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肖像画に描かれる男性の正体は、バンコクで終戦を迎えた元日本陸軍参謀・辻政信氏。

戦時中、幾多の激戦地で活躍し、“作戦の神様”と評される一方で悪評も絶えない。「無謀な作戦で多くの犠牲を出した」「現場の指揮官に自殺を強要した」などと、耳を疑うものばかりだ。

さらにシンガポールでは反日ゲリラ活動を防ぐためとして、数千人の虐殺を指揮したとされている。

昭和の歴史を綴った作家たちは、「地獄からの使者」「絶対悪」などと辻氏をこき下ろした。

その辻氏は戦後に突然行方をくらませ、アジア各国に潜伏し、戦犯としての追及を逃れる。

再び世に出た辻氏は国会議員になり、防衛力の強化を訴え、“第三次大戦を起こしかねない男”と噂された。そして最後は、出張先の東南アジアで失踪。多くの謎を残したまま、人知れずこの世を去った。

激動の時代に、非難と脚光を浴びながら生きた男。その姿は今を生きる人々にどう映るのか。前編では、辻氏の戦時中の活躍と、戦後の海外での潜行生活を追う。

■親戚から見た辻政信とは…

辻氏の地元・石川県で文房具店を営む、おいの辻政晴さんが取材に応じてくれた。

「中佐(政信)が、ノモンハン事件の一番上に立って、『お前、これやれ』って言えるわけがないです。板垣征四郎とか、大将や中将が指揮官だった。本来、指揮官が一番悪いっちゃ悪い」と話す政晴さん。

政晴さんの妻・美惠子さんは「一回だけ知り合いから、『悪魔ってわかっている政信さんの親戚の家ってわかって嫁に行ったのか』と言われて。正直、あんまり詳しく知らなかった。親は当然知っていたと思うんだけど」と当時を振り返った。

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1939年、旧満州国とモンゴルとの国境地帯・ノモンハンで、日本軍と旧ソ連軍との軍事衝突が勃発。両軍とも2万人近い死傷者を出す惨劇となった。

この戦いで参謀を務めた辻は、本部からの指示に背く作戦を強行。多くの犠牲に繋がったとして非難を浴びた。

当時の辻氏の手記には、「ノモンハンの罪人となると、昨日までの友が赤の他人となり、手のひらを返したようになる」とある。

元帝京大学教授で歴史学者の戸部良一さんは、上司も一目置いた辻氏の特性をこう指摘する。

「彼は、積極果敢に何でもやる、そして率先垂範。部下に丸投げするのではなくて、自分からやる。それから、生命を顧みずに組織の使命のために尽くす、ということをやったので、その部分は当時の人たちから、評価されていたのでしょう。

1932年の第一次上海事変の時にも、第七連隊にいた辻は上海に出征して、そこで怪我もしています。前線に出ているのでよく怪我をする。前線を知っていることが彼の強み。

そうすると、司令部にいて、コマだけ動かしている幕僚たちではかなわない。しかも彼の持っている軍事知識は、優秀だと言われるだけあって、当時の陸軍の中で群を抜いていたでしょうから。そうすると、みんな彼の弁舌にどうしても太刀打ちできないということだろうと思います。まあ、(彼は)はっきり言ってやりすぎなんです。

なんらかの意味で、当時の価値というものに合致しているんですが、それは陸軍の中で通用する価値であって、一般社会や普遍的な価値にそのまま合致したとは思われない。でも、誰もそれを止めることはできなかったんでしょうね」

ノモンハン事件での失敗で辻は一度左遷されるが、その後、マレー半島やシンガポールへの進撃に参加。今度は一転“作戦の神様”として評価された。

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1902年、石川県旧東谷奥村、現在の加賀市で生まれた。家は貧しく、小学校を出た後は家業の炭焼きを継ぐはずだった。

しかし、頭脳明晰な辻氏は、教師に勧められ、1917年に名古屋陸軍地方幼年学校に入学。1931年には軍のエリートを養成する陸軍大学校を優秀な成績で卒業し、数々の激戦に関わった。

エリートにもかかわらず、自ら最前線へ繰り出し、部下からは慕われた一方、道理に反することは上官でも容赦なく非難し、煙たがられる存在でもあった。

「(辻は)あちこちに弾の傷痕があるらしい。それを見せてくれたけどね。急所ははずれてる。なんとなしに、立派な方だからこの人についていこうかなと思った」(矢神さん)

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後編では、この後潜伏をやめ国会議員への道を進む辻氏の姿を追っていく。

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