【歴史】「徳川家康は辛抱強い性格だった」は後世の創作の可能性 ★3 [ボラえもん★]
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先日、映画『ブレイブ ―群青戦記―』のヒット祈願イベントが行われ、出演する渡邊圭祐さんが自身の性格をじっくり待つ徳川家康タイプと分析していた。
実際に、家康は辛抱強い性格だったのか、考えることにしよう。
■天下人の性格
織田信長、豊臣秀吉、徳川家康については、その性格を言い表した有名な狂句がある。次に示しておこう。
織田信長「鳴かぬなら 殺してしまえ ホトトギス」
豊臣秀吉「鳴かぬなら 鳴かせてみせよう ホトトギス」
徳川家康「鳴かぬなら 鳴くまでまとう ホトトギス」
信長は気性が激しく短気なので、鳴かないホトトギスを殺せと命じた。秀吉は知恵者なので、鳴かないホトトギスを鳴かせようと工夫した。
家康は若い頃からの苦労人で辛抱強かったので、鳴かないホトトギスを鳴くまで待ったのである。それぞれの性格をあらわしていて興味深い。
この3つの狂句は、第9代平戸藩主・松浦静山の随筆『甲子夜話(かっしやわ)』に書かれたものである。
『甲子夜話』は文政4年(1821)から書かれ、静山が亡くなる天保12年(1841)に完成した。正編100巻、続編100巻、第3編78巻に及ぶ浩瀚な著作である。
この3句は「詠み人知らず」となっており、いつ誰が詠んだのかは不明である。
3人の天下人の性格が実際にこの狂句のとおりなのか不明であるが、江戸時代末期にはすでに定着していた可能性がある。
では、なぜ家康は辛抱強い性格になってしまったのだろうか。もう少し考えてみよう。
■苦労人だった家康
天文11年(1542)、徳川家康は松平広忠の嫡男として誕生した。
松平氏は三河を領していたが、その威勢は弱体化しており、駿河今川氏に従属していた。幼かった家康は、今川氏の人質になっていたほどだ。
永禄3年(1560)に今川義元が桶狭間の戦いで織田信長に討たれると、家康は信長の配下に加わった。
天正10年(1582)に信長が本能寺の変で横死すると、家康は羽柴(豊臣)秀吉に従った。
慶長3年(1598)に秀吉が病没し、その2年後の関ヶ原合戦で家康は西軍に勝利したが、
家康の完全な天下取りは慶長20年(1615)の大坂夏の陣における豊臣氏の滅亡を待たねばならなかった。
つまり、家康は信長と秀吉という2人の天下人に仕え、なかなかチャンスに恵まれず、辛抱強く待たねばならなかったということになろう。
その事実が先の狂句に反映されたようだ。
また、江戸時代には「織田が搗き 羽柴が捏ねし天下餅 座りしままに食うは徳川」なる狂歌も広まった。
これは家康が辛抱強いというよりも、棚からぼた餅で天下を取ったことを揶揄したものである。
■有名な家康の遺訓
ほかにも、家康が辛抱強いとされた根拠としては、以下に示す家康の有名な遺訓がある。
人の一生は重荷を負て遠き道をゆくがごとし、いそぐべからず。不自由を常とおもへば不足なし、こころに望おこらば困窮したる時を思ひ出すべし。
堪忍は無事長久の基、いかりは敵とおもへ。勝事ばかり知りて、まくる事をしらざれば、害其身にいたる。おのれを責て人をせむるな。及ばざるは過たるよりまされり。
しかし、この家康の遺訓とされるものは、後世の偽作であると指摘されている。
明治になって、幕臣の池田松之介が『人のいましめ』(伝徳川光圀作)をもとにして、創作したものにすぎない。家康の花押まで似せていたのだから、手の込んだ偽造である。
この偽作を「幕末の三舟」の1人である高橋泥舟(ほかは勝海舟、山岡鉄舟)らが日光東照宮(栃木県日光市)をはじめ、各地の東照宮に奉納した。
これにより爆発的に世間に広まったのだ。
つまり、家康が辛抱強かったというのは、江戸時代に広まった伝承や偽作のようなものが根拠にすぎず、実際はどうだったのかよくわからないのである。
家康が辛抱強い性格だったというのは、今後の検討を要しよう。
https://news.yahoo.co.jp/byline/watanabedaimon/20210216-00222815/
★1が立った時間:2021/02/16(火) 15:22:15.79
※前スレ
https://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1613469061/ つうか北政所は誰からも愛されてるのが凄すぎだよな
嫁姑問題すらない >>276
いやいや、事実上の三河国主だったというだけで、家康の家系は松平一族でも元々庶流だし、そもそも松平氏初代が何処の馬の骨とも分からん流浪僧だから、由緒的には秀吉とどっこいどっこいかと 流石に猿吉とは雲泥の差
松平家は天皇とダチの家
3代目松平信光創建
・信明光寺(1451年創建) 1479年、後土御門天皇勅願所綸旨発給
・妙心寺(1461年創建) 1481年、後土御門天皇勅願所綸旨発給 天皇に懇願され、知恩院のトップに上り詰めた存牛は、菩提寺の高月院に帰ってきた
家康が既に物心がついている7才の時に死んだ
一族にセレブがいた家康と猿吉では雲泥の差
存牛
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E5%AD%98%E7%89%9B >>456
神社にはそれなりのパワーがあるよ
あの人たちは
元々は能力者の子孫だからな
それを理解できない人達が増えた
本来、神社の神主、お寺の住職は
多分、不思議な能力を持っている。だから修験者なんてものが存在する >>454
知恵者とか自信家とかいうより
人たらしの名人だって言われてるからだろう
鳴かないホトトギスもたらしこんで鳴かしたる!みたいな 関ヶ原の時も
徳川家臣が勝手に先陣を切った結果
戦が始まって1時間足らずで
早くも東軍が総崩れになりそうなときに
小早川秀秋の裏切りで助かったんだよな
秀秋いなかったら
家康の天下は当然無かった
ifは禁物なのはわかるけどね >>488 くんのカキコで思い出したが
まさに父祖もさだかならぬ秀吉が、あの時代に
徒手空拳の身からサムライ、武将、大名、天下人になりあがったのは
まさに人たらしの才能、コミュ力が天下無双だったからだよね。
そしてその豊臣レジームが壊れたのは、
天下を獲って驕った関白太閤秀吉が家臣の人心を疑わせる
暴君と化したからだよね。秀次公ならぬその一派粛清みたいなさ。
とはいえ秀吉一代は栄耀栄華をまっとうしたし、
その死後も秀吉没時(1598)から大坂夏の陣(1615)まで
ざっくり20年は豊臣家はもったわけでこれは大したもんだ。
そして家康公はその間、待ったんだよね。
秀吉在世中から小牧長久手の和親以降、キレて、
あるいは天下取りにのために豊臣家と交戦しなかったでしょ?
秀吉も家康公もお互い腹に一物あったし、それは双方わかってたけどさ。
さらに秀吉没後だって豊臣家つぶしに短慮を起こして動かなかった。
関ヶ原から将軍宣下からなにから用意周到万全になるまで待ったんだ。
人生50年の時代に17年間も!
これはねえ、十分気は長いと評価していいでしょ。
まさに東照公御遺訓にあるように「いそぐべからず」「堪忍は無事長久の基」
「いかりは敵」「及ばざるは過ぎたるより勝れり」ってことさ。
どうだい、拳拳服膺したいもんじゃないか。 家康は武田に滅ぼされそうになってから慎重になったからな
今更だが 短気だったけど経験重ねてそれを自制できるようになったんじゃないの? 仮に西軍が関ケ原で勝ったとして、
石田三成はどうしたかったん?
総大将は毛利、彼を将軍に担ぐの? 関ヶ原は豊臣政権の重臣同士の内紛
どちらも名目としては豊臣政権の為の問題分子の排除 >>496
秀頼を実権のない神輿にした奉行衆による専制体制を作りたかったんじゃないかな?
秀吉が死んですぐに毛利に家康孤立させようぜ的な手紙を送ってるし秀吉の望んだ家康一極集中の体制が相当気に入らなかったと思う
家康が潰れたら今度は毛利と上杉を対立させて、残った方と宇喜多を対立させてって感じで室町の将軍がよくやった手法だね 豊臣方は家康を「秀頼様のために戦った」と思ってたそうねw
大阪 夏〜冬の陣でも分かるが、
豊臣方を支持する大名は殆ど居なくなってたような
「天下を取り、江戸幕府にする」という徳川方に対して、
「大阪のままだ」という豊臣方はヴィジョンが足らないように見える
秀頼も奈良の国替えを拒否して、大阪城に拘ってたそうだな >>498
奉行衆の専制にしても代続きできるかどうか・・・・・
家康というか徳川の譜代は小封だが幕府の要職につける。
外様と親藩は大封だが幕府の要職にはつけないシステムはうまく機能した。
まあなんだかんだ秀忠が優秀だったのもデカい。
秀忠の武断政策は一歩間違えたら反乱起きても不思議じゃないと思うわ。 >>498
その場合は戦乱が終わらなかったろう
刀狩りや検地をやって武器を奪ったのは、
さっさと日本を統一して、平和な世の中にするため
大陸へ打って出たのは、スペイン支配に抗する総仕上げ
秀吉にはヴィジョンあり(信長からの継承)
家康にもヴィジョンあり(江戸幕府から300年弱)
他の豊臣五奉行や上杉、島津にそのようなヴィジョンが見られなかった >>452
は?
信長や秀吉と同じなんだが?
フロイス日本史
>彼、すなわち信長以外に礼拝に価する者は誰もいないと言うに至った…
>信長は、予自らが神体である、と言っていた
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B1%8A%E5%9B%BD%E7%A5%9E%E7%A4%BE_(%E4%BA%AC%E9%83%BD%E5%B8%82)
>秀吉は…自身を「新八幡」として祀るように遺言したといわれる >>476
九州・釜山間の補給路は確保できていたように言われてるが
基本的に海での戦いは日本不利だぞ
フロイス日本史
>日本軍は海戦の知識に乏しく、
>敵を撃退するための火器に不足し、
>海上ではつねに不利な状況に立たされていた >>503
文禄・慶長共に終始一貫して釜山までの補給路は確保出来てたけどね
よく李舜臣らの朝鮮水軍によるゲリラ活動で日本軍の海上補給路が分断されてたってのは一次史料にはない話
文禄の役の時の史料だけど慶尚道南部には名護屋から輸送された相当量の兵糧が集積されてた
ただ釜山到着後陸路では各々手繰りで運べって命じた秀吉の書状があって前線の諸将には届いてなかったと思われる
日本の兵糧不足ってのは朝鮮本土の道路環境が劣悪で兵糧の輸送が難しかったことや
前線の日本軍が破竹の勢いで進軍したため間延びし過ぎて手繰りで運ぶのも困難になったことによるもので海上補給に問題があったからではない >>498
江戸時代も結局そうなるんだけどな
将軍なんてセックスしかしない時代へ >>474
シベリアに領土拡大しなかったのはマヌケ。
千島なんて小笠原のように絶海の孤島でなくすぐ目の前に島が見えるんだから
島づたいに進めば1か月もあれば制覇できてしまう もういいよ
織田信長はいなかった
豊臣秀吉はいなかった
徳川家康なんていなかった
武田信玄も上杉謙信もおとぎ話の中の人物だった
江戸城が建てられたのは1900年以降だった
もうこれでいいじゃん過去めちゃくちゃにしたいならそういえば? どうせお前らの知った気になってる歴史なんて全部デタラメだよ
それでいいじゃんそれでいこうや
何かしら難癖つけてくるならそれでいいだろ
過去のことなんか誰もわかりません。で
アホクサ 聖徳太子はいなかった
十五条の憲法は偽造されてる
こういうこと言おうが誰が否定できるよ ア ホ ク サ 卑弥呼も最初からいなけりゃ邪馬台国もただの創作だった
これでケリつけられるわ
当然徳川埋蔵金もただの言い伝えに尾ひれがついたもので黒船来襲もただの当時の寓話にすぎん。 本能寺の焼き討ちもじっさいはただのこそ泥とか愉快犯の仕業だったろうな
否定できる完全な証拠なんかなんにもねえwwww
オモシロw 歴史歴史言おうがアホみたいな仮説が上がってくる以上立派なことなんて誰にも言えんわな
はっきり理解してるやつなんて誰もいねえ
知ることさえできてやしねえ 恐らくいずれは関東大震災なんかも実際はなかった
阪神大震災も東北大震災も実際はなかったと言い出したりしてなwww >>513
大正時代だし関東大震災ぐらいは写真残ってるだろ >>1
辛抱強い性格なら、何で三方原の戦いで城から飛び出してんの? >>506
当時の時代背景を考えろよ
稲作がほぼ不可能な北海道でさえほぼ未開拓地だったのに
それより遥か北の不毛の地を占領しようなんて発想が起きるわけないだろ >>515
辛抱強いは晩年の評価じゃないかな
若いころは割と血気盛ん
あと三方ヶ原で何もせず武田素通りさせたら織田との関係が壊れる
織田からの援軍も三河には来てたし 家康の人生って生まれてから死ぬまで
家臣含めた徳川家を生き残らせる為に全てを費やした人生だっただろ 佐久間信盛の追放の理由の一つに三方ヶ原のことがあるから
篭城してたら家康も後々ヤバかっただろうねw 全てを費やすって
義元死後、即裏切り独立
信長死後、即甲斐信濃親交
秀吉死後、即裏切り天下取り
家を保つ為に全力だわw >>115
本陣から鉄砲撃ちかけて小早川のとこまで届くわけないじゃん
自分に向け撃ったかどうかもわからないレベル
鉄砲を撃ちかけたこと自体怪しい
可能性としてあり得るとしたら鉄砲の一斉射撃の音が小早川への合図だったとかかな 苦労人で辛抱強かったので経産婦と幼女にしか勃起しなくなったのかな? これって信長がめちゃめちゃ短気ってとこから来てるだけでしょ。
家康は子供のころからずっと人質で過ごしてるから辛抱強いのは
間違ってないでしょ。 >>521
小早川勢が布陣していたのは松尾山の麓だったという説もあるし
そもそも鉄砲威嚇射撃は後世の創作という説もあるね 小早川って毛利の親戚じゃなかったっけ?
なんで徳川に味方したんだろ >>525
毛利一族も一枚岩ではなかった
秀秋は養子だったので直接的な血の繋がりはない
そして関ケ原の時はまだ19歳だったので重臣だった稲葉や平岡の意見に従った可能性がある >>520
甲斐信濃侵攻は北条が先に狙って動き出したから、そりゃ徳川だって動くだろ。
元いた領主は滝川一益、森長可、毛利秀頼らはそれぞれ美濃、尾張などに逃走、
河尻秀隆は反乱で殺害で空白地になってたんだから。
家康が抜け目ないのは織田側(秀吉)に連絡取って了解もらって甲斐信濃に侵攻してるからなぁ。
秀吉も信長死後の体制で主導権握ることに集中してるから東国にかまってる暇なかったし、
「家康さん代わりに治めといて」って感じだったからなw 戦国時代なんてウソだらけだろう。
わざと似てない似顔絵を描かせたり、
「痩せてるのに太ってる」とか
当人と逆の情報を流したり、普通にしてそう。
急病で当人が死んでも、
しれっと次男がなり変わって、
生きてる事にしてそう。 実は家康は伊賀越えの際に落ち武者狩りの土民に殺された説があるね
あと真田幸村に討ち取られた説もあるし >>525
領地を取り上げられそうになった時に
家康に庇ってもらったとかいう話があった気がする ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています