【佐賀】世紀の大発見!?「邪馬台国時代の墓」を発掘、有力者の墓の可能性も…吉野ヶ里遺跡の「謎エリア」で発見された石棺墓 ★7 [樽悶★]
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表面の石に「線刻」と呼ばれる多数の記号
https://newsatcl-pctr.c.yimg.jp/t/amd-img/20230529-00010005-rkbv-001-3-view.jpg
佐賀県の国指定特別史跡「吉野ヶ里遺跡」にある「謎のエリア」で大きな発見です。邪馬台国時代のものとみられる石棺墓が新たに見つかりました。
■「線刻」と呼ばれる多数の記号
吉野ヶ里遺跡で先月末に見つかったのは、縦1.7メートル、横3.2メートルの「石棺墓」です。吉野ヶ里遺跡には長年、神社があり発掘調査ができていなかったいわゆる「謎のエリア」がありました。石棺墓は、去年5月に始まったこのエリアの調査の一環で見つかったもので、表面の石に「線刻」と呼ばれる多数の記号があります。一般の石棺墓より規模が大きく、見晴らしの良い場所にあります。
■来月に石棺墓の入り口を開ける
邪馬台国があったとされる時期と重なっていることから、王など有力者の墓の可能性もあります。佐賀県は、来月5日にこの石棺墓の入り口を開け、1週間ほどかけて副葬品などを調べる方針です。
5/29(月) 15:27配信
https://news.yahoo.co.jp/articles/b1ecc567bd0e979d7100aa006959d899e4beb142
弥生時代の大規模な環ごう集落の跡が残る佐賀県の吉野ヶ里遺跡で、弥生時代後期のものとみられる墓の一部が出土し、専門家は「かなり身分が高い人の墓の可能性が高く、さらに調べれば歴史的に大きな意味を持つ発掘になる可能性がある」と話しています。
吉野ヶ里遺跡では、歴代の王の墓とされる「北墳丘墓」のすぐ西側にあり、貴重な発見があるのではと注目されながら手付かずだった「謎のエリア」と呼ばれる場所で去年から、10年ぶりとなる大規模な発掘調査が行われています。
この調査で先月、4枚の平らな石が並んだ状態で見つかりました。
4枚を合わせると全長は2メートルほどになり、調査を行っている佐賀県によりますと、墓の「ふた」だということです。
弥生時代後期、1世紀から3世紀ごろの有力者の墓のふたとみられ、表面には「×」のように見える線が交差した記号のようなものが無数に刻まれていて、埋葬した際に何かしらの意図を持ってつけられたとみられています。
吉野ヶ里遺跡では、これまで弥生時代中期の王の墓が見つかっていますが、邪馬台国が存在したとされる弥生時代後期の有力者の墓だとすれば、初めてとなります。
吉野ヶ里遺跡の発掘に長年携わってきた考古学者の高島忠平さんは「『謎のエリア』の中でも最も高く、見晴らしのよい場所にあり、かなり身分が高い人の墓の可能性が高い」と指摘したうえで「さらに調べれば、当時の政治のあり方を読み取るうえで歴史的に大きな意味を持つ発掘になる可能性がある」と話しています。
佐賀県は今後、墓の中を調査することにしていて、副葬品などが見つかるかが注目されます。
2023年5月29日 5時40分
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20230529/k10014081181000.html
世紀の発見となるのでしょうか。佐賀県は5月29日、吉野ヶ里遺跡で邪馬台国時代のものの可能性がある石棺墓が見つかったと発表しました。
「邪馬台国時代の可能性が高い。いま、我々は非常に興奮してときめていて、これからどうなんだろうという気持ちが高ぶっています。」(佐賀県・山口知事)
吉野ヶ里遺跡で新たに見つかったのは、縦1.7メートル、横3.2メートルの石棺墓です。去年5月から発掘が始まった、「謎のエリア」と呼ばれる場所で見つかりました。
見晴らしの良い場所に単独で存在し、線刻といわれる記号が刻まれているなど、これまでにない墳墓だということです。
佐賀県は、吉野ヶ里遺跡でこれまで見つかっていない弥生時代後期、いわゆる邪馬台国の時代の有力者のものの可能性があるとしています。
6月5日から石蓋をあけ、副葬品などを1週間ほどかけて調べるということで、佐賀県の山口知事は「世紀の発見を期待する」と話していました。
5/29(月) 19:08配信
https://news.yahoo.co.jp/articles/b5e6e9a20939b8f67d4fe4a0042eb3cdfa748a0c
https://newsatcl-pctr.c.yimg.jp/t/amd-img/20230529-00530401-fbsnews-000-2-thumb.jpg
★1:2023/05/29(月) 19:34:47.21
https://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1685505142/ 25 :不要不急の名無しさん :2020/09/18(金) 07:06:39.93 ID:68Ek905f0
免田式土器と呼ばれる弥生土器のグループがある
免田式土器は卑弥呼の時代に作られた土器で、古墳時代に入ると消滅する
その分布から、邪馬台国の南にあったという狗奴国の土器と考えられている
https://sitereports.nabunken.go.jp/ja/22178
> 1.免田式土器とは何か
> この免田式土器は、弥生時代の後期後半頃に盛んに作られたようです。3世紀、「魏志倭人伝」の中に
> 邪馬台国や女王卑弥呼のことが述べられている時代とほぼ同じ頃と考えてもよいでしょう。
https://special.sankei.com/a/life/images/20190902/0001p1.jpg
分布の中心は熊本平野南部と球磨地方(人吉盆地)、そして阿蘇
熊本でも菊池川より北にはごくわずかしか分布せずこれは交易などによるものと考えられる 26 :不要不急の名無しさん :2020/09/18(金) 07:06:45.99 ID:68Ek905f0
免田式土器の分布から邪馬台国の南にあったとされる狗奴国の版図がおおよそ割り出される
https://i.imgur.com/4pKQIsd.jpg
https://i.imgur.com/xysLhhD.jpg
邪馬台国はこの北側なので、魏の使者が上陸した玄界灘から熊本の菊池川以北までが
共立国を含めた女王の勢力圏となる ■■■ 日本史板での結論:邪馬台国の場所 ■■■
383 :日本@名無史さん :2020/05/28(木) 00:59:58.44
さて、こうして狗奴国の領域を考古学的に検証してみると
以前作ったこの地図はかなり正しいように思えるな
309 :日本@名無史さん :2019/09/04(水) 04:03:09.07
>>73-74,247,292-294,305で挙げた内容に>>138,290,295の内容を加味して
総合的に考えた結果こうなった
https://i.imgur.com/8UPzltf.jpg
https://i.imgur.com/pPIaxBU.jpg
当時はまだ免田式土器の知識が足りなかったから狗奴国に阿蘇地域を含めていないなどの欠点はあるが
邪馬台国の位置検討の上では支障無いだろう 2 :日本@名無史さん :2021/02/23(火) 23:24:15.78
邪馬台国議論で必ずと言っていいほど議題に上がる水行陸行の記述だが、他の中国史書に照らすと
水行●●陸行▲▲という表現は、「水行ならば●●掛かり、陸行ならば▲▲掛かる」の意味である
これを押さえておかないと正解には辿り着かない
【用例】
通鑑釋文辯誤卷六
https://www.kanripo.org/text/KR2b0012/006#1a
>沈約宋書云?陽太守何承天志新立去江陵陸行四百里水行七百里上?縣
江陵から上黄県まで陸路で200kmほどなので、陸行四百里だけで目的地に着いてしまう
江陵は長江のほとりなので蛇行する川を水行すると陸路は無しで目的地に着ける
【嘉興府志】
https://wenku.baidu.com/view/d78078781711cc7931b71692.html
>{嘉善縣誌}達省城二百里達京師水行四千一百三十裡陸行三千六百二十裡
嘉興府の置かれた嘉興市から京師(首都のこと、当時は北京)まで直線距離で1100kmほど
やはり陸行三千六百二十裡だけで目的地に到達してしまう
また、杭州湾沿岸の嘉興市から沿岸水行して北上し、蛇行する川を遡って北京まで2000kmほどで水行もそれのみで目的地到達、陸路の出番なし >>5の続き
3 :日本@名無史さん :2021/02/23(火) 23:24:29.01
>>2により邪馬台国までの所要時間は水行ならば10日、陸行ならば一ヶ月であると確定したが、
同時に行程が放射読みで書かれていることも導かれる
なぜなら前段に書かれている投馬国へは水行20日とあるので、連続読みならば、訪問者は投馬国に着いた時点で必ず船に乗っていることになる
20日間も船に乗って投馬国まで来たのに、そこからわざわざ船を乗り捨てて3倍も時間の掛かる陸路を選ぶ理由が存在しない
そのままあと10日船で行けば済む話であるから、もし連続読みで記載しているのならば投馬国からの陸路なんて記載する必要が無い
そうではなく、行程が放射読みで書かれているため、伊都国を経由して邪馬台国へ行こうとする中国人への道案内のための文章としては
彼らが船を確保できていないケースも想定しなければならない
なぜなら末廬国から伊都国までは陸行だと書いてある以上、伊都国に到着する中国人は船に乗っていないわけだからな
そのため時間さえかければ陸路でも行けることを併記する必要があった
つまり邪馬台国の場所は伊都国と地続きの範囲、すなわち九州内に限られる
水行のみで行ける場所なので海か大河のほとりであり、かつ陸行も可能なので伊都国との間に通行不能な山塊などは存在しない地域、となる 怒らないで聞いて欲しいけど、世間的には近畿で確定してるのになんでお前らは九州を推すの?歴史的な邪馬台国が九州のようなど田舎にあるとか恥だと思わないのかな? 和泉黄金塚古墳の景初三年銘画文帯四神四獣鏡に注目だな
時代的に卑弥呼の時代の鏡だな
謂れのある場所なのでどのような経緯を辿ったものか推測しやすい
信太山の葛の葉伝説
配下の者が勝手に酷いことをしたお詫びに、ウカノミタマが水晶玉と黄金の箱を授けたという伝承
実際にこの古墳からは日本最大の水晶が出土している >>1
そもそも本当にあったのか怪しい
卑弥呼も邪馬台国も日本の文献に一切出てこないのは不自然だろ >>16
絶対に許さねえ
日本なんかちっぽけな島国が近年にでしゃばっただけだ 奴国や伊都国では国名が細かく記されてるのは邪馬台国がこれらのエリアの統括を意味しているからであってこの範囲を超える所に邪馬台国は存在しないだろう
大宰府より南の筑後川中流域が邪馬台国で女王の都は別記されてるからそれより更に深淵な場所 金印が発掘されたら九州説を認めるが吉野ヶ里は地理的に奴国の一部が妥当だと思われる 邪馬台国は佐賀
ただし邪馬台国と大和朝廷は全くの無関係 と の→殿
つ→ 津
え→江
え つ→越
一文字のみで意味あるんだろ?
め とか て とか。 天皇家は卑弥呼の時代には既に日本に君臨していたに違いない
そうであって欲しい
だから邪馬台国は畿内に無ければならないし
神功皇后が卑弥呼でなければならない
これが畿内説に固執する人間の心理 魏志倭人伝に記載された倭人は「誠実で嘘をつかない」
↓こういう詐欺まがいな連中と違う
◆畿内派による印象操作
「纏向遺跡の建物で祭祀が行われ、大量の桃がお供えされた」
しかし桃の種が発見されたのは柵列の下の別の遺構
https://i.imgur.com/J2EZhbs.png
建物と桃が同時期に存在したわけではないと判明
◆畿内説の反論
「建物を取り壊した後の祭祀で穴を掘って桃を埋めた」
以降沈黙 これぞサイエンス? 邪馬台国の場所は「日食」で特定できるか
https://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1655311038/
卑弥呼の時代にいつ皆既日食が生じたか
247年3月24日と、248年の9月5日にあったことがわかります。
247年3月24日に日食が起こった時刻は、北九州では日の入りの頃でした。
太陽は日没までにほぼ皆既日食となって真っ暗になり、そのまま日が没したと考えられます。
一方、近畿では、その時刻にはまだ太陽は半分くらいしか隠れていないまま、日の入りとなります。
日没後も真っ暗にはならず、徐々に暗くなってゆきます。
この見え方の違いから、皆既日食によって世界が真っ暗になるという恐怖を体験したのは
九州の人たちであると斉藤は結論し、247年に福岡市で見えた日の入り時の皆既日食を
岩戸日食と断定すれば、議論は明快に片付く。そして卑弥呼の死亡年は247年となり、
邪馬台国も九州と言うのが有力となる どっちでもいいじゃん
くだらねえことで喧嘩してんな >>19
卑弥呼はもともとは八女に居たが、南の狗奴国と戦争が勃発して吉野ヶ里に移動した
ということも考えられる >>15
歴史は勝者が作るからな
日本が別れてたことなんて藤原の権力の権化が教えると伝えると思うか? >>25
そうだよ
朝鮮半島北部は劉備も世話になった公孫氏が支配していたが、それを魏が滅ぼした
それで日本が直接、魏と接触できるようになった
(それまでは公孫氏に使者を送っていたのかもしれない) インチキすんなよ!wwwwww
忖度にサイエンスは無いぞ! 邪馬台国では台をタイって読むのに、台与の台はタって読むのはなんで? 各地の神社ってのは
その地の支配を上書きするために建てられたのかもな まさかの7スレ目ww
みんな邪馬台国論争が好きなんだね 線刻をつなぎ合わせてみたら、ヒミコノハカと書いてありました >>1
捏造乙
邪馬台国は紀伊半島だろ日本書紀にも書かれてるわ 台(と)与
邪馬台(と)国
魏志倭人伝の「写本」には邪馬壹国と書いてあるが、
隋書の「写本」には邪馬臺国と書いてある。
魏志の方が隋書よりも古い文献であるが、写本は隋書の方が古い。
したがって、邪馬臺国(邪馬台国)の方が正しいってのが、大多数の歴史学者の見解。 大和国風土記に興味深い記述があるんだよな
石津神と天津神の三都のまぐわいは婚姻のことと書いてある
倭国大乱前は東国、畿内、九州北部が婚姻で結ばれて、3拠点を中心に国作りが進められたということはないだろうか?
九州の南方刀美、東国の猪の事代主、 邪馬臺国はヤマ”タイ”としか読みません
隋書では文字を改め邪摩堆と記され語尾が「タイ」であることが強調されています >>25
三国志と卑弥呼は思いっきり同時代
220年 曹操死す
223年 劉備死す
234年 孔明死す
248年 卑弥呼死す
251年 司馬懿仲達死す
252年 孫権死す
邪馬台国に親魏倭王の印を与えたときの魏の皇帝は曹操の孫・曹叡 もうやめませんか?
邪馬台国がどこにあったかそんなに重要ですか?
私は九州のどこかだと思いますが 弥生時代に九州は外国勢に乗っ取られまくられてたんだな!wwwwww 日本書紀や古事記は卑弥呼の時代より遥かに後に書かれた。
西暦700年の人間が400年以上前のことを書くんだから
眉唾で読まなければならない。
魏志倭人伝の方が遥かに近い時期に書かれたのだから
信憑性を考えるなら魏志倭人伝の記述の方が正しいだろう >>35
時代によって発音が違うから
例えば日本の中国語発音は今はリーベンだが、大昔はジッポン
ちなみな台与じゃなくて壱与、邪馬台国じゃなくて邪馬壱国
でも実在する雄略天皇の時代には邪馬台国と表記されてる
中国は同じ国であると認識していた 馬鹿チャイナの春秋戦国時代も阿呆くさいシナwwwwww 遠賀川には南方刀美が祀られている
トミの一族の伝承が大阪の石切神社の黒龍が祀られている上之宮に残っている
トミの一族は身体が大きく建築や闘い、道具作りに長け、稲作や金属加工の技術は持たないが農耕を行なっていたらしい 邪馬台国時代?
九州は捏造して何でも邪馬台国と言うとる説 >>2
【報道されないヤバイ話】
2021年、秋篠宮家の小室眞子さんは「複雑性PTSD」だと宮内庁は発表した。
複雑性PTSDは、家庭内で性的虐待があった場合に発症する事が極めて多いと多数の医学論文に記述されている精神障害である。
すなわち、秋篠宮家で家庭内虐待が発生していた可能性が高い事を示唆しているのだ。
よって、メディアは複雑性PTSDに触れなくなったのである。
詳細は『プチエンジェル事件 皇族』をGoogleで調べると記事を読むことができる。
一般的なメディアでは報道できない本当の話だ。 >>47
曹操の墓は特定されたし、ご丁寧に魏武王の名前まで出土したのにな 誰も畿内なんて思ってない件
坂靖・著『ヤマト王権の古代学―「おおやまと」の王から倭国の王へ』(2020/2/5)
著者の坂氏は奈良県立橿原考古学研究所付属博物館の学芸課長を経て、現在、奈良県地域振興部文化財保存課の主幹という、
現役の奈良県の考古学者でありながら、邪馬台国北部九州説の立場をとっています。
(中略)
「ヤマト王権は、布留式期に日本列島各地に強い影響力を行使することをはじめたのであって、
初期のヤマト王権の版図は、きわめて限定されていたとみるべきである。
・・・弥生時代中期から後期の近畿地方においては、中国との直接交渉を示す資料がほとんど知られていない。
楽浪形土器は北部九州に集中し、松江市以東にはまったく認められない。
邪馬台国の時代、すなわち庄内式期においても、魏と交渉し、西日本一帯に影響力をおよぼしたような存在が、奈良盆地にはみあたらない。
邪馬台国の所在地の第一候補とされる纏向遺跡の庄内式期の遺跡の規模は貧弱であり、魏との交渉にかかわる遺物がない。
さらに女王卑弥呼の居所は、出入りするものは男子が一人いただけであり、そこに宮室・楼観・城柵が厳かに設けられ、
常に人がいて、兵が守衛するような場所であったと記されるが、纏向遺跡にはそのような場所を認めることはできない。」 >>33
遼東半島を支配していた公孫氏は
劉備と縁の深い公孫氏とは別系統だよ やがて現れる満点サラバ新生縄文人達!
稲の水耕栽培を始めたのだ!
そもそも弥生人は縄文人だ!
渡来系は乗っ取り種族だ! なるほど確かにこれは九州っぽいな
みたいな説や根拠はポンポン書き込まれるのに
畿内説はそういうのゼロ >>55
本殿の下には石棺が目撃されている、目撃者の話は高木彬光の本に書かれているよ
https://i.imgur.com/Dr3bzy1.jpg 奈良の女王国の南にある狗奴国は熊野…漁業国とあるから確定かな >>61
だって
畿内説の纏向遺跡はショボすぎるし
卑弥呼の墓とされる箸墓古墳なんて年代測定からして怪しいんだもん もうやめませんか?
邪馬台国がどこにあったかそんなに重要ですか?
私はアルタイのどこかだと思いますが 上古音の復元作業は行われているが、帯方郡方言、邪馬台国の漢字音は全く分からない。
隋唐南北朝の発音までで、邪馬台国の存在した三国時代の音は不明だ(推定音とされるものしか分かっていない) >>3
うーんなるほど
やっぱ熊本が可能性高いよな
昔の人は星や太陽をよく見ていたし、ましてや船旅をするような旅では方向感覚が正確なやつを使者には選ぶはずだろと思ってたんだよ
当時の倭人と邪馬台国側から海岸越しに西側の中国を見てちょうど西におたくらの会稽があるよとか話してたんだろうな
で
「そうなの?それも貴重な情報だから帰ったら報告しとくわ」ってなったんだろうな 卑弥呼の墓なら逆に金印は出ない
王朝交代時に中国に返さなきゃいけないから >>58
日本は考古学を真剣にやってる者は居らず一万円札の聖徳太子の間違いに誰も気づかなかったくらい適当である
考古学者の言う事を真に受けるなよ >>63
熊野って逃げ込んで籠もるなら絶好だが、そこから畿内を攻めるような国力は持てない
西日本を支配する大国が、熊野との戦いで困ってわざわざ魏に援助を求める
チグハグすぎる >>71
こういう話もあったらしい
『魏志倭人伝には、「倭人は鉄鏃(てつぞく:鉄のやじり)を使う」と記載されているのに、福岡の460に対して、
卑弥呼時代の奈良には鉄の鏃は4つの出土例しかありません。そしてもと歴博の館長もやった佐原真は、
「近畿圏では鉄は溶けやすいので、残っていないのだ」とマジで答え、さすがにこれには近畿圏の学者たちも沈黙していました。
春成秀爾はこの佐原真の弟子です。この一連のマスコミ操作は、いったい何が目的なのでしょうか?』 宇佐神宮の本当の主祭神(主神)は比売大神=卑弥呼
応神と神功皇后は後世に付け加えられた
これが比売大神だけ正体不明になってる理由 卑弥呼の存在はどっちにしても万世一系を否定するものなので、
天智天皇が歴史から抹消したし、今の宮内庁もそれを受けて
卑弥呼の問題に口を閉ざす なぜ卑弥呼を隠すのか?邪馬台国が魏の属国だったから縁を切りたかったとしか思えん。ヤマト朝廷が滅ぼせば理に適う。後に聖徳太子なる誰かが日没する国と手紙送れば独立宣言じゃん。 なぜ卑弥呼を隠すのか?邪馬台国が魏の属国だったから縁を切りたかったとしか思えん。ヤマト朝廷が滅ぼせば理に適う。後に聖徳太子なる誰かが日没する国と手紙送れば独立宣言じゃん。 答えは既に公開されてました
翰苑(第30巻のみ大宰府天満宮に残る:唐の張楚金の編纂)
が引用している「廣志」に、邪馬台国の場所が記されている。
https://i.imgur.com/aoXGq7Z.png
邪は伊都に届き、傍らは斯馬國に連なる。
廣志曰く、倭国東南陸行五百里、到る伊都国,又南、至る邪馬嘉(臺)国。
※伊都国:福岡県糸島市,福岡市西区あたりと言われている 一部の畿内説の者は卑弥呼オレオレ詐欺でモモソヒメを卑弥呼に比定(背乗り)しようと必死になっている。 邪馬台国は大和、南の狗奴国は河内、委奴国は猪名県だった摂津だな
摂津の猪名川辺りで栄えていた集落は1世紀に入ると規模が縮小していくんだよな
東国の国作りに向かったんじゃないかな
時を同じくして神奈川など東国には卜骨が見られるようになる
神奈川は興味深い、銅鐸の集落跡もあるしな
箱根から神奈川にかけては猪の伝承が残っている
寒川神社の御神体は猪の頭だったな
猪名の枕詞はシナガ鳥
シナガの地は箱根の東と河内にある
摂津から神奈川へ、後々河内へみたいな移動があったかもしれない 卑弥呼がいたとしてそれは太陽神に仕える巫女だ
当時太陽神は天照大神の様な女神ではなく男神だった
かつ卑弥呼は太陽神の子孫つまり天孫という形式では無かった
そこに我は太陽神の子孫天孫であるぞよと征服者がやって来た
それが天照大神と天孫降臨を神話とした大和王権なのだ >>46
そのヤマタイはいにしえのヤマト朝廷の事と書いてあるだろバカ中卒 >>50
随書に昔も今も同一大和朝廷と書いてある
ヤマト 邪馬台国は朝鮮半島にあったんだろ
魏の使者は列島に来ていない 九州北部の広範囲が邪馬台国だったらその中央が田川市付近てのはあり得なくはない
宇佐と太宰府の中間でもあるしな >>58
基礎知識ないバカは
資料の使い方もなってなってない
結論の出し方もデタラメ >>61
九州説はそろそろ雑誌ムーに掲載されるレベル >>92
中国の学者も東遷説
日本の神話も神武東征、ニギハヤヒ東征
問題はタイミングなのよ >>92
遣隋使送ったタリシヒコは日本書紀にも古事記にも出てこないなw
ひょっとしたらその頃は確かに邪馬台国と同一の国で
その後に万世一系wの天皇家が簒奪したのかもな。
645年くらいにねwww >>97
ムーは今も昔も畿内説
編集長からして飛鳥昭雄という畿内論者とタッグ組んでる
Twitter に三神たけるという名前でいるから見て来たらいい 645年簒奪
710年に簒奪の歴史を書き換えて大昔から自分達が日本の支配者だったという歴史書を創る もう一度
卑弥呼の墓なら逆に金印は出ない
王朝交代時に中国に返さなきゃいけないから
>>74
なるほど >>90
書いてないだろ無学
史書もまともに読めないのか? 九州だとしたら雑魚
畿内ならヤマト王権に繋がる可能性あり
九州だったらかなりがっかりなんだが >>102
草
畿内説こそ雑誌ムーレベルだったwww >>99
面白い
天武天皇(在位673年~)以前には「南海トラフ地震」の記録がない。天武以降にはある 湯が湧き栄えた集落の伝承が残る摩湯丘陵の麓にあるのが池上曽根遺跡だな
多摩丘陵は元々は横山と呼ばれていた
横山の枕詞はマユ引きの、多摩丘陵にはユの木の話も残っている
因みにスサノオの眉の毛から生えてきたのが楠で、箱根のある伊豆には畿内の枯野伝説と同じく楠から軽船が作られる話が風土記に残っている 魏志倭人伝の記述に全く合わないものを根拠に邪馬台国を名乗ろうだなんて
そんなデカい釣り針で釣れる魚はいねえよw
■魏志倭人伝に書かれた卑弥呼の居住区の様子
『宮室樓觀城柵嚴設常有人持兵守衛』
宮殿や高楼は城柵が厳重に作られ、常に武器を持った人が守衛している。
[佐賀県]高貴な人が住んでいたと思われる警備厳重かつ頑丈な建物
吉野ヶ里の大型建物と人
https://i.imgur.com/NHwxcAf.png
■畿内説にとって唯一の頼みの綱
[奈良県]古墳完成までの遺族向け宿泊所と思われる無防備で貧弱な平屋物件
纏向の大型建物の柱と人
https://i.imgur.com/LL8YcSm.png 実際はヤマト朝廷が邪馬台国を滅ぼした事にして東遷したんじゃないか。卑弥呼の名前は一切隠しアマテラスとした。中華対策だな。そりゃ中華学者は九州説で東遷を唱えるだろ。中華関係ないよ、卑弥呼も滅ぼしたし!って言ってるのは日本ヤマト朝廷でしょ。 近畿最古の都とされる難波宮が650年代に完成としてるのに、それ以前に倭国に来てる裴世清が近畿ジャングルなんて行くわけねえだろ 播磨風土記にも枯野伝説と同じ話が残っていて、こちらは楠からできるのは速鳥という船だな
鳥については和泉国風土記に始鳥和泉国とある >>112
無関心な中国学者に随書の昔のヤマタイ国が今のヤマト朝廷と同一を教えてやれ >>113
へー、また650年代の話が・・・
ちょうどその頃が日本史の一大転換点だったのかねぇ >>86
伊都国=糸島だと船で直接乗り付けられるから陸行五百里の必要が無いんだよね
末盧国とはまつろう、僻地の山にへばりついて暮らしてる小さな集落全般を指す広い範囲
そこを陸沿いに航海し糸島付近から上陸
東南五百里で伊都国、一大率を置き諸国を監視、これは太宰府以外に考えられない
そこから南に邪馬台国とすると、これは久留米辺りに
そうすると日の昇る方角に日田が在り、日ノ神を奉るのに丁度良い位置となる
https://i.imgur.com/o46cXEN.png 卑弥呼とアマテラスって女性くらいしか共通点ないと思うが >>120
①女性である
②宗教的権威がある
③夫がいない
④弟がいる
⑤『古事記』に記述のある高木神(たかぎのかみ)と『
魏志倭人伝』の「女王の言葉を伝えるために出入りしている男」が符号
⑥『古事記』にしばしば登場する「倭」の文字と、『魏志倭人伝』で「卑弥呼は倭の女王」とあることの関連性
⑦「大和朝廷の祖先の天照大御神」と「邪馬台国の卑弥呼」の「やまと」と「やまたい」の音が類似
⑧卑弥呼の宗女(そうじょ)・台与(とよ)にあたる人物を、日本の史料にも確認できる
⑨卑弥呼死後の争乱と思われる記述が古事記にある >>97
月刊ムーで、あのFBI超能力捜査官ジョン・マクモニーグルが邪馬台国を透視
https://i.imgur.com/QgpJQyg.jpg
すごいぞ
邪馬台国は奈良だが、卑弥呼は夏と冬で居城を変えていた
夏は奈良県の鳥見山、冬は父方の本拠地・山口県豊田湖だと
卑弥呼の墓は父の故郷・山口県下関市豊田町の安徳天皇西市陵墓参考地
奈良県広陵町の巣山古墳が、卑弥呼の跡を継いだ台与の墓だという
よかったな、しかもこんな詳細に特定してて強い味方ができたな
ムーは畿内説をもっとみんなにも知ってもらおう >>118
白村江の戦いまで筑紫の君が権力
大化の改新、壬申の乱
この時期に北部九州から関西への権力が移った
大化元年は695年であり701年終わる、この年に大和朝廷が成立している >>117
そんな事、現日本人として言えませんわ。やっぱ日本は元々中華ニダって言われて取り戻しに来るじゃん。あなたの属国は滅びましたよって言わなきゃね。 近畿で建国したことにすれば九州での旧建国勢力を上書き出来るるし存在を消せる
とはいえ全部は消せないので饒速日勢力が服属したとしている
しかも東征なんていってるからな 天武天皇以前の歴史が九州北部のものなら南海トラフは関係ない
弥生時代の大阪は今より海だし
>>97
そろそろムーも九州説載せろって言ってきて
ムー編集長 三上丈晴(畿内論者)
https://twitter.com/mikami_takeru
https://twitter.com/5chan_nel (5ch newer account) 百済の遺臣・鬼室福信からの救援要請を受け、出征の決断を下した斉明天皇の動きは迅速でした。都を発った天皇は、自ら兵を率いて難波津(なにわづ)から海路で九州へ。
しかし、661年(斉明7年)斉明天皇は、出征を目前にして、九州・「朝倉宮」(あさくらのみや)で息を引き取ってしまいます 卑弥呼も台与も伊都国王家が出自だろうね、伊都国には巫女養成学校があったそうだ >>130
基礎と定説を勉強するのが大切
無関心な人間に聞いてもしょうがない 魏志倭人伝による倭国の政治的出来事
1.倭国大乱
2.卑弥呼女王共立(AD180年頃)
3.狗奴国との戦争
4.卑弥呼女王死去(AD247年頃)
5.男王を立てるも内乱勃発
6.台与女王共立
そして「やっと」平和になった(AD266年頃)
畿内説の主張内容はすべて無関係な作り話ばかりです >>120
子供がいないという点ではイチキシマヒメが卑弥呼だね 邪馬台国ロマンは当面解決しないほうが平和な気がするな。 魏志倭人伝に景初二年六月に卑弥呼が天子に朝献したいと言ってきたと書いてるけど
景初二年六月はまだ公孫淵と司馬懿が戦っている最中という 白村江で大敗した倭国は 唐新羅連合軍の追撃によって国が亡びるのを防ぐため、九州から畿内に遷都し
偽装国家大和朝廷を設立する。
そして倭に関する全ての記録を抹消したうえで 記紀の2書を編纂する。
わざわざ2書を編纂したのは ねつ造である日本書紀の証拠としての古事記を残すためだが、
古事記口伝自体がねつ造であった。
記紀に倭国に関する記述がないのはこのせいである >>136
単なるヤマト朝廷の話に別の妄想する煩悩が愚か >>133
こんな底辺分野の低知能の定説を鵜呑みにするアホですか? 伊都って賎字じゃないし、伊には聖なると言う意味があって意味深なんだよね。 日本書紀「唐と戦争したのは倭国。我々は日本。百済、新羅、高句麗は倭国」 >>146
ムーは見たことが無いが
そのような記事はあるのですか? >>147
アールパートとクヌートが争ってたのか?
阿輩と狗奴 魏略など中国史書には、倭人は呉・越の末裔だったと記されている
一口に倭人と言っても2つのグループが存在する
https://i.imgur.com/CapGzSg.png
直接九州に上陸したのが魏志に出てくる倭人であり、
半島で混血したのち山陰あたりから入植したのが畿内を含む東の倭種の国の倭人 権威の移動があるなら紀元前後に出雲から畿内だな
出雲地方で栄華を極めていた加茂岩倉遺跡はその時代に営みを終え、1世紀に入ると近畿地方は銅鐸の文化が花開き、加茂岩倉遺跡の銅鐸が奈良の上牧、大阪の陶器、和歌山の黒田から見つかるようになる
奈良や河内には治水を行なった龍の伝説が残っていて、和歌山も龍神伝説が多い地だな >>133
せやな
無関心な人に聞いてもしゃーないんやな
関心さえあれば色々知っていくからええ
色々知った人やないと聞いても意味ないんやな >>137
対馬に着いてから場所が多くの研究者の地名の比定が一致している奴国までで書かれている方角は全て間違えて書かれているな
あえて間違えたのかガチで間違えたのか 57年に送られた金印も
倭国のうちのひとつである奴国に送られたのか
委奴国って国が別にあってそっちに送られたのか気になる 抑さ、
なんで日本語読みなのよ?
中国音で記録しないの? 魏志から晋書さらに後の中国書の日本記述は勝手に改変したり物凄い劣化しとるな [下部][脩徳] 嫡 徳孫
チャック トクソンだろ? >>155
それはイト国でもナ国でもどちらでもok <旧唐書より>
倭国と日本(ヤマト政権)が別記されている。
https://i.imgur.com/LMs5IbV.png
◆倭国条 ~631年 (倭国時代末期)
「倭国者,古倭奴国也。」
(倭国はいにしえの倭奴国である。)
※漢委奴国王の金印は福岡で発見されている
◆日本条 701年~ (畿内ヤマト政権時代)
「日本国者,倭国之別種也。」
(日本国は倭国とは別種である)
そして古代倭国との関係について
日本国使者があれこれ言い訳をする。
「日本舊小国,併倭国之地。」
(小国だった日本国が倭国を併合した)
↑
これは遣唐使に倭国と日本が別国だったという認識が無ければ出てこない言い訳だ。 >>148
そうですよ妄想と煩悩で満たされているムー >>155
イナ国にはタケミナカタ神が居て天皇勢力に敗れて
信濃国諏訪に落ち延びたのかも知れない
そこに伊那市もある >>162
そのような記事があるなら出して欲しいですね 奴国の金印が埋葬されていたのを考えると卑弥呼の金印も埋葬されている可能性が高いから吉野ヶ里遺跡から発掘されるかも… つか、倭じゃなくて俀國じゃないの?
(廣韻 記載無し) 倭人伝には南海トラフ大地震について一切触れられていない
つまりっ邪馬台国は南海トラフ大地震の影響を受けていない地域ということでしょう
南海トラフに超サイクル? 遺跡刻む履歴、巨石も動いた
https://www.asahi.com/articles/ASLDW4QR9LDWPTFC00C.html
弥生時代終末期~古墳時代初めに土砂で埋まった集落跡とみられる笠嶋(かさしま)遺跡が眠っている。 >>63
こんなことまで遺伝子で分かるらしい
魚を頻繁に食べる遺伝子タイプが多い都道府県ランキングttps://prtimes.jp/main/html/rd/p/000000295.000036462.html 倭王武「使持節 都督倭・百済・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓七国諸軍事 安東大将軍 倭国王」
上表文「東征毛人五十五國,西服眾夷六十六國,渡平海北九十五國」 大陸からの渡来の波は、古墳時代を通じて断続的に押し寄せたが、それは中央政権の支配が拡大するにつれて、農耕が全国的に普及したためである。
このように渡来形質をもつ農民集団が本土の広い範囲に進出したからといって、古墳人の地域差が縮まったわけではない。
大陸要素の濃度という点からみれば、古墳人の地域差はむしろ拡大している。したがって、古墳人の特徴も、地域を無視して一概には論じられないが、
大ざっぱにいうと、大半の古墳人は現代日本人に類似する特徴を多かれ少なかれもっている。
百々幸雄らは、頭蓋小変異の出現頻度によって、縄文人・渡来系弥生人・古墳人・歴史時代日本人に分割され、現代人の特徴は古墳時代まで遡れると結論している。これらの特徴はすべて大陸に由来するものである。
各地の古墳時代男性頭骨の弥生・縄文判別関数値
(池田次郎・京都大学名誉教授による)
+2.12…畿内
+1.47…南近畿
+1.08…四国
+0.76…東中国・西近畿
+0.70…西中国・北東九州
+0.51…関東・南東北
+0.40…北陸
-0.87…南九州・西九州
※+は弥生(朝鮮)側、-は縄文(アイヌ)側 日本人の「完成」は古墳時代だった?
https://www.asahi.com/sp/articles/ASP9K55ZJP9JULBJ00Z.html
金沢大や鳥取大などの国際研究チームが18日、米科学誌サイエンス・アドバンシズに発表 >池上・曾根遺跡では鉄器が出土しておらず、その他の遺跡調査と合わせると弥生時代の近畿地方における鉄器の普及は北部九州と比べると遅れていたと考えられている
>>110
池上・曾根遺跡のの標高はどれくらい? 場所的に南海トラフの津波来そうなので >>161
三種の神器は倭国を治めるための宝物として残ってったのか
それがいつしか日本全体を治めるモノと誤解されていったと
他部族を治めるときに各部族の統治の象徴を大王に捧げて忠誠を誓うような代物だったと 結局のところ畿内説は韓国式ウリナラ起源説という事よ
半島系固有DNAの分布
https://i.imgur.com/mbXNz7Y.png
邪馬台国時代の倭人は呉越の末裔と記されている
そして女王国の東の倭種の国の人は半島系と判明している
■邪馬台国は何処?
九州説:54.4%
近畿説:35.7%
その他:9.9%
https://i.imgur.com/L5Nc9eR.png >>173
関西に渡来が多いのは他の地域に先住民が住んでたからでしょうか 何も知らない状態で急に邪馬台国のニュース見せられた場合
後の大和朝廷が畿内にあるのは日本史で知ってるから
ヤマト、ヤマタイ似てるねでとりあえず畿内説になりやすい。しょうがない。ニワカには優しくしないとアンチになる
ムー的な意味の畿内論者ならボコボコにするが >>35
そもそも中国人が充てた漢字。
日本人が自らの名称に「卑」とか「邪」とか使わんだろ。
当時、大陸や半島の連中は日本人を蛮族と見なしていた。
そういう歴史があってアイツらは日本を見下してきたが日本が先に近代化し遅れをとって発狂。 >>179
基礎と定説を勉強するのが大切
無関心な人間の感想がよりどころ
愚か者 >>182
文盲か
そう書いてあるだろ
さてはおまえ... 大昔は服従の証として部族長の娘を差し出して縁戚になるはずだから
大和の系譜と邪馬台国の血でしっかり結びついてるだろうね
権力において大和系が主流になって、伝承がごちゃまぜになった古墳時代
それをまとめたのが奈良時代か 『北斉書』・『梁書』・『陳書』・『隋書』・『周書』・『晋書』・『日本書紀』
は、全て、
唐(618年 - 907年)の時代に
唐の学者が書いたもので
邪馬台国は大和で統一されている >>187
邪馬台国も大阪にでかい古墳を作った王朝も滅んで今の天皇とは関係ないから 魏志倭人伝に出てくるヤマト
『国国有市 交易有無 使大倭監之』
「大和」は、魏志倭人伝では女王国で市場の監視役として使われていた「大倭」と記載されている
卑弥呼女王は大倭よりずっと格上だ
記紀で言えば天照大神あたりだろう 奴国の金印(57年)から卑弥呼の死(247年)まで190年
その間に1回は南海トラフ地震が起きている
タイミングによっては2回起きていてもおかしくない間隔
2035年に次の南海トラフ来るから例えば徳島説の場所や、大阪、奈良の被害を見ればいい。同じことが弥生時代にもあったはず
何で天武天皇以降にしかその記憶がないのかと
>>181
ポエジャン。ポエティックじゃろの略 >>179
似てるていうか
当時の中国人にはヤマタイに聞こえた
日本人の発音が今と違うから仕方ないけど
どっちもヤマトだよ 『魏志』には
日本のことを記録した「倭人伝」と
朝鮮のことを記録した「韓伝」がある >>197
奇木(くすしきき)あるいは薬師木(くすしき)から転訛したという説が有力のようです。 漢字の「楠」は和字で、暖地(九州地方)の木の意味で、「樟」は中国名です 卑弥呼は巫女であって神の言葉を聞く 要は占い師
それに対して
天皇は自らを神と称して特別な力を見せた 要はマジシャン >>187
隋の時代にはもう
「九州の倭国が畿内の日本を併合した」のか「畿内の日本が九州の倭国を併合した」のか分からなくなっていることが書かれている
どっちにしろ卑弥呼の倭国を継承しているという「建前」で畿内政権が中国に朝貢
中国は最初疑いの目で見ているが、もうそれでいいやとなった
あと天皇の祖は福岡の筑紫と書かれている
>>195
そうだよ
ストレートに東遷したか、もしくは併合のときにヤマトを採用した
ちなみに世界的に古代では併合された側の国名を残す統治法が多い
意味は違うがホリエモンのオンザエッジはライブドアを買収したあとライブドアの方の名を残した 邪馬台国と大和と似てるというが
似てるのではなく似せたのだと思う
何故なら天皇には前歴も功績もないのだから 卑弥呼さんへ朝貢記念💛とか書いた鏡とか印鑑でも出ないかぎり
何も変わらんのやけどね >>179 >>35
似てるんじゃなくて、同じ「ヤマト」読みだよ
「ヤマタイ」ってのは、江戸時代の頃の中国語の「台」の読み方が「タイ」だったので、「ヤマタイ」やろと勝手に言ってるだけ
その読みを昔のネトウヨが、天皇に繋がるヤマトが中国に頭を下げたと言うのは不敬だと言って、「ヤマト」とは無関係だという設定で「ヤマタイ」読みを広めて今に至るんよ
魏志倭人伝に書かれているの(九州地方?)と、大和地方にヤマトが有った事はわかってるけど、
その2つの関係に諸説が有るからややこしい事になってるんだよな 蘇我馬子と聖徳太子は同一人物だったという説も
ありますね。中国側に記録されている倭の大王
「アメノタリシホコ」だったという説
大化の改新は皇室乗っ取りクーデターだから蘇我馬子の功績を聖徳太子というキャラに付け替えたのかも >>207
というか台湾北東部じゃねえの割とマジで
それが九州北部まで幅利かせてた感じ?
台湾の南に狗奴国ってのがあったんだろ多分知らんけど? >>204
という説あるが関係ないと思う
四国や関東にも似たような地名あるし
ただの偶然 >>209
日本には世界最古の会社金剛組があってその会社を設立したのが金剛重光という人物なんだけど
その人物を百済から呼び寄せたのが聖徳太子でそれが記録では578年
これをまともに信じるなら聖徳太子は4歳の時から政治に携わっていたことになる
聖徳太子ってのは複数の人物が成した功績をつなぎ合わせて作られた人物、ってのが今の定説じゃね >>210
海の向こうに夢のような楽しい理想郷、極楽があるとする思想は、南洋の島国に伝わる伝説によるものであり、このことを『古事記』『日本書紀』では【常世の国(とこよのくに)】と表現されます。
天孫ニニギが娶った「火中出産」の鹿葦津姫(またの名は、神吾田津姫。またの名は木花之開耶姫)も、南方系 >>213
隋書(ずいしょ)列傳第四十六の全文。唐の魏徴(ぎちょう、580~643年)等による。隋書の版本(汲古閣本等)によっては、“倭国”ではなく“俀国”(たいこく)となっています。倭国の自称、大倭/tai-wi/の音を写したものかもしれません。帝紀卷三などにも倭が登場
https://www.seisaku.bz/rekidai_wajinden.html >>180
今も昔も大して変わらんよ
古代においては幸豊かな国の日本を敬って神農のおわすところなどと思い込んでみたりw >>215
そりゃ聖徳太子は蘇我の功績を取り上げるために作ったキヤなんだから架空の人物です >>217
版本の話を聞いているんじゃねんだわ
「隋書の写本」の話なんだわ >>221
日本書紀にはさまざまなウソがある。日本と隋の交流に関しては隋書を元に歴史を組み立てるべきである。
隋書の(東夷)列伝では俀国になっているが、煬帝本紀には倭国と書いてある。俀と倭は同文字の異体字である。外交をつかさどる鴻臚寺などに残された文書に俀国と書かれ、それが俀国伝にそのまま記された。宮中に保存された起居注の様な文書に倭国と書かれていて、それが煬帝紀に記されたのであろう。二つの文字に分かれたのは隋書の引用元の違いによると思われる。そのあたりを隋書は整理統一していない。煬帝紀と俀国伝の担当者が異なったということか。 「この手のことはいくらでもある」っていうのは、本読んだだけでも、大学で習っただけでも、なかなか分からない反面、勘のいい人は教わらなくても分かることなんだよな 隋代(600年前後)の日本において邪馬台国に相当する物の伝承が全く失われていることがあるだろうか
続いているのかあるいは亡んだとしても300年程前まではあったろう
歴史は文字に頼ったあやふやな頼りないものだ
先祖に関する漠然とした口伝口承は数百年を経ても割と残るが
国や政体などどうでもよいので文字による記録が無ければ残らないのかもしれない >>228
改新前に史書は数多く存在した
大化の改新で燃やした 奈良時代(720年)に完成した日本書紀に、661年に崩御した斉明天皇の葬儀で
鬼が現れたと記載されています。
「朝倉山の上において、鬼ありて、大いなる笠を着て、喪の儀を臨み観る。」
この鬼が蘇我入鹿の霊とされています。
蘇我入鹿は、大化の改新の時に殺された為に、しばしば斉明天皇に祟りをなしたと
当時は見られていました。
結局乙巳の変て藤原と天智のクーデターだったわけですね 吉野ヶ里あたりが邪馬台国って言ってたのに今度は熊本の宇佐が邪馬台国になったの?
宇佐は隼人征伐の必勝祈願の場所だから首塚とかもある
もう二度と反乱起きないようにと怨霊封じの意味もあるのでは
惑わした土蜘蛛女王達が甦らない為もあったのだとしたら土蜘蛛女王達の首とか埋まってるのかもよ 神功皇后と関連ならば神功皇后が仕留めた田油津媛の首が埋まってるとか
福岡にある蜘蛛塚は胴塚 宇佐の比売神は仲姫命を当ててるんでしょ
応神天皇の妃だし景行天皇の系統だから本当は継承的にも応神よりも正統みたいだし 宇佐は天照とは関係ないでしょ
伊勢の方がずっと前からあるし お前ら頭悪い
俺は真実が見えた
狗奴国こそが近畿だ
邪馬台国は分からん・・・ 初期の桃太郎は鬼に囚われた姫を救う物語
金印授かった邪馬台国の太郎が邪気を払いに大和と闘って姫を取り戻そうとしたんだろうね >>210
なんで福建省から見えてる台湾に、対馬経由で行かなきゃならんのだよ 応神天皇って仲哀天皇の子かどうかわからないんでしょ
神功皇后は仲哀天皇の第一皇子第二皇子を罠にかけて抹殺し皇室を乗っ取った 邪馬台国は広大な遠方の地
丹が出土する近畿だな。
投馬国は四国
戸数は予測見積もり、
それを首都だ。支配だ。
威信材が豊富とか願望ばかり。
行く必要がないから、記述も南に至るで詳細な方向や停泊先がないのである。
卑弥呼が共立されて九州にいるだけだよ。
魏志倭人伝 道理 東南500里が吉野ヶ里 神功皇后は九州征伐と三韓征伐やることでその勢力も取り込んだんだろう
取り込んだけど取り込まれた部分も大きくあるんだろう 近畿と畿内の違いもわからないのか?
義務教育やり直した方がいい。 >>254
畿内と周辺地域を総称して近畿だろ
何いってんだ? 仲哀天皇と神功皇后が下関に宮を置いて、九州を討伐しようとしていた時のお話と思いますが、半島の一部をついでに平定したような書きっぷりです。要は神功皇后が物凄い人物であると強調したい。皇后の子が王であるべきで父親は注視しないで。という歴史書編纂側の意図です >>252
ゴッドハンド紛いのやり方が横行してるだろ?
まず願望,結果があって
それに沿ったものを持って来てくっ付ける
違うかい?そんな事はないかい?
知らんけど個人的にめっちゃ感じますけど >>121
天照は子供(子孫)いるけど卑弥呼はいないしなぁ
スサノオも卑弥呼の弟って感じじゃないw >>256
なら近畿とかけ。
何言ってんだよ。
若狭湾、大阪湾、伊勢湾と範囲が違う >>258
正解だ。
首都が願望、立派なもんが願望
お宝豊富が願望が先行だな
近畿 「日本書紀の神功皇后紀」は「200年から390年までの間」を「卑弥呼+壹与+空白の120年間」で埋めています。
「日本書紀は神功皇后の子が応神」と言う事にしていますが、
どう考えても「応神の母親が神功皇后(卑弥呼)は無理です」。
「日本書紀の編者は、卑弥呼から応神までの間、列島を代表する最高権力者がいなくて、皇統の断絶を回避する為に訳の分からない扱いをしています」
武内宿祢も蘇我も単なる豪族じゃない。求心力として正当な血統でしょうね。乙巳の変を正当化するためには、どうしても過去にまで遡って歴史改ざんが必要だったと考えています 仲哀天皇も口封じに殺されたんじゃないの?
石で冷やして出産を遅らせたっていうのもデタラメ
元々産月合わないんだから >>260
んなもん畿内説の亜流だろ
決めつけから入るところはまんま畿内説だしな 香坂忍熊皇子達を抹殺する為に色々伝説作ってるよね
忍熊皇子の方は琵琶湖通って北陸に逃げ延びたらしいけど >>265
現に決めつけから入ってるじゃないか
いいか?伊都国の南にあって、東の海の先に倭種の国があるんだよ
肝に銘じておけ >>165
漢の倭の奴国王の金印は、お墓に有った訳では無いみたいですよ。
志賀島の小高い丘から出土したとの記録が残っていますが、
墓では無かったようです。 >>209
アマタリシヒコはアマテラスの男読みと思った方がいいでしょう。つまりかなり神聖化された人物ですね。 >>267
>>伊都国の南にあって、東の海の先に倭種の国が>>あるんだよ
これも決めつけだ。
肝に銘じておけよ >>209
そもそも、厩戸皇子を神格化したのが聖徳太子だから >>270
魏志倭人伝にそう書いてあるんだよ
そんなことも知らずにでっち上げるな >>262
日本書紀は神功皇后を卑弥呼とはしていません。あくまで卑弥呼なんて知りませんというスタンスです。
中国が勝手に勘違いしたのでは?みたいなスタンスです。 >>272
倭人伝道理だよ。
そっちの想定地、上げてみなよ 九州説は日本の歴史を憎むカルト宗教の工作員の可能性 >>274
どうり→道理
どおり→通り
伊都国(福岡)から南で、東の海の先に倭種の国(本州・四国)がある
これで九州と考えないのは、何かの宗教にかぶれている 神功皇后って三韓討伐の頃の人でしょー
これが卑弥呼に見えるとか脳が腐ってるでしょー >>284
これで九州と考えないのは、何かの宗教にかぶれている
などないな >>287
近畿なんてどこをどうひっくり返しても書いてないぞ 中華帝国の元号の記された紀年銘鏡は14枚出土しています、
https://www.aki104.com/entry/2018/11/14/143117
ただし、九州の遺跡から発掘されたものは今の所一面だけです。
吉野ヶ里の石棺墓から、果たして紀年銘鏡はでるでしよか?
出る事を期待します。 邪馬台国が奈良にあった証拠って実は何もないって聞いた
奈良で古代の桃の種が見つかった→当時の桃は超貴重品→そんなものが食べられるのは卑弥呼だろう→邪馬台国は奈良に違いない!
こんな感じ
桃の種のエピソードはマジ なぜ、畿内説が近年有利になったかというと、ひとえに年輪年代法(炭素14年代測定)で木材の年代が正確に
わかるようになったというのが大きいですね。
それによって箸墓古墳から出土した木材が240年~260年と判明したのです。
そうなると、卑弥呼は鏡とセットなので、箸墓古墳の前方後円墳の年代と銅鏡という卑弥呼の象徴が
リンクしたのです。 >>292
目視航海で他に壱岐から見える陸地はない >>293
ヤマト政権の遺跡だろ
鏡はパチモンが山ほど出てるよな >>269
中国人(隋)の人間がそんな配慮はしないだろう
タリシヒコはそのまんまタリシヒコ
日本書紀や古事記にその名が出ないのは
大化の改新でその一族を滅ぼして政権を簒奪した天皇家が作らせた歴史書だから。
だから古くからある歴史書を禁書として焼かせた。
捏造改竄がバレるから。
でもタリシヒコやその一族の業績を無かったことにするのは惜しいから
聖徳太子という架空の人物をデッチ上げて天皇家の業績として記録した。
隋書では邪馬台国の倭だと書かれ
唐書ては倭ではなく日本と書かれているのは
クーデターによる政権交代があったから。
遣隋使の時はまだ倭国、邪馬台国の末裔だった。
遣唐使の時は大化の改新を経て天皇家が政権を握っていた。 >>293
こんなの言い出したら弥生時代の木材使ったらどこでも邪馬台国じゃんw >>299
見えないだろ
壱岐に行ったことないだろ >>293
切られた年代と使われた年代は同じじゃないぞw
良い材木は解体したあと使い回される 吉野ヶ里の近くにミステリーサークルが発見された時に見に行ったなあ >>302
卑弥呼が死んだのは248年と確定しています。箸墓古墳およびまきむく遺跡はその年代に
がっちりヒットしたのです。
あくまでも年輪年代法がねつ造されていなければの話ですが。科学的論拠に勝るものはありませんから。 英デザイナーが選んだ、一番好きな国旗は日の丸
http://nida-aru.com/archives/41188875.html
白の中心に真っ赤な円を描くデザインはシンプルで力強い。
何者もこの空間には侵入させないという考えを表現している。すばらしいデザインだ
中国ネット
「デザイナーの目には日の丸が一番きれいに見えるのか」
「デザイナーも認める『日本の国旗が一番きれい』」
「私も日本の国旗はきれいだと思う。特に青空にはためいている時。こんなこと言ったら批判されるかな?」 >>310
それなら弥生時代付近の遺跡は全部邪馬台国になるでしょうw
あと木材なら数十年あとに使うとか普通にあるよ >>310
考古学は捏造が多いイメージ
過去にもそう言うことあったし >>307
卑弥呼レベルになるとお古の木材を使うのは考えられないですね。新しい木材を伐採して使うはずです。 >>291
桃はイザナギの命の黄泉帰り神話に出てくるように魔を払うものとされていた
つまり纏向遺跡では当時から天皇家に伝わる神話に則った儀式が行なわれていた可能性を示すよ >>306
松浦に上陸してからはな
壱岐からは遠い >>313
なりません。年代が合致していないからです。あくまで250年前後でないといけません。
吉野ケ里遺跡が邪馬台国を主張するのなら、目測ではなくちゃんと炭素14年代法で年代を
確定させる必要があります。 >>309
目視航海なのに、途中で迂回してたら日が暮れる
しかも、玄界灘は荒波だ >>318
240年~260年頃の遺跡って奈良にしかないのかw >>300
邪馬台国は九州北部九州だよ
北側30くらいの国邑の長(王)のまとめ役が卑弥呼
福岡の大半と佐賀、大分、熊本の一部の長の代表者
関門海峡を挟んで本州側は感知してない
同じく九州の中央から南も知らない
武力での統治をする力はなく、呪術や卜骨で困り事の解決策を伝える占いオババ
伝えられた解決策を実行するのは、卑弥呼ではなくそれぞれの国邑の長
政治家や企業家がよく当たる占い師を頼るような構造
実際の政治を主導していたわけではない
(館に引き篭もってそんな事ができる訳がない) 伊勢神宮などは式年遷宮で20年ごとに建て替えています。 >>312
糸島だ
てか、唐津も松浦だぞ
松浦じゃないみたいなこと言ってたくせに、畿内説もどきは本当テキトーだな >>269
アマタリシヒコはあめのしたしろしめすすめらみこと
天皇の美称を中国で音写したものかも知れない >>322
伊都国の南、東の海の先に倭種の国で否定してるじゃないか >>320
九州にあるのなら九州説派は遺跡を提示しなければ反論にはなりえません >>321
九州北部は伊都国や奴国と魏志倭人伝には書かれてる >>324
壱岐から方向は書いていない。
福津方面もある >>327
まぁ吉野ケ里はそのひとつだが、そもそもヤマト政権に滅ぼされたのなら、破壊されててもおかしくない 巻向と唐古鍵って3〜4キロしか離れてないしあの辺一体か古代都だったのかな >>314
年輪年代法以前は、邪馬台国は九州説が優勢だったんですよ。みんな前方後円墳は4世紀と思ってましたから。
それが科学的に巻向あたりは3世紀と繰り上がったので歴史学会も畿内説に大きく傾いたのです。 >>329
日が暮れるんだよ
そもそも使者は伊都国に滞在させると書いてる
一大率をおいて警戒させるぐらい徹底してる >>324
怡土郡、怡土縣であって、隣の志摩郡は近代になって合併しただけだよ
合併してできたのが、糸島(怡土志摩)
ちなみに明治期の郡域を参考にすると大き過ぎるので間違い
平原辺りが怡土で、北側は志摩 >>333
まさに決めつけからスタートする畿内説的な発想だな
九州のどこかだろ 九州説の相手はキリがないから
chatGDPにでも相手させた方がいいかも知れんね
九州説は延々と同じ事しか言わないし >>338
伊都国の東に海があるなんて魏志倭人伝にも書いてないでしょ? 近畿勢力の誰かの墓→わかる
卑弥呼の墓ニダ!→わからん >>337
九州は北は伊都国や奴国
南は狗奴国で邪馬台国の場所なんてないよ >>325
それが日本書記や古事記に載っていないのは天皇家の人間じゃないから >>352
遣隋使は記紀にも載ってるよ
小野妹子が隋に派遣された >>350
伊都国から南にあるんだろ
奴国や不弥国のほかにもスペースはいくらでもあるぞ 仮に邪馬台国が畿内だった場合
⭕倭人は帯方から東南にある(Googleマップで見れば九州も畿内も東南にあるので正解)
⭕対馬からまた南に進んで一大国
❌ 南に進んで投馬国に至る(東に進んでなら正解)
❌ 南に進んで邪馬台国に至る(東に進んでなら正解)
❌ 女王国以北はその戸数や距離を示すことができる(女王国以西はならば正解。畿内から北に進んでも日本海しかない)
❌ 女王国以北は伊都国の一大率が監視している(女王国以西はならば正解)
❌女王国の東、海を渡ること千余里にして、また国が有り。みな倭人である(そもそも畿内の東に海がない)
🔺また侏儒国がその南にあり。女王を去ること4千里(和歌山とかなら成立し得ないこともないので🔺)
❌ また裸国、黒歯国がその東南にある。船行1年(和歌山から東南に船行しても太平洋)
↑このように都合の悪い部分だけ方角をいじりまくってしか成り立たないのがトンデモ畿内説 >>351
それよりも前だろ
地名として残ってるんだから、あの辺一体を松浦と呼んでいてもおかしくない
現に、あのへんを根城にしていたから松浦党と呼ばれる海賊もいた 纒向は古墳造営キャンプ場兼葬式会場
1棟しかない建物は遺族の宿泊施設
これに適した出土品しか出ていない 記紀にもあるが、景行天皇が熊襲征伐するにあたり、九州に入った途端もうとにかく女酋長ばかり
まあ邪馬台国は九州だわ 消された偉大な日本の政治家タリシヒコ
大化の改新前の倭国政権の輝かしい成果や実績は
すべて聖徳太子という架空の皇族に奪われてしまった。 >>356
タリシヒコは天皇の美称あめのしたすめらみことだったとしたら
小野妹子が中国側にそう伝えてるはず
それを中国の高官が聞き取ってタリシヒコと記録されたんじゃね >>362
糸島から東100里の不彌国てどこ?
と東南100里の奴国てどこ? >>357
畿内にはもっとスペースあるね
隋書に邪馬台国は大和国であると書いてある大和国もあるし >>359
九州北部は漢の倭の奴国王の金印が見つかってるから奴国で確定
邪馬台国ではないね >>363
流入時だけで900個くらい出てるのに、そんなわけがない >>369
それは後漢の時代と話を混ぜてるんでない? 縄文人は日食や月食を観察していたかもしれんなwww >>371
魏志倭人伝にも奴国と書かれてるから
魏の時代でも九州北部は奴国 >>358
畿内説が唯一九州説に勝るのは、距離と人口
方角が合わないので話にならない
が、後漢の頃は狗奴国は本州にいたことにもなってるので、若干中国人の書く方角も胡散臭くはある >>362
>>362
糸島から東100里の不彌国てどこ?
と東南100里の奴国てどこ?
東に海があるんだよな? >>372
妄想じゃなくて隋書に書いてあるのと大和国は現実に存在 ようは後に天下をとった勢力が邪馬台国の存在を隠蔽したという事?
まあ歴史というのは勝者が作るものか。
Dの王国を滅ぼした今の世界政府。空白の100年。マンガのワンピースみたいなお話。 文献しか見れない歴史ファンは九州説が根強いが考古学者のほとんどは畿内説って事は畿内説の方が正解に近いのだろう >>293
残念だが畿内説が用いている年輪年代は100年ズレていることが指摘されている
君の言うようにこの年輪年代が畿内説の要なのでこの指摘によって畿内説は敗北した
日本史板では既に知られていることだがここなら素人を騙せると思ったかい?
222 :名無しさん@1周年 :2020/01/11(土) 00:38:26.96 ID:h8y9RzJ30
>>202
日本語でおk
池上曽根遺跡は遺物から見て1世紀だ
年輪年代法による紀元前説は疑義が呈されているし、そもそも基礎データが公開されていない
「私のブラックボックスによれば紀元前です」などというのは科学の世界では通用しない
http://washiyamataikoku.my.coocan.jp/keisaironbun.pdf
> 日本では、奈良文化財研究所(奈文研)の光谷拓実が 1980 年から研究を開始し、ヒノキ、スギ、コウヤマキ、ヒバの標準パターンが作成されている
> (図 2。奈良文化財研究所『埋蔵文化財ニュース』99 号 2000 年。および
> 光谷拓実「年輪年代法と文化財」―『日本の美術』421 号 2001 年に鷲﨑加筆)。ただし、基礎データは非公開でブラックボックス化している。
> なお、スギの標準パターンはヒノキに連動し作成されており、ヒノキが 100 年狂えばスギも 100 年狂う。この年輪年代法により、弥生中後期および古墳開始期が
> 通説より 100 年遡上し、邪馬台国が古墳時代と重なった。そして今や、この年代遡上論は畿内説を支える最大の根拠となっている。
> しかし、この 100 年遡上論は完全な誤り。基本となる標準パターンの作成時、飛鳥時代で年輪パターンの接続に失敗し、奈良時代~現代は正しいが、
> 640 年以前(弥生中後期~古墳~飛鳥時代)の測定値は全て 100 年古くズレている(表1、表 2 参照。ほとんどがヒノキで、一部はスギ)。
925 :日本@名無史さん :2021/11/29(月) 01:10:26.76
池上曽根遺跡の年輪年代が100年ずれているのは
昨年更新されたIntcal20を用いた炭素14年代でも確認できる
https://www.youtube.com/watch?v=h7zsSM7rcKk >>325
600年ですらそんな状態なんだから、卑弥呼だの邪馬台国だの女王だのまじで存在が怪しいものとして処理したほうが良いのかもな
論争も消滅 邪馬台国を起源とする倭国は5世紀頃までには奈良まで勢力を広げて
憲法17条や冠位十二階や遣隋使派遣等の様々な成果や実績を挙げた。
それには数多くの渡来人の協力もあったことだろう。
その渡来人は四国を拠点として西へ西へと東征しヤマトタケルのように『騙し討ち』して
政権を奪い、畿内を支配権に置いた。
その証拠がこれ
https://i.imgur.com/q35ciYU.jpg 日食のこととか大和には起こってないしだから言い伝えもない
日食は九州でしか起こってないのだしこれだけで十分でしょ
これがデタラメならば他も出鱈目な内容だってことだよ中国だし >>379
奴国または儺県(なのあがた)と呼ばれてきた所から漢倭奴国王の金印が見つかってるからね 土蜘蛛田油津の2代前の女王が卑弥呼だよ
要するに邪馬台国は土蜘蛛の一つ 卑弥呼と百襲姫
田油津と神功
女が国を動かし戦ってたな >>386
亡くなった時に径百歩の大きな墓を造ったとある
土蜘蛛の扱いじゃないね 築造形式や出土品から箸墓古墳より古いと考えられているホケノ山古墳では
墓室内から4世紀の小枝が見つかっている
古墳は盛土によって密閉されるので築造が3世紀ならば4世紀の小枝が中に入り込むことはできず
ホケノ山古墳の築造が4世紀であることがわかる
それより後の箸墓古墳が卑弥呼の墓である可能性はゼロ
http://yamataikokunokai.com/katudou/kiroku318.htm
> 纏向古墳群のなかの、ホケノ山古墳の築造代は、箸墓古墳の築造年代よりも古いとみられている。
> 考古学者の寺沢薫氏の年代論によれば、ホケノ山古墳は、庄内3式期のもので、箸墓古墳は、そのあとの、布留0式期のものである。
> 2008年に、『ホケノ山古墳の研究』(奈良県立橿原考古学研究所編集・発行)が、刊行されている。
> 『ホケノ山古墳の研究』によれば、ホケノ山古墳出土の、「古木効果」がはいらないよう慎重にえらばれた十二年輪の小枝の、炭素14年代測定法による測定値は、
> 四世紀を主とする年代を示している。
> (4)ホケノ山古墳出土の試料によるばあい、歴博仮説は1%以下の危険率で棄却できる小枝の資料だと、ホケノ山の年代は320年~400年ごろとなる。
> 箸墓古墳はそれよりも新しいと言われており、もっと新しくなる。詳細は317回「炭素年代法記事について」参照。 >>385
なるほどね
後漢書では倭国の南端に奴国があると書いてたけど?
あとその時代の狗奴国は本州側にいたとも書いてるけど >>318
まあ今回開ける棺に何か入ってたら年代測定はやるだろうし
それから再検討されてもよいかと >>388
土蜘蛛とは大和朝廷に従わなかった集団の通称であって大きさの問題ではないだろ >>388
墓を作ったのは邪馬台国であってヤマト政権じゃないから >>389
ホケノ山古墳は古い時代の竪穴式古墳で
後年になって天井が崩落している
小枝はその時に混入したもの
そもそも小枝を埋葬しない 昔から吉野ヶ里が邪馬台国だと言われてる
宮内庁に居た時に既にそう言われてた
吉野ヶ里はうちの管轄だし 卑弥呼の墓w
あれだけの権勢を誇った人物が墓?w
なんで古墳じゃないんだよw 最終的な、藤原腹王家の乗っ取り完成は桓武帝。
応神帝は、倭国大王本宗家1回目の復活。
此処へ繋がる継体帝が2回目の復活、その後に藤原が割って入る。
天武崩御後も一族は強力で称徳帝(75%藤原の天武系)まで、藤原は王家を利用する道を続けましたが、道鏡事件を契機に藤原は方針転換、天武系を根絶やしにします 吉野ヶ里は邪馬台国と争った国なんじゃないかと自分は思うけど
まー邪馬台国は鳥栖とかそこら辺の福岡県だろ多分
金印だって福岡の離島なんだし >>396
実際にはただの占いオババだったから
実権は、あくまでも各長が握ってた
だから卑弥呼が死んでも、壱与に決めるまでごたついた >>390
漢の時代から倭国の都はものすごく南にある倭の極南界
中国の国境から南に1万2千里のこの世の果てにあるという伝承だった
魏志倭人伝に書いてる邪馬台国の位置もこの伝承に即して書かれてるもので
魏の偉大なる先祖の漢の伝承と違う事は書けなかったという事情がある
先祖は敬わなくてはいけないという一種の儒教思想によるもので
魏志倭人伝の邪馬台国の位置は南1万2千里にあって倭の極南界にあるという
漢の時代からの伝承に基づいた架空のもの >>399
争ったというか、絶えず内乱を起こしてた国々 >>401
後漢の頃は百国が通ずる。程度には理解してたはずだけどな
そんなホワッとした理由では無いだろ 畿内説派は何故そんなに頑ななんだろうね
天皇以外に日本を支配してた勢力が居たことが気に入らない?
でも近世まで長いこと日本は侍が政治やって支配してたわけで
別に良いじゃんってw >>382
昔は本当の名前は伏せられてた。呪詛とかで呪われるから。 >>401
どこにそんなに文献があるんだ?
漢書にも後漢書にも見えないが >>376
東に海があるのは女王国じゃね?
奴国は那珂川流域で南の方まで遺跡出るからそのまま東南
東の国は宗像のあたりじゃね? >>405
天皇家スゲー→俺スゲー
みたいな感覚だと思う
皇室の歴史は古く、由緒正しいものであって欲しいんだろう >>404
倭は三十ヵ国が通じて百国あるというのも漢の伝承 箸墓古墳はシャーマンの古墳だけど古い縄文系シャーマンの古墳
神殿巫女っていうのかな
巫女とセックスして神と繋がるっていうやつ
だから敵対する新しい渡来系シャーマンがほとに墓刺して神と繋がれなくした
封印に利用された古墳 畿内説は統一系宗教といった感じ
霊感商法詐欺とも言われてる >>412
漢の頃は30国しか通じてなかったとは書いてない
30に減ったのは三国時代の話しだよ 上に書いてあるな
27:ウィズコロナの名無しさん:2023/05/31(水) 23:19:37.21 ID:Ux2fNT9m0
魏志倭人伝に記載された倭人は「誠実で嘘をつかない」
↓こういう詐欺まがいな連中と違う
◆畿内派による印象操作
「纏向遺跡の建物で祭祀が行われ、大量の桃がお供えされた」
しかし桃の種が発見されたのは柵列の下の別の遺構
https://i.imgur.com/J2EZhbs.png
建物と桃が同時期に存在したわけではないと判明
◆畿内説の反論
「建物を取り壊した後の祭祀で穴を掘って桃を埋めた」
以降沈黙 >>413
建武中元二年倭奴国奉貢朝賀使人自稱大夫
倭國之極南界也 光武賜以印綬 >>413
金印がどこから出てきたかはしってるよな? 日本人なら読んでおくべき
86:ウィズコロナの名無しさん:2023/05/31(水) 23:59:24.93 ID:Ux2fNT9m0
答えは既に公開されてました
翰苑(第30巻のみ大宰府天満宮に残る:唐の張楚金の編纂)
が引用している「廣志」に、邪馬台国の場所が記されている。
https://i.imgur.com/aoXGq7Z.png
邪は伊都に届き、傍らは斯馬國に連なる。
廣志曰く、倭国東南陸行五百里、到る伊都国,又南、至る邪馬嘉(臺)国。
※伊都国:福岡県糸島市,福岡市西区あたりと言われている >>411
天皇の歴史も充分古いし
それより更に古い時代に別の勢力があったからって天皇制の偉大さは変わらないのにね >>395
それは年輪年代法ができる前のアナログの時代ですね。
人間の空想で歴史を想像していた時代の話です。
今は防犯カメラで全てがわかるので正確な犯罪者が特定できるように、
年輪年代法(炭素14年代法)で遺跡の正確な年代が特定できるのです。
80年代以前は前方後円墳は4世紀で邪馬台国は九州にあり4世紀に東征したと考えられていました。 >>408
壱岐から東千里、納得した。
宗像、福津あたりが倭種の国々
里数があるから、
里数ある所からでないと間抜けだしなもん 3世紀の奈良は何も無い
古墳造営キャンプ場だ
倭種の国々(吉備、河内、東海)が共有していた空き地だ
①3世紀当時ヤマトという名称は存在しない
②倭種の国々は北部九州の邪馬台国(女王国)と事をよく知らない
倭種の国々の史書 → 日本書紀
③魏は邪馬台国を知っていたが、倭種の国々は知らない
古代倭国の史書 → 魏志倭人伝
漢字の読み書きを覚えた頃の後世は③の邪馬壹をヤマトと読み邪馬壹国の末裔であると自覚していた
中国に対し一度もヤマトとは名乗らず、日本と名乗り唐と歴史の擦り合わせを行なった(たぶん藤原氏)
唐に日本記(海外向け日本書紀)を渡し新唐書に記載してもらった >>396
弥生時代の墓は「古墳」と学問的には呼ばない。
墓、墳墓などが正解 >>424
占ってもらってただけだよ
よく当たる占いオババだから有難がってただけで、実権は長が握ってた
強権を持ってたら、もっと早い時期に禅譲できてたろうし >>431
じゃー誰を相手に戦ったんだwwww
白村江の戦い >>432
先行ごたついたはいっぱいあった、正史に採用された後漢書後の時代のものというだけ 古代中国では国境から1万2千里がこの世の果てという認識
邪馬台国が帯方より南1万2千里と書かれてるのはこの世の果てにあるというイメージを示すだけのもの
世界の果ての遠い国が我が国の威光に服して朝貢にやってきたというある種の景気づけで
その意味で遠くにある倭国は漢の時代にとても優遇されて金印や銅鏡をもらったりしていた
魏の時代になってもそれが継承されて
漢の時代と同じように地の果ての南1万2千里にある邪馬台国が朝貢に来ましたよとしたかった
だから邪馬台国は漢の伝承のように思い切り南にあるように書かれてる >>440訂正
先行後漢書はいっぱいあった
正史に採用されたのが、後の時代のものというだけ >>428
里数あるところから出られんよ
伊都国に滞在させられてたんだからな
すぐ近くの奴国や不弥国なら行けるけどな >>380
奈良考古学研究所を退職した途端に九州説に転向した人もいる
考古学者も内心は畿内説を疑っているかもね >>444
奴国か不彌国のいずれかに
東に海があるんだろうな。
どこだろう? >>384
日蝕が起きた時期が特定されてるのは大きいね >>445
物量で見れば九州説に流されがちなんです。
しかし、歴史書がなければ、なぜ江戸という都市がいきなりできて400年後に天皇家が江戸城に住んでるのかわかりませんよね? >>451
その歴史書をねじ曲げまくってるのが畿内説 これこれ
卑弥呼時代はちょうど鉄器時代の真っただ中でした。
魏志倭人伝に倭人が「鉄のやじり」を使っている記述があり、この時代の日本には既に鉄器文化が到来していたことがわかります。
また、『3世紀の中国の歴史書「魏志東夷伝弁辰条(ぎしとういでんべんしんのじょう)」には、朝鮮半島南部の地域に鉄が多く出て、「韓、注意1(ワイ)、倭みなしたがってこれをとる。
諸市買うにみな鉄をもちい、中国の銭をもちうるがごとし」と記されています。
鉄を求めて、弥生人がさかんに朝鮮半島南部に出かけていった様子が描かれています。』
よって弥生時代の鉄器の出土量が多い地域が、当時の倭人達の経済共同体であったと見なせます。
猿でもわかる卑弥呼時代の鉄器文化圏
https://i.imgur.com/v0XeHSj.png >>388
仲哀天皇の時代、山門郡(福岡県みやま市)に土蜘蛛の一国を率いる女王田油津媛(タブラツヒメ)が居て、兄の夏羽(ナツハ)が補佐していた。
熊襲に敗れた仲哀天皇に代わり神功皇后が征伐した。
崇神天皇の時代、朝来山(熊本県益城町)に土蜘蛛の打猴(ウチサル)と頸猴(クビサル)が居て、
部下百八十余人を率いて天皇に従わなかったので征伐した。 >>269
アマタリシヒコ(西暦600年)こそアマテラスだろ >>455
アマテラスは神話の世界の神様
仮に実在していたとしても、紀元前の話 >>453
畿内も紀元前に銅鐸文化が花開いてます。銅鐸には農耕や狩をする絵や動物、昆虫が描かれています。 纒向には邪馬台国関する遺物は何も出土しませんでした
<ソース>
読売新聞YOL(21.11.2018)
邪馬台国の候補地?見学施設、財政難で建設延期 社会
奈良県桜井市は、邪馬台国の有力候補地として注目される纒向(まきむく)遺跡で、
2020年度中の完成を目指していた「ガイダンス施設」の建設延期を決めた。
財政難が原因。整備を進める史跡公園の核となる施設で、遺跡見学の拠点として
期待されていたが、新たな完成時期は未定だ。
■纏向遺跡で出土した土器の産地
伊勢・東海系:49%
北陸・山陰系:17%
河内系:10%
吉備系:7%
近江系:5%
関東系:5%
播磨系:3%
西部瀬戸内海系:3%
紀伊系:1%
■学者の見解
「これら外来系の土器・遺物は九州から関東にかけて、および日本海側を含むものの、
九州由来もしくは朝鮮由来の土器は非常に少なく、この遺跡が大陸との交易は乏しかったと推定される。」 >>453
丹後、越、兵庫、関東まである。
決めつけるよ >>458
漢書、後漢書、魏志倭人伝ともに銅鐸の話は一切記載されていません
しかも日本独自の銅鐸でありすべて国産品です 飛鳥奈良平安時代の福岡ってどんな感じだったの?
交易地ならもっと大事にされてもよさそうなんだけど >>457
アマテラスは卑弥呼の伝承が神話になったものでしょう。
記紀は神武以前の史実を神話に転換して、卑弥呼からの正統な継承者と見せかけたのですね。
征服したとなれば正統性は疑問視されますから。 >>460
まだ言ってるのか
その時代にはもうヤマト政権がいるだろ
邪馬台国と無関係な纏向遺跡が出てきたじゃないか >>459
%しか出さないけど、900個の流入土器の割合なんだよな
まだ8割も未発掘で900個
最終的に纏向から4000個を超える土器が出るのかもな >>466
邪馬台国と無関係な纏向遺跡も決めつけ。
邪馬台国と関係するもんて何? >>465
卑弥呼がアマテラスなら、記紀は全部書き直さないと辻褄が合わない
高天原編→出雲の国譲り→天孫降臨→ヤマト王権
こんな順番だぞ? 皮肉なもので、今となっては纏向遺跡が畿内説を否定する証拠になってる
邪馬台国とは異質な勢力が畿内にあったのだからな >>467
搬入土器って言えよ
箸墓古墳建造時に東海が奴隷を連れてきてキャンプしせてた証拠だ >>469
お前なんも知らんのな
纏向からは馬具が見つかってるのだよ >>472
ほんとそれな
とことん的外れな物しか出土しない >>471
記録文献には倭人は中国系だと書いてある
太白の後=呉越出身 卑弥呼共立時の纏向は未開の地なので卑弥呼の居場所はありません >>475
的外れではない物とは何?
それが邪馬台国にあったという断定した記述はないと思うけど? >>473
土器だけでとんでもない数になる
古墳造成キャンプってのには無理がある気がするけどな
もしくはそんなことができるほど、当時のヤマト王権は強大な力を持ってたのか ヤマト建国は縄文への揺り戻し運動だった
https://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1634133412/
九州の邪馬台国が東に移動してヤマトは建国されたという考えは、
もはや通用しないのである。それどころか、ヤマト建国前後の人の流れは
かつての常識を嘲笑うかのように、東から西なのだ。 >>478
当然、だから邪馬台国。
卑弥呼が九州にいるからね >>481
実際に記紀に書かれていた通り、紀元前7世紀の橿原遺跡が見つかってるんだけど?
奈良時代に炭素年代測定でもできなきゃ辻褄合わせができない >>485
あれが邪馬台国の一部だな。
あんたの願望道理ではないだけの話 >>483
この時代の畿内に戦闘の痕はない
ヤマト政権に関係ない豪族が、どうやって中枢にでかい墓作れるんだよ >>487
馬具が見つかってる
知らないようだから教えるが、邪馬台国に馬はいないんだよ >>483
ヤマト王権なんてものは便宜上現代人が読んでいるだけのもの
記述が残るわけがない >>316
上東遺跡は弥生時代の遺跡です。ここからは9,606個もの桃の種が出土しました。これは全国でも珍しい量で、古くから岡山と桃が深く関係していたことが伺えます。
古くから桃は魔除けの役目もあり、鬼退治の伝説とのつながりを想像させられますw 北九州にあった卑弥呼亡き後の邪馬台国を
朝鮮半島からやってきた騎馬民族が征服したのが天孫降臨でしょ
その首長がニニギで征服された倭の国の姫や武将がアメノウズメやサルタヒコ
後に東に進んで畿内を平定して天皇家につながる王朝を建てたのが神武東征
こんなの常識でしょ?
漫画の神様である手塚治虫の火の鳥にもそう描いてある >>489
丹産出だよ。奈良、三重
物流網だ。経済だよ。人が集まる。
資金が必要。 >>490
そう言うのはトンデモ説と言って馬鹿にされますよ >>495
ヤマト政権も強大な勢力だからな
財も集まっただろうさ
だからどうした? 朝鮮人は敗北の歴史しかないやろw
朝鮮人国家の馬韓が制圧されて、外からやってきた遊牧騎馬民族や秦人が
高句麗,百済、任那、新羅を建国して朝鮮人は下層民として奴隷になった
次に中国王朝に800年間も仕えて奴隷
戦後まで世界最貧国やった朝鮮
日本が韓国を近代化に導いてようやく文明開化
密航でやってきた在日朝鮮人は帰国事業で帰らず、日本政府が在日の処遇に困って
韓国に受け入れを打診するも韓国政府は頑なに拒否w
在日は棄民だったのさ 福岡って流刑地でしょ
菅原道真が福岡に流されて怨霊化した >>498
あなたは日本史板で石頭と言われてる近畿説だよね >>497
ヤマト政権の台頭は後の話
卑弥呼との関係は定かではないが
経済基盤となる >>499
記紀にあるとおり、神武が東征してからヤマト政権は畿内を本拠地として勢力を広げてる 滅んでしまった九州王朝なんてどうでもいいだろw
古事記 日本書紀 万葉集は九州から生まれなかったんだよ 畿内説で確定みたいに書いてた本、岩波みたいなところからもいっぱい出てたけど、どうすんのかね >>501
それが有るんだよ
そういう書物のことを先行後漢書という
三国志魏書も魏略っていう先行書があるだろ?
それと似たことが後漢書でも起こってる >>502
流刑じゃなくて左遷では?
太宰府に政庁があって対馬に支所が置かれて太宰府の管轄になってたってあるし >>505
なんで魏志倭人伝でなく。
だいぶ後に書かれた記紀なんだい?
立証できるのか? >>281
末盧国に上陸したとは書いてないな
あくまで至る
普通に考えて、そんな何もないところで上陸なんてしないだろ
目的地の最寄りの港まで船で行ったと考えるべき >>504
のちに倭の五王として雄略天皇が登場してる
邪馬台国と同色に、畿内で勢力を持ってたんだよ
だからこそ、纏向を卑弥呼の、墓だといって畿内説は騒いでた >>507
↑
皆さんこの人キチガイなんで相手するのは時間の無駄ですよ >>509
そりゃ帝紀旧辞とか一書はいっぱいあるけどさ、それを先行日本紀なんて言わんでしょ >>491
畿内に馬がいるのなら普通に考えりゃ大陸から近い九州には当然いるだろ
あんなの見るからに便利そうじゃん
九州の人はアホなんか >>511
魏志倭人伝は邪馬台国のことを書いていて、後は倭種の国と流してるからな >>516
また出た無知
魏志倭人伝に、邪馬台国には馬はいないと書いてるんだよ >>520
船でいってどこの港につけるんだ?
伊都国では一大率が警戒してるぞ >>517
当然、志麻から東海方面も倭種。
だけど、里数があるから
壱岐から東千里で福津あたりが倭種。 >>477
そりゃ🇦🇹?オットーなんだから夫なんだろw >>524
東千里なんて書いてないけどな
そもそも遠回りしたら日が暮れる
しかも一大率から先には進めない そもそも当時どんな船だったんだ?
目的地に到着できる船なのか? 纒向の建物は柱が細く何度も取り壊された形跡がある
要するに古墳を造る際に一時的に設置される「何か」なんだよ
■魏志倭人伝に書かれた卑弥呼の居住区の様子
『宮室樓觀城柵嚴設常有人持兵守衛』
宮殿や高楼は城柵が厳重に作られ、常に武器を持った人が守衛している。
[佐賀県]高貴な人が住んでいたと思われる警備厳重かつ頑丈な建物
吉野ヶ里の大型建物と人
https://i.imgur.com/NHwxcAf.png
■畿内説にとって唯一の頼みの綱
[奈良県]古墳完成までの遺族向け宿泊所と思われる無防備で貧弱な平屋物件
纏向の大型建物の柱と人
https://i.imgur.com/LL8YcSm.png 日向神話が国津系、南洋スンダランド古人~20.000年前
山岳信仰が天津神系、北東アジア遼河流域古人~6.000年前
龍信仰が弥生人、東アジア長江流域稲作農耕民~3.000年前
山東半島経由で稲作が伝来、燕国から朝鮮半島経由で輸入鉄器が伝来
https://i.imgur.com/Ama05sb.png >>504
同時期に九州に有る遺跡よりも遥かに巨大な都市や古墳を作ってる
でかい勢力があったことは間違いない
それが邪馬台国と関連していると見るかどうかの違い
ちなみに中平銘紀年刀なんてものも出ているので
後漢とヤマトの間にやり取りがあったことはほぼ間違いない >>527
魏志倭人伝
女王国東渡海千餘里 復有國 皆倭種
とあるが?陳寿の間違いか?
あのなアホども
吉野ヶ里は邪馬台国じゃないぞ
邪馬台国は御井だ
注目すべき所はそこじゃない
注目すべき点はなぜ甕棺ではなくて石棺なのか
だからな
>>531
小さい古墳全てが卑弥呼なの?
畿内説はそう言う言ってのか? >>399
当時の海岸線鑑みればまさにその辺りが都が置かれるには最適条件が整ってる
当時の海岸線沿いに発掘作業進めたら、吉野ケ里みたいな遺跡はゴロゴロ見つかると思う
海運に依存してる古代社会で、海岸線沿いに国が発展するのは必然なのだから
https://i.imgur.com/o46cXEN.png 卑弥呼の船はなぜ大陸から帰れたのか
https://egg.5ch.net/test/read.cgi/scienceplus/1655463616/
「逆転の発想」から見えてくる邪馬台国
邪馬台国はどこにあったのか?
遺跡・出土品や『魏志倭人伝』の記述などさまざまですが、
どれも決め手を欠いている状況です。
そこで一つ、検討してみたいのが、中国大陸との交易路です。
卑弥呼は国づくりのため積極的に大陸に船を出し、有用な物資や技術を導入していました
しかし、朝鮮半島から対馬海峡を横断して日本に帰る航海は至難の業で、現代人による
実験航海でもほとんどが失敗しているのです。なぜ卑弥呼の船は戻れたのか?
播田安弘氏の仮説から、邪馬台国への意外なルートが見えてきました。
日本史サイエンス 邪馬台国、秀吉の朝鮮出兵、日本海海戦の謎を解く
https://bookmeter.com/books/19632105 >>534
それは女王国の東だろ
壱岐の東じゃない >>537
箸墓が卑弥呼の墓だから纏向が邪馬台国の都だと言ってたな >>543
連合国のひとつだろうな
だからどうした? 中国メディア 日本人は黄色人種の世界的地位を向上させた
https://i.imgur.com/72HOnlu.jpg
https://www.excite.co.jp/news/article/Searchina_20161003069/
もし19世紀に日本が台頭しなかったら、アジアは第二のアフリカになっていた。
清王朝がアヘン戦争とアロー戦争で英国に敗れ、一部を植民地とされるなど、
西洋列強がアジアに迫る流れのなかで、日本が台頭しなかったらアジア全体が
アフリカのように西洋の植民地になっていた。
古代文明の成果を代表するのは中華民族だが、「近現代文明を切り開いたのは大和民族であり、
日本人である。さらに日本人は事実上、間違いなく黄色人種の世界的地位を向上させ、
アジア独特の発展の道を創造したと絶賛した。
チョンとチャンコロよ、白人と対等に口がきけるのは日本のおかげだよw >>519
だから文献を疑わなきゃならんって話よ
馬具の年代も謎というか後代に投げ入れられたものと思うが >>547
なので壱岐から東千里が倭種でいいてこと。
他にどこにあるのか? >>541
中平だから後漢の霊帝の時代の年号
西暦になおすと184~189年
ちょうど倭国大乱が終わって卑弥呼が出てきた頃だね >>550
なんで馬がいないとかつまらんウソをつかなきゃならんのだよ
それによって国力を見誤ったら損するのは魏だぞ >>551
中国人はどれだけ日本の地理に詳しいの? >>464
白村江以降、航海技術が喪失されてるので、民間レベルなら兎も角、公式な交流は困難になっていた 山東半島人と福岡金隈人(渡来系弥生人)人骨が一致
その後のヤマト民族(渡来系古墳人)は朝鮮半島を南下してきた紅山文化人 >>551
適当につまみ読みしただろ
壱岐から末盧国に渡って、さらに伊都国にいって、その後だぞ
倭種の国が出てくるのは しかし邪馬台国スレって毎度会話にも参加しないで意味不明な一言だけ延々と書いてる人と書いて気味わるいな
異常者ホイホイ >>554
知るか?
里数ある範囲ぐらいじゃないか?
後は交易がある里数を知る人から聞いたり
文献から引用じゃないの? >>535
煽り文章は余計だが、まさにその通りやね >>565
またテキトーこいてるな
邪馬台国は女王国の都だ
さらに卑弥呼は親魏倭王だ >>560
里数ある範囲もわかんないと思うわ
地形がどうなってるか想像できない
ただ実際行った人の記録があるのみ 中国メディア 中国四大美女 楊貴妃は日本へ逃げていただって?
https://www.excite.co.jp/news/article/Searchina_20160519084/
世界の偉人が日本に逃れて人生の終わりを迎えるという「伝説」が、
日本には少なからず存在するようだ。
その代表格の1つが、青森県に存在する「キリストの墓」にまつわる伝説である。
楊貴妃は、最後は反乱を起こした一因と見なされ、寵愛を受けた皇帝から泣く泣く死を命じられて首をくくった。
賜死させられたのは楊貴妃ではなく、身代わりの宮女であり、楊貴妃本人は
遣唐使の護送により日本へと逃げ延びていったという説が存在すると紹介した。
楊貴妃が日本へ亡命した地点が山口県油谷町(長門市)とされていること、
その後も玄宗と連絡は取りあっていたものの、ついに帰国は叶わず、
日本でその一生を終えたことなどが伝説となっていることを伝えた。 >>557
じゃ、投馬国と邪馬台国は倭種でいいんだな? 初心者の方へ
纒向に関する基礎知識
・纒向はかつて記紀にある大市という市で賑わった町
・纒向遺跡とはその範囲にある遺跡の総称
・3棟1組で構成された建物の跡が発見された
・周辺には人が定住した住居の跡が無い
・主な出土品は飯炊き土器と残飯と土木用具
・国内交流の跡はあるが海外交易の痕跡は無い
・弥生時代の遺構は極めて少ない
・箸墓古墳はじめ周辺の古墳をまとめて纒向古墳群と呼ぶ
・この遺跡は4世紀初頭で消滅している
ぐらいは知っておこう >>553
そりゃ色んな文献を集めて書かれたからだろ
現代の論文みたいに出典書いてくれてないから色んな解釈が生まれてるわけで
馬具については年代が怪しいところに九州説論者が畿内説攻撃の材料に飛び付いただけ >>567
九州限定も言えないてことでいいんだな? >>568
日本からも義経が逃げてジンギスカンとかやってるしなw
お互い逃げ合ってる
身代わりの宮女も逃がしてあげてw
そしてその身代わりの身代わりの身代わりが >>411
卑弥呼が畿内に仮にいたならば、親魏倭王の金印を
贈られた卑弥呼は天皇ということになる。
天皇卑弥呼は、南にいる狗奴国ごときの雑魚に勝てなくて、中華皇帝に泣きついた中国の犬。
三跪九叩頭の礼もやっただろう。
畿内派というか関西人は勘違いしてる。
全然、俺すげーにならない。 >>573
知らないからね。
限定もできない
あるとしたら風習とか鉱物資源、
流通品、動植物等ぐらいだ 中国史書の編纂手法を考慮すれば魏志倭人伝の解読は難しく無い
<魏志倭人伝>
中国側の認識と倭人が訪れた際の記録をもとに後世の陳寿が編纂したものです。
「里数」表記の行程は中国側に残っていた記録であり、
「日数」表記の行程は朝貢に来た倭人からの伝聞記録です。
それぞれ表現方法が違うだけであり帯方郡から北部九州までの道のりです。
久しぶりに訪れた倭人に女王国までの行程を確認したところ、
・帯方郡から南に船で20日行けば半島南部の投馬国
・更に南に10日進み北部九州=邪馬台国に上陸します
・上陸後、女王の都までは徒歩です
・合計三十日の道のりです。
行程と位置関係:https://i.imgur.com/x9GfeDT.png
これを陳寿は誤解し、南に水行三十日,陸行一月と記した可能性があります。
その他の記述を見ると、
・女王国の東の海を渡るとまた倭種の国々があった。
・南に敵対する狗奴国があり卑弥呼時代に戦争が勃発した。
・後漢時代の倭は100国あったが女王国は30国である。(馬韓が50国なので割と小規模)
なお、女王国の西側の国については一切触れられていないことから、おのずと女王国は倭の西部に位置することがわかります。 >>571
馬はいないとはっきり書かれてるのだから、解釈の問題じゃないだろ
解釈で馬が出たり消えたりしない >>580
女王国の東の海の向こうに倭種の国があるのに、女王国が倭種なわけないだろ >>583
小型馬の骨の出土はある。
記紀にもある
使者の知る範囲で馬がいないだけだよ 出土状況から考えて九州最大の国は奴国だからその奴国より上の国と考えると九州の外に答えを求める事になる >>586
391年の倭・高句麗戦争で倭人は歩兵しかいないことが記されている 里数と日数の行程は別だと思ってるけどどっちも中国人の記録だと思うけどな
だって里数の行程は役に立たないでしょ
日本に上陸してからは案内人が居るんだから距離も方角も知る必要がない >>586
それはどこから出土したんだ?
邪馬台国からというなら大発見だが >>590
女王国の東の海の向こうに倭種の国がある
なら、女王国は海の西にある 海を渡って東、つまり関門海峡の東側が倭種の領域
卑弥呼が関知しない(卑弥呼と無関係な)領域
後漢の頃には此方側に狗奴国があった
三国時代には南側の狗奴国に攻められる
要するに九州北部で孤立してたのが卑弥呼を共立したグループ >>589
吉野ヶ里から筑紫野、甘木朝倉、久留米、八女にあった集落をまとめて邪馬台国と読んでいたんだよ
傍の国々は北九州、大分、長崎など >>593
tps://m.youtube.com/watch?v=x6ZjAQPLCY8 知らなくても行けるから短里と言ってる出鱈目な距離で良いんだよ >>594
何が言いたいのかさっぱり?
九州に限らず >>597
いや、弥生時代に馬がいたかなんて問題にしてない
小型馬の骨とやらは、いったいどこから出土したんだ? >>600
近畿の東の海の向こうに、倭種の国があるのか?
なければそこは邪馬台国どころか女王国でさえない >>593
なんで邪馬台国なんだよ。
全国津々浦々行ってもないのに
わかるわけない。 倭在韓東南大海中
航海は東南方向にひと月掛けて行く >>603
なら、小型馬の骨とやらは邪馬台国と関係ないな >>602
静岡、伊豆、関東とあるだろう?
関東にも鉄器出土ある >>600
だからあ、一度頭冷やしてA4用紙1枚にまとめろって >>606
何を言ってるんだ?
近畿の東の海の向こうの倭種の国があるのか?
なければ近畿は女王国じゃない
女王国の東の海の向こうには倭種の国があるんだからな >>583
だから畿内にも馬はいなかったんじゃね
出土状況から馬具の年代が怪しいのは指摘されてる
文献も出土品も双方照らし合わせなきゃ正しいかどうか検証したことにはならん
畿内で馬が出たって報告についてなんで九州に出土が無いのって疑問に思いすらせず畿内説否定の材料に使えるって考えちゃう姿勢がおかしいんだよ >>607
根拠は?
纏向が墓穴になったから、なんとか馬がいたことにしたいだけじゃないか
見苦しい >>610
意味不明
静岡、伊豆、関東とあるだろう? 里数行程は書いてある通りに行くわけねえじゃん
末盧国から歩かなくても直接伊都国に行けば良いんだし 馬は早くても4世紀以降なんだよ
中国様ですら4世紀以降なんだから >>613
海の向こうにあるのか?
陸続きじゃないのか? >>612
何も纏向が墓穴になったから、なんとか馬がいたことにしたいだけじゃないか
とか書いていない。勇足か?
魏志倭人伝でも検証は必要て事だよ >>613
三重から海を見れば対岸は見える
渡海ではなく水行と表現するだろうよ >>613
それについての畿内説の大きな問題点は
途中にある一番大事な伊勢をすっとばしてることだな
伊勢を飛ばして静岡を紹介する意味が全くない >>617
むかし卑弥呼ってAV女優がいたな
どんな奴か知らんけどw >>616
わざわざ、遠回りするか?
海を渡れば渡海だ。 >>611
馬具がでた=馬がいただろ
時代が怪しいって、最新テクノロジーで解析した結果、卑弥呼の没年ぐらいで間違いないと言ってたくせに、
なんで馬具だけが突然怪しくなるんだよ >>619
知らないだけじゃないの?
地理を知っている人から言われてもな。
琵琶湖を海という中国人もいた 伊勢湾を取り巻く伊勢東海地域は
海を渡ればまた倭種の国があるどころか
纒向の主要勢力なので畿内説を採用するなら女王国の中心地と言うべきなのだ 近畿説って
卑弥呼は九州、邪馬台国は近畿、ってのと
邪馬台国は滋賀の伊勢遺跡、というのが居たが同一人物? >>619
そもそも陸で行くから、そいつは見苦しい典型的畿内派 >>629
違うよ
伊勢遺跡から纏向遺跡に王都を移転した >>625
そりゃ纏向の主要な勢力が伊勢・東海勢だからだろ
普通は国力を示すために真っ先に紹介するべき一大勢力なはずだが
それを完全に無視して飛ばすことになる >>629
別だよ。
当方は卑弥呼は九州でいい。
冢も柵も九州。
女王国の範囲と邪馬台国の位置が違うだけ >>622
どんなに苦しい言い訳しても、伊都国の南じゃないしな 田舎にはそれしか目玉がないんだから譲ってやれとは思うけど一つ譲るともっとくれってなるのが世の常 全ては開けてからの話だな
今どうこう言っても想像や妄想の域を出ないわ 瀬戸内海は象が歩いていた
https://www.okayamania.com/colum/washi/7.htm
瀬戸内海の海底からステゴドン象、ナウマン象の化石が発見されています。
昔、日本列島が大陸と地続きであったこと、瀬戸内海が陸地になっていたことを物語るものです >>634
畿内にはヤマト政権の勢力があった
ヤマト政権は残って邪馬台国は消えた
ヤマト政権が滅ぼさなきゃどうして消えるんだよ >>623
現在は4世紀前半のものと紹介されてると思うが
で九州に馬がいない理由は九州人がアホだったからなの?身分が低くて騎乗が許されなかったの? >>636
いいかい?
おひさまがのぼって、
いちばんたかいいちにあるとき
そのほうこうを、みなみ、というんだよ >>633
伊勢に一大勢力と言える程のもんがあったっけ? 李鴻章
清の講和条約全権大使
瀬戸内海を見て日本にも大きな川があるじゃないかと言った人物w 東に海を渡ったら倭種のことが伊勢湾であるというのは非常に見苦しい。
九州の大分県辺りから、南に水行30日+陸行30日で奈良に着くというあり得ない離れ技を使いながら、伊勢湾の「東」だけは当たっているというトンデモ >>641
つまらん、負け惜しみだな
ならば、同じレベルのことを言ってあげよう
近畿なんて、九州からきた勢力にあっさり屈服して支配されてきた土地なんだよ
だが恥ずかしがることはないぞ
東京も同じだからな >>640
畿内にヤマト政権があったというのは先入観だよ
実際に纒向遺跡はそんな遺跡じゃない >>641
南船北馬
船を使う民族と馬に乗る民族は全く別の民族なんで…
稲作民は後者なので乗馬はなかなか受け容れられない >>647
なら東征してどこいったんだよ
のちに統一したときは確実に畿内に居たわけだが >>640
中国の史書では邪馬台国の所在は大和にある
だから場所は同じ
なので内部的な政権の変動があったと言うのが自然だろう
そもそも邪馬台国は「一代限りの共立の王」の時代で「王朝じゃない」
で、大和朝廷は世襲の「王朝」
だから不安定な共立の時代から世襲王の時代に変動したと言う事だろう
なので滅ぼす滅ぼさないじゃなくて自然に政権の在り方が変わったんだろう 崇神が東西に四道将軍を派遣した地域と纒向の状況はピタリと一致する
纒向は伊勢東海関東、河内吉備、山陰、近江北陸あたりの勢力で構成されてる
考古学と記紀の記述はたびたび一致するのだが邪馬台国と卑弥呼は異物となって浮いてしまう >>649
その、のちに統一した時畿内に居たのは何処の誰だ? 証拠もないのに何故滅ぼしたとかの話になるのか?
兵糧も無いのに何故近畿と九州が戦うの? 神武東征で神武がいなくなったとたん、滅んだ九州王朝
スゴいのは神武帝で九州はぜんぜんスゴくないということ
九州がスゴいのなら、神武がいなくなっても九州王朝は続いて栄えていたはず
九州がいくら、俺たちが元祖だと言っても
滅んでしまっては何にもならない
日本の実質的な歴史は畿内の奈良や京都からスタートだからな
福岡、佐賀、まったくからんでこない >>646
解釈出来ないならそれでいいよ
東征説は自分は取らない
あったとすると河内辺りの勢力が奈良盆地に入ったくらいではと思うな 正始元年、九州の大分県辺りから、奈良まで、
南に水行30日+陸行30日=60日
帰りは、北に陸行30日+水行30日=60日
60日間、南に進んでいるはずが、実は東に進んでて梯儁ら中国人はだーれも気づかない。
帰り、60日間、北に進んでいるはずが、実は西に進んでだーれも気づかない。(九州に到着)
正始8年、同じ行程を張政ら中国人が間違った方角に進み続けたのに、奈良に辿り着くという奇跡が起こり、しかも九州にも帰ることができるという奇跡の連続。
それがトンデモ畿内説 >>653
畿内が九州を滅ぼしてるのは記紀にそういうエピソードが書かれているから
また倭王武の先祖が西に66国平定したという主張からもわかる >>654
神武東征の時代の九州のことなんて、どこの文献にも書いてないよ >>650
一代限り?
男王→卑弥呼→男王→壱与
つまり最低でも4代は続いているのだが 魏志倭人伝は隅々までよく読みましょう
魏志倭人伝に出てくるヤマト
『国国有市 交易有無 使大倭監之』
女王国の国々には市場が有り、「大倭」を使って監視していた
卑弥呼女王は大倭よりずっと格上なんだよ
旧唐書では遣唐使が日本はかつて小国だったが倭国を併合したと言っている 日中の史書みると卑弥呼と台与は大和朝廷の系譜に繋がってない無関係の存在
だが場所は大和
なのでどこかのタイミングで共立の時代が終わって世襲の時代になったんだろう
邪馬台国の谷階から後の時代までずっと古墳と言う共通のツールを使ってるの外部の征服と言うのも考えにくい
だから内部での政権のあり様の変化と見るのが自然だろう
一代限りの共立の邪馬台国→自然消滅→世襲の大和朝廷に変化と言う流れだろう な、畿内説は総じて史書を読んでないんだよ
都合の良いように解釈したり単文をチェリーピックしてるだけで >>653
有名なヤマトタケルの話なんてまさにそれよw
彼の父親の景行天皇が大規模な九州征伐を行っている >>663
畿内ヤマトの歴史と魏志倭人伝の内容は合わなさ過ぎる
それぞれ別の集団の話だと考える方が合理的 >>655
自分はとらないって、ヤマト政権は東征してるだろ >>661
最初の男王なんていないだろ
卑弥呼の後の男性は卑弥呼が独身で子供もいない事から系譜的な繋がりはない
卑弥呼は高齢の独身女性で子供はない
この人が共立で王になってる
で、そのあとに「宗女」の台与が13歳で連れてこられてる
これも血縁系譜ではなく共立
つまり邪馬台国と言うのは全部一代限りで世襲でない >>656
クーデターなんて起こしても、共立の邪馬台国はいつもの内乱に戻るだけ 記紀で見るなら古事記
氏族も日本書紀より段違いに多いから作られた歴史の裏がちょいちょい見える 独身の女性の一代限りと言うシステムは後の女帝のシステムと同じだな
男性が立って揉めると言うのは世襲化の可能性に対する反対だろうと思う
台与の後に男性王が当たり前のように即位してる辺りからして共立の一代限りの王の時代は終わったんだろう >>669
またウソか
男子を王としたが倭国大乱が起きた、
卑弥呼を共立して収めたとある >>671
邪馬台国も卑弥呼も記紀に書かれておらず考古学的にも裏付けるものはなにもない
記紀に書かれてないのはでかいよ
畿内ヤマトは卑弥呼なんか知らなかったわけだし ヤマトの東征は無い
アレクサンダーの東征をパクって偽の記述を書いた
鳥がエジプトの神殿に導いたとか類似点が多過ぎる >>672
内乱が起きたから卑弥呼が登板した
その後再び男王子を立てたらまた内乱が起きた >>657の続き
この奇跡の連続がありながら、東に海を渡ったら又倭種の海とは伊勢湾のことだーという。
往復120日間×2(正始元年と正始8年)=240日間、方角を間違えたのに、伊勢湾の方角だけは当たっているそうです。
それと、南の狗奴国は和歌山県ですか?
南に4000里の侏儒国も和歌山県ですか?笑 >>26
これこれ
邪馬台国ご論争になる原因は
万世一系とかいうカルトを推し進めたい勢力がノイズを振りまいているから
んなわけないだろ
天智天皇以前の皇族の歴史は他の豪族の歴史のいいとこ取りだよ >>678
卑弥呼が無関係な存在だということは知ってたと思うけどな
じゃなきゃわざわざ倭女王が使いをおくった。なんて書く必要もないでしょ 東遷エピソードは仮にあったとしても紀元前のエピソードだよ
古墳時代の始まりの話じゃない >>676
東征したのは神武
実在しないであろうが勢力を移動したことの神話化だろうな 中国の記録集である史書と、倭人の口伝集を同列で扱うのはナンセンス >>564
>>423
だって、🇸🇪スウェーデンがロシアなんでしょ?
大陸イギリス領土? 642年に百済国内で政変があり、百済義慈王により、百済武王一族が島流しになります
この時、「百済武王の息子である、翹岐王が列島に亡命してきます、これが「中大兄皇子、天智」です
天智は乙巳の変にも、白村江にも関与していません。
乙巳の変の時は、亡命直後で、そんな力がまだありません
白村江は、成り行きを近畿地方で静観していたものと思われます。 九州倭国サイド、筑紫君薩野馬(後の天武)は
百済―高句麗側に組し、660年の百済の滅亡にともなって、百済の復国運動と、高句麗の支援の為に、白村江に軍隊を派遣し大打撃を受け
筑紫において唐側による戦後処理で大混乱に陥ります。
この混乱の最中に天智が近江に滅亡した百済からの王族や遺民を結集して政権を樹立します
「九州倭国に対する天智の乱」です
672年に唐の捕虜となっていた九州倭国王筑紫君薩野馬が帰還してきます
そして弟の大海人皇子と息子の高市皇子に天智近江朝の討伐を指示します、これが壬申の乱で一旦「天智―大友」の皇統が途絶えます
その後「九州倭国」は、九州から新益京(藤原京)に遷都してきます
九州倭国側は、政治運営において白村江で大打撃を受けていますので、官僚が不足していて政略的な婚姻関係により
天智系を使わなくてはなりませんでした
これが奈良時期を通しての九州倭国系と天智ー藤原系の暗闘の始まりで血統が途絶えたあと天智系の復活になります >>686
4世紀には国内を統一して、その巨大な勢力の中枢は畿内にあった
その畿内を、ほんの100年前は無関係な豪族が支配してたなんてあるわきゃない アイルランドなんて、ちゃんと「ケルト民族は実はアイルランドが中心ではなかった」と、科学的な調査結果を受け入れてるんだぞ
日本はいつまでたっても非科学的なカルト歴史観を持ち続けてる
恥ずかしくは無いのかね >>687
結局は内乱に戻ってるだろ
連合国である邪馬台国でクーデターなんて意味がない このままおかしな歴史を元に皇族を維しようしてたら、
ジャニーズみたいにある時突然崩壊してしまうぞ
早い段階から軌道修正していくべきだ
天智天皇以前は根拠の乏しいファンタジーと認めてしまっても、飛鳥時代以降の天皇の歴史は揺るがないのだから >>112
そもそも滅ぼしたかどうかなんてのも怪しいだろ
単に畿内の豪族が争ううちに勢力圏を広げた、の方がしっくりくる
勝てた理由は組織のガバナンスがしっかりしてて文書記述の文化があったこと >>691
ガリア戦記の歴史ものがあるんだから
フランス人がケルト人なのも欧米では知られいる事実 >>695
っても、ワカタケルの年代と宮の位置は確定してるしなぁ
紀元前7世紀の橿原遺跡すら見つかってるし
物証を覆すのは難しいと思うけどね >>663
ただ大和朝廷の認識としては邪馬台国は後の大和朝廷だという認識はあったんじゃないか
日本書紀の注釈で卑弥呼が神功皇后だという説をわざわざ取り上げているし
実際の歴史がどうだったかはともかく記紀が編纂された時期の大和朝廷はそういう認識だったと >>681
君に大笑いだな。行っていないだけだから
南至、官名、戸数の紹介程度
卑弥呼が九州にいるから必要はない
ヘンピだし遠い
当方の範囲は広い
女王国の南だから
九州の奴国の南に狗奴国。 近畿 >>685
九州から移動する理由に乏しいからそこは遠くから来た神様の子孫ってのが権威付けに良かっただけと思うんよね
その後何度も九州征伐してるし >>697
いうても宗教(鬼道)で統治する、ある意味文化的な邪馬台国が、力でゴリ押しするヤマト政権に勝てるわけない >>703
東征のルートが具体的すぎるだろ
それに、九州に降臨するまではしっかり神話してる >>690
4世紀に統一政権があったという先入観の根拠は?
畿内説は元銅鐸文化圏の歴史を全国規模だと誇大妄想してるだけ >>667
考古学的な事実との突合せで考えると大和朝廷の歴史はむしろ史実を示してる点が多いと思える
①神武東征=史実ではない(しかし吉備などの瀬戸内海、筑前、豊前、日向は抵抗なしで素通り出来る土地と言う扱い)
②大和朝廷=大和だけの勢力
③崇神天皇による遠征(瀬戸内海方面は対象になってない)
④景行天皇遠征(福岡周辺は最初から服属地)
⑤ヤマトタケルの遠征(熊襲)
という流れを見ると大和、瀬戸内海、筑前、豊前、日向という邪馬台国の範囲は遠征対象じゃない
それ以外の土地を遠征によって征服してる
なので大和朝廷と邪馬台国の勢力範囲は合致してると言える しかし日本書紀の作者もセンス無いよな
卑弥呼をヤマトの歴史の誰かに比定するのは良いとして、神功皇后だとキャラがまるで違うじゃん
それこそ倭迹迹日百襲姫とかをもう少し強火にした感じでキャラ付けすれば良いのに 日食が全てだよ
これは誤魔化せない気象現象
邪馬台国も卑弥呼も奈良とは関係ない
九州の蛮族国 >>706
定説をとったまで
別に大化の改新でもいいぞ
同じことだよ
より、支配が強固になってるけどな >>700
>卑弥呼が神功皇后だ
は文系の頭の悪さの象徴とも言えるオカルト解釈 そして100年後邪馬台国の女王が田油津媛
弱小化した邪馬台国は神功皇后によって完全に滅ぼされた 重たい本を山ほど東から敦煌まで持ってきて隠したの? >>700
神功皇后の所は200年以上のずれがある
朝鮮半島を支配する権利があると言う話でしかないだろう
なによりも女帝じゃなくて皇后という立場を強調してる
ひたすら「皇后」と書いてる
むしろ系譜的な繋がりを持ちたくないと言う姿勢が見える部分と言える
中国史も当然この人を卑弥呼と同一視してない
別に日本側の都合なんて無視して良いのに卑弥呼の事なんて一つも書いてない
系譜として卑弥呼が存在してると認識してない事が明らか >>705
そりゃ記紀が成立したのははるかに後代だからいくらでも具体的に書けるわけで 西都原古墳群の瀬戸内~畿内ヤマト製土器の伝播は殆ど東から西の一方通行なんだよね
西から東じゃなく 7世紀までは倭の時代=九州王朝
8世紀から日本の時代。
663年の白村江の戦いで敗北した倭が
国力を落とし、日本に併合された。 >>719
神話にするだけなら、最初から畿内に降臨したことにしてもいいんだよ
九州に降臨した後から東征したことを後世に残す理由があったことになる 中国の正史だと魏志の邪馬臺=倭の首都=ヤマトで一貫してるような >>711
>別に大化の改新でもいいぞ
そっちが定説だろw
九州グループと元銅鐸文化圏グループはそれぞれの歴史を歩んできた
同じ倭人なので交流もあれば揉めることもあった
統一国家制度に九州含む全国が合意したのは7世紀末
それだけの事 大和朝廷は邪馬台国の事を当然知ってる
景初3年の三角縁神獣鏡は下賜鏡かどうかはともかくとして「卑弥呼の遣使の年を知ってる」と言うことが見て取れる
仮にこれが国で作った物にしてもその年代に意味がある事を理解してる事が伺える
逆に意図的にそういう年号を持った鏡を作ったのなら尚更と言える
そもそも完全に無関係なら全く別の使者を送って別の年号を主張するのが自然だろう
別政権の外交の流れを継承する必要はない
なので大和朝廷は邪馬台国の存在を理解してると言うのが自然だろう
系譜的つながりは無くても政権的な関係がある事がここからも分かる 倭人=九州人
日本人=関西人が中国側の認識
・魏志では礼儀正しい倭人だが、旧唐書では日本人は不誠実と書かれている。
・日本は元小国、後に倭国を併合したと旧唐書。
・『古今華夷區域總要圖』という地図において、日本と倭国が別々の島として描かれている。
・『四海華夷總圖」という地図において、日本と倭国が別々の島として描かれている。 後々大和朝廷も自分達が徹底的に滅した蛮族国が邪馬台国として中国で記述されていたことに驚いただろうよ >>722
確かに新唐書にはそう書いてあるんだよな
しかもその内容は日本が渡した日本記の丸写しだ >>725
その通り
実際に使節も往来した上で大和の場所も理解した上で歴代の通史の記録も元に大和だと書いてる
系譜も隋の時とそのあともずっと継承してる
なので九州王朝なんてものも存在しない
最初から論争なんて存在しない 畿内王家(大和権力)は、2世紀に九州王朝の分家・神武王が自分の領地を東方に求めて当時の東国の畿内大和に入植して建てた分家王家です
むろん九州王朝が存在していた間は、大和王朝は九州王朝の分家王家権力にすぎません
当時の東方辺境の分家権力だから、王が一代ごとに自分の勢力地元を都?にするという、田舎素朴持ち回り支配?をやっていた
そんな国が日本列島全体の支配権力ではなかったのは明らかです
日本古代史にずっと日本列島の中心だったのは九州王朝=倭国
滅びた理由は白村江の戦い 最近の三重構造説だとヤマト王権は明らかに朝鮮半島からの渡来人政権
だが卑弥呼の邪馬台国の記述にはそんな気配はない >>726
国家としての体裁が整ったタイミングと、実質的な統一(抵抗者の排除完了)は違うだろ
巨大な古墳によって権勢を誇示できるようになる時期を統一の時期とするのご定説だぞ
だから古墳時代と呼んでる >>729
関西人は不誠実はいいとしても、九州人が礼儀正しいには違和感w >>732
倭の五王でわかるとおり
倭国は中国も認める古代の大国だ。
当時もこの事実は動かせない。
だから記紀にはヤマイ国も倭の五王も
書けなかった。
僅かに神武の東征という作り話で
倭国と日本のつながりを強調した。
だから神武のの東征もなかった。 >>738
なので三種の神器の出土があると
卑弥呼ではないだな。 まあ唐に関しては遣唐使の廃止を学んだ人なら知ってるだろうけど
自分らと同等が下手すりゃ見下してたわけだからね
偉大なる大陸王朝として接した魏の時とは日本側の印象が異なるのは当然の話 >>741
宮崎に多数の前方後円墳が残されてる九州で最大の前方後円墳があるのも宮崎 >>748
その前方後円墳、高塚古墳の発祥地とされるのが奈良纏向遺跡だが >>742
三種の神器は
勾玉=縄文
鏡=弥生
剣=渡来した騎馬民族
という三重構造のそれぞれを象徴してるのではないか 倭王武こと雄略天皇は、「使持節都督 倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事・安東大将軍・倭王」に任ぜられた。
というか、中華皇帝に「俺様をこれに任ぜよ!」と要求して、中国側は頭にきたが、国防上これを承認した。
すなわち、韓国の統治も任されたと言える。
倭王武は「百済も付け加えろよ」と要求したが、中国側に百済だけは拒否された。
この図々しさこそまさに関西人。
良く言えば、ペコペコしない。
九州人卑弥呼と関西人のメンタリティが全然違う >>746
ウィクショナリーで中国語の発音は調べられる
ある程度の文字は上古語、中古語での発音も載ってる
中国人が当てた言葉なんだからそっちで調べたらいいと思うよ >>739
それが万世一系妄想ってやつよ
古墳時代は東日本の前方後方墳から始まった政権とは無関係な文化だ
壮大な物を作る事で権威を示そうとする習性は縄文人の習性 >>748
最初に円墳で
あとになって方墳を追加。
時代的には円墳→方墳。 勾玉の起源は日本
勾玉の発生は日本の方が古い。日本では縄文時代から翡翠の勾玉が出土するが、
韓国では5~6世紀ごろの翡翠の勾玉が最初である。
韓国と日本でユニークな丁子頭勾玉が出土するが、これも日本の方が古い。
韓国では、5世紀ごろの遺跡から出土するのに対して、日本では3世紀前半ごろの
平原遺跡から発見されている。日本ではさらに古く縄文遺跡からも出土している。
丁子頭勾玉は、勾玉の穴の周囲に丁子の花に似た溝が掘られてていることを特徴とする。
勾玉そのものも特徴的な造形であるが、さらにユニークな丁子模様が日韓で共通していることは、
偶然の一致ではなく、日本から朝鮮半島に運ばれたものといえる。 >>718
神秘性が必要だったのでしょ
英雄的始祖が流浪して建国したってのは結構ある説話だしな 弥生時代の墓群から鏡、剣、勾玉が一緒に出土 佐賀県内初
https://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1626047399/
佐賀市は、七ケ瀬遺跡で確認された弥生時代後期の集団墓地の甕棺や石棺から
副葬品の中国製の青銅鏡や鉄剣、勾玉が出土したと発表した。
「三種の神器」に数えられるこれらが一緒に出土したのは佐賀県内で初めてだという。 >>759
箸墓古墳の年代は未確認
周濠で発見された土器の年代を古墳の年代であるかのように印象操作してたんだよ
その周濠からは布留1や馬具も出土している
纒向センターのHPぐらい読んでこい
あのなアホども
吉野ヶ里は邪馬台国じゃないぞ
邪馬台国は御井だ
注目すべき所はそこじゃない
注目すべき点はなぜ甕棺ではなくて石棺なのか
だからな
前方後円墳と言うが
ホントに方が前で
円が後ろかわからんぞw
最初に円墳、後から方墳を追加したはずだから
後付け方墳元円墳。 トヨは勾玉を献上しているが、奈良での勾玉の出土はほとんどない。九州では三種の神器がセットででている遺跡が数ある。
なぜ甕棺では無くて石棺なのか
答えられるヤツはオレ以外一人も居ないだろが
お前らそこまでデタラメなんだぞ
>>658
イミフだバカの猿
はい、キレイに論破w >>765
お前もまるでイミフだバカの糞食い猿
はい、またキレイに論破w >>765
一応埋葬者の石室が円部にあって、祭祀の後が方部にあるから前方後円墳と言ってる
時々両方に人が埋葬されていることも有るので、微妙っちゃ微妙だけど
基本は円部に石室だからだよ 全国的には先に円墳が広まり
あとづけで「方墳」を追加して、追加させて、
あたかも「前方後円墳」が最初からあったと
錯覚させている。 >>773
そう。
作りやすさかから
円墳が先だよ。 吉野ヶ里の王族はもちろん、他の墓も全部甕棺墓だ
なぜ邪馬台国時代になると石棺になるのか?
誰も答えられまいが猿どもが
お前らそこまでトボけてんだぞアホども
>>777
前方後円墳の方部は祭祀用の祭壇
そこに向かって祭祀を行うので参列者から見ると
前が方部、後ろが円部→つまり前方後円墳 1980年代に朝鮮半島の南部に14基の前方後円墳が発見されました
https://i.imgur.com/tDggg9V.jpg
前方後円墳は日本に固有のものと考えられていましたから
韓国の学者は韓国が発祥の地だと大喜びました。
ところが、調べると造営年代は日本のほうが古く、韓国のぬか喜び、から騒ぎに終わりました。
その後、韓国は前方後円墳を削って円墳にしてしてしまったのですw
自国有利のためには歴史的遺物の破壊、改ざん、でっち上げなど、何でもアリの民族性なのです。 猿がうんちを美味しく頂きながら小気味良いおしゃれな一句を披露
全米が複雑な感じ
はい
↓ >>752
馬は蝦夷の方が活用してるんだよな
なんか学会は大陸から関西に渡ってそれが東國に伝わったとしてるけど
蝦夷のほうが立派な馬を飼い戦闘に弓騎兵も投入してるのに対し
ヤマトはそういったものが顧みられなかった
根本的に伝播ルートが逆なんじゃないかと個人的には感じてるわ あんまり邪馬台国とは関係ないけど
大仙古墳(仁徳天皇陵)は円部にも方部にもそれぞれに石室があり、二人埋葬されてる >>775
前方後方墳は2世紀から始まっている
東日本から西へ行くほど巨大化していき奈良で最大級となる
3世紀以降も造られ続けている
縄文人には外部勢力と近接していると派手な物を作って威厳を示そうとするという習性がある
対して半島の墓はコンパクトで副葬品が豪華という特徴がある
古墳文化は半島系畿内民族の発想ではない >>789
西にいくほど巨大化してる事実と
書いてる内容が矛盾してる
つまり、西日本のほうが誇示したがってるんじゃないか 古代朝鮮の伽耶には日本人の遺伝子を持った高貴な人々がいたと判明
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/news4plus/1656071245/
縄文人が朝鮮半島に移住していた可能性
ウィーン大学で行われた研究によって、古代朝鮮の南部に存在した「伽耶」の古墳において、
日本人に特徴的な縄文人のDNAを多く持つ人々が埋葬されていたことが判明しました。 騎馬民族説とかまだいう奴いるんだ
流石は老人だらけの邪馬台国スレだな
いつまでも知識がアップグレードされてない
マジで70代くらいか?
なぜ卑弥呼の時代になると
突然甕棺墓が石棺墓になるか
これはあることに気が付かないと誰も答えられない
そのあることに気が付かいているのは全世界でオレだけだ
中国の認識は半島も倭だけど日本側がどう思ってたかわからない
それを揃えようとするからおかしくなる
書いてあるから日本のものとかそんな事はないから >>791
2世紀の前方後円墳は聞いたことが無いしお察しでしょ >>783
むかし畿内説は箸墓古墳は魏志倭人伝のいう径百歩には大きすぎるからと言って、もともとは円墳であり後方墳は後付けニダ!という説を唱えていた >>794
お前こそ佐原真に洗脳されたきり情報アップデートできてない老害だろ まあいいや
お前ら猿には教えてやんない
無駄になるから 日本列島に馬が登場するのは、古墳時代の中ごろ5世紀のはじめ頃といわれています。 縄文時代や弥生時代の遺跡から馬の骨が出土したという話もあり、もっと古くから日本列島に馬がいた可能性はありますが、今のところ確実ではありません。 有名な中国の書物『魏志倭人伝』も、弥生時代の日本について「馬なし」と記述しています
5世紀末ごろには岩手県南部で馬が飼われていた痕跡があり、奈良時代になると、青森県など東北北部が国内有数の馬産地として頭角をあらわしてくる。馬の飼育という文化が短期間に広がったのは、日本には「草原の国」としての一面があり、馬の成育にふさわしい環境に恵まれていたからです まあ大体正史三国志の記述が不正確なせい
つか決定的なモノが出るまで決着する訳ないので
あーだこーだ言うだけ無駄なやーつ >>802
誇示したいから大きな古墳を作るんだよな?
そして、西にいくほど前方後円墳は大きくなるんだよな?
どちらもお前が言ったことだぞ >>782
もともと円墳に祈っていた。
だからどの方向から祈っても良いんだよ。
ただ歩きやすさ、集まりやすさで
場所が限られて、そこが玄関口になったんだな。
だから前方後円墳は違和感が有る。 まあいいわ
もう言わないことに決めたから
どのみち教えてやんないよ〜だw w w w >>809
前方後円墳と前方後方墳の区別すら出来ないような人は意見するな 畿内説は総じて文献を無視し、他人の話も理解せず、妄想物語を展開したがる
これってまさに韓国人的思考だろ 高句麗ですら初期は歩兵だから
騎馬民族はさすがに卒業しよう >>813
ん?誇示したい縄文人は大きな古墳を作るんだろ?
そして西ほど大きんだろ?
墓穴掘ったなw 前方後円墳の成立はハッキリ言って良く分かってない
よく言う円墳と橋の拡大と言う説もその中間過程が少なすぎて定説となってない
そもそもその前の段階でいきなり完成形みたいなのがあったりする
しかしそこが起源でもない
×「過程を踏んで出来た」
〇「各地の祭祀や葬送の儀礼を集めてこの時代に創作した」
と言うのが自然だと思う
「突然出てきた」と言う方が考古学的に正しい
卑弥呼と言う宗教的シンボルを推戴するのと同時に新しい祭祀を大和に成立させたんだろう >>816
歴とした日本人でも
知能が劣るとチョンみたいになるよね >>816
内容が被ってるんだし使用がねえじゃん
お前だって一面だけ見て間違ってると言ってるんだろ この期に及んで近畿パーとか
よっぽど知能が劣るかよっぽどウソつき野郎か
その両方か
どれかだな >>819
東日本から見て西は外部勢力だったという事
そして東日本文化が纒向まで到達していたという事 >>826
じゃあなんで西のヤマト政権に組み込まれたんだ? 今時近畿パーとか
マジでチンパンジーのアイちゃんレベルよ >>822
頼山陽が江戸時代に命名したので諦めてくれ >>822
耶馬溪は耳垂の棲家だったので投馬国だったと思う 猿にお前ら猿みたいだなとか言っても
そりゃピンと来ないわな
いや別にオレらフツーじゃんとしか思わないだろうしね
まあ分かるよ猿どもw 前方後方墳と前方後円墳は対立的関係にない
同時期に同じ場所に築造されるなど状態からして敵対的な関係でないのが明らか
大きさは常に前方後円墳が上回るので、格的には前方後円墳が上と考えられている
後になるとどんどん減って行く事から最初期に大和朝廷と同盟関係になった地元の王的な存在ではないかと言われる事がある >>827
纒向にヤマトなんて居なかったという事だろ
そこに吉備が前方後円墳を作ってくれと頼んだのが纒向古墳群かもしれないな はっきりと馬そのものの遺骸が確認できるのは5世紀の中頃(西暦450年前後)、宮崎県六野原地下式横穴墓群8号墓から出土した馬で、轡(くつわ)を口に装着したままの姿で墓に葬られてい
た。以降九州では、6世紀の後半までは宮崎県や熊本県を中心に馬を殉葬する例が多く、それ以後は福岡県小郡市周辺で多 く見られるようになる。
5世紀後半から6世紀後半にかけては、大阪の東大阪地方、生駒山麓や旧河内湖周辺の遺跡から、馬の骨の出土例が31を数えている。
四条畷市では、5世紀中頃から6世紀中頃と見られる奈良井遺跡から6頭以上の馬の骨が発見され
うち1頭は丁寧に板の上に乗せられており、周辺に馬型土製品やミニチュアの人形などが出土している。この時代、馬を祭祀用に葬った事が推定できる。
又5世紀代の馬の骨は、長野県飯田市を中心とする伊那地方からも多く出土しており、伊那地方にも早くから馬がいた事がわかっている。馬具が確認されるのは4世紀末から5世紀初頭にかけてである。九州地方が最も早く、現在の所一番古い馬具は福岡県甘木市の池の上墳墓6号墳や福岡市老司3号石室から出土した轡(くつわ)、鞍金具、鉸具等であろうと言われ
ている。5世紀初頭と言われるが、学者によっては4世紀中頃或いは末期と言う説もある。
馬具は馬とともに、大陸から一番近い北部九州にまず伝わり、その後全国へ拡散していった事は想像に難くない。5世紀以降は、馬の遺骸とともに各地の古墳から出土するし、又、馬の骨は伴わなくても多くの古墳から馬具は夥しい数で出土するようになる。明らかに馬と馬具は、古墳時代になって同時にドッと日本に出現するのだ。 関東の豪族がヤマトに組み込まれてたかどうかなんて知らない
ヤマトの範囲が何処から何処までなんてわかんねえよ >>830
ん?ヤマト政権が国内を統一した
つまり東の人間は服従したか殺されたんだろ? >>837
なら、のちに畿内を拠点として全国を統一したヤマト政権は、一体どこからやってきたんだ? >>843
反抗勢力がいたら統一できないじゃないか
別の国を作られてしまう あり得ないぐらい東日本を軽視してきた学者は一切信じるなよ まあでも前方後円墳の由来の謎はそういやまだ解けてないなオレにも
なんだろねこれはマジで
近畿日本が自ら銅鐸を捨てたのと似たような理由だとは思うがね
方墳と円墳をニコイチする理由が何かあったんだろな
崇神の箸墓が最初の大規模な前方後円墳になるわけだが
ここれが多分由来なんだろね
だがではなぜニコイチしたのか?
それはオレにも分からない >>846
そもそも東国はそんなに人口が多くない
先住民を殺す何処か
だれかいませんか〜って叫ぶレベル >>805
青森の縄文末期亀ヶ岡式土器が寒冷期の影響で南下して九州沖縄から出土する→弥生式土器が誕生だからこれも東→西に伝播した例
弥生時代は青森から始まったとも解釈出来る 崇神の箸墓が理由で前方後円墳が広まったのは分かる
問題は、ではなぜ崇神の墓はニコイチなのかだ >>840
つまり前方後方墳勢力(畿内~東国)が畿内に入って他の地域の勢力たちと統合し
前方後円墳勢力に進化したのか >>841
稲荷山古墳出土の鉄剣銘文が雄略天皇に服属してた有力な証拠と言われてるな >>414
( ・∀・)つ〃∩ ヘェーヘェーヘェー >>840
上で書いたように前方後円墳の成立は「各地の墓制や祭祀の集合体としてこの時期に創作された物」と言うのが妥当
なので前方後方墳もその一つだろう
ただし、その後に共存している事と、前方後円墳が常に優位を保っていることから
前方後方墳の勢力が大和朝廷や邪馬台国の起源ではない
あくまでも「北部九州、瀬戸内海、関東にまたがる広域連合の一つ」でしかないのがむしろ明らか 普通に考えてなかった、と見るのが正解
あるいは位置が全然違う >>866
なにそれ?
天下統一したの?してないの? 昔自分で埋めた土器か石器を掘り起こして有名になった人いたよな
あの人今頃何してんだろ >>1
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芸能人は性奴隷になるだけの簡単なお仕事です 邪馬台国はさいたまなのに、なんで九州に墓があるんだよ? >>854
なら、伊勢なんてどこから出てくるんだよ
神宮があるならヤマト政権の息がかかってるのは確実だが 九州で邪馬台国の墓発見というのはねつ造。
邪馬台国はさいたま。 要はこう言う流れ
①倭国大乱(詳細不明)
②北部九州、瀬戸内海、関東のクニグニがまとまって宗教的連合体を作り和解
③②の結果各地の祭祀の特徴をすべて集めた新しい祭祀を創作
④前方後円墳、纏向遺跡誕生
と言う事だろう
だから各地域に原型がみられると同時に各地域に起源と呼べる場所が無い なぜ箸墓は方墳でも円墳でも前方後方墳でもなく
前方後方墳なのか? >>876
ヤマト政権に服従してるから作らせたんだよな >>875
大和朝廷の範囲なんて知らないし合戦やってたって話も知らない >>859
勢力というか文化勢力とでも言おうか
近畿あたりでもその立派な墓を気に入ったのでアレンジした前方後円墳が流行った
そう、要するに流行りなんだよ >>880
誰が造ったかなんて知らねえよ
大工さんて事で良いだろ 倭姫が丸腰で行ける場所だから元伊勢は大和政権配下の地域だろうね >>886
オラの土地になにするだ!とは言わず、指を加えて眺めてたんだよな 祇園山古墳とどこかの円墳とをニコイチして
巨大化させたのが箸墓
とか、多分そんな話し >>892
そして、ヤマト政権が選んだ国造にお上をやらせてた >>883
なるほど流行りか……
こないだ長剣や盾が出た4世紀の古墳もそうだけど
前方後円墳体制ってそんなものは無いんじゃないかと思わないでもないな 畿内で、かつ箸墓以前で
一番重要な円墳って何だろね?
それが多分答えになるはず 交易があって友好関係にあったのは全国だよ
でもそれは支配とは違う >>855
肝心の北東北から弥生時代以降の骨が出ない、4世紀の山形宮城岩手南部まで和人化が進行している >>900
実際そんなもんだと思う
倭国大乱も名前だけ大袈裟なだけだと思う >>898
そう、だから卑弥呼は女王国30国分だけではなく全国100国分の銅鏡100枚くれと言った 手間の方墳側に祭祀を行う所があるのは
卑弥呼にお伺いを立ててるってことになるわけな
そして奥の円墳側のほうが巨大でメインなのは
でもオレたち近畿日本のがメインだぜ
って意味なわけな
この近畿日本を代表する箸墓以前の円墳とは何か?
>>902
古墳時代に統一したんだよ
いきなり飛鳥時代には突入できないからな >>897
箸墓古墳より方形部分が未発達な古墳はホケノ山古墳石塚古墳勝山古墳とかいくつかあるけど >>904
鏡をどうしたかなんて知らねえしどうでもいいわ >>888>>896
ただの流行はあり得ない
むしろただの流行なら弥生時代のように各地にてんでんばらばらの物が出来る
大きさも形もバラバラになるだろう
古墳は畿内を中心としてその形を基本形として確実に畿内よりも小さい物が作られる
それを300年やってる
あきらかに明確な大王ごとの時代のルールにのっとっている
そして君が言う富雄富士山古墳の副葬品は主体部ではない
途中でいきなり計画にない埋葬が行われている
規格外の予定外の人物と言える
つまり規格外の存在は好きな物を入れていいと言うことは、
古墳の主体部の国に関わる人物はルールに従わねばならないという規則があった傍証と言える >>907
順番付けると石塚→箸墓→ホケノ山→勝山
になるそうだ >>911
前方後方墳のアイデアで前方後円墳が出来たと言いたいんだろ?
いや別にそれはそれでいいんじゃね
円墳だ円墳 流行りで莫大な労力をさけるなら、相当な権力者だよな これだけ出てきても九州説を否定する基地外がいるんだろうな 前方後方墳と前方後円墳はどちらが先かってのはまだわかんねえな >>912
畿内のど真ん中に畿内ヤマトに従わない大物がいたのか…… 女王って書いてあるからって女王って呼ぶのもなんか違う
女酋長ぐらいでいい >>916
そうだよ
邪馬台国と関係があるかないかの問題
俺はないと思ってるけどね >>918
前方後方墳が先
100年以上先に始まっている 朝鮮から渡ってきた渡来人たちの作った国が日本でしょ
現地人が邪馬台国とかの倭国
根本的に全く別の人種の国 ヤマトタケルの伝説を見るとおもしろいんだよな
九州まではあっさり行けることから普通に勢力圏
東は焼津とか相模で戦闘しつつも房総までは到達できた(日本書紀の東北まで行った話はまあフカシだろうけど)
でも父ちゃんの庭である近江のすぐ側の伊吹は突破出来なかった
そこからヤマトは太平洋側一体に根ざす海洋民族国家なのではと推測可能 畿内にあって
箸墓以前で最大の円墳
これが多分答え >>922
前方後方墳で一番古いのは滋賀の神郷亀塚古墳で3世紀前半
確定とまでは言えない >>923
渡来人だけで建国できるわけないだろ
母数としては圧倒的に縄文人がおおいのに >>924
おそらく崇神の四道将軍のときに九州北部まで到達してると思う なんにせよ大化の改新、天智・天武より前の歴史は疑って見るべし
もしかすると日本とは別の国だった可能性すらある >>927
縄文時代12000年だから僅かな弥生時代と違いなんかないよ >>194
なんにせよ、今の天皇は繋がってたとしても天智からだからどうでも良いんじゃね? >>924
景行天皇は九州の人間じゃないのかと疑っています 卑弥呼はん
あんさんのことでっから立てときますわ
でもメインはワテらでっせ
(後方に巨大円墳がモッコリ)
→もうこうなるとどっちがどっちに寄生してんだか分かんないw
こう言うことだよ前方後円墳ってのは
議論読んでるの超面白い
タイムマシンで真実確かめたい気もするし過去は永遠に葬られてほしい気もする
なお邪馬台国は奈良 12000年前の縄文人と3000年前の縄文人では見た目がかなり違うだろうよ >>915
それも知ってる
なんか馬子と厩戸皇子合ってない? 卑弥呼の時代の少し前に伝承通り神武天皇の東征があって畿内に大和国を建国
こういう事だね魏志倭人伝とも整合が取れてるし >>924
記紀の編纂以降、720年の隼人対朝廷は1年半も戦闘してるぞ
その後も暫くは隼人を警戒してあの辺の国を分割したりどうにかこうにか荘園制の日本領土に出来たのが800年
縄文時代から変遷を辿る隼人の成川式土器が消えたのも9世紀 ハじゃなくてパじゃないの?
上代日本語って…
えっ! >>934
だから、奈良からは邪馬台国とは異質な豪族の遺跡が出てきたんだって >>927
いや当時の縄文人の人口考えたらそうでもない
かなりの割合が渡来人だった可能性のが高い
じゃないとゲノム解析でこんなんならない
https://i.imgur.com/q35ciYU.jpg 豪族連合なんだから
渡来人いても別におかしくなくね? >>929
4世紀くらいに大阪にでかい古墳を作る王朝があった(仁徳、応仁とされる人たちの)、その王朝は古墳作りで疲弊して衰退したところを北陸の豪族(継体)に滅ぼされた。
その後は豪族の長が交代交代に天皇とされる位に就いていたが、天智がクーデターを起こしてさらに天武が天下を取った。
その後は天智天武の血のものが天皇となっている。
その時、天武が今までの日本の歴史を全部自分の先祖ということにしろと命じて出来たトンデモ本が古事記日本書紀
ただ、ここには都合の悪いのは含まれてない。
例えば鹿島香取は中臣に近いので無視されている。
同じく邪馬台国も都合が悪いので無視された。 >>944
それじゃ邪馬台国の豪族の遺跡からは何が見つかってるの >>946
可視化しやすいように顕著な差が出るように分析してるからな
畿内のほうが渡来系の血が濃いというだけ
それでもクォーター以下だろうけどな 例えば、弥生後期から奈良時代までの500年間、形を変えず存続して作られていた南九州の成川式土器はある時期を境に途絶える
これが9世紀初頭、抵抗していた隼人の名が最後に記録された時期と重なる
まつろわぬ民と呼ばれた者たちは日本に組み込まれていく訳だ(公地公民)
https://i.imgur.com/VEpyZQS.png
https://i.imgur.com/Jm7IBDy.png >>949
スレタイもそのひとつだろ
それに、ヤマト政権に滅ぼされたとすれば、破壊されてても不思議じゃない 静岡県の高尾山古墳の年代について
元愛知県文化財センターの赤塚次郎氏は狭間Ⅱ式土器と併行の230年ごろと判定し、
寺沢薫(元橿原考古学研究所・現向学研究センターセンター長)はもっと新しい250年頃の箸墓古墳頃の年代論だという。
大塚(初重)先生は赤塚次郎説までも行かないが箸墓古墳よりも古いだろうとは思うと説明された。 山口組の全国制覇に、最後までまつろわなかった広島ヤクザw
広島だけ山口組の支部がない >>953
九州は邪馬台国じゃないよ
魏志倭人伝によれば九州は伊都国や奴国 蘇我氏、葛城氏、すなわち海人族安曇氏の本拠地は宮地嶽神社 >>946
四国は一旦おいといて
畿内ヤマトの勢力圏が一目瞭然じゃん >>958
伊都国の南は山地で何もないよ
邪馬台国は七万戸の都市とあるけど >>954
箸墓古墳を最古にしようと必死な畿内説寺澤w >>952
弥生時代からそんな事してたと思うのか? >>961
寺澤薫でさえ箸墓は卑弥呼の墓では無いと言ってるけどね >>964
古事記でさえ倭と書いてヤマトと読ませてる
大和と書いてヤマトと読ませるようになるのはもっと後の時代だ 前方後方墳を見て俺もあれにしようとかそんな感じで
戦って滅ぼしたとかじゃないでしょ >>966
卑弥呼の時代でも畿内ヤマトで
中国では邪馬台と表記 >>969
呼子から糸島方向をみれば、ほぼ真東に山が見える
そして現地についたら同じ山が北に見える
使者は東南にきたと考える
地図はないんだからな >>970
その邪馬台国は伊都国の南にある
北東ではない 卑弥呼はん
あんさんのことでっから立てときますわ
(手前が祇園山古墳の方墳)
でもメインはワテらでっせ
(後方に神武の円墳がモッコリ)
→もうこうなるとどっちがどっちに寄生してんだか分かんないw
こう言うことだよ前方後円墳ってのは
5~6世紀の熊本県球磨地方から鹿児島県出水市、伊佐市、曽於市、鹿屋市、霧島市、宮崎県えびの市、小林市、高原町、都城市、日南市
この境界線内の人骨が1000体以上出てるが、当時の住人は縄文形質だった 纒向メクリの前方後方墳は現在は小さな円墳にされてしまっている
隠蔽工作? 邪馬臺は伊都国の南と
魏志のネタもと(広志)に書いてあるのだった
まだ分かんないのか
如何に自分がトロ臭い負け猿か
なんでオレが秒で気づくことを
お前らは何十年も分からないわけ??
夏場の呼子から見える日の出の方角は糸島より北だから東南と書いたのであろう 大きめの円形周溝墓が橿原の瀬田遺跡にあるから偽造する必要無いんじゃね 天孫降臨の高千穂峡がある宮崎県高原町にも5世紀中頃から6世紀の人骨が多数出ているがこれも典型的な縄文形質
人骨のレプリカ付きの地下式横穴墓が観光用に一般公開されてる >>464
江戸時代の鎖国まで
日本でもっとも古い都市として栄えていたよ
博多のものというと渡来の品物で最先端という扱いだった 甕棺墓はその名の通り、埋葬専用の甕を焼き、その中に遺体を納めて葬るという形のものです。
成人用の大きな甕棺まで製作するというのは、世界的に見ても珍しく、北九州と朝鮮半島の南部、長江流域の一部などに確認される 卑弥呼はん
あんさんのことでっから立てときますわ
(手前が祇園山古墳の方墳)
でもメインはワテらでっせ
(後方に神武の円墳がモッコリ)
→もうこうなるとどっちがどっちに寄生してんだか分かんないw
あと、出雲の前方後方墳もまねしーので前方後円墳
こう言うことだな
前方後円墳は壺の形
むかしは壺に入れて埋葬してたから
巨大壺作って偉大さをアピールしたのだ
結局
全部オレがやって
お前らは指咥えて見てるだけか
邪魔するか
この構造は全然変わって無いと言う、、、、
たまたま奈良がヤマトを名乗っていたからってそこにこだわりすぎだ
紀元前に引っ越してきたと言うエピソードがあって奈良の地名がまるごとコピペされてるんだから
「ヤマト」だって西からコピペしてきてても不思議はないだろ
阿波と安房が同じ音だからって同じ場所だとかいうようなものだ >>987
ぽいというか自治都市だね
堺と博多が日本の二大商業都市だった
戦国好きならここの商人どもは必須知識よね >>990
なるほど、前方後円墳のルーツは甕棺か、なんかスッキリした。 鹿児島が英国と戦争したの知ってる?
現代感覚で言う統一国家なんてのはつい最近できたものなんだよ 纏向からは馬具が見つかってる
はっきりと馬そのものの遺骸が確認できるのは5世紀の中頃(西暦450年前後)、宮崎県六野原地下式横穴墓群8号墓から出土した馬で、轡(くつわ)を口に装着したままの姿で墓に葬られてい
た
卑弥呼とは時代が合わない
結局全部
オレ一人で謎解いちゃったと言う、、、、、
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