【ダイヤモンド】北条時宗はモンゴルから日本を救った英雄に非ず 非礼を重ねて無闇に国を危険にさらす★5 [みの★]
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鎌倉時代、2度にわたってモンゴルに攻め入られた日本。そんな大国の侵攻から日本を救った英雄とみられているのが、北条時宗だ。しかし、モンゴルが日本に攻め入った経緯を踏まえると、むしろ北条時宗が日本を“危険にさらしていた”ともいえることが分かってきた。世界最大の帝国が小国・日本を2度も攻めた理由とは何だったのか。
※本稿は、本郷和人著『「失敗」の日本史』(中公新書ラクレ)の一部を再編集したものです。
● 疑われることがなかった 「北条時宗=英雄説」
そもそもなぜモンゴルは日本に来襲したのでしょうか? 実は戦前、この疑問について考えられることはほとんどありませんでした。
面積として世界最大の帝国をつくったモンゴルは、言わば侵略マシーンです。だから日本に攻めてくるのは、彼らの本能からして当たり前。それで話は終わり。
一方、北条時宗は疑問の余地もなく、モンゴルから日本を救った英雄とされ、また、どこまで信じていたのかわかりませんが、太平洋戦争当時、日本はいざとなれば神風が吹いて救われる国とも言われてきました。
そのようなニュアンスで、モンゴル来襲については「時宗が国を救った」ことばかりが強調され、そもそもなぜ攻めてきたのかについて、真面目に考えられることがなかったのです。
● なぜモンゴルは 見返りの少ない日本へ来襲したのか
それが戦後になって、ようやく変わりました。日本の歴史家があまりしっかり研究してこなかった問いでしたが、むしろ東洋史、モンゴルの専門家の方々が調査し、考察し始めたのです。それを機会として30、40年前あたりから、認識がかなり変わってきました。
趙良弼(ちょうりょうひつ)という元の使者が書いたレポートがあります。モンゴルは文永の役と弘安の役の2度にわたり、日本へやってきたわけですが、この人はその文永の役の前にフビライ・ハンのもとから派遣され、日本にやってきています。そして1年近くも日本に滞在し、様子をよく見て、報告したのです。
ではその趙良弼がどのようなレポートを書いていたかと言えば、まず「日本という国は狭いです」と。そして「ろくな作物が育たず、豊かではない。人間も野蛮で、皇帝陛下がわざわざ日本を征服しても、何の見返りもありません。だから、やめるべきです」と報告していた。
そうした事実がわかってきたので、あらためて「ではなぜモンゴルは、そんな日本に攻めてきたのか」という疑問が論じられるようになったのです。
…続きはソースで。
https://news.yahoo.co.jp/articles/dc7937965ffa8f463c8d2be484cd0ae0fdfe95ab
2021年5月31日 6時01分
前スレ
https://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1622639567/
★1が立った日時 2021/06/02(水) 11:46:37.74 >>943
文永の役の前の使者が交渉してた頃の元は、南宋と戦争中
しかもその頃クビライは高麗に対して俺の敵はお前の敵理論で戦争への協力を強いてる
高麗には三別抄という反乱軍もいた
もしも日本が元と同盟あるいは従属してたら俺の敵はお前の敵理論で
南宋なり三別抄なりと戦わされてたかもね
しかも日本はその南宋と、正式な国交や朝貢こそしないまでも貿易が盛んで友好的な関係だった
その南宋と戦ってる元とはたとえ同盟だとしても組める状態じゃない >>951
東路軍は本来はもっと遅く出撃して
江南軍と九州近海で待ち合わせる計画だったけれど
朝鮮半島に兵を集めてしまって、朝鮮半島の食糧の供給能力が間に合わなくなって
このままじゃヤバいってんで持っている食糧が尽きる前に出撃したらしいからな
まるでインパール作戦みたいなものだよな
失敗するべくして、失敗したのが日本侵攻作戦だろうな モンゴル軍の糧秣は数十日分の行動が可能な干し肉でできた携帯食で
足りない分は現地調達でしょ。 >>950
当時のモンゴルにもそういう思想あったから中華思想じゃなくても変わらないしなあ
クビライの国書では自分は皇帝を名乗り、一方で日本の天皇のことは国王と呼んでる
日本のことを小国とも言ってる(まあ国土を比べたら小さいけど)
さらに天から明らかな命を受けて中国を支配した、とも誇示してる
高麗との関係は君臣だが父子のようとに例えてるが当然父親は元
周辺国との関係を家に例えてるがそれも同じ
モンゴル、その皇帝たる自分こそが中心にあり周辺を支配や従属させる、
それは天の命令という理であるという思想があった >>953
まあその計画で江南軍とすぐ合流できるくらいに遅く出撃してたら
それはそれで来てすぐ台風にあってただろうねw >>925
もちろん下馬はしただろうね
それは俺も否定せず書いたつもりだったけども
移動が主だと言うのに対して、それはどうだろうねって趣旨で書いたからさ
結局日本が戦場だった分、その地勢的特性に馴染んだ装備や戦法が日本に味方したってことじゃないかね
それと元軍も実質三カ国の連合軍で、尚且つ日本の国土では高度な組織戦闘も能わず、戦意の高い日本軍に対してしばしば陣形も乱され、効果的に戦えなかったって感じだろう
矢を放っても止められず、接近戦に持ち込まれそして離脱され、って繰り返され、抗しきれず船に撤退し、そこにも突入され続けって感じだからね >>956
江南軍のほうは逆に出撃が遅れに遅れていて
東路軍と九州近海で待ち合わせする日時でも
まだ出撃していなかったので
計画通りなら台風の前に合流して、九州に上陸していたはず 山川草木障害物豊かな日本だとモンゴル弓騎兵は真価を発揮できないし
大平原広がる大陸では急襲近接攻撃が得意な武士も真価を発揮できないだろう
大切なのは地形適正 >>958
防塁もあれば前回以上に戦力を集めてもいるし、
東路軍を防いだ二か月よりも台風までの期間も短いし、
防塁と武士の抵抗でまごついてる間に台風、って可能性もありそう >>758
井戸の中の大蛙に調子こいて乗り込んだら逆に呑まれたでござる
ユーラシアから離れたオーストラリアは毒蛇の宝庫だし
辺鄙な所にはおっかない物が有る事も多いのだw 時宗にしたら、南宋から来た僧にけしかけられたんだ。モンゴル人の悪逆非道を。
実際凄まじい虐殺を平気でやる連中だったし。
奴らが日本に来たらやばいですぜ、と >>957
日本の地勢に馴染んだ戦いっていうか
見敵必戦的なスタイルが上陸戦に上手いことfitしたってことだろうと思うが
でまあ拠点築かれて大軍を活かす戦いされたら幾ら寄せ集めとはいえ厳しかったと思うけどなぁ
強いとか弱いとか以前に基本1対1想定だから陣形がぶつかるような戦いだと消耗するしコスパが悪すぎる
まあ鎌倉武士が活躍して水際護り切ったから緒戦でボロ負けして泡食って降伏なんてことにならずに済んだわけだし
始めっから弱いとか働きがないとか言ってる訳じゃないけどね >>820
北条時宗は元寇に対して無策無能じゃないよ
これは学校の歴史でも習ったと思うけど文永の役後は九州と中国地方の一部にまで防塁建造してる
それに異国警固番役もその原型は文永の役前からで、文永の役後、弘安の役前には制度化されてる
九州中国以外の御家人にもそっちに行かせて戦力を集めたり、非御家人も動員することで戦力を増やしもしてる
主戦場は九州で、弘安の役では中国地方の長門にも元軍の一部が襲来してるから、実際に幕府の事前の策は役に立ってもいる
そういう指示は幕府から追加法という形で出されて、そこには相模守、つまり北条時宗の名前もある
策が足りなかった、ならともかく無策というのは明らかに間違ってる くだらねーこと言いやがる
仮に自ら危機を招いたとしても勝ちゃあ英雄なんだよ >>966
そもそも自ら危機を招いたのかも
疑わしいから
あの場合に一時的に元と友好関係を結んで
南宋を見捨てたとして、日本は独立を保てたのか
むしろ南宋が滅ぼされる前に一度元と戦っていたほうが
その後の展開は日本に有利になったのではないかと思えるからな 何でここまで日本の武士最強神話を信じて止まない人が多いのでしょうか?
モンゴルの版図は西は東欧、南はペルシャおよび大理に及ぶ大帝国ですよ。
これが何を意味するのか?
無敵なんですよ。当時の人類最強軍団。
もしもチンギスハーンが死去しなければ、ヨーロッパ全土はモンゴルの手に落ちてたでしょうし、インドと制圧されてたでしょう。
そして、下手したら大西洋超えて、アステカ帝国やプレインカ文明圏に到達してた可能性さえある。 東日本政権であった鎌倉幕府と江戸幕府は、敵対相手に畿内を陥落されたら
その後すぐに瓦解し滅亡してしまった
もしもモンゴル軍が九州を無視し山陰から畿内を制圧したら、鎌倉幕府も大した抵抗もできず瓦解したのだろうか? >>968
モンゴルがいくら強くても海を渡って戦う力が無かった >>970
拠点作ってしまえば、どうなったか。
とりあえず九州占領してから本州に攻め込む算段だったかも知れない。 >>964
まあ宮脇氏は既に出ている著書でもそういう説には反論してるしな
特に下の引用文でもう「フビライは当初は日本を攻めるつもりがなかった」とか
「日本の対応の不味さがフビライを怒らせて戦意を抱かせた」ってのは否定されるし
>フビライ・ハーンの言い分を唯々諾々と受け容れて、モンゴルと通好すれば、モンゴルはたちまちのうちに日本を征服しようとするでしょう。
>かといって、曖昧にでも断りの返書をすれば、それを口実にやはり攻め込んでくるでしょう。
>フビライが南宋と日本を攻めたいと言う
>六月、フビライ・ハーンは入朝してきた高麗の宰相・李蔵用に、「朕は宋と日本を討たんと欲するなり」(前掲井上靖『風濤』)と言い、
>南宋と日本を攻めるために、米を三千から四千碵ほども載せられるくらいの大きさの戦艦一千艘の建造を命じます。
>フビライの高麗に対する造船命令は、日本へ使者として行った高麗の潘阜が帰国する前に出されました。
「世界史のなかの蒙古襲来 モンゴルから見た高麗と日本」宮脇淳子 >>971
モンゴル艦隊の中に馬はどれぐらいたんだろうか?
拠点を築いても馬が少なければ、得意の騎馬戦術で攻め込めないしな
どれぐらいいたか知らんが、数ケ月船で彷徨いながら戦ったが
船内で生活した馬も弱体化しそうだが >>986
日本の武士が最強かどうかはともかくとして、現実として元軍は文永の役でも弘安の役でも日本を落とせてない
九州に上陸拠点すら作れてない
チンギスハーンの時代だったら、という仮定は大軍をどうやって日本に送るのか、という条件がつく
まだ南宋落としてないから弘安の役の時のような南宋の海軍力は利用できない >>976
ペストはチベット地方の風土病だったらしく
中国では何度かパンデミックが繰り返されてきた
モンゴル軍のヨーロッパ遠征中に、ペスト患者が出て、その死体を敵国城内に放り投げたりし
モンゴル皇帝が死に後継者争いになって、モンゴル軍は撤退しヨーロッパは制圧されずに済んだが
ペストが大流行してしまい、人口の半分近くが死んだと言われてる 中国本土とは通商してきた日本だが、明治まで奇跡的に日本にペストは上陸しなかったらしい
ヨーロッパみたいな大きな被害ではなかったが、明治後そこそこ患者が出たらしい
もしもモンゴル軍が、ある程度日本を制圧してたら、ペストが持ち込まれた可能性があるが
日本はペストに強い何かがあったかもしれん
中世ヨーロッパで大流行したペストだが、ポーランド地域だけ被害が少なかったらしい
アルコールで消毒する風習があり、それが原因か?と言われてる 歴史は因果論にすぎないのに
善悪を持ち込みたがるやつが多すぎる。
歴史において善悪語るやつは100%思想活動してるやつだ。
現代だって立場が変わると善悪ひっくり返るのに。 >>969
朝廷や上皇や、国内の貴種で鎌倉幕府の有力御家人でもあった足利とは違うからなあ
足利は頼朝と同じ河内源氏で、鎌倉時代も一貫して有力御家人で北条も代々娘を嫁がせてた
相手が元軍だったらたとえ鎌倉落とされても他の地方御家人が反発して戦いは続くんじゃないかな
時宗も北条氏も鎌倉の御家人も、相手が外敵の元だったらもっとしぶとく戦いそうだし
それに元寇の時は、戦う前から戦力を西日本にも配備してるし東国から来てる御家人もいる
時宗の弟や甥も守護として西日本に行かされてるし、
鎌倉にいる時宗が打ち取られたとしても北条は得宗家ですら断絶しない
新たな北条得宗家の当主を旗印に西日本に集まってた戦力で戦うことになりそう >>963
んー、やっぱちょっと過小評価してるな
そんな誰も彼も単発で寡兵なのに突っ込んで寡兵で戦い抜いた訳じゃないんだぞ?
そう言う例が合ったからって、それが全体的なやり方って思うのは間違い
そして拠点を築かれてたらと言うが、そこまでいったら、全て俺のプラン通りなら勝てたって言うしょうもない話だわ
それを言うなら、日本が始めから海岸に塁壁や逆茂木や掘りを造れてれば楽に勝てたってのだって許される
攻めると決めて攻撃を仕掛けたのは元なのだから、自分たちが戦い抜けるように作戦や装備や体系を整えるのは当然でしょ
うまく行かなかったのならそれは、元の見込みが甘く、日本軍を舐めていたと言うことでしかない >>979
中世ヨーロッパは、より不潔になることで対抗しようとしたからなあ…
せっかくローマ以降あった入浴の習慣も、そこら辺で消えたはず >>979
大航海時代とか欧州から入ってこなかったんかな?
アステカとかそれで滅んだものだけど >>969
鎌倉・江戸の両幕府があっさり倒れたのは、
畿内を制したからではなくて、
朝廷の権威と反幕勢力の武力が合体したからだろう。
モンゴルが畿内を制圧して、朝廷を指揮下に置くことに成功したらそうなる可能性もあっただろうが、
天皇を殺してしまったり、東国に逃がしてしまった場合は、同じようにはいかんかと。 >>983
鎌倉と江戸幕府は朝廷を圧倒する権力を保持し、天皇のいる京から遠く離れた場所で権力を行使した
この時の朝廷は権威は健在だったが権力が無かった、しかし権威だけでなく権力も復活した時
東日本政権を圧倒し幕府を滅ぼした
モンゴル軍が京を制圧し、天皇を退位させ新たな王を立てる、もしくは天皇を傀儡にし権力を振るう
この場合、モンゴルの支配する王のいる畿内を、地方の人らはそれを権威とし認めるか?
認めた場合鎌倉幕府も瓦解していくだろうが、おそらく認めず抵抗した可能性が高いかな? モンゴルを朝鮮人がそそのかしたんだろ
そして大量の朝鮮人が死んだ
歴史上あいつらと組むと必ず負けフラグ 元にしたら、征服した宋や朝鮮の兵を、まとめて葬り去ってくれた日本はありがたかったのかな。
口減らしができたわけで >>799
アホですか?
坐礁しますよ
だからワザワザ六浦を外港にしてたのに
六浦から上陸されたら?
切通しでフルボッコだろうなぁ >>986
アステカは天然痘やな、日本も遣唐使などで奈良時代に人口の1/3が死んだ
アメリカ大陸には天然痘が全く流行せず、コロンブスにより大流行し
人口が8割ぐらいだったかな?激減してしまい滅亡へ
南蛮貿易で日本に入ったのは梅毒が有名やな、加藤清正とか結城秀康とか
麻疹もそうだったかな?他にも幾つか入ってきたはず >>863
短弓じゃないよ、複合弓
構造的には複合弓の方が優れてる…ハズなんだけどねぇ >>984
鎌倉武士がスーパーだったから勝ったみたいなことを言う連中が結構いるから
大軍がぶつかるような戦場になったら一騎討仕様じゃ結構弱点あるだろっていってるだけなんだけどな
ゲリラ戦みたいな少数での襲撃や上陸時の乱戦みたいな戦場なら十分力を発揮するんだろうが
装備に金がかる分数揃えるのきつくなるし
小規模の機動ならともかく大規模戦闘で機動活かす術も持ってないしなあ
で拠点築かれて大軍の利を生かされたとき対応できるかってのは大事だと思うんだけど
2,3年耐久出来れば対応する戦法は編み出すだろうけどそれまで半端なく消耗しそうだし
その手の理由で鎌倉末期に戦闘が激しくなっていわゆる我こそは!って類の鎌倉武士は消えてったんだと思うが
勝ったんだからそんな想定意味ないと言われればそれまでだな >>988
承久の乱の時には院宣があっても実権を握ってる後鳥羽上皇に大勢が従わなかったわけだし
上皇でもとは天皇の後鳥羽上皇にすらそうなら、
元が立てた天皇や、天皇を傀儡にした元にはそれ以上に従わないんじゃないかな
幕府にとって都合の良い皇族を天皇や上皇にするというのも承久の乱後に幕府もしているし、
京が落とされても鎌倉が無事だった場合には皇孫の将軍惟康親王もいるし、
互いに互いにとっての都合の良い天皇を掲げた上で戦うとすれば、
地方御家人は鎌倉幕府と惟康親王の方を支持しそう >>996
高麗に技術なんてなかったので奪いようがないすわw 朝鮮人がけしかけたから
攻めて来たんだろ
あいつらろくなことしない >>968
ありえん
チンギスの寿命が200年くらいあるならそうなったかもな
実際には兄弟で分裂して各ウルスになり、次かその次の世代くらいで全く別の国家となって協調はしなくなる このスレッドは1000を超えました。
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