【邪馬台国論争】畿内説vs九州説、「邪馬台国は東遷したか?」テーマに議論 福岡・飯塚、古代史連続講座に150人
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古代史連続講座で意見を交わす登壇者たち
https://www.nishinippon.co.jp/import/f_chikuhou/20190128/201901280001_000.jpg
考古学者の高島忠平氏が監修とコメンテーターを務める古代史連続講座「古代から未来のトビラを拓(ひら)く〜遠賀川の古代文化と邪馬台国」の第6回フォーラムが27日、飯塚市で開かれた。関西外国語大教授の佐古和枝氏と、元佐賀県立名護屋城博物館館長の田平徳栄氏が「邪馬台国は東遷したか?」をテーマに議論。約150人が参加した。
邪馬台国の場所については、九州説と畿内説のほか、九州から畿内に移ったという東遷説がある。畿内説の田平氏は「東遷はノー。邪馬台国は魏が認めた唯一の政権で、一貫して畿内にあってヤマト王権に引き継がれた」と主張。
一方、九州説の佐古氏は「北部九州にあった論拠は、大規模集落や王墓が複数あり、大陸系の遺物が出ているからだ。ただ、九州説でも疑問点はある」と話した。
西日本新聞 2019年01月28日 06時00分
https://www.nishinippon.co.jp/nnp/f_chikuhou/article/482459/ 頭の白い人や、光ってる人多数の講座なんだろうなww 俺の仮説
カササギは外来種として九州北部には留鳥として居る
カササギは繁殖するとその地に定着する
魏志倭人伝には「其の地には牛・馬・虎・豹・羊・鵲 無し。」とある
なぜ、「鳥」ではなく「鵲」(カササギ)が倭国には居ないとあえて記したのか
魏が後に、倭国へ「鵲」を贈っていたと仮説するならば
生物学的なDNAの解析によって、鵲のルーツを特定できるのではないか
銅鏡などの錆びついた物証だけではなく
鵲が現在まで生き継いだ魏の使者ならば
邪馬台国の生きた物証としてロマンがある 案外呉あたりの遺民が日本にやってきて
日本統一していたりしてなw 東方見聞録と同じで、テキトーなことが書いてあるんだよ。
騙されすぎ。
(´・ω・`) 人は記憶型と思考型に大別できる
昨日の邪馬台国スレでOR説が出てた
水行10日 OR 陸行一月
こうなると邪馬台国は鹿児島になる
そして水行20日の投馬国は沖縄 尾張って古からの大国なのに
結局、愛知県で政権が開かれる事は無かったな 古代日本で日本民族大移動などと言う珍事は存在しません。 >>4
鵲は鎌倉時代でも別の鳥をさしてるようだぞ?
鶴の偽物みたいなやつ >>4
既に調査済み
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%82%B5%E3%82%B5%E3%82%AE#日本生息個体に関する知見
九州の個体群は、朝鮮とは別亜種で中国と同亜種に分類されている。
九州の個体群は17世紀に朝鮮半島から現在の佐賀県(佐賀藩)および福岡県筑後地方
(柳河藩)に人為移入された個体が起源とされる。 >>14
だよな朝鮮にあったのにまったく日本人ときたら… >>11
これだよな 全く争った跡が無い
関東東北地方はあれほど反乱に次ぐ反乱だったのに
関西と九州はホンマに平和的な地域 一緒に朝鮮と戦ったからか もちろん神話なんだけど神武東征伝説があるわけだ。
初めから機内に根拠地が有るならわざわざこんなことは書かない気がする。
邪馬台国が東遷したという意味ではないけどね。 邪馬台国は日本列島には無かった、でFA
魏志倭人伝での出発地点の解釈が間違ってるだけなんだよね 九州にいた天孫族が東遷して大和にいた邪馬台国を滅ぼしたとみるのが最も自然 後漢時代(25-220年)
北九州:後漢の年号の鏡、三種の神器の墓制。つまり中国との関係で国内での権威付けとしている。
魏時代(220-265年)
畿内:魏の年号の鏡、銅鐸に代わり三種の神器の墓制と前ぽ後円墳。
つまり、魏の時代には畿内へ三種の神器の墓制や中国との関係を権威付けとする文化が
移動している。 心の底からどうでもいい。
考古学って非生産的だよね。 神代が終わって、神武の東征から「人の歴史」が始まる構成になってる
大和朝廷としては、初代から大和なんだよ 東に東に行くって基本。九州に王墓多し。邪馬台国から大和になったんだろう 邪(ミャ)馬(ンマー)台(タイ)国
ミャンマーからタイにかけてならワンチャンあるかもな
南国だし でも古墳は北のほうにまで分布してるんだよな
時代は何世紀かズレてはいるが
そもそも古墳を作る文化は西暦でいうと
何年から何年で
卑弥呼の時代は時期的にいうと初めの頃?なのか?
それとも中間か?後期・末期のそれとは規模も模式も違うと思うな >>26
漢代の墓穴の形って、どんなのだろう。
知っていたら教えてほしいです。 卑弥呼時代とみられる古墳は
朝鮮半島南部までみられるし
朝鮮人が主張してる邪馬台国は朝鮮説はそのせいだし
きっと朝鮮人の教科書では魏志倭人伝に書かれれてることは朝鮮の歴史て習ってると思うよ >>28
その狗奴国が天孫族の国
元々は朝鮮半島南部にいた狗邪韓国 >>36
なんで朝鮮半島?
狗奴国は邪馬台国の南か東にいたんだぞ? >>35
古代の朝鮮半島南部は倭人が住んでいたんだろう
今の朝鮮人はもっと北にいた いや、卑弥呼の時代に「朝鮮人」なる定義を使うことはできない >>1
大局的には
早くから近畿には、冨の蓄積が起こり強大な政権が誕生する素地は十分にあったのである。
というのは、古代の日本と、当時の先進地域であった中国大陸とのかかわりは、
未開の蛮人がタムロする陸路で難路の朝鮮半島経由より、(しかも運搬手段はホボ背負い)
直接、北陸の福井(敦賀)から船で中国大陸と交流する方が、安全・確実で速やかにできるものであった。
それにより、地の利がある奈良盆地を中心に近畿日本が栄えたのは当然のことであろう。
神武東征も、すでにその時代に「近畿の繁栄」は日本列島全体に知れ渡っていたからこそ、
神武は多くの困難をものともせず、近畿を目指したのであろう。
そして、邪馬台国の卑弥呼が誕生したのは、それから900年後なのである。 なんか魏志倭人伝にかかれている遺体の埋葬は
木の棺みたいなのじゃなくて大きな瓶を焼いたものにすっぽり入れて埋めるみたいだね
この方式の埋葬に使ったとみられる大きな瓶は南朝鮮半島から北九州の遺跡によくみられるらしいね
畿内でそんな瓶出てきたことあるの?子供が入る程度の大きさじゃなくてさ? 狗奴国が西征したんだよ。
卑弥呼の墓は均されて筑紫君の墓の下にでも埋まってんじゃないの 北部九州は3世紀中頃には畿内政権の傘下に入っていたことが考古資料から確実になってる
この状況で九州説をごり押しするには、伊都国や奴国が二股をかけていた
という非現実的な想定をしなければならない
だが、糸島や博多をいくら発掘してもそんな痕跡はまったくない
九州説前提の邪馬台国連合など存在しないということ >>44
魏の時代ですらコンパスなくて見える島や海岸伝いにに海路移動してたんだけど?
少なくても水行何日なんて書き方ではなく
最初に 循海岸水行 て 書き方してるから 瀬戸内海や日本海岸沿いで行くのなら
同じ書き方しないとおかしい
畿内説はそのへんどう考えてるの? >>46
ありがとう
漢代の墓は、外見は墳丘墓で、墓穴は〇と平行四辺形の組み合わせだってことはないかなと。 東遷説の弱点の一つはなぜに神武東遷神話では日向を故地としているか?
ということ
普通、北九州っすよねえ
捏造があったとすれば、神武は本来、ヤマト王家の本流ではなく傍流のまた傍流で九州のど田舎、高千穂あたりしか治めてなかったが
ナガスネヒコの激戦で王家主流が戦死しまくったので棚ぼたで王位についたとか >>40
衛氏朝鮮が紀元前100年頃だったか、なかなか優れた王だったらしい
ま、最初だけだがw >>22
だって「初めから」畿内にいた有力部族なんているわけ無いだろ?縄文人でもない限りみーんな西から来たんだ
だからどんな部族でも東に移った伝承を持ってても不思議じゃないと思う
その部族のどローカルな伝承としてね
記紀ってのは、そのどローカルな伝承をこれぞ日本の歴史でございって言っただけのものじゃないの
それまでは統一政権なんてなかったんだからさ、それまでの日本の歴史を大局的に語れる人間なんていたわけがないんだよ 畿内には巨大古墳を作りえる強力な勢力があった。
だがそれが邪馬台国とは限らない >>45
仁徳天皇陵は、上空から見ると、瓶の形をしているのは有名だけどな。
陵墓の両脇に小さな取っ手さえ付いてる。 九州邪馬台国はヤマト王権下にあったと思う
ただ大陸との玄関口としての立地を利用して
ヤマト王権に内緒で朝貢してたんだと思う
それがバレてぼこぼこにされて3世紀以降
ヤマト王権の奴隷に落ちて衰退していったのだと思う 魏志倭人伝は、「其死、有棺無槨、封土作冢」
「棺あって槨(かく)なし」だよ 古墳文化の時代はけっこう長くて
何世紀?くらい続いたのかな?
北は今のところ最果ての墳塚は北海道の江別古墳群くらいだろ?
まああんなところにも当時人が住んでいたのなら
畿内を中心に広がっていたと考えてもおかしくはないわけだが >>54
中国人の亡命国家だな。
司馬遷がつけた名前だっけな 邪馬台国は韓半島にあったってチャングムが言ってただろ? 東遷説は時系列が逆になるから可能性はゼロだよ
歴史物のエンタメコンテンツでしかない >>49
その点も説明され済みだな。
魏志倭人伝の地理的記述は、あくまで日本列島の地理的調査のためのもの。
交易のためのものではない。
地理的調査には、確実に地理が把握できるルートを使うのは当然のこと。 ぶっちゃけこんなのいくら議論したって意味ないのに
証拠もってこい、と >>39
三種の神器というのは、銅鏡、勾玉、剣のこと。北九州の弥生時代の遺跡では前漢の鏡などを
副葬していた。
そして畿内では、弥生時代は方形周溝墓が多かった。 >>58
つまり木棺だけで瓶で焼いた粘土で覆ってなかったんだ?
なら朝鮮説はないなw >>64
いやならもっと首都に近いところを詳細に書くだろ?
なんで九州周辺だけ細かくてそっから大事な部分はおおざっぱにするのよw >「東遷はノー。邪馬台国は魏が認めた唯一の政権で、
>一貫して畿内にあってヤマト王権に引き継がれた」
アハハハハハ
魏志倭人伝を読めば、漢滅亡期の3世紀頭の倭国大乱で、
邪馬台国が破れ、名目上の盟主に落ちたことが書かれている。
男王(=覇権)を禁止され、卑弥呼の死後再起を試みるも失敗。
覇権は永遠に失われたと分かる。
つまり、別に覇権国があって、魏に朝貢「させられてた」のは自明。
そこから、漢代には、邪馬台国が覇権国で、奴国に朝貢させてた
ことが理解される。
覇権を完全に失った邪馬台国が、後のやまと朝廷だって??
これ、なんていう脳の病気??www 三種の神器自体後付設定ね
勾玉はいらなかったんですよ
『養老令』
およそ践祚の日、忌部、神璽の鏡剣(かがみたち)を上(たてまつ)れ >>55
あれだけ大きな古墳作る労働力を支配できる
権力あるところが狗奴国一国と戦争するだけで
泣きつくってどうよw お引っ越しの際、大邪馬台国のみなさんは大荷物で大変だったことでしょう
大統治者様とその臣下やその民衆の御一行の大荷物を運ぶには、引っ越し業者さんもさぞかしご苦労だったことでしょう
古代のリーダーの動員力については古墳を作れる程度以上
そこから輸送力の推定くれくれ >>58
棺あって槨(かく)なし
ていうのは木棺ごと地面にそのまま埋めて
木棺のまわりに空間がなく直接土をかけてたのかな?
そんな死んだ猫をポリ袋に入れてそのまま土かけて埋めて
アイスの棒に名前書いて南無南無するみたいな簡素でいいのか?w >>1
だーかーらー
奈良は色々とあるんだから何もない佐賀に譲ってやれよ >>69
ただ、魏志倭人伝の日本列島の記述は、本当に現地を調査した上でのものかどうか、いまだ判然としていない。
ひょっとしたら、アトから再調査されないだろうということで、地理的部分は作り話の可能性も指摘されてる。 >>72
いや、ヤマト王権が狗奴国だぞ、これならいいだろう? >>72
あれって狗奴国と戦をするにあたって
周辺国に正義は我にありという証明である檄を
魏から出して頂いたんでしょ?
あれだよあれ 魏から軍隊や兵を借りたわけでもないし 日本人の遺伝子情報を見ても、北九州から来た渡来人が東に移動して最終的に畿内に都を築いたのが真相だろうな
神話から読み取ってもそれ以上のことは書いていないわ >>76
つまり北九州周辺にまではやってきたものの遠すぎて
九州でしばらく接待受けてどんちゃん騒ぎやってお土産もらってはきたけど
畿内は遠すぎていく気がしないので適当に九州人から聞いた情報で
ごまかした?てこと?w 邪馬台国 女王 卑弥呼
狗奴国 男王 卑弥弓呼
名前が似すぎなところも気になる >>67
それ誤解だよ
北部九州では、威信材を何でもかんでも副葬したが、たまたま鏡、剣、玉の組み合わせがあっただけ
意識して3点セットにしたのではない
その後継続してなかったのが何よりの証 応神天皇は東遷説によくあるから九州邪馬台国説が多いな もう魏志倭人伝の使いの者が北九州からもうちょっと先まで詳しく
「里」で書いてくれれば揉めなかったのに…
なんで…手抜き… 怠慢… 慢心… 畿内だったらもっとキチンとした遺跡や遺物が大量に残ってるよ >>58
北九州が卑弥呼の墓と推してる平原遺跡も方形周溝墓で粘土槨で木棺なんだよね。
つまり槨はある。 樽悶さんも同じようなネタで引っ張るのもいい加減にして欲しい ヒミコは中国から逃げてきた中国系で
ヤマト朝廷も中国から逃げてきた系統 >>83
名詞のバリエーションがまだ少なかったんだろうな >>88
それどっちが先に名前をつけたかで
たとえ同一人物を指していたとしても
九州説と畿内説の決着の材料にはならんだろう こういう時にタイムトラベルとかして
過去を見に行きたいと思うわ。
見た来るだけならタイムバラドクスも起きないだろうし。 >>80
その遺伝子情報からして、
九州説は間違いとなってるな。
というのは、日本人と大陸民族との遺伝子の混融が、さほど起きてないからな。
(明確に日本民族は大陸民族と遺伝子内容が異なる) 応神朝が狗奴国で神武が武内宿禰
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