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【奈良】邪馬台国の最有力候補地「纒向遺跡」を考えるセミナー 「神社のはじまりと纒向の王宮・王権」テーマに神戸大教授講演
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0001樽悶 ★
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2019/06/27(木) 22:47:10.95ID:QhyRUmgS9
http://www.makimukugaku.jp/hp/411.jpg

 邪馬台国の最有力候補地とされる桜井市の纒向(まきむく)遺跡を考える「第13回纒向学セミナー」(市纒向学研究センター主催)が7月13日午後1時半から、同市河西の市立図書館で開かれる。「神社のはじまりと纒向の王宮・王権」をテーマに、神戸大大学院教授の黒田龍二さんの講演などがある。

 同市辻地区では2009年、女王・卑弥呼(ひみこ)と同時代の大型建物跡が見つかり、黒田さんは建物の復元図を作成した。セミナーでは、黒田さんと同センターの寺澤薫所長との対談もある。

 入場無料だが、事前申し込みが必要。定員270人で先着順。問い合わせは、同センター。【藤原弘】

毎日新聞 2019年6月25日
https://mainichi.jp/articles/20190625/ddl/k29/040/512000c?inb=ra
0002名無しさん@1周年
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2019/06/27(木) 22:47:29.05ID:o7b3VCWB0
安倍友 上級絡み
犯罪揉み消し指示経路(殺人ドライバー 飯塚幸三&レイプ 山口敬之&あっせん利得処罰法違反罪 甘利明&世田谷一家案件)

安倍 → 北村滋 → 中村格 → 所轄警察(いたってシンプルw)

元官僚上級国民による轢き逃げ殺人事件、捜査現場にもやっぱり居ました
何故こんな一般的な現場検証に、警察官僚で安倍内閣情報官と
レイプ山口不起訴揉み消しでお馴染みの警視庁官房長が来ているんでしょうか?
異例中の異例捜査現場です
https://pbs.twimg.com/media/D6NmGHPUYAAS25K.jpg


毎日の様に高齢者が起こす交通事故は起きていますが、通常は即逮捕されています
未だに逮捕も無ければ捜査の進展も無く、人の噂も七十五日、ほとぼりが冷めるのを待っている状況です


因みに飯塚幸三氏のWikipediaは現在編集機能が保護ロックされており、
事故に関する事は一切掲載されていません
0006名無しさん@1周年
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2019/06/27(木) 22:52:30.88ID:ag7QT95R0
祀られてる神社がないのだから
実在せんのよ
中国の役人の誇張記録

刺青するのが使者の正装なんて
日本の何処にもないんだぜ?
0008名無しさん@1周年
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2019/06/27(木) 22:56:09.84ID:ZoXG1W3o0
>>6

原・縄文人と言われるアイヌは、普通に刺青をするな。
0009名無しさん@1周年
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2019/06/27(木) 22:56:17.25ID:j3QrVjOG0
俺の仮説



カササギは外来種として九州の北部の地域に留鳥として居る

カササギは地域に留まり繁殖する習性がある

魏志倭人伝には「其の地には牛・馬・虎・豹・羊・鵲 無し。」とある

なぜ、「鳥」ではなく「鵲」(カササギ)が倭国には居ないとあえて記したのか

魏が後に、倭国へ「鵲」を贈っていたと仮説するならば

生物学的なDNAの解析によって、鵲のルーツを特定できるのではないか

銅鏡などの錆びついた物証だけではなく

鵲が現在まで生き継いだ魏の使者ならば

邪馬台国の生きた物証としてロマンがある
0010名無しさん@1周年
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2019/06/27(木) 22:56:48.26ID:/BTjJ18/0
どこにあっても良いけどさ
なんか醜い鍔迫り合いになって来たな
0012名無しさん@1周年
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2019/06/27(木) 22:57:04.27ID:SqazxoKA0
刺青するのは漁労民じゃね
0013名無しさん@1周年
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2019/06/27(木) 22:57:46.11ID:91RjrROe0
神社

卑弥呼

天皇家

邪馬台国
0016名無しさん@1周年
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2019/06/27(木) 22:59:11.31ID:S7Asy6ur0
当時の日本列島の大部分は殷文化の影響が強かったんだろう

獣の肩甲骨を使った卜占、動物や人の生贄、殉葬、酒を使ったトランス状態で神託をきく、太陽神の末裔、
邪馬台国の記述や纒向遺跡の祭祀遺構に合致する

殷では女性は巫女として政治に参加し、戦争の最前線で活躍するなどその地位は非常に高く、飲酒は神事であった

桃の種は大量の酒を作った跡だろう

卑弥呼のいた邪馬台国、ヤマトは戦争の最前線

纒向遺跡は、対狗奴国の前線基地
河内、和泉の狗奴国と争っていたんだろう
0017名無しさん@1周年
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2019/06/27(木) 22:59:36.02ID:AuF7E2rY0
九州ってここって場所がないからな。
でもって卑弥呼の墓じゃねって騒がれた所がどう見ても自然の地形だったりw
0018名無しさん@1周年
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2019/06/27(木) 23:00:45.46ID:ReVCa6Hd0
>>16
そもそも殷はハプロタイプQで日本にはいない
0019名無しさん@1周年
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2019/06/27(木) 23:00:49.20ID:qfGI226n0
樽悶は邪馬台国スレ立て続けるのは止めれって何度言われたら分かるんだ?
0020名無しさん@1周年
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2019/06/27(木) 23:03:12.32ID:S7Asy6ur0
鳥居を潜り、井戸の水で身体を清め、鈴(鐸)を鳴らし神に祈る

神主は烏帽子を被り、神楽鈴を鳴らしお祓いをする

鳥居、井戸、水、清め、鈴、烏帽子
0021名無しさん@1周年
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2019/06/27(木) 23:03:56.54ID:JLJtYZQt0
人は記憶型と思考型に大別できる

魏志倭人伝にはこうも書かれてる
女王国から船で東南に1年行った処に黒歯国があるとね
黒歯国が近畿の大和政権だよ

だとするなら魏志倭人伝の日数距離は案外いい加減となる
0022名無しさん@1周年
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2019/06/27(木) 23:04:00.31ID:S7Asy6ur0
>>18
Qは日本人に1%くらいいるよ
0023名無しさん@1周年
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2019/06/27(木) 23:07:56.41ID:SqazxoKA0
多数決で奈良に決定
0024名無しさん@1周年
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2019/06/27(木) 23:08:25.47ID:tQ5j7czK0
邪馬台国なんて有るわけ無いと思うんだが
神武天皇がおられたのは2679年前だぞ
皇室が存在してるのに女王が存在するわけが無い
0025名無しさん@1周年
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2019/06/27(木) 23:08:37.06ID:K1qxYYdF0
邪馬台国なんて出典が魏志なのに、魏志の行路を無視して奈良だの近畿だの馬鹿じゃねえのw
0026名無しさん@1周年
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2019/06/27(木) 23:15:37.71ID:Ybg2cmdb0
>>当時の倭(後の日本)に、女王の都する邪馬台国(邪馬壹国[8])を中心とした国が存在

これだけ考えれば良いだけよ

神社仏閣の建立の歴史なんてみんなあやふやだぞ
0028名無しさん@1周年
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2019/06/27(木) 23:20:53.69ID:nbYeC9uS0
奈良って馬の産地なの
0030名無しさん@1周年
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2019/06/27(木) 23:22:19.98ID:S7Asy6ur0
四天王寺は創建当時から木造の鳥居があったらしい
鳥居は永仁2年に忍性によって従来の木造から石に作り替えられたという文献の記述が残っている

最古級の寺に鳥居
中々興味深い
0031名無しさん@1周年
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2019/06/27(木) 23:23:56.94ID:AuF7E2rY0
九州説ってどっちかというと北九州説(熊本辺りまで含む)が多い感じだけど、
それはそれで魏志の記述から考えるとすげー不自然。
宮崎鹿児島辺りならありうるかなとは思えるんだが、余り宮崎説の奴見ないのよね。
0032名無しさん@1周年
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2019/06/27(木) 23:43:39.50ID:9CbC5TJ0O
日向が無いことないのよ、名前がもろだし、薩摩が投馬で日向が卑弥呼の都、出身地ってのも。金印が見つかったのが福岡だから、帥升或いは前がここらのドンだから、落ち着けばやっぱ北九州でしょ、半島に近いってのは重要なのよ、大分にも国があっただろうし、近畿は遠すぎ。
0033名無しさん@1周年
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2019/06/27(木) 23:44:39.43ID:JLJtYZQt0
>>21 の続き
話の流れからすると邪馬台国はお歯黒をしてなかったことになる
ハイ、畿内説おわった
0034名無しさん@1周年
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2019/06/27(木) 23:48:00.32ID:9CbC5TJ0O
一年もかかるとこパプアニューギニアだろ、裸だろうし。
0035名無しさん@1周年
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2019/06/27(木) 23:48:26.17ID:7RHW7JpP0
>>6
宇佐のやつじゃないのん?
0036名無しさん@1周年
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2019/06/27(木) 23:53:49.51ID:7RHW7JpP0
>>32
北九州ならもうちょい行程簡単で往来多いと思うんで
中部九州説だな 熊本宮崎
0037名無しさん@1周年
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2019/06/27(木) 23:55:35.99ID:ru3P91xc0
刺青するのは海の民であって
陸の内側の人たちはしてなかった
0038名無しさん@1周年
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2019/06/27(木) 23:55:54.63ID:2xcEKYWq0
確かにさ。
神社をお参りするときのにれい二礼二拍手一礼って完全に誰かを呼ぶような動作だもんな。
高床式の建物の前に立って卑弥呼に何かお願い事をするときに、聞こえるようにそうしたことから神社は始まったのかもしれない。
0039名無しさん@1周年
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2019/06/27(木) 23:56:40.33ID:ru3P91xc0
実際、機内の人たちは刺青してなかったでしょ
なのになんでヤマタイコクが畿内になるのよ?
0040名無しさん@1周年
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2019/06/27(木) 23:58:14.39ID:7RHW7JpP0
畿内はただの荒しだし、相手しても面白い事も
ないと思うぞ
0042名無しさん@1周年
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2019/06/27(木) 23:59:20.26ID:JojI+BQC0
まあ行程的に九州だろうなあ
ただ魏史倭人伝の後編は適当な創作だと思う
0043名無しさん@1周年
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2019/06/28(金) 00:00:04.52ID:aZS5aVDI0
学会ではほぼ畿内説で固まっているのですが、
民間議論の盛り上がりの為に5%の変わり者の学者があえて九州説に付いています
0044名無しさん@1周年
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2019/06/28(金) 00:00:31.88ID:piWxzJMP0
邪馬台国に認定されてなにかいい事でもあるんかなあ
観光客が増えるんかなあ
0045名無しさん@1周年
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2019/06/28(金) 00:00:43.53ID:qojRXB6fO
祀られてるよ神社に、ニキギって後のヤマトの名前とか言葉に繋がらないだろ?変えられてんだよ。何々の命に。
0046名無しさん@1周年
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2019/06/28(金) 00:00:44.64ID:eXSLx7HL0
纒向遺跡から東海と吉備の土器が大量に見つかっている
どちらも黥面文化

黥面文化ではない畿内に黥面文化の邪馬台国、ヤマト政権ができた
侵略によってできた国ということ
0047名無しさん@1周年
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2019/06/28(金) 00:01:33.80ID:piWxzJMP0
奪い合いののしり合うくらいだから相当いい事があると考えていいのかな?
0048名無しさん@1周年
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2019/06/28(金) 00:02:30.31ID:VoYE5UAL0
>>39
時代によるよ。
2世紀ころはむしろ九州に刺青の風習はなく、吉備や東海地方に刺青の風習があったらしい。
蝦夷やアイヌなんてずっと刺青の風習を守ってたしね。
0049名無しさん@1周年
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2019/06/28(金) 00:04:40.21ID:7em7IBqX0
ヤマト第一王朝をむりやり邪馬台国にこじつけている感じが強すぎ
日本の考古学者の邪馬台国&卑弥呼愛は異常
0050名無しさん@1周年
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2019/06/28(金) 00:04:42.82ID:VoYE5UAL0
>>46
それも邪馬台国畿内説の否定にはならないよね。
だって、魏志倭人伝にはちゃんと倭国大乱が書かれているし、卑弥呼が各豪族の連合体の象徴的存在だって書かれている。
つまり、畿内が最大勢力だったわけではなく、政治的力学の理由でたまたま畿内に中心を置いたって説明ができてしまう。
0051名無しさん@1周年
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2019/06/28(金) 00:06:01.42ID:VoYE5UAL0
>>49
いやいや、むしろ邪馬台国=大和国を否定する方が無理があるでしょ。
卑弥呼と天照大神というどちらも女性の始祖を持つという偶然がありえるか?って話だよ。
0052名無しさん@1周年
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2019/06/28(金) 00:09:48.86ID:qojRXB6fO
奈良の山奥に都があって卑弥呼がいてね、それを、これぞ会稽東治の東なり!なんて表現しないのよ、陳寿の感性を疑うよ。目の前の海の向こう西が長安だからよ。近畿の感性はよっぽどだよ、方向間違えてるだから
0053名無しさん@1周年
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2019/06/28(金) 00:10:51.41ID:IZ5NS9Yr0
唐書に倭と日本は別の国って書いてるし何より邪馬台国=大和朝廷なら親魏倭王の印エピソードが全く伝わってないのおかしい
0054名無しさん@1周年
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2019/06/28(金) 00:13:00.47ID:JZlWfJKL0
>>47
世界遺産wとか考えてる地元民もいるだろうけど
戦前の天皇万世一系の基地外さんじゃないかなあ
0055名無しさん@1周年
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2019/06/28(金) 00:13:39.15ID:LsW4+6G+0
魏志倭人伝で邪馬台国そのものに対する記述は少ない
比定するのに使える情報は
・ヤマトという地名
・7万戸が可能な広さ
・卑弥呼の居住していた大型建造物
・昼は人が造り、夜は神が造ったといわれる径100歩(150メートル)の墓
・九州北部から2ヶ月の距離
これに合う場所を探せばいいんだよ
0056名無しさん@1周年
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2019/06/28(金) 00:13:45.44ID:7em7IBqX0
発掘された纏向遺跡は全体の1割にも満たない、今後の発掘に期待
くれぐれもゴッドハンド事件の二の舞や某国のように気にくわない遺跡をブルドーザーで破壊したしないように願う
0057名無しさん@1周年
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2019/06/28(金) 00:17:06.68ID:JZlWfJKL0
「神社のはじまり」

について意見ほしかったんだがなw
0058名無しさん@1周年
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2019/06/28(金) 00:17:43.32ID:VoYE5UAL0
>>52
九州説は当時の日本を過小評価しすぎなんだよね。
我々が想像する以上に邪馬台国の文明は発達していたんだよ。
記録に残っていないが、倭国は公孫氏の遼東半島と交流を持っていたはずだ。
公孫氏が魏に滅ぼされてやっと魏への道筋がつながったので、朝貢に出向いたことが魏志倭人伝に記載されるわけだ。
だから、邪馬台国はかなり大陸の情勢に詳しかったと思われる。
警戒もしていた。
だから、魏の使者である張政は邪馬台国の本当の首都まで行くことはできなかったんだよ。
当然、首都の場所も張政には嘘の場所を説明したはず。
その結果が、方角も距離も滅茶苦茶な魏志倭人伝の邪馬台国の場所の記述になったんだよ。
あれを真に受けてはいけない。
0060名無しさん@1周年
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2019/06/28(金) 00:18:56.13ID:qojRXB6fO
五王がやらせた遺跡だよ、半島支配の協力業者達への利益配分だろ。
0061名無しさん@1周年
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2019/06/28(金) 00:21:52.31ID:eXSLx7HL0
池上曽根遺跡には弥生時代最大級の神殿跡が見つかっているな
鳥トーテムもあるし、神社のルーツに近そう
0062名無しさん@1周年
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2019/06/28(金) 00:23:25.91ID:yKq1wOTP0
町おこしにはいいよね。
0063名無しさん@1周年
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2019/06/28(金) 00:24:26.33ID:eXSLx7HL0
池上曽根遺跡
高床式神殿、鳥トーテム、巨大井戸、銅鐸(鈴)
今の神社のアイテムが揃っている
0064名無しさん@1周年
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2019/06/28(金) 00:29:49.76ID:0mHWy1QV0
>>32
三輪山の山頂に祀られている日向御子が卑弥呼で初代皇后だよ
0065名無しさん@1周年
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2019/06/28(金) 00:31:44.74ID:qojRXB6fO
周り海の九州、本州、神社の始まりなんて海からに決まってんじゃないかよ。まず人が着くのは海岸だよ。で海岸に家建てんだよ、で漁の安全祈願が最初だろ
0066名無しさん@1周年
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2019/06/28(金) 00:35:36.82ID:IlDEWDYB0
大神神社の主祭神の大物主はニギハヤヒ

大和国の最初の王であるニギハヤヒは三河県豊橋市出身の可能性が高い


ニギハヤヒの天孫降臨時期
2世紀後半(倭国大乱)

ニギハヤヒの天孫降臨経路
三河→伊勢→熊野→河内(天孫降臨)→大和(纒向)



三河県豊橋市の石巻山は三輪山の奥の院であると大神神社の社伝に書いてある

大神神社の拝殿は三輪山の正面に向いていない、三輪山の南側にズレている

実は三輪山の奥の院、三河県豊橋市の石巻山(神山(ミワヤマ))に向いているわけだな
0069名無しさん@1周年
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2019/06/28(金) 00:45:31.60ID:JZlWfJKL0
>>63
翡翠勾玉と朱もあるのか

高床って宗教的理由だよねえ
0070名無しさん@1周年
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2019/06/28(金) 00:45:58.10ID:LsW4+6G+0
>>68
下戸遺伝子は日本と中国南部(呉)に多く見られる遺伝子で
中国北部や半島にはほぼいない
倭人は呉の太白の後という記述にぴったり合うね
0071名無しさん@1周年
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2019/06/28(金) 00:48:35.56ID:HOFp+1uk0
>>55
そんなことより後の歴史だと思う
近畿に巨大古墳群が存在する事実だよ

都はここしかないだろ

そんな細かい木(記述)を見る必要ない
森を見れば簡単に分かること
0072名無しさん@1周年
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2019/06/28(金) 00:49:22.14ID:piWxzJMP0
>>70
日本は殷の風習を継承してたり、呉の太伯の子孫と言ったり、ユダヤの神殿を真似したり一体どこの末裔と思われたいんだ?
0073名無しさん@1周年
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2019/06/28(金) 00:50:30.97ID:qojRXB6fO
大体海の民が上陸して奈良を選ばないだろ、和歌山とか白浜とか、山奥行って生活する術を知らないだろ、追い払われでもしない限り。
0075名無しさん@1周年
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2019/06/28(金) 01:05:40.23ID:qb1IWXPY0
>>72
色んな民族が日本列島に渡って来てますから
0078名無しさん@1周年
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2019/06/28(金) 01:15:32.96ID:qb1IWXPY0
>>77
別々に国を作り、それが統合されて行ったんですよ
0080名無しさん@1周年
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2019/06/28(金) 01:20:38.74ID:JZlWfJKL0
>>79
その後九州土人に滅ぼされたけどw
0082名無しさん@1周年
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2019/06/28(金) 01:23:36.13ID:qb1IWXPY0
>>79
きっとそういうことでしょうね
遺伝子から見ても我々は色んな民族の末裔なんですからね
0083名無しさん@1周年
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2019/06/28(金) 01:26:08.76ID:tA/1Cz0i0
もう、病気やね。纏向が邪馬台国とかw
0084名無しさん@1周年
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2019/06/28(金) 01:32:16.02ID:Ft73GZhY0
>>63
高床式神殿らしきものは唐古・鍵遺跡にもある。
高床式には階段、梯子が必須だが
唐古・鍵遺跡から階段の一部が出土
0085名無しさん@1周年
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2019/06/28(金) 01:39:19.39ID:61lqtStI0
宇佐神宮を創建したのは纏向にある大神神社社家の一族
その大神神社の御神体である三輪山には日向御子が祀られている

大神氏にもっと注目するべきだと思う
0086名無しさん@1周年
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2019/06/28(金) 01:44:09.30ID:7iRugczU0
三井寺 新羅神社考「新羅神社」への旅


福井県の新羅神社(1)若狭地方の森羅神社

若狭地方は北九州・山陰・北陸などの地域と同様に日本海沿岸の古代日本の先進的地域であった。
若狭(ワカサ)の語源は、朝鮮語のワカソ(往き来)であるともいわれている。
弥生時代の水稲は朝鮮半島から直接に伝来したものであろう。
若狭地方は敦賀市から小浜市に渡る若狭湾に面した地方である。
湾内には敦賀半島、中外海半島、大島半島をはじめ数多くの入江や島が存在し、西隣は丹後国である。

当地方も新羅・加耶系氏族に係る伝承や伝説が多く、神社の祭祀氏族としては、
秦(はた)氏(朝鮮語のパタは海の意で、渡来海人であろう)が圧倒的に多い。
秦氏については古代中国の秦氏の移民説や加羅氏族説など、異説が多い。
当地の神社で新羅神社と標記される神社は現存しないが、 標記の方法を変えて新羅(しらぎ)信仰を
今に伝えている神社がいくつか残っている。
敦賀市の「白城(しらぎ)神社」(所在地・白木)、 「信露貴彦(しろきひこ)神社」(沓見(くつみ))、
小浜市の「白石(しらいし)神社」(下根来(しもねごり))などである。
これらに 加え「気比(けひ)神社」「角鹿神社」「須可麻(すがま)神社」なども 新羅・加羅系の氏族が祖神を祭ったといわれている。
当地方は応神天皇や継体天皇とのつながりが強い地方であり、 いわゆる古代三王朝の内、二王朝、
即ち応神王朝(応神―武烈)・継体王朝(継体―現在)が、 越前・若狭地方と関係している。両王朝共に新羅・加羅等と係わりが深かったであろう。

継体天皇は近江で生まれたが、越前で育っており、越前・若狭・近江などを含んだ地域は一つの文化圏といえる。
この時代、敦賀と大和の間を結ぶ重要な交通路である琵琶湖西岸には三尾氏、東岸には息長氏が勢力をもっていた。


http://www.shiga-miidera.or.jp/serialization/shinra/117_2.htm
http://miidera1200.jp/
0087名無しさん@1周年
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2019/06/28(金) 01:44:56.81ID:7iRugczU0
三井寺 新羅神社考「新羅神社」への旅


福井県の新羅神社(2)若狭地方の新羅神社

社伝によれば、朝鮮新羅城の新良貴氏の祖神「稲飯命」或いは「白城宿禰」を祭るといわれているが、
『神社誌』及び『遠敷郡誌』は「天日矛命の後裔が此国に留まり、其の遠祖である鵜茅葺不合尊、又は稲飯命を祀りしもの。
地名のシラキは日倉族の新羅人の住みしことあるにより起り、その祖神を祀りしとの説がありこれに従う」としている。
『新撰姓氏録』は新良貴氏を瀲武鵜葺草葺不合尊の男稲飯命の子孫とし、稲飯命を新羅国王の祖と伝えている。
『記紀』によれば、鵜茅葺不合尊(うがやふきあえず)は神武天皇の父とされており、 稲飯命は神武天皇の兄に当る。
従って、神武も新羅(加耶)国と係わりがあることになる。

『福井県神社誌』には、「創立年代不詳。境内より縄文式土器の破片が発見されているから、 弥生後期(一、二世期頃)には祭祀が行われていたであろう」とある。
当社は式内社に比定され、 『越前国内神名帳』には「従五位白城神」と記載されている。
更に、橋本昭三『白木の星』によれば「白城神社は延喜式にその名を記しており、 昔、朝鮮半島に栄えた新羅の人達が、
はるばる日本海を渡ってこの白木の浜に上陸して住んだといわれる」と述べている。
この伝説は、一種の天孫降臨を示すものであろう。

『南条郡誌』によれば「古名考」に「或云白木浦の社乎、案南条郡今庄町に新羅明神あり是なるべし。 今庄も古く今城と書けり。
此白城の誤転する乎。此町の東に川あり日野川と云。 此即古の叔羅(しらき)川なり。叔羅は即ちしらきなるべし」。
また『神明帳考証』には「吉従按白城宿禰を祭るなるべし。武内宿禰の孫也」と記載されている。

白城神社前の白城神社橋を渡ると大きな石の稲荷鳥居があり、白城神社の額が掲げてある。 鳥居の柱には「文政十三年庚寅歳四月上旬」と刻んである。
その左手には樹高33mの黒松の巨木がある。 境内の広さはおよそ一千坪。鳥居の下を過ぎ、二十段程石段を登った台地状の場所の西側に拝殿があり、
たくさんの扁額が掲げられている。台地状の場所の右手奥に二の鳥居(石の稲荷鳥居)があり、 鳥居の下から十段程石段を登ると本殿がある。
本殿は大社造のりっぱな建物。南向きである。 本殿の西側に末社等が祭られている。境内は白砂が敷かれ、清潔な感じがする。

神紋は菊。境内社は岩清水神社・春日神社・稲荷神社・蛭子神社・龍神社・日吉神社・伏見神社。

例祭は七月十五日。白木祭(新羅祭であろう)という。

新年祭・新嘗祭。

特殊神事として陰暦十一月上ノ卯日の前宵から餅を搗き、 これを薄い楕円形の小判形のものにして(古代神餅牛舌餅か)祭の当日暁方に神社へ参拝して撒く。
現今の新嘗祭に相当する。更には、能楽は白木祭の御能と称し有名である。能師は小浜方面より来る。

「当区において祭礼情景を観る時、往昔の自己の氏神祭礼に 官人・傭人等が賜暇を得て郷土に気休する時の事を想像される」(『敦賀郡神社誌』)
0088名無しさん@1周年
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2019/06/28(金) 01:46:19.94ID:7iRugczU0
三井寺 新羅神社考「新羅神社」への旅


福井県の新羅神社 (3) 信露貴彦(しろきひこ)神社(敦賀市沓見(くつみ)に鎮座)

沓見には久豆弥(くつみ)神社がある。地名の沓見は古くは久豆弥であったのであろう。
沓見は敦賀半島の付根の中心部にある集落である。円塚古墳・横穴式墳墓が数個所発見されている。
敦賀駅からは車で二十分位の場所にある。沓見のバス停の前を左折し100m程進む。
道路の突き当たりが信露貴彦神社である。神社のある場所は山裾で標高が高くなっている。
東北部には農耕地が続き、そのはるか遠くに山並が連なっているのが見える。
神社の左隣(南側)には前宮司の龍頭(りゅうとう)家の屋敷があり、 「龍頭一夫」なる標札が掲げてあった。
夫人に話を聞いたが、大変親切に説明をいただき、帰る時には柿などを土産に頂戴した。
龍頭家の座敷には信露貴彦大神・久豆禰大神・八幡大神の三神の掛軸と供物や狛犬などが飾られていた。
今の宮司は前宮司の弟さんとのことであった。宮司の龍頭家は新羅系の家系であることから、 信露貴彦神社は新羅系の神社である証拠とされている。
「宮司の龍頭家は系譜に新羅国王族の末裔ということになっておる」(『今庄町誌』)

神社は三百坪位の境内であるが、境内地の境を区切る玉垣などはないので、 林の中に鳥居や神殿が立っているような印象を受ける。
神社の入口には信露貴彦神社と刻まれた背丈の高い石柱や二基の石灯籠・石の台輪のある大きな明神鳥居が立っている。

祭神は瓊瓊杵(ににぎ)尊と日本武尊。 社伝によれば推古天皇十年(602)の創建とされる。古代の新羅系渡来人とのつながりが深く、
敦賀半島の北端にある白城神社とも同系の氏族が祭ったものである。

「当神社は、同村の久豆弥(くつみ)神社の姫宮に対し男の宮と呼ばれ、 共に『白木大明神』といわれた」(『敦賀神社考』)

『敦賀神社誌』によれば、「按ずるに当社は往昔より白木大明神と尊称し、 推古天皇十年に創立し延喜式神名帳には越前国敦賀郡信露貴彦神社とあり。
元は当区南方字神所(かんどころ)・下の森地籍に鎮座したというが、 現地に奉遷の年代は不詳」という。

『福井県神社誌・遠敷郡誌・南条郡誌』には、「或いは今庄堺村荒井の新羅神社ならん乎」。
『古名考』「一説日野川の源である夜叉ケ池に古へ新露貴神社あり。
故に此河の渡所を白鬼女村と云は信露貴彦の訛なりと云へ共然らじ」。
『古名考書入』「合波堺村山上の社なり按に合波のは白鬚神社なるに 荒井は地名も古文書に見え社名も同じなれば寧ろ之を採る可き乎」としている。
0089名無しさん@1周年
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2019/06/28(金) 01:50:03.32ID:KS/ur1ys0
普通の邪馬台国奈良説の本を読んだが
邪馬台国と大和朝廷の間には文化的、制度的な相違が大きいのは誰もが認めるところだが
どう繋がってるかの根拠がアヤフヤな印象を受けた。
0090名無しさん@1周年
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2019/06/28(金) 01:51:25.09ID:oGLskF9E0
『今庄町誌』では「敦賀郡松原村沓見にある信露貴彦(しろきひこ)神社は、 南条郡今庄町今庄の新羅神社・白鬚神社、堺村荒井に鎮座する新羅神社と同じである」と記載している。
従って、祭神も新羅明神(素盞鳴尊)であったであろう。神社は拝殿と本殿からなる。 拝殿及び弊殿は妻入り神殿、木造瓦葺、白壁造りで庇がつけられているが、建物は相当古い。
拝殿の奥に七.八段の石段があり、その上の台地状の場所に本殿がある。 本殿のある台地は、石垣が積まれている。
石段を登った所に四脚門(これも妻入り、左右に木造の透塀がある)があり、 その数メートル奥に本殿がある。
簡素ではあるが千鳥破風造の屋根をもつ木造建築である。 瓦屋根。境内社に神明社・猿田彦神社・金比羅神社・山神社がある。

例祭は五月四日。祈年祭三月二十一日。新嘗祭十一月二十三日。 五月六日の例祭日に行われる「王の舞」は天孫降臨の様子を表現したものともいわれている。
沓見祭といわれ、古代そのままの神事が行われるという。

金達寿は『日本の中の朝鮮文化』の中で「信露貴とはもちろん新羅(しらぎ)ということで、 彦とはその男ということであろう。
新羅を白木(しらき) ・白城(しらぎ)としたのはいゝほうで、 信露貴とはずいぶんめんどうな字をあてたものである」と記述している。

当神社も、明らかに渡来系の新羅神社であるにもかかわらず、祭神が天孫邇々芸命(高天原に天降った神)である。
邇々芸命は大山津見神の娘・木花開耶姫(神吾田津姫)と出会い、 海幸彦・山幸彦(天津日高日子穂手見命)など三柱の子神を産むのであるが、山幸彦の子が鵜茅葺不合尊であり、
孫が稲飯命である。天日槍の後裔が新羅国王の祖として祭ったということを示したものであろうか。
0091名無しさん@1周年
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2019/06/28(金) 01:51:54.16ID:KS/ur1ys0
まさかと思うが唐古・鍵遺跡が邪馬台国で纏向遺跡が狗奴国ってことはないんだろうか?
0092名無しさん@1周年
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2019/06/28(金) 01:52:53.76ID:oGLskF9E0
梅原猛

「中国の先進文化は韓国を経由して日本に入った。 私は今月、『葬られた王朝―古代出雲の謎を解く』という本を出すが、
出雲王朝の創立者は韓国から来たと考えている。 『日本書紀』に多くの文書があるが、そのうち3つの文書は‘韓国系’と把握している。
これは新しい考えだ。 弥生(BC200−AD300)時代には日本海(東海の日本式表現)側が日本の中心部だった。
したがって越の国、今の新潟県から移ってきた国が出雲を支配していたが、韓国から来たスサノオ(日本神話の人物)が出雲を
越の国の支配から独立させた。 出雲王朝の創立者は韓国系と考える。 その証拠に出雲王朝の遺跡から銅鐸が出てきた。
大和王朝の鏡に代わるものだ。 銅鐸の起源は韓国の貴族が双頭馬車に付けて入った鈴だ。 (神話に出てくる)スサノオが
韓国から渡ってきたとする説はますます有力になっている。 新しい日韓関係を見せてくれる。 韓国にまた注目しなければならない。
古代日本にとって韓国は文明国であったし、さまざまな文化を伝えてくれた恩人だった。」
0093名無しさん@1周年
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2019/06/28(金) 01:55:12.85ID:bxEqiMj70
俺が学生の頃はほぼ畿内で確定だったが、
今学会はどうなってんの?
また九州が盛り返してきてんの?
0094名無しさん@1周年
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2019/06/28(金) 01:57:20.29ID:KwvmNmgo0
神社の始まりは縄文時代の海や巨石、大木などの自然崇拝から弥生時代には実在の人物や
架空の人物などを崇拝するようになり、社を作って崇拝しだしたのが始まりだろうがどこの
神社が最初かは突き止められんだろうが北部九州発祥の海神社、綿津見神社、住吉神社
宗像神社、八幡神社、大神神社などは全国に存在している。大神神社の発祥地は関西人には
異論があるだろうが福岡県発祥とするのが正解。
0095名無しさん@1周年
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2019/06/28(金) 02:00:06.92ID:oGLskF9E0
朝鮮半島の新羅からスサノオが渡来し、大国主から国譲りさせ出雲を征した(ヤマタノオロチ伝説)
そして吉備を経て物部政権を樹立した(奈良の纒向)
物部政権は初代神武から16代仁徳までであって
この初代から16代あたりまでの天皇(大王)は架空の存在であったが、実在のモデルは存在する
神武・応神なんかはスサノオであり、スサノオは新羅の王子であった天日槍であり
八坂神社でお馴染みの牛頭大王であり、敦賀の地名の由来にもなって敦賀駅前に銅像もある
都怒我阿羅斯等(ツヌガアラシト・ツノガアルヒト)であり、蘇民将来伝説の武塔神であり
ヤマトタケルでありと、挙げていったらキリがないからこの辺にするが、とにかく記紀等
日本の正史として捉えられている日本国の始まりとしては、この古代朝鮮人であったスサノオがパイオニア
実際日本が独立国家らしい姿を見せてくるのは継体・欽明のヤマト政権辺りからで
現代日本の礎を築いたのは天武天皇
実際「天皇」という称号を使い出したのも天武天皇と言われてて、それまでは小国の王を纏める
ヤマト政権の首長という意味で大王(オオキミ)と呼ばれていた
天武天皇は伊勢神宮の式年遷宮を制定し、崇拝を広めた人物であるが
本人は道教にも傾倒していて、天皇という称号を使用しだした理由も
唐の高宗が674年に自らの称号を皇帝から「天皇」に変えたから
この情報が遣唐使を通じて天武朝に伝えられ、689年に編纂された日本史上初の
体系的な法典といわれる飛鳥浄御原令に於いて「天皇」の称号が日本で初めて使われるようになった
この天武天皇は、高句麗末期の宰相であった淵蓋蘇文だという説も歴史ファンの間で支持されている


まず伊勢神宮は純日本様式であるとされてきたけど、
実は伊勢神宮正殿の手摺には、火焔文様のついた珠玉の色彩配置があり、
道教由来のモノだということが最近判明したばかり

日本書紀によると、伊勢神宮祭神である天照大神は高御産巣日神と婚姻関係にあり、
天照大神は高御産巣日神の並列神であり、高御産巣日神こそが主神とされている
そしてこの高御産巣日神は朝鮮から来た神だということ
元は地方豪族から生まれ出た天皇は、土着系と渡来系の混血であり、
「神武天皇以来、万世一系 125代(令和で127代目)」とされてきた天皇家を否定する事実なので、
意図的に、巧みに隠蔽改竄され続けてきたというわけだ

高皇産霊神の正体
http://www.geocities.jp/mb1527/N3-09-9takamimusubi.html


敦賀の地名の由来にもなって敦賀駅前に銅像もある
都怒我阿羅斯等(ツヌガアラシト・ツノガアルヒト)
これも古代朝鮮の王子であったスサノオ本人である
http://pandapanda6289.up.n.seesaa.net/pandapanda6289/tsuruga/a0728005.jpg
0096名無しさん@1周年
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2019/06/28(金) 02:01:48.66ID:JZlWfJKL0
神社の分布は九州が日本全土を侵略した
証拠であるが九州の神社が日本最古とはいえないな
0097名無しさん@1周年
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2019/06/28(金) 02:02:13.43ID:oGLskF9E0
安羅神社 滋賀県草津市

「日本医術の祖神、地方開発の大神を奉祀する」とあり、祭神は天日槍命(新羅の王子)とする。
「近江国の吾名邑」は、ここ「穴村」に比定する。天日槍が巡歴した各地にはそれぞれ彼の族人や党類を留め
後それらの人々が彼を祖神として、その恩徳を慕うて神として社を創建した。
「安羅」という社名は、韓国慶尚南道の地名に同種の安羅・阿羅があり、天日槍を尊崇するとともに
故郷の地名に執着して社名にしたものと思われる。社宝として古来神殿に蔵されている数十個の小判型黒色の小石は
従前その由来が判明しなかったが、近年有識者によると、この小石は野洲川源流地帯に多い玄武岩と同質とされ
その黒色をなしているのは火にあぶって温め(温石として)患部に当て治療に使用したものと解かった。
このことは今日の鍼灸の原型をなす医術であるとされる。




古墳時代の古墳としては、滋賀県高島町の鴨稲荷古墳がある。
金製の耳飾りや金製の冠、金でつくった沓など朝鮮的な遺物が
沢山まとまって出土したことで、全国的にも有名な古墳である。
単に朝鮮的な服装品が埋葬していたというだけでなく、これらを
セットとして揃え、新羅の支配者たちの政治的な儀式のスタイル
をそのまま踏襲して埋葬されている点で注目すべき古墳とされている。
滋賀県の西部から越前にかけての地域を政治的な根拠として新しく現れる、
継体天皇を生み出した勢力で、天皇より1代ぐらい前の可能性がある。



奈良県明日香村の都塚古墳(6世紀後半)が、石を階段状に積み上げて
墳丘を築いたピラミッド形の大型方墳であることが分かり、
村教委と関西大考古学研究室が13日発表した。
現在の中国と北朝鮮の国境付近に残る古墳に形状が似ており、
渡来人と関係の深い大和朝廷の実力者、蘇我稲目(?〜570年)が埋葬されたとする説もある。
村教委などによると、墳丘とその周囲を発掘調査したところ、階段状の遺構が3カ所で見つかった。
これらの遺構は石室と方向を合わせ、いずれも数多くの石で造られていた。3カ所のうち1カ所は4段、
より低い位置の2カ所で1段ずつが確認され、全体としては7、8段のピラミッド形をしていたと推定できるという。
墳丘は裾の部分が東西41メートル、南北42メートルの大規模なもので、高さも東側4.5メートル以上、
西側7メートル以上あったとみられる。
ピラミッドのような形の古墳は、現在の中朝国境地域に高句麗時代に築かれた「将軍塚」の形状によく似ているといい、
村教委などは都塚古墳もこの影響を受けて築かれた可能性があるとみている。
0098名無しさん@1周年
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2019/06/28(金) 02:06:07.32ID:Ft73GZhY0
>>90
信露貴
「信シン」を「シ」と読んで「ン」を無視するのは
飛鳥奈良時代〜平安時代末期まで日本語に「ン」という発音が無かったから。
「安倍アンベ」と書いて「あべ」と読むのも同じ理由。
0099名無しさん@1周年
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2019/06/28(金) 02:06:11.95ID:KwvmNmgo0
西南戦争の責任者西郷隆盛も戦争中は熊本や延岡などの最前線に同行している
戦争責任者が最前線に同行するというのは日本古来のしきたりで神功皇后も朝鮮征伐で
率先して兵を率いた事になっているから、狗奴国と戦争していた邪馬台国の卑弥呼も
兵は率いなかったかも知れんが最前線の近くで戦勝祈願をしていた事は間違いない。
0100名無しさん@1周年
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2019/06/28(金) 02:06:49.50ID:oGLskF9E0
日本神話において、神武東征の際に高皇産霊尊によって神武天皇のもとに遣わされ、熊野国から大和国への
道案内をしたとされるカラスとして有名な八咫烏、日本では和歌山県の熊野三山(本宮大社・速玉大社・那智大社)
をはじめ全国2000余の熊野(高麗野)神社の共通の紋章であるが、奈良・明日香村キトラ古墳(8世紀初頭)の天井壁画
太陽図にも日輪の中に三足烏が書かれている
高句麗の古墳壁画によく見られるこの三足烏は、太陽の中で生きる、三本足を持った想像上のカラス
中国・集安の「五カイ墓4号墓壁画には、円(太陽)の中で翼を半円形に広げて立つ三足烏が描かれている
あと、北朝鮮の平壌・徳興里古墳や江西中墓には、太陽の中の玄鳥が翼を広げて飛び立つ様子が描かれている
4世紀の高句麗の古墳壁画に初めて登場する「太陽の中の三足烏」がこのような図像の枠組みを持つに至った背景には
古来から伝承されてきた太陽崇拝やソッテ(信仰の対象、または何かのお祝いのために立てる長い竿)信仰・卵生説話
などの「鳥トーテム」が緊密に関係しているとされている
太陽とカラスとの関連については、高麗の文臣・李奎報の詩文集『東国李相国集』の「東明王篇」で
太陽の化身である解慕漱(かいぼそ=高句麗の建国神話では天帝の子で、東明王〈朱蒙〉の父とされる)が頭にカラス
の羽で作った「烏羽冠」をかぶっているところに淵源を求めることができるとされている
三足烏は高句麗建国のシンボルであり、三足烏と云えば高句麗の始祖、朱蒙(チュモン)であり朱蒙が率いた軍旗でもあった
三足烏の形象とは古朝鮮以来のシンボルであり、漢民族は朝鮮族を東夷族と呼んでいたが、三足烏の形象は東夷族のものであり
高句麗は中国中原にあって、朝鮮族がもともと居住していたと云われている
三足烏(Samjokgo サムジョゴ)は高句麗の建国神話などに見られる文様



高句麗のシンボル三足烏は、日本では八咫烏と称されている

・奈良県橿原市五條野町に八咫鳥を祀った八咫鳥神社
・奈良県明日香村のキトラ古墳で石室の天井にある星宿図の日輪の中に三本足のカラス(日象)
・八咫烏は加茂建角身が化身した姿だと云われていて建角身は賀茂御祖神社=下鴨神社の祭神であり
 賀茂別雷神:賀茂神社こと賀茂別雷神社に祀られている神
・建角身命を祀る京都の上加茂神社では禰宜が烏に扮して年を占う烏相撲を執行していて、八咫烏は熊野の
 夫須美神の使いでもあり、熊野の火祭では烏帽をかぶり八尺の黒衣で烏の嘴をかたどって烏と化した神官が
 空中に扇で呪文を書き、それは烏文字で護符や熊野誓紙の文字ともなった
・美保神社の青柴垣神事に用いられる神宝である三本足の烏と兎もそれぞれ日神と月神を象徴している
・穏地郡武良郷の中村の御客祭(荒神祭)は霊山・大峰山の山祭であり、ここに古式の的射神事が残されていて
 その的となるのは遠来の神は日神たる「烏」の図像であり武良郷全体の大祭「日月陰陽和合祭(略して日月祭)
 もまた日神(三本足の烏)と月神(白い兎)を祭りの旗印(御神体)」としている
・三島と云う名前が付く神社は全国に1万社以上あり、その総本山は静岡にある三島大社であり延喜式によると
 三島大社は伊豆国賀茂郡にり伊豆はかなり早い時期から賀茂氏が支配していた場所であって、伊豆諸島の神社は
 ほぼ事代主命を祀っている
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