邪馬台国の候補地
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 この夏の初め、邪馬台国所在地論争が突如盛り上がった。佐賀県の吉野ケ里遺跡で「謎のエリア」の発掘が進み、卑弥呼(ひみこ)と同時代という未盗掘の石棺墓(せっかんぼ)の蓋(ふた)が開かれたからだ。しかし、副葬品は見つからず、邪馬台国「九州説」ムードは急速にしぼんでいった。ならば「畿内説」なのかと問われれば、それもどうか。畿内説への引っかかりについて一度触れたい。

 中国の史書「魏志倭人伝」は、倭国内の乱れを治めるため女王・卑弥呼が共立され、邪馬台国を都としている、と記す。魏が通交した倭国は、邪馬台国など各地の国々で構成されていたことがわかる。卑弥呼のいた時期も2世紀終わりごろから3世紀前半と、はっきり書いている。

 その邪馬台国の位置をめぐり、畿内説では纒向(まきむく)遺跡(奈良県桜井市)が考古学者を中心に圧倒的に支持されている。九州説にはそこまでの候補はなく、弱点といえる。ただ、筑後川流域が有力とされ、吉野ケ里遺跡もその一つ。今回、焦点の石棺墓が卑弥呼時代に重なるため、「何が出るか」と注目されたのだ。

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 さて、畿内説への引っかかりとは何か。畿内説批判の論点はさまざまだが、あまり言及されていないと思える疑問がある。焦点は、倭人伝の次の記事。

 「女王国より以北には、特に一大率(いちだいそつ)を置き、諸国を検察せしむ。諸国これを畏憚(いたん)す。常に伊都(いと)国に治す」(石原道博編訳・岩波文庫『中国正史日本伝1』)

 女王国とは邪馬台国のこと。一人の大率という役職者が倭国を構成する国々の一つ、伊都国に置かれ、邪馬台国より北側の他の国々を監督している、と記す。伊都国が福岡県糸島市にあったことに異論はない。前代の大遺跡もある。

 畿内説に立つと、この一文がしっくりこないのだ。倭人伝では、朝鮮半島から南に向かい倭国の領域が描かれる。対馬国(長崎県・対馬)に始まり、一支国(同・壱岐)や伊都国など九州北部の国々が記され、南進して邪馬台国に至る。

 問題は、一大率の監督範囲だ。畿内説によれば、瀬戸内海沿岸の吉備(岡山県)をはじめ、四国北岸や出雲(島根県)などにも倭国メンバーの有力な国々があった。邪馬台国より北側(畿内説では、このあたりの文脈では北を西と読み替える)というなら、これらの広大な地域も遠方の九州・伊都国から監督することにならないか。

 倭人伝には、「女王国より以北」という表現が他にもある。「女王国より北の国々の戸数や里程はだいたいわかるが、他の国々は遠くてわからない」と記す。「以北」の表現は、倭国領のうち邪馬台国より北側(畿内説では西側)の全体、対馬までの全域を指すとみるのが自然だ。南側には倭国の他の領域があり、倭国領の尽きた先に敵対する狗奴(くな)国があると読める。

 もちろん一大率自身が諸国を巡視するのではなく、配下の担当者を派遣したのだろうが、それにしても纒向遺跡の目と鼻の先の大阪湾沿岸あたりまでわざわざ伊都国から監視していたのなら、ご苦労なことだ。

 九州説に立てば、何の引っかかりもない。邪馬台国が筑後川の流域あたりにあったとして、その北側の地域を玄界灘沿いの中心的存在、伊都国で監督させる政策は十分納得がいく。

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 こんな地理的違和感は、畿内説にとってはさまつな問題なのだろうか。だが、次の記事なども併せ読むと、そうは言えない。

 「女王国の東、海を渡る千余里、また国あり、皆倭種なり」(同)

 倭国の領域の東の海を渡ると別の国々がある、同じ倭人だよ、と言っている。この記述は畿内説の弱点としてしばしば目にする。九州説なら、豊後水道の東に卑弥呼の倭国とは別の倭人の国々があるというだけの話だ。吉備でも大和でも何でもいい。しかし、畿内説では渡るべき海がない。(以下ソース)

2023/8/21
https://mainichi.jp/articles/20230821/dde/014/040/004000c?inb=ra