【東京】纒向遺跡は邪馬台国か、箸墓は卑弥呼の墓か議論 東京で纒向フォーラム★5
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
卑弥呼の墓説がある箸墓古墳について議論するパネリスト(東京都千代田区で)
https://www.yomiuri.co.jp/photo/20181014/20181014-OYTNI50010-L.jpg
◇纒向フォーラム
東京・よみうりホールで14日に開かれた邪馬台国の有力候補地、桜井市の纒向(まきむく)遺跡を巡る7回目のフォーラムでは、卑弥呼の墓との説がある同市の箸墓古墳がテーマとなった。調査成果や全国の事例、中国の文献も参考に専門家4人が議論し、考古学ファンら約850人が熱心に耳を傾けた。(辰巳隆博、大森篤志)
市纒向学研究センターの福辻淳・主任研究員は、箸墓古墳の調査について説明。レーザーを使った詳細な測量で、地表の高低差や形状を立体化できたことなどを紹介した。
俳優の苅谷俊介・京都橘大客員教授(考古学)は、纒向遺跡の大型建物跡の南に箸墓古墳が位置することに着目し、「都城の南に祭礼施設を造るという中国の思想が取り入れられており、大型建物跡と箸墓古墳は密接なつながりがあった」との見解を示した。
また、松木武彦・国立歴史民俗博物館教授(考古学)は前方後円墳の成立過程について解説した。2世紀中頃から、全国で墳丘に突出した部分が設けられ、被葬者も集団から個人になり、形も統一されるとし、箸墓古墳について、「倭国(わこく)初の国家的モニュメント。親魏倭王の墓にふさわしい」と述べた。
渡辺義浩・早稲田大教授(中国古代思想史)は、魏の文帝が「寿陵(じゅりょう)(生前に造る墓)は自然の山を利用し、樹を植えてはならない」などと定めたことを紹介し、「魏の使者は、卑弥呼の墓を見て中国の墓制にのっとった墓だと思っただろう」などと話した。
その後、センターの寺沢薫所長の司会で4人が討論。箸墓古墳が卑弥呼の墓だとする見方に対し、寺沢所長は、桜井市のホケノ山古墳など箸墓以前に築造された古墳のいずれかだと主張した。
テーマとなった中国の歴史書「魏志倭人伝」の記述、「卑弥呼、以(すで)に死し、大いに冢(ちょう)を作る」なら死んだ後に墓を造ったという意味になり、渡辺教授は「死んだために墓を造ったという意味の『死するを以もって』と読むべきだ」と指摘した。
大学で古代史を専攻したというさいたま市南区の会社員長谷川菜摘さん(29)は「纒向遺跡や箸墓古墳に吉備(現・岡山県)などの影響があったのが興味深かった。遺跡を探訪したくなった」と笑顔。東京都江東区の会社員大迫文次郎さん(53)は「邪馬台国の所在地に関心が集まりがちだが、中国の思想や墓制との関わりを知ることができて勉強になった」と満足そうだった。
読売新聞 2018年10月15日
https://www.yomiuri.co.jp/local/nara/news/20181014-OYTNT50054.html
読売新聞 2018年10月15日
https://www.yomiuri.co.jp/osaka/news/20181015-OYO1T50005.html
★1:2018/10/15(月) 18:49:51.46
http://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1539796902/ 不思議なのは奈良を治めていた出雲の大国主が
何故に東征してきた神武に国を譲ったか
大国主は島根に追いやられ剣を埋蔵した >>547
夜麻碁母禮流 夜麻登志宇流波斯
山木燃える 山閉じ揺るわし
