愛知を拠点に三菱航空機が開発していた国産初のジェット旅客機、MRJ。ニッポンの航空産業の中核として量産化が期待されていましたが2023年2月、ついに計画の中止が発表されました。

夢の開発プロジェクトがなぜ頓挫したのか。三菱航空機の元社長の川井昭陽氏が、当時の胸中を明かしました。

三菱重工が国産初のジェット旅客機として開発を決めたのが「三菱リージョナルジェット(MRJ)」です。

100席以下の小型機ながら、部品点数は車の30倍にあたる約95万点。県営名古屋空港を開発拠点にした夢の国産ジェット旅客機の生産は、この地方に新たな基幹産業の誕生を期待させるものでした。

しかし度重なる設計変更で、プロジェクトは6度にわたって計画延期。2019年には名前から三菱の“M”の文字も消えました。そして2023年2月、開発中止を発表しました。

■1枚の紙がMRJ計画破綻の引き金に

MRJの計画が破綻した原因は「たった1枚の書類のため」です。三菱航空機の元社長、川井昭陽氏に話を聞きました。

三菱航空機 川井昭陽 元社長:
「これ(画像)が型式証明ですね。この1枚を取るために皆さん苦労しました」

三菱重工が1980年代に開発したビジネスジェット機「MU-300」に対してFAA(アメリカ連邦航空局)が発行した型式証明書です。型式証明とは、旅客機の安全性を証明するための審査で、その飛行機を飛ばす国ごとに申請して認可を得ないといけません。

川井元社長:
「飛行機を作るのは、そんなに難しいわけではない。ただ型式証明を取る段階になるとそれは全然違う技術になりますから」

■たくさんのアメリカ人の助けを受けた

(略)

■FAA以上の実力を持つボーイングのOBを集めた

(略)

■三菱航空機の技術者たちとの間に生まれた溝

2014年、機体の完成を祝うロールアウト式典に川井元社長の姿がありました。この式典で川井元社長は「MRJの開発に向かって邁進していく」と意気込みを語ります。

しかしその晴れの日でさえ、量産化への道筋が見えていなかったと当時を思い返します。

川井元社長:
「『本当にできるのかな』というのは正直ずっと不安を持って過ごしていました。何から手をつけていいのか分からないような状況です」

不安の原因は、開発の現場にありました。苦労の末に招き入れたボーイングのOBたちと、三菱航空機の技術者たちとの間に、溝のようなものを感じていたと川井さんは話します。

■技術者たちは「うぬぼれていた」のでは

川井元社長:
「そのすごさが教わる側が分かっていれば、ちゃんと聞くんですけど、私がいろいろなことを言っても、彼らは『自分のやり方でやります』とはっきり言うとそういうタイプ。その当時の技術者は“うぬぼれ”があったのではないかという気がしています。

飛行機としてはいい飛行機を造ってくれます。いわゆる履き違えていたんです。飛行機を造ることと、安全性を証明していくことは違うことなのが分かっていなかったんだと思います。やっぱり謙虚さに欠けていたところがあると思います」

開発に費やした事業費は約1兆円。結局、MRJの型式証明は申請から約15年をかけても取得することができませんでした。

川井元社長:
「完成機はもうないと私は思っています。しばらくは…。これは国家的な損失だと思います。世界における日本の地位がどんと下がりましたから」

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8/22(火) 20:19 テレビ愛知
https://news.yahoo.co.jp/articles/77ab20d8d15d3c2daf7e9b67d4b893305b92922c
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