連載<政治とメディア 憲法インタビュー>
(1)阿武野勝彦・東海テレビ報道局ゼネラルプロデューサー

 「政治」によるメディアへの圧力が強まり、日本国憲法で保障された「表現の自由」が脅おびやかされている。安倍政権下では首相補佐官が総務省に介入し、放送法上の「政治的公平」の解釈が事実上変わった。石川県では、自治体トップの馳浩はせひろし知事が情報公開の場である定例記者会見を開く「条件」に、民放テレビ局の社長出席を要求し、膠着こうちゃく状態が続く。メディアと政治の関係はどうあるべきなのか?。3日の憲法記念日に合わせ、憲法学者や知事経験者、ジャーナリストらに聞いた。
◆インタビューの前に…問題の経緯を振り返る
 石川県の馳浩知事は、石川テレビ放送(金沢市)製作のドキュメンタリー映画「裸のムラ」を巡り「職員の肖像権が侵害された」と主張し、社長に定例記者会見への出席を求めている。石川テレビが拒否すると、今年3月の会見が開かれない異例の事態となった。
 映画は、多選を生んだ政治構造を描き、土台にある男性中心の「ムラ社会」を浮き彫りにした。県議会の議場で、知事席の水差しについた水滴を女性職員が拭き取る場面は象徴的だ。
 馳知事は1月の定例会見で、この映像などについて「自分や県職員の映像が無断で使用されている」と主張。「演出も加わった商業映画。報道と地方公務員の肖像権の取り扱いは普遍的な問題」とし、社長の考えをただす意向を示した。
 一方、石川テレビは2月中旬に「報道の目的である公共性、公益性にかんがみて特段の許諾は必要ない」と、社長が定例会見に出ない意向を明らかにした。
 馳知事は4月14日に別の形で随時会見を開くと表明したが、定例会見の開催条件は変えていない。

◆「裸の王様」が見えた 東海テレビ・阿武野勝彦さん
 ?馳浩知事は石川テレビ放送製作のドキュメンタリー映画「裸のムラ」を「演出も加わった商業映画」と批判した。テレビ局でドキュメンタリー映画を手がける立場として、どう思うか。
 あ、出たなと。商業放送の王道としてのドキュメンタリー番組は許容されるのに、映画だと「金もうけ」と言われる。いつも注意していることだが、テレビも映画も、同じ文脈の中での報道活動。日本社会が撮られることに対して不寛容になり、窮屈になっているところに、この問題があるのではないか。
 ?馳知事や職員の映像が、本人の同意なく「裸のムラ」で使われたことに不満を持ったことが、報道各社が出席する定例会見を開催しない事態に発展した。
 映画の前段となった石川テレビの番組「日本国男村」にも同じ映像が使われたが、問題だとは指摘されなかった。映画になったとたんに「けしからん」とは、馳知事の論理。県庁の代表者として職員の心情をおもんぱかり、おとこ気を出されたのかもしれないが、メディアと民主主義、社会に仕掛けた反則技だ。
 自身が参戦したプロレスの試合映像を石川テレビだけに提供しないという肝の小ささをさらし、権力者が表現や言論の自由に干渉する場外乱闘に発展させた。振り上げた拳を下ろす機会はあったと思うが、助言する人物がいなかったのだろう。権力者の孤独、「裸の王様」が見えてしまった。
 ?東海テレビが自社内部にカメラを入れた「さよならテレビ」(2020年公開)は話題になった。撮る側が撮られる側になり、自己批判も含めてメディアのあり方に問題提起した。
 メディア不信が叫ばれる中、メディアの中を見せることが求められている。だから「撮ったシーンを使うな」は許さず、裸で批判に耐えた。作中に登場する人たちからは反発があり、「東海テレビのイメージを損なう」と激しくののしられたこともある。でも、数年たつと「オープンな会社」と見方が変わり、価値が転換した。「裸のムラ」が、個人をおとしめるような作品とは思わない。「人の考え方は多様」という気持ちを持つことを、馳知事にはお勧めしたい。
 ?先月、馳知事は必要に応じて随時会見を開く方針を示した。ただ公約としていた月1回の定例会見の開催には、引き続き石川テレビ社長の出席を「条件」としている。
 大前提として、会見は知事のものでも記者クラブのものでもなく、県民のもの。今回の一件は会見の私物化であり、県民の「知る権利」への背信行為だ。
 地方政治が疲弊し、メディアが弱体化している。(敵とみなしたメディアを「フェイクニュース」と攻撃するなどの)米国の「トランプ現象」は、各地の新聞社がつぶれて権力を監視する姿勢が弱まったことが大きい。石川テレビ1社の問題ではなく、県庁の記者クラブがどう対応すべきか、知事会見のあり方についても考えるべきではないか(以下ソースで)

東京新聞 2023年5月3日 06時00分
https://www.tokyo-np.co.jp/article/247629