本当は恐ろしい歌なのでは 景行天皇の九州の話は
九州の豪族の話を機内の豪族の
話と混ぜたんだろうね。 自郡至女王國萬二千餘里
↓
12000里=840キロ
九州超えちゃったぞ で、倭国大乱は
オオタタネコがオオモノヌシを祀る部分
ヤマトヒメがアマテラスを祀る部分
と深く関係してる >>448
欠史八代というが6代目の孝安天皇までは奥さん一人なんだよね
7代目の孝霊天皇から皇后の他に妃を娶るようになる
10代目の崇神天皇から四道将軍を派遣して手広くやるようになるけど
実際は孝霊天皇の頃から大王として扱われるようになったんじゃないかな
記紀では伝わるエピソードを神武天皇と崇神天皇にギュッと集中的に割り振ったと思う 出雲大社の式年遷宮の時にHPに皇室に国をお譲りしました
これからも皇室の為に一生懸命頑張っていく所存でございます
と、書かれていた
奈良を治めていたのは大国主、これだけははっきりしている >>534
伊都国は糸島ではない。
方角が違う。
「方角は無視して良い」という乱暴な解釈のし方は畿内説によくある妄言。
唐津市から南東に国道やJRが走っていて、
それに沿って(短里で)500里行けばちょうど佐賀平野の西端部に出る。
そこが伊都国。
佐賀平野全体が奴国。 >>557
近畿説では方角の間違いか、
防衛上に作為的とか、言っている
これをとると地図で円線書く、全て候補地になる。後は消去法。距離から、日数にかわているから実際には、行っていないと言う意見もある。正式な使者を都に入れないて事あるうるか?それとも、期限切れで魏に帰えたか?といろいろある。 廿五年春二月丁巳朔甲子 詔阿倍臣遠祖武渟川別 和珥臣遠祖彦國 中臣連遠祖大鹿嶋
物部連遠祖十千根 大伴連遠祖武日 五大夫曰 我先皇御間城入彦五十瓊殖天皇 惟叡
作聖 欽明聰達 深執謙損 志懷沖退 綢繆機衡 禮祭~祇 剋己勤躬 日愼一日 是以
人民富足 天下太平也 今當朕世 祭祀~祇 豈得有怠乎 ○三月丁亥朔丙申 離天照大
~於豐耜入姫命 託于倭姫命 爰倭姫命求鎭坐大~之處 而詣莵田筱幡 【筱此云佐佐】
更還之入近江國 東廻美濃到伊勢國 時天照大~誨倭姫命曰 是~風伊勢國 則常世之浪
重浪歸國也 傍國可怜國也 欲居是國 故隨大~ヘ 其祠立於伊勢國 因興齋宮于五十鈴
川上 是謂磯宮 則天照大~始自天降之處也 【一云 天皇以倭姫命爲御杖 貢奉於天照
大~ 是以倭姫命以天照大~ 鎭坐於磯城嚴橿之本而祠之 然後隨~誨 取丁巳年 冬十
月甲子 遷于伊勢國渡遇宮 是時倭大~ 著穗積臣遠祖大水口宿禰 而誨之曰 太初之時
期曰 天照大~悉治天原 皇御孫尊 専治葦原中國之八十魂~ 我親治大地官者 言已訖
焉 然先皇御間城天皇 雖祭祀~祇 微細未探其源根 以粗留於枝葉 故其天皇短命也
是以 今汝御孫尊 悔先皇之不及而愼祭 則汝尊壽命延長 復天下太平矣 時天皇聞是言
則仰中臣連祖探湯主而卜之 誰人以令祭大倭大~ 即渟名城稚姫命食卜焉 因以命渟名
城稚姫命 定~地於穴礒邑 祠於大市長岡岬 然是渟名城稚姫命 既身體悉痩弱以不能祭
是以命大倭直祖長尾市宿禰 令祭矣】
倭姫命 = ヤマト ヒメノミコト(ヤマトコクの女王と使節が勘違い)
ヒメノミコト ⇒ ヒミコ
コレ以外ない たな大型の鉄器工房跡 国内最大級か
毎日新聞2017年1月25日 17時03分(最終更新 1月25日 20時46分)
https://mainichi.jp/articles/20170126/k00/00e/040/001000c
弥生時代後期 鉄製品57点と工房含む竪穴建物跡4棟発見
兵庫県淡路市教委は25日、弥生時代後期の舟木遺跡(同市舟木)から大型の鉄器工房
跡を確認したと発表した。遺跡中心部の状況を把握するため狭い範囲で溝(トレンチ)を
掘って調査した結果、鉄製品57点と工房を含む竪穴建物跡4棟が見つかった。同遺跡全
体の鉄器工房の規模が、南西約6キロにある国内最大級の鉄器生産集落で国史跡の五斗長
垣内(ごっさかいと)遺跡(同市黒谷)をしのぐ可能性があるとしている。
舟木遺跡は約40ヘクタールの大規模な山間地集落遺跡。これまでに約5700平方メー
トルを調査し、弥生時代後期の竪穴建物跡10棟や土器、中国鏡の破片が出土しているが、
鉄器工房は確認されていなかった。
2016年度は遺跡中心部の尾根沿いに7本の溝、計128平方メートルを掘り、弥生
時代後期後半(2世紀後半)の竪穴建物跡4棟を確認した。3棟は直径10メートル前後
の大規模な円形で、うち1棟から床が赤く焼けた炉跡4カ所が見つかった。もう1棟は四
隅が丸い隅丸方形建物だった。
ココが国産みの最初の場所だからな
九州土人みたいな夷人雑類と一切関係ない 大和朝廷の版図は奈良県だけじゃないからな
九州みたいなザコな版図とはスケールが違うワケ 3時間も経たずに42レスとかw
近畿論者らキチガイかよw >>564
最初とはない最大である。
技術移転とか、鉱石の発見とかあるだろう? 美濃でセックスしまくってた次代の景行天皇が
北九州スルーで熊襲征伐にもいってる
夷人雑類の熊襲が大和朝廷にさからってるのに
九州説とかわらっちゃうワケ
しかも仲哀天皇の天照皇大神宮は
景行天皇よりずっとあとだからな
大和朝廷が熊襲土人をしばききれてないのに
熊襲土人がヤマトの首領とかないからな
ヒミコが熊襲土人の酋長なワケがない >>566
こいつは毎度毎度同じコピペだから労力は要らない
あぼん一つで見苦しくないスレになるw これは、どんなものが発見されれば決着がつくのかねw >>570
出土品、魏志倭人伝や記紀以外の文献(当時の)、海外の文献(当時の)とのつき合わせかな? >>561
魏志では対馬から壱岐までを南と書き、隋書ではそこを東と書いている
報告者や編者によって捉えかたが違うかもしれんし、政治的な意図も介在するかもしれん
方角だけ合って他全てが間違ってたら意味がない
道程ではザックリと当たりをつけてあとは遺跡や史書、伝承などで確認していく
これでいいんじゃないか >>568
もうバレちゃってるんだよ
194名無しさん@1周年2018/10/18(木) 10:55:07.16ID:om8BXnIc0
>>184
まぁ東北はともかく
南九州は天照大神の直孫である瓊瓊杵尊神が神界から地上世界に降臨してきたり
南九州の木花開耶姫と結婚して地上の女と子供を作って子孫を残したりと思うと
意味ありげな山幸神話をこしらえたり隼人と天皇は同一血脈だとしたり
日本最強の熊曾がいたり神武天皇が生誕したりと複雑な屈折した感情が読み取れるよ
でコレだろ
242名無しさん@1周年2018/10/19(金) 21:19:07.27ID:5TO/KXXTO>>244>>245
倭地は温暖にして、冬夏生菜を食す。
皆、徒跣。屋室有り。
父母、兄弟は異所に臥息す。
朱丹を以ってその身体に塗る。
中国の紛を用いるが如し。
男子は大小無く、皆、黥面文身す。
古より以来、その使中国に詣(いた)るや、皆、自ら大夫と称す。
夏后少康の子は会稽に封ぜられ、断髪文身して、以って蛟龍の害を避く。
今、倭の水人は沈没して魚、蛤を捕るを好み
文身は、亦、以って大魚、水禽を厭(はら)う。
後、稍に以って飾と為る。諸国の文身は各に異なり
或いは左し、或いは右し、或いは大に、或いは小に。尊卑差有り。
その道里を計るに、まさに会稽東冶(”現中国の浙江省”) の東に在るべし。
女王国より以北は、特に一大率を置き検察し、諸国はこれを畏憚す。
常に伊都国に治す。国中に於ける刺史の如く有り。
王が使を遣わし、京都、帯方郡、諸韓国に詣らす、及び郡が
倭国に使するに、皆、津に臨みて捜露す。
文書、賜遺の物を伝送し女王に詣らすに、差錯するを得ず。
「魏書」第30巻『 魏志倭人伝 』 普平陽侯相 陳寿撰
神々からの日本最古の捏造教科書とされる古事記や日本書紀には記述されてないが
致密かつ高度な中華文明を生み出した古代中華帝国漢人官僚には正確に記述されてた
神々しい伝説の邪馬台国や女王卑弥呼、倭人達の倭国群は日本の何処にあったんだろう? 神武東征の時に奈良の住民は石鏃の矢と銅剣で鉄鏃の矢と鉄剣を持っていた
九州勢力と戦いを始めたんだが、あまりに威力が違いすぎるからまともに
戦いもせずに奈良を脱出して出雲に逃げた。それを追いかけた武甕槌が
大国主命を追い詰め国譲りを迫って了解させた。その代わり自分が死ねば
大きな社殿を作って弔ってくれと言い大国主命は自殺した。 鹿島神宮HP御由緒からの抜粋
鹿島神宮御創建の歴史は初代神武天皇の御代にさかのぼります。
神武天皇はその御東征の半ばにおいて思わぬ窮地に陥られましたが、
武甕槌大神の「韴霊剣」の神威により救われました。
この神恩に感謝された天皇は御即位の年、皇紀元年に大神をこの地に
勅祭されたと伝えられています。
橿原神宮のHPに記載されている御由緒の抜粋
天照大神の血を引く神倭伊波禮毘古命(後の神武天皇)が、
豊かで平和な国づくりをめざして、九州高千穂の宮から東に向かい、
想像を絶する苦難を乗り越え、畝傍山うねびやまの東南の麓に橿原宮を
創建されました >>570
公孫氏と邪馬台国が交流していた資料とか
親魏倭王金印紫綬は壱与が返却した可能性はあるが
洛陽の何処かにあるかもしれない
あとは卑弥呼と壱与の名が刻まれた遺物 和邇→ワニ
宇佐→うさぎ→宇佐神宮
うさぎも宇佐神宮も予言担当
大国主は誰? 記紀では猿田彦大神は天照大神を天界から地上に連れてくる道案内をした事に
なっているが俺は?と疑問を持っている。猿田彦が道案内をしたのは
天照大神では無くて神武天皇を熊野から奈良まで道案内をしたと思う
記紀では道案内をしたのは八咫烏になっているがカラスが道案内をする訳無いから
猿のような毛深い顔の熊野の縄文人が奈良に住んでいた半島系の弥生人から
虐げられていたから仕返しの為に神武東征に協力したと理解している。 普通の葬式をあんなに細かく書いてるのは
実際にその場にいたからだろう
もっと盛大なはずの卑弥呼の葬儀には
そんな記述がないとすると、張政らは立ち会ってないのかな
すると殉葬や大きさも伝聞か 邪馬台国関連のスレは定期的にたつけど
いつも感心するのは、毎度毎度お互いの妄想を垂れ流して勝利宣言繰り返すばかりで
どいつもこいつも全く学習もせず進歩も無いってことだ
学ぶ気は全く無いのに、自論を語ることだけはびっくりするくらい熱心って不思議な人たちですねえ
その情熱を少しは学ぶことに向けられないものか
知識が増せば、おまえらの大好きな論破(笑)も容易になるだろうに >>579
伝聞だよ。卑弥呼死後、乱れ、13歳の王女で治る。 というか、びっくりするくらい無知で基礎的な勉強もしてないのに
なぜかみんな自分の意見が絶対に正しいと疑いもしないのが凄い、凄すぎる
俺もそんな自分に対する強い自信を持った人間になりたい 古代出雲人の人骨をDNA解析し、そのルーツを探るプロジェクトが進行中です。
現在クラウドファンディングにて支援金を募っています。
興味のある方は是非ご支援頂きたく存じます。
日本人はどこからきたのか?
出雲の猪目洞窟遺跡の人骨から、その謎に迫る。
https://readyfor.jp/projects/izumo17990 >>580
妄想や嘘を撒き散らしているのは畿内説カルトだけだよ。
九州説は文献、考古学資料に基づいて淡々と語る王者の学説。 三角縁神獣鏡がインチキだとバレたので
今度は桃のタネ
ファーーーーーーッ!www 三角縁神獣鏡は製造年表記のミスが致命的だよね
現代でいうところの昭和65年製コイン(笑)
古代人のゴッドハンドスマッシュかな? 国立歴史民俗博物館FAQ
Q3.邪馬台国はどこにあったのですか?
Answer 大多数の考古学者は大和説です
http://www.rekihaku.ac.jp/contact/faq01.html#c
専門家の間では邪馬台国論争なんかとっくに終わってます 専門家の間で論争が決着したので、一般国民に周知させる段階に移ってます
日本史の教科書の記述もかつては中立だったが、現在では畿内説寄りに変わってる
・考古学的な成果を踏まえて、畿内説が有力になりつつあることを示唆する記述が増えている
・纒向遺跡の建物群跡が「魏志倭人伝」の記述と似通っていることに言及する教科書が多い
https://premium.toyokeizai.net/articles/-/17987 邪馬台国の所在地について各教科書の記述
山川出版社『詳説日本史B』2016年
「奈良県の纒向遺跡では、2009(平成21)年に3世紀前半頃の整然と配置された大型建物跡が発見され、
邪馬台国との関係で注目されている」
東京書籍『新選日本史B』2018年
「最近では、大型建物跡や大溝が見つかった奈良県桜井市の纒向遺跡の発掘結果や、漢の鏡の出土分布などから、
大和盆地南東部がその候補地として有力になりつつある」
清水書院『高等学校日本史B』2017年
「初期の前方後円墳の一つである箸墓古墳の築造時期の見直しや、奈良県の纒向遺跡で
魏志倭人伝にいう「宮室」にあたるとも考えられる遺構が出土するなど、この問題に関する新たな発見が続いている」 近畿は邪馬台の習慣に習えば、大倭を置いて地方管理させてた感じだろ。
王都ではなく地方の生産ファームだよ。
それ故に物資輸送の容器になる土器が大量に出るんだろ。 >>591
ゴッドハンドの発掘成果に対しても
捏造発覚するまで、大多数の考古学者は全面的に支持してたよなw
考古学者の多数決なんてそんなもんですわ >>588
学会とか、ドンが居たりすると、誰も逆らえなくなる。
逆らうと干される。
大概、学会がやっているのは科学ではない。政治である。 九州説は本当に考古学にでも携わったほうがいい
そして発掘成果や論文などを世に発表しないと
ネットでいくら素人相手に論破しても考古学での畿内説優勢の現実は全く変わらない
遊んでるだけだからってのなら別にいいけど 近畿論者「学者の大多数が大和説です」
・・・哀れw 九州説なんて遺跡もなく、物証の裏付けもなく、学者の支持もなく、
ド素人が物証に矛盾した文献珍解釈してるだけの俗説に過ぎない
もうヤケクソで学者はゴッドハンドだの、学問ではなく政治やってるだの
必死に陰謀論唱えるしかないわな >>592
大倭は歴代の日本の王権と同じように
各小国、主に山陰方面での密輸や密入国の監視だろ。
九州だけなら伊都の一大率で済む。 それとも、日本でしか出土しない
三角縁神獣鏡すか? 邪馬台国が九州にあったとしたら跡形もなく滅びたんだね。その後発展もせず。
畿内だとスッキリその後につながって解決
ところで放射式読み方が九州説だっけ? 邪馬台国と大和国、同時にあってもよし。九州説も、畿内説もよし。
真実は、ほど遠そうだな。 >>602
災害・戦争が多い九州だから遷都して、大和になったかもしれません? 考古学ってなにを担保に比定してんだろな
