【歴史】信長の軍勢に攻められ滅亡する5カ月前、戦国武将・朝倉義景出陣の書状発見/福井 [無断転載禁止]©2ch.net
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■近江と越前、戦況詳しく
県立一乗谷朝倉氏遺跡資料館(福井市安波賀町)は27日、織田信長に敵対した戦国武将の朝倉義景(1533〜1573年)が、朝倉氏滅亡の約5カ月前に発した書状が見つかったと発表した。資料館は「慎重に情報収集を行い、出兵の機をうかがっていた様子がうかかがえる貴重な資料だ」としている。義景は出陣を渋り弱腰とされてきたが、従来とは異なる人物像が浮かび上がった。
書状は元亀4(1573)年3月12日付で、近江朽木荘(滋賀県高島市)を拠点とする武将、朽木元綱(くつきもとつな)(1549〜1632年)宛てで、縦11センチ、横約37センチ。信長との関係が悪化した室町幕府最後の将軍、足利義昭の求めに応じ、義景自身が敦賀に向けて出陣したと伝えている。
元綱は元亀元(1570)年の合戦で織田信長の京都撤退(朽木越え)を助けたとされているが、書状には「道中の通行の安全を約束していただき、安心して敦賀へ出陣した」との内容がしたためられていた。同資料館は、元綱が朝倉軍の道中の安全を約束し、朝倉側は近江経由で義昭の出兵要請に応じようとしていたと分析している。朝倉軍は結局、戦局の変化で越前に引き返し、信長の軍勢に攻められ滅亡した。
http://www.sankei.com/smp/region/news/170428/rgn1704280026-s1.html >>835
一部の蛮族を除いて首狩り族ではない
相撲とか柔術ももともとは押し倒してギコギコ首を切り落とすためのテク >>831
10カ国でも150万石くらいだからな。
信長は尾張、美濃で100万石を超えてた。
毛利の10カ国は大した話ではない。 >>809
斯波家は本来足利家の家督相続できた血筋で
足利将軍より家格が上だと言われてる家柄
その斯波家の家臣でも
由宇・二宮・甲斐・朝倉で
織田は尾張守護の織田淳広からで家格は低い
織田教長は一度跡絶えてるからな
しかも信長は伊勢守家だし朝倉とは格が違う(´・ω・`) >>838
当時としては人道的な処刑方法と絶賛されたし、欧州でも死刑廃止までは
これを使ってたはず
>>840
朝倉の支援で六角から勢力拡大してるんで切れない関係だった。 >>839
>大量の銃を湯水の如く使えるのは、世界中でも信長の軍だけだった。
同時代ならオスマントルコのほうが圧倒的に多いよ >>822
TERUさんは内政屋としては優秀だろ! >>846
トルコもなんやかんやいって17世紀後半までは欧州が手を出せない軍事大国
だったからな。 >>846
日本は世界最大の鉄砲生産国で、最大の鉄砲保有国だった。
信長は大砲を搭載した鉄甲艦まで作っていた。
いずれは海外を攻める予定だった。 >>845
ギロチン使ってたのはフランスとその植民地だろ
有名なイギリスのロングドロップとか、スペインのガレーテとかね 海外攻めは無理でしょ?
霧島那智の小説だとさもスイスイ行ってるけど
・熱病への免疫
がネックになるから死人でまくるわ 天下人はある意味
下克上だからそう呼ばれるワケだし
織田家が朝倉家より家格が上はないのに
信長ごときがとなるのは分かる
朝倉はある意味で足利将軍家と同格レベルだからな
斯波家が格上だったのもあるけど
朝廷と近かったのもあって(´・ω・`) >>850
ドイツもギロチン使ってた。
ドイツの最後の処刑人はギロチンのプロだった。 >>851
日本人ハーフの鄭成功やタイの山田長政みたいに何とかなるんじゃね? >>853
ドイツのギロチン使いって言えばナチスも有名だね >>791
だろうねえ笑
それがこのスレの全てかも笑 >>849
だから違うっての
オスマントルコのほうが鉄砲大砲の装備は全然多い
大砲なんか日本はほとんど持ってない
おまけにオスマントルコは鉄砲大砲専門の常備軍を持ってるんだから
オスマントルコは1514年にアナトリアでチャルディランの戦いをやってる
イエニチェリの数万の鉄砲と大砲でサファビー朝ペルシア騎馬軍団を壊滅させた
長篠の戦どころか鉄砲伝来の30年前だ
戦争の規模もはるかに大きい >>854
船の技術がダメだから補給が続かない。
幕末まで日本はこの分野に限ればかなりのヘタクソ
南蛮人が出てこられたら困るからと船売らなかったの
もあるけど 当時の日本って鍛造技術はともかく、鋳造技術が西洋に及ばなかいから、大砲なんて作れたもんじゃないよね >>847
元就時代からの有能な家臣「この件についてはこのようにしていいですか?」
TERU「そうせい」
隆景「豊家との関係を深くするため太閤殿下の甥子を某の養子として小早川家を継がせようかと」
TERU「そうせい」
安国寺「太閤殿下亡き後は石田殿につかれるがよかろうかと」
TERU「そうせい」
三成「西軍の総大将は毛利殿ということで」
TERU「そうせい」 現実問題として、数で勝る明に勝てんかったわけだからね
あんまりホルホルするのも
封建制軍隊というのが弱点だよ >>849
信長の大安宅船が搭載した大砲は船首に3門
同時代のヨーロッパやトルコの戦闘艦は数10門
日本は大砲の使用は遅れてるね
秀吉の朝鮮の役で中国にも負けてる
ちなみに当時は鉄甲船と言われてない
多聞院日記に「鉄の船なり。鉄砲通らぬ用意、事々敷儀なり」という伝聞が書かれているが実際にどういう船だったのかわかってない
宣教師オルガンチーノが第二次木津川の戦いを詳細に記述しているが鉄張りだったとは書いてない
信長公記にも鉄張りだという記述は無い
戦闘員を守るために部分的に鉄板を張った例は同時代のヨーロッパの戦闘艦にもある イギリスはいつまで斧を使ってたのかね
http://www.geocities.jp/acrossnote/column/note-01/grey.html
明大の博物館で拷問展やった時見てきたが
中世のヨーロッパでは罪人がより苦しんで死ぬようにいろいろ工夫してた
万力で頭蓋骨を徐々に締め付けて破壊するってのが衝撃だったな 長政が裏切らなければ本能寺の後の有力な候補になったろうにな
まあ浅井の血が将軍職にはなったが >>866
秀頼も浅井の子だしな。
浅井はそれだけ織田の中心にいたということだわな。 日本軍は明軍相手に連戦連勝なんですが、負けた戦いはないぞ。
因みに炸裂するわけでもない当時の大砲は戦場では無意味。 戦術レベル勝っても意味ないの
下士官のランボーじゃあるまいに >>868
明の城塞都市を大砲無しで制圧できるのなら頑張ってw
どこの国だって攻城戦で使うための大砲だ
大阪の陣だって大砲使っても大阪城は落ちなかった >>863
中国側から見ると日本人は陣形なしでがむしゃらに突っ込んでくる不気味な
連中と映ったと当時の記録にある。
島津なんてさぞや怖かったんでは?「チェスト」と奇声を発した集団が数千人
突っ込んでくるんだぞ >>871
ローマ軍対ケルト人みたいな
首狩りの風習があるところも似ているw >>873
お江さんが浅井や織田の血を残そうといろいろ画策してたからね。
1番目のネーチャンと2番目のネーチャンは旦那運なし、自分がなんとかしないとって
特に2番目の旦那はついてない。あと1日戦ってれば近江1国の大名に成れたのに
Q)キムチ臭いのが「対明戦では日本軍は陣形なし」なんて言っているけど
A)そんなわけがありません。日本軍は秀吉の頃から組織だっています。
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●朝鮮出兵の一例:立花宗盛軍
・総兵力:2600名
・騎馬隊:210名
・徒歩兵:1240名
・鉄砲兵:350名
・弓__:91張
・槍__:641本
・太刀_:2600本(全員)
※鉄砲は槍の半分。これは当時のヨーロッパと同じ。
【出典】『兵器と戦術の世界史』(中公文庫金子常規著) >>874
数だけ多くて烏合の衆だったのは明の方ね >>871
しかもみんなガチムチで穴兄弟だから結束は固いはキモいわで相手させられる方が可哀相というねw >>862
TERU「太平の世になって性欲が収まってきたら本気出す」 >>879
薩摩の若衆は有名だからな。
女との恋愛禁止、バレタラ死刑とかいう鉄の掟があったんでしょ?
それが幕末まで続いてた。
後年彰義隊に囲まれた薩摩藩士が、逆に大人数の彰義隊を追い回した
話もあるくらいw そういや戦国時代にはそれ自体が目的だった首狩り(首級)の風習って、なんで幕末、戊辰戦争の頃には廃れてしまったんだ?
薩摩なんて脳筋だから首級の百個、二百個自慢してなんぼだろうに >>871
三方が原の時に
家康…鶴翼
信玄…魚鱗
の陣形組んでただろw >>877
関ケ原から大坂の陣にかけては鉄砲は槍と同じか槍より多いよ。
鉄砲装備率は40%くらいにも達していて、関ケ原で8万丁、大坂の陣では10万丁とかだよ。 >>3
米軍が北朝鮮に侵攻、韓国軍も当然米軍とともに戦うと思っていたら、「同胞と戦うのは嫌ニダ」と
土壇場でまさかの裏切りで北朝鮮側に寝返り米軍でパニックで敗走。
「韓国許さん、ぜってー殺す」と米国の恨みを買い滅亡。
こんな感じ? >>882
首は重いんだよw
こんなもんブラブラぶら下げてたら動きが鈍ってやられちまうだろうがw >>871
島津の戦法は、そんな無理やり突っ込んでくるような強引なものじゃないぞ?w
釣り野伏といって、囮部隊が敵を待ち構えている味方部隊のところまでうまく誘導して敵に壊滅的ダメージを与える戦法が得意
明との戦でも、明軍、朝鮮軍20万と号する大軍勢を島津軍7000で壊滅させたシセンの戦いも
大規模な釣り野伏が成功した例だよ
朝鮮征伐の戦後処理で島津だけが恩賞を与えられたことでも、その戦果のすごさがわかる
他の大名の戦果は兵士ではない女、子供も耳、鼻を切り取って日本に送り、ねつ造していたのが常だが
島津の戦果だけは本物と認めれたわけだ >>882
幕末にもその風習残ってる
東禅寺事件の際に、居合わせた福地桜痴
が首実検(手柄)の証人になってくれと警備側の
侍に言われた話があって
>>883
なんちゃって陣形。
豪族の連合体だから日本のは。 >>871
日本刀の切れ味はほんと抜群だったらしいね。
官給品の明だの朝鮮だのの粗末な鎧なんてリアルに鎧ごとスパスパ切り裂くから、
そら明兵も朝鮮兵も悲鳴あげて逃げ惑うわなw >>881
それがあるから釣り野伏とか捨てがまりなんて難解な戦法を実行出来たんだろうね >>887
ステガマリという捨て身戦法もなかった?
シーマンズという名前が残るくらいだから相当だったんだろうな
そういうのが幕末まで薩摩に残るんだからもうねぇw >>891
釣り野伏は、島津が勝っている戦
捨てがまりは、島津が負けている戦で総大将を無事撤退させるために部下が犠牲になる戦法 >>889
日本のほうも甲冑の隙間を狙えとかノウハウあったとか
さすがに甲冑切ってると刀の消耗はやくなるからもっぱら槍つかって
鎧の隙間をつくか頭叩いて脳震盪おこさせるのが多いと聞いたことある
>>890
・死ぬよりも卑怯なことが大嫌い
・勇者は敵でさえ素直に尊敬
というのが薩摩隼人。現に長宗我部のセガレや宗茂の親父は
薩摩側から首が丁重に返されてる >>887
島津が釣り野伏を仕掛けてくると分かっていても引っ掛かるくらい巧妙な戦いぶりだったみたいだね >>895
勢いに乗ると大軍は制御しにくくなる。止れといっても急には止まれな。
い集団ってそういうもん。 >>895
恩賞を上げたいと思っている兵士の心理が働くんだろう
目の前の敵が逃げ出したら、追いたくなる、今がチャンスとみんなが追い出す
部隊全体がその動きにつられて、深追いする
島津の囮部隊は、敵に演技だと思わせない迫真の演技で逃げる役を務めたんだろう
強かった、強敵だったけど、やっと敵は敗色濃厚、逃げ出している
これは追撃しないと〜と敵に思わせる
だって、その当時の戦は追撃でこそ戦果が上がるものだから
で、追撃したら、島津の鉄砲隊に囲まれた地域に誘い込まれているという悪夢 >>895
本当に逃げていたのかもしれない。
だいたい伊東と木崎原で戦った時は、敵に槍で突かれて死ぬかと思ったら、偶然馬が躓いて避けたという逸話もある。
味方の陣営に転がり込んだら、追っていた敵が逆に囲まれて勝利体験になったと。 >>883
信玄は孫子だからな、兵法に則って布陣したんだろ。
対する家康は何となく広がって待ってた感じだろ。 >>900
武田軍は中小豪族の連合軍だから集団戦法するには限界ある。
信玄が直属で動かせた人数も1000人くらいが限度 朝倉義景(あさくら よしかげ、1533-1573年)は将軍家と親しい間柄にあり、
京都の文化を受けて大きく発展した城下町を持つ越前・朝倉氏の第11代当主。
1533年(天文2年9月24日)、越前朝倉氏の第10代当主の朝倉孝景(あさくら たかかげ、
第7代孝景は第10代孝景の曾祖父)と若狭武田氏一族の武田元信、又は武田元光の娘
とされる広徳院(光徳院)との間に嫡男として誕生。当時、父・孝景の年齢は40歳で、
唯一の実子であったとされている。 幼名は長夜叉。
1548年(天文17年3月)、父・孝景の死去に伴って家督を相続、第11代当主となり孫次郎
延景と名乗った。
天文同年9月9日、第11代当主就任の挨拶を京都に対して行なったという(『御湯殿上日記』)。
当時は義景が若年だったこともあり、一族の名将・朝倉宗滴が政務や軍事の補佐を行なった。
一方で同年に管領の細川晴元の娘を正室に迎えている。
1552年(天文21年6月16日)、室町幕府第13代将軍・足利義輝から「義」の字を受けて義景
と名乗った。また、この頃に左衛門督に任官。
1555年(弘治元年)、義景の政務や軍事の補佐を行ってきた宗滴が死去。
これにより義景自ら政務を執るようになる。しかし、義景は学問や芸事にばかりふけ、遊芸を好み、
居城・一乗谷の館も京洛の華やかさや美しさを真似ていたという。 >>852
残念なお知らせ
これを見ると朝倉氏は甲斐氏の家臣
つまりスタートは斯波氏の家臣の家臣なので陪臣です
http://www.geocities.jp/kawabemasatake/buei.html
越前国の守護代は甲斐氏で、甲斐氏が在京してた関係で又守護代として越前国を経営してた
>>859
そういえばその人も可児ゆかりの人だね >>894
槍でとどめさせなかったら、相手を押し倒して生きたまま頭掴んで首をギコギコ(組討)が基本でしょ、敦盛 くりぬきのごじんほうって言い方もあったね
捨てがまりの事だけど
これで関ヶ原せい軍なのに本領安堵だもんな
強いわ 1559年(永禄2年11月9日)、従四位下に叙任。
略
1565年(永禄8年5月19日)、松永久秀らによって将軍・足利義輝が暗殺される事件が起こった。
義景は5月20日に武田義統の書状から将軍 義輝の暗殺を知り、8月には若狭に出兵した。
9月8日、松永久秀によって矢島御所から追われて若狭武田家を頼っていた将軍義輝の弟・足利義秋
(のちの義昭)が越前敦賀に座所を移したため、義景は景鏡を使者として遣わし、義秋の来訪を歓迎した
(『上杉家文書』、『多聞院日記』、『越州軍記』)。
朝倉家の後援を期待した義秋は、越前朝倉氏と加賀一向一揆の和睦を取り持とうとしたりした。
しかし、両者の長年の対立は深刻で、すぐに和睦できるものではなかった。
1567年(永禄10年3月)、家臣の堀江景忠(ほりえ かげただ)が加賀一向一揆と通じ、謀反を企てる。
朝倉家は加賀国から攻め込んできた杉浦玄任が率いる一揆軍と交戦しながら、義景は山崎吉家、
魚住景固に命じて堀江家に攻撃をしかけた。堀江景忠も必死に抗戦するものの、最終的には和睦し、
景忠は加賀国を経て能登国へと落ちた。この内乱は朝倉景鏡の讒言によって起こった内乱であったという
(『朝倉始末記』)
永禄同年11月21日、義景は義秋を一乗谷の安養寺に迎え、さらに11月27日には義秋への祝賀の挨拶
を行った。 すると12月には、義秋の仲介によって加賀一向一揆との和睦が成立。
義秋は、上杉謙信、武田信玄などの諸大名にも上洛を促す書状を送った。しかしそれら大名家は、
隣国との政治情勢などの事情から出兵することは難しかったため、義秋は義景に上洛戦を再三求め、
12月25日には義秋が非公式ながらも義景の館を訪問している(『朝倉始末記』『越州軍記』)。
また義秋が発する御内書に義景は副状を添えていて、この頃の義景の立場は、実質的には管領に相当
していた。なお「朝倉系図」では、義景の地位を管領代として記している。 木曽、小笠原、諏訪、村上とかややこしい豪族ばかりだもんね >>903
陪臣と言うと小六は織田直臣だったんだよね?ほぼ秀吉の下のイメージしかないけど 大学受験を日本史で受け、司馬遼太郎なんかも一通り読んだ俺は
浅井・朝倉が姉川の戦いで滅んだのではないことを最近「信長の忍び」を読んで知った
「信長の野望」をやってないのがまずかったのか… >>904
生きたまま首ギコギコじゃ暴れられるからな。
普通は首の動脈斬って殺してから首とるわ。
味方の人数多い場合や既に瀕死なら生きたままギコギコじゃろうけど>> ゴミの様に見えても、調べてみれば大発見。
あの京都の女公務員だったら、調べもせずに廃棄していただろう。
「これと似た様な物が有るから。」と持論を展開してw >>909
基本第二次姉川で滅んだという解釈で良いのでは? >>905
あの時は上杉家もまだ降伏せず残ってたからね。
実は徳川家は小牧長久手以降マトモな実戦経験が無い。
上杉や島津は実戦経験豊富な連中ばかりそういう連中
に死ぬまで抵抗されたらコ川も勝てても戦力の大半が無くなる 上杉謙信、武田信玄を呼んだところで、
両者こそが隣国との政治情勢などの事情だよな >>112
尾張と違って当時の越前は
一向一揆が猛威を振るってたんで
上洛なんて無理だった 義元も毛利に首ギコギコやられんだんだよな
飛ぶ鳥を落とす勢いの今川義元があの戦況でなぁ
信長色々すごいわ >>910
それがやっぱり暴れるんだってさ、よく指を食いちぎられたり
それをうまい事押さえ込むための技法が組討で、その技術の継承が相撲や柔道なんだから >>908
織田信長の家臣(直臣)で、最初は与力として木下藤吉郎配下になってると思います 毛利が義元に指食いちぎられたんだよな。
ちなみに毛利は生涯信長の親衛隊で本能寺では信忠と一緒に戦死。
服部は秀吉の下で大名になってるな。
桶狭間って信長直属の親衛隊が力発揮した戦いなんだよな。 義弟の顕如の力を借りて謙信を抑え、隣国にも根回し用意周到に準備して、
ようやく西上作戦として満を持して信玄が出張ったわけで >>889
明軍の官給品の鎧は多くが皮製だったようだね
鉄の兜と胴丸という当世具足の日本の軍勢は強い
もっとも日本も大名が足軽に与えた官給品の鎧は漆で固めた紙って場合もあったけど >>913
上杉って景勝以降は鬼神なイメージないよね
直江とのコンビで先代のプライドは保っていたけど
時代の影響かな >>913
関ケ原
島津義久が西軍に味方せず
弟の島津義弘が勝手に西軍に味方しただけという体裁だったからね
しかも島津義弘の軍勢は兄島津義久が兵を送るのを拒んでいたので
ボランティアで集まった1500人だけという少数
関ケ原で兵をほとんど消耗していない、薩摩には無傷のあの精強な兵が残っているというのも
家康に躊躇させた理由だろう
でも加藤清正、黒田長政らの連合軍は薩摩に向けて進軍していたのに
家康は攻撃中止命令を出している
その裏にあるのは海外貿易をしようとしていた家康に、島津義久が脅しをかけたといわれている
丁度そのころ貿易船が海賊に襲われるという事件が起きて、島津は海賊を退治しましたと家康の報告したそうだ
その意味は島津をつぶすと島津は海賊になって貿易の邪魔をしますよというメッセージになって家康を脅したという説がある 朝倉を見てると歴史って有能ならいくらでも変わる余地があると思う。
朝倉が有能だったら織田終わってたもんな >>925
朝倉義景が足利義昭の後見となって将軍にさせて
各地の大名に上洛を呼びかけたとして
史実の朝倉義景のように織田信長が上洛を拒んで、むざむざ朝倉に攻撃の口実を与えるとは思えないけどな
信長なら、うまく幕府側に入り込んで、幕府中枢に権力を固めるような気がする
まあ、それだと革命児にならないけどw >>923
強いよ。
最上や伊達相手に力見せてんじゃん。
大坂の陣でも倍くらいの大軍を撃退してるだろ。
上杉がいなかったら佐竹とか全滅してた。 もっとも信玄が重い腰を上げたのは、比叡山焼き討ちに激怒したからではある
そもそも織田と武田は同盟関係にあった 朝倉南とかあだち充のヒロインやイケメン枠はどいつもこいつも
同じ顔 >>931
景勝自身が地味だが有能な実戦指揮官だぞ。
だからこそ御館の乱を生き延びれた。 >>928
数百年にわたって非道を働く比叡山に対して、天皇や法王が何度も、討伐を呼びかけている。
【比叡山だけでも3回の攻撃が行われている!】
1435年 足利義教の比叡山攻撃と、根本中堂自焼
1499年 細川政元の比叡山焼き討ち
1571年 織田信長の比叡山焼き討ち <信長がようやく終止符
塩野七生いわく 【織田信長の最大の功績は、寺社勢力の武力介入を歴史的に根絶したこと】
信長によって日本は世界に先駆けて【政教分離】が確立した!
しかし、終止符を打った信長は、寺社勢力から酷く恨まれ、悪名を残すことになった・・・ >>112
太閤検地で越前は50万石くらいあるんだよな
当時の朝倉はかなりの勢力だ
尾張+美濃で100万石の信長よりは少ないが浅井や武田と連携して信長にも対抗できた
意外に武田が甲斐20万石、信濃40万石、駿河15万石で100万石も無いんだよな
上野や武蔵にも領土を持ってたから100万石にせまるのかな
上杉謙信なんか越後一国で当時の越後はぜんぜん100万石無いんだよね
謙信の時代には佐渡の金山も発見されてなかった
謙信は関所を撤廃し日本海沿岸の交易船を保護して運上金を得、青苧などの特産物を専売にし
交易で金を得るといった信長の先駆者的な人だったらしい >>935
その辺はよく分からんが、いずれにせよ、信玄が動いた理由は比叡山焼き討ちである 上野は50万石の大国だから。
武田は最盛期上野の半分を支配した。
上野25、信濃40、甲斐20、駿河15で100万石。
これに遠江、美濃の一部を加えて120万石くらいが最大時だろう。
桶狭間の頃から倍に拡大してる。
今川義元が生きていたらこうはならなかった。 >>933
景勝、とくに直江兼続は野戦指揮官としては二流だぞ?
新発田の乱、最上攻めの失態みれば当然だな。 レス数が900を超えています。1000を超えると表示できなくなるよ。