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【奈良】「ヤマト王権の基礎を作ったのが3世紀の邪馬台国の時代」 ヤマト王権、始まりは纒向 橿考研創立80周年記念講演会★3
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0001樽悶 ★
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2018/12/07(金) 21:31:05.93ID:CAP_USER9
奈良県立橿原考古額研究所創立80周年記念の公開講演会で講演する石野博信さん=奈良県橿原市大久保町の県社会福祉総合センターで、藤原弘撮影
https://cdn.mainichi.jp/vol1/2018/12/01/20181201oog00m010061000p/9.jpg

 県立橿原考古学研究所創立80周年記念の公開講演会「古代の王宮をさぐる」が11月25日、橿原市大久保町の県社会福祉総合センターで開かれた。約530人が参加し、橿考研で発掘調査に長年携わった研究顧問で兵庫県立考古博物館名誉館長の石野博信さんら3人が講演した。【藤原弘】

 石野さんのテーマは「ヤマト王権は纒向(まきむく)から始まった」。邪馬台国の有力候補地の纒向遺跡(桜井市)を巡り、「吉備、出雲、伊勢の人たちが連合で新しいまちを作り、大きな墓を作っていく。ヤマト王権の基礎を作ったのが3世紀の邪馬台国の時代ではないか」と説明した。

 石野さんは、纒向遺跡の初期の調査で見つかった土器は、東海、山陰・北陸、河内、吉備の物の順に多く、箸墓古墳(同市)から吉備で見られる葬送儀礼用の土器「特殊器台」が見つかっていることを説明。「大王クラスの墓に吉備の葬儀用器台がある。葬られた人と吉備に強いつながりがある。吉備の人が巨大な墓を作ったことは、大いにあり得る」と話した。

 続いて、橿考研特別指導研究員で奈良芸術短大教授の前園実知雄さんが「雄略天皇・泊瀬(はつせ)朝倉宮を求めて」と題して講演し、桜井市の脇本遺跡で携わった発掘調査の成果を紹介。5〜7世紀の掘っ立て柱建物跡などを検出し、「脇本を中心にしたところにまず雄略天皇が宮を築いた。(雄略天皇の)5世紀代の建物跡は一部確認されているが、下にあると思う」と話した。

 講演の3人目は、橿考研特別指導研究員で公益財団法人「由良大和古代文化研究協会」業務執行理事の泉森皎(こう)さん。「藤原京の調査」をテーマに、橿考研が歴史的に注目される木簡を見つけたことなどを説明した。

毎日新聞 2018年12月1日
https://mainichi.jp/articles/20181201/ddl/k29/040/481000c?inb=ra

★1:2018/12/04(火) 23:59:00.16
http://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1544004795/
0318名無しさん@1周年
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2018/12/08(土) 15:11:06.34ID:u0hrol+I0
>>270
九州派は
>北界有大山為限 山外即毛人之國
北にある「大山」や
山のアナアナ彼方の毛人の国は
何処だと以為ってるんだ
0319名無しさん@1周年
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2018/12/08(土) 15:12:11.63ID:R3UlFUhI0
あの時代に現地の人間に案内されて移動してるんだから
距離や方角はあてにならない。特に方角は無理
ただ日数は正確に数えられるよ
日数間違えるなんてありえる?
0320名無しさん@1周年
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2018/12/08(土) 15:14:05.63ID:JWHBigBa0
>>308
そのくらいの頃ってまだ年代が定かじゃないんだよねえ。垂仁天皇だって
在位99年140歳で崩御してるみたいだし。
0322名無しさん@1周年
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2018/12/08(土) 15:16:28.30ID:iI50YNnB0
>>319
方角は他人に聞かなくても自分である程度は分かるんじゃないかな?
太陽見れば、北か南かはだいたい分かると思う
0323名無しさん@1周年
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2018/12/08(土) 15:18:22.45ID:JWHBigBa0
>>318
まず方角は左右45°、つまり北なら北西から北東までの90°内を意味すると考える。
そうすると九州北部からは出雲くらいまでが北に含まれてしまうのである。
0324名無しさん@1周年
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2018/12/08(土) 15:18:38.60ID:R3UlFUhI0
無理だよ
時計ないんだよ
0325名無しさん@1周年
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2018/12/08(土) 15:19:32.38ID:cIQncukI0
>>172
>古墳時代の終わりころに政情がめまぐるしく変化した痕跡があり、
>古墳を作らない動きが逆に畿内から地方に広がってるよね。

単に権力誇示のモニュメントが、巨大墳丘墓から巨大寺院に変わっただけだよ
初期の大寺院の塔の基壇に舞納された文物は後期古墳の副葬品と同じ品目になってる
0326名無しさん@1周年
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2018/12/08(土) 15:21:11.35ID:iI50YNnB0
>>324
大体わかればいいんだよ
太陽が存在する方向は絶対に北ではない
朝方太陽が見えるのが東
夕方太陽が見えるのは西
0327名無しさん@1周年
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2018/12/08(土) 15:21:33.64ID:IYVuboko0
書き残した陳寿本人はともかく
よくわからない当時の田舎の無名国のことをそれほど正確に
役人が述懐できてたのかという疑問が
0328名無しさん@1周年
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2018/12/08(土) 15:21:37.77ID:JWHBigBa0
>>318
ついでにわたしは宇佐説なので、ちゃんと北に山口県があります。
0329名無しさん@1周年
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2018/12/08(土) 15:22:29.06ID:bGBH6BfS0
卑弥呼さんが大和朝廷の関係者なら記紀に乗ってるはずだ
別に中国と関係のあった国だけが勝ち残った理屈はない
0331名無しさん@1周年
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2018/12/08(土) 15:29:04.87ID:cIQncukI0
>>212
>東に別種の倭人ありがこの畿内だよ

別種なんて魏志倭人伝のどこにも書いてないんだがw
九州説は旧唐書の或いはの記述に頼りすぎ

魏志倭人伝に書いてあるのは「皆倭種」だ
渡海千里の前も渡海千里の国も「皆倭種」と書いてあるだけ

帯方東南大海上の島にいるのは皆倭種という大陸側の認識が書いてある
0332名無しさん@1周年
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2018/12/08(土) 15:30:05.38ID:/RSceyLh0
古墳の終焉については緩やかな変遷をたどっているのが分かる

ちょうど氏姓制度の成立や律令制の導入などで「視覚的な権力の誇示」と言う方法を必要としなくなったことが背景と考えられる
制度の浸透の遅い地方では多少の差異が生じるがこれも中央からの統治が強くなるごとに同様の道をたどるようになる
畿内の巨大古墳も欽明天皇を境に終焉に向かい、その頃から律令が採用され時期的にも合致する

律令と仏教を国の根幹と考えた天智天皇の薄葬令などにもその思想が読み取れる

仏教が広まりだすとそれまで墓碑を掲げないのが普通だった古墳でも墓碑を伴うものが現れ、代わりに寺院が建てられるなどの変化が読み取れる
0333名無しさん@1周年
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2018/12/08(土) 15:30:42.59ID:FvywOh8+0
>>310
道鏡事件で宇佐神宮に問い合わせた時に先祖にお伺いを立てるといっていたような
0334名無しさん@1周年
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2018/12/08(土) 15:33:11.30ID:R3UlFUhI0
>>326
地図作りに来たわけじゃないし、方角なんて気にしてない
1箇所にとどまって半日かけないとはかれないから

会稽東冶の東にあるとか、その他の史書も方角は滅茶苦茶だからね
0335名無しさん@1周年
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2018/12/08(土) 15:35:29.03ID:L1JNP4iS0
>>299
また出没してる!
〜分かる、というオジサン
0336名無しさん@1周年
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2018/12/08(土) 15:37:46.17ID:/RSceyLh0
宇佐については定型化後の古墳が出現するまでこれと言った中心地と言う性格を持たない

むしろ、定型化後に大和の大和朝廷に服属してから九州の瀬戸内海側の玄関口として地位を得た様子が見える
邪馬台国のような中心性を見出すことは出来ない
0337名無しさん@1周年
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2018/12/08(土) 15:37:57.24ID:NAtYmIkC0
>>318
それは日本の東界北界じゃないの?
0338名無しさん@1周年
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2018/12/08(土) 15:40:01.40ID:/RSceyLh0
宇佐は神夏磯姫の伝説で景行天皇に征討される土地の一つとして現れる

そして古墳もちょうど卑弥呼の後の時代に作られだすことから、
この伝説が史実としてそれなりの信憑性を持つことが分かる

宇佐が重要視されるようになるのはこれ以降
0339名無しさん@1周年
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2018/12/08(土) 15:40:55.96ID:QcVl5Giw0
隋書の時代近畿は秦王國だろ。
秦氏といえば治水技術を持つ開拓集団、大王の命で派遣された蘇我氏の近畿豪族統一政策に推古と聖徳太子が置かれ、天は九州。多利思比孤はまだ九州を拠点にしており
日が出る近畿では弟に政務を執らせてた蘇我聖徳太子と推古政権に二分割されてたんだろ
大和は邪馬台領として第二の大陸型都市を築くための開拓地だったんだよ。
0340名無しさん@1周年
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2018/12/08(土) 15:41:36.66ID:cIQncukI0
>>256
投馬国は出雲だよ

投馬の上古音はdug-mag
雑にカタカナで書けば「ヅマ」
出雲の最初の母音のイが弱声化して聞き取られなければィ「ヅモ」だから
聞き慣れない外国語地名の音訳としては十分に近い

出雲・投馬国の範囲は丹波以西の日本海側、四隅突出墓の分布範囲とみれば、
有ではなく可五萬餘戸なのも理解しやすいし、投馬国一国しかなくて国がスカスカと
いうのもあたらない

投馬国を出雲と見れば、魏志倭人伝の旅程はほぼ無理なくそのままで読める

北部九州から水行20日で出雲
そこからさらに水行10日で丹波
丹波から陸行1月で奈良盆地で矛盾がない
0342名無しさん@1周年
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2018/12/08(土) 15:44:38.64ID:NmLfN+mw0
>>92
おまえさあ、何バカなこといってんの?
ボロ負けも何も、トヨは卑弥呼の宗女って書いてるじゃん。

邪馬台国は、談合政権が都を置いた場所と書いてある。
独立の勢力だったとはどこにも書いてない。
お話を作るなら、自分で読者を見つけてそこでやれ
0343名無しさん@1周年
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2018/12/08(土) 15:51:45.56ID:/RSceyLh0
日中韓それぞれの史書と、考古学的な発見から考えてみても、
弥生時代後期後半から大和に成立した勢力がそのまま全国的な政権として大和朝廷になったと言う方向に問題はない

むしろ近年の考古学的な成果によって記紀等の信憑性が高まっている
年代においては雄略天皇前後の時代からはほぼ実年代であると言う事も分かっている

そうなると古墳と大和朝廷の関係が明らかとなり、その前の時代から継続されるその発展過程から淵源が弥生時代後期後半の時代にまでさかのぼることが出来る
この事から大和朝廷=邪馬台国として段階的に発展してきたことが分かる

今となっては大和以外の土地に中心地を見出すことなどまず不可能だと言える
0344名無しさん@1周年
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2018/12/08(土) 15:52:12.20ID:xeZIUUSl0
>>340
出雲という説もあれば但馬という説もあるな
もっとも、白石太一郎氏なんかは墓制が違うから出雲は別勢力と言っているが
0345名無しさん@1周年
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2018/12/08(土) 15:53:16.98ID:REpavlnp0
>>343
最後の2文だけ飛躍してるで
0346名無しさん@1周年
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2018/12/08(土) 15:53:48.08ID:NmLfN+mw0
>>85
それだな。
諸国の王が連立政権を作って女王を共立した。
どこかの一国が従えたわけじゃない。

各地の王はそれぞれの地元をそのまま支配している。
卑弥呼が死んだあとの争いは、中央政権の権力争い。
トヨが卑弥呼の宗女となっていることから明らか。
卑弥呼の一族ではない母を持つ王が男王になろうとして拒否されたか抵抗された。
0347名無しさん@1周年
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2018/12/08(土) 15:56:38.52ID:xeZIUUSl0
>>343
鏡の配布元が九州から畿内に移ってるのが象徴的だな
ただ、王権が移動した原因が何かなのはこれからの研究課題なんだろう
少なくとも飛鳥時代には大王が元々九州にいたと認識していたようだし
0348名無しさん@1周年
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2018/12/08(土) 16:01:13.29ID:JWHBigBa0
神武の東征はいわゆる天皇の祖先でなくとも他の豪族の伝承として残されていたと考えるのが最も妥当だと
思うんだよね。ということは当然九州あたりからやってきた豪族がいるというわけで、それが邪馬台国の一部
であるとしても良いのではないか。
0349名無しさん@1周年
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2018/12/08(土) 16:01:25.57ID:/RSceyLh0
出雲については、邪馬台国と並立する別王国として存在していると考えられる

邪馬台国は吉備、丹波、播磨、近江、河内、摂津、阿波、讃岐が主たる構成国
出雲は出雲、伯耆、因幡
出雲は邪馬台国の強い影響を受けているものの、あくまでも別の国で核メンバ―にはいない
邪馬台国の文化的構成要素に出雲の直接的影響は希薄

この事から上記の邪馬台国構成国で7万戸、投馬国の出雲の領域で5万戸という記載と結びつくと考えられる
0351名無しさん@1周年
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2018/12/08(土) 16:04:52.21ID:D/2zxlZx0
倭地は温暖にして、冬夏生菜を食す。
皆、徒跣。屋室有り。
父母、兄弟は異所に臥息す。
朱丹を以ってその身体に塗る。
中国の紛を用いるが如し。

男子は大小無く、皆、黥面文身す。
古より以来、その使中国に詣(いた)るや、皆、自ら大夫と称す。
夏后少康の子は会稽に封ぜられ、断髪文身して、以って蛟龍の害を避く。
今、倭の水人は沈没して魚、蛤を捕るを好み
文身は、亦、以って大魚、水禽を厭(はら)う。
後、稍に以って飾と為る。諸国の文身は各に異なり
或いは左し、或いは右し、或いは大に、或いは小に。尊卑差有り。
その道里を計るに、まさに会稽東冶(”現中国の浙江省”) の東に在るべし。

女王国より以北は、特に一大率を置き検察し、諸国はこれを畏憚す。
常に伊都国に治す。国中に於ける刺史の如く有り。
王が使を遣わし、京都、帯方郡、諸韓国に詣らす、及び郡が
倭国に使するに、皆、津に臨みて捜露す。
文書、賜遺の物を伝送し女王に詣らすに、差錯するを得ず。

「魏書」第30巻『 魏志倭人伝 』 普平陽侯相 陳寿撰
0352名無しさん@1周年
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2018/12/08(土) 16:07:52.56ID:R3UlFUhI0
>>351
会稽東冶って福建省だよ
さらっと嘘つくなよw
0353名無しさん@1周年
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2018/12/08(土) 16:09:38.86ID:IjMEj/c70
>>329
そこは確かに疑問だ

都合が悪くて隠蔽したんなら、なんでモモモソヒメだの神功皇后だのヒントみたいなのをちょくちょく挟むのか

時の政権が本気で隠したいならもう完全に本気で記述を消せばいいのに
0354名無しさん@1周年
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2018/12/08(土) 16:10:34.02ID:D/2zxlZx0
倭人は帯方の東南、大海の中にあり、山島に国を作っている。
土地は平野少なく山林が多く、良田はない。海産物を食す。
昔は百余の小国が互いに接す。魏の時に至って、三十の国があり親しく交流す。
戸数は七万あり、男子は大人、子供はみな、顔と体に入れ墨をしている。

倭人たちは自ら太伯(古代中国の周王朝)の子孫だという。
また昔、倭国の使者が中国を訪れた時、倭人は自ら大夫(周朝の貴族)と称す。

いにしへの夏朝(中国大陸初の王朝)の少康(夏朝皇帝)の子は
中国会稽に封じられると、髪を切り、入れ墨をし蛟龍の害を避けたが
今まさに倭人達は沈没して魚を取るのを好み、同様に入れ墨し水魔を払う。

倭国までの道のりを計算すると、まさに会稽東冶(”現中国の浙江省”)の東にあたる。
その男子の衣服は横長の布を結び合わせてつなぐだけで、ほとんど縫いつづることがない。
婦人の衣服は一枚の掛け布団のようで、中央に穴をあけ頭を入れる。
皆おかっぱ頭で、裸足である。

倭人の地は温暖で、稲やカラムシを植え、養蚕して布を織る。
土地に牛、馬は無し。刀、楯、弓矢があり、鉄をヤジリにしている。

倭国には家屋があり、父母と兄弟は異なる場所で寝る。
食飲にはまな板状の台と高坏を用いる。
正月や四季の区別が無く、ただ秋の収穫の時を数えて年紀としてる。
死に際し棺はあるが槨なく、土を盛って墓を作る。初め喪中は哭泣して肉食を絶つ。
葬儀が終わると、家中の者が水に入り、体を洗い清潔にし穢れを取り除く。(神道の源流)

重大な決断時には、太占を行い骨を焼いて吉凶を占う。
倭人は長生で、百歳とか八、九十歳の者が多い。
婦女は淫らではなく、嫉妬もしない。争いや訴えはない。
軽罪を犯した者は家族ともども身分を奪って奴隷にし、重罪者は一族を滅ぼす。

その倭国の王家は昔は男子を君主として立てていたが
漢末に倭人達は乱れ戦うことなり倭人は共に女子を立てて倭国の女王とす。
其の名は卑弥呼という。
宣帝(魏の宣王、司馬懿仲達。晋の建国後、宣帝と諡された)が公孫氏を平らげると
その女王は遣使して帯方に至り朝見した。その後も貢ぎ、遣使することは絶えなかった。
文帝(司馬昭)が魏の相国になると、また何度か使者を遣わし中国に来朝す。
晋の泰始元年(司馬炎)に遣使し、倭人は通訳を重ねて中国へ朝貢に遣って来た。

「晋書」第97巻 『 四夷伝倭人伝 』 房玄齢撰
0355名無しさん@1周年
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2018/12/08(土) 16:10:58.98ID:/RSceyLh0
>>347
東征の痕跡が皆無なことから神武伝説はあくまでも伝説であろうと思われる
出雲の例でも分かるように神話的系譜の連続性を主張することで朝廷の秩序の正当性を主張している物語だと考えられる

そして大和朝廷が重視しているのはあくまでも日向
九州の中心地として栄えていた筑前付近は「外国由来の後から降伏してきた外様」と言う扱いで全く尊重していない

この事から大和朝廷は瀬戸内海からの出口となる九州東部との関係をより強く主張して九州の支配権を掲げるとともに、北部九州をけん制しようとしたと考えられる
九州と言っても大和朝廷が重視してる場所に注意が必要
0356名無しさん@1周年
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2018/12/08(土) 16:11:41.98ID:NAtYmIkC0
>>340
投馬国は畿内説なら出雲、伊都国放射説なら薩摩が有力候補だとは思うが、
5万戸をいかに養うかが論点の一つになるかな。
出雲の場合は平野が十分に無く、交易で他の地域から米を送ってもらう必要が出るだろう。
以後の古墳建設を考えれば、当時の大和にはそこまで余裕があったとは思えないので、
九州だろうな。出雲と九州の関係が当時良好だったかどうかが一つの鍵になるかな。
薩摩には平野が十分あるが、土地がやせてたとかいう評判が気になる。
貝輪等の海産物との交換で九州北部から米を送ってもらう必要があったかもしれない。
0357名無しさん@1周年
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2018/12/08(土) 16:15:01.25ID:vfPV8v/t0
>>322
現代でもスマホとか道具無くても方向は時間と太陽を見ればだいたい分かるよな
東と南を間違えたりしない
むしろ方角だけはある程度あてになるよな。
0358名無しさん@1周年
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2018/12/08(土) 16:16:23.73ID:/RSceyLh0
記紀の伝説を見ると大和と九州という物の関係が見えてくる

重視
・日向、宇佐、宗像

軽視
・筑前

と言う姿勢で臨んでいるのが分かる
このような形から「九州の王統が移動した」などではなく、「九州を支配するために地元の有力豪族を冷遇し、朝廷に近い土地を優遇してけん制した」
とみることが出来る

この事から神武東征にしろ、宇佐、宗像に対する扱いにしろ、ここに根源があったと言うよりも、
大和朝廷による地方支配の姿勢が明らかになる記載だと理解できるだろう
0359名無しさん@1周年
垢版 |
2018/12/08(土) 16:17:27.81ID:QcVl5Giw0
鉄も持たない近畿の小国がいきなり列島支配する規模の巨大勢力になるわけがない。
0360名無しさん@1周年
垢版 |
2018/12/08(土) 16:18:03.58ID:iI50YNnB0
>>357
そう
樹海の中をさまよう訳じゃないし
雨や曇りが続く訳でもないだろうし

太陽が見えてたら、おおよその見当はつくよね
0361名無しさん@1周年
垢版 |
2018/12/08(土) 16:18:05.28ID:rUab6wxa0
5chは既に在日チョンに買収されているのをご存知ですか?
在日チョンの5ch運営が規制してリンク貼れなくなってしまったので、
「2chの譲渡先、5chの代理人弁護士は通名のしばき隊員」で検索してみてください

そして、在日チョンのバックに居るのは売国政党の立憲民主党です
安倍政権はパチンコ規制など次々に在日チョンに打撃を与える法案を通しているので、
売国左翼や在日チョンは安倍政権を倒そうと必死です
全力で安倍政権を守りましょう

在日チョンの帰化議員がワンサカいる売国政党の立憲民主党

「竹島は日本の領土ですよね?」立民・白真勲(ハク・シンクン)議員を再直撃! 徴用工判決には「コメントできない」連発…


在日韓国人組織の民団は立憲民主党の支持母体の一つ。売国政党の立憲民主に絶対に気を許してはならない

在日本大韓民国民団の中央本部新役員と意見交換 - 立憲民主党

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.627+8967
0362名無しさん@1周年
垢版 |
2018/12/08(土) 16:18:50.88ID:vfPV8v/t0
>>311
魏志倭人伝の記述が現実と合うように解釈するのが詭弁?!
全て間違いで処理してしまう方が建設的じゃないし詭弁もいいとこw
0363名無しさん@1周年
垢版 |
2018/12/08(土) 16:18:56.16ID:xeZIUUSl0
纏向に大きな影響を与えた吉備勢力は宇佐と同族だと記録されてるんだよね
宇佐の八幡宮や西都原の古墳群からもわかる通り、ヤマト王権の成立には吉備を介して間接的に九州東岸が何かしら関係している可能性はある
0364名無しさん@1周年
垢版 |
2018/12/08(土) 16:20:21.50ID:NmLfN+mw0
>>347
王権が移動したわけじゃないな。
100国あったのが30になり、その多くの国が女王を共立した。
有力な国がいくつかあっただろうが、別に王権が移動したわけじゃない。
纏向に都を作ったということは、逆に言えばヤマトには「有力な王」はいなかったとも
考えられる。中立な第三地域に都を造る。
0365名無しさん@1周年
垢版 |
2018/12/08(土) 16:21:21.87ID:vfPV8v/t0
>>360
太陽は時間で位置が移動するから誤差が出るのは仕方がない
呼子か名護屋浦から唐津市街地方面に向かうのを南だと判断するのは常人だな。
0366名無しさん@1周年
垢版 |
2018/12/08(土) 16:21:59.55ID:QcVl5Giw0
邪馬台は九州の海軍を持つ連合。
天皇統一王権では無い。
0367名無しさん@1周年
垢版 |
2018/12/08(土) 16:27:16.89ID:iI50YNnB0
>>365
そう
そして魏志倭人伝の記述では、
山海に沿って住む。
草木が茂り、前を行く人が見えない
となっているから道は直線ではないという事も分かる

誰かが書いてたけど、当時の里程は一日歩けば〇里としていたのなら
直線の道ではなく、海岸にそって歩いているのだから
一日に進める距離も短いだろう
それで、実際よりも長い500里と書かれてるのではなかろうか
0368名無しさん@1周年
垢版 |
2018/12/08(土) 16:28:00.59ID:/RSceyLh0
実際に考古学的な発見から九州東部の日向、宇佐、宗像などの土地に古墳や有力な勢力の出現が始まるのは定型化後の事となっている

大和朝廷が九州への直接的な干渉を強めた時期にここにその息のかかった有力豪族が出現する形となっている
宗像なども朝廷が朝鮮半島に進出する頃になると勢力が拡大するなど朝廷の都合に合致した変遷を見せている事からもその背景が見えてくる

記紀の九州東部重視の姿勢は、大和朝廷による九州統治の為の戦略であると分かる
0369名無しさん@1周年
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2018/12/08(土) 16:28:04.06ID:NAtYmIkC0
>>353
記紀で女性にスポットライトを当ててはいけないと言ってるようなもんだな。
0370名無しさん@1周年
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2018/12/08(土) 16:29:29.21ID:NmLfN+mw0
>>359
女王を共立したと書いてるだろ?
武力で支配したなんてどこにも書いてない。
0371名無しさん@1周年
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2018/12/08(土) 16:30:38.40ID:bZPRs+BM0
女王を共立なんて近畿大和にそんな習慣なさそうだよなあ
どうみても九州北部の土蜘蛛
0372名無しさん@1周年
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2018/12/08(土) 16:33:29.44ID:Obr6jL3l0
邪馬台国…入れ墨あり
土蜘蛛…入れ墨あり
ヤマト王権…入れ墨なし

さて、畿内派の言い訳を聞こうか
0374名無しさん@1周年
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2018/12/08(土) 16:34:38.22ID:xeZIUUSl0
>>368
中央集権的な支配はもうちょっと後の時代ではないかな
現に、九州北部は卑弥呼の時代以降衰退どころかむしろ発展してきているし
ただ、磐井の乱の頃、継体天皇の王権と対立したのは間違いないと思う
0375名無しさん@1周年
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2018/12/08(土) 16:36:12.94ID:NmLfN+mw0
>>366
海人が九州である必然性はないな。
海人なら、丹後を拠点とする海部氏(尾張氏)の先祖は海人だわ。
神功皇后のとき、水夫を300人連れて従ったという記述がある。
この「水夫300」はただの乗組員ではなく、300の船団ということらしいからな。
0376名無しさん@1周年
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2018/12/08(土) 16:36:52.79ID:NAtYmIkC0
>>363
朝鮮南部に任那を建設することが目的なら、
必ずしも筑紫を服従させる必要は無いのかもしれないな。
0377名無しさん@1周年
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2018/12/08(土) 16:39:07.83ID:QcVl5Giw0
>>372
旧邪馬台勢力を記紀では土蜘蛛として妖怪にし歴史から消してるよな
土蜘蛛は鏡も持ってたらしいし、大和が奪ってったんだろ
0378名無しさん@1周年
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2018/12/08(土) 16:40:48.92ID:Ta8SPQdM0
>>318
日本國者倭國之別種也

日本国は、倭国の別種なり。
0379名無しさん@1周年
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2018/12/08(土) 16:42:38.94ID:vfPV8v/t0
>>367東松浦半島は平たいので海岸沿いではなく内陸を唐津市街地方面に直線的に進んだだろうと考えられる
唐津市街地から糸島市方面が海岸沿いでないと山越えなるから海岸沿ルートだな
歩測で距離も測ったんだろうな
短里を否定したい人がいるが
現実に三国志だけでなく新羅本記とかでも使われてるからな。
0380名無しさん@1周年
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2018/12/08(土) 16:44:18.27ID:xeZIUUSl0
>>375
宗像氏は出雲の親戚という記録も残っているし、海部氏含めてなんか血縁関係が繋がりまくってるんだよな
0381名無しさん@1周年
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2018/12/08(土) 16:50:19.42ID:RO2sKwDD0
>>377
邪馬台勢力は奈良朝時代までは系譜上しっかり残ってるよな
どこの誰が鏡持ってた?
0382名無しさん@1周年
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2018/12/08(土) 16:56:37.41ID:/RSceyLh0
>>374
古代とは言え大和朝廷による各地域の有力豪族に対する支配の手法は中々巧みなものがある

出雲、筑前、筑後、吉備、武蔵と言った強力な地域をローマの分割統治を思わせるような見事な方法で従えている
言う通り、集権化はかなり後の奈良時代以降になるが、それに至る統治方法は軽視できない物がある

各地域の半自立的な豪族は大和朝廷の干渉が強くなる圧迫に対して暴発したり言いがかりをつけられて滅ぼされている
磐井の乱などもそういう地方豪族の乱の一つ

石人等の中途半端な独自性がむしろ大和朝廷の影響下における精いっぱいの許された個性だと言うのが分かる
0383名無しさん@1周年
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2018/12/08(土) 16:56:47.57ID:RO2sKwDD0
>>373
古墳規格のことだろ
あと前方後方分布の2つの時期の場所とかだろな
後方墳のほうは九州は間接的にしか関係ないがな
0384名無しさん@1周年
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2018/12/08(土) 17:00:01.83ID:Kb+EWy9T0
>>1
ヤマト王権
王朝は嘘ニダ王権が正しい

教科書を変えた我々の勝利ニダ
0385名無しさん@1周年
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2018/12/08(土) 17:01:12.31ID:iI50YNnB0
>>383
なるほど
古墳の規格の話か

宇佐神宮の下の古墳は規格化された古墳なのだろうか?
0386名無しさん@1周年
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2018/12/08(土) 17:02:23.67ID:wRUcWMahO
また不可逆理論やってんのか
半島にも古墳はあるけど別王朝だろ

多元王朝説が正しいって白状してるな
0387名無しさん@1周年
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2018/12/08(土) 17:02:30.63ID:jviTNKty0
ヤマトタケルノミコトの東鉦と大国主命のバトルはいつの時代の話?
因幡の白兎の話
0388名無しさん@1周年
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2018/12/08(土) 17:03:19.46ID:NAtYmIkC0
>>374
僕は卑弥呼の時代以前に既にピークに達していて、
それも一つの要因となって争いが起こり始めてたんじゃないかと思うけどな。
その後は横ばいを保つのが精いっぱい。
倭の五王の時代には華南地域に朝貢して交易を行い技術等を吸収し、
ある程度の経済成長があったかもしれないが。
0389名無しさん@1周年
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2018/12/08(土) 17:08:14.55ID:Ta8SPQdM0
>>348
神武東征の話は、天皇家が、天孫降臨の地である九州から来た、天孫の子孫であるということを主張する重要な部分。
わざわざ記紀にそう書いたということは、倭国の正当な支配者を名乗るには、九州から来たとする必要があったということ。
0390名無しさん@1周年
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2018/12/08(土) 17:10:42.15ID:REpavlnp0
>>379
唐津市街や虹ノ松原は当時はほとんどが海の底や湿地で形成は四世紀以降だからな
相当南まで遠回りしないと陸行はできん
0391名無しさん@1周年
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2018/12/08(土) 17:10:55.28ID:NAtYmIkC0
>>382
ローマの統治はあくまで武力によるものだったはずだと思う。
各地域までの街道を整備して、反乱を起こせば
ローマの強力な軍隊と周辺地域の軍隊がすぐに駆け付けるといった具合で。
大和による支配体制は必ずしも武力に頼ったものじゃなく、
ローマの物よりはかなり緩いもので、生活向上の貢献への評価とか
なんか違ったものによるものだったんじゃないかと推測してるけど。
0392名無しさん@1周年
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2018/12/08(土) 17:14:20.73ID:ota7hqUz0
卑弥呼全盛期の西暦200年頃は日本がまだ小国に分かれ
互い権を競っている段階。その中で伝統的に奴(筑紫)を中心と
する筑紫エリアが魏と朝貢するチャンスを得た。
その後の変化はまだ分かって居ない
0393名無しさん@1周年
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2018/12/08(土) 17:16:46.30ID:NAtYmIkC0
>>389
純粋に天皇家に言い伝えられてきた建国のいきさつを書いただけだと思うけどな。
記述された年代は怪しかったのかもしれないが。
0394名無しさん@1周年
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2018/12/08(土) 17:18:05.69ID:/RSceyLh0
卑弥呼の時代はそれ以前の各地域のバラバラなクニの段階から全国的な連合を成立させる大きな画期

ただ、これはピークでも終焉でもない
この後の大和朝廷に繋がるスタート

それが証拠に布留式段階の定型化後になると畿内の影響はそれ以前とは比べ物にならない格段の強化を遂げる

緩やかな同盟国程度の関係から、ハッキリとした中央と地方と言う関係性が成立する
邪馬台国は卑弥呼後に消えたわけでも衰退したわけでもない

むしろ飛躍的な発展を遂げる最初の段階だと言える
0395名無しさん@1周年
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2018/12/08(土) 17:23:05.90ID:vfPV8v/t0
>>390
>相当南まで遠回りしないと陸行はできん

せいぜい2〜3kmでしょ。
0396名無しさん@1周年
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2018/12/08(土) 17:23:07.24ID:h0gRDEB50
>>1
魏志倭人伝に巻向の「マ」の字も無い
奈良の「ナ」の字も無いから
巻向は邪馬台国では無いよ
0397名無しさん@1周年
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2018/12/08(土) 17:25:22.85ID:NAtYmIkC0
卑弥呼の時代にはすでに開拓できる土地が九州北部に無くなりつつあった。
ただ、米を作ってるだけなら1年中働いてる必要は全くなく、
暇を持て余した人間がやることは… みたいな。
0398名無しさん@1周年
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2018/12/08(土) 17:27:49.48ID:4D6tnH250
遣隋使は九州倭国の使節で日本書紀は九州倭国の歴史も混ぜて書いてる
朝鮮関連は白村江で負けるまで九州倭国の歴史
日本書紀は九州王と大阪王のちゃんぽん
0399名無しさん@1周年
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2018/12/08(土) 17:28:46.02ID:REpavlnp0
>>395
今の海岸線からだと6q〜ぐらい
さらに鏡山の北側の平地は使えないしな
0400◆HKZsYRUkck
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2018/12/08(土) 17:29:14.16ID:5bzgloOL0
>>358
この視点は大事だね。
特に隼人をアマテラス直系の海幸彦の子孫に位置づけるあたり、
単に征服の正当化という文脈ではなくて、「あえて選んで」役割を押し付けた感がある。
このへんは出雲も同じか。
0401名無しさん@1周年
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2018/12/08(土) 17:31:25.25ID:gmR1kOQw0
以前の畿内説は「畿内が北部九州を飲み込んだ」というものだったが、当初はもっとフラットな関係だったと思うんだよね
後になると吉備氏の乱とか磐井の乱とか色々あるけど
0402名無しさん@1周年
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2018/12/08(土) 17:43:19.77ID:4D6tnH250
天智天皇は九州王家で娘を天武天皇家に差し出して
九州王家を吸収合併させただけ
0403名無しさん@1周年
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2018/12/08(土) 17:45:33.00ID:REpavlnp0
>>401
前方後円墳は豪族としてヤマト王権に従った証だと思うんだよね
末ら国や伊都国の単位で豪族になってるっぽい感じだし

歯向かった地域は滅ぼされて直轄地になて前方後円墳は作られない
東国も同じに思える
0404名無しさん@1周年
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2018/12/08(土) 17:50:12.58ID:4D6tnH250
福岡はどきゅんが多いのでいざこざ多くて
どうにもならなくて 九州王は大阪に吸収してもらった
0405名無しさん@1周年
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2018/12/08(土) 17:50:31.59ID:NAtYmIkC0
>>403
不作の年があれば、他の地域から助けてもらうみたいな、
組合組織的な範囲を示す指標みたいなもんみたいに思ってるかな。
0406◆HKZsYRUkck
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2018/12/08(土) 17:50:54.85ID:5bzgloOL0
>>401
実際のところ、筑前をちゃんと勢力下に収めたのは
磐井の乱の後で糟屋の屯倉を手に入れてからだよね。

と書くと、那珂八幡古墳を挙げて反論する人がいる気もするが、
面的にも時間的にも広がらない孤立の事例だから、単なる物好き
の範疇だと思うw
0407名無しさん@1周年
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2018/12/08(土) 18:11:21.00ID:4D6tnH250
和を以て貴しとなす
とは福岡のキチガイに向けて言った言葉
0408名無しさん@1周年
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2018/12/08(土) 18:31:07.08ID:4D6tnH250
蘇我入鹿は福岡大宰府で権勢ふるってたのを
殺害して潰したのは
九州王と 大阪
0409名無しさん@1周年
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2018/12/08(土) 18:31:23.20ID:NAtYmIkC0
日本列島における力関係は、武力による部分はどちらかというと2次的で、
不作の時に助けてあげることができるといったものだったんじゃないかな。
卑弥呼の時代なら九州北部の生産力がトップだったと思うが、
畿内と中京は比較的近くその平野を合わせれば九州北部を圧倒的に上回る。
開拓が進むにつれ力のバランスは変わっていき、
古墳時代が終わるころにはほとんど開拓が終わっていて、
九州北部の立場は畿内・中京に比べ非常に弱くなってた。
畿内と中京では畿内の方が各地域に交通の便が良かったので、
自然と中心地となってったみたいな。
0410名無しさん@1周年
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2018/12/08(土) 18:39:15.66ID:vfPV8v/t0
>>399
海岸線から鏡山まで2kmもないよ?
0411名無しさん@1周年
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2018/12/08(土) 18:40:33.87ID:REpavlnp0
>>410

さらにと言ってるだろ、別の話やぞ
0412名無しさん@1周年
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2018/12/08(土) 18:45:46.73ID:y6R9DFVPO
>>403
そんなイスラム帝国みたいに、改宗かさもなくば死を選べ、みたいにしてまで
前方後円墳を作らせる意味があるのかね?
催事に関することを強制させるのは邪馬台国みたいな緩やかな連合のイメージとは違うな。
0414名無しさん@1周年
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2018/12/08(土) 18:50:05.12ID:RfwjNM800
>>400
アマテラス系はユダヤと同祖
地中海東岸から支那南部へ達し九州へ渡り日本全土に広がって日本固有のD1b縄文と混血した
隼人は近い時期に枝分かれしたが元は同祖(のはず)と考えるのは自然
天皇や皇族の近侍として武器を携帯させるなど異民族への扱いとしては考えられない
勤めが終わると区分田を支給されて一般民化した
移配蝦夷の扱いと全く異なる
0415名無しさん@1周年
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2018/12/08(土) 18:58:56.37ID:NmLfN+mw0
>>389
天孫の子孫という点では、近畿にはすでに天火明命の子孫が来てるんだよね。
彼らの中に、アマテラス含む神代の伝承があり、彼らの仲間入りするには
自分が天孫であるというほかなかったとも考えられる。

近畿の天孫ー天孫降臨ってオレたちのご先祖さんだが?
神武ーーいや、九州に下ったオレの先祖もおったんだ。
近畿ーそんな話は聞いたことがないが?
神武ーいや、おれは確かに天孫の子孫だ。
近畿ー(゚∀゚)
0416名無しさん@1周年
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2018/12/08(土) 19:02:50.98ID:NAtYmIkC0
>>414
古墳時代に古代イスラエル人の子孫的な人が入ってきてるとしたら、
僕は朝鮮から出雲経由で大和に入ったと思ってるかな。
新羅が滅んだ時に大量に九州北部に逃げのびてきた可能性は否定しないが。
0417名無しさん@1周年
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2018/12/08(土) 19:14:10.78ID:FvywOh8+0
>>415
なんで神武が先に来ている天孫系から土地を分捕ったのかとか考えると楽しい
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