【東京】纒向遺跡は邪馬台国か、箸墓は卑弥呼の墓か議論 東京で纒向フォーラム★5
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卑弥呼の墓説がある箸墓古墳について議論するパネリスト(東京都千代田区で)
https://www.yomiuri.co.jp/photo/20181014/20181014-OYTNI50010-L.jpg
◇纒向フォーラム
東京・よみうりホールで14日に開かれた邪馬台国の有力候補地、桜井市の纒向(まきむく)遺跡を巡る7回目のフォーラムでは、卑弥呼の墓との説がある同市の箸墓古墳がテーマとなった。調査成果や全国の事例、中国の文献も参考に専門家4人が議論し、考古学ファンら約850人が熱心に耳を傾けた。(辰巳隆博、大森篤志)
市纒向学研究センターの福辻淳・主任研究員は、箸墓古墳の調査について説明。レーザーを使った詳細な測量で、地表の高低差や形状を立体化できたことなどを紹介した。
俳優の苅谷俊介・京都橘大客員教授(考古学)は、纒向遺跡の大型建物跡の南に箸墓古墳が位置することに着目し、「都城の南に祭礼施設を造るという中国の思想が取り入れられており、大型建物跡と箸墓古墳は密接なつながりがあった」との見解を示した。
また、松木武彦・国立歴史民俗博物館教授(考古学)は前方後円墳の成立過程について解説した。2世紀中頃から、全国で墳丘に突出した部分が設けられ、被葬者も集団から個人になり、形も統一されるとし、箸墓古墳について、「倭国(わこく)初の国家的モニュメント。親魏倭王の墓にふさわしい」と述べた。
渡辺義浩・早稲田大教授(中国古代思想史)は、魏の文帝が「寿陵(じゅりょう)(生前に造る墓)は自然の山を利用し、樹を植えてはならない」などと定めたことを紹介し、「魏の使者は、卑弥呼の墓を見て中国の墓制にのっとった墓だと思っただろう」などと話した。
その後、センターの寺沢薫所長の司会で4人が討論。箸墓古墳が卑弥呼の墓だとする見方に対し、寺沢所長は、桜井市のホケノ山古墳など箸墓以前に築造された古墳のいずれかだと主張した。
テーマとなった中国の歴史書「魏志倭人伝」の記述、「卑弥呼、以(すで)に死し、大いに冢(ちょう)を作る」なら死んだ後に墓を造ったという意味になり、渡辺教授は「死んだために墓を造ったという意味の『死するを以もって』と読むべきだ」と指摘した。
大学で古代史を専攻したというさいたま市南区の会社員長谷川菜摘さん(29)は「纒向遺跡や箸墓古墳に吉備(現・岡山県)などの影響があったのが興味深かった。遺跡を探訪したくなった」と笑顔。東京都江東区の会社員大迫文次郎さん(53)は「邪馬台国の所在地に関心が集まりがちだが、中国の思想や墓制との関わりを知ることができて勉強になった」と満足そうだった。
読売新聞 2018年10月15日
https://www.yomiuri.co.jp/local/nara/news/20181014-OYTNT50054.html
読売新聞 2018年10月15日
https://www.yomiuri.co.jp/osaka/news/20181015-OYO1T50005.html
★1:2018/10/15(月) 18:49:51.46
http://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1539796902/ 学者も畿内説から撤退して纒向学に変わり、
ごく一部の畿内説の消滅を
変化を受け入れられない人達が
こういうところで暴れてるだけだよ。
IDを見ればわかるけど
畿内説の人は限られてるでしょ。 >>637
佐賀ルートですね。
私もこちらを推します。
糸島出身ですがね。 >>636
他にもあるが、有名どころで
ttp://yamatai.cside.com/tousennsetu/innritu.htm
感想ヨロ >>636
三角縁神獣鏡が用いた銅の鉱山は最近の分析を待つまでもなく昔から特定されてる
しかし3世紀そこは呉の領内だった
つまり魏にその銅が出回ることは無かった
呉の銅が中国北部に出回り始めたのは呉が滅亡した3世紀末以降
三角縁神獣鏡が魏の鏡を偽装していたことで矛盾が生じたことや
年代と銘文がでたらめだったことで中国製は否定されてる >>639
佐賀ルート?
呼子港か名護屋浦なんだよ
そこから南東へ500里(40km)で糸島市中部の伊都ゴルフ俱楽部付近
そこから東の糸島市東部が伊都国ですよ。 邪馬台国九州説は文献などに基づいて出た結論だが
邪馬台国畿内説は単にヤマトと言う発音と妄想に基づいた
酔っ払いの寝言と同じ。 >>632
三角縁神獣青銅鏡の数はどうかな?
古墳の数では兵庫県が日本一多い。
福岡県のような貧乏な新興地域では何もない荒れ地や炭鉱跡地、農地など
発掘しやすい条件がそろっている。 >>638
纒向と邪馬台国を結びつけるものは何も無いから
独立して纒向だけを研究するのが正解だな。 >>637
一度南東に行ってから北東に行ったら、
全体として南東に行った事にはならない。
測量とかせずになんとなくの感覚で書いたなら、
そういういい加減な方角になる事もあり得るが、
自分が行った全ての国の距離と方角をいちいち書き記して、
場合によっては面積まで求めて、政府に報告しているのだから、
なんとなくでいい加減に書いたわけがない。 纏向という地名はムクムク遺跡と変えた方が良いww
ムラムラ遺跡も良いなwww
。 >>645
人口140万人しかない田舎の奈良県が
3.6倍以上の人口福岡県に何を言ってるんだ? なんかテレビみてたら、箸墓古墳のとなりの、箸墓勝山古墳ってのが、
ヒミコの墓だって、なんか地元の偉い研究者が言ってたよ 倭の五王の武=ワカタケル
この時代であれば、大和政権が熊本まで勢力を伸ばしていた事は確実。
しかも、東西に拡大して行った様で、東は埼玉まで勢力を伸ばしていた。
コレをさかのぼって413年の讃の朝貢をもって、
大和政権に続く勢力が北部九州を支配していた事が想定され、
好太王碑をもって、399年には朝鮮半島に進出して
新羅を支配するだけの勢力が既に倭にあったと言うのが歴史の事実である。
現状では、AC399年以前に、どう大和政権が北部九州まで勢力を拡大したのか不明であり、
この過程が明らかにならない以上、歴史の教科書に、
3世紀中期に大和政権が北部九州に勢力を伸ばしていたとは書きようが無い。 >>609
だから銅鐸自体大陸の銅銭溶かして作り変えてるし
銅鐸溶かして鏡にすれば中国製の銅と同じ材質になるだろうっての >>646
でも規模から纒向と卑弥呼を結びつける可能性は否定できないよ。なんせ、男王できない事やっているんだから、幼少の頃か天才で戦略、経済とマルチだったかも、ある時期から公には、出ずに神格化工作とか? >>647
「ちゃんと測って記録しよう」という気持ちはあったと思うのよ。
でもその心意気は、上陸早々の「草木茂盛、行不見前人」で
萎え萎えになってしまったことがわかるw 畿内説の学者さんたちは、
どのような発掘成果が上がれば北部九州まで大和政権が拡大していたと言えるのか、
そのロジックを全くお分かりになられていない池沼としか言いようが無い。
それ故に、マキムクばかりを発掘してしまっている様だ。
そしてそこからは魏志倭人伝の記述を示す成果は一切上がってこない。
にも関わらず、マキムクが邪馬台国だと言い張る、
意味不明の事が今考古学界で起こっている。
現状、一般の国民から見れば、畿内説は補助金をゲットする為の、
呈の良いビジネスとしか言いようが無いな。 >>655
方角は太陽を見て判断するもの。
前が見えなくても関係無いよ。 >>649
青銅鏡の数の比較はどうなんだと聞いている >>656
そのうち心ある先生が「続神々の汚れた手」って出版してくれるでしょ 畿内は人口だけが当時の僻地にしては密集してると言うだけで出土する遺物からは邪馬台に繋がる物証など何も出てない。
その様相は地方低文化水準の豪族規模。 >>654
いくら規模が大きくても九州から遠すぎるだろ。
しかも奈良から海に出るまで1ヶ月(陸行一月)もかかるのに
どうやって九州を支配してたんだよ。 >>656
吉野ケ里歴史公園は
奈良県田原本町の唐古鍵遺跡から出土した物見櫓の
絵をパクって建物を捏造してテーマパークにしてるんだから
奈良も近鉄と手を組んで唐古鍵遺跡周辺をもっと発掘して昔あった
ドリームランドのような日本古代史を勉強して遊べるテーマパークを作ればいいんだわ。 >>662
それって>>169だよね。
んで、俺は>>172と聞いたが反論はないようだ。
>>664
お、おう…。 >>1
神武天皇を1世とした時の世代数
25世. (38代) 天智天皇. 626-672
42世. (77代)後白河天皇 1127-1192
72世(125代) 今上天皇 1933-
古代〜中世 1世代平均29.47年 25世 天智天皇(生年. 626)から42世 後白河天皇(生年1127)まで
中世〜現代 1世代平均26.87年 42世 後白河天皇(生年1127)から72世 今上天皇(生年1933)まで
古代〜現代 1世代平均27.81年 25世 天智天皇(生年. 626)から72世 今上天皇(生年1933)まで
時代が古くなるほど1世代あたりの年数は長くなる
生年が確定している天智を起点に父の父の父の・・・と1世代29.47年で遡ると・・・
626年生まれ 25天智 626-672
596年生まれ 24舒明 593-641
567年生まれ 23押坂彦人大兄皇子
537年生まれ 22敏達 538.?-585.?
508年生まれ 21欽明 509.?-571.?
478年生まれ 20継体 (武烈)
449年生まれ 19彦主人王 (清寧)(仁賢)
419年生まれ 18乎非王 (雄略)(市辺押磐皇子)
390年生まれ 17意富富等王 (允恭)(履中)
360年生まれ 16若野毛二俣王 (仁徳)
331年生まれ 15応神
301年生まれ 14仲哀
272年生まれ 13日本武尊
242年生まれ 12景行
213年生まれ 11垂仁 田道間守(たぢまもり)=難升米(タヂマ)
183年生まれ 10崇神 四道将軍=倭国大乱 >>172
「よし、あっちが東!」「あの山の方向、ORあの半島の方向」と小さな目標を定めればいいだけだよ。 >>668
前提が、「草木茂盛、行不見前人」な状況だということを忘れちゃいかんぞ。 >>666
>>172に向けて書いたものではないけど、
>>173がバッチリその反論になってるから、
わざわざ172に同じ事を書かなくてもいいかなと思ってた。 >>663
>奈良から海に出るまで1ヶ月(陸行一月)
明日香村中央部を北流、橿原市、田原本町などを経て
川西町保田で大和川に注ぐから
一ヶ月も掛からんわなwwwww >>10
粘土板とか土器に文字を残せばよかったのにね。 >>673
聖徳太子が書いた神代文字がどこだったか忘れたけど
神社に在った(はず)なんだけど焼失したって話があるね >>671
じゃあ陸行一月ってのはなんなんなの?
畿内説だと海から上陸して奈良にいくまで1ヶ月かかるんだろ。 >>669>>672
目印になるものが見えた時に測量をするんだよ。
仮に呼子からスタートした直後は方角がわかりにくかったとしても、
唐津湾あたりに出ればいくらでも目印はある。
唐津から糸島へは北東に進んでいる事を完璧に把握できるはずだ。 「倭人は帯方郡の東南、大海の中に在る。山島に依って国邑を作っている。
昔は百余国あり、漢の時、朝見する者がいた。今交流の可能な国は三十余国である」
要するに倭人の棲む国は百余国あったがその内の三十余国のみが魏国と交流を
していると書いている。残りの七十余国は交流をしていないから
交流しない国には魏使は訪れる事は絶対に無いと言う事だ。 >>669
そもそも倭人の道案内が付いてたから道に迷うことはないよ
自分の進んでいる方向を途中で確認するぐらいだよ。 >>677
唐津湾岸から呼子(出発地)が見通せないなら、けっきょくのところ
どれだけ南下したかは把握できないじゃんか。山道の行程を
過大評価した結果、末廬から伊都を東南と認識した可能性は
否定できない。 昔の日本語は50音も使われていなかったので
50音が揃った神代文字は明治以降の
偽物だとか。 エジプトにピラミッドは200以下
日本に古墳は10万以上 「巻向・箸墓は邪馬台国か!?」
こんなん幼稚なネット広告の煽りやんw
しかもこれ以上は行けない、根拠薄弱な宗教。
譫言のように巻向箸墓ホケノ山とか口走ってそれ言ってれば
「ああ、こいつは仲間」って安心する感じ。
学者面して、考古学関係者って阿呆ばっかなん?
埋蔵物の量と質、地理的条件、中国側の記録、記紀神話、人口
動態と民族移動、海洋民族の痕跡、古墳の最先進地域、古地名、
「九州」呼称、「太宰府」「遠の朝廷」「年号」、仏教の先進
地域と宇佐神宮の特異な地位、その他全て九州しかあり得ない。
弁証法的に。 >>674
それなら法隆寺じゃないのか
知らんけど
1949年(昭和24年)1月26日の早朝に出火して
金堂の壁画が焼け焦げた。
>>675
日本書紀が完成したあと焚書したんだろうな >>680
道案内はいたはずだよね。
だから伊都国にたどりついた。
でもそれは、地図上で末廬から伊都に引いた直線の「向きを
把握したからではなく、道を知っている人に付いて行ったからだよね。 邪馬台国
邪悪な馬がたくさん、台地にいたのでしょうねえ。
いえいえこの人達は馬頭星雲から地球にやってきた人達なのです!
wwww 魏使は方角間違いをしているとか寝言も良い所、魏使は朝昼夕常に太陽の方角を見ながら
旅をしているから仮に方角間違いをしても45度の半分の22.5度以内だろう。その程度の
誤差なら間違いとは言わんよ。 唐津から佐賀へは
それほど登らなくてもいい、
いい道があるんだよ。
秀吉の朝鮮出兵でも多くの大名が通った道で、
松浦に収まらない大名は
佐賀城下にまであふれかえり
佐賀市内にxx陣屋跡なんて地名も残ってる。
鉄道も明治の終わりに佐賀から
唐津線がすんなり通ったのに対して
筑肥線は難工事の連続で
接続したのは昭和になってから。
それくらい唐津から糸島への交通は難所だった。 例えば、「畿内説の唯一の弱点である大型弥生遺跡が発見されたから
邪馬台国は奈良」
畿内説は小学生以下の知能しかないらしいw
大きな弥生遺跡があれば全部邪馬台国なのか。
それより問題は、「唯一の弱点」というキャッチコピーにある。弱点だ
らけ、というより有利なところ自体が希少ではないか。桃の種(爆)
こういう風にさりげなく嘘を織り込んでいき、仕舞いには自分たちでも
分からなくなるほどイフの連続で屋上屋を架してしまう。
実際は、奈良説は存在しないものをひとつひとつ証明しなければならず、
非常に可能性の薄い仮説であることは自明。
キュウベエを呼んでくれば、主観を排して論理的かつ冷酷に「わけがわ
からないよ」と言ってくれるよw >>634
発見を元に語るのが考古学の常識
発見されてないものを「この辺りにあるはずだ!」と語るのは科学ではなくファンタジー 魏使が訪れた国は北部九州にあった三十余国で、本州にあった国は「女王国の東
海を渡る1千余里、亦倭種の国があると書いてある。魏使が本州には行かなかったのは
明らかだ。 >>669
難所だからこそ、「草木茂盛、行不見前人」という記述になるわけだよね。
「いい道」の先にあるのは伊都国じゃない気がする。 おりょ、アンカー間違えた。
>>689
難所だからこそ、「草木茂盛、行不見前人」という記述になるわけだよね。
「いい道」の先にあるのは伊都国じゃない気がする。 >>124
イザナギがヨモツシコメに投げつけたってだけじゃないのか? >>692
しかも「倭に付庸する」ですからねw
どう考えても支配する側をさして使う言葉では無い。
畿内説の学者さん達は、漢字の国の国史より偉いんですよきっと。
すぐ誤字脱字とか勘違いとか間違いとか言ってくれる。
編集していた人たちは、下手すりゃ速攻誅殺食らうだけに必死ですからね。
予算取ってくるためにてきとーに「巻向」口走ってる自称学者さん達とは
真剣さが違う。それだって税金なんだけどね。自覚無いっていうか。 >>676
昔は河内湖やなんてのが有ったらしい。
秋に来たときには竜田川の岸で紅葉をを観て
10日ぐらい歓迎の宴会して鮎や雉子、鴨の竜田揚げを肴にドブロクを飲んだんだわ
春は吉野で一目千本の山桜を眺めて歓迎会、送別会を催した。
奈良時代には奈良から九州まで街道が整備され
要所要所には駅(むまや)が配置され乗り継ぎ用の馬が置かれていたし
宿泊施設もあったとか。
兵庫県の一級河川加古川の東には山陽道で最大規模の駅(むまや)があった。 まつろ国が博多湾だとすると
そこから南東100里で奴国候補なんだよね
んでそれだと東に100里で不弥国候補だし
そうなると伊都国候補は朝倉市あたりになりそうだけど古墳とかある地域だし
まつろ国起点説とあわせて考えるとピッタリじゃね? >>699
ちなみに壱岐から博多湾まで1000里くらいだし全部ピンとくるわ >>695
それほどの難所を、唐津まで船で行っておきながら
糸島まで船で行かないというのも
おかしな話。
地元民の案内で難所を歩いたというのなら
船で行くときも地元の漁民あたりに
水先案内を頼めばいいからね。 >>681
唐津湾に出てからの行程を正確に把握できていた場合に、
呼子→糸島を南東方向(東南東を含む)と誤認するためには、
唐津湾に出るまでの山道を、実際の10倍ぐらい過大評価しなければならないが、
そこまで著しい誤差が出るわけがない。
仮に、歩数が通常の10倍かかったとしても、
険しい山道で通常より歩数がかかるのは常識なので、
少なめに補正して計算するものだ。
って言うか、距離は「五百里」とほぼ正確に出ているのだから、
「距離を過大評価した」という主張と完全に矛盾する。 >>682
>50音も使われていなかった
意味不明
日本語じゃなかったという意味か?
もう少し詳しく >>691
シュリーマンを完全否定する考古学者がどこにいるんだ? ヤマト朝廷単独王朝説で凝り固まってる頭のせいで全く逆に結論になってる可能性がかなり高いよね
古墳が多い地域=ヤマト朝廷から独立した(もしくはそれに近いほど力を持った)国があった
と考えるべきところを
古墳が多い地域=ヤマト朝廷の支配が及んでいた地域
と全く真逆になっちゃってるという
もちろん文化として影響は受けてるんだろうけど文化として影響を受けたからといって支配されてるって話にはならんだろに >>699
博多湾は壱岐の「南」では無いんだよ。
それに、ひらけた平野部なので末盧国の様子と矛盾する。 で、金印と同時に下賜された銅鏡100枚って発掘されてんの? >>705
なるほど、それは言えてる気がする。
磐井とかモロにそうだよね。 >>699
今も重要な信仰地となってる宗像市の上の神湊が上陸地だという説もある。
ちなみにその場合の邪馬台国は中津近辺で邪馬台国の墓は宇佐神宮。 >>706
壱岐からは南って行ってない
海を1000余里渡るとしか行ってない
それに「ひらけた平野部」にしか見えないけど昔は違ったの?
福岡平野って三角州でしょ?人工的な平野とは思えないけど >>709
宗像ルートだと壱岐は通らん気がする。
どっちにしても、宗像がヤマト王権と仲良しになるのは4世紀だよね。 >>706
壱岐から次の末盧国までには方角指定がないはず >>705
いろんな考え方があっていい部分だと思う
俺は参勤交代のように各地の豪族の経済力を落とす意味と
平和になって不必要になった兵士の雇用対策だと思う >>711
確か季節風があって東へ進むほうが良いって話だったと思う。
あと奈良に行った人たちと地元に残った人との反発ってのも
あったのかもしれない。 >>697
>漢字の国の国史より偉いんですよきっと。
>すぐ誤字脱字とか勘違いとか間違いとか言ってくれる。
>編集していた人たちは、下手すりゃ速攻誅殺食らうだけに必死ですからね。
今残っている正史三国志は陳寿の時代から7〜800年経って
出版されたものだし、倭国のことなんか支那人は知りはしないんだわ。
だから隷書体で書かれた三国志のタネ本の「一丈(壱岐の古い書き方)」が「丈」のような
形をしていても
「この字は一丈國か」「一丈國なんか知らないアル」
「それじゃ一大國にしとくよ」てなぐあいで
「誤刻」しても支那人は誰も気にしなかったんだわ。 >>714
ふうむ。
弥生時代に帆走はないと思うので同意はしないが、
それはさておき「肥前国風土記」に宗像の珂是古さんという
凧あげ名人(?)の話が出てくるのを思い出したw >>710
方角については勘違いしてた、ごめんなさい。
末盧国は山と海に沿った地域に比較的少数が暮らす漁村で、
前が見えないほど草木が生い茂っているような描写がなされている。
とてもひらけた平野部とは思えないな。 >>411
卑弥呼が死んだのが3世紀中だから3世紀前半にでかい古墳がないのが正解でないか? 倭人伝に記載のある倭国とは以下の地域にあった国々と言う事だ
福岡県・・福岡市西区、福岡市博多区、福岡市南区、福岡市東区
糸島市、春日市、志免町、篠栗町、古賀市 福津市、
宗像市、宮若市、田川市、飯塚市、行橋市、筑紫野市、
那珂川町、筑前町 朝倉市、久留米市、八女市、うきは市、
佐賀県・・佐賀市、吉野ヶ里町、多久市、武雄市、唐津市
長崎県・・雲仙市、壱岐市 対馬市
大分県・・日田市、宇佐市、大分市
特定した方法は上記の地域からは勾玉が出土したから(対馬市は除く)
卑弥呼が勾玉を支配国の王に下賜したと思っている。 >>124
古事記や日本書紀を書いた時代には
「弥生時代」という言葉は無かったんだわ
九州説派は時代錯誤のヤツが多いな。
左斜め上の半島人のようなw >>717
> 末盧国は山と海に沿った地域に比較的少数が暮らす漁村で、
> 前が見えないほど草木が生い茂っているような描写がなされている。
> とてもひらけた平野部とは思えないな。
あーそっちか逆だったか
>山海に沿って住む。草木が茂り、前を行く人が見えない。
確かに 九州でもどっちでもいいけど放射式って無理矢理すぎる
使者の行程だとしたら不自然
使者が聞いた話だとしたら九州なんて細かく記載する必要なし。細かくやるなら本州にも触れるでしょ。 >>453
100歳以上の寿命の天皇は干支一回り分60歳差し引いて考えるんだよ
80歳で子供を産んだと言うのは実際は20歳で産んだってこと >>719
このうちの福岡市東区や糟屋郡の町々のどこかに、
磐井の乱のあとでヤマト王権が手に入れた「糟屋の屯倉」
があるんだよね(俺は多々良川下流域だと思っている)。
最後までヤマト王権にまつろわなかった地域だ。 >>717
弥生時代って日本全国で今の香川県ほどの人口しかいなかったんだろ。
そんなスカスカならどこだって草木が生い茂ってると思うよ。 距離、方角ともにバッチリだと思ったんだけどなぁ
もう奴国候補地が間違ってると考えた方がいいのか? >>724
よく覚えてないけど、確かある年代以前は今の一年を二年として数えているから、
つまり単純に半分にするって説が有力だった気がする。 倭人伝は三国時代の魏の人が書いてる。
これが一番重要だと思うんだけども。
三国時代の地図を中心に見てるわけで、
韓伝にも倭人が鉄を取りに来て、韓国の南側と接してる地まで倭地。
魏の人は倭国に海峡国家(海洋民族)的なイメージを持ってる。
自分達に朝貢して来るのは九州沿岸の倭人だけど、本州にも倭種がいる。
朝貢してくる倭人の代表は邪馬台国の女王卑弥呼。
帯方郡の情勢にも素早く対応できてたし、魏の人の見方だと邪馬台国は近畿じゃなさそうだけども、どうなんだろ。 >>718
それまで古墳がなかったのに突然、箸墓みたいな巨大な前方後円墳ができる方が不自然。
だいたい卑弥呼は弥生時代の人で古墳時代ですらないし。
それでも大きさだけは土をかき集めて、もれば大きいのはできるけど、
箸墓は形がきれいな前方後円墳だし中の構造とかも
後の時代の前方後円墳と同じだったりしたらおかしすぎるよね? >>726
仮に博多が末盧国なら、東南には大きな那珂川に沿って進むんだから、
前が見えないって事はあり得ないよ。 古墳時代の翡翠(糸魚川産)勾玉・丸玉などが出土した地域(47箇所)
福岡県・・福岡市西区、福岡市博多区、福岡市南区、福岡市東区
糸島市、春日市、大野城市、志免町、篠栗町、古賀市
福津市、宗像市、宮若市、鞍手町、田川市、嘉麻市
飯塚市、苅田町、行橋市、筑紫野市、那珂川町、筑前町
朝倉市、久留米市、八女市、うきは市、(26箇所)
佐賀県・・佐賀市、吉野ヶ里町、神埼市、多久市、武雄市、唐津市、(6箇所)
長崎県・・雲仙市、壱岐市 (2箇所)
熊本県・・玉名市、和水町、菊池市、御船町、熊本市、宇城市、八代市(7箇所)
大分県・・宇佐市、大分市 (2箇所)
宮崎県・・宮崎市、高鍋町、西都市 (3箇所)
鹿児島県・・長島町 (1箇所)
古墳時代になったら熊本県や宮崎県からも勾玉が出土した
これは狗奴国を降伏させて邪馬台国の重臣を狗奴国王としたからだろう >>731
今だって手入れされてない河川敷なんか、草木が生い茂って歩けないぞ。
ようは地形ではなく人の手が入ってるかないかだろう。 >>728
いや神功皇后がちょうど干支二回り分120年事績の年代がずれていることが分かっている。
だから神功皇后の後の天皇で100歳以上の天皇がちょうど2人いる。
それらを60年ずつ差っ引けばちょうど神功皇后の事績が合う。
だから神功皇后以前の天皇も100歳以上は同様に60年差っ引いて行けばだいたいの年代を推定できるんじゃないかという説 >>730
卑弥呼が弥生時代か大和時代かは断定できない
考古学的にこの時代は空白時代
でもその空白を埋めたのが今回のこの古墳じゃないのかといられてる
https://youtu.be/b_ztXc_Vwl0 >>420
水行10日…神武天皇は吉備から生駒山山麓まで(200km)を半月掛っている…浪速でだ、10日なら100kmかな
当時の船は時速四キロ程度、沿岸航路は島や暗礁が怖いから夜は走らない 海が荒れたら走らない…浜に引き上げてキャンプや 治まるまで何日もキャンプや
船は水が積めない…瓶か竹筒、食料も保存が効けば良いが何方も沢山に積めないだろ、途中のキャンプ地…港で補給するしかない
無線も何もないから浜で襲われたらオシマイや 現在とは違ってソレで食っているムラがあった 海外では今でも有るし
つまり全行程の陸地側は 海の上も完全に勢力下でないと船旅は無理なのや、
因みに安芸から大和まで約600km 当時の道路交通事情では一月で走破するのは無理なはずや 陸路も支配下でないと旅は出来ないけどな
ソレなら船旅のほうが楽やから 陸行1月が不自然なのや 倭人伝の邪馬台国の場所を素直に換算すると
九州よ遥か南らしい
だから過去の研究者は誤字があったと仮定して
畿内や九州説をあげている 記紀編纂時には邪馬台国のことなんかとっくにわけがわからなくなってるんだよな。でも豪族達の
伝承の中に九州からやってきたっていうものがあって、そんで神武の東征をでっち上げたと。で、その
九州からやってきた豪族(思うに応神天皇あたり)てのが邪馬台国にいた人たちだったに違いない。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています