は再び日時を決めて決戦を行うことを申し入れてくるが、
義景はこれを無視。9月16日になると信長は羽柴秀吉を砦に残し、横山城へ撤退した。
0796名無しさん@1周年
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2017/04/29(土) 03:57:04.51ID:EALnAqBN0
>>786
松平親忠より前はいくつか怪しいなw
0797名無しさん@1周年
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2017/04/29(土) 03:59:30.06ID:pWss9H/p0
同年10月、甲斐国 武田信玄が西上作戦を開始。遠江・三河方面へ侵攻する武田軍により、
徳川軍は次々に城を奪われた。 信玄はこの西上作戦での出兵の際、義景に協力を求めた。

これを受け信長が岐阜に撤退すると、義景は浅井勢と共に信長を攻撃するものの虎御前山の砦で羽柴秀吉
の隊に敗れた。

その後の12月3日、義景は部下の疲労や積雪を理由に越前へ撤退、北近江に縛られていた織田勢は美濃
に戻った。 これに対して武田信玄は信長包囲網を勝手に解いて離脱した義景を激しく非難し、
1573年(元亀3年12月28日)義景に対し再出兵を促す手紙を送りつけた(伊能文書、いのうもんじょ)。

しかし義景はそれに応じずに無視。そのため元亀4年2月16日、信玄は顕如に対して義景に対する恨みごとを
言いながらも再出兵を要請。さらに顕如も義景へ再出兵を求めた。ところが義景は全く動かなかったため、
信玄は進軍を再開。徳川家康領であった野田城を攻め落とした。

しかし同年4月12日に信玄が急死し、武田勢は甲斐へ退却。これにより信長包囲網が一部破綻し、
信長は多くの軍勢を近江や越前への朝倉家へ向ける事が出来るようになった。

1573年(元亀4年3月)将軍 足利義昭が槇島城(まきしまじょう、現在の京都府宇治市)で兵を集め、
戦いを起こした。信長は義昭に和睦を申し出ますが義昭は拒絶。

同年4月には一旦和睦するものの、7月になって義昭が再び挙兵すると、信長は戦闘に及び義昭を降伏させた。
そして7月20日に義昭を追放し(槇島城の戦い)、7月28日には元亀から天正に改元させた。
これにより、室町幕府は実質的に滅亡した。
0798(。・_・。)ノ ◆jN6K3cbEWjLT
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2017/04/29(土) 04:02:28.13ID:XimsVeOK0
>>772
そうですよ
岐阜県可児市の明智が出身地の土岐一族
ちなみに織田信長の生母・土田御前も可児市の土田出身
信長の正室・帰蝶(お濃の方・斎藤道三の娘)も母親は明智氏出身
0799名無しさん@1周年
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2017/04/29(土) 04:06:23.75ID:9CVWIt480
政治力戦闘力40台の雑魚大名
0800名無しさん@1周年
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2017/04/29(土) 04:07:41.30ID:pWss9H/p0
さらにに8月8日に浅井家の重臣で山本山城の城主 阿閉貞征が織田方へ寝返ったことで、これを好機とみた
信長は、 3万の軍勢を率いて再び北近江への侵攻を開始。

これに対し、義景も朝倉全軍を率いて出陣しようとした。しかしこれまで数々の失態を犯し重ねてきた義景は、
既に家臣の信頼を失いつつあり、重臣の朝倉景鏡、魚住景固らは義景の出陣命令を拒否した。
そのため義景は、山崎吉家(やまざき よしいえ)、河井宗清(かわい むねきよ)らを招集して2万の軍勢を
率いて出陣した。

8月12日、信長は暴風雨を利用して朝倉軍の砦である大嶽砦を攻撃。信長のすさまじい勢いでの奇襲によ
って朝倉軍は大敗、砦から追われてしまう。翌8月13日には丁野山砦が陥落したため、義景は浅井長政と
連携が取れず、越前への撤兵を決断。

ところが義景の撤退を予測していた信長によって、朝倉軍は信長自らが率いる織田軍から追撃を受け、
この田部山の戦いで朝倉軍は大敗、柳瀬へ逃げた。

以下略
0801名無しさん@1周年
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2017/04/29(土) 04:08:37.06ID:yXAKvscK0
北陸みたいな寒いところ、籠城すれば守り易そうなのに
なんで負けるの
0802名無しさん@1周年
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2017/04/29(土) 04:09:45.54ID:aVzsBONi0
織田信長 因果応報 明智光秀 豊臣秀吉 徳川家康 徳川将軍家
0803名無しさん@1周年
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2017/04/29(土) 04:11:32.86ID:zk9Ocg2I0
>>801
雪のない時期に攻められたら終了
それにフェーン現象あるから夏は思ったより暑いぞ
0804名無しさん@1周年
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2017/04/29(土) 04:18:48.70ID:W7xMci1l0
主君と弟が対立して謀反、次の代も確執引きずってればそりゃガタガタだろうな
0805名無しさん@1周年
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2017/04/29(土) 04:36:42.05ID:K7xH8hfw0
>>81
名前間違ったので蜻蛉切で斬首の刑
0806名無しさん@1周年
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2017/04/29(土) 04:48:02.40ID:9zWTb0FW0
>>801
あの辺平野だから大軍で押しまくられたら滅亡する。
浅井の裏切りなければあの時朝倉は滅亡してた。

あの時織田はまだ本願寺とも敵対してたわけではないので
0807名無しさん@1周年
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2017/04/29(土) 05:01:29.38ID:zk9Ocg2I0
雪で籠城、もとい攻勢にでて成功したのは上杉景勝

上杉謙信の跡目争いの御館の乱で北条・武田に支援された景虎相手に
武田には金で中立になってもらい、北条に対しては雪で関東から越後に来られない隙に敵対勢力を素早く制圧した
0809名無しさん@1周年
垢版 |
2017/04/29(土) 06:04:09.30ID:mqF7ZKCl0
>>724
織田家自体は朝倉より格上だぞ。
斯波家の家臣序列は

甲斐(越前、遠江守護代)
織田(尾張守護代)
朝倉(越前守護代)

だよ。

信長の織田家は織田宗家の家臣筋だけどな。
0810名無しさん@1周年
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2017/04/29(土) 06:04:50.22ID:G3gZG8wW0
>>675
そもそも小牧長久手も秀吉の勝利だから。
三河入りが失敗しただけで、
尾張の大部分の占領は成功した。美濃、伊勢伊賀でも勝利して家康は何もできなかった。
そして信雄は領土を割譲し降伏し、家康も人質を差し出して臣従した。
0811名無しさん@1周年
垢版 |
2017/04/29(土) 06:07:43.28ID:DhgICCjy0
>>698
頭蓋骨金粉プレイされましたが
0812名無しさん@1周年
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2017/04/29(土) 06:07:43.83ID:N9DqRfqm0
正直みんな戦国時代なんか
もう飽きてるだろ
だからどうしたの?って感じ
未来が全然ないw
0813名無しさん@1周年
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2017/04/29(土) 06:14:29.43ID:iHwW2xYO0
そら歴史関係ニュースやからな
そういうつまらんレスする奴よりは歴史オタの話の方が余程見応えあるで
0814名無しさん@1周年
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2017/04/29(土) 06:19:38.45ID:igdFx7Sd0
>>3
朝倉宗滴にガン飛ばされたトラウマ
朝倉の美濃攻めのとき通りかかった朝倉軍が勝手に小谷城に上がり込んで(攻めたわけではない)勝手に城つくって居座られたんで
奴隷パシリに成り下がった
0816名無しさん@1周年
垢版 |
2017/04/29(土) 06:23:11.56ID:Bbtda3kW0
>>22
将軍や帝クラスを立てたら箔がつくし
大義名分にもなるんじゃね
それに抵抗する精力あれば賊軍みたいになるし
0817名無しさん@1周年
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2017/04/29(土) 06:25:26.60ID:9zWTb0FW0
>>807
その後織田軍の侵攻で上杉は滅亡寸前までいってた。
本能寺の変が無ければ武田同様に滅ぼされてた。

>>675
あれ局地戦での勝利。
長期戦で来られた場合国力がもたず家康は負けてた。

九州征伐と地震のおかげで家康は助かった。
0818名無しさん@1周年
垢版 |
2017/04/29(土) 06:29:11.84ID:9zWTb0FW0
>>3
朝倉やられたら次は自分だと思った。
岐阜と京都の間に居座るカタチで領土がある以上信長が
転封を要求してくるのは目に見えてた。

お市の方って信長の大量にいる親族のうちの1人でコマでしかない。
岩村城に嫁いだ信長の叔母も後日武田の武将もろとも処刑された
でしょ。
0819名無しさん@1周年
垢版 |
2017/04/29(土) 06:35:49.86ID:V+ticZdr0
こいつは戦国時代の名家の中で戦国一無能だと思ってる
宗滴の凄まじさと比較するともはや害虫
産まれて来なければよかった典型
0820名無しさん@1周年
垢版 |
2017/04/29(土) 06:36:25.54ID:sbZc1079O
>>675
その後の家康への待遇見てると秀吉自身があの戦いをどう見たのかがよく分かる
臣従後も完全に秀吉政権のナンバー2の座を不動のものとしてその後の天下穫りにつながったわけだから
家康があの戦いで得たものは大きかったな
0821名無しさん@1周年
垢版 |
2017/04/29(土) 06:39:26.03ID:ATRmfDr80
朽木元綱って、信長の通過を手助けした武将だろ。
朝倉義景が通過するのも協力するというのがわかりづらいが、
強国の軍勢が領内を通過するので、いちいち右往左往した土豪にすぎないのだろう。
0822名無しさん@1周年
垢版 |
2017/04/29(土) 06:39:50.65ID:igdFx7Sd0
>>819
毛利のTERUといい勝負できるぞ
0823名無しさん@1周年
垢版 |
2017/04/29(土) 06:41:11.46ID:8+WcLI6z0
日本国内にもテロ攻撃は存在します。集団ストーカーテロです。
集団ストーカーテロは加害組織の大元が警察や創価で、そのまた大元がClAです。
加害組織と実行部隊の関係はClAと中東のイシス、或いはClAとオウム真理教の関係と
まったく同じ構図です。ただし目に見える武器を持たずステルス攻撃を主とします。
彼らの目的は税金搾取と人口削減と世界中を混乱させることです。
0824名無しさん@1周年
垢版 |
2017/04/29(土) 06:41:19.56ID:XS8LWaJq0
このスレ見てると、有能と呼ばれた者が無能で
無能と呼ばれた者が有能なんだって話になってしまうな・・・

通説を覆したがるヘソ曲がりが多い
0825名無しさん@1周年
垢版 |
2017/04/29(土) 06:42:03.29ID:9zWTb0FW0
毛利家は上杉家同様に本能寺の変で助かったようなもん。
それがなければ1584年までに両家とも滅亡してた。
0826名無しさん@1周年
垢版 |
2017/04/29(土) 06:42:55.05ID:ATRmfDr80
>>820 家康はその当時からすでに政権運営能力がすごく上手かったからな。
秀吉に臣従してその後は協力してくれるんだから、秀吉としても頼りにするわ。
秀吉の数少ない親族を家康に次々にあてがうくらいだから、超優遇。
0827名無しさん@1周年
垢版 |
2017/04/29(土) 06:44:46.68ID:X/1xd1dR0
三国志でいう袁術みたいなイメージ
プライドばかりが高い貴族
0828名無しさん@1周年
垢版 |
2017/04/29(土) 06:45:25.53ID:79ZCE/1f0
黒田官兵衛の凄さが際立つな。
播磨時代に信長の将来性を見抜いていた。
播磨時代なら9割方、毛利につくだろ
0829名無しさん@1周年
垢版 |
2017/04/29(土) 06:47:46.00ID:3ItEceYf0
戦国武将って生きたまま生首切ったりやってる事がメキシコのカルテルやISISと変わらん
0830名無しさん@1周年
垢版 |
2017/04/29(土) 06:47:47.95ID:9zWTb0FW0
>>826

大谷が石田を諌めてるくらいだから

オマエと家康では人望に差があり過ぎて無謀と。
0831名無しさん@1周年
垢版 |
2017/04/29(土) 06:48:58.48ID:igdFx7Sd0
毛利はTERUが継いだ時点で10カ国(まだ織田に抜かれておらず日本最大)
世界最大の銀山保有
大内から引き継いだ明との独占交易権=通貨の独占供給権(当時日本ではお金が作れなかったので中国から輸入してた)
当時の日本国内の99%の鉄の産地は広島島根でそれを独占

この状況から防長2カ国へ
0832名無しさん@1周年
垢版 |
2017/04/29(土) 06:49:42.95ID:8yog7zRY0
義景ってやつは情報収集とか準備は人並みにするけど結局行動には起こさないタイプだぞ
だから出陣の準備はしてても不思議じゃない
0833名無しさん@1周年
垢版 |
2017/04/29(土) 06:51:04.81ID:9zWTb0FW0
>>827
実際に袁氏の名声は高かったから。袁術が鼻にかけても仕方がないくらい。
漢の次はここから皇帝が出てくるんじゃないと確実視されてた。

袁術は禅譲という正式な手続きをせず僭称したから自滅したわけで
0834名無しさん@1周年
垢版 |
2017/04/29(土) 06:58:25.52ID:9zWTb0FW0
>>831
・合議制の緩い国家連合
・兵農分離すすまず農民兵ばかり
・石見銀は新興のメキシコ銀と競争に晒される
・博多を大友に取られる
・宇喜多に見限られる

と問題を抱えてたまま織田と戦い、高松城で一気に滅ぼされる
可能性あった。

秀吉が水攻めで堤防築いたので、攻めれば織田軍はそれを要塞にして
戦ったし、ヘタすりゃ堤防切られて逆に水攻めされてしまう。かといって
退却すれば、味方を捨てたと評判が立ち寝返り続出で内部から崩壊する。
小早川はその辺察してさっさと降伏してくれよと籠城してる清水に申し入れ
たり、和議の交渉を秀吉としてる。
0835名無しさん@1周年
垢版 |
2017/04/29(土) 07:07:25.25ID:JmTT3wfy0
>>829
16〜17世紀は、どこの国も首チョンパ

フランスなんか、20世紀まで首チョンパ、公開処刑

ウンコ食ってる韓国人は、世界を知りません
0836名無しさん@1周年
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2017/04/29(土) 07:09:25.75ID:3wNMNReZ0
「石見銀山、少しも自余の御用に仕られず。御弓矢の御用になさるべく候」
元就は他の大名とは異なり、銀をもっぱら軍の強化に用いよと語ったのです。

元就が銀と交換に外国から手に入れた軍需品、それは火薬の原料・硝石でした。
戦国時代、外国との貿易でしか手に入らなかった硝石を元就は大量に輸入していたのです。

最新兵器である鉄砲にいち早く目を付けた元就は、領国内の鍛冶職人に鉄砲を製造させていました。その鉄砲から弾丸を飛ばす火薬の原料として硝石をひたすら輸入していたのです。

この鉄砲の力で元就は、石見銀山を手に入れて6年後、
永禄9(1566)年ついに中国地方を制圧するに至るのです。
http://ameblo.jp/e-fh/entry-11245900720.html


一方、信長は貿易港:堺を抑えて硝石の流通を独占。
0837名無しさん@1周年
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2017/04/29(土) 07:14:03.79ID:9zWTb0FW0
硝石は朝鮮出兵の時まで国内で自給できんかったはず。
それを独占販売してたのが種子島氏。

その種子島氏の菩提寺が京都の本能寺。本能寺はその関係で火薬で
商売してた。
0838名無しさん@1周年
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2017/04/29(土) 07:18:20.10ID:mqF7ZKCl0
>>835
白人とか不器用なくせに斧で首チョンパするもんだから、チョンパにならずに凄惨なことになることが多かったよなw

それでギロチンが発明されることにw
0839名無しさん@1周年
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2017/04/29(土) 07:19:22.48ID:3wNMNReZ0
鉄砲は国産化したものの、火薬の原料となる硝石は国内では採れず、中国からの輸入に頼っていた。
鉄砲玉の鉛も国内生産では間に合わず、輸入に頼ることになる。

戦国時代の鉄砲玉を分析した結果、その大半が東南アジアのメコン川流域産であることが判明。
「堺の豪商たち」の交易が、戦国武将の合戦を支えていたことを如実に物語るものである。
https://www.osaka21.or.jp/web_magazine/osaka100/003.html


信長が京を抑えた理由は、貿易港:堺を抑えて
硝石や鉛などの流通ルートを支配し、火器を独占する事だった。

大量の銃を湯水の如く使えるのは、世界中でも信長の軍だけだった。
0840名無しさん@1周年
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2017/04/29(土) 07:20:11.55ID:XJjGpepi0
浅井は朝倉に昔から助けてもらった恩があったからな
しゃーない
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