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【歴史】オスマン帝国の織田信長、征服王メフメト2世 「ローマ」を滅ぼし、中世に終止符を打った天才 [樽悶★]
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0001樽悶 ★
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2020/10/14(水) 23:16:04.41ID:zYZc1gHB9
三大陸をまたにかけ、一時はヨーロッパを飲み込もうとしていた大国、オスマン帝国。

世界史上稀に見る、600年もの繁栄を誇ったこの国の強さとはどこからくるのでしょうか。

意外なことに、オスマン帝国の強さの理由は、多民族、多宗教を受け入れ、女性や文化人も活躍できた、人々の「多様性の尊重」にありました。

話題の新書『オスマン帝国 英傑列伝』では、国を支えた最も魅力的な10人の多種多様な人生を通して、建国から滅亡までの波乱万丈の歴史を読み解きます。

本書より、日本では織田信長と重ね合わされることも多い、天才であり征服王として名高いスルタン「メフメト2世」の人物伝を一部抜粋してご紹介します。

ビザンツ帝国、コンスタンティノープルを攻略

即位間もないメフメトは、これまでのスルタンたちがなし得なかった大事業に着手する──コンスタンティノープルの攻略である。

かつてビザンチウムと呼ばれたこの都は、4世紀、ローマ皇帝コンスタンティヌス1世(位306〜337年)の名にちなんでコンスタンティノープルと改名された。ローマをしのぐ都として発展したこの町は、西ローマ帝国が滅亡したのちも、東ローマ帝国、いわゆるビザンツ帝国の帝都として繁栄した。

ビザンツ帝国がその栄華を失い、ボスフォラス海峡の一角のみを支配するにすぎない一小国となり果てたあとも、コンスタンティノープルを守る三重の大城壁は、幾多の攻撃を退けてきた。5世紀の皇帝テオドシウス2世(位408〜450年)の名を持つこの城壁のうち、もっとも巨大な内城壁は厚さ5メートルにして高さ12メートル、96の塔を持ち、おそらくはこの時代、世界でもっとも堅固なものであった。

オスマン帝国も、これまで幾度となくこの都の攻囲を敢行してきたが、いずれも失敗に終わっている。ゆえに、ムラト2世時代より続いて国政を取り仕切っていた大宰相チャンダルル・ハリル・パシャは、コンスタンティノープルの攻略に反対した。ビザンツ帝国より貢納を受け取るという、これまで通りの関係を続けていくことを主張したのである。しかし、若く大胆なメフメト2世に、この老臣に従う気はなかった。

攻略に先立って、メフメトは入念な準備を行っていた。まず、ボスフォラス海峡に砦を築き、黒海方面からの船の交通をコントロールする。ついで、ハンガリー人の技術者ウルバンに、巨大な大砲を作らせた。その大きさのため装塡準備に時間がかかり、1日に7回しかその轟音を響かせることはできなかったが、この巨砲は、直径60センチメートル、重さ500キログラムを超える砲弾を放つことができた。ウルバンみずから「バビロンの城壁すら打ち破る」と評したこの大砲は、まさしく大城壁にたいする切り札であった。

10万人を動かしたカリスマ的演説

総勢10万人といわれるオスマン軍の出陣にあたって、メフメトは諸将に向かって長い演説を行い、つぎの文句で締めくくった。

「一呵成(いっきかせい)にこの都市を攻略せん──たとえわれらが死すとも、そのあるじとなるまで退くまい」

当時のコンスタンティノープルは衰退いちじるしく、人口は5万人程度にすぎなかった。期待していた西欧からの本格的な援軍は来なかった──同じキリスト教徒であっても、正教を奉じるビザンツ帝国と、カトリックを信仰する西欧との間隙(かんげき)は大きかったのである。

彼我の戦力差があってなお、包囲は長期化した。2か月近くも攻撃を頑強にしのいでいたビザンツ軍であったが、5月29日、大砲によって破壊された城壁よりイェニチェリ軍団が突入した。城壁の守りを失ったビザンツ軍に、もはや勝機はなかった。

こうして、コンスタンティノープルは陥落した。

最後のビザンツ皇帝、コンスタンティノス11世の行方は定かではない。戦闘のなかで行方知れずになったとも、金角湾付近に建つ、のちにモスクへと変えられた聖テオドシア教会(現在のギュル・モスク)に埋葬されているともいう。

征服以降、コンスタンティノープルは、徐々にイスタンブルと呼び習わされていくようになり、それにともなって、イスラム帝国の都としての姿を整えてゆく。コンスタンティノープルの象徴たる聖ソフィア教会は、アヤ・ソフィア・モスクへと転用され、半島の突端、かつてギリシャの神々を祭るアクロポリス神殿があった丘には、トプカプ宮殿が建設された。以降この宮殿は、19世紀なかばにドルマバフチェ宮殿が建築されるまで、帝国の枢要でありつづける。

コンスタンティノープルの征服をもって、オスマン帝国は、真に「帝国」と呼ばれうる存在になった。(以下ソース)
https://www.gentosha.jp/article/16588/
https://www.gentosha.jp/files/uploads/content/202009/images/img_CXBJBmdwh3uvHpZxw8zOuCcUgYmQX1YkLQQE.jpg
0307ニューノーマルの名無しさん
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2020/10/19(月) 00:40:15.61ID:r8J5aJqK0
当時、フィリピンにスペイン兵は3千人くらいしかいなかった

フィリピン全土制圧するのに19世紀までかかってるからね
0311ニューノーマルの名無しさん
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2020/10/19(月) 01:34:18.36ID:65b/iomF0
そういやチムールは明遠征途上で死んだらしいが
死ななかったら明はヤバかったろう
滅んでたかもしれんな
0312ニューノーマルの名無しさん
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2020/10/19(月) 02:33:13.82ID:zIwhFkQz0
東ローマの最後は都市国家みたいなもんだろ。
海陸全部を数年閉鎖してメフテルを昼夜問わず演奏するだけで落ちたんじゃないの。
0313ニューノーマルの名無しさん
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2020/10/19(月) 02:49:44.37ID:ag64yixM0
信長は大陸制覇は視野に入ってただろう。
0314ニューノーマルの名無しさん
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2020/10/19(月) 04:02:57.54ID:RgJubTMV0
モンゴル帝国かティムール朝のときとかにインド完全制覇してたら
糞みたいなカースト制度なくなってた可能性あるのかな?
0315ニューノーマルの名無しさん
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2020/10/19(月) 07:56:23.08ID:LlSWj1/Y0
>>277
ケースバイケース。土木の変でエセンは2万で50万(自称)の明軍を破り皇帝を捕虜にした
関東軍は1万の兵力で満洲を攻略したし
逆にモンゴル軍を何十年と防衛したり日本軍と長期戦した
明でいうと朝鮮役の秀吉やヌルハチを撃退できたが李自成みたいな成り上がりに皇帝はやられてる
そもそも明の始祖からして乞食出身だから。単純な兵数だけで決まるわけでもない
内部の裏切りが連続したらすっ転ぶ
ティムールvs永楽帝だったら局地戦ではティムール勝利、その後ティムール朝の組織は貧弱だから恒久的支配は難しいと思うが中国内部の動きではどうなるかわからん
歴史のイフだからなんとも言えないが個人的想像
0316ニューノーマルの名無しさん
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2020/10/19(月) 08:03:48.33ID:LlSWj1/Y0
>>306
本国スペインから遠く離れてるから日本自体を占領は無理
当時としても鉄砲はそこまで決定的な兵器でもない
オランダが鄭成功に負ける程度。元寇も朝鮮役もそうだが渡洋作戦は近くても補給兵力維持が困難
0320ニューノーマルの名無しさん
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2020/10/19(月) 13:26:10.16ID:20c8Xbho0
ティムールはイスラム(十字軍に勝ったバヤジット)、騎馬民族トクタミシュ、インドに勝ってるから永楽帝とやったら世界史上のドリームマッチだな
永楽帝は40半ば業績的に歴代皇帝の中でも戦上手。明軍は建国と内乱で実戦バリバリの時期
対するティムールは70歳だけど数年前にアンカラでバヤジットに勝っている。戦歴的には世界史上トップクラス
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