<南海トラフ 揺らぐ80%(6)>
前回までのあらすじ 南海トラフ地震の80%予測の唯一の根拠となる古文書のデータに疑義があることを伝えると、関係者からは「再検討は時期尚早」との答えが返ってきた。確率予測に懐疑的な専門家も多い。根本的な疑義を含んだ確率を今後も防災の指標に使い続けていいのか。

◆外れる予測地図 確率算出の「無理やり」感
 一部が濃く塗られた日本地図—。濃いのは愛知や静岡、首都圏など国が特に防災対策を進める地域だ。
 地震の危険度ごとに色分けした地震調査研究推進本部(推本)の「地震動予測地図」は発表した確率を基に作成される。だが、地図の作成後に発生した大地震の震源地を落とし込むと、低確率の地域ばかりで起きたことがわかる。
 この地図を作成した東大名誉教授のロバート・ゲラー氏は「確率的予測地図は作成する手法が正しいかどうかの検証がされていない。それなのに国の防災対策の基本に使用することは科学的姿勢ではない。行政は防災対策の『アリバイ作り』、科学者たちは研究予算、それぞれ利害が一致し、科学もどきの『確率』を出している」。
 80%予測を検討した地震学者たちも、確率予測に懐疑的だった。議事録には「確率を何のために出すのかがわからない」との意見が目立つ。理由は、確率算出の「無理やり」感だ。例えば地球の46億年の歴史で、地震の記録があるのは日本だと1000年程度。全国の確率は多くて10回以下の記録を基に値を出している。30年で区切るのも「人生設計を考えやすい」長さだからだ。
 カリフォルニア工科大の金森博雄名誉教授は、本紙の報道を受け、地震学者たちにメールで「この『確率』は多くの判断が入った主観的なもので、専門家でもよく理解できない」と、確率予測を続けるべきかどうか、議論を呼び掛けた。
◆低確率地域で油断 被害拡大の可能性も
 「次は南海トラフだと思っていたのに…」。北海道胆振東部地震が発生した2018年、私に、こう語ったのは、4人家族で唯一生き残った男子高校生(17)だった。取材中、倒壊家屋の片隅からは妹(16)の細い足が見えたが、数時間後、救出活動のかいなく、亡くなった。
 この時、私は南海トラフの確率問題の取材を始めていたが、「防災のためなら多少恣意しい的な確率でもいいのではないか。中部地方にも悪い話ではない」と、記事化をためらっていた。
 だが、「油断した」と自らを責める高校生の涙を見て、考えが変わった。地震は日本全体の問題だ。現在は、南海トラフなど確率が「高い」場所には膨大な防災予算が投入され、対策が集中するが、その半面「低い」場所で油断が生じることは見落とせない。
 この地震で死者が出た北海道苫小牧市は、南海トラフと同じ確率予測で比べると30年確率は3.6%だった。同市は「低い災害リスク」と企業誘致をしている。16年に熊本地震が起きた熊本県も同様な誘致をしていた。油断が被害を拡大させた可能性はある。
 私は「南海トラフの備えが必要ない」と言っているわけではない。南海トラフ沿いでは最短90年で次の地震が起き、今は前回の南海地震から80年近くがたつ。やはり不安だ。
 だが、恣意的に高い確率を出すのは言語道断だ。今の地震学では地震はいつどこで起きるかわからない。さまざまな不確かさを含む確率が、あたかも確実な数値のように独り歩きして、大きなひずみを生んだ。
 取材では、研究者や政府の委員の中にも確率予測に疑問を持っている人が多いことを知った。それでも予算獲得のためにゆがんだ形で使い続けられている。
 少なくとも今回の調査で、80%予測の根拠の室津港データに、大きな間違いがある可能性が高まった。地震リスクの伝え方そのものを根本的に考え直す時期に来ているのではないか。(この連載は小沢慧一が担当しました)

東京新聞 2022年10月23日 06時00分
https://www.tokyo-np.co.jp/article/209666