【砂漠の狐】「私はどうかしていた。大馬鹿者だ」 将軍ロンメル率いるドイツ軍がノルマンディー上陸を許したワケ
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<<現代史家であり、陸上自衛隊幹部学校の講師も務めた大木毅氏が上梓した一冊の書籍が注目を集めている。それが『「砂漠の狐」ロンメル ヒトラーの将軍の栄光と悲惨』である。
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なぜ、ロンメル率いるドイツ軍はノルマンディーへの上陸を防げなかったのか。ドイツが犯した「失敗の本質」を語る。(聞き手:編集部・中西史也)>>
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■アウトサイダーの軍人としてのロンメル
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【大木】 ロンメルは一般的に「名将」と称えられますが、まず、何をもって名将といえるのかを考える必要があります。軍人を評価する際は、「統率」と「指揮」の2つの観点から見るべきです。
「統率」とは、すなわち部下をいかに掌握し、管理するか。ロンメルは兵士には人気があった一方、直属の師団長のなかには敬遠する者もいた。統率力を1つの指標から評価するのは難しい面があります。
もう1つの「指揮」は、いかに味方の損害や物資の消費を抑えて勝つかが問われます。これは高次元の概念から順に、「戦略」「作戦」「戦術」の3つに分けられます。
ロンメルはそもそも、戦争に勝つためのリソース(資源)をどう配分するかという「戦略」を立案する立場には置かれませんでした。たとえば第2次世界大戦時のアメリカでいえば、日本とドイツのどちらを先に叩くか、という次元です。
ロンメルは連邦国家だったドイツ帝国の主流だったプロイセンではなく、ヴュルテンベルク王国に生まれ、しかも陸軍幼年・士官学校や陸軍大学校の出身ではなかった。
いわばアウトサイダー(部外者)だったのです。専門的な教育を受けていなかったこともあり、「作戦」では一定の優秀さにとどまったといえます。
最後の「戦術」は、作戦のなかで戦闘をいかに指揮していくかということですが、ロンメルは率先垂範に努め、卓越した能力を発揮します。危険をものともせず、勇猛果敢に陣頭に立ち続けました。
※省略
■ロンメル「私はどうかしていた。大馬鹿者だ」
――第1次世界大戦、第2次世界大戦共に敗北したドイツにあっても、ロンメルは幾多の戦闘で勝利を収めました。砂漠が広がる北アフリカ戦線(1940年9月〜1943年5月)は彼の生涯における華といえますが、どういった点が優れていたのでしょうか。
【大木】 ロンメルが「砂漠の戦争は海戦のようなものだ」と捉えていたことは、戦術面で優れた認識をもっていたことを象徴しています。
欧州本土における戦線では通常、交通の結節点や補給物資の集積場を狙って要衝を押さえ、重要都市を占領しようと試みます。しかしその戦術は、敵軍の機能を麻痺させられる地点が限られている砂漠では難しいため、相手の戦力そのものをどう潰すかが主眼になる。
そこでロンメルは、前方指揮と奇襲攻撃を遺憾なく駆使し、敵対勢力の装備品や補給物資を奪う「鹵獲」を進めていきます。
――第1次大戦以降、ロンメルが得意とした戦術ですね。
【大木】 ところが、戦術面では奏功したこの手法は、作戦・戦略次元では大きな損害を出しかねませんでした。
前方指揮はロンメル自身が戦死、もしくは捕虜となる危険を孕むと同時に、部隊との連絡が途絶えてしまうこともあった。ロンメルの戦法は、作戦遂行においてそのようなデメリットをもち合わせていました。
――英米を中心とする連合軍からの猛攻を受けてアフリカから退却したロンメルは、欧州西方の指揮を任されます。しかし1944年6月には、ドイツ占領下のフランス・ノルマンディーへの連合軍の上陸を許してしまう。なぜロンメル率いるドイツ軍は、ノルマンディー上陸作戦を防げなかったのでしょうか。
【大木】 ロンメル個人についていえば、ここでもやはり、作戦・戦略次元での問題が露呈します。
連合軍の侵攻が予想された1944年6月6日の天気予報が大荒れだと知ったロンメルは、この日の上陸は不可能だと判断し、担当戦域のフランスからドイツ本国へ戻って妻ルチー・マリアの誕生日を祝っていました。
しかし、のちにアメリカの大統領となるドワイト・アイゼンハワー連合国遠征軍最高司令官は、一時的に天候が好転するとの予報を受けて、リスクを承知で作戦を実行したのです。
現場を留守にしていたロンメルは連合軍上陸の一報を聞き、「私はどうかしていた。大馬鹿者だ」と呟いたといいます。(続きはソース)
4/25(木) 11:51配信
https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20190425-00010000-voice-pol アウトサイダーって、そこは外様と言えば分かりやすいと思うが ロンメルは偉大な戦術家ではあったけど戦略家ではなかったというのはけっこう前から言われてるな >ところが、ポーランドへの侵攻を知った英仏は断固たる態度を示した
ブレグジットもこの調子で頼むよイギリスさん 戦略のラインハルト
戦術のヤン
立場も同じだな、やろうと思えば戦略も立てられたのに ヒトラー「ムッソリーニのアホがアフリカでやらかしたから適当に援軍送っとくか」
ヒトラー「じゃあロンメル、おまえ行けや」
ヒトラー「戦車?自分でなんとかするんだよ」 >>1
■ヘレロ・ナマクア虐殺
(ヘレロ・ナマクアぎゃくさつ、ドイツ語: Völkermord an den Herero und Nama)は、ドイツ領南西アフリカ(現・ナミビア)においてドイツ帝国が先住民族に対して行った虐殺。アフリカ分割の動きの中の1904年から1907年にかけて行われ、20世紀最初のジェノサイドと考えられている。
■ドイツの本性
隠れている歴史を見てみよう。ドイツの醜悪な顔が一つ一つ見えてくる。1904年、ドイツは植民地のナミビアから土地を奪うためにヘレロ族・ナマ族を無惨に殺害した。
井戸に毒をまいたという話もある。
20世紀初めの人種虐殺だった。ヘレロ族8万人のうち6万5000人、ナマ族2万人の半分の1万人が死亡した。これだけでなくドイツは生存者2000人を強制収容所に入れて人体実験もした。その後、ドイツは遺体を本国で運んで研究用として使用し、2011年に20人の遺骨を本国に返した。 TIMEの表紙に載った
マンシュタインの方が
上だろw >>1
■マルメディ虐殺事件(マルメディぎゃくさつじけん、Malmédy massacre)は、1944年のバルジの戦いの最中に発生した武装親衛隊による戦争犯罪。
1944年12月16日、ドイツ軍は「ラインの守り」作戦を発動、ベルギー南部からフランス東部に展開した連合軍に対し、ルントシュテット攻勢(連合国側の呼称「バルジの戦い」)として知られる大攻勢を開始した。
その翌日の12月17日、攻勢の主力を務める第6SS装甲軍の先鋒、ヨアヒム・パイパー親衛隊中佐率いるパイパー戦闘団がベルギーのマルメディとリヌーヴィルの間で米第285砲兵観測大隊に遭遇した。
短時間の戦闘の後にアメリカ軍部隊は降伏し、パイパーら部隊主力は進撃を再開した。あとには監視を命ぜられた独軍兵士たちと共に捕虜150人が十字路の近くの野原に集められ、武装解除され後方に送られるのを待つばかりとなっていた。 >>1
■アスクの虐殺は、第二次世界大戦中の事件である。
1944年4月1日、ナチスドイツの武装親衛隊がアスクで無実の民間人86人を殺害した。
■オラドゥール=シュル=グラヌの虐殺
オラドゥール・シュル・グラヌ(フランス語: Oradour-sur-Glane)とは、フランス・ヌーヴェル=アキテーヌ地域圏オート=ヴィエンヌ県の村である。1944年6月10日、ドイツの占領下であったこの村でナチス武装親衛隊による大規模な虐殺が行われた。当時村にいた村民のほぼ全員が殺され、村は一日にしてゴーストタウンと化した。 >>1
■ゲルニカ爆撃(ゲルニカばくげき、バスク語: Gernikako bonbardaketa, スペイン語: Bombardeo de Guernica, 英語: Bombing of Guernica)またはゲルニカ空爆(ゲルニカくうばく)は、スペイン内戦中の1937年4月26日、ドイツ空軍のコンドル軍団がスペイン・ビスカヤ県・ゲルニカに対して行った都市無差別爆撃である。当時、戦争に新たに加わった無差別攻撃が空爆であり、ゲルニカ爆撃が最初であった。
■タンネンベルク作戦(タンネンベルクさくせん、ドイツ語: Unternehmen Tannenberg)は、ナチス・ドイツの東方植民地化計画の一部で、第二次世界大戦におけるポーランド人の絶滅計画の秘匿名称。
ポーランド人逮捕者リスト (Sonderfahndungsbuch Polen) には約61,000人のポーランド人活動家、知識人、俳優、元将校が収載され、これらの人々は逮捕・抑留、あるいは銃殺された。逮捕者リストはドイツ系ポーランド人(民族ドイツ人)の支援によって作成されたものである。 秋の日の ヴィオロンのため息の
身に染みて ひたぶるに うら悲し >>1
■T4作戦(テーフィアさくせん、独: Aktion T4)は、ナチス・ドイツで優生学思想に基づいて行われた安楽死政策である。
1939年10月から開始され、1941年8月に中止されたが、安楽死政策自体は継続された。「T4」は安楽死管理局の所在地、ベルリンの「ティーアガルテン通り4番地[# 1]」(現在同地にはベルリン・フィルハーモニーがある)を短縮したもので、第二次世界大戦後に付けられた組織の名称である。
一次資料にはE-Aktion(エー・アクツィオーン)〔E作戦〕、もしくはEu-Aktion(オイ・アクツィオン) の名称が残されている。この作戦の期間中の犠牲者は、公式な資料に残されているだけでも7万273人に達し、その後も継続された安楽死政策により、後述の「野生化した安楽死」や14f13作戦によるものも含めると15万人から20万人以上が犠牲になったと見積もられている。
■ハティニ虐殺(ハティニぎゃくさつ、英:Khatyn massacre)は、1943年3月22日にベラルーシのハティニ村で発生した虐殺事件。
ナチス・ドイツによる戦争犯罪の一つ。ベラルーシではハティニ虐殺の記念施設はブレスト要塞、ミンスクの大祖国戦争博物館(英語版)と並び独ソ戦の記念施設の代表例として知られている。 このインタビューでは触れられていないけどロンメルは1940年5月のフランス戦で第7装甲師団を率いての電撃戦が特に有名
他の装甲師団指揮官達の多くが包囲を警戒して前進をためらう中、上官のグデーリアンと共にほぼ独断専行で敵戦線後方への突進を続けてフランス軍の指揮系統を混乱させた
これで一気にヒトラーの覚えめでたくなり、その後北アフリカに派遣されることになる
東部戦線やバルカン半島に派遣されなかったことで泥沼のパルチザン掃討戦やユダヤ人虐殺に関与せず汚名も負わずに済んだし >>1
■ビドゴシチ住民殺害事件(ビドゴシチじゅうみんさつがいじけん)は、1939年9月のナチス・ドイツによるポーランド侵攻開始から10日間のうちにポーランド西北部の都市ビドゴシチ(Bydgoszcz)とその周辺で発生した住民殺害事件。大きく分けて次の2つの事件から成る:
9月3日に起こった、ポーランド軍およびポーランド系ポーランド人住民と、ドイツ系ポーランド人住民の間で起こった戦闘・殺害事件。戦時中のナチスの執拗なプロパガンダにより一般にブロンベルク血の日曜日事件として知られる(第1の事件)。
9月9日から9月10日にかけて起こった、ドイツのさまざまな組織によるポーランド系ポーランド人住民虐殺事件(第2の事件)。
第1の事件よりはるかに規模が大きい。
■ザ・ブリッツ(英語: The Blitz、ロンドン大空襲[1])とは、第二次世界大戦中にドイツがイギリスに対して1940年9月7日から1941年5月10日まで行った大規模な空襲のことである。「ブリッツ(ドイツ語: Blitz)」とは、ドイツ語で稲妻を意味する。
空襲がイギリス中の多くの都市や町に行われる間、ロンドンの連続57日間に及ぶ夜間空襲から始まった。
1941年5月末までに43,000名以上の民間人(半分がロンドン市民)が爆撃で死亡、100万以上の家屋が損害を受けた。ロンドン市民は空襲を避け地下へ潜り込んだ。地下鉄の駅の構内が人々の避難所となった。 >>1
■ポライモス(Porajmos、Porrajmos、Pharrajimosとも)とは、第二次世界大戦中にナチス・ドイツやクロアチア独立国、ハンガリー王国など枢軸国が実行した、ロマ絶滅政策を指す。ロマ語の複数の方言で「絶滅」ないしは「破壊」の意。
ヒトラー政権下、ロマ及びユダヤ人は何れもニュルンベルク法により、「人種に基づく国家の敵」と定義。ナチス占領下の国家においても同様の絶滅政策が採られた。
第二次世界大戦におけるロマの犠牲者数は、推計で22万人から150万人に上るとされる。 >>1
■ホロコースト
1933年の国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)の権力掌握以降、反ユダヤ主義が国是となったドイツにおいては様々なユダヤ人、共産主義者に対する迫害が行われていた。
第二次世界大戦の勃発後、ナチス内部には「ヨーロッパにおけるユダヤ人問題の最終的解決」を行おうとする動きが強まり、ドイツ国内や占領地のユダヤ人を拘束し、強制収容所に送った。
収容所では強制労働を課すことで労働を通じた絶滅を行い、また、占領地に設置された絶滅収容所においては銃殺、人体実験、ガス室などの直接的な殺害も行われ、1943年以降は絶滅収容所の導入など、殺害の手段を次第にエスカレートさせていったとされる。親衛隊は強制収容所の管理を担うとともに各地でユダヤ人狩りを行い、東部戦線ではアインザッツグルッペンが活動した。
ドイツ国防軍は、親衛隊や中央官庁の要請に従ってユダヤ人狩りへの協力を行った。軍需省や四カ年計画庁、一部の企業は工場において強制労働を行わせた。また、ヴィシー政権下のフランスをはじめとする占領地での「ユダヤ人狩り」は現地の治安機関によっても実施された。 ドイツも結構現場の努力で何とかする軍だったのか
その戦略を決めるドイツ最高司令官がどうも基地外っぽいからな Feierliches Gelöbnis der Bundeswehr 14. Juni 2018 Dillingen an der Donau Einmarsch
https://youtu.be/UWaR0t_Id2E
Königgrätzer Marsch - Schloss Bellevue 21.09.2018
https://youtu.be/ndQAT_zs-Bw ロンメルと言えばパットン
パットンと言えばロンメル まぁ、現実的には上陸阻止なんてほぼ無理だったけどね。 >>24
ヒトラーにとってはロシアの征服(生存圏の確立)の方が重要で、北アフリカ戦線はイタリアの支援と地中海を抑えることでイギリス〜インド間の通商路の切断ができたらいいなくらいの比重だったから Red Alert 3 OST - Soviet March [Sub Thai and lyrics]
https://youtu.be/LGScVdCXp84 俺は何かの漫画でこの人を知ったはずなんだが、その漫画が全然思い出せない 防衛線長すぎ、薄すぎなんだから
前線に本人が居ようと居まいとあんまり変わらない気がする >>33
のために装甲師団を後方に配置して柔軟に上陸に対処できるようにしたはずなんだけど、その装甲師団をロンメルが直接指揮できなかったという問題が・・・ ノルマンディー上陸の成否にロンメル関係ねえよ
そもそもOKWの予測でも上陸地点の本命はカレーでそこを重点的に固めてたし
というか上陸作戦では攻撃側に選択の自由がある以上手薄なところが狙われるのは当たり前
仮にノルマンディーがガチガチに固められてたとしたらブルターニュにでも上陸すればいいだけの話 上陸作戦が立案・実行に持ってける状況になった時点で終了。 多方面からやってきてるから
疲弊したドイツ軍じゃもう無理だろ ノルマンディーの件は
ロンメル一人の力でどうこうできる次元を
はるかに超えてると思うんだが... つーと、天気予報の差でアイゼンハワーが狩ったわけか? >>39
連合軍側もイギリスに潜入したスパイを全員転向させて偽情報送らせたり、パットンを存在しない部隊の司令官にするなど大規模な欺瞞作戦しかけて上陸地点がカレーだと思い込ませたからな
あのパンジャンドラムでさえその欺瞞作戦の一環という説があるくらいで 要するに天候予想の成否だったと
もうこの本買わなくても分かった 連合軍はドイツがどう対応しようが押し切れるだけの圧倒的な戦力でブッ込んできたわけで
何をどうしようが結果はたいして変わらんのだけどね シミュレーションゲームでも戦略級・戦術級と色々あるが
俺は戦闘級が一番好きだな
3万でも良いからガルパンの戦闘級シミュレーションゲームまだー 早くしてくれ! 有名な話なのにw ドイツのせいじゃねぇか。
荒天化で上陸作戦を行えば運良く地点に到着しても船酔いが酷い。
数日間、下手をすれば数週間は移動もままならない。人や馬、
戦車やバイク等も使い物にならないというのが当時の常識だった。
ドイツが開発したスコポラミン、ベラドンナエキスが自白剤と
してだけではなく「乗り物酔い」の薬として使えると知った
連合軍が大量に用意して。乗船時、兵たちに配ったんだよ。
上陸が不可能ではなく「上陸に成功しても対処するだけの時間的
な余裕がある」と思われていたことがノルマンディ作戦成功の
鍵となっている。
ちなみにロート製薬も日本の軍事産業だったんだぞw 兵庫県の
ゴルフ場は昔はロートエキスを抽出するための広大な栽培地だった。
ベラドンナ、ロートエキスは大量ならせん妄を引き起こすので
自白剤となるが少量なら三半規管に働きかけて乗り物酔いの薬
となる。戦後、需要が減ったので目薬に改良されている。
ブレイクスルー、技術的な飛躍が戦局を一変する。薬学、火薬、
戦術、画期的な武器、地雷や機関銃、狙撃銃などがそうだ。
ジェット戦闘機の量産が間に合っていたら。ドイツは戦争に勝ってる。
スコポラミン、ベラドンナエキスが自白剤だけではなく乗り物酔いに
効くってことを発見していなければ。連合軍が上陸戦でも負けてる。 >>44
アイゼンハワーも盤石の自信を持っていたわけでなく作戦が失敗した場合の声明も用意してたそうだ
実際上陸が始まって数日後に大嵐が来て、ノルマンディ海岸沖合に設置したマルベリー人工埠頭が壊れたりしてるし 興味も知識もなく開いたが案の定マニアックすぎて笑ってしまった >>3
外様だと意味が違う。そもそも正確な意味での外様という概念は日本でしか通用しない
中津藩士だった福沢諭吉が幕臣になったから外様かと言えば当然違う。れっきとした直参。外様とはあくまで直参ではない人間に対してしか当てはまらない
ロンメルの場合も通常の将校への昇進ルートから外れて中央の作戦に関与出来なかっただけで外様ではない 当時、スコポラミンやロートエキスが「乗り物酔いに効く」ことは
軍事機密とされてきた。成分表なんて教えてもらえるわけがないw
「数時間前からこれを飲んどけ」と言われるだけ。
日本でも水軍が活躍してたが。海賊には乗り物酔いの秘薬がある
と噂されていた。信長や秀吉は水軍の強さや移動速度の速さに
驚いて。姻戚を結んでまでその秘密を知りたがっていた。
植物性のアルカロイドは少量で効くから分析や合成が難しいの。
ほぼ経験則だ。飲みすぎると口から泡吹いて死んでしまう。
ベラドンナやスコポラミンの抽出、分離合成に成功したドイツの
技術は凄かったが「運用や量産」は連合軍、アメリカのほうが巧かった。
軍事機密扱いだったから表に出てきたのは戦後、ずーっと時間が
経ってからだよw ドイツを占領したアメリカ軍が真っ先にやった
のはバイエルなどの製薬会社を抑えることだった。
技術者や研究者の多くがソ連やアメリカに連れ去られてる。その後の
冷戦時代に両国が大国となったのは。技術的な飛躍、多くの研究開発
を独占したから。 上陸作戦の演習のための実戦を英米でいくつか行われたわけで 東大卒が社長になっても、優秀な経営者になれるとは限らない。 >>35
なんで指揮できなかったん?
というか海岸固定だったのでは >>58
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BF%E3%82%A4%E3%82%AC%E3%83%BC%E6%BC%94%E7%BF%92_(1944%E5%B9%B4)
有名なのがディエップだけど、あれの他に英本土で行われたタイガー演習が友軍誤射するわ偶然居合わせたドイツ軍の魚雷艇の攻撃受けるわで多数の死傷者出してる
NHKが今放送してる刑事フォイルでも戦中編でこれがエピソードの一つになってるな 既存の戦車の砲だとフランスやイギリス戦車の重装甲を貫けないことで
とっさに88mm砲高射砲(航空機撃墜用)を水平射撃して対地用に使う柔軟性はロンメルだからこそ 仮にノルマンディー上陸は防げても第二第三の上陸作戦があって
結局防げなかっただろ >>65
まぁゆっくりしてたら結果的にソ連がベルリンを単独で落として
歴史はもっと違ってただろうが >>62
あー勘違いしてた
ロンメルが水際防御論でルントシュテットが上陸後に反撃論だった >>64
別に咄嗟じゃないよ
最初からそういう設計 騙されている人が多いので強調しておきます。
独は対ソに180個師団(1個師団は約2万人)を投入しています。
それに比べてアフリカ戦線など三個師団レベル。桁が2つ違う。
つまりろくに戦っていない、というかどうでもいい枝葉の戦い。
それで勝った気になっている。こうゆう嘘を英米は平然とつきます。
注意が必要です。
ロンメルがどうのノルマンディ上陸がどうのなど
どうでもいい枝葉の戦いを持ち上げてるだけ
★★ドイツ師団の配備状況推移★★
国家名 1941 1942 1943 1944
ソ連 34 171 179 157
仏蘭他 38 27 42 56
フィンランド他 13 16 16 16
バルカン半島 7 8 17 20
イタリア 0 0 0 22
デンマーク 1 1 2 3
北アフリカ 2 3 0 0 >>53
いや、「外様」の概念はそうではない
島津、毛利は外様大名だが、将軍家の直臣であることには変わりない
しかし、老中になるなど幕閣には絶対に入れない家柄でもある
幕府は不思議な職制で、万石以下なら外様的、つまり三河以来でない家柄でも役職につけたが
万石以上だと外様のレッテルがついてしまい
いかなる役職にもつけなくなってしまう
さらに奇妙なのは外様大名の親族が分知で直参旗本になった場合、
その旗本は幕府の役職につけるあたりで
外様大名はその手法で幕府内の情報を手に入れていた > 連合軍の侵攻が予想された1944年6月6日の天気予報が大荒れだと知ったロンメルは、この日の上陸は不可能だと判断し、
> 担当戦域のフランスからドイツ本国へ戻って妻ルチー・マリアの誕生日を祝っていました。
> しかし、のちにアメリカの大統領となるドワイト・アイゼンハワー連合国遠征軍最高司令官は、
> 一時的に天候が好転するとの予報を受けて、リスクを承知で作戦を実行したのです。
> 現場を留守にしていたロンメルは連合軍上陸の一報を聞き、「私はどうかしていた。大馬鹿者だ」と呟いたといいます。
へー 寝ていた総統閣下を叩き起こすせる度胸のある奴がいればワンチャンスあったのけ? >>72
スペイン内乱に派兵した時にはトーチカ潰し用に88用の徹甲弾を使ってた 後の猫目錠、フェニルメチルアミノプロパンである キリっ >>76
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%89%E3%82%AC%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%83%95%E3%82%A9%E3%82%A4%E3%83%92%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%B3%E3%82%AC%E3%83%BC
なおノルマンディ海岸に一番近かった第21装甲師団師団長のフォイヒティンガーは当日愛人と共にパリにしけこんでいたので司令部には数時間遅れで現れた
フォイヒティンガーは海岸部への進撃を命じたもののすでに橋頭堡を築いていた連合軍の反撃と爆撃で攻撃は失敗し、ドイツ軍は初期の撃退に失敗することになる
その後もフォイヒティンガーは無気力な指揮と汚職を続け、秋にはとうとう逮捕されて一兵卒に降格されるがうまく脱走して戦争を生き延びた
戦後の人生も東ドイツに情報流してたりまあよくぞここまでというくらい汚れてたりするんだよね 近頃、開戦直前に発表された「米英蘭蒋戦に対する服案」通りにやっていたら、日本は勝っていたとか言っている輩がいますが、
日本が開戦する1941年12月8日以前に、ドイツ空軍は英国本土作戦に敗退しており、イタリア軍もギリシャ戦につまづいていて、
1941年には、北アフリカの英国が反撃に転じてイタリア軍を圧倒、ドイツはテコ入れのため、ロンメル将軍のアフリカ軍団を派遣しました。
4月には、東アフリカの植民地が英軍に侵攻され、イタリア軍は敗戦に追い込まれました。
さらに5月には、イラクの反英勢力も独伊の支援にもかかわらず鎮圧されました。
バルカン半島の同盟国ユーゴスラビアで反ファシズム反乱が発生し、枢軸陣営離脱の騒ぎが起こり、その鎮圧のためドイツ軍が出動しました。
これは予想外にドイツの活動に影響を与え、対ソ開戦「バルバロッサ作戦」の発動を遅らせることになりました。
また、バルカン・中東での失敗により、トルコは参戦を思いとどまることになりました。 1940年の夏くらいにマルタを落として、
イタリアの首根っこをもっとしっかり押さえて勝手を許さず、
1940年秋からドイツのリーダーシップで数個軍による攻勢を仕掛ければエジプト落ちてたんじゃないかなあ
仏領シリアを使うのもいい >>1
二正面作戦の時点で失敗
ナポレオン同様ロシア侵攻の失敗 ドイツは1941年12月のモスクワ攻略失敗で終了
その後はもう勝ち目は無くなっていた
他を無視して1本の矢のようにモスクワに突進すべきだった 枢軸陣営の足並みが揃っていないにもかかわらず、
ヒトラーは「バルバロッサ作戦」を発動して墓穴を掘りました。
これにより英国は米軍の反抗基地となり、米国は堂々とソ連に対するレンドリースが行われるようになりました。
日本が参戦して、一寸ばかしインド洋作戦をやった所で、英帝国は揺さぶられたものの、米国の支援を受けている本土は痛くも痒くもありませんでした。 >>80
幸運が重なったんだなあ
そりゃ誰も大シケ予想の日に前線なんて行きたくないだろうけど 仮に日本側が危険を圧してインド洋、セイロン作戦を重点的に行っても、
それは、ペルシャ湾に向けた米国のソ連向け物資を攻撃することになり、
対米英戦に加えて、対ソ戦にも兵力を割くことになって、状況はさらに悪くなったでしょう。 >>85
モスクワ落とすことに成功してても冬季装備が間に合ってない時点で終了
ソ連側に冬季反撃喰らってナポレオンの二の舞
結局作戦自体に無理があった バトル・オブ・ブリテンに勝利することがドイツ勝利の絶対条件だった。
これに敗北した時点でドイツに勝機はなかった。 ヒトラーにせよ、ゲッベルス以下取り巻きの幹部にせよ、その最後に謎が多過ぎる
ロンメルも軍人ならワルサーで眉間に一発で楽に死ねるのに、ワザワザ苦しむ服毒自殺を選ぶのは違和感がある D-Day勝者イギリスもEU離脱とかゆう大自爆を演じ
ふたたびドーバーの向こうへ去っていこうとしている >>75
的外れなレスほど長文になるよな
元のレスを読んで何が論点なのか考えろよ 機雷とか地雷を埋めたりもしてたが、ノルマンディーよりも違う地域に重点を置いてた
連合軍が来た時に無理だと半分以上は引き下がり、上陸地点の5つのビーチの中のオマハビーチだけ強い部隊で固められてた
アメリカ、イギリス、カナダの部隊で構成、オマハはアメリカ軍、上陸を開始するとほとんどが殺傷され、数は忘れたが50%ほどと言われる
反撃が凄くビーチから離れて兵を降ろし溺死、ずぶ濡れで走れない、戦車のほとんどは沈没、イギリスが使ったDD戦車の提案を断り使わなかったなどで被害が拡大
艦砲射撃、空からの爆撃も海岸上の基地に被害はほとんど無かった
ドイツ軍の機銃手は、撃っても撃っても次から次に上陸してくるから怖かったと語り、居残りを命じられたドイツ兵も悲惨なことになった ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています