【奈良】邪馬台国の有力候補地「纒向遺跡」整備費 「クラウドファンディング」で資金募る★3
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大型建物跡が見つかった場所。案内板があるだけで、埋め戻されて草が生い茂っている(桜井市で)
http://www.yomiuri.co.jp/photo/20171130/20171130-OYTNI50070-L.jpg
大型建物跡が見つかった当時、並べられた柱列。計画では、木の柱を立ててイメージしやすくする(2009年11月)=桜井市教委提供
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◇900万円目標 62本の宮殿柱跡に丸太
邪馬台国の有力候補地として知られる桜井市の纒向遺跡の整備費を、市教育委員会は30日、インターネットで資金を募る「クラウドファンディング」で集めると発表した。「卑弥呼の宮殿」との説もある大型建物跡が確認されたが、現在は草原となっており、観光客から「どこが遺跡か分からない」などと指摘されていたという。市教委は12月中に建物跡に木の柱を並べる整備に着手する。(辰巳隆博)
2009年の市教委の調査で、少なくとも4棟の建物が一列に並んでいたことが分かり、これまでに62本の柱跡が確認された。大規模な宮殿跡の可能性もあるとして、全国的に注目を集め、今も訪れる歴史ファンや観光客が多い。しかし調査後は埋め戻されており、「遺跡を実感できるように整備して」と求める声が相次いでいるという。
そのため市教委は、建物跡が分かるように、来年2月末までに、柱跡に木の丸太を立てる整備事業を企画。桜井木材協同組合から木材を無償で提供してもらえることになり、約1200万円で整備できる見込みがついた。その4分の3にあたる900万円を目標に、12月1日から来年2月末まで資金を募る。
市教委総務課は「纒向遺跡は非常に広大で、市の予算では整備に限界がある。財政的にも余裕がなく、少しでも力を貸してほしい」と寄付を呼びかけている。
寄付は、ふるさと納税として受け付ける「ガバメントクラウドファンディング」の手法を活用。サイト「ふるさとチョイス」の専用ホームページ(https://www.furusato-tax.jp/gcf/)で、2000円から受け付ける。問い合わせは市教委総務課
<纒向遺跡> 桜井市北部の東西2キロ、南北1.5キロに広がる大規模集落跡。初期ヤマト王権発祥の地とされる。3世紀初めに突如出現し、当時最大の集落遺跡とされ、日本最初の「都市」との見方もある。九州や関東など広い地域の土器が出土しており、周辺には箸墓(はしはか)古墳など初期の古墳が築かれた。
読売新聞 2017年12月01日
http://www.yomiuri.co.jp/local/nara/news/20171130-OYTNT50284.html
前スレ:2017/12/01(金) 18:05:26.16
http://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1512223497/ >>77
西郷が長州と手を組んだのは菊池の血を引く後醍醐天皇の子孫に
戻したかったからと言われる
後醍醐天皇の子孫は毛利家が守り血を繋いでいた >>59
いや、九州邪馬台国説だと中国由来か縄文由来になるじゃん
畿内邪馬台国説が朝鮮由来になる 神武が旅立った日向は宮崎県じゃなくて福岡県の日向峠付近のことだな。 大和朝廷がすでに北九州を支配してたら
なんの矛盾もない
むしろ大和朝廷がすでに北九州を支配してないとおかしい
当時すでに大和朝廷は任那(半島)まで勢力を広げてるからな
半島で出土する弥生式土器や前方後円墳は
その証拠 歴史のこたわからんが、漢字勉強してる身から一言
『魏志倭人伝』や『後漢書倭伝』に「邪馬臺(台)國」の表記があるんだけど、「臺」は古代中国語音では「ト」の音
「臺」と「台」は古代中国語音では同じ「ト」であったため、後々代用されるようになる
他にも、「苔」などが万葉仮名で「ト」に用いられた
万葉仮名では、二音節の「タイ」(台・苔)や「トウ」(等)「トク」(得)などを一音節の「ト」で用いるのが慣用だそうだ
つまり、当時から「邪馬台」は「ヤマト」と読んでいた
どう考えても古代日本の中央集権都市は畿内にあったことを疑う余地はないよね 天照皇大神宮をみれば分かる通り
すでに西暦200年頃には
大和朝廷が北九州を勢力の版図入れてたのは明らかだからな 西都原古墳群、ロクに調査されてないからな。わざとかもしれんが。
いずれにしろ、邪馬台(ヤマト)国は九州以外ありえん。
東端にあり最期の強敵であった畿内の倭人を平定して倭国統一は成った。
尾張よりも東側は当時異民族の土地なので、当時の倭国としては無視していい。 >>94
その傍若無人なジェノサイダー景行ですら敬意を抱いて
手を出さなかった女神が、八女の山中にいた。 ヤマト王権誕生は701年です
先祖の神武は6世紀に大和地方に入植し
欠史八代を経て日本の政権を握ったのです。 考古学者の北條芳隆(ほうじょうよしたか)氏(現、東海大学教授)はのべる。
「いわゆる邪馬台国がらみでも、(旧石器捏造事件と)同じようなことが起こっている……
近畿地方では、古い時期の古墳の発掘も多いが、邪馬台国畿内説が調査の大前提になっているために、
遺物の解釈が非常に短絡的になってきている。考古学の学問性は今や、
がけっ縁(ぷち)まで追いつめられている。」
北條氏は、ここで、「邪馬台国畿内説が調査の大前提」とのべる。
それは、炭素14年代測定法や、年輪年代法などによる、本来、
自然科学的で、客観的なデータや結果でさえ、「邪馬台国畿内説」を前提とし、
その前提にとって、つごうのよい部分だけをひろいだす、あるいは、強調する、
ということになりがちとなっている。
事実をそのままの形で見ていない。そして、そのような「解釈」をマスコミに流し、
マスコミがとりあげれば、それで、証明ができたと思いこむ。
このような構造となっている。 >>62
学会なんて誰も相手にしてない
社民党みたいなもん まあ偽僭説もとるなら邪馬台国が九州にあった可能性を排除できないが
「あった」ということを証明する義務を負うのはそれを主張する側
「なかった」という証明なんかできないのだから
てかいい加減
「九州の何処が邪馬台国なのか?」
絞れよアホどもwww 天の岩戸伝説は卑弥呼(日御子)が亡くなるときに台与に権力を委譲したことを表している。
248年9月5日朝に皆既日食が起こった。
そしてその日食が見られたのは北九州だけ。
つまりその事実が判明した時点で邪馬台国はとっくに北九州と判明してるんだよ。
だから桜井市なんてどうでもいい。 「東征して故地九州からここに来ました」を正史にしている意味を軽視し過ぎ。それが間違い。 >>114
伊都国に卑弥呼の都が在り北部九州一円が邪馬台国ですよ。 祀りごと女王が統治した痕跡はあっても
政(まつりごと)で女王が統治した痕跡は
畿内からもでてくることはない
少なくとも九州からは
どっちもでてくることはない >>104
違う
宮崎の美々津港というのははっきりしている
岩と岩の間を通って言って二度と返ってこなかったから
美々津港の漁師さん達は今も岩の間を通らない >>59
それ歴史的思考じゃないでしょ
韓国人否定しといてやろうとしてることが韓国人と一緒とか一番あざといよね やめな。
邪馬台国は徳島で決まりだ。
天皇家だけが昔から存続してる家というわけではない。
当事者の子孫がいるし、場所や本当の歴史が分からないわけないから。 だいたい、ゴッドハンドを長年鵜呑みにしていたような学会の言うことなんて全く信用ならんわ。
古事記と日本書記の方がまだマシだ。w まず、『魏志』倭人伝に記されている事物で、
考古学的に検証できるものは圧倒的に北九州のほうが多く出土している。
福岡県と奈良県との出土品の数を比較すると、鉄の鏃(やじり)、
鉄の刀、剣、矛、絹、魏晋鏡、勾玉、いずれをとっても福岡県のほうが圧倒的に多い。
例えば、『魏志』倭人伝には、倭人は「鉄の鏃」を用いたと記しているが、
福岡県からは奈良県よりも、100倍近くもの「鉄の鏃」が出土している。
また『魏志』倭人伝は、倭人の墓制について「棺(かん)あって槨(かく)なし」
と記す。槨とは、棺の外箱のことであり、北九州の甕棺(かめかん)や箱式石棺は、
この「棺あって槨なし」に合致する。
しかし、例えば、奈良県のホケノ山古墳の場合、棺のほかに木槨があって、
『魏志』倭人伝の記述とは合致しない。 はるか東の海には ジパングと呼ばれる黄金の国があるという。 一億人もいるんだから一人ぐらい当時の事知ってる人いてるでしょ〜 邪馬台国九州説は破綻している
候補地すら定位されていないくらい曖昧、妄想
巻向、箸墓などの方がずっと説得力がある 大和朝廷が北九州を版図に治めてからも
大和朝廷と北九州の一部の豪族と争いもおきてる
北九州の豪族(チョンコもどきの土人)は新羅との関係が深かったからな
一方、大和朝廷は百済に支配地域を広げていた
で、南朝鮮の権益で北九州の豪族は大和朝廷の朝鮮出兵を時折邪魔したりして争いもあったりした
北九州の豪族が新羅から賄賂をもらってたというのもある >>118
ヨタはどうでも良いから九州説同士でコロシア・・・ゴホゴホ、意見の集約をして下さい
邪馬台国ブームから数えて一体何十年経ったと思ってるんですか?(棒 史書にはっきりと「邪馬台(ヤマト)国ですが、九州から来ました」って書いてあるだろ。
それで話は終わりだよ。バーカ。w 方位については、馬鹿学界なんて無関係なところで、魏志が正しいと論証されてるから、畿内はないわ
九州のどこか >>107
文字も無い畿内に古代日本の中央集権都市があったはずないよw >>112
ほー、勇気ある考古学者もいるんだなあ
その後悪の勢力どもに冷や飯食わされてないといいが 邪馬台国の位置は中国の歴史書にはっきり書かれている。
その場所は今では完全なる海。巨大な火山で沈んだ説が有力かと。
おそらくそこは伝説の竜宮城もあるかもしれん。 >>130
わかってないなあ。
サッカーの故郷イギリスでは、今も各地方ごとに代表チームが存在する。
九州もそういうことなのだ。うんうん。 半島では
日本の様式の弥生式土器の出土、日本独自の前方後円墳が次々発見されてるからな
いまどき任那府がないとかいってるのは
このスレにいる頭悪いのぐらいしかいない
北九州の豪族は新羅との関係が深かった
一方、大和朝廷は百済に支配地域を広げていた
で、南朝鮮の権益で北九州の豪族は大和朝廷の朝鮮出兵を時折邪魔したりして争いもあったりした
北九州の豪族が新羅から賄賂をもらってたというのもある
ちなみに大和朝廷による熊襲土人地域(狗奴国)の平定は
隼人の反乱まで終結してない
それまで大和朝廷は土人どもを
夷人雑類として扱っていた
わかった? 邪馬台国論争で何故か無視されること。
対馬から壱岐に向かう文において、方位は魏書は南で隋書は東である。
因みに現代の地図では対馬から見て壱岐は東南方向だ。
http://rinx2.c.blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_979/rinx2/map-412f1.JPG
また、隋書では竹斯國から秦王國(周防国)へ行く方位も東である。このように方位の記述はかなり主観的だ。
三国志魏書倭人条
http://web.archive.org/web/20160421073654/http://members3.jcom.home.ne.jp:80/sadabe/kanbun/wakoku-kanbun1-gisi.htm
(前略)到其北岸狗邪韓國、七千餘里。始度一海、千餘里至對馬國(中略)又南渡一海千餘里、名曰瀚海、至一大國(後略)
隋書倭国伝
http://web.archive.org/web/20160423052423/http://members3.jcom.home.ne.jp:80/sadabe/kanbun/wakoku-kanbun9-zuisho.htm
(前略)明年、上遣文林郎裴清使於倭國(中略)經都斯麻國、迥在大海中。又東至一支國、又至竹斯國、又東至秦王國(後略) 畿内説は相手にするだけ時間の無駄
煽りにすらならへんわ >>129
渡来人の支配
「百済本紀」
*397年夏5月・・・百済王は倭と友好を結び太子の典支(てんし)を人質に出す。
*402年5月・・・倭に使者を派遣し大きな珠を求めた。
*403年春2月・・・倭国から使者がやってきたので、王は超低姿勢で彼を迎え慰労し厚く遇した。
*405年・・・太子の典支(てんし)が倭国で父王の死の知らせを聞き、泣きじゃくって帰国を請う。
うるさいので兵士100人をつけて送り帰した。
*418年夏・・・倭国に白綿10反を貢いだ。 当時の倭国は九州中心で、東端は近畿。
日向の浜を出発した後、九州東岸を北上、
瀬戸内海を東に進軍して熊野灘から背後を突いて倭国統一。
そのまま居座って大和と書いてヤマト(邪馬台)と読ませる王権の大王になった。
この話はこれで終わり。解散。 九州説を更に腐らせてるのが
「東遷説」と「九州王朝説」
この2つが邪馬台国ブームが生み出した古代史の2大ガン細胞 候補地すらない
邪馬台国の定位すらできない九州説www
ただの妄想の域をでない。稚拙すぎる
纒向遺跡で決まりだろう 美濃でセックスしまくってた景行天皇が
貢ぎ物よこして恭順しない熊襲土人を
ぶち殺しにいってるからな
コレが事実 出土したものはそのまま保存のみをして
その上からARとかで表示とかでいいんじゃないかな 西南日本の習俗が畿内に持ち込まれているので間違いなく九州起源。 畿内説は魏志倭人伝の恣意的な誤訳によるもの
正しく読めば卑弥呼は伊都国に居て北部九州の邪馬台国を支配し
その勢力は朝鮮半島南岸の投馬国まで及んでいたことが分かる。 建武中元二年 ⇒ 西暦57年 ⇒ 垂仁天皇86年(皇紀717年)
景行天皇の先代の垂仁天皇が九州にいたとか
普通にアリエナイからな
景行天皇は美濃でセックスしまくってるのに
卑弥呼は垂仁天皇の時代のミコなのは明白 中国の史書の方位と距離はエー加減なので無視。
出てくる地名だけに注目しよう。間違いなく九州だな。 九州自体が
イニシエの時代から物騒な場所だからな
熊襲とか蝦夷は粗野で野蛮だからしょうがない >>119
確かにね。
伊勢遺跡何かは、政事の遺跡だな。
倭国大乱前の倭国が男王だった時代とも被る。
卑弥呼は鬼道にて衆を惑わすとあり、祭事。
纒向遺跡は、居館エリア以外は正に庶民の集落跡。 取り敢えず九州説は妄想や畿内説の批判否定するだけじゃなくて、
きちんと邪馬台国の候補地、定位を示してから主張すべし
否定と妄想だけで話にならんわ❗
子供の戯れ言じゃねーんだからよ❗
本当にくそすぎるわ 昔、デジタルデビル物語 女神転生ってアニメで、ナカジマとロキが奈良県桜井市で戦ってたから畿内だろ >>151
倭人伝では方位も距離も正確に記載されている
正しく読めば卑弥呼は伊都国に居て北部九州の邪馬台国を支配し
その勢力は朝鮮半島南岸の投馬国まで及んでいたことが分かる。 >>138
渡来人の支配
倭人が支配した新羅『新羅本紀』
紀元前50年 倭人達が兵を率いて辺境を侵
紀元前20年
瓠公という倭人、瓠を腰につって海を渡って来たために瓠公と称した。
諸王に仕えた重臣で。金氏王統の始祖となる金閼智を発見する。
新羅の3王統の始祖の全てに関わり新羅を建国した倭人である。
初代新羅王の赫居世居西干の朴姓も同じ瓠で同一人物。
後に倭人の四代目新羅王、脱解尼師今が新羅に着いた時に瓠公の家を継いだ。
この瓠公の屋敷が歴代新羅王の王城である月城。
新羅の王族3姓(朴・昔・金)のうちの昔氏始祖。
朴氏初代の朴赫居世朴氏=瓠公は倭人であり。
金氏始祖の金閼智(第13代味鄒尼師今の7世祖)説話では、
鶏の鳴き声を聞いたので瓠公が調べると、金色の小箱なかから小さな男の子が現れた。
金の小箱に入っていたので「金」を姓とした。
新羅の王族3姓(朴・昔・金)の起源は倭人であり倭人が支配した。 >>148
興味深い
九州から畿内に東征して支配したにしちゃ、地名くらいしか残ったもんが無いのが疑問だった
顔も縄文系の九州人と違って薄いブサイク朝鮮人顔だしさ >>149
>正しく読めば
九州説の常套句
曰く・・・
「正しく読めば」
「素直に読んだら」
一体九州説に行程記事の解釈が何パターンあるやらw 卑弥呼より前の時代に
任那へ倭人が侵攻してないとかいってるのは
はっきりいってこのスレにいる知恵遅れしかいない
朝鮮出兵するなら、確実に北九州を版図に治めてないと
説明がつかない
ちなみに半島では
日本の様式の弥生式土器の出土、日本独自の前方後円墳が次々発見されてる
そしてチョンコどもが発狂してる
大和朝廷が支配してた名残といっていい
コレを否定できるヤツはいないワケ 魏志倭人伝と古事記と日本書記を読めば、
邪馬台(ヤマト)国は九州起源で畿内を征服して倭国統一、
大和と読んでヤマト(邪馬台)と読ませる大和王権成立以外にあり得ない。
当時の畿内はその後1000年以上の間の関東と同じ立ち位置だな。 倭国大乱と書いてあるが、その後忽然と邪馬台国が消える
何があったか知りたいなあ
怡土国からは頭蓋骨に傷がある骨とかたくさん出てくる
しかも縄文人 東海 54,400 ← 大和朝廷の版図内(美濃でセックスしまってるのが証拠)
畿内 30,200 ← 大和朝廷の版図(そのまんま)
畿内周辺 70,300 ← 大和朝廷の版図(そのまんま)
山陰 17,700
山陽 48,900 ← 大和朝廷の版図(九州北部まで行軍してるから当然)
北九州 40,500 ← 大和朝廷の版図(九州北部まで行軍してるから当然)
南九州 64,600 ← 大和朝廷の版図外(班田収受で隼人の乱がおきて鎮圧するまで放置)
北九州だけの人口=チンカス 纒向遺跡
箸墓古墳
畿内説の方が優位だろ
九州説はどこの遺跡、古墳なのかきちんとまず主張しろ
僕の名推理じゃなくてよ ひょっとして、史実とは関係なく、政治的か経済的かの理由で奈良に邪馬台国を誘致する運動が暗黙裡かつ公然と行われいてる感じ?w >>111
それが史実と一番合うよね
歴史家ならそういう思考をするはずだけど、近畿の人の変なプライドが入って初めから強大な国家だとしようとしてるけど7世紀までは、大和の方が九州の分家で立場としてはまだ弱かったと思うよ
その証拠としては、年号を付ける権限は7世紀になってから大和政権が持つようになったからね >>159
九州説でも畿内説の誤訳に誘導されて変な解釈してたな
読めてしまったら何のことはない
卑弥呼は伊都国に居て北部九州の邪馬台国を支配し
その勢力は朝鮮半島南岸の投馬国まで及んでいたことが分かる。 >>156
方位の話で何故か無視されるもの>>139 >>162 渡来人の支配
【三国史記】脱解尼師今が立った、一説に吐解という。時に年六十二歳、姓は昔。
妃は阿孝夫人。脱解は、本来は多婆那国で生まれた。
その国は倭国の東北一千里に在る。初め、その国王は女国の王女を
娶って妻とした。
懐妊から七年、大きな卵を産んだ。王が言うには「人にして卵を生む
のは不祥である。適当に廃棄せよ」。その王女は忍び難く、絹布に卵を
包み、宝物と一緒に棺(ひつぎ)の中に安置し、海に浮べ、その行く
先を(潮流に)任せた。
【解説】多婆那国ですが、実在する国と考えた場合、倭国の東北一千里ですから、
日本列島以外に想定できません。具体的には、丹波国が有力です。
8世紀に丹波国は丹波と丹後に分割されます。
卵や棺(ひつぎ)は当然、「船」を意味します。卵生・箱舟神話です。
三国遺事には「船」と明記されています
以上のように、新羅の第四代王の昔脱解は、倭国の丹波(現在の丹後半島)から出航し、
対馬島を経由し、金官国への侵入に失敗した後、慶州に至り、倭人大臣から城を奪い、
ここで新羅王に成った日本人でした。
新羅は日本に人質を送っていただけで無く王自体が日本人 オレの頭皮もクラウドファンヂングで整備したいわ・・・ 夷人雑類(熊襲土人等)の野蛮な地域
朝廷の支配が及ぶようになったのは
班田収受法にさからって隼人の乱がおきてから
隼人の乱がおきる前ははっきりいって
朝廷の支配が及ばなかった地域といっていい
隼人の乱を鎮圧されて、しばらくたって公民と認められてから
班田収受法が適用されるようになった
で、当の班田収受法自体は制度がひどすぎて
すぐに制度崩壊がおきる >>156
伝聞だし、元になった資料の正確性も判らんだろ。
陳寿が実際に検証したわけでもない。 纏向は明確に4世紀の遺跡であり初期ヤマトの中心地です
これを邪馬台国と言い張ってる奴らは研究費目当てに
確信犯的に嘘を言っています 大倭(和)政権は九州邪馬台(ヤマト)国による統一政権。
東征ルートその他詳細に記載されており、
これにケチをつけてうにゃうにゃやるのは時間の無駄。 北九州は卑弥呼がマツリゴトする倭国の従属国であった
可能性が高い >>175
畿内説だと倭人伝を無視しないと成り立たないからね
張政とか倭に来て直に卑弥呼に合った人の報告が基になってるから
大きな間違いはないよ。 >>169
>近畿の人の変なプライド
反日朝鮮人のプライドだろ
彼らにとって邪馬台国=大和朝廷でなければならない
大和朝廷が朝貢していた事にしたいからね 平成で解明できなかったが
次の元号内で解明されるのだろうか 凡邊遠國。有夷人雑類謂。夷者夷狄也。雑類者夷之種類也。釋云。夷。東夷也。挙東而示餘。推可知雑類。謂夷人之雑類耳。
古記云。夷人雑類謂毛人。肥人。阿麻彌人等類。問。夷人雑類一歟二歟。仮令。隼人。毛人。本土謂之夷人也。此等雑居華夏。謂之雑類也。
一云。一種無別。 之所。應輸調役者。随時斟量。不必同之華夏。謂。中國也。
日本には畿内以外の野蛮な地域が一杯あったからな 東征した理由は、おそらく大陸半島側から距離のある瀬戸内海最奥の地が良かったからだろう。
九州統一が済んでいたこともあり、残りの倭(和)人エリア統一もついでに、ということだろう。
元寇の時にも、山陽道には対大陸用の砦がいくつも造られている。
大陸からの侵攻に備える&倭国統一。それで東進遷都。この話はこれで全て終わったな。 >>1
たった900万ぽっち!
国会議員1人が文通費という毎月100万円も報告や領収書やが不要な金がもらえるのに!!! 邪馬台国がどこか、卑弥呼が誰かなんて探しても意味ないんだよ。
明の時代に、日本の戦国時代の話を伝聞で書いた中国の歴史書ですらも、
全然性格じゃない。
まあ、三世紀末に奈良に日本最大の豪族連合勢力があった、それだけでいいんだよ。 >>176
纒向遺跡は2世紀末に突然現れ4世紀に突然消失する遺跡です。
嘘はダメだな。 卑弥呼の墓のサイズ、規模くらいは分かっているだろ
死ぬまで女王だったので、墓のある場所が邪馬台国なわけだ
それくらい分かるだろ
九州説はどこの古墳が卑弥呼の墓と説明しているのだ? 宮崎平野である可能性は70%。その他の九州のどこかである可能性30%。
ちなみに近畿である可能性は0%。 >>186
東征の理由は津波
神武東征の年代と津波がきた時期が合致する
またそろそろ津波がくる予感 >>177
三重県安濃町の大城遺跡(2世紀)から出土した高坏の欠片に刻まれていた「与」
http://www2s.biglobe.ne.jp/~koua/tamio/gif/mozi_daisiro.gif >>191
そんな大昔の説は迷惑だな
伊都国が卑弥呼の都で解明されたんだよ
宮崎辺りは狗奴国。 卑弥呼の墓はですね、九州のどこかにあります。
それをこれから調べましょうという話だ。学会のバカ以外で。 >>183
畿内は倭人の集積地です。
倭人は渡来人だが、中国南部からでしょうね。 >>194
宮崎平野である可能性は0%
近畿である可能性も0% ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています