2022/08/09 11:05


〈戦後77年 戦争遺跡を歩く〉海蔵要塞跡=鹿児島県肝付町北方

 海軍航空隊の一大拠点が置かれた鹿児島県鹿屋市をはじめ、大隅半島には軍事施設が多かった。戦況が進むにつれて砲台陣地や飛行場はますます増えていった。当時の遺構を訪れ、緊迫の日々に思いをはせた。

 大隅半島の東岸で、太平洋に向かって大きな口を開く志布志湾。なだらかな弧の南端に近い肝付町北方の海蔵地区からは、湾に浮かぶ貨物船や漁船の動きが手に取るように見渡せる。

 1945(昭和20)年6月、トルーマン米大統領はオリンピック作戦を正式に承認した。決行日は11月1日。76万人もの兵を投入する日本本土への侵攻作戦だ。上陸地点の一つとして、総延長約80キロの志布志湾岸に狙いを定めた。

 察知した日本側は湾沿いの各地に軍事施設を急造した。海蔵には陸軍の砲台陣地が造られた。砲身の長さ7.5メートル余りの15センチ加農砲7門や弾薬庫、観測所などが、急斜面を利用して目立たないように設置されたと伝わる。

 痕跡の一つが国道448号沿いの休憩所の脇に残る。斜面に掘った壕の入り口を見ることができる。コンクリートは分厚いが、露出した基礎は鉄筋でなく木製だ。近くにはコンクリート製トーチカ(防御陣地)もある。幅約7.6メートル、高さ約3メートルで、二つのドームが連なった形状。周囲は木々に覆われているが、当時は横に細長い銃眼が海をにらんでいたのだろう。

 海蔵の南の小串地区には、海軍部隊が配置されていた。国民学校3年生だった上村昭一さん(86)は、家族の本家に兵士20人ほどが寝泊まりしていたのを覚えている。荷物運びに子どもまで度々動員された。兵士は優しく、嫌な思いをした覚えはないという。

 当時の上村さんは知りようもなかったが、部隊の任務は人間魚雷による特攻だった。海岸にスロープを造り、レールを敷いて出撃拠点とした。終戦後の台風で施設はほとんど壊れ、痕跡は消えてしまったと上村さんは記憶する。

 湾を見渡せるこの地区一帯に、陸海軍は軍事施設を集中させていた。住民の生活の場もろとも要塞(ようさい)化していたと言っていいだろう。

 8月15日に日本が無条件降伏し、オリンピック作戦は幻となった。人間魚雷の出撃も、加農砲が敵艦に火を噴くこともなかった。だが、77年前の夏、十死零生の特攻出撃や、陣地と運命を共にする明日を運命づけられた若者たちがここにいた。それは決して幻ではないことを遺構は静かに物語る。

【オリンピック作戦】太平洋戦争末期、米軍が日本を無条件降伏に追い込む狙いで1945年11月1日に宮崎県沿岸と鹿児島県の志布志湾、吹上浜からの上陸を企てた作戦。「オリンピック」は暗号名。九州南部には旧日本軍の飛行場が多く、46年3月1日に関東上陸を図る「コロネット作戦」の拠点とする狙いがあった。計画を察知した旧日本軍は兵士が潜む横穴を掘るなどして備えた。

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