【東京】纒向遺跡は邪馬台国か、箸墓は卑弥呼の墓か議論 東京で纒向フォーラム★5
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卑弥呼の墓説がある箸墓古墳について議論するパネリスト(東京都千代田区で)
https://www.yomiuri.co.jp/photo/20181014/20181014-OYTNI50010-L.jpg
◇纒向フォーラム
東京・よみうりホールで14日に開かれた邪馬台国の有力候補地、桜井市の纒向(まきむく)遺跡を巡る7回目のフォーラムでは、卑弥呼の墓との説がある同市の箸墓古墳がテーマとなった。調査成果や全国の事例、中国の文献も参考に専門家4人が議論し、考古学ファンら約850人が熱心に耳を傾けた。(辰巳隆博、大森篤志)
市纒向学研究センターの福辻淳・主任研究員は、箸墓古墳の調査について説明。レーザーを使った詳細な測量で、地表の高低差や形状を立体化できたことなどを紹介した。
俳優の苅谷俊介・京都橘大客員教授(考古学)は、纒向遺跡の大型建物跡の南に箸墓古墳が位置することに着目し、「都城の南に祭礼施設を造るという中国の思想が取り入れられており、大型建物跡と箸墓古墳は密接なつながりがあった」との見解を示した。
また、松木武彦・国立歴史民俗博物館教授(考古学)は前方後円墳の成立過程について解説した。2世紀中頃から、全国で墳丘に突出した部分が設けられ、被葬者も集団から個人になり、形も統一されるとし、箸墓古墳について、「倭国(わこく)初の国家的モニュメント。親魏倭王の墓にふさわしい」と述べた。
渡辺義浩・早稲田大教授(中国古代思想史)は、魏の文帝が「寿陵(じゅりょう)(生前に造る墓)は自然の山を利用し、樹を植えてはならない」などと定めたことを紹介し、「魏の使者は、卑弥呼の墓を見て中国の墓制にのっとった墓だと思っただろう」などと話した。
その後、センターの寺沢薫所長の司会で4人が討論。箸墓古墳が卑弥呼の墓だとする見方に対し、寺沢所長は、桜井市のホケノ山古墳など箸墓以前に築造された古墳のいずれかだと主張した。
テーマとなった中国の歴史書「魏志倭人伝」の記述、「卑弥呼、以(すで)に死し、大いに冢(ちょう)を作る」なら死んだ後に墓を造ったという意味になり、渡辺教授は「死んだために墓を造ったという意味の『死するを以もって』と読むべきだ」と指摘した。
大学で古代史を専攻したというさいたま市南区の会社員長谷川菜摘さん(29)は「纒向遺跡や箸墓古墳に吉備(現・岡山県)などの影響があったのが興味深かった。遺跡を探訪したくなった」と笑顔。東京都江東区の会社員大迫文次郎さん(53)は「邪馬台国の所在地に関心が集まりがちだが、中国の思想や墓制との関わりを知ることができて勉強になった」と満足そうだった。
読売新聞 2018年10月15日
https://www.yomiuri.co.jp/local/nara/news/20181014-OYTNT50054.html
読売新聞 2018年10月15日
https://www.yomiuri.co.jp/osaka/news/20181015-OYO1T50005.html
★1:2018/10/15(月) 18:49:51.46
http://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1539796902/ >>553
ヤマタノオロチは当時の出雲の人たちが恐れるものを投影したものと考えられる
つまり一つの対象ではなく、侵略者だけではなく自然現象とか災害とかも含め
複数の恐怖するべき対象がヤマタノオロチという怪物として形づくられたものだ
オロチの目が赤いのは血走った敵兵の目を連想するし
クシナダ姫は稲を意味する名前なのだから、それを食らうのだから
洪水も連想できる
体が血にただれたって記述も、赤い炎を連想出来るから
稲穂や村村を焼き尽くす炎を意味するのかも知れない
そういう感じで、複数の古代人たちが恐れる対象が一つの怪物の姿に投影したものが
ヤマタノオロチだと考えた方がよいと思うが >>609
iPhoneの中身ほとんど日本製
それを中国で組み立てて製品化
このiPhoneは日本製っすか? >>608
全然、不思議でもない?邪馬台国は広域のひとつ、統一過程で、そこに集約、外交における正統性で大和、新しい都だから規模も大きくなり、数も増える。古墳の数も近畿が多いからね。 >>613
だから空想歴史小説。まともな歴史書とはいえないのでないか? >>614
三角縁神獣鏡は中国の銅山から採掘された銅と比較した場合
そこに含まれる微量の不純物が一致している
原材料から製造まで中国で行われた可能性が高い
加えて神獣鏡は後漢時代に登場した
二世紀前半から三世紀の三国西晋時代に流行した鏡だ
細かいデザインは多岐にわたるるが、神獣や瑞獣を配したデザインは中国で作られていたことが確認されている
そして上記の通り卑弥呼の時代とも中国で作られた時期は一致しているが 専門外の自分にはこれが答え
九州は物証なし、関連遺跡なし、裏付けなし、
こじつけの珍解釈するし
あと九州説の人はすぐファビョるし >>617
神話や伝承については、仮説以上のものは出しようがないが
ヤマタノオロチの神話についても、それこそ記述を事実とすれば
本当にヤマタノオロチのような怪物が生贄を求めて来たとしか読みようがないし >>618
中国人が読めない漢文が書いてある
三角縁神獣鏡w >>618
過去スレでさんざん論破されてたのに
よく恥ずかしげもなくそんなアホなこと言えるな
三角縁神獣鏡は3世紀末から4世紀以降中国北部流入した銅を用いて作られたが
その時すでに魏はないので中国で作られたという可能性はなくなった >>618
そうなんですか〜勉強になりますわ
一晩で2度も同じ論争するとは思わんかったw
今度その銘文について議論しましょう
あれが中国製だとしたら中国には詩の分かる奴は
居なかったってことなんやろね 当時の日本は中国産銅を輸入していたから
銅器の原材料が全部中国産となるのは
当然のことなんですね。 >>624
桃種出てこない魏志なんか興味ねぇっす(キリッ >>620
そう仮説しかない。実際は災害、移民、強盗団、山賊、海賊とだろうな。陛下自身も年代と合うのは継体天皇位からとおうせられていた。 今のところ、年号が書かれた鏡は
全部4世紀中期から後期の遺跡から
出てきています。
年号がある時点で4世紀中期以降のものと
考えて良いでしょう。 >>624
> 畿内説は魏志倭人伝を無視している。
邪馬台国と覇権を争っていた
狗奴(くな)国の男王が崇神天皇。
「狗奴国」(熊本説などが有力)
この狗奴国の男王を
『魏志倭人伝』では【卑彌弓呼(ひみここ)】と記している。
卑弥弓呼
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%91%E5%BC%A5%E5%BC%93%E5%91%BC
卑彌弓呼(ひみここ、生没年不詳)は、
『魏志倭人伝』に記録される狗奴国の男王
3世紀の倭国(現在の日本)の人物である
崇神天皇陵(行燈山古墳) 【天理市】←※【重要(狗奴国の国王の墓が奈良の天理に実在)】
古墳は全長約242m
築造された年代は4世紀後半(古墳時代前期後半) 畿内説の最大の弱点は、三世紀前半には九州のような
邪馬台国に相当する大規模集落の痕跡が無かったことだが
纒向遺跡の発見で、この弱点が完全に補われた
卑弥呼の墓に相当すると思われる大規模古墳は畿内には数多くあるが
九州にはそれが存在しない
卑弥呼が魏から下賜されたと思われる鏡も、畿内を中心に多く発見されている
こんな感じで考古学的な証拠が全て揃っているのは、もう畿内しか存在しない
それこそ卑弥呼が受け取った金印を発掘するとか
それくらいの決定的な根拠がない限りは、もうあり得ないだろう
もっともその金印は、卑弥呼の後継者のトヨも中国に使者を送っている
その年は魏から晋に王朝が変わっていたからな。
魏の金印は晋によって回収を命じられた可能性もあり
だとしたら溶かされて新しい金印が作られているはずだがな 先ず畿内説を成立させる為には、
圧倒的に中国地方、及び北部九州の発掘成果が足らない。
AC57年に那珂郡が倭国の端だったのが、
238年にどうやって奈良までその範囲が拡大して行ったのかを示さなければいけない。
マキムクの発掘だけいくらやっても意味が無いのである。
現状、マキムクでいくら発掘を行っても、
魏志倭人伝の記述を裏付ける成果は一切出てきていないのに、
邪馬台国が奈良にあったとか言っているアホが畿内説を主張しているとしか言いようが無いのが、
今の日本の考古学の現状だよ。 福岡県の遺跡数は奈良県の6倍
銅器で10倍、鉄器で20倍以上です。 >>534
丗有王 皆統屬女王國 (魏志)
魏の世に王が居た、倭の国々は皆女王国に統属されていた。
其国王皆属女王也(魏略)
倭の国の王は皆女王に属する也。
どちらも女王卑弥呼が倭を支配していたと書いてる。 33年前には吉野ヶ里遺跡も発見されておらず、
「九州には大規模な弥生遺跡は無い」というのが考古学会の定説だった。
たった一つの発見で定説が覆るというのが考古学の常。 カラ出張のアリバイ作りにでたらめ書いただけなのに・・・・ >>622
何の根拠もない事を言ってくれてもね
私の主張も完全ではないことは認めるが
あなたのように断言できるほどの根拠も発見されていないだろ
もし発見されているなら、いまだに論争が続いてはいないわ >>561
末盧国への上陸地点が呼子港か名護屋浦なんだよ
そこから南東へ500里(40km)で伊都国なんだ。 学者も畿内説から撤退して纒向学に変わり、
ごく一部の畿内説の消滅を
変化を受け入れられない人達が
こういうところで暴れてるだけだよ。
IDを見ればわかるけど
畿内説の人は限られてるでしょ。 >>637
佐賀ルートですね。
私もこちらを推します。
糸島出身ですがね。 >>636
他にもあるが、有名どころで
ttp://yamatai.cside.com/tousennsetu/innritu.htm
感想ヨロ >>636
三角縁神獣鏡が用いた銅の鉱山は最近の分析を待つまでもなく昔から特定されてる
しかし3世紀そこは呉の領内だった
つまり魏にその銅が出回ることは無かった
呉の銅が中国北部に出回り始めたのは呉が滅亡した3世紀末以降
三角縁神獣鏡が魏の鏡を偽装していたことで矛盾が生じたことや
年代と銘文がでたらめだったことで中国製は否定されてる >>639
佐賀ルート?
呼子港か名護屋浦なんだよ
そこから南東へ500里(40km)で糸島市中部の伊都ゴルフ俱楽部付近
そこから東の糸島市東部が伊都国ですよ。 邪馬台国九州説は文献などに基づいて出た結論だが
邪馬台国畿内説は単にヤマトと言う発音と妄想に基づいた
酔っ払いの寝言と同じ。 >>632
三角縁神獣青銅鏡の数はどうかな?
古墳の数では兵庫県が日本一多い。
福岡県のような貧乏な新興地域では何もない荒れ地や炭鉱跡地、農地など
発掘しやすい条件がそろっている。 >>638
纒向と邪馬台国を結びつけるものは何も無いから
独立して纒向だけを研究するのが正解だな。 >>637
一度南東に行ってから北東に行ったら、
全体として南東に行った事にはならない。
測量とかせずになんとなくの感覚で書いたなら、
そういういい加減な方角になる事もあり得るが、
自分が行った全ての国の距離と方角をいちいち書き記して、
場合によっては面積まで求めて、政府に報告しているのだから、
なんとなくでいい加減に書いたわけがない。 纏向という地名はムクムク遺跡と変えた方が良いww
ムラムラ遺跡も良いなwww
。 >>645
人口140万人しかない田舎の奈良県が
3.6倍以上の人口福岡県に何を言ってるんだ? なんかテレビみてたら、箸墓古墳のとなりの、箸墓勝山古墳ってのが、
ヒミコの墓だって、なんか地元の偉い研究者が言ってたよ 倭の五王の武=ワカタケル
この時代であれば、大和政権が熊本まで勢力を伸ばしていた事は確実。
しかも、東西に拡大して行った様で、東は埼玉まで勢力を伸ばしていた。
コレをさかのぼって413年の讃の朝貢をもって、
大和政権に続く勢力が北部九州を支配していた事が想定され、
好太王碑をもって、399年には朝鮮半島に進出して
新羅を支配するだけの勢力が既に倭にあったと言うのが歴史の事実である。
現状では、AC399年以前に、どう大和政権が北部九州まで勢力を拡大したのか不明であり、
この過程が明らかにならない以上、歴史の教科書に、
3世紀中期に大和政権が北部九州に勢力を伸ばしていたとは書きようが無い。 >>609
だから銅鐸自体大陸の銅銭溶かして作り変えてるし
銅鐸溶かして鏡にすれば中国製の銅と同じ材質になるだろうっての >>646
でも規模から纒向と卑弥呼を結びつける可能性は否定できないよ。なんせ、男王できない事やっているんだから、幼少の頃か天才で戦略、経済とマルチだったかも、ある時期から公には、出ずに神格化工作とか? >>647
「ちゃんと測って記録しよう」という気持ちはあったと思うのよ。
でもその心意気は、上陸早々の「草木茂盛、行不見前人」で
萎え萎えになってしまったことがわかるw 畿内説の学者さんたちは、
どのような発掘成果が上がれば北部九州まで大和政権が拡大していたと言えるのか、
そのロジックを全くお分かりになられていない池沼としか言いようが無い。
それ故に、マキムクばかりを発掘してしまっている様だ。
そしてそこからは魏志倭人伝の記述を示す成果は一切上がってこない。
にも関わらず、マキムクが邪馬台国だと言い張る、
意味不明の事が今考古学界で起こっている。
現状、一般の国民から見れば、畿内説は補助金をゲットする為の、
呈の良いビジネスとしか言いようが無いな。 >>655
方角は太陽を見て判断するもの。
前が見えなくても関係無いよ。 >>649
青銅鏡の数の比較はどうなんだと聞いている >>656
そのうち心ある先生が「続神々の汚れた手」って出版してくれるでしょ 畿内は人口だけが当時の僻地にしては密集してると言うだけで出土する遺物からは邪馬台に繋がる物証など何も出てない。
その様相は地方低文化水準の豪族規模。 >>654
いくら規模が大きくても九州から遠すぎるだろ。
しかも奈良から海に出るまで1ヶ月(陸行一月)もかかるのに
どうやって九州を支配してたんだよ。 >>656
吉野ケ里歴史公園は
奈良県田原本町の唐古鍵遺跡から出土した物見櫓の
絵をパクって建物を捏造してテーマパークにしてるんだから
奈良も近鉄と手を組んで唐古鍵遺跡周辺をもっと発掘して昔あった
ドリームランドのような日本古代史を勉強して遊べるテーマパークを作ればいいんだわ。 >>662
それって>>169だよね。
んで、俺は>>172と聞いたが反論はないようだ。
>>664
お、おう…。 >>1
神武天皇を1世とした時の世代数
25世. (38代) 天智天皇. 626-672
42世. (77代)後白河天皇 1127-1192
72世(125代) 今上天皇 1933-
古代〜中世 1世代平均29.47年 25世 天智天皇(生年. 626)から42世 後白河天皇(生年1127)まで
中世〜現代 1世代平均26.87年 42世 後白河天皇(生年1127)から72世 今上天皇(生年1933)まで
古代〜現代 1世代平均27.81年 25世 天智天皇(生年. 626)から72世 今上天皇(生年1933)まで
時代が古くなるほど1世代あたりの年数は長くなる
生年が確定している天智を起点に父の父の父の・・・と1世代29.47年で遡ると・・・
626年生まれ 25天智 626-672
596年生まれ 24舒明 593-641
567年生まれ 23押坂彦人大兄皇子
537年生まれ 22敏達 538.?-585.?
508年生まれ 21欽明 509.?-571.?
478年生まれ 20継体 (武烈)
449年生まれ 19彦主人王 (清寧)(仁賢)
419年生まれ 18乎非王 (雄略)(市辺押磐皇子)
390年生まれ 17意富富等王 (允恭)(履中)
360年生まれ 16若野毛二俣王 (仁徳)
331年生まれ 15応神
301年生まれ 14仲哀
272年生まれ 13日本武尊
242年生まれ 12景行
213年生まれ 11垂仁 田道間守(たぢまもり)=難升米(タヂマ)
183年生まれ 10崇神 四道将軍=倭国大乱 >>172
「よし、あっちが東!」「あの山の方向、ORあの半島の方向」と小さな目標を定めればいいだけだよ。 >>668
前提が、「草木茂盛、行不見前人」な状況だということを忘れちゃいかんぞ。 >>666
>>172に向けて書いたものではないけど、
>>173がバッチリその反論になってるから、
わざわざ172に同じ事を書かなくてもいいかなと思ってた。 >>663
>奈良から海に出るまで1ヶ月(陸行一月)
明日香村中央部を北流、橿原市、田原本町などを経て
川西町保田で大和川に注ぐから
一ヶ月も掛からんわなwwwww >>10
粘土板とか土器に文字を残せばよかったのにね。 >>673
聖徳太子が書いた神代文字がどこだったか忘れたけど
神社に在った(はず)なんだけど焼失したって話があるね >>671
じゃあ陸行一月ってのはなんなんなの?
畿内説だと海から上陸して奈良にいくまで1ヶ月かかるんだろ。 >>669>>672
目印になるものが見えた時に測量をするんだよ。
仮に呼子からスタートした直後は方角がわかりにくかったとしても、
唐津湾あたりに出ればいくらでも目印はある。
唐津から糸島へは北東に進んでいる事を完璧に把握できるはずだ。 「倭人は帯方郡の東南、大海の中に在る。山島に依って国邑を作っている。
昔は百余国あり、漢の時、朝見する者がいた。今交流の可能な国は三十余国である」
要するに倭人の棲む国は百余国あったがその内の三十余国のみが魏国と交流を
していると書いている。残りの七十余国は交流をしていないから
交流しない国には魏使は訪れる事は絶対に無いと言う事だ。 >>669
そもそも倭人の道案内が付いてたから道に迷うことはないよ
自分の進んでいる方向を途中で確認するぐらいだよ。 >>677
唐津湾岸から呼子(出発地)が見通せないなら、けっきょくのところ
どれだけ南下したかは把握できないじゃんか。山道の行程を
過大評価した結果、末廬から伊都を東南と認識した可能性は
否定できない。 昔の日本語は50音も使われていなかったので
50音が揃った神代文字は明治以降の
偽物だとか。 エジプトにピラミッドは200以下
日本に古墳は10万以上 「巻向・箸墓は邪馬台国か!?」
こんなん幼稚なネット広告の煽りやんw
しかもこれ以上は行けない、根拠薄弱な宗教。
譫言のように巻向箸墓ホケノ山とか口走ってそれ言ってれば
「ああ、こいつは仲間」って安心する感じ。
学者面して、考古学関係者って阿呆ばっかなん?
埋蔵物の量と質、地理的条件、中国側の記録、記紀神話、人口
動態と民族移動、海洋民族の痕跡、古墳の最先進地域、古地名、
「九州」呼称、「太宰府」「遠の朝廷」「年号」、仏教の先進
地域と宇佐神宮の特異な地位、その他全て九州しかあり得ない。
弁証法的に。 >>674
それなら法隆寺じゃないのか
知らんけど
1949年(昭和24年)1月26日の早朝に出火して
金堂の壁画が焼け焦げた。
>>675
日本書紀が完成したあと焚書したんだろうな >>680
道案内はいたはずだよね。
だから伊都国にたどりついた。
でもそれは、地図上で末廬から伊都に引いた直線の「向きを
把握したからではなく、道を知っている人に付いて行ったからだよね。 邪馬台国
邪悪な馬がたくさん、台地にいたのでしょうねえ。
いえいえこの人達は馬頭星雲から地球にやってきた人達なのです!
wwww 魏使は方角間違いをしているとか寝言も良い所、魏使は朝昼夕常に太陽の方角を見ながら
旅をしているから仮に方角間違いをしても45度の半分の22.5度以内だろう。その程度の
誤差なら間違いとは言わんよ。 唐津から佐賀へは
それほど登らなくてもいい、
いい道があるんだよ。
秀吉の朝鮮出兵でも多くの大名が通った道で、
松浦に収まらない大名は
佐賀城下にまであふれかえり
佐賀市内にxx陣屋跡なんて地名も残ってる。
鉄道も明治の終わりに佐賀から
唐津線がすんなり通ったのに対して
筑肥線は難工事の連続で
接続したのは昭和になってから。
それくらい唐津から糸島への交通は難所だった。 例えば、「畿内説の唯一の弱点である大型弥生遺跡が発見されたから
邪馬台国は奈良」
畿内説は小学生以下の知能しかないらしいw
大きな弥生遺跡があれば全部邪馬台国なのか。
それより問題は、「唯一の弱点」というキャッチコピーにある。弱点だ
らけ、というより有利なところ自体が希少ではないか。桃の種(爆)
こういう風にさりげなく嘘を織り込んでいき、仕舞いには自分たちでも
分からなくなるほどイフの連続で屋上屋を架してしまう。
実際は、奈良説は存在しないものをひとつひとつ証明しなければならず、
非常に可能性の薄い仮説であることは自明。
キュウベエを呼んでくれば、主観を排して論理的かつ冷酷に「わけがわ
からないよ」と言ってくれるよw >>634
発見を元に語るのが考古学の常識
発見されてないものを「この辺りにあるはずだ!」と語るのは科学ではなくファンタジー 魏使が訪れた国は北部九州にあった三十余国で、本州にあった国は「女王国の東
海を渡る1千余里、亦倭種の国があると書いてある。魏使が本州には行かなかったのは
明らかだ。 >>669
難所だからこそ、「草木茂盛、行不見前人」という記述になるわけだよね。
「いい道」の先にあるのは伊都国じゃない気がする。 おりょ、アンカー間違えた。
>>689
難所だからこそ、「草木茂盛、行不見前人」という記述になるわけだよね。
「いい道」の先にあるのは伊都国じゃない気がする。 >>124
イザナギがヨモツシコメに投げつけたってだけじゃないのか? >>692
しかも「倭に付庸する」ですからねw
どう考えても支配する側をさして使う言葉では無い。
畿内説の学者さん達は、漢字の国の国史より偉いんですよきっと。
すぐ誤字脱字とか勘違いとか間違いとか言ってくれる。
編集していた人たちは、下手すりゃ速攻誅殺食らうだけに必死ですからね。
予算取ってくるためにてきとーに「巻向」口走ってる自称学者さん達とは
真剣さが違う。それだって税金なんだけどね。自覚無いっていうか。 >>676
昔は河内湖やなんてのが有ったらしい。
秋に来たときには竜田川の岸で紅葉をを観て
10日ぐらい歓迎の宴会して鮎や雉子、鴨の竜田揚げを肴にドブロクを飲んだんだわ
春は吉野で一目千本の山桜を眺めて歓迎会、送別会を催した。
奈良時代には奈良から九州まで街道が整備され
要所要所には駅(むまや)が配置され乗り継ぎ用の馬が置かれていたし
宿泊施設もあったとか。
兵庫県の一級河川加古川の東には山陽道で最大規模の駅(むまや)があった。 まつろ国が博多湾だとすると
そこから南東100里で奴国候補なんだよね
んでそれだと東に100里で不弥国候補だし
そうなると伊都国候補は朝倉市あたりになりそうだけど古墳とかある地域だし
まつろ国起点説とあわせて考えるとピッタリじゃね? >>699
ちなみに壱岐から博多湾まで1000里くらいだし全部ピンとくるわ >>695
それほどの難所を、唐津まで船で行っておきながら
糸島まで船で行かないというのも
おかしな話。
地元民の案内で難所を歩いたというのなら
船で行くときも地元の漁民あたりに
水先案内を頼めばいいからね。 >>681
唐津湾に出てからの行程を正確に把握できていた場合に、
呼子→糸島を南東方向(東南東を含む)と誤認するためには、
唐津湾に出るまでの山道を、実際の10倍ぐらい過大評価しなければならないが、
そこまで著しい誤差が出るわけがない。
仮に、歩数が通常の10倍かかったとしても、
険しい山道で通常より歩数がかかるのは常識なので、
少なめに補正して計算するものだ。
って言うか、距離は「五百里」とほぼ正確に出ているのだから、
「距離を過大評価した」という主張と完全に矛盾する。 >>682
>50音も使われていなかった
意味不明
日本語じゃなかったという意味か?
もう少し詳しく >>691
シュリーマンを完全否定する考古学者がどこにいるんだ? ヤマト朝廷単独王朝説で凝り固まってる頭のせいで全く逆に結論になってる可能性がかなり高いよね
古墳が多い地域=ヤマト朝廷から独立した(もしくはそれに近いほど力を持った)国があった
と考えるべきところを
古墳が多い地域=ヤマト朝廷の支配が及んでいた地域
と全く真逆になっちゃってるという
もちろん文化として影響は受けてるんだろうけど文化として影響を受けたからといって支配されてるって話にはならんだろに >>699
博多湾は壱岐の「南」では無いんだよ。
それに、ひらけた平野部なので末盧国の様子と矛盾する。 で、金印と同時に下賜された銅鏡100枚って発掘されてんの? >>705
なるほど、それは言えてる気がする。
磐井とかモロにそうだよね。 >>699
今も重要な信仰地となってる宗像市の上の神湊が上陸地だという説もある。
ちなみにその場合の邪馬台国は中津近辺で邪馬台国の墓は宇佐神宮。 >>706
壱岐からは南って行ってない
海を1000余里渡るとしか行ってない
それに「ひらけた平野部」にしか見えないけど昔は違ったの?
福岡平野って三角州でしょ?人工的な平野とは思えないけど >>709
宗像ルートだと壱岐は通らん気がする。
どっちにしても、宗像がヤマト王権と仲良しになるのは4世紀だよね。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています