【漢委奴王】畑で見つかった金印など展示の企画展 見学者「第一印象は『小さい』でした」・山梨 [水星虫★]
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金印など展示の企画展 印章にゆかりの峡南地域の人たちが見学
https://www3.nhk.or.jp/lnews/kofu/20230314/1040019573.html
※NHKローカルニュースは元記事が消えるのが早いのでご注意を
印章の役割などについて歴史的、文化・芸術的な視点から紹介している県立博物館の企画展を、
13日、金や印章とゆかりがある峡南地域の人たちが見学しました。
見学会は、印章・ハンコが峡南地域の主要な産業であることなどから、身延町の湯之奥金山博物館が企画し、12人が参加しました。
参加者は、金山博物館の出月洋文館長から、国宝の金印は福岡県の志賀島の畑で見つかったなどの説明を受けてから展示室に入りました。
そして、ガラスケースに収められた2.3センチ四方の輝く金印に見入っていました。
所蔵する福岡市博物館から特別に貸し出された金印は、今月21日まで展示されています。
また、山梨県の印章産業の歴史を紹介するコーナーでは、材料を固定したり彫ったりする道具が展示されているほか、
日本一大きいとされる2メートル四方、高さ3メートルのハンコで押した
「動かざること山のごとし」の4文字の印影も展示されていて、興味深そうに見ていました。
参加者の女性は「金印の第一印象は『小さい』でした。でもすばらしいもので、
2000年前からの中国と日本の関係が分かって感動しました」などと話していました。
県立博物館の印章の企画展は5月8日までで、期間の途中で展示替えが行われます。
03/14 11:26 当時の日本人は字が読めなかったからそこらに捨ててしまうのも仕方ない >>407
北部九州の倭奴国(筑紫城)の漢委奴国王のが
対馬経由で朝鮮半島西海岸の公孫氏の帯方郡と
独占交易していたところ
奈良の邪馬台国の卑弥呼が出雲を武力併合して
出雲ー朝鮮半島東海岸(新羅)で対馬を使わず独自交易開始して親魏倭王になっちまったもんだから
北部九州の倭奴国(筑紫城)の何代目かの漢委奴国王の
天津日高日子波限建鵜葺草葺不合命(彦瀲)の四男坊の神武が、
漢委奴国王である父の命を受け
奈良の邪馬台国の、対馬を使わない出雲ー朝鮮半島東海岸(新羅)の独自交易ルートを潰しに行ったのが
神武東征だからねぇ >>410
前半は、まあまあ納得
後半は、想像力が先走っている感じ。 北部九州の倭奴国(筑紫城)の漢委奴国王が
対馬経由で朝鮮半島西海岸の公孫氏の帯方郡と
独占交易していたところ
奈良の天照大神が建速須佐之男命の出雲を武力併合して
出雲ー朝鮮半島東海岸(新羅)で対馬を使わず独自交易開始して親魏倭王になっちまったもんだから
北部九州の倭奴国(筑紫城)の何代目かの漢委奴国王の
天津日高日子波限建鵜葺草葺不合命(彦瀲)の四男坊の神武が、
漢委奴国王である父の命を受け
奈良の天照大神の、対馬を使わない出雲ー朝鮮半島東海岸(新羅)の独自交易ルートを潰しに行ったのが
神武東征だからねぇ >>409
でも志賀島って遺跡で大したものほとんど出てないんだよな
永い間使われていたんだけど重要な物がない
細型銅剣の鋳型くらいだな
実際大した場所じゃない可能性が高い
だから考古学なんて影も形もない時代で江戸時代の人が重視する意味が分からないな 隠した理由は戦争だろう。倭国大乱が起きたとき
金印なんか持っていたら無事である保証がない
魏志倭人伝にも奴国が登場してるが、強大な王の存在は伺えず
官の名前から邪馬台国の影響下にはいってるのがわかる。
つまり倭国大乱前後で奴国に変化があったということ。 自己レス
間違えてた
>>405
①叶崎の場所は書いてあるけどそこは③④の状況だったため発見場所としておかしい
すまん >>415
何代目かの漢委奴国王の大綿津見神(豊玉彦)の娘と結婚して、跡を継いだのが、彦火火出見尊(山幸彦)
その彦火火出見尊(山幸彦)の次の漢委奴国王が、天津日高日子波限建鵜葺草葺不合命(彦瀲)で
その第4皇子が、父の漢委奴国王の命で東征した
神倭伊波礼毘古命(神武) >>40
超大国が土人国に金印くれること自体が
ありえないくらいの高待遇だろ
漢が高層建造物をバンバン建ててた時に
日本は竪穴式住居だぞ 黒田官兵衛は大阪城の普請に関わっている
漢委奴国の金印は大阪城の石山から見つけたというストーリーは考えやすい
摂津はかつて猪名県と呼ばれていて、漢の猪名国、播磨〜摂津を中心にした国だった可能性がある
猪名の地域は旧石器時代から人々の営みの痕跡が残り、縄文時代晩期には炭化米や石包丁が見つかり稲作が行われていた可能性が高い場所
猪名の枕詞はシナガ鳥
シナガの地は元々箱根の東の神奈川辺りで、後々聖徳太子絡みで河内にもできる
箱根には猪の伝承があり神奈川の寒川神社の御神体は猪の頭
イワ大神の子伊勢津彦が神風を起こし逃れた先はシナノ
伊勢の風の神さまはシナツ彦シナツ姫
播磨風土記にある五色の玉を持つ石神は暴風を起こした
六甲山系は磐座だらけなんだよな
最後に五色に輝くえべっさんは堺に降臨して五色の玉を埋め磐山を作ったという伝承がある
丹後風土記の和歌によれば大和辺に風が吹き上がって大変なことになったらしい。百舌鳥古市古墳群の終焉かもな
近い時期に九州では磐井が亡くなっている(岩戸山古墳には猪を盗んだ盗人の石像がある)この時代に石神が力を失っていったのかもしれないね
五色の石神が大切なものを埋めたのは堺近辺の磐山、古墳だろう
大阪城の石山が一番ぴったりくる >>19
歴史改竄の常習犯は東北地方だと思うけどね?
十三湊のアレとか、会津(山川)史観とか
それこそ馬場壇A,Bのゴッドハンドとか
なぜか某維新志士の絶筆と称する物が何種類も
東北各地に存在したり、目茶苦茶だぞ? 金印偽物って言いたい人の気持ちもわかるけど、数十年学者たちが様々な角度から検証してるんだよ。
で本物って結論になった。
まぁ本物と考えていいと思うよ。 伊豆や甲斐は聖徳太子の領地が多く、神猟の神事も残っていたと風土記にある
聖徳太子は甲斐の【黒】馬に乗り富士を越え、河内のシナガの地にやってきたと伝承にある
シナガは元々は伊豆の東側の地でそこの人々が河内に移り住んだのかもしれないね
河内のシナガの地叡福寺にある聖徳太子廟は【無数の結界石】で守られている >>428
そんな気持ちは全く分からん
偽物だというのならそれなりの根拠を出してくれないと意味ないよね
疑うだけでは >>308
藩に藩校2つあって政争してた
遅れを取った方が見つけた 福岡藩(殿様の遺言で2校開校)
甘棠館(1784-1798年)火事で消失し再建しなかった
修猷館(1784-)現在も存在
金印1784年発見 開校4日後に発見
村人から知り合い?に渡され更に豪商に渡されその知り合いの学長へって流れ >>400
あーそうなんだ
その他の情報(レス)も詳しくありがとうございます 誰かが神社かどっかにあったのを自宅に保管していて
その子孫に畑からでたって言い伝えたとかは? 金印が無事ならええんよ
そんなことよりも、今のうちに博多湾沿岸域をミサイル攻撃し、証拠を全て消して再起不能にしようぜ(笑) このあたりの奴らってみんな部落だろうから、その方が都合が良いわな 神武東征とかアホな書き込みを見かけるが、奴国の金印は東征よりも
200年以上前の事なんだぞ、北部九州の国々もまだ統一されていなかった
時代に有力な奴国が漢に挨拶に行ったと言う事なので、本州などは国が
あったとは思えんし、あっても漢と言う国の存在すら知らなかったのは
間違いない。 おそらく奴国は戦争かまたは本能寺の変のような謀反が起きたかで
光武帝から戴いた金印を奪われかねない事態に追われてたと見る
そこでごく少数の幹部数名で金印を土に埋めて隠そうという計画が決まり
奴国があったとされる地域から船で渡った先の志賀島という誰にもさとられないような土地を選んでる。
物証は覆らないからな。後で発掘できるよう巨石を上から置いたのも金印を守るためと思われる >>444
神武東征→奴国の順だよ
神武東征では、波速之埼を抜け湾内に侵入して白肩津という海岸にある草香邑から上陸したと書かれてる
これは大阪平野がまだ海だった時代でないと使えないルート
河内湾が堆積物でせき止められて淡水湖になる前の時代というのは、紀元前の頃でないと絶対に不可能
地質調査も年代測定もおぼつかない7世紀の書物に、その時代の地形を書けてた理由は、その当時の地形を見て記録していた以外にはあり得ない
橿原遺跡に至っては、昭和に発見されて、年代測定で紀元前7世紀と判明してる
こういう物証を想像で否定することは不可能だよ >>447
金印が永遠に見つからなかったら、意味ないけどな >>442
おたくはまず基本的な歴史から学んだほうがいいな
5ちゃんに毒されすぎ 金印は本来中華王朝に返すものらしいから
日本で見つかること自体イレギュラー 誰かに見つけてもらうなんて考えてないな
むしろ見つけられないようにしたとしか思えない
自分らで埋めた場所がわかるように金印を巨石でカバーして
だから1800年もの長い間誰も金印を見つけられなかった。
王の証を埋めるなんてのは相当切羽詰まってたと思えるし、敵に追いかけられて
金印を持って逃げた先で隠したという見方もできる
いずれにせよその事実は伝わっていないのだから金印を埋めた奴国の人間も
倭国大乱で殺されたのかもな >>447
後漢書には倭の奴国の位置は「倭國之極南界也」とある
魏書の言う奴国は九州北部かもしれないが、後漢書の言う倭の奴国はおそらく別物
でないと、極南界(最南端)とはならない
現存する後漢書が范曄が後世に再編したしたものであり、先行後漢書が消失しているため
どれだけ何を信じれるか、結構怪しい書物ではあるけどね ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています