【日本史】「鎌倉」でなく「北条時代」が区切り 時代区分に新提案 明治以前を「古墳→大和→山城→北条→足利→織豊→徳川」★4
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時代区分(古墳から明治以前)
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■時代区分を見直す中世史家 保立道久・東京大学名誉教授
歴史には時代区分がある。だが、日本史で一般的に使われる「平安」も「鎌倉」も「室町」も問題だと指摘し、新たな区分を提案する歴史家が現れた。名付けを見直し、区切る事件を変える。歴史の大きな流れが理解しやすくなるというのだ。明治以前を「古墳→大和(やまと)→山城(やましろ)→北条→足利→織豊(しょくほう)→徳川」にすべきだ、というそのわけは。
――時代区分を変える必要などあるのでしょうか。
「時代区分は、歴史を少しでも分かりやすくするための印です。学界も習慣的に使っていますが、社会への影響が大きく、もっと深く考えるべきだと思いました」
「ヨーロッパや中国などの外国は、王朝交代で時代を区切ります。日本の天皇は『万世一系』ですから難しいのですが、前近代の政治の中心は王権です。王権の変化で区切るほかありません」
――では、最初の王権はいつできたのでしょうか。
「3世紀初頭、邪馬台国の卑弥呼の時代と考えます。その頃、前方後円墳の原型といえる古墳が纒向(まきむく)(奈良県桜井市)に営まれ始めた。そこで従来3世紀末か4世紀初めとされる古墳時代の開始を、邪馬台国の成立時とします」
「前方後円墳は、つぼを横倒しにして半分埋めた形なんです。後円部に埋葬された人の魂が、つぼのくびである前方部を抜けて天に飛翔(ひしょう)します。こういう神話を信じた人たちが邪馬台国をつくった。古墳時代は神話時代です。ただ、その神話は天皇家のものとは限りません」
――古墳時代の次は大和時代となっていますが、どこで区切るのでしょうか。
「大王の血筋が確定して後の天… 残り:2408文字/全文:3097文字
配信2017年11月9日03時17分
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http://www.asahi.com/articles/ASKB05T40KB0ULZU015.html
★1が立った時間 2017/11/09(木) 10:39:36.22
前スレ
http://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1510211247/ >>537
頼朝は外祖父になろうとしたし実朝は右大臣もらってるし
平家と同じ路線にも見えるけどなぁ >>509、>>517
待て待て、それ以前に源平は纏めちゃいかんだろう
同じ武家政権でも、体制内の改革者と関東連合(←武士団だぞw)をまとめた革命政権で
組織の成り立ちが全然違うんだからさ 神武天皇は渡来人やろ?
大陸で何してたか解明して欲しいわ >>554
人類史上もっとも偉大な100年なのに、何が不満なの?
このゴールデンタイムに生きていられるなんて、マジ奇跡だよ?
もうこの進歩はないね >>550
リア充爆発しろで恨み買ったんじゃね土方(´・ω・`) >>545
源氏の足利義氏が将軍につく話があったが断った
また、足利義氏の姉妹が実朝の正室になる話もあったが、実朝が断った
北条が乗り越えられなかったのは、頼朝が構築した三河システム(三河縁者が武家社会を牛耳るシステム)
男系、女系共に源頼朝に近い足利氏が使命感をもって、武家社会を源頼朝の三河システム(三河縁者が武家社会を牛耳るシステム)に戻したのさ
その三河システムの存在は政子ちゃんは周知の事
頼朝やその息子孫がいなくなって、政子が頼りにしたのは三河で繋がる人々だったのは明白だろう、政子の葬儀奉行は三河守護の足利義氏だった
金剛三昧院(本尊、愛染明王は北条政子が、当時仏師として世間に名を広めていた運慶に依頼し、頼朝公の等身大の坐像念持仏として作成)
・建暦元年(1211年)、北条政子の発願により源頼朝菩提のために禅定院として創建する
・承久元年(1219年)、源実朝菩提のために禅定院を改築して金剛三昧院と改称し、以後将軍家の菩提寺として信仰する
・貞応2年(1223年)、北条政子が禅定如実として入道し、建立奉行を葛山景倫(願性)・安達景盛が務め、源頼朝と源実朝の菩提を弔うための多宝塔(国宝)を建立する
・嘉禎4年(1238年)、足利義氏は政子の十三回忌にあたり、当院に大仏殿を建立し、丈六の大日如来像を奉安して、政子と実朝公の遺骨を納める
・源実朝
藤原実範(三河守)→藤原季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令)→藤原季範(初代藤姓熱田大宮司、額田冠者(三河国額田郡))→由良御前→源頼朝→源実朝
・葛山景倫(願性)
藤原実範(三河守)→女(藤原季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令)の妹)→高橋惟康(三河国高橋荘領主)→鮎沢惟兼→葛山惟忠→景忠→景倫(願性)
・安達景盛
小田野兼広(三河国八名郡小野田)→安達盛長(三河国小野田荘地頭、三河守護)→安達景盛(三河国小野田荘地頭、1221年まで三河守護だったか?)
・足利義氏
藤原実範(三河守)→藤原季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令)→藤原季範(初代藤姓熱田大宮司、額田冠者(三河国額田郡))→女(養女)→足利義兼→足利義氏(三河守護) 稲作は弥生時代から始まった → 縄文時代から行われていた
田沼意次は賄賂まみれのks → 実は有能な政治家であった
産業革命は明治から始まった → 江戸時代に前提が出来ていた
最新の情報に更新とかするな
ガチってから教えろ >>546
武士が関東で権力取って、
その後も漸進的に貴族の既得権益を削っていった
荘園たいな平安時代の糞システムをぶっこわし始めたのが
日本史に輝く分岐点。ここで分けずして何とする
清盛とか、貴族の延長だわ
貴族世界で武士の身分で出世したのは偉いがね >>545
実朝が暗殺されて終わり
とまでを源平時代とする。うむ。いいね。
あとは北条が政治をとるが戦乱は収まっているし一応。 学者、出版社、印刷屋が癒着して儲け話でもしてるんだろ >>506
いちばん最初に習ったの借金の証文だったw
あと習字やれって言われた ジャップの薄っぺらい歴史なんてどうでもいいよ。何の価値もない。 >>558統治能力
江戸幕府:270年
旧帝国:80年
現時点:70年
※江戸時代後半の識字率(江戸&上方、読本を読める程度):40〜50%@世界第一位by東北大学法学部名誉教授吉田正志(日本法制史)の研究より。
※代官の任務に「意図的に徴税しない」事が含まれる∵一揆等を惹起したら即時免職
※庶民文化がアジア圏で最も栄えた(ジャポニズム等)。
※いわゆる被差別階級に対しては「経済面では」手厚く保護していた(死刑執行担当は、数か月遊んで暮らせた)。
※都市圏の住人の平均労働時間は平均4時間。役所は10時開庁、14時閉庁。両者に付き昼寝あり。
※世界最初の近代的な外科手術用麻酔薬、アジア圏最初期の種痘所の設立、世界最初期の商品先物市場の開設、救貧対策は当時世界最高レベル他内政は概ね高レベルで推移した。
統治能力は、実は旧帝国で退化している。その後ある程度回復したが、ネオリベという悪魔がそれを破壊した。
明治政府:旧帝国政府は、実は江戸幕府の遺産にただ乗りしたあげく、それを食い潰し、最終的には崩壊した。 >>567
祖国はもっと薄っぺらいから見捨てて、
豊潤な歴史を持つ国に憧れて移住したの? >>492
もっというと東大本郷キャンパスの北側、農学部があるのが弥生キャンパス。
我田引水が強すぎて、失敗したのかも。 >>550
やっぱり多摩のドン百姓と会津のお殿様では…
>>553
伊達政宗の手紙はお茶目で面白いぞw
宛名の片倉小十郎を「かた小」とか可愛らしく略してるのがいかにも中二病
何気に教養はあるから筆まめで達筆だったりする
吉野の花見で前田に「田舎大名の割に和歌が上手い」とかひどいこと言われてるw 大和・奈良・平安・鎌倉・安土・桃山・江戸・東京 そんな記憶が・・・な。 >>479
そんなこと言い出したら桓武くらいまで名称は後世の後付けだろ
亡くなってすぐ送られたとかではなく数百年後につけられてる >>420
> >>417
> つーか哲学者かな
> 自分は泥に塗れず、部屋の中だけで概念操作して手柄面
> 実際は科学者や発掘者が頑張ってる
日本史東洋史の大碩学、読んだこと無いだろう?
日野開三郎、瀧川政次郎、仁井田のぼる、白川静とか、怪物級の凄いのいっぱいいるぞ 源頼朝の子供たちが死んだのに
なんで鎌倉幕府って名称が残ったのか不思議に思ってたのよね、天下人の北条家は将軍じゃないんでしょ
足利も徳川も将軍じゃないですか >>548
言語や文字や言葉・発音から見ていく文明・歴史ってのも…おもしろいものだよなぁ
そういう意味では,アイヌのようなレアケースはあれはあれでいて
貴重な価値ある歴史の資料だと思う・・・まぁ繁栄云々に関しては指摘のとおりだけど >>563
鎌倉幕府の雛型を作ったのは公家の大江広元だろ >>568
でもそれって日本の隅々ではなくね?
江戸大阪京都とか大藩の城下町はそうだったかもしれんが 足利義氏が将軍になったり、足利義兼の娘が実朝に嫁いで、生まれた子供が将軍になったりしたら、果たして北条は三河に勝てただろうか
当時、三河には源氏の貴種、範頼の息子もいたからな
三河パワーに勝てたとは思えんな
■正法寺(三河県豊川市赤坂町西裏69)
創建年:弘仁7年(816年)
開基:万巻上人
中興:了信坊(源範円)
・源義朝→源範頼(三河守)→源範円(正法寺(三河県豊川市)僧侶)→源為頼(初代吉見氏、室は小山朝政の娘)
正法寺の創建は聖徳太子が赤坂の地を訪れた際、太子堂を建立したことが始まりと伝えられている
弘仁7年(816)、万巻上人が病により太子堂で亡くなったことから、上人を開基と定め寺院として開山する
当初は天台宗の寺院でしたが貞永元年(1232)に親鸞が太子堂の参拝に訪れた際、当時の住職範円(源範頼の子息)が親鸞に教化され浄土真宗に改宗する
>>543
年配の人は光合成という言葉を知らないってこと 倭国大乱が国譲りなので皇室が日本全土を収めたのは2世紀以降。
古墳時代は天皇の治世です。
出雲勢力が落ちたのは漢が半島から引いて貿易できなくなったので財政難で軍を維持出来なくなったから。 >>101
最近の歴史学者は歴史捏造に手を染めないと
研究費がおりないらしいよ
現在、そういう政権だし
捏造は無理くさいなら新価値なるものをでっちあげるくらいでないと あと10年もすれば
平成時代という言葉も出来るんだろうな。 >>579
日本は血統主義
どんなに武力があり力があろうが北条は将軍にはなれない血 今、エムキャスでねこねこ日本史を見てたら後醍醐天皇と鎌倉のはなしをやってるな あー、左翼教師が昔から言ってる事だろ
藤原時代、北条時代、足利時代、織豊時代、徳川時代
と、左翼教師が言ってた >>579
北条が権力を握ってた幕府は鎌倉にあったじゃん 木曽義仲とか、源義経とかは政治的なセンスが皆無だったけど
逆に頼朝は平氏の失敗を踏まえて
恐ろしく巧妙に自身の武力的背景の拠り所を作ったけど
あの辺は優秀なブレーンがいたんだろうな
頼朝の半生を見ても武家の棟梁になった後
どうやって統治するかなんて学ぶ余裕はなかった 馬鹿が実績欲しさに大声で騒いでるいつもの内容
東大なら、まず弥生時代に文句つけてみろやw >>465
弥生時代は 支那の混乱(三国時代)により
多くの支那移民が入ってきて
国内でも争いが起こるようになったことから
第一次移民時代としたほうが分かりやすい
ちなみに農耕は縄文時代から行われていた 政治が行われたのは鎌倉だろ
なんで北条から人が出てくんだよ馬鹿か >>479
いや、そう変えようという動機が聖徳太子と呼ばれるほどの業績がないと
さる偉い先生が言ったのがきっかけだからw
その聖徳太子の業績が後世捏造されたとする理由がこれまた噴飯物で、
馬子の子孫を嫁に持つ藤原不比等が記紀編纂に圧力をかけて
その当時の歴代天皇の先祖である馬子の業績を蘇我氏だからと言う理由で
歴代天皇からすれば5〜6代前の祖先の従弟に過ぎない厩戸皇子に付け替えた!w >>577
奈良時代から平安初期の光孝天皇までの漢風諡号、もちろん桓武も含む、天皇の死後すぐに贈られたものだ
神武から元正までの漢風諡号は奈良時代に淡海三船が選定したのだが >>579
徳川家康の子孫が三代で全滅しても
適当なやつを将軍にして江戸幕府は存続したよ
多分 全くどうでも良いような提案をして自分の名前を残したい
って事なんだろうか。
時間の一部分をどう区切って何と呼ぼうがたいして意味ないだろ。 >>574
問題の土器が発掘された(らしい)場所には、工学部が陣取っている 邪馬台国をヤマタイと呼ぶのは何故なのか
ヤマト国ではないのかJK >>568
でも平均身長は戦国時代に比べて15cm縮んだんだよね
個人としてはみんな誠実にがんばってたとは思うが
閉鎖された社会としては徐々に死に向かいつつあったのではないか にしこり「ちわーすヤマト国からヒのミコの使いで来ました!にしこりでーす」
魏の官吏1「どういう字を書くんだ?」
魏の官吏2「こいつら蛮族だから文字なんて書けないですよ」
魏の官吏1「じゃあ適当に当て字で書くか、蛮族らしく侮蔑表現を入れて邪馬台国、卑弥呼、都市牛利と、」
割とマジでこんなんだったんじゃないかと思う 酷いのは桃山時代というのだな
何で大坂時代じゃないんだ 征夷大将軍に関係なく源頼朝が全国の支配権を持った1185年から「鎌倉幕府」になってるのに
全国を支配した豊臣秀吉が征夷大将軍じゃなかったから「幕府」じゃないというのはおかしい
って俺が言い続けてたから自棄になって変なこと言い出したんだな >>44
ならそれぞれ分ければいいんじゃねえの?このおっさんの説に従えば
親政→藤原→足利→北条→足利→豊臣→徳川あたりか 秀吉時代に大坂と聚楽第と伏見が有る中で、どれかと言われたら、そりゃ伏見だろう 大王、王家、武臣王、無王、関東の足利武王家(関東公方)。
王の乱立、アホちゃうかと言う感じ。ついでではありますが「厩戸王」(笑)。
歴史学は異様なまでに「王」好きであり、なんちゃら王を造語し創作し過ぎ。 >>528
ペトログラフの世界権威の吉田信啓先生が言うには縄文時代には文字が使われていたそうだよ >>599
確かに馬子・蝦夷・入鹿って今から見ると蔑称っぽいけど
当時はおしゃれな名前だったのかもしれないんだよね
二項対立しか頭にないマルクス史観だと
物部・中臣側から見た蘇我を貶めるための(ry となるんだろうが >>204
呉は、倭や公孫氏と同盟を結んで魏を叩こうとしてたから
その願望によって地形認識が歪んでいたりする
倭は魏に圧力かけられる場所ではない >>607
人口ちょっとづつ増えてたし
近代化もゆっくり進んでたよ
身長に関しては、肉食う頻度によるな
思想面が大きい
縄文時代は戦国時代級に背が高い 天皇即位の儀の一つ八十島祭が興味深い。
天皇の国土支配権の裏付けを企図する祭祀と書かれてある。なぜ大阪で行うのか? 不思議だ。 >>607
社会が安定して人が死ななくなって江戸時代初期に人口が増えまくったからね。
それに加えて宗教上の理由で食べるものが穀物に偏ってしまった。
まあ日本はかなりましな方だよ。
中国じゃ支配者が善政をやればやるほど人口がそれ以上に増えて一人一人は貧しくなる。 >>611
俺が子供の時はヤマタイ国と習ったのだが…
今は違うのかね 縄文人のほうが弥生人より背が高かったし
江戸時代は、全体として米とか穀物系に食生活が偏ってたのが原因なんじゃないかな >>599
聖徳太子自体は忌名の一種で終わってる
後、馬子が推して摂政となってる以上聖徳太子は政権のトップの一人
江戸城を建てたのは徳川家康じゃなくて大工さんレベルの言いがかりだわw >>608
それ当たりだと思う
呼廚泉 沙摩柯 卑弥呼 とか並べるとしっくり来すぎ >>625
今もヤマタイ国としか読まない。分からないことが多すぎるから仮の読み方を一つ決めて使うしかない。 >>613
幕府という名称ははもともと
中国で高位の将軍を任命するときに
赴任先の戦地では皇帝に復命せず独断で事務処理を決定してよいという意味で
将軍直属の官僚組織をつくらせたのが元になってる
だから頼朝は征夷大将軍に任命されるのを望んだわけだ
単に全国の支配権を持っていたからその統治組織を幕府と呼んでいいということはならないのだよ 皇宮があったところが時代の名前になるべき
室町から明治維新までは京都時代でいい >古墳→大和(やまと)→山城(やましろ)→北条→足利→織豊(しょくほう)→徳川」
よけいに解りずらいw 江戸時代ですでに寿命めっちゃ長かったからな(同時代の対世界比)
背は低くても不健康なわけじゃなかった(同時代の対世界比) >>608
古代中国は色々と気の利いた音訳当て字をもってして文書に残しているから、意味と音を様々に掛けた多元的な名称は、何ら不思議やない >>625
新井白石がそう発音するんだと主張して以来長く信じられてきているが、さあどうなんだろうかねえ >>618
たまらんw 縄の文様や土器や土偶や後のハニワに
一つ一つの言葉や文字や記録があてがわれていたら・・・なんて
想像するだけでもご飯三倍食えそう >>609
自説を発表するのは余計なことではない
世の中に必要なことだ
批判を恐れて口をつぐむようになったら日本は終わり >>628
一文字一文字の意味がなくて話し言葉で当てられるヒラガナカタカナってのは便利もんだなあ >>628
わらわは、卑しいとされる民の上に立つ女王として、
敢えて「卑」弥呼の字を充てようぞ ワ国ってよんで貰ってて、俺ら最近大きくなったんでダイワってこれからは呼んでね
だと思う
何が言いたいかって
日本→大日本帝国
1500年前も今もメンタル同じやね俺ら >>553
手紙は難しいですね。
公文書系が簡単かも。
その前に印刷本かな? >>593
ほんそれ
「時代区分を見直す中世史家 保立道久・東京大学名誉教授>>1」だそうだが
最も見直すべき問題ある時代区分と名付けは「弥生時代」なのは誰の目にも明らか
この東大名誉教授も「まず弥生時代を見直せ」ではなく「古墳→大和→(以下略)」
と弥生時代には言及せずに逃げるのなら最初から何も言うなよwって話だわな >>633
あと都市部は男余りで婿養子が多かったこともね
江戸の商家なんて女系家族で女の方から離縁させたりしてる
伊能忠敬も婿で息子に跡を継がせて隠居の旅に出た
田嶋先生的には納得行かないんだろうがw 江戸時代はいいとして、その前の戦国、安土桃山あたりが疲れて頭に入らなくなってくるんだよなあ
で、気分転換に近代でもをやるか…
というパターンだったなあ しかし、どうして北条氏は征夷大将軍の地位を欲しがらなかったのか >>642
外国の脅威に触れたときにそうなる
国際外交的に必要な対処だったんだろう
でなきゃ安易に踏みにじられると >>439
ひできちが天下とれへんかったら小早川は弟がついでたんやで >>646
文献学的な資料についての絶対差がある。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています