【邪馬台国】纒向遺跡「古代都市」裏付け、外来系土器が10%超…東海、河内、山陰、近江、吉備など ★2 [樽悶★]
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邪馬台国の有力候補地、纒向遺跡(桜井市)の「巻野内家ツラ地区」の溝から出土した土器を分析した結果、他地域から運ばれた外来系のものが全体の10%近くを占めることが分かった。胎土を分析するとより増える可能性がある。同遺跡が幅広い地域と結びついた古代の「都市」がったことが改めて裏付けられた。
纒向遺跡では東海や北陸、関東など広範囲の外来系土器が出土しており、その割合はこれまで15〜30%前後とされてきた。
巻野内家ツラ地区は纒向遺跡の北東部に位置。大型建物群(3世紀前半〜中ごろ)が確認されている「辻地区」に続く、3世紀後半の中枢部とされる。昭和62年に導水施設が見つり、水を用いた祭祀(し)の場だったと考えられている。
桜井市教委文化財課の橋本輝彦課長は、平成8年度に巻野内家ツラ地区の溝から出土した土器を分析。土器の様式は「布留0式期」(3世紀後半)に位置付けられ、器種が確認できる口縁部の破片全1687点をカウントした。
その結果、全体に占める外来系土器の比率は10.3%と判明。そのうち地域別では東海系が最も多く43%で、河内系13%、山陰系11%、近江系8%、吉備系7%などだった。阿讃系(13%)や南関東系(2%)の土器も確認できた。
昭和51年刊行の纒向遺跡の報告書「纒向」では外来系土器の比率の多さと、搬入地域の広範囲性が指摘され、同遺跡が3世紀の日本列島において中心的な地だったことを示す特徴の一つとされてきた。
橋本課長は「(すべてを調査対象にする)悉皆(しっかい)的な調査だが、従来のデータと変わらない数値が得られた。研究も進み大和と他地域の関わりがより厳密に分かるようになってきており、アップデートする作業が重要になる」と話している。
分析の成果は、桜井市纒向学研究センターの紀要「纒向学研究第9号」に掲載された。
奈良新聞 2021.08.10
https://www.nara-np.co.jp/news/20210810090736.html
2021年8月10日 16:30
https://note.com/naranewspaper/n/n497963d6218b
★1:2021/08/13(金) 23:16:29.14
https://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1628864189/ その当時の古美術マニアがそこに住んでいたとかではないのか? 九州の影響がないなら邪馬台国とは別の大勢力の都市ということだろ
前後に邪馬台国と統合されるのかもしれんがそれは纒向遺跡ではない 要は東海から近畿、中国地方に跨る交易拠点が纒向にあったという事
邪馬台国?
九州北部の泡沫集団のことだよ 聞いたことない会社のパレットやカゴ車が、なぜかうちの倉庫にある 当時の東海は弥生人の領域か?
関東はまだ縄文人の領域のような気がするが 九州北部からは楽浪郡の土器と共に、吉備と東海の土器が大量に見つかっている
畿内の土器はないみたいやけどね
結局九州北部も奈良も東海と吉備の支配下にあったんじゃないか
九州北部を統治するのが一大卒
元々畿内の国、対狗奴国の前線基地が奈良の邪馬台国で纏向遺跡
狗奴国が強いので半世紀以上睨み合い、その間にいつの間にか邪馬台国の都機能が強化されたんだろう 魏志倭人伝の記述からの推定
狗邪韓国=巨済島
対馬国=対馬市
一支国=壱岐市
末廬国 =松浦市、糸島市西部
伊都国=糸島市南東部
奴国=早良区南部・那珂川市、春日市
不弥国=早良区北部
投馬国=朝鮮半島南部
邪馬壹国=北部九州地域
倭種=山口県
侏儒国=四国 邪馬台国が伊都国(北部九州)に一大率を置いて
北部九州を監視してたくらいだから、
北部九州の権限は制限されてたんでしょうね
祭祀用の土器の製作も許されなかった ヤマト政権の始まりは東征などではなく、西征でヤマトを支配下に置いた東海と西征で九州北部を支配下に置いた吉備が手を結んだことじゃないか >>1
纒向遺跡からは馬具やベニバナの花粉が出土していて
5世紀以降の遺跡だと分かってるのにな。 まーたネトウヨが発狂しちゃう事実が判明しちゃったw
クソジャップは韓国から文明を恵んでもらってたコジキなんだよねw 「巻野内家ツラ地区」の溝から出土した土器を分析した結果 ニダ王国があったでござるw >>20
弥生人は西から来てる
もしそうだったとしても
最初は西から東への弥生人の流れがある
最初の西から東への拡拡散を東征というなら
その説は東征後の西征という事だな ムー大陸と同じ位 見つからないな
次のスレが立たないのが多くて退屈だ 3世紀後半、卑弥呼が亡くなり男王の内乱の後くらいに纏向遺跡から吉備系の土器が消えるんだよ
男王の時の内乱で、東海山陰勢と吉備は仲違いしたんじゃないか?
その後の吉備津彦の吉備攻めとかに繋がっていくのかもしれないね 当時の倭は朝鮮半島南部の投馬国と北部九州地域の邪馬壹国を中心とした海峡国家 前スレは畿内説が撃破され阿波説が良い混ぜ返しをしながら九州説の完勝でしたね >>1
それは邪馬台国ではなく
ヤマト王権だろ?
なんで邪馬台国でなければならないの? >>31
場所を特定できない、物的証拠もない、九州説は勝ちようがないw 魏志倭人伝当時婆さんだった卑弥呼がアマテラスのモデルなら、卑弥呼の次の男王はその1世代か2世代後の人物
ひょっとしたら卑弥呼の次の男王はニギハヤヒのモデルかもねえ つまり、邪馬台国の他に大きな勢力が機内で成長していたが、それは魏の使者には記録されなかったと。 租税として集めたものだよね
最終的には九州に運ばれる >>32
奈良(大倭)は魏志倭人伝に登場する倭国の支配者層の「大倭」に由来するとしか考えられない
魏志倭人伝は中国の正史の一部であり、当時から倭国でも最重要資料だったはずなので
九州などからあなたは大倭(倭の支配者)ですねと認められてたから、奈良は大倭と名乗れた >>33
それはどこも一緒ですわ。
九州にせよ機内にせよそれ以外にせよ、結局どこか確定できないのに勝利宣言してる奴ほんと痛いw >>12
近いのに文化が入ってこないなんて有り得ない >>16
末廬国 =福津市辺り・万津浦 わははははは @阿波 まとめ
1.邪馬台国は大和王権の前身で同じ地域で大和王権へ移行していった
2.邪馬台国と大和王権の為政者の血縁の有無は不明
3.邪馬台国の存在を歴史から抹消しなければならなかった >>39
畿内は特定できてるやん。纒向遺跡
古代の大王の古墳群や日本最古の神社も近くにあるから
信憑性は高い 纒向が関東、北陸、東海を統べていたのならそれは確実に倭国の盟主と言えるな >>36
>大きな勢力が機内で成長していたが
お前、目が曇ってるのか? @阿波 >>36
黥面文身で潜水するといった倭国の習俗から見て九州と思われ
そもそも魏の使者というか魏による倭国の指導係は九州に滞在したんでしょうね
畿内の勢力はよく分からない倭諸国の中に居るんでしょうね
崇神が次第に強大化するのは3世紀後半で魏の使者が来たときは大疫病の国難で右往左往してる地方政権の時期で
無理もないと思いますよ >>39
「其山有丹」=「若杉山辰砂採掘遺跡」 これで決定済み! @阿波 >>43
卑弥呼と邪馬台国は、魏に朝貢してたから日本の歴史から消されたんだろうけど
奈良が「大倭(魏志倭人伝で倭国の支配者層という意味)」を名乗ってたり
日本書紀では奈良の神功皇后紀に魏志倭人伝が引用されてたり
奈良が邪馬台国であることは、完全には消去はできなかったよ >>49
それは確かに九州の記述だろうけど
邪馬台国が九州の証拠にはならない、北部九州は邪馬台国(奈良)の領土だった可能性があるので 魏、つまり中国の三国志の頃って日本の位置は
朝鮮半島から見て南に延びているって思われてたらしいな
魏志倭人伝の記載を基に辿って行くと邪馬台国は近畿辺りになるそうだな >>53
「其山有丹」=「若杉山辰砂採掘遺跡」 これで決定済み! @阿波 >>56
阿蘇山麓のベンガラということでそこは許してほしい >>44
阿波の方、古代スレでよくお見かけするw
まあ、阿波にも古代王朝が存在した可能性はある。
キーは忌部氏だな。 >>46
物証が弱い。
結局魏または晋の金印が見つからん限り延々続くんじゃねw >>54
東に倭種の国があると書いてあるし九州しか見て無かったかも知れん 普通に考えれば島根あたりか九州だよな
中国と朝鮮半島からの渡来人が大陸文化を伝えたんだし
船で来やすい場所を通り越して畿内とかまずありえんわ >>62
しょっちゅうひっくり返る考古学に
「確定」なんて概念は存在するの?
そりゃ見つけた本人はそう言いたいだろうがね >>57
卑弥呼が貰ったとされる中国産の水銀朱が出土してるのは北部九州だからな 奈良から桜井に向かうJRの「マキムク〜」ってアナウンスが面白い >>64
考古学的には山陰と北部九州地域以外は候補から外れるよね
魏志倭人伝の記述から北部九州地域一択だな。 中国まで行き来してるのに日本国内で交流が無いなんて有り得ない
東北は生活するのに適さない土地であまり住んでなかっただけでしょ 2スレ目なのでちょっと遊びということでマルコポーロの元朝非到来説をちょっと紹介させてほしい
マルコポーロの口述で東方見聞録を書いたルスティケロは伝説収集のベストセラー作家でよく検討すると元朝の習俗がむちゃくちゃらしい
どうも単なる伝聞で実は黒海沿岸で貿易業で富豪になったマルコポーロの生家が中央アジア商人から獲た知識で書いたのではないかと
これは近年次第に有力化してる見解である
ところで魏志倭人伝は司馬懿直々の命令で倭国に滞在した魏使節の資料なので基本的に出鱈目は無いと思うが
逆に吉備奈良東海に関する習俗の記述もない
具体的な詳述は九州に限られ、他は何もないのである。つまり魏使節は九州から外には出ていないのではないかと。 >>73
張政等の魏使は伊都国までしか来ていないのは魏志倭人伝の記述からも明ら
しかも伊都国で卑弥呼や壱与と逢ってるな
当然、邪馬台国は北部九州地域だな。 畿内説の人は記紀を歴史書だと勘違いしている
記紀は歴史書風に書かれた神話の書
神話と史実は区別しないと。 >>1
>>全体に占める外来系土器の比率は10.3%と判明。そのうち地域別では東海系が
最も多く43%で、
東海から纏向へはどういうルートを通って、どういう運搬手段を使って、どのくらいの人数で
どのくらいの日数で運ばれたのかが分からないとどうしようもなく説得力が無い。
一回の通常の運搬量はどのくらいだったのかも知りたい。
極端な話が、それは北九州を通じてやってきたものかもしれない。
こういうところが日本の現代の考古学の欠点ではないか?
つまり、物理的な具体性に欠け、表象的に過ぎる。
それは邪馬台国論争で魏志倭人伝の記述を頼りにする場合、どういう船に乗ってどういう
航海技術によってどういうルートで邪馬台国にやってきたのかを書かなければ意味がない。 >>57
>阿蘇山麓のベンガラということでそこは許してほしい
魏の皇帝が許してくれん。 @阿波 https://article-image-ix.nikkei.com/https%3A%2F%2Fimgix-proxy.n8s.jp%2FDSXZQO0730493018062021000000-1.png?w=600&h=402&auto=format%2Ccompress&ch=Width%2CDPR&q=45&fit=crop&bg=FFFFFF&ixlib=js-1.4.1&s=0944a45f8586c9b26f1389f9fd79c614
船なら若狭湾より上陸して琵琶湖経由で畿内に入るルートですよ
若狭湾〜能登半島のエリアは渡来人が多い地域
渡来人の上陸拠点だったから渡来人が多い地域になったのだろう >>59
>キーは忌部氏だな。
キーは「忌部一族(阿波勢力)」だな。
「忌部一族(阿波勢力)」とは、平安時代の『新撰姓氏録』以降の衰退した忌部氏(斎部)ではない。
倭人とは「忌部一族(阿波勢力)」(広義の忌部氏)であり、全国を拓殖していった古代倭国(阿波)スーパー頭脳集団の総称である。
みんな元を辿れば全部、「忌部一族(阿波勢力)」=「倭人」。
「天皇家」も「蘇我氏」も「物部氏」も「中臣氏」も「葛城氏」も「大伴氏」も、平安時代の『新撰姓氏録』編纂以前は全部、「忌部一族(阿波勢力)」。
忌部氏(斎部)は、物部氏の衰退(丁未の乱)後、残党が「忌部氏」を名乗った可能性が高い。 @阿波 >>78
「其山有丹」の丹が辰砂なら魏が水銀朱を倭に与えた意味が分からん
「其山有丹」の丹はベンガラで問題ないな。 >>67
卑弥呼が貰ったとされる中国産の水銀朱が出土してるのは「阿波」だ。 @阿波 >>82
なんで中国産の朱が阿波産なの?
中国から貰ったってのは間違いってことかな >>73
>つまり魏使節は九州から外には出ていないのではないかと。
魏使節が九州から外に出ていようがいまいが、「阿波」と朝鮮半島はしょちゅう通交しているからw @阿波 >>85
>なんで中国産の朱が阿波産なの?
だれがそんなアホなこと言った? @阿波 天皇家が九州から命がけで大和国=邪馬台国=政治の中心を奪いに来た事実をみても
畿内説以外に考えられないだろ >>53
それは無い。
なぜなら、纏向政権の長、
彌馬升が邪馬台国では副長官だったと
魏志倭人伝に明記されているからだ。
四道将軍を本州一体に派遣して支配していた
纏向彌馬升政権を、副長官に任命する程の
力を持っていた勢力が逆に居たと言う事で、
御馬城崇神が九州に進出できなかったという
歴史の事実を含めて、
北部九州の邪馬台国が当時の日本の
支配者的立場だったと言っていいだろう。 >>88
天皇家(天孫族)が畿内に来たのはいつだろう
纒向遺跡の時代にはまだ来てなかった気がするが
根拠は無い 倭地は温暖にして、冬夏生菜を食す。皆、徒跣。屋室有り。父母、兄弟は異所に臥息す。
朱丹を以ってその身体に塗る。中国の紛を用いるが如し。
食、飲には籩豆を用い、手食す。
というわけで黥面文身かつ朱丹を塗った裸足の異様な習俗であると
この朱丹はベンガラではないかなと思われるのだが
あと相当な温暖地でもありますね 纏向の外来土器の出土状況が、
四道将軍を派遣した範囲と一致する事で、
歴史の事実である事が確定したというのが、
纏向の発掘成果である。 邪馬台国は九州の小国だよ
そしてヤマト国に併合された >>91
天武が神武の墓にお参りしてるから
天武と神武の時代はそれ程離れていないと考えられるので
神武東征は5世紀くらいだと俺は考えてる。 >>91
卑弥呼の時代の天皇家は宮崎周辺の天照を祀る豪族にすぎなかったと思う
日本書紀や記紀では年代に矛盾するから卑弥呼は消された >>96
卑弥呼は倭姫命で、
長官伊支馬=活目=垂仁の娘であり、
丹波氏の娘ヒバヅメノヒメとの間に出来た娘を、
邪馬台国の女王にする力があったと言える。 倭国大乱は記紀で言う狭穂彦王の乱であり、
丹波氏の王子、狭穂彦が投馬国の
西都原古墳群の辺りに進出して、
宮崎市生目の生目氏との争いになった事であろう。
この投馬国の統一戦争を征した生目氏が、
宇佐の妻垣に進出して、
邪馬台国の王になろうとしたが上手く行かず、
丹波氏の娘と婚姻してその間に出来た
娘の姫命を女王にした顛末が、
邪馬台国の女王卑弥呼なのである。 畿内説だと無理くり編入した箸墓古墳の関係ですら崇神治世しかあり得ないのだが
崇神治世に魏使節が滞在した記録は無い
また崇神治世だとすると卑弥呼が死に男王を立て国大いに乱れ台与を立てたという史実も全くない
どう見ても辻褄が合わず卑弥呼と崇神は無関係と結論するしか無いのである 倭姫命は生目氏の娘であると同時に、
丹波氏の娘でもある。
結局丹波氏の娘が女王になったと言うことで、
折り合いがついたのだろう。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています