【邪馬台国山門説】筑後に伝わる古代のロマン 卑弥呼・磐井の足跡たどる特別展開幕 九州芸文館
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冨永朝堂氏作の「卑弥呼」像に見入る親子
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船小屋トリエンナーレで大賞を受賞した倉冨隆行さんと作品「風に立つ神話」
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筑後市津島の九州芸文館で、開館5周年特別展「郷土に残る卑弥呼(ひみこ)・磐井(いわい)の足跡をたどる展−東アジアとのつながり」が開かれている。邪馬台国の女王卑弥呼と6世紀の豪族筑紫君(つくしのきみ)磐井の像や絵画、女山産女谷(ぞやまうぶめたに)遺跡(みやま市瀬高町)から出土した広形銅矛などの遺物、邪馬台国(やまたいこく)を取り上げた書籍などを展示している。入場無料。24日まで。
筑後地方は古くから大陸と交流を持ち、邪馬台国についても現在のみやま市付近にあったとする「山門(やまと)説」がある。八女市の岩戸山古墳は、大和朝廷に滅ぼされた磐井が築いたといわれ、石人・石馬などが出土している。
地域に残る古代ロマンを知ることで、地域文化へ興味を持ってもらおうと企画。会場には彫刻家の故冨永朝堂氏が手掛けたブロンズによる卑弥呼像や、久留米市出身の画家青沼茜雲(せいうん)氏の油彩画「古代の雄 磐井像」が並ぶ。
また、開幕日の2日には公募展「船小屋トリエンナーレ2018」の第1回彫刻部門の表彰式があり、14点の作品の中からうきは市の倉冨隆行さん(35)の「風に立つ神話」が大賞に選ばれた。サバンナのオリックスをモチーフに、鉄を素材に鍛金と酸素溶接で造形。倉冨さんは「素材の質感を引き出せることが鍛金の魅力」と話していた。
開館時間は午前9時〜午後9時。月曜休館。
西日本新聞 2019年02月05日06時00分(更新 02月05日 11時13分)
https://www.nishinippon.co.jp/nnp/f_chikugo/article/484488/ ◆卑弥呼は何者? 総合的に説明を
九州か近畿か。中国の史書、三国志魏志倭人伝に記された「邪馬台国」の所在地論争は、古くは江戸時代から続き現代に至るが、諸説入り乱れて決着がつきそうにもない。
その中で最新の統計論を駆使して九州北部と推定し、卑弥呼=天照大御神(あまてらすおおみかみ)伝説へと論理を進める安本美典・産業能率大元教授(84)。
「邪馬台国の会」を主宰し、関連する著書は九十冊を超える。邪馬台国を熱く語った。
−邪馬台国問題を考えるうえで大切なことは?
古代史の全体を見て議論することです。私は九州説ですが、畿内説には部分的な事実をとりあげ、マスコミを誘導して世論をつくればいいといった雰囲気があります。
「長江はある岸辺で見ると南や北に流れ、別の場所では東や西に流れたりしている。しかし、全体としては西から東に流れている」。
これは毛沢東の言葉ですが、学問も同じです。ある特定の岸辺に立って観察して得られた事実が全体として正しいとはかぎりません。
「全体をうまく説明できるのか」が大事です。
−具体的には?
考古学的な議論では「魏志倭人伝」の記述から出発し、データ全体を総合的に公平に比較すべきです。
「倭人は、鉄の鏃(ぞく)(矢尻)を使った」と魏志倭人伝にあります。「鉄の鏃」の福岡県からの出土数は奈良県からの出土数の約百倍です。
弥生期の「絹」は九州からは出土するけど畿内からはほとんど出土していない。
「鏡」や「勾玉(まがたま)」でも同じ傾向が認められます。
全都道府県について、出土数を調べ、その傾向を公平に比較すべきです。
つづく >>4 つづき
−纏向(まきむく)古墳群の箸墓(はしはか)古墳が卑弥呼の墓ではないかと言う人もいますが。
纏向の大きな建物の近くからモモの種が出土して放射性炭素(C14)年代測定で分析すると、卑弥呼の時代を含む西暦一三五〜二三〇年代という結果が出たと報道されたことがあります。
しかし、この方法による場合、箸墓古墳から出土したモモの種で測定すると、四世紀を中心とする年代が出てきます。箸墓古墳では年代の古く出がちな土器付着物で測ると、三世紀という年代が出てくるのです。
C14年代測定法というと科学的な印象を与えますが、何を測定するかで年代がかなり変わってくるし、年代推定の誤差の幅も広いのです。
畿内説に都合の良い測定値はマスコミに持ち込み、都合の悪いデータは報道されていないのです。
またモモの種や大型建物のことは倭人伝に記載がありません。古事記・日本書紀(記紀)の記述と倭人伝の記述の擦り合わせも必要です。
−卑弥呼の鏡と騒がれた三角縁神獣鏡(さんかくぶちしんじゅうきょう)はどうみるべきでしょう?
これは古墳時代になってからしか出土していませんし、わが国からは五百面以上出ているのに中国からは一面も出ていません。
日本国内でつくられたとみるのが妥当です。三世紀後半から四世紀はじめごろの、いわゆる「西晋鏡」でさえ、おもに福岡県を中心に分布しています。
「庄内様式」といわれる弥生時代の土器の時期が卑弥呼の時代と重なるといわれていて、この時期の鏡は奈良県からの出土は三面のみなのに対し、福岡県からは三十面も出ています。
もうひとつ、倭人伝に「棺(ひつぎ)あって槨(かく)なし」と墓制が記されています。
おもに三世紀ごろ福岡県を中心に分布する箱式石棺は、これにあてはまります。奈良県のホケノ山古墳からは、木槨が出土していて、倭人伝の記述に合いません。
−里程の問題からは?
帯方郡(現在のソウル周辺)から一万二千余里のところに邪馬台国があると倭人伝に記されています。一里が現在の尺度で何メートルになるかは議論がありますが、
同じ三国志韓伝には現在の韓国あたりを四千里四方としており、これから一里の距離が割り出せます。
記述では帯方郡から一万里で九州に着きます。残りは二千里ですから、これまでの行程からすぐ想像はつきますよね。
とても畿内まで行ける距離ではありません。九州しか有り得ません。 山タイ国なんだから、タイの山岳民族であることは自明。 明治マセソン商会維新150年とインチキ歴史と田布施システム まあ九州説にしても北部九州はあり得んわ。
短里をとるにしても余りに魏志倭人伝の記述と乖離しすぎ、近すぎる。 ゴミ捨て場から出土しますたと主張するトンデモ歴史家 磐井は独立政権?
それとも大和朝廷から北九州の支配を任された県知事みたいなもの? 女王の居る邪馬台国は巻向
女王が統治する女王国は豊前〜日向にかけて
そう考えれば1万2000里の説明がつく
邪馬台国と女王国は別の国 磐井の乱以降ぱったり目立たなくなる阿曇族
本当は阿曇族が神武天皇だったのに簒奪されたとかかね >>7
息を吐くように嘘をつくとはたまげたなぁ
九州説の大学教えてくれw 筑紫氏は、大彦命(孝元天皇(第8代天皇)の皇子の子孫で皇別、姓は君
大和朝廷が任命した国造
阿曇は、国つ神、地元豪族、姓は連
衰退したのは、白村江で阿曇比羅夫が戦死してから
全然別々
ウンコ人間は平気で嘘つく あいつ邪馬台国のことを知ってたのはさすがだけど
弱小といってバカにしまくってたんだけどな
まあ実際連合組合国の一部で本体はショボかったんだけど >>19
元々の発祥はその辺だったけど落ちぶれて大和政権頼ってたものの
じいさんの代に役人として赴任して出戻ってそのままいついて
三代かけて土着化 半独立化 完全独立の流れじゃなかったかな この国の問題は警察だ
嘘だと思えばためしに反日団体を訴えてみろ
あのBTSに「許し」をいちはやく表明した日本原水爆被害者団体協議会03−3438−1897
ここは何事も誰もの推察通りの反日在日巣窟であるのはいわずもがなだがw
そこの管轄である警察署(愛宕警察03−3437−0110)にまず問題を訴えようとしても意想外なけがれた対応をしてくるぞ!
おもしれ〜wwww
https://i.redd.it/czipqcx0h6gz.jpg どちらも山に囲まれた湿地だった
奈良盆地は古代奈良湖だし旧山門郡は海だったのが陸になった
風景がなんとなく似てたので九州から奈良に移住した人が
同じヤマトって名前をつけたんだろ 旧山門郡は湿地だったので稲作に向いていたが
大きな建物を建てるのは向いてなかったと思われる
だから旧山門郡に邪馬台国があった可能性は低い
実際小規模の集落跡しか オレの男親を代々辿っていったら、邪馬台国の時代はどこで何をしていたんだろう?
日向の地で熊襲やってたのかなあ?それとも、まだ朝鮮半島にいたんだろうか? 先週までは凄い勢いでスレ伸びてたのに今回は人少ないなあ。飽きたの? みなと(奴国=博多)から、やまと(邪馬台)が、権力を奪う策謀を記述したのが、
海幸彦・山幸彦の物語。(彦=ヒコ(日・子)、事実上、王を意味する名だな。)
弟の山幸彦は、兄の海幸彦から釣り針を借りるがなくしてしまい、そこで、
海の向こうに渡って、釣り針と玉をもらって、これで海幸彦を懲らしめたとある。
鉄の無いやまと(邪馬台)は、半島南部の倭人(日本語話者)と通じて、
鉄利権(釣り針)を押さえ、倭国盟主の座と朝貢利権(玉)を手に入れ、
それまでの盟主みなと(奴国=博多)を配下に収めたということだ。 九州説の信者が気づいてないんだろう
畿内説側からはもう書くことないし
デマ流したりデタラメ書いてるのを否定するだけで十分 >>1
その卑弥呼像ってのはどんなの?親子が見てる先映ってないんだけど ようつべで、邪馬台国 四国で検索してみ?
俺は完全に四国山地説を支持するようになった。
昔から剣山周辺にはいろいろな伝説があるんだよな。俺も何度か剣山登ったことがあるが、何でこんな山の上に集落があるんだろうと不思議に思っていた。
平家の落人が逃げ込んだから見つからないように山の上に住んでいるんだと思っていた。
でも邪馬台国四国山地説を考えるようになってから現地でなるほどなと思うところが幾つもあることに気が付いた。
奈良やら九州なんかよりずっと説得力があるよ。 この前のBSで
漢委奴国王の金印が
かんのわのなこくのおう
じゃなくて
かんのいとこくのおう
だと言っていて
たしかに後者の方が説得力あると思った
江戸時代の捏造説があるのは面白かった 関西だろうが九州だろうが
くそどうでもいいんだよ
邪魔台国に改名しろや >>36
かなり惹かれるものがあるけど、山の上っていうのがイマイチなあ・・・
それ以上の弱点が、この説を本にした時の出版社がたま出版ってとこ 前に、奈良で戦争の痕跡が無いことを根拠に神武東征は無かったって言ってた人いたけど、
戦争の痕跡が無いってことは邪馬台国は奈良ではないってことにならない?
卑弥呼の前後に何十年も戦争してたって魏志倭人伝に書いてあるんだからさ。 岩手に縄文よりもっと前に文明あったて話興味あります先生 >>1の2枚目
目を閉じてる表情が可愛いw
風に乗ってやってくる香りを嗅いでる感じ。
>>46
オカルトは、通説より説得力があるからこそ脅威なんじゃなかろうか。 >>47
支配者層の墓に大量の鏡を副葬する文化
とか明らかに九州からきたものなのに、
畿内説カルトは認めないんだよ 九州説は科学的根拠が乏しく整合性がまったく取れてない
九州が邪馬台国ならもっとはっきりとした痕跡が残ってるだろう
無いという事は早々に滅んだか、畿内が邪馬台国だったかのどちらかでしょう >>47
>卑弥呼の前後に何十年も戦争してたって魏志倭人伝に書いてあるんだからさ。
2000年近く前の戦争の痕跡ってどんなのが残ると思うんだ?
記紀の崇神天皇、垂仁天皇の記事に、武埴安彥の乱や狭穂彦の乱があるから、
文献上の対応は取れてる >>52
>2000年近く前の戦争の痕跡ってどんなのが残ると思うんだ?
戦争の痕跡が無いから東征は無かったって言ってた人に聞いてよ。 >>53
東征がなかった根拠は、戦争の跡がないじゃなくて、西から東への文化の移動がないことだよ
土器様式は弥生後期の畿内第V様式から順に、畿内から北部九州への一方通行
戦争の跡がないから東征はない、っていうのは、
戦争の跡がない=倭国乱がないから邪馬台国じゃない、
でも大和朝廷は邪馬台国の東征で征服されて樹立されたとかいう九州説の戯れ言への返事だろ? >>54
紀元前後から卑弥呼の時代までに、筑紫式の鍜治やら鏡を重視する文化など色々と東遷してるからなぁ
土器がそれほど出てこないのは遠方なんだから特に不思議ではない
魏志倭人伝の記録が日本海経由だと解釈すると、瀬戸内海を自由に航行できなかった可能性があるし 古代日本が女系家族だということを考慮すると、神武の伝説は北部九州の王族が畿内に婿入りした話なんだよね
逆に、筑紫やら阿蘇なんかは大和から婿入りしている
この時代の畿内と九州は婚姻を伴ったゆるい同盟関係と解釈するのが適当かと >>52
文化の衰退が戦争の痕跡にあたるんだろうけど、卑弥呼の時代の後にも北部九州は鉄の技術などにおいて畿内より優位だったりで、文化は衰退していないんだよね
そして、纏向型遺跡が畿内と同時期に九州にも発生してる 九州に住んで各県田舎の隅々まで車で回ってみろ。
九州は田舎の隅々まで太古の昔から農業などで裕福だったことが装飾古墳の存在や、山間の民家の造りの豪華さ(文化の継承)などでよくわかる。
同様の状況であった畿内と九州の豪族が婚姻関係で同盟関係を結んでいたことが容易に想像できる。 古代において、巫女は兵団とセットなんだな
その象徴が【櫛】
軍隊に随行する巫女の一軍の埴輪も見つかっている
また櫛を頭に刺した巫女の埴輪も見つかっている
クシフル岳のクシフルは櫛布留かもしれない
つまり布留の櫛、布留の兵団
卑弥呼の時代、博多には瀬戸内海の土器が大量に流入している
魏志倭人伝でいう【一大卒】だろう
当時の九州北部は、遠賀川の石と手を組んだ吉備の支配下にあったんじゃないかな 何がなんでも「大和朝廷」に
って流れに持っていきたがる近畿説って何なんだろうね 磐井は継体天皇を罵倒したんだろ?
天皇に無礼があったから討ったと記されているそうだ
皇位継承に際しての不服
五代も前に別れた者を皇位に就けた
次代天皇を孝明天皇からの傍系にするのと同じ
竹田さんより遠い >>59
昔のドラマ「聖徳太子」でも巫女が軍に同行してたな 継体天皇即位 507年
磐井の乱 528年
21年経ってから突然思い出したニダ 継体天皇の前は九州系が強かったんだろう
あと、百済派と新羅派の争い 九州説はどうせ遺跡も遺物もないんだから、北部九州にこだわる必要ないだろ?
南九州に持って行った方がまだ勝負になる 歴史秘話ヒストリアまとめ
10種類に分かれる銅鐸
↓
大阪北部銅鐸工団 東海地方に移動 銅鐸中央に太い線
大阪南部銅鐸工団 大阪奈良滋賀に移動 銅鐸の端に渦を巻く飾り耳
2世紀 銅鐸の種類がこの二つに集約
↓
滋賀の伊勢遺跡で1メートルを超える銅鐸を奉る
2国合同で共立の儀式を行う?
近畿周辺で10くらいの国が争った結果2つの国になる
2世紀半ば〜終わり この2つの国が卑弥呼を共立として和解
巨大銅鐸で共立の儀式を行う
3世紀はじめ 銅鐸消滅および破壊 権威の象徴を銅鏡に変更?
その国、本は亦、男子を以って王と為す。
住むこと七、八十年。
倭国は乱れ、相攻伐すること歴年、乃ち一女子を共立して王と為す。
名は卑弥呼と曰う。 書き忘れた
滋賀の伊勢遺跡の1メートル34センチの銅鐸は
銅鐸中央に太い線と銅鐸の端に渦を巻く飾り耳がある
つまり両方の特徴を兼ね備えたもの >>68
伊勢遺跡のころには倭国の中心が畿内になってたのかもね 畿内にあった銅鐸とヒスイの勾玉の集落
弥生時代末期に営みが終焉
貴重な勾玉が放置されている
池上曽根遺跡は、日本最大の井戸や弥生最大の大神殿、鉄工房もあった弥生時代にかなり栄えた集落。6cm大の巨大勾玉が出土
大阪は他にも高槻市成合遺跡、東大阪市鬼虎川遺跡、四条畷市城遺跡、高宮八丁遺跡
など、きりがないほどヒスイ勾玉が見つかっている。
奈良の唐古・鍵遺跡、鉄鉱に納められた巨大勾玉が見つかっている。貴重な勾玉が放置されていた。
これらの集落の人々はどうなってしまったのだろうか?
仁徳天皇の治世、再び勾玉が大ブームになる。
弥生時代の勾玉勢力と何か関係があるのだろう
卑弥呼を共立した勢力は、近畿の外部の勢力
元々の近畿の勢力は狗奴国だろう
狗奴国のヤマト部分が征伐されたんだよ
日本書紀にもヤマトが征伐されてヤマト政権が始まると書いてあるだろう 記紀でいう国津神の国は近畿である
葦原中国、食国、全て近畿地方のこと >>54
記紀に出てくる神武東征は征の字とはうらはらに内容は漂泊なんだけどね
野郎どもの集団が移動して嫁とって定住しても嫁の家のしきたりに合わせるでしょ
文化の移動なんて起こるはずもない
日向国だから天孫降臨の地と言い出したのは宇佐神宮
宇佐神宮は自分の領地があった場所を高めようと色々捏造をしている
今の宮崎県民は神話の国というのを信じているが細かく調べればおかしな事ばかり
はっきり言って起源を主張するどこかの国のいうことと変わらん
これからは間違いは間違いと認めることが大事だと思う
続日本紀によれば昔の日向国は鹿児島宮崎を含む地域だった
記紀ではともに天皇家と隼人族は同族出身としている
日本書紀では特に阿多(薩摩半島南部)と特定している
ちゃんと調べれば分かることばかり
木花咲耶姫の本名である神阿多都比売
海幸彦の子孫は隼人族の阿多君
神武天皇の妃である阿比良比売は阿多小椅の妹
代々阿多(薩摩半島南部)の人間だらけ
おまけに鹿児島県南さつま市の上加世田遺跡からは久米と墨書された遺物が出土している
これは神武天皇の部下である大久米命との関連を思わせる
よって神武天皇の出身地は鹿児島県の薩摩半島
旧加世田市から旧金峰町にかけてと思われる
なお天孫降臨が現実にあったと考えるのは無理がある
それに山上に神が降り立つというのは北方系の神話
高千穂地名の変遷
日向風土記逸文(713、引用は続日本紀797)知鋪の郷(ちほと読めるから高千穂と言い出す。本当に原本にあったか?)
宇佐八幡宮託宣(765)高智保(たかちほと言ってるのが神主だと分かる。)
和名類聚抄(925) 智保(一般には広まっていないようで、辞書にはまだ高千穂は載らず。)
大日本史(1657〜) 日向国臼杵の郡、智保、今は高千穂の庄(虚仮の一念、岩をも通す。でも正式には智保。)
(参考)1889年(明治22年)三田井村、押方村、向山村が合併し高千穂村となる。(ようやく正式に高千穂) >>73
俺は東征や移動どころか神武の実在も信じてないが、
> 嫁とって定住しても嫁の家のしきたりに合わせるでしょ
ここだけは同意。
谷川健一「青銅の神の足跡」によると、天孫族の男が海神族の娘と
結婚するたびに「ミ」「ミミ」のつく海神族の子が生まれているそうな。
たとえばニニギとサクヤヒメの子がヒコホホデミだし、その孫は
カムヤマトイワレヒコホデミミ(神武)だし、その神武が三島の
ミゾクイミミの孫娘と結婚して生まれた子どもはカムヌナカワミミ(綏靖)…
つまり海神族は母系(あるいは双系)社会で、生まれた子どもは
母方の実家で育つ。だから名前も言語も神話も海神族のものが
色濃く残り、支配民たる天孫族の文化は飲み込まれてしまったのだな。 キチガイ隔離スレ
神代の時代は、昔の人ですら史実とは思ってないんだけどさ 全国各地から来た人たちはみんな地元の土器を持って来て、それが出土してるんだけどね
支配者の神武だけが自分たちの文化を捨てたから何も出ない、なんていう都合のいい話を誰が信じるか? >>77
人類学的に土器の移動は女性の移動。
戦闘員と支配者の移動したなら土器はでない。 >>77
人類学的に土器の移動は女性の移動。
戦闘員と支配者だけが移動したなら土器はでない。 >>1鹿の顔が幸せそう(*´∀`*)
九州は志賀島一帯と遠賀川一帯の二大勢力
>>76
ギリシア神話でもヤマトタケルみたいに象徴化して
小アジアに植民都市を作った雛形の神話があるんだよね。
だから史実ではないが、史料にはその雛形らしき風習や出来事が散見でき、関連を考察できる。 キチガイ隔離スレ
キチガイさんは、断定しちゃうからね
神武よりはるか昔のことを 九州は棺もあるし倭国大乱の痕跡もあるし西普の鏡もあるからねえ。
マキムクは、槨が出た時点で詰んだ。
馬具も出ちゃってるしもうどうしようもない。
三角縁神獣鏡なんて、彫師が自分の名前の掘り方間違えるレベル。
漢字も日本風漢字だし、とてもじゃないが、
チャイナと交流できる外交レベルではない。
残念だが仕方が無いコレが畿内説の現実だ。 宗像大社の国宝見てみろよ
これぞ古代史を語るにふさわしい
桃の種じゃ全てを語れないでしょ 漢委奴国王の金印が志賀島で見っかってるから
卑弥呼の都が博多湾岸にあったことは確定している
親魏倭王の金印が見つかればそこは壱与の都だな。 漢委奴国王の金印は漢が委奴国王の証として贈ったものだから漢が継続している間は使われ続けられる
漢が滅亡して魏に政権が禅譲されると漢委奴国王の金印の効力は失われ次の印が必要となった
卑弥呼が魏にいち早く入朝したのは新たな親魏倭王の金印を貰い受けて自分の正当性を確立する為であった。 九州の住吉さんや関東の鹿島の鹿さんが畿内の人々から信仰が厚く守り神になっているのは、興味深い 神武四兄弟次兄稲飯命が東征の際和歌山沖の暴風雨で
「ああ、わが先祖は天神(ニニギ)、母は海神(玉依姫)であるのに、
どうして我を陸に苦しめ、また海に苦しめるのか」
と言って海に身を投じて鋤持神になるよ
当然兄弟の末っ子の神武もニニギと海神の血をひくと思われる >>86
今日も九州説の嘘八百と捏造のオンパレードだな
九州で倭国大乱の痕跡だの、西普の鏡だの捏造したり
槨の概念が違うのにトンチンカンな批判をしたり
後世に周濠から出た馬具を口実にして、古墳の年代にイチャモンつけたり
国産化した後の三角縁神獣鏡に文句つけても、畿内説として根拠にしてないんだから全く無意味だっつーの 総合判断で九州が圧倒的だよな
近畿は一部をつまんでるだけ
水行10日陸行1月は信じるのに方角が間違ってるのは無視ってのが典型 関西の住吉大社の元宮は
福岡の住吉神社な
福岡住吉神社の元宮が福岡現人神社な >>93
あなたの言っている事は全て根拠の無いイチャモンです。
>>86は全て正しい、そしてあなたの反論は全て間違っている。。 >>94
>近畿は一部をつまんでるだけ
>水行10日陸行1月は信じるのに方角が間違ってるのは無視ってのが典型
これも捏造
方角が正しいか、日数が正しいか不明というのが畿内説のスタンスだ 歴史ヒストリアで面白い説をながしていたな。
卑弥呼は滋賀県にいた。www
つまり邪馬台国は滋賀県。wwwwwwwwwww
根拠は銅鐸が3世紀に突如消えたのは何故かという疑問と魏志倭人伝の「共立」という場所。
紀元前4世紀から銅鐸が出てきたが、近畿と東海の銅鐸が違っていたが、最後は同じ文様となり
3世紀には破壊された。
「共立」の場が神聖な場所で卑弥呼がいたはずということらしい。
新説だぞ。w 卑弥呼も台与も中国と頻繁にやり取りしてるが
記紀にはほぼ中国との絡みが出てこない
半島も、三国志時代の帯方郡や楽浪郡は出てこず
それらが滅んだ後に台頭した百済や新羅、高句麗(後は任那)しか出てこない
(神功皇后の記事には、倭人伝の卑弥呼や晋書からの引用はあるが、いかにもとってつけた感じ
そもそも倭人伝の時代には百済も新羅も三韓の数ある国の一つに過ぎなかったし)
記紀に準拠する限りじゃ、ヤマト政権が大陸と関わりを持ち出したのは
四世紀半ば以降な感じではあるかも
ただ五世紀の(ほぼヤマト政権と思われる)倭の五王に対応する記事も無いので
単に朝貢するような情報は削除したのかもだが
神功皇后のはわざわざ朝貢の記事を引用してるし、微妙だな、、 倭国大乱
桓帝・霊帝の間(146年 - 189年)に相当する弥生後期、
北部九州からは殺傷痕のある人骨が多数見つかっている。
一方、マキムクから、そのような大乱の痕跡を見つけ出すことは出来ない。
したがって、マキムクには
「倭国は大いに乱れ、さらに互いに攻め合い、何年も主がいなかった。」
という魏志倭人伝の記述を再現する事は不可能である。
これが考古学上の発掘成果に基づく畿内説の否定の根拠として有効である。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています