http://jp.reuters.com/article/nobel-prize-peace-idJPKCN1C709Q

Gwladys Fouche and Alister Doyle

[オスロ 27日 ロイター] - 祝福してくれた支持者の多くを落胆に導いたノーベル平和賞受賞者の長いリストに、ミャンマーのアウン・サン・スー・チー国家顧問が新たにその名を連ねた。恐らく彼女が最後ではないだろうという点が、10月5日に発表される今年の同賞受賞者に向けた苦い教訓だ。

スー・チー氏に対しては、同じくノーベル平和賞受賞者である南アフリカのデズモンド・ツツ元大主教を含め、国際的に多くの批判が寄せられている。

国連がミャンマーのラカイン州で発生していると主張する大量虐殺、レイプ、集落放火を阻止するために十分な行動に欠けているためだ。こうした暴力によって、42万人を超えるムスリム系少数民族ロヒンギャ難民が隣国バングラデシュに逃げ込んでいる。

ノルウェー・ノーベル委員会が1991年、スー・チー氏に平和賞を授与し、彼女の「民主主義と人権を求める非暴力の戦い」を讃えた当時と比べると、大きな変化だ。とはいえ、一度与えられた賞が取り消されることはない。

「受賞者が批判を受けるという事態は過去に何度も起きている」と語るのは、1990年から2014年までノルウェー・ノーベル委員会の事務局長を務めたゲイル・ルンデスタッド教授だ。

一部の受賞者がその理念にそぐわなくなったとしても、賞はいつまでも有効だ、とルンデスタッド元事務局長は言う。「アウン・サン・スー・チー氏は、ビルマとアジアの多くの地域における人権にとって、非常に重要な代弁者だった。その事実を彼女から奪うことはできない」

ノーベル賞は、ダイナマイトの発明者アルフレッド・ノーベルによって創設されたが、彼の資産の一部は武器の製造や販売によって築かれたものだ。900万スウェーデン・クローナ(1億2400万円)の賞金が与えられるノーベル平和賞は10月5日に発表され、単数もしくは複数の個人・団体に与えられる。

だが、これまで平和賞受賞者の多くが戦争を開始したり、それをエスカレートさせたりした例が相次いでいる。

1978年、当時のイスラエル首相だったメナヘム・ベギン氏は、キャンプデービッド和平合意を評価され、エジプトのサダト大統領とともにノーベル平和賞を受賞したが、その4年後の1982年、レバノン侵攻を命じた。サダト大統領は1981年にイスラム主義の軍将校により暗殺された。

1994年には当時のパレスチナのアラファト議長は、オスロ合意を評価され、イスラエルのラビン首相、ペレス外相とともに1994年の平和賞を受賞したが、この合意はアラブ・イスラエル間の紛争に関する永続的な解決をもたらさなかった。

ラビン氏は1995年に極右ナショナリストに暗殺され、その8カ月後にペレス氏も選挙に敗れて政権を失ってしまう。アラファト氏はその後、イスラエルによる占領に対する暴力的な蜂起である第2次インティファーダの期間中、パレスチナ自治政府を率いていた。

旧ソ連の指導者だったミハイル・ゴルバチョフ氏は、冷戦を平和的に終結させたことに対して1990年に平和賞を受けているが、1991年にはバルト諸国の独立を阻止するために戦車部隊を派遣している。ただし彼はその後、バルト諸国の独立を認めた。

1973年には、当時のキッシンジャー米国務長官は、結局は失敗に終わったベトナム戦争終結への取り組みを理由に、北ベトナムのレ・ドゥク・ト氏とともに平和賞を与えられた。米国政府が和平協定に違反していると批判したト氏は、史上初めて、平和賞を辞退した。ベトナム戦争は1975年、北ベトナム軍によるサイゴン陥落で終結した。

2009年に当時のオバマ米大統領が就任数カ月で平和賞を受賞した際には、オバマ氏自身も驚いたと語っていた。オバマ氏がその年の暮れ、授賞式のためにオスロを訪れたときには、すでにアフガニスタンの米軍駐留部隊を3倍に増強する命令を下していた。

「皆さんの寛大な決定が相当な議論を呼び起こしたことに私が気づいていないとすれば、私は怠慢だということになるだろう」とオバマ氏は授賞式でのスピーチで語っている。「遠隔の地で戦うために何千人もの米国の若者を派遣している責任が私にはある。殺す者もいるだろうし、殺される者もいるだろう。だから私は、武力紛争による犠牲を痛切に感じつつ、このオスロを訪れている」
(>>2以降に続きあり)

2017年10月2日 / 06:21 / 1時間前更新