記紀にそう書かれてるから科学的に出た結果と合わせたら
この桃の種は卑弥呼が食べたに「違いない」
これだけ大量に出たんだから多くの人間が居たのは「確実」
記紀が正しいって担保はなんなんだろ?天皇や聖徳太子が
嘘書かせるわけがないってことなんかな >>602
半島に渡って百済になったって九州説の人が言ってたよ
福岡県に100万人いたことになるから、すぐには滅びないさ >>605
そこなんだ。辻褄合わせだし。
記紀の原文や最古の文献がいつの時代もの? >>604
遷都だとしたら当時の九州は大和の出先機関もしくは広域連合の一つ
遷都先の方に同時代の遺跡が多いのは不自然 >>600
スペクトル分析の結果、三角縁神獣鏡に用いられている銅は
中国で作られた銅のものと一致している。
この事実を考慮すれば三角縁神獣鏡は中国製の可能性が高い
日本でしか発掘されていないのは、日本に下賜するために作らせたオーダー品だったか
鏡を祭儀として重視するのは日本特有のものだというから、中国ではそれほど大切にされなかったので
中国のものは千数百年の間に失われたか
そんなことも考えられるよ >>572
これは一言で言うとルートが違う。
魏志では、帯方郡(ソウル)→狗邪韓国(釜山)→
→対馬国(対馬)→一大国(壱岐)→末盧国(唐津)。
隋書では、百済(ソウル)→竹島(珍島?)→耽羅国(済州島)をスルー→
→都斯麻国(対馬)→一支国(壱岐)→竹斯国(九州)。
つまり、魏志では「釜山→対馬」で、まさしく南へ向かうルート。
隋書では「済州島付近→対馬」で、まさしく東へ向かうルートになる。
「対馬→壱岐」も、島自体は魏志と同じだが、
対馬の北側を回って壱岐に向かえば南に向かう事になるし、
南側を回って壱岐に向かえば東に向かう事になる。 >>553
ヤマタノオロチは当時の出雲の人たちが恐れるものを投影したものと考えられる
つまり一つの対象ではなく、侵略者だけではなく自然現象とか災害とかも含め
複数の恐怖するべき対象がヤマタノオロチという怪物として形づくられたものだ
オロチの目が赤いのは血走った敵兵の目を連想するし
クシナダ姫は稲を意味する名前なのだから、それを食らうのだから
洪水も連想できる
体が血にただれたって記述も、赤い炎を連想出来るから
稲穂や村村を焼き尽くす炎を意味するのかも知れない
そういう感じで、複数の古代人たちが恐れる対象が一つの怪物の姿に投影したものが
ヤマタノオロチだと考えた方がよいと思うが >>609
iPhoneの中身ほとんど日本製
それを中国で組み立てて製品化
このiPhoneは日本製っすか? >>608
全然、不思議でもない?邪馬台国は広域のひとつ、統一過程で、そこに集約、外交における正統性で大和、新しい都だから規模も大きくなり、数も増える。古墳の数も近畿が多いからね。 >>613
だから空想歴史小説。まともな歴史書とはいえないのでないか? >>614
三角縁神獣鏡は中国の銅山から採掘された銅と比較した場合
そこに含まれる微量の不純物が一致している
原材料から製造まで中国で行われた可能性が高い
加えて神獣鏡は後漢時代に登場した
二世紀前半から三世紀の三国西晋時代に流行した鏡だ
細かいデザインは多岐にわたるるが、神獣や瑞獣を配したデザインは中国で作られていたことが確認されている
そして上記の通り卑弥呼の時代とも中国で作られた時期は一致しているが 専門外の自分にはこれが答え
九州は物証なし、関連遺跡なし、裏付けなし、
こじつけの珍解釈するし
あと九州説の人はすぐファビョるし >>617
神話や伝承については、仮説以上のものは出しようがないが
ヤマタノオロチの神話についても、それこそ記述を事実とすれば
本当にヤマタノオロチのような怪物が生贄を求めて来たとしか読みようがないし >>618
中国人が読めない漢文が書いてある
三角縁神獣鏡w >>618
過去スレでさんざん論破されてたのに
よく恥ずかしげもなくそんなアホなこと言えるな
三角縁神獣鏡は3世紀末から4世紀以降中国北部流入した銅を用いて作られたが
その時すでに魏はないので中国で作られたという可能性はなくなった >>618
そうなんですか〜勉強になりますわ
一晩で2度も同じ論争するとは思わんかったw
今度その銘文について議論しましょう
あれが中国製だとしたら中国には詩の分かる奴は
居なかったってことなんやろね 当時の日本は中国産銅を輸入していたから
銅器の原材料が全部中国産となるのは
当然のことなんですね。 >>624
桃種出てこない魏志なんか興味ねぇっす(キリッ >>620
そう仮説しかない。実際は災害、移民、強盗団、山賊、海賊とだろうな。陛下自身も年代と合うのは継体天皇位からとおうせられていた。 今のところ、年号が書かれた鏡は
全部4世紀中期から後期の遺跡から
出てきています。
年号がある時点で4世紀中期以降のものと
考えて良いでしょう。 >>624
> 畿内説は魏志倭人伝を無視している。
邪馬台国と覇権を争っていた
狗奴(くな)国の男王が崇神天皇。
「狗奴国」(熊本説などが有力)
この狗奴国の男王を
『魏志倭人伝』では【卑彌弓呼(ひみここ)】と記している。
卑弥弓呼
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%91%E5%BC%A5%E5%BC%93%E5%91%BC
卑彌弓呼(ひみここ、生没年不詳)は、
『魏志倭人伝』に記録される狗奴国の男王
3世紀の倭国(現在の日本)の人物である
崇神天皇陵(行燈山古墳) 【天理市】←※【重要(狗奴国の国王の墓が奈良の天理に実在)】
古墳は全長約242m
築造された年代は4世紀後半(古墳時代前期後半) 畿内説の最大の弱点は、三世紀前半には九州のような
邪馬台国に相当する大規模集落の痕跡が無かったことだが
纒向遺跡の発見で、この弱点が完全に補われた
卑弥呼の墓に相当すると思われる大規模古墳は畿内には数多くあるが
九州にはそれが存在しない
卑弥呼が魏から下賜されたと思われる鏡も、畿内を中心に多く発見されている
こんな感じで考古学的な証拠が全て揃っているのは、もう畿内しか存在しない
それこそ卑弥呼が受け取った金印を発掘するとか
それくらいの決定的な根拠がない限りは、もうあり得ないだろう
もっともその金印は、卑弥呼の後継者のトヨも中国に使者を送っている
その年は魏から晋に王朝が変わっていたからな。
魏の金印は晋によって回収を命じられた可能性もあり
だとしたら溶かされて新しい金印が作られているはずだがな 先ず畿内説を成立させる為には、
圧倒的に中国地方、及び北部九州の発掘成果が足らない。
AC57年に那珂郡が倭国の端だったのが、
238年にどうやって奈良までその範囲が拡大して行ったのかを示さなければいけない。
マキムクの発掘だけいくらやっても意味が無いのである。
現状、マキムクでいくら発掘を行っても、
魏志倭人伝の記述を裏付ける成果は一切出てきていないのに、
邪馬台国が奈良にあったとか言っているアホが畿内説を主張しているとしか言いようが無いのが、
今の日本の考古学の現状だよ。 福岡県の遺跡数は奈良県の6倍
銅器で10倍、鉄器で20倍以上です。 >>534
丗有王 皆統屬女王國 (魏志)
魏の世に王が居た、倭の国々は皆女王国に統属されていた。
其国王皆属女王也(魏略)
倭の国の王は皆女王に属する也。
どちらも女王卑弥呼が倭を支配していたと書いてる。 33年前には吉野ヶ里遺跡も発見されておらず、
「九州には大規模な弥生遺跡は無い」というのが考古学会の定説だった。
たった一つの発見で定説が覆るというのが考古学の常。 カラ出張のアリバイ作りにでたらめ書いただけなのに・・・・ >>622
何の根拠もない事を言ってくれてもね
私の主張も完全ではないことは認めるが
あなたのように断言できるほどの根拠も発見されていないだろ
もし発見されているなら、いまだに論争が続いてはいないわ >>561
末盧国への上陸地点が呼子港か名護屋浦なんだよ
そこから南東へ500里(40km)で伊都国なんだ。 学者も畿内説から撤退して纒向学に変わり、
ごく一部の畿内説の消滅を
変化を受け入れられない人達が
こういうところで暴れてるだけだよ。
IDを見ればわかるけど
畿内説の人は限られてるでしょ。 >>637
佐賀ルートですね。
私もこちらを推します。
糸島出身ですがね。 >>636
他にもあるが、有名どころで
ttp://yamatai.cside.com/tousennsetu/innritu.htm
感想ヨロ >>636
三角縁神獣鏡が用いた銅の鉱山は最近の分析を待つまでもなく昔から特定されてる
しかし3世紀そこは呉の領内だった
つまり魏にその銅が出回ることは無かった
呉の銅が中国北部に出回り始めたのは呉が滅亡した3世紀末以降
三角縁神獣鏡が魏の鏡を偽装していたことで矛盾が生じたことや
年代と銘文がでたらめだったことで中国製は否定されてる >>639
佐賀ルート?
呼子港か名護屋浦なんだよ
そこから南東へ500里(40km)で糸島市中部の伊都ゴルフ俱楽部付近
そこから東の糸島市東部が伊都国ですよ。 邪馬台国九州説は文献などに基づいて出た結論だが
邪馬台国畿内説は単にヤマトと言う発音と妄想に基づいた
酔っ払いの寝言と同じ。 >>632
三角縁神獣青銅鏡の数はどうかな?
古墳の数では兵庫県が日本一多い。
福岡県のような貧乏な新興地域では何もない荒れ地や炭鉱跡地、農地など
発掘しやすい条件がそろっている。 >>638
纒向と邪馬台国を結びつけるものは何も無いから
独立して纒向だけを研究するのが正解だな。 >>637
一度南東に行ってから北東に行ったら、
全体として南東に行った事にはならない。
測量とかせずになんとなくの感覚で書いたなら、
そういういい加減な方角になる事もあり得るが、
自分が行った全ての国の距離と方角をいちいち書き記して、
場合によっては面積まで求めて、政府に報告しているのだから、
なんとなくでいい加減に書いたわけがない。 纏向という地名はムクムク遺跡と変えた方が良いww
ムラムラ遺跡も良いなwww
。 >>645
人口140万人しかない田舎の奈良県が
3.6倍以上の人口福岡県に何を言ってるんだ? なんかテレビみてたら、箸墓古墳のとなりの、箸墓勝山古墳ってのが、
ヒミコの墓だって、なんか地元の偉い研究者が言ってたよ 倭の五王の武=ワカタケル
この時代であれば、大和政権が熊本まで勢力を伸ばしていた事は確実。
しかも、東西に拡大して行った様で、東は埼玉まで勢力を伸ばしていた。
コレをさかのぼって413年の讃の朝貢をもって、
大和政権に続く勢力が北部九州を支配していた事が想定され、
好太王碑をもって、399年には朝鮮半島に進出して
新羅を支配するだけの勢力が既に倭にあったと言うのが歴史の事実である。
現状では、AC399年以前に、どう大和政権が北部九州まで勢力を拡大したのか不明であり、
この過程が明らかにならない以上、歴史の教科書に、
3世紀中期に大和政権が北部九州に勢力を伸ばしていたとは書きようが無い。 >>609
だから銅鐸自体大陸の銅銭溶かして作り変えてるし
銅鐸溶かして鏡にすれば中国製の銅と同じ材質になるだろうっての >>646
でも規模から纒向と卑弥呼を結びつける可能性は否定できないよ。なんせ、男王できない事やっているんだから、幼少の頃か天才で戦略、経済とマルチだったかも、ある時期から公には、出ずに神格化工作とか? ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています