※夜の政治
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1】法律に初めてアイヌの先住性を明記

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2】歴史修正主義者たちから沸き上がったアイヌ否定論

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3】アイヌ否定から沖縄ヘイトへ

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 しかし、にわかに2014年〜15年にかけて最盛を迎えるかにみえた「アイヌ否定論」は、その後、ネット右翼や中央の保守論壇の間では爆発的には浸透せず、代わりに彼らのデマ・トンデモ・憎悪の矛先は南方に転じて、沖縄における反基地活動家・普天間基地辺野古移設反対派への呪詛、翁長雄志前沖縄県知事らへの周到で執拗なデマ攻撃へと転換していった。

 ではなぜ「アイヌ否定論」は、ネット右翼や中央の保守論壇に於いて決定的な盛り上がりに欠けたのだろうか。

4】歴史修正主義「アイヌ否定論」の終わり

 その理由は、簡単に述べると以下のようになる。

1)アイヌの存在と先住性があまりにも明白で揺るぎようのない事実であること

2)ネット右翼や中央の保守論壇の中で、北海道(北方問題)への興味・関心が薄いこと

3)小林よしのり氏らが最前衛となった「アイヌ否定論」が、歴史学的な検証に耐えられるものではないトンデモ論であったために、南京大虐殺否定や従軍慰安婦への日本軍関与の否定など、同様の歴史的問題(…こぞって保守系言論人がそれを追検証するような事態)と違って「アイヌ否定論」に追従する中央の保守系言論人や研究者がいなかったこと

4)「アイヌ否定論」と対にして語られた「アイヌ利権」なるものが、まったく確認されていないこと

5)そもそも日本政府が「アイヌ民族」の存在を認めていること

 などである。そして最大の理由は、

6)「アイヌ否定論」の最前衛となった小林よしのり氏が、従前から「反米保守」「アンチ・ネット右翼」の立場を採っていたことで、ネット右翼や中央の保守論壇に対する影響力をこの段階(2014年〜15年時点)で著しく喪失していたこと。またそれと同様に、小林よしのり氏の漫画の商業的停滞が続いていたため、全般的な影響力が限局したものにとどまったこと

 である。

 こうして一時期盛り上がった「アイヌ否定論」はすぐに鳴りを潜めたが、漠然とした「アイヌ否定」「アイヌ利権」という、ネガティブなイメージがネット空間に広がったことは確かだった。しかし今回の「アイヌ新法」の成立によって、国が初めてアイヌを「先住民族」と認めたことで、こういった歴史修正主義者たちのトンデモ論は最終的かつ不可逆に葬り去られたことになった。

 だが、小林よしのり氏が盛んに唱えた「アイヌ否定論」が、北海道の地方議員やその支持者たちに広がり、「なんとなくアイヌってその存在自体が怪しいし、弱者利権のにおいがする」というイメージを植え付け続けたという時点で、小林氏の責任は重いものと言わざるを得ない。「アイヌ新法」の成立によって、ネット空間に漠然と伝播されたアイヌに対するネガティブイメージが、徐々にであっても希薄化していくことを願うものである。

5】アイヌ民族史概説〜中世から幕末まで〜

 さて本稿後半では、駆け足ではあるが「アイヌ民族はいない」「アイヌは先住民族ではない」という「アイヌ否定論」がいかにトンデモであるかを歴史的に振り返りたい。

 アイヌ民族が日本(和人)の記録に初めて登場したのは14世紀の室町時代である。『アイヌ民族の軌跡』(浪川健治、山川出版社)によると、

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 という。この事から、室町時代の日本人には、蝦夷=アイヌが少なくとも三分類あり、また地理的な事実誤認はあるものの下北半島より北(要するに北海道やサハリン、千島)に居住する「異国人」として認識されていたことがわかる。

 応仁の乱に端を発した戦国期になると、北海道南部にも和人が進出し、紆余曲折の末、松前氏(蠣崎氏から改名)が現在の函館を中心とした渡島半島南部に和人のコロニーを建設する。戦国期が終わり、徳川幕藩体制が確立されると、松前藩が成立して18世紀に大名(石高のない1万石扱い。参勤交代は遠隔地特例で6年に1回)となり、アイヌとの交易で富を蓄えた。(続きはソース)

筆者/古谷経衡(文筆家/著述家)

4/29(月) 23:58
https://news.yahoo.co.jp/byline/furuyatsunehira/20190429-00124238/