【東京】纒向遺跡は邪馬台国か、箸墓は卑弥呼の墓か議論 東京で纒向フォーラム★5
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卑弥呼の墓説がある箸墓古墳について議論するパネリスト(東京都千代田区で)
https://www.yomiuri.co.jp/photo/20181014/20181014-OYTNI50010-L.jpg
◇纒向フォーラム
東京・よみうりホールで14日に開かれた邪馬台国の有力候補地、桜井市の纒向(まきむく)遺跡を巡る7回目のフォーラムでは、卑弥呼の墓との説がある同市の箸墓古墳がテーマとなった。調査成果や全国の事例、中国の文献も参考に専門家4人が議論し、考古学ファンら約850人が熱心に耳を傾けた。(辰巳隆博、大森篤志)
市纒向学研究センターの福辻淳・主任研究員は、箸墓古墳の調査について説明。レーザーを使った詳細な測量で、地表の高低差や形状を立体化できたことなどを紹介した。
俳優の苅谷俊介・京都橘大客員教授(考古学)は、纒向遺跡の大型建物跡の南に箸墓古墳が位置することに着目し、「都城の南に祭礼施設を造るという中国の思想が取り入れられており、大型建物跡と箸墓古墳は密接なつながりがあった」との見解を示した。
また、松木武彦・国立歴史民俗博物館教授(考古学)は前方後円墳の成立過程について解説した。2世紀中頃から、全国で墳丘に突出した部分が設けられ、被葬者も集団から個人になり、形も統一されるとし、箸墓古墳について、「倭国(わこく)初の国家的モニュメント。親魏倭王の墓にふさわしい」と述べた。
渡辺義浩・早稲田大教授(中国古代思想史)は、魏の文帝が「寿陵(じゅりょう)(生前に造る墓)は自然の山を利用し、樹を植えてはならない」などと定めたことを紹介し、「魏の使者は、卑弥呼の墓を見て中国の墓制にのっとった墓だと思っただろう」などと話した。
その後、センターの寺沢薫所長の司会で4人が討論。箸墓古墳が卑弥呼の墓だとする見方に対し、寺沢所長は、桜井市のホケノ山古墳など箸墓以前に築造された古墳のいずれかだと主張した。
テーマとなった中国の歴史書「魏志倭人伝」の記述、「卑弥呼、以(すで)に死し、大いに冢(ちょう)を作る」なら死んだ後に墓を造ったという意味になり、渡辺教授は「死んだために墓を造ったという意味の『死するを以もって』と読むべきだ」と指摘した。
大学で古代史を専攻したというさいたま市南区の会社員長谷川菜摘さん(29)は「纒向遺跡や箸墓古墳に吉備(現・岡山県)などの影響があったのが興味深かった。遺跡を探訪したくなった」と笑顔。東京都江東区の会社員大迫文次郎さん(53)は「邪馬台国の所在地に関心が集まりがちだが、中国の思想や墓制との関わりを知ることができて勉強になった」と満足そうだった。
読売新聞 2018年10月15日
https://www.yomiuri.co.jp/local/nara/news/20181014-OYTNT50054.html
読売新聞 2018年10月15日
https://www.yomiuri.co.jp/osaka/news/20181015-OYO1T50005.html
★1:2018/10/15(月) 18:49:51.46
http://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1539796902/ エジプトにピラミッドは200以下
日本に古墳は10万以上 「巻向・箸墓は邪馬台国か!?」
こんなん幼稚なネット広告の煽りやんw
しかもこれ以上は行けない、根拠薄弱な宗教。
譫言のように巻向箸墓ホケノ山とか口走ってそれ言ってれば
「ああ、こいつは仲間」って安心する感じ。
学者面して、考古学関係者って阿呆ばっかなん?
埋蔵物の量と質、地理的条件、中国側の記録、記紀神話、人口
動態と民族移動、海洋民族の痕跡、古墳の最先進地域、古地名、
「九州」呼称、「太宰府」「遠の朝廷」「年号」、仏教の先進
地域と宇佐神宮の特異な地位、その他全て九州しかあり得ない。
弁証法的に。 >>674
それなら法隆寺じゃないのか
知らんけど
1949年(昭和24年)1月26日の早朝に出火して
金堂の壁画が焼け焦げた。
>>675
日本書紀が完成したあと焚書したんだろうな >>680
道案内はいたはずだよね。
だから伊都国にたどりついた。
でもそれは、地図上で末廬から伊都に引いた直線の「向きを
把握したからではなく、道を知っている人に付いて行ったからだよね。 邪馬台国
邪悪な馬がたくさん、台地にいたのでしょうねえ。
いえいえこの人達は馬頭星雲から地球にやってきた人達なのです!
wwww 魏使は方角間違いをしているとか寝言も良い所、魏使は朝昼夕常に太陽の方角を見ながら
旅をしているから仮に方角間違いをしても45度の半分の22.5度以内だろう。その程度の
誤差なら間違いとは言わんよ。 唐津から佐賀へは
それほど登らなくてもいい、
いい道があるんだよ。
秀吉の朝鮮出兵でも多くの大名が通った道で、
松浦に収まらない大名は
佐賀城下にまであふれかえり
佐賀市内にxx陣屋跡なんて地名も残ってる。
鉄道も明治の終わりに佐賀から
唐津線がすんなり通ったのに対して
筑肥線は難工事の連続で
接続したのは昭和になってから。
それくらい唐津から糸島への交通は難所だった。 例えば、「畿内説の唯一の弱点である大型弥生遺跡が発見されたから
邪馬台国は奈良」
畿内説は小学生以下の知能しかないらしいw
大きな弥生遺跡があれば全部邪馬台国なのか。
それより問題は、「唯一の弱点」というキャッチコピーにある。弱点だ
らけ、というより有利なところ自体が希少ではないか。桃の種(爆)
こういう風にさりげなく嘘を織り込んでいき、仕舞いには自分たちでも
分からなくなるほどイフの連続で屋上屋を架してしまう。
実際は、奈良説は存在しないものをひとつひとつ証明しなければならず、
非常に可能性の薄い仮説であることは自明。
キュウベエを呼んでくれば、主観を排して論理的かつ冷酷に「わけがわ
からないよ」と言ってくれるよw >>634
発見を元に語るのが考古学の常識
発見されてないものを「この辺りにあるはずだ!」と語るのは科学ではなくファンタジー 魏使が訪れた国は北部九州にあった三十余国で、本州にあった国は「女王国の東
海を渡る1千余里、亦倭種の国があると書いてある。魏使が本州には行かなかったのは
明らかだ。 >>669
難所だからこそ、「草木茂盛、行不見前人」という記述になるわけだよね。
「いい道」の先にあるのは伊都国じゃない気がする。 おりょ、アンカー間違えた。
>>689
難所だからこそ、「草木茂盛、行不見前人」という記述になるわけだよね。
「いい道」の先にあるのは伊都国じゃない気がする。 >>124
イザナギがヨモツシコメに投げつけたってだけじゃないのか? >>692
しかも「倭に付庸する」ですからねw
どう考えても支配する側をさして使う言葉では無い。
畿内説の学者さん達は、漢字の国の国史より偉いんですよきっと。
すぐ誤字脱字とか勘違いとか間違いとか言ってくれる。
編集していた人たちは、下手すりゃ速攻誅殺食らうだけに必死ですからね。
予算取ってくるためにてきとーに「巻向」口走ってる自称学者さん達とは
真剣さが違う。それだって税金なんだけどね。自覚無いっていうか。 >>676
昔は河内湖やなんてのが有ったらしい。
秋に来たときには竜田川の岸で紅葉をを観て
10日ぐらい歓迎の宴会して鮎や雉子、鴨の竜田揚げを肴にドブロクを飲んだんだわ
春は吉野で一目千本の山桜を眺めて歓迎会、送別会を催した。
奈良時代には奈良から九州まで街道が整備され
要所要所には駅(むまや)が配置され乗り継ぎ用の馬が置かれていたし
宿泊施設もあったとか。
兵庫県の一級河川加古川の東には山陽道で最大規模の駅(むまや)があった。 まつろ国が博多湾だとすると
そこから南東100里で奴国候補なんだよね
んでそれだと東に100里で不弥国候補だし
そうなると伊都国候補は朝倉市あたりになりそうだけど古墳とかある地域だし
まつろ国起点説とあわせて考えるとピッタリじゃね? >>699
ちなみに壱岐から博多湾まで1000里くらいだし全部ピンとくるわ >>695
それほどの難所を、唐津まで船で行っておきながら
糸島まで船で行かないというのも
おかしな話。
地元民の案内で難所を歩いたというのなら
船で行くときも地元の漁民あたりに
水先案内を頼めばいいからね。 >>681
唐津湾に出てからの行程を正確に把握できていた場合に、
呼子→糸島を南東方向(東南東を含む)と誤認するためには、
唐津湾に出るまでの山道を、実際の10倍ぐらい過大評価しなければならないが、
そこまで著しい誤差が出るわけがない。
仮に、歩数が通常の10倍かかったとしても、
険しい山道で通常より歩数がかかるのは常識なので、
少なめに補正して計算するものだ。
って言うか、距離は「五百里」とほぼ正確に出ているのだから、
「距離を過大評価した」という主張と完全に矛盾する。 >>682
>50音も使われていなかった
意味不明
日本語じゃなかったという意味か?
もう少し詳しく >>691
シュリーマンを完全否定する考古学者がどこにいるんだ? ヤマト朝廷単独王朝説で凝り固まってる頭のせいで全く逆に結論になってる可能性がかなり高いよね
古墳が多い地域=ヤマト朝廷から独立した(もしくはそれに近いほど力を持った)国があった
と考えるべきところを
古墳が多い地域=ヤマト朝廷の支配が及んでいた地域
と全く真逆になっちゃってるという
もちろん文化として影響は受けてるんだろうけど文化として影響を受けたからといって支配されてるって話にはならんだろに >>699
博多湾は壱岐の「南」では無いんだよ。
それに、ひらけた平野部なので末盧国の様子と矛盾する。 で、金印と同時に下賜された銅鏡100枚って発掘されてんの? >>705
なるほど、それは言えてる気がする。
磐井とかモロにそうだよね。 >>699
今も重要な信仰地となってる宗像市の上の神湊が上陸地だという説もある。
ちなみにその場合の邪馬台国は中津近辺で邪馬台国の墓は宇佐神宮。 >>706
壱岐からは南って行ってない
海を1000余里渡るとしか行ってない
それに「ひらけた平野部」にしか見えないけど昔は違ったの?
福岡平野って三角州でしょ?人工的な平野とは思えないけど >>709
宗像ルートだと壱岐は通らん気がする。
どっちにしても、宗像がヤマト王権と仲良しになるのは4世紀だよね。 >>706
壱岐から次の末盧国までには方角指定がないはず >>705
いろんな考え方があっていい部分だと思う
俺は参勤交代のように各地の豪族の経済力を落とす意味と
平和になって不必要になった兵士の雇用対策だと思う >>711
確か季節風があって東へ進むほうが良いって話だったと思う。
あと奈良に行った人たちと地元に残った人との反発ってのも
あったのかもしれない。 >>697
>漢字の国の国史より偉いんですよきっと。
>すぐ誤字脱字とか勘違いとか間違いとか言ってくれる。
>編集していた人たちは、下手すりゃ速攻誅殺食らうだけに必死ですからね。
今残っている正史三国志は陳寿の時代から7〜800年経って
出版されたものだし、倭国のことなんか支那人は知りはしないんだわ。
だから隷書体で書かれた三国志のタネ本の「一丈(壱岐の古い書き方)」が「丈」のような
形をしていても
「この字は一丈國か」「一丈國なんか知らないアル」
「それじゃ一大國にしとくよ」てなぐあいで
「誤刻」しても支那人は誰も気にしなかったんだわ。 >>714
ふうむ。
弥生時代に帆走はないと思うので同意はしないが、
それはさておき「肥前国風土記」に宗像の珂是古さんという
凧あげ名人(?)の話が出てくるのを思い出したw >>710
方角については勘違いしてた、ごめんなさい。
末盧国は山と海に沿った地域に比較的少数が暮らす漁村で、
前が見えないほど草木が生い茂っているような描写がなされている。
とてもひらけた平野部とは思えないな。 >>411
卑弥呼が死んだのが3世紀中だから3世紀前半にでかい古墳がないのが正解でないか? 倭人伝に記載のある倭国とは以下の地域にあった国々と言う事だ
福岡県・・福岡市西区、福岡市博多区、福岡市南区、福岡市東区
糸島市、春日市、志免町、篠栗町、古賀市 福津市、
宗像市、宮若市、田川市、飯塚市、行橋市、筑紫野市、
那珂川町、筑前町 朝倉市、久留米市、八女市、うきは市、
佐賀県・・佐賀市、吉野ヶ里町、多久市、武雄市、唐津市
長崎県・・雲仙市、壱岐市 対馬市
大分県・・日田市、宇佐市、大分市
特定した方法は上記の地域からは勾玉が出土したから(対馬市は除く)
卑弥呼が勾玉を支配国の王に下賜したと思っている。 >>124
古事記や日本書紀を書いた時代には
「弥生時代」という言葉は無かったんだわ
九州説派は時代錯誤のヤツが多いな。
左斜め上の半島人のようなw >>717
> 末盧国は山と海に沿った地域に比較的少数が暮らす漁村で、
> 前が見えないほど草木が生い茂っているような描写がなされている。
> とてもひらけた平野部とは思えないな。
あーそっちか逆だったか
>山海に沿って住む。草木が茂り、前を行く人が見えない。
確かに 九州でもどっちでもいいけど放射式って無理矢理すぎる
使者の行程だとしたら不自然
使者が聞いた話だとしたら九州なんて細かく記載する必要なし。細かくやるなら本州にも触れるでしょ。 >>453
100歳以上の寿命の天皇は干支一回り分60歳差し引いて考えるんだよ
80歳で子供を産んだと言うのは実際は20歳で産んだってこと >>719
このうちの福岡市東区や糟屋郡の町々のどこかに、
磐井の乱のあとでヤマト王権が手に入れた「糟屋の屯倉」
があるんだよね(俺は多々良川下流域だと思っている)。
最後までヤマト王権にまつろわなかった地域だ。 >>717
弥生時代って日本全国で今の香川県ほどの人口しかいなかったんだろ。
そんなスカスカならどこだって草木が生い茂ってると思うよ。 距離、方角ともにバッチリだと思ったんだけどなぁ
もう奴国候補地が間違ってると考えた方がいいのか? >>724
よく覚えてないけど、確かある年代以前は今の一年を二年として数えているから、
つまり単純に半分にするって説が有力だった気がする。 倭人伝は三国時代の魏の人が書いてる。
これが一番重要だと思うんだけども。
三国時代の地図を中心に見てるわけで、
韓伝にも倭人が鉄を取りに来て、韓国の南側と接してる地まで倭地。
魏の人は倭国に海峡国家(海洋民族)的なイメージを持ってる。
自分達に朝貢して来るのは九州沿岸の倭人だけど、本州にも倭種がいる。
朝貢してくる倭人の代表は邪馬台国の女王卑弥呼。
帯方郡の情勢にも素早く対応できてたし、魏の人の見方だと邪馬台国は近畿じゃなさそうだけども、どうなんだろ。 >>718
それまで古墳がなかったのに突然、箸墓みたいな巨大な前方後円墳ができる方が不自然。
だいたい卑弥呼は弥生時代の人で古墳時代ですらないし。
それでも大きさだけは土をかき集めて、もれば大きいのはできるけど、
箸墓は形がきれいな前方後円墳だし中の構造とかも
後の時代の前方後円墳と同じだったりしたらおかしすぎるよね? >>726
仮に博多が末盧国なら、東南には大きな那珂川に沿って進むんだから、
前が見えないって事はあり得ないよ。 古墳時代の翡翠(糸魚川産)勾玉・丸玉などが出土した地域(47箇所)
福岡県・・福岡市西区、福岡市博多区、福岡市南区、福岡市東区
糸島市、春日市、大野城市、志免町、篠栗町、古賀市
福津市、宗像市、宮若市、鞍手町、田川市、嘉麻市
飯塚市、苅田町、行橋市、筑紫野市、那珂川町、筑前町
朝倉市、久留米市、八女市、うきは市、(26箇所)
佐賀県・・佐賀市、吉野ヶ里町、神埼市、多久市、武雄市、唐津市、(6箇所)
長崎県・・雲仙市、壱岐市 (2箇所)
熊本県・・玉名市、和水町、菊池市、御船町、熊本市、宇城市、八代市(7箇所)
大分県・・宇佐市、大分市 (2箇所)
宮崎県・・宮崎市、高鍋町、西都市 (3箇所)
鹿児島県・・長島町 (1箇所)
古墳時代になったら熊本県や宮崎県からも勾玉が出土した
これは狗奴国を降伏させて邪馬台国の重臣を狗奴国王としたからだろう >>731
今だって手入れされてない河川敷なんか、草木が生い茂って歩けないぞ。
ようは地形ではなく人の手が入ってるかないかだろう。 >>728
いや神功皇后がちょうど干支二回り分120年事績の年代がずれていることが分かっている。
だから神功皇后の後の天皇で100歳以上の天皇がちょうど2人いる。
それらを60年ずつ差っ引けばちょうど神功皇后の事績が合う。
だから神功皇后以前の天皇も100歳以上は同様に60年差っ引いて行けばだいたいの年代を推定できるんじゃないかという説 >>730
卑弥呼が弥生時代か大和時代かは断定できない
考古学的にこの時代は空白時代
でもその空白を埋めたのが今回のこの古墳じゃないのかといられてる
https://youtu.be/b_ztXc_Vwl0 >>420
水行10日…神武天皇は吉備から生駒山山麓まで(200km)を半月掛っている…浪速でだ、10日なら100kmかな
当時の船は時速四キロ程度、沿岸航路は島や暗礁が怖いから夜は走らない 海が荒れたら走らない…浜に引き上げてキャンプや 治まるまで何日もキャンプや
船は水が積めない…瓶か竹筒、食料も保存が効けば良いが何方も沢山に積めないだろ、途中のキャンプ地…港で補給するしかない
無線も何もないから浜で襲われたらオシマイや 現在とは違ってソレで食っているムラがあった 海外では今でも有るし
つまり全行程の陸地側は 海の上も完全に勢力下でないと船旅は無理なのや、
因みに安芸から大和まで約600km 当時の道路交通事情では一月で走破するのは無理なはずや 陸路も支配下でないと旅は出来ないけどな
ソレなら船旅のほうが楽やから 陸行1月が不自然なのや 倭人伝の邪馬台国の場所を素直に換算すると
九州よ遥か南らしい
だから過去の研究者は誤字があったと仮定して
畿内や九州説をあげている 記紀編纂時には邪馬台国のことなんかとっくにわけがわからなくなってるんだよな。でも豪族達の
伝承の中に九州からやってきたっていうものがあって、そんで神武の東征をでっち上げたと。で、その
九州からやってきた豪族(思うに応神天皇あたり)てのが邪馬台国にいた人たちだったに違いない。 >>737
上で貶されてる「放射説」というのもあってだな 109 名無しさん@1周年 2018/10/19(金) 18:32:39.90 ID:av491N+H0
何言ってんだ 畿内からどんどん物証が出土してるのに
九州からは何一つ出てこないだろ だって邪馬台国は畿内だったからな
124 名無しさん@1周年 2018/10/19(金) 18:49:02.68 ID:av491N+H0
桃はいつ日本に伝わったのか
古事記や日本書紀によると弥生時代に日本に伝わったと書いてある
720 名無しさん@1周年 2018/10/20(土) 09:42:56.09 ID:jEj0RZO+0
>>124
古事記や日本書紀を書いた時代には
「弥生時代」という言葉は無かったんだわ
九州説派は時代錯誤のヤツが多いな。
左斜め上の半島人のようなw 関門海峡のとことも安芸の宮島も吉備も播磨の港も淡路も
大山も琵琶湖も、なんも書いてない。
卑弥呼の円墳には言及してるのに、巨大な前方後円墳はガン無視。これ、見てないよね。
つまり魏志倭人伝に本州は無関係 邪馬台国の場所はハッキリしないが、魏で皇帝に会った使者は九州の人。そして邪馬台国の本当の名前は「やまと」。
皇帝に謁見の時にあまりに緊張しすぎたか長く待たされてイラついていたのかわからないが、「何処から来た」の問いに、つい方言が出てしまって「やまとタイ!」と。
しかも早口だったので「やまっタイ!」にしか聞こえなかった。 福岡県の古墳から出土した金銀製品
福岡市博多区、中間市、飯塚市、日田市、えびの市、南種子町
石ケ元古墳群(5世紀中〜6世紀中)・・福岡市西区 金製、銀製の耳飾り
金隈遺跡(5世紀)・・金製耳飾り
日拝塚古墳(6世紀前)・・春日市 金製垂飾付耳飾り、金環(耳飾り)×4個
金製花形座金、銀製棗形鈴玉×26個
千鳥古墳群(5世紀)・・古賀市 金製垂飾付耳飾り
宮地嶽古墳(6〜7世紀)・・福津市 金銅透彫冠 (竜文の透かし彫り)、金環(耳飾り)
金銅製鞍金具(唐草文), 金銅製鞍橋覆輪金具, 金銅壷鐙,
金銅製鏡板付轡、金銅製杏葉、銅鎖などの馬具
金銅製頭椎大刀(大型・祭祀用)、金銅製頭椎大刀
宗像大社(4〜10世紀)・・宗像市 金銅製透彫冠、新羅製・純金製指輪、金銅製装身具
沖津宮祭祀遺跡(古墳時代)・・ 沖ノ島 金銅製馬具、金銅龍頭、藍韋威肩白胴丸
ササン朝ペルシャ製と見られるガラス椀の破片
金銅製雛形祭祀品、金銅製高機(織機)
竹原古墳(6世紀後半)・・宮若市 金環(耳飾り)x2、銀製耳飾りx2
銀冠塚古墳(6世紀後〜7世紀前)・・鞍手町 銀製天冠 金環(耳飾り)x8
古月古墳(6世紀後〜7世紀)・・鞍手町 金環(耳飾り)x5、銀環(耳飾り)x3
セスドノ古墳(5世紀末〜6世紀初)田川市 金冠片 金銅製垂飾付耳飾、耳環 ヒスイ製勾玉,, 福岡県糸島市 【国宝】平原遺跡の出土品
1号墓・・◎大型内行花文鏡 5面(または4面)別称「内行花文八葉鏡」日本製、
直径46.5cm、重量8Kgの超大型内行花文鏡(日本最大)。
内行花文鏡 2面
方格規矩鏡 32面
四螭文鏡 1面
メノウ製管玉12、◎ガラス製勾玉3、ガラス丸玉 約500、ガラス小玉 約500、
ガラス管玉 約30、ガラス連玉 約900
耳璫 3破片(支那製イヤリング)
◎素環頭大刀 1(支那製 約81cm)
◎の八咫鏡、勾玉、太刀で三種の神器を構成しており王墓の象徴
1号墓は伊都国女王大日孁貴尊(天照大神)の墓
平原方形周溝墓出土品 銅鏡 40面分(1つの墓では日本最多)
玉類 一括
鉄素環頭大刀 1口 三角縁神獣鏡は中国から一つも出土されていない
そして、三国志の研究家によると金印は死後、魏に返す決まりがあると 弥生時代鉄鏃出土数(鉄鏃とは鉄製の矢じりの事)
東北**1 群馬*21 千葉*63 東京*37 長野*27 石川*55 福井*32
滋賀*13 京都112 大阪*40 兵庫*92 奈良**4 和歌山**5
岡山104 広島*79 山口*97 鳥取*46 島根*30 香川*36 愛媛*25 高知*53
福岡398 佐賀*58 長崎*29 熊本339 大分241 宮崎100 鹿児島**3 二ヶ月間も東を南に間違い続けることなんてないよな
伝聞だとしたらもっと間違わないし
行けずに倭人に詳しく聞いた傍国のところでも間違い、統治機構のところでも間違ってることになる
すごい無理を重ねた上に畿内説はできてるよね
考古学どうの以前の問題じゃないか
九州説に弄られるために存在してるの? >>735
卑弥呼が弥生時代でなくかろうじて古墳時代にかかるとしても、
初期の初期の人でしょ。それであんな箸墓みたいな完成された前方後円墳ができるもんかね。
たしか箸墓古墳って日本に数千ある前方後円墳の中でも十位に入るくらい大きかったよな。 >>745
言われてみれば、シーナにはシャーマンっぽい雰囲気があるなw
「能惑衆」のあたり。 考古学てのは地質とか調べたり、土器の年代とか調べたり
文献学は資料とか調べたり 纏向ガイジは本当に馬鹿だよな。
城柵楼閣のない建物跡を卑弥呼の宮殿と
言ったり、後漢王墓や魏朝皇族墓(最大でも径60m位)よりも遥かに巨大な箸墓古墳(全長270m)を
卑弥呼の墓と言ってみたり。
後世の人間が中華皇帝よりも冊封国女王の方が
偉大だと勘違いしちゃったらどうするの?w
万世一系畿内説カルト信者みたいにw 北部九州に渡来した江南人は甕棺墓制だった
*甕棺出土数は藤尾慎一郎氏のHP「九州の甕棺」から採用
壱岐市(一大国)158 唐津市(末艪国)331 糸島(伊都国) 215
福岡市・春日市(奴国) 1,760 粕屋(不弥国) 77 小郡・鳥栖(投馬国) 2,522
邪馬台国(神崎)2,951
倭人伝に記載した国々からは對馬国以外はすべて甕棺墓が出土しているから
推測すれば投馬国は小郡・鳥栖付近、邪馬台国は吉野ヶ里となる。
要するに卑弥呼が支配したのは江南人が住んでいた地域 円墳に祭事用のスペース付けたら前方後円墳
前方後円墳が最初から前方後円墳の形とも限らないわけで
あちこちの円墳を前方後円墳にして回った集団がいるかもよ >>750
箸墓は卑弥呼よりもうちょい後じゃね
もっと小さい古墳があると思う。 >>733
使者を案内する道なんだから、人の手が入っていないわけがない。
手を加えて道を作っても前の人が見えないぐらいなんだから、
結構大変な山道なんだと思うよ。 >>723>>739
「放射読み」はごくごく自然な読み方だよ。
ただし、陳寿がわざわざ行程を放射的に書いたと解釈してはいけない。
陳寿が「位置」を「行程」だと勘違いしたという解釈のし方だ。
例えば、現代でもハワイを知らない人にハワイを説明する時に、
「ハワイは飛行機で東に向かって7時間飛んだ所にあります」
のような説明のし方がある。
この場合、説明している人は日本人なので、
成田空港からホノルル空港までの方角と時間を示している。
同様に、
「投馬国は南に船で二十日行った所にあります」
と説明した文章があったと考える。
説明してるのは帯方郡使なので、帯方郡から投馬国の港までの方角と時間だ。
この文章が不弥国の説明の後に書かれていたら、
「投馬国の説明」ではなく「不弥国から投馬国に行った」と、
陳寿が勘違いしてもおかしくない。
それまで里数表記だったのが、なぜか日数表記になっているのは、
別々の文献に書かれた別々の文章を陳寿が強引に合体させた可能性もある。 >>53
継体帝は北陸だろ
福井から新潟あたりまでの >>749
「魏志倭人伝」の「邪馬台国」なのに倭人伝の書いてることは間違いで、近畿に大きな墓があるから、そこが卑弥呼の墓。
倭人伝に書いてる遺物とほぼ一致する墓があれば良いんだけど、桃の種とか馬具とか出ちゃってるし…倭人伝無視ならそこは別の国だと思うのです。 水行20日を無視してるのに「倭人伝のとおり!」
ってのがねー >>707
倭人伝に金印のこと書いてあったかな
ちょっと記憶に無いんだけど
九州に伝わる倭人伝にはそうなってるのならしょうがないw >>545
九州に卑弥呼の邪馬台国があった方がストーリーとしても現実的だよな
五百年は謎とされてたけど、そこら辺で邪馬台国が滅んで邪馬台国の金印貰ってたことを利用してその後継と箔つけるために嘘ついたというほうがわかりやすい
邪馬台国が金印貰ってた国だから、そこが弱くなったか滅んだのをいいことに、五百年もたってるからわかるまいと踏んで嘘ついて後継の国と騙ったというのが一番ありそう >>53
王朝交替説で言えば、最後のは大化の改新というか天武天皇だよな。
天武天皇で変わって光仁天皇でまた戻った。 >>137
>>234
>>588
>>597
>>630
>>691
考古学者対一般大衆の構図じゃない
パラノイア学者対一般常識の構図だ >>767
えっ何言ってんの
頭大丈夫か
まあ畿内は倭人伝関係ないからしょうがないか 邪馬台国が滅んだと思ってる人多いね
邪馬台国が、というか邪馬台国という国名で象徴されてる九州倭国がヤマト王権の元になったと思ってるんだけど
畿内で鏡を配ったのも馬鹿でかい古墳を作ったのも九州人だと思う
なんからしいだろ?w >>770
天武系が物部系に担がれた天皇だったかもしれんなあ
天孫系に一矢報いたというか >>738
10世紀の初めには250年か300年前に漢字ばかりで書かれた万葉集が
ワケワカメ状態で読めなくなっていたから
村上天皇が大中臣能宣、源順、清原元輔、坂上望城、紀時文の
の梨壺五人衆に万葉集の解読を命じたんだ。
古代の文化、歴史伝承は300年足らずで失伝するんだ。 九州説と畿内説って仲悪いのな。
どちらも決め手に欠けてる中罵り合ってて面白いわ。 だから記紀はあれほど大国主を良く書いて、天孫系をひどく書いてるのかもしれん。 >>740
倭人伝に載っている国名の解読、比定、特定、同定が
全部できたのならここで披露してくれよ。 >>765
>>762の解釈なら、「水行二十日」は邪馬台国よりわかりやすい。
投馬国は帯方郡から陸行せずにずっと船で二十日かけて行く所。
邪馬台国へは陸行で中九州に向かって行くので、
投馬国はそれを飛び越えて南九州へ行くんだろう。
ただ、よく言われる鹿児島(薩摩)は稲作に不適&距離が短いので、
更に通り越して宮崎あたりじゃないかな。
都城に縄文晩期の水田跡もあるし。 >>743
つまり邪馬臺国を首都とする倭国の標準語は畿内の言葉で
九州博多弁は方言だと認めるんだなwww とりあえず前スレ85だな。
向こうには向こうの文章の法則がある。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています