【大分】「邪馬台国は別府温泉だった!」日本史最大のミステリーに新説 「距離・方向ともに魏志倭人伝の記述とぴったり一致するのです」 [樽悶★]
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邪馬台国はどこにあったのかー? 日本史最大のミステリーにこの夏、新たな説が登場した。タイトルはずばり「邪馬台国は別府温泉だった! 火山灰に封印された卑弥呼の王宮」(小学館新書・840円税別)。
著者は、従来の学説にとらわれない柔軟な思考で古代中国の文献「三国志 魏志倭人伝」を丁寧に検証している。別府温泉の湯煙を思い浮かべつつ読めば、大分県人の夢広がる一冊だ。
著者の酒井正士さん(64)は東京都出身。東大農学部卒業後、ヤクルト本社に勤務し、脳機能改善や老化予防のための医薬品・食品開発などに力を注いだ。
邪馬台国の「謎」に興味を持ったのは約10年前。「邪馬台国の秘密」(高木彬光著・カッパノベルズ)がきっかけだった。歴史には門外漢の酒井さんだが、邪馬台国に関する文献を読みあさり、在野の研究者が集う「全国邪馬台国連絡協議会」の会員になって独自の研究を進めてきた。
着目したのは、魏志倭人伝に残された「距離と方向」に関する記述だ。多くの学説は、古代中国の使節がまず日本に上陸した「末廬国」(まつろこく)を現在の松浦地方(唐津市)としている。これは「まつろ」と「まつうら」という、地名の類似からきており、邪馬台国研究の“元祖”である、江戸時代の朱子学者・新井白石が提唱したことも大きい―と酒井さん。
同じように、使節の行程記録にある伊都国(いとこく)は糸島市とする説が多く、「九州説」「畿内説」のベースとなっている。しかし魏志倭人伝には、伊都国は末廬国の南東に位置するとの記述があり、2都市の実際の位置関係である「東」とは方向が異なる―と、酒井さんは指摘する。
「高い測量技術を持ち、古くから正しい方角を重視してきた古代中国人が書き残した魏志倭人伝は、距離や方角について正確に記載されていると思います。現代に残された“生データ”を分析し、私は末廬国を北九州市として、その他の国の場所を推定していきました。すると、現在の日向街道を別府方面に進んだ道筋が、距離・方向ともに魏志倭人伝の記述とぴったり一致するのです」。
酒井さんは実際の地図や地形図、航空写真などの資料をインターネットなどで入手し、魏志倭人伝の記述を照らし合わせた。そして、最終的に邪馬台国は別府市街にあった―と結論しているが、その遺跡は残念なことに、貞観9年(867年)の鶴見岳・伽藍岳の大噴火によって火山灰の下に埋もれてしまったのではないか―と考察している。
「別府市街地の海岸部をのぞく一帯は奈良時代と平安時代の2回の噴火によって火山灰に埋め尽くされた―と考えます。地下には、イタリアのポンペイ遺跡のように、古代の遺跡が手つかずのままに残されているのでは―。調査したら遺物が出てくるかもしれません。
9/11(金) 11:37配信
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20200911-00010001-mjikenbo-l44
https://amd.c.yimg.jp/amd/20200911-00010001-mjikenbo-000-1-view.jpg >>376
帯方郡ー韓国− 対馬國− 一大国(隠岐)− 末廬国(松江)ー 伊都国(出雲)ー 奴国(因幡)ー 不弥国(摂津住吉)ー 投馬国(近江)ー 邪馬壱國(奈良) >>377
見つかってるけど公表すると都合悪いんだよ
大和政権から続く日本の歴史がぐらつくからな
磐井の乱ってのも結局は邪馬台国の後継国の王を奈良の偽の王が倒して日本を乗っ取ったわけで
そんなのが全部明るみになると大和王権の正統性がぐらつくから謎の方が都合がいいんだよ 高天原(奈良)邪馬台国が、葦原中国(出雲)を武力併合し、高天原(奈良)からアマテラスの孫の邇邇芸命(ににぎのみこと)が出雲に降臨
高天原(奈良)の天照大神の使者が、出雲にいた宗像氏の祖先の航海術により大陸に渡り、240年に魏から「親魏倭王」に任じられる
帯方郡ー韓国− 対馬國− 一大国(隠岐)− 末廬国(松江)ー 伊都国(出雲)ー 奴国(因幡)ー 不弥国(摂津住吉)ー 投馬国(近江)ー 邪馬壱國(奈良)
その後、アマテラスの孫の邇邇芸命は九州の高千穂に転封、火闌降命と彦火火出見尊の息子が産まれ
兄の火闌降命は成長して海幸彦に、弟の彦火火出見尊は山幸彦となり
弟の彦火火出見尊(山幸彦)は、九州 海神国 筑紫城 大綿津見神(豊玉彦)の娘と結婚し、海神国王を継承
海神国王を継承した彦火火出見尊(山幸彦)に天津日高日子波限建鵜葺草葺不合命(彦瀲)が産まれ
その第4皇子の神武が、葦原中国(出雲)、高天原(奈良)邪馬台国を次々に武力併合
九州 海神国 筑紫城から葦原中国(出雲)、高天原(奈良)邪馬台国までが一つの国に統一されて大和朝廷が誕生、
すると奈良は九州から隋に遣隋使を派遣する
朝鮮半島 ー 対馬国 ー 一支国(壱岐)− 竹斯国(筑紫)−秦王国(豊国)・・ 別府来て温泉はいらないわけはない
温泉て書いてないだろ 駄目だ 却下 自分だけ温泉入って長いしやったんかい
どうでもええわ 歴史なんか わははって もうここまで来るとなんでもありだなw
草津温泉と下呂温泉も候補に入れとけ >>379
「奈良の偽の王」と言っても、伊都国の一大率の軍事力を暴走させて畿内を征服した邪馬台国の傍系神武の子孫だけどな ごめん、タイトルだけでコーラ吹き出した。
ないわ…本当にないわぁ >>1
よし! 別府温泉掘ったらそこは邪馬台国だった!湯につかりながら卑弥呼に想いをはせよう
でO.Kだな? >>384
伊都国の大率といのは、奈良から派遣されてたんだよ。
漢代は、奴国が港を管理し朝貢してた。裏に覇権国の邪馬台だ。
2C末?の倭国大乱で邪馬台は負け、女王即位で和議=覇権放棄だ。
新覇権国・奈良の命で旧覇権国・邪馬台が魏に朝貢に出された。
だが、港の管理は奴国(博多)でなく港の入口の伊都国(糸島)
に替わってる。大率を置いて管理し、魏が直轄した帯方郡の使を
常駐させてる。これは奈良が港の管理者奴国を嫌い、管理権を
伊都国に移し替え、自ら大率を置いて管理したということだわな。 >>386
縄文語由来じゃないかな。アイヌ語とも共通項があったはず。
響きが北海道に有ってもおかしくない地名だろ? ある学者がちゃんと確認していたが(歴史学ではなく、社会学だかの人)、九州のほとんどの地方自治体に邪馬台国説が存在。
九州説とは所詮そういうもの。
ある意味韓国人の好きな起源主張と似ていて、考えてみると九州は古代から半島の影響(人もかなり来た)が濃い地域。 九州説はおらが街も邪馬台国だから候補地が次から次へと出てくる >>384
そんな昔の話まで引っ張らなくても九州王朝説は都合悪いんだよ
邪馬台国が九州北部にあったのは皆知ってるんだよ
ただそれが明るみになると大和王権の謀略がばれるからダンマリなんだよ
つまり白村江の戦いの時、近畿と九州は対立してたんだよ
九州が百済救済のために兵を出した裏で近畿が唐と密に同盟を結んでいた
言わば九州を裏切って近畿は日本の統治権を強奪したようなもんなんだよ
白村江の戦い以後、九州は衰退し近畿は平城京しかり唐の文化で染めていったのもそれが理由
近畿つまり大和王権は日本史上最大の裏切り行為で九州王朝を滅ぼし日本の国権を牛耳ったんだよ >>392
倭人伝でどこだかわかるわけがない。だから諸説出るのは当たり前
畿内説は、まずここを邪馬台国としようと決めて、すべての証拠をそれにあうように揃えるやり方
最初から結論ありきで学問とも呼べない 邪馬台国なんか天皇家が権力を握る前に滅びてるだろ
時代が違いすぎる >>389
それは2世紀以前に九州を管理できるほどの軍事力を持った大国が奈良にあったと仮定するトンデモ説だな
一大率の裏切りや暴走を防ぐ強固なカリスマや従う側のメリットから考えたら暴論過ぎて同意できんわw 週刊ダイヤモンド 2020年9月19日号
「温泉街・別府の苦境、市内企業の1割が『コロナ倒産危険業種』」
倒産・解雇・消費265都市ランキング ワースト1位 別府(大分)
↑
別府市長との一問一答は必見w 出土品から考えてたら
九州みたいにあちこちでここが邪馬台国ですって主張されるのは変だって
多くの意見は最も可能性の高い地域に落ち着く >>395
白村江の戦いは磐井の乱の140年くらい後だから、
磐井の乱で屯倉を取られて弱体化した九州北部豪族単独に白村江に4万以上の兵を送る軍事力は無いよ 当時の今の位置がわかっている国の場所なんかも
でたらめな距離で書かれているんだから、距離や方向は全くあてにならんよ。 >>402
邪馬台国が、小さな国(邑=集落、むら)が集まった連邦制だったらどこの自治体も邪馬台国と主張できるし、
それなりに首都だけに富が集中するような構造にはならない
中央集権の弊害が、地方の過疎化だから >>400
違うよ、倭国大乱は、漢衰退期の2世紀末らしいよ。
それはそうと、魏志倭人伝を読んでご覧?
邪馬台女王は、倭国が(←主語が大切)「共立」したんだ。
大陸向けにこう書いてるのは、倭国大乱の当事者たちが、
倭国盟主の女王を共立したということにする為。実際は、
女王即位=覇権放棄という条件で停戦となったということw
当時あり得る大勢力は、邪馬台、出雲、奈良だわな。
この三つ巴の中から、おそらくは、この乱で出雲が滅び、
邪馬台は万事休すで、覇権放棄となったんだろうと推測。
4世紀に華北が崩壊し朝貢秩序が消失すると、
奈良が邪馬台を滅ぼし、列島統一だ。名前は頂いた。 >>13
関西汽船で逝く別府温泉坊主地獄
日本一低い大阪天保山の港から出発する
別府航路というのを今から千八百年前
俺が小学生の時白黒テレビでCM流してたよ
新婚旅行で卑弥呼様にあやかって別府温泉へ行くのが流行してた。 連邦制の弊害が、意見や利権の対立による連邦からの脱退によっての政治の乱れ
強いリーダーシップを持つ議長的な代表者がいる間は安泰だがね
代表者が死亡や失権したとたん大乱が起きたのは「連邦制だったから」だと思うけどね 金印なんて貰っちゃっているから判別しない方が良いんだよ
色んな説を出して大いに楽しめばいい >>361
古田九州王朝説は史学というにはおぞましい西暦700年にヤマイチ国が滅亡したという
空想衒惑小説 >>404
総大将サチヤマは筑紫出身で白村江の戦いで敗れて唐に連行された
帰国後の日本は近畿中心に動いていた
九州は唐版GHQに見張られた状態だった
筑紫都督府ってのがそう
元々、聖徳太子の頃の日本は近畿と九州の二大統治体制だった
近畿に天皇、九州に皇帝がいる状態で兄弟関係だった
当時の中国は北方異民族の隋だったため
漢民族の南朝に従う九州王は北方異民族の隋と敵対して自らを皇帝と名乗った
「日出る国の天子」の挑発的な国書もそのためである
唐も北方異民族だったため九州は敵対していた
そのため百済救済に動いた
一方、近畿は隋唐と親和的だった
というより協力体制だったと言っていいほど唐寄りだった
近畿は唐に魂を売って白村江の戦いで弱体した九州から日本の統治権を強奪した
こうして近畿の大和王権が日本史の中心的役割を果たしたことを正直にのせたくないから
邪馬台国九州説を隠しているんだよ >>404
そもそも800隻で4万人も送れるような船(50人乗り)が倭国にはない
https://i.imgur.com/AfJd1Uk.jpg まあ、現存する資料からだと白黒つけようがない。
さすがに中国からコロンと新しい歴史書のたぐいが見つかるとも思えんしなあ。
半世紀後も同じ議論やってるだろうさ。 >>409
九州王朝:邪馬台国→倭国
近畿王朝:蓬莱国→大和王権
663年の白村江の戦いで衰退した九州王朝から大和王権は日本の国権を強奪して統一国家を作った
則天武后が一時的に武周を興したことを幸いに「日本」という国名に変えることに成功した
そして唐への忠誠を示すために律令体制を敷き701年ミニ長安ともいうべき平城京を開いた >>416
証拠は畿内からザクザク出てる
九州は邪馬台国なんかより強い狗奴国を名乗ればいい 近畿から出土した証拠は神武天皇が東征によって九州から移動させたもの
もともとは九州にあった >>396
邪(や)馬(ま)台(と)国(こく)
台(たい)は やまとの(と)の当て字だろう。 九州の邪馬台国を奈良に入植した奈良百済が滅ぼした
百済の遠征武官が天皇になったのが日本の歴史 >>415
第一派:1万余人。船舶170余隻。指揮官は安曇比羅夫、狭井檳榔、朴市秦造田来津。
第二派:2万7千人。軍主力。指揮官は上毛野君稚子、巨勢神前臣譯語、阿倍比羅夫(阿倍引田比羅夫)。
第三派:1万余人。指揮官は廬原君臣(いおはらのきみおみ)(廬原国造の子孫。現静岡県静岡市清水区を本拠とした[20])。 近畿が裏切り行為で日本の統治権を強奪したことは日本全国で知られていた
そのため九州を日本の宗主国と仰ぐ蝦夷が反乱を起こした
それで平安京は征夷大将軍坂上田村麻呂を蝦夷に派遣してこれを鎮圧した
当時から大和王権のやり口がひどいのは有名だったようだ
古事記日本書紀は大和王権を正当化する書物で真実が語られていない
特に邪馬台国については皆無w >>418
畿内説は論破されまくってるだろw
今はネタにされるために畿内説がたまに出てくる情勢に気付こうなwww そもそも魏志にあるのは邪馬壹国(ヤマイ)国
5世紀に書かれた後漢書が邪馬台と書き直した
しかも邪馬台は「ヤマユイが訛ったんやろなあ」と注書きまで >>422
清の愛新覚羅を新羅を愛して覚えるから朝鮮人だというトンデモ論と同じだなw
百済は九州とともに白村江の戦いで滅亡した
天武天皇が九州系あるいは百済系という説があるが、
天武系の血統はすでに天智系が復活して追い出されているからw >>423
当時の倭国の準構造船と考えられてるものからしたら
たくさん乗ってもせいぜい20人くらいのもんじゃね
170隻で1万人(58人乗り?)なんかとてもじゃないが運べるわけない >>427
ヤマイ ヤマユイて 何を意味するのか?
ヤマイ ヤマユイ→ヤマト
邪馬(やま)が付いている時点で、
未来の大和王権を連想させる地名なんだが。 >>426
後漢書のみならず原本の魏志倭人伝自体が複写時に「東」と「南」を映し間違えてる可能性が高いので
「壹」の字も原本で何の字が充てられていたか定かではない >>429
当時の朝鮮半島南部も日本の領土だったから
任那日本府な >>422
アホくせw
それなら今頃列島ではみんな百済語を話しているよw
それはそうと、今の朝鮮語は日本語ベースの高句麗語だ
ってこと知ってるか?
倭人=弥生人(日本語話者)の本拠地が半島中〜南部でな。
今の半島南部の人間は、劣化倭人だよw お気の毒様w >>431
もしも書き間違えてるとするなら
3世紀に書かれた魏志じゃなくて
5世紀に書かれた後漢書の方が書き間違えてんじゃねーの 中国の魏志倭人伝に邪馬台国の記述があるのに
日本最古の書物の古事記日本書紀に邪馬台国の記述がないところから
邪馬台国は大和王権にとって都合の悪い歴史だったんだなと気づけよw
近畿の大和王権にとって都合の悪い邪馬台国ってどういうことか考えれば
九州にあったとしか考えられないだろwww 誰がどう考えても九州なのは間違いないんであとは実地考古学者の皆さん頑張って >>429
倭国軍司令長官は、倭国が百済に派遣していた官吏なだけで、
副官?にあたる階級が下の連中が小分けで半島に渡っている。
例えば、第一派では、狭井檳榔が船舶170余隻で5000人と百済王子を送った
第一波でも2便に分かれて送られていると推測
>乃(すなは)ち大山下狭井連檳榔・小山下秦造田来津を遣(つかは)して軍(いくさ)五千余(いつちぢみあまり)を率(ゐ)て、
本郷(もとつくに)を衛(まも)り送らしむ(兵5000を率いて百済の王子余豊璋(よほうしょう)を本国に護送した)。 >>432
漢の時代は、九州やまと(邪馬台)と半島倭人(弥生人)が
交易を独占し、これで邪馬台は列島の覇者の地位にあった。
奈良が百済と、出雲が新羅と通じ台頭し、結局は奈良が勝利、
全国を統一し大和朝廷となる。
滅ぼした旧覇権国・邪馬台の中心地に大宰府を、その相手の
半島倭人の地に任那日本府を置き、監視・統治した。
大宰府と任那日本府は、2つで1セットだ。これ重要。 >>439
いやだからトータルで42000人を800隻で運んだわけでしょう?
当時の準構造船でそれだけの人数を運ぶのには無理があるという話だよ >>426
ヤマイ→アマミだな
倭人伝のイメージは完全南国だし >>436
日本書紀では神武東征の前の奈良のことを「内つ国」と書いているから
奈良が「やまと」と名付けられたのは、神武政権の成立後だね
言葉足らずなのか、わざとボカシてあるのかわからないが、隠しているわけではないと思う
隠すなら東征の事実自体を隠蔽しないとな 纏向遺跡も吉野ヶ里遺跡も3世紀に大きな都市として存在してたであろうと伺われる。
纏向遺跡は整備、機能から見て吉野ヶ里遺跡より都市としてより整備されており行政的に発展したと伺われる形跡がある。
一方、吉野ヶ里遺跡はもう少し配置は村落的であるが当時の邪馬台国の描写にかなり酷似している。
そもそも纏向遺跡の方は中国の風習を踏襲してない傾向がありまた邪馬台国の描写よりもっと高度な文化を備えていたのではないかと考えれている。
後の大和王朝と邪馬台国は連なっておらず、別の国だったのではないか。
こんなところかなあ、俺が思うに。 >>441
いやだから、20人乗りの小舟でも5往復で100人運べるでしょ 別府にあるのは、邪馬台国じゃない
地獄だよ
早く市長代われ
じじいしかいないから対抗馬ナシだが >>430
中国の人の解釈では邪馬倭国
つまり国名はヤマ
まあヤマもヤマトも意味は同じ
神集う地
ヤマトの元になってる可能性は高いでしょ >>422
そもそも「奈良百済」がイミフ
昨日、今日5chで初めて見た4文字熟語
漢字で書けば何でもかんでも通じると思ってる鮮人の浅はかさw >>443
大筋を捏造する意図が一切ないんだよね。神から遣わされたという当時では絶大的な権威を見せ掛ける誇張やファンタジー化はしてるけど
九州邪馬台国の存在を隠したいなら奈良盆地に神様なりがさっさと降り立てばいいだけの話をさ
神話なんで(笑)で終わらす人がたまにいるけど、神話ってのは大抵事実を基に作られてるもんだからね
出雲関連の神話なんて小学生でも大和政権、もしくは邪馬台国と出雲の関係性や経緯をわかりやすく説明してくれてるだけの話だし 唐津、松浦、糸島と移動してきたらしいけどその後でどこに行ったかは書いてない >>445
往復して運ぶとか草
生贄捧げて神頼みで航海するようなレベルなのに
5往復とか沈没しすぎて兵士半分くらいになってんじゃね
ちなぐぐってみると遣唐使で成功率は約50%,往復すると25%の確率とかでてくるぞ >>441
蛇足になるけど、倭国軍を送った後、帰りは百済民とその財産を大和に持ち帰るわけだ
そうやって畿内人に半島の血が濃くなっていったわけ 桓武天皇の母が朝鮮人であることからも、日本人はもともと朝鮮人 >>451
遣唐使の渡海成功率が低かった理由は自分で調べてくれ、説明がめんどい 邪馬台国を隠す隠さない以前に全く関係ない国なら出てこないよね
富士山を出さないのは土着信仰への当てつけだと思うけど >>453
てか普通に豊璋は中臣鎌足と比定されるんで藤原氏は百済系
桓武天皇に始まった話じゃないからな >>454
半島経由でも安全に往復できるわけじゃあるまい >>455
そもそも噴火を繰り返していた富士山周囲は農耕に向いていない
登呂遺跡みたいに一瞬で津波や洪水やテフラ(火山灰)に覆われ保存状態の良い水田跡になる
運が良くても大災害と大災害の間に発展できるだけ >>457
いやいや、倭国軍が渡った時期は偶然なのか知ってたのか東風(俳句で言う春の季語)の季節
遣唐使も東風吹く季節に渡海してれば成功率上がってたでしょ
でもなぜか台風シーズンに出発して難破繰り返してる >>457
文官や僧が行った遣唐使と武官が行った倭国軍派遣では、気象の知識に差があったのかもしれない
それとも、ただの偶然? ふざけまくってる皇暦なんてのも別に大きく見せようとして在位年数や存命年数を大きくしてるわけじゃなくて、純粋に当時は1年の基準が短かっただけの話だろう
それまでは二期作の収穫が一年の基準になってたんだろうとよく言われるけど
年数が現実的になる以前の存命年を半分にすると全ての辻褄が合うんだよね
卑弥呼を天照と比定するとニニギから三代目の神武が西暦300年前後に即位
そこで完全な中央政権が出来上がるわけだ。それが纒向
それまでは共立といえども従わない勢力がいたのがようやく完全に統一されて「大王」を名乗れるようになる
もし統一前の邪馬台国を隠したい意図があるならば魏志にある中国への朝貢の事実を隠したかったんじゃないかな >>6
中国の人は説明すれば納得して守ることが多い。
朝鮮の人は我ガー我ガーの人が多い >>444
>邪馬台国の描写にかなり酷似している
当たり前だ。
酷似するように捏造してるんだから
http://www.yoshinogari.jp/contents/c3/c310.html
ホーム > 吉野ヶ里遺跡の紹介 > 北内郭 > 復元の考え方・経緯等
>基本形態
復元形態を策定するため、参考とした絵画土器や家屋文鏡には、
重層楼閣や特徴ある建物の様子や棟、軒先飾りおよびシンボルの鳥が描かれており、
弥生時代の建物をうかがい知る有力な資料となりました。
遺構の柱間隔、柱太さや柱穴の深さ等の検討により、
H5年に奈良県田原本町の唐古・鍵遺跡から発見された絵画土器に描かれている
3層2層建ての楼閣建築を想定しています。
ここが大事
>H5年に奈良県田原本町の唐古・鍵遺跡から発見された絵画土器に描かれている<
>3層2層建ての楼閣建築を想定しています。<
つまり魏志倭人伝の記述に合わせるために
唐古・鍵からパクったwww
唐古・鍵出土 3層2層建て楼閣の絵画土器
https://livedoor.blogimg.jp/myacyouen-hitorigoto/imgs/6/0/604dc848-s.jpg ねーよ。
別府なら温泉にまつわる記述が残ってないわけがない。 神話では道後温泉と地下で繋がってるんだろwwwwwwwwww >>450
伊都国(糸島)に一大卒が居て帯方郡使が常駐してるとあるので、
そこまでだろ。 歯冠サイズの地理的変異 長岡朋人2003
https://i.imgur.com/68g8Cjx.png
現代 近畿----関東--北九州
近畿は歯が大きく、北九州は歯が小さい。関東はその中間。
両地域の相違は、短頭傾向を持つ近畿の集団と長頭傾向を持つ九州の集団との違いにみられるように、頭蓋計測値でも認められている(Nagaoka.2003)
したがって、両地域の相違は歯冠サイズに限定した現象ではない。
同心円的構造の背景として、外来集団の渡来は不可欠ではあるが、もう一つの重要な要因として近畿の歴史的・社会的環境要因を考えた。
近畿は歴史時代における政治・経済・文化の先進地域であり、そうした地域に特有な社会環境が遺伝子頻度の変化、例えば渡来人遺伝子の増加をもたらした可能性があると指摘した。
本研究の結果は長岡・熊倉(2002)の結論と矛盾しない。
近畿地方の特異性の解明にはさらに近世以前の資料の蓄積を待たないとならないが、本研究の結果は、日本人形成史の研究に寄与する重要な知見であると考える。 >>1
こういうインチキばかり言うのやめろやボケ
九州チョンコどもしばくぞボケ >>429
材木に関しては時代を遡るほど伐採されていない大木が残っていたから大きなサイズのものが取れた。
現代の木材を基準にサイズを類推するのは愚か。
出雲大社の本殿は現在は高さ24m程度だが、平安時代は48m、上古には96mあったと言われる。
過去には屋久杉のような樹齢を経た大木が豊富にあり、それを使って建造物や船を作っていたのだ。 >>463
吉野ヶ里は国営だからな
国土交通省とかが、東大京大の学者集めてやったことだから地方民は関係ない
佐賀の議員なんかだと口出しできただろうがな 大分は巨石文明についてもう少しスポットを当てて欲しい >>465
伊予の松山 名物名所 三津の朝市 道後の湯
音に名高き五色素麺 十六日の初桜 吉田さし桃
小社若(こ かきつばた) 高井の里のていれぎや
紫井戸や片目鮒 薄墨桜や緋の蕪(かぶら)
チョイト 伊予絣(がすり)
「ていれぎ」和名オオバタネツケバナの松山地方での方言 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています