【広島】60トンの橋桁が落下、犠牲者15人車11台を押しつぶした事故から30年 アストラムライン建設現場事故 [みつを★]
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【広島】60トンの橋桁が落下、犠牲者15人車11台を押しつぶした事故から30年 アストラムライン建設現場事故
2021/03/13
https://www.chugoku-np.co.jp/local/news/article.php?comment_id=734866&comment_sub_id=0&category_id=112
https://twitter.com/chugokushimbun/status/1370717178303901696?s=21
60トンの橋桁が落下、車11台を押しつぶした事故から30年
chugoku-np.co.jp/local/news/art…
1991年、アストラムライン建設現場で橋桁が落下。15人が犠牲となりました。あす3月14日の事故30年を前に、広島市長が慰霊碑へ花を手向けました
https://twitter.com/5chan_nel (5ch newer account) これ支え?をH、Iを交互にしないといけないのに面倒くさがって
適当にしたから起きた事故と聞いた
自分はまだ幼稚園くらいの頃の事故
でも世界ワーストのバス事故、雲上パーティのも知ってるよ
飛騨川転落事故だっけ??? 現場で実況してる人たちやカメラマンはヘルメットもなしで
堂々と工事現場の中に入って危ないよ。二次災害とか警戒しないと。
でもそもそもの道路が規制されてなかったんだね。 毎年変な行事する位申し訳ないなら廃線にしちゃいなよ
アジア大会目当ての箱物事業で初めから採算性なんてガン無視だし〜 >>1
>米極秘文書「北方四島は日本保持」 諜報駆使、スターリン熟読
「ヤルタ密約」
2月7日は北方領土の日
先月31日の日露次官級協議でロシア側は
「北方四島は第二次大戦の結果、ロシア領になった」との従来の主張を繰り返した。
ロシアが北方四島領有を正当化する根拠としてきたのが1945年2月のヤルタ会談で交わされた「ヤルタ密約」だ。
会談直前に米国務省は「北方四島は日本が保持すべきだ」との報告書を作成しながら、
ルーズベルト米大統領は一切目を通さず、逆に事前に入手したソ連のスターリン首相が熟読し、
ルーズベルトが国務省の進言に従わないことを奇貨として、主導権を握って北方領土を奪ったことはあまり知られていない。(岡部伸) >>522
>ルーズベルト無視
国務省はクラーク大学のブレイクスリー教授に委嘱して千島列島を調査し、
44年12月に
「南千島(歯舞、色丹、国後、択捉の4島)は地理的近接性、経済的必要性、歴史的領土保有の観点から
日本が保持すべきだ」
との極秘報告書を作成、ヤルタ会談前にルーズベルト大統領とステティニアス国務長官に手渡した。
ワシントン・ポスト紙の元モスクワ支局長、マイケル・ドブズ氏が上梓した近著『ヤルタからヒロシマへ』によると、
スターリンは
「盗聴報告のほか、スパイがもたらす米国の説明文書も目にすることができた。
共産主義の崩壊後、彼の個人ファイルにはクリール諸島(千島列島)のソ連への割譲に
反対する44年12月の米国務省作成の内部文書が含まれていることが分かった。
ルーズベルトはこうした問題で自国の専門家の見解を読む気にならなかったが、
スターリンはあらゆる微妙な綾までむさぼり読んでいたのである」
そして「ルーズベルトが国務省の助言に従わないことを喜んだ」という。 >>523
またスターリンは往年の覇気を失ったルーズベルトの病名がアルバレス病(動脈硬化に伴う微小脳梗塞の多発)で、
精神がもうろうとして正常な判断ができないほど悪化していたことを正確に把握していた。
スターリンは、インテリジェンス(諜報)を駆使してルーズベルトと米国を丸裸にして、
南樺太同様に「北方四島も日露戦争で奪われた」とルーズベルトを欺いたのである。
ソ連に大きく譲歩する合意に再考を促したハリマン駐ソ大使に対し、ルーズベルトは
「ロシアが対日戦の助っ人になってくれる大きな利益に比べれば、千島は小さな問題だ」
と進言を退けたという。
ルーズベルトの背後で暗躍したのがソ連のスパイたちだった。
ルーズベルト政権には200人を超すソ連のスパイや工作員が侵入していたことが
米国家安全保障局(NSA)の前身がソ連の暗号を傍受・解読したヴェノナ文書で判明している。 >>524
側近としてヤルタに同行したアルジャー・ヒスもその一人で、
ソ連の軍参謀本部情報総局(GRU)のエージェントだった。
ステティニアス国務長官の首席顧問としてヤルタに随行したヒスは、
国務省を代表してほとんどの会合に出席し、病身の大統領を補佐した。
会談19日前、米国の立場に関する全ての最高機密ファイルと文書を与えられ、ヤルタ協定の草案も作成している。
そこで北方四島を含む千島列島引き渡しのアウトラインを描いた可能性が高い。
ルーズベルトが国務省文書を一顧だにせず北方領土を引き渡した背景に
スターリンの意をくんだヒスの働きがあったといえる。
>プーチンも踏襲
このヤルタ密約を根拠にソ連は、北方四島を占領し、
現在も後継国家ロシアは
「第二次大戦の結果、自国領になった」と北方領土を領有する歴史的正当性を主張し続けている。 >>525
プーチン大統領も
「ロシアが積極的な役割を果たして達成したヤルタ合意こそ世界に平和をもたらした」と評価し、
31日の日露次官級協議でもヤルタ密約を
サンフランシスコ講和条約、国連憲章の旧敵国条項などとともに根拠にあげたもようだ。
しかし、そもそもヤルタ密約は、連合国首脳が交わした軍事協定にすぎず、
条約ではないため国際法としての根拠をもっていない。
さらに当事国が関与しない領土の移転は無効という国際法にも違反しており、
当事国だった米国も法的根拠を与えていない。
共和党アイゼンハワー政権は1956年、ヤルタ秘密議定書は、
「ルーズベルト個人の文章であり、米国政府の公式文書ではなく無効」との国務省声明を発表。
2005年にはブッシュ大統領が「史上最大の過ちの一つ」と批判している。
「ヤルタ密約」が招いたのは北方領土問題だけではない。
中国、北朝鮮などアジアに共産化を引き起こした。 >>521
>アジア大会目当ての箱物事業で初めから採算性なんてガン無視だし
これは違う
広島市中心部とベッドタウンを結ぶ軌道で慢性的な渋滞解消目的があった 日本を救った「占守島」の真実
終戦直後、祖国を分断から救うべくソ連軍に敢然と立ち向かった日本兵がいた。
昭和20年8月17日、千島列島北東端の島・占守島にソ連軍が突如侵攻し、
樺太のみならず北海道の領有までも目論む熾烈な戦いが始まった。
北方の島で死闘を演じた誇り高き男たちの覚悟とその思いとは。
1945年、占守島…日本を分断から救った男たち
『歴史街道』 2015年12月号 早坂隆(ノンフィクション作家)
「終戦の日」の2日後、昭和20年8月17日の深夜、
日本領千島列島の北東端・占守島(しゅむしゅとう)に不法侵攻してきたソ連軍に対し、
日本軍が祖国を守るべく戦った「占守島の戦い」
占守島は千島列島の北東端に位置し、戦争当時は日本の領土でした。
なお、国際法上、占守島だけでなく全千島列島と、南樺太も日本領として認められていました。 >>528
昭和20年当時、日本の北東の国境の最前線にあたる占守島には、約8,000の日本陸海軍将兵がいたとされます。
ソ連と国境を接していますが、「日ソ中立条約」を結んでいたため、あくまでもアメリカ軍への備えです。
しかし――8月17日深夜、占守島に攻め込んできたのは、相互不可侵を約していたはずのソ連軍でした。
ソ連は中立条約を一方的に破棄するという明らかな国際法違反を犯し、日本を「騙し討ち」したのです。
ソ連軍は8月9日にすでに満洲に侵攻していましたが、そこで行なわれたのは戦闘行為ですらありません。
殺人、略奪、家屋侵入、そして強姦……。
彼らは同じような手法で、千島列島の他、南樺太までも攻略しようと企みました。
ソ連は終戦近しと見るや、千島列島や南樺太への侵攻を開始。
どさくさに紛れて日本領を少しでも掠め取ろうとしたのです。
あのスターリンならば、千島列島、北海道を獲った後、
勢いに乗じて本州の東北地方の占領までをも窺ったであろうことは想像に難くありません >>529
陸軍きってのロシア通だった樋口は、「ソ連軍、来襲」の報に接した瞬間、
ソ連の野望と日本が直面した未曾有の危機を鋭敏に察しました。
戦後、樋口が「占守島の戦いが今の日本の秩序や形を守った」と指摘したのはそのためです。
樋口は誰よりも占守島の戦いの意義を知るからこそ、占守島で敢然と起ち上がり、
肉弾と散った部下たちの姿を後世の日本人にも知って欲しいという「本音」を孫の隆一さんに語ったのでしょう。
故郷に帰る夢を脇に置いて
ソ連兵が凄まじい艦砲射撃の援護の下、占守島北端の竹田浜に殺到したのは、8月18日午前1時過ぎでした。
ソ連軍は8,000を超えていたといいますが、発見した偵察部隊は当初、
どこの軍隊か分からず、アメリカ軍だと思った者が大多数でした。
<十八日は戦闘行動停止の最終日であり、「戦争と平和」の交替の日であるべきであった。
(略)然るに何事ぞ。
十八日未明、強盗が私人の裏木戸を破って侵攻すると同様の、「武力的奇襲行動」を開始したのであった> >>530
報告を受けた樋口は、当時の心境を『遺稿集』にこう記しています。
彼は「斯る『不法行動』は許さるべきではない」と続けており、
すぐさま第五方面軍麾下の将兵に「断乎、反撃に転じ、上陸軍を粉砕せよ」と命じました。
当時、日本軍大本営は「18日午後4時」を自衛目的の戦闘の最終日時と指示していましたが、
樋口はソ連軍の日本上陸を水際で留めなければ、その後にどんな惨劇が起こりかねないかを充分に理解していたのです。
絶対に占守島でソ連軍を食い止めなければならない。
そう考えていたのは、樋口だけではありませんでした。
懐かしい故郷に帰り、家族に再会できることを心待ちにしていた者も少なくなかったでしょう。
しかし彼らは、手が届きかけていた安穏な暮らしを脇に置き、再び武器を手に取りました。
精鋭「士魂部隊」
占守島の日本軍の中核が、精鋭として知られた戦車第11連隊です。
彼らは「十一」という漢数字と「士」という文字の連想から、「士魂部隊」と呼ばれました。 >>532
そして戦車第11連隊は18日午前5時30分に出撃し、ソ連軍を次々と撃破。
「精鋭・士魂部隊」の名に恥じぬ奮闘を続け、戦局を逆転させるのです。
中には10代の少年兵もおり、爆弾を抱いて敵陣に突っ込んだ兵士もいました。
自らの命を犠牲にしてでも、日本に暮らす人たちを、大切な家族を守る。
その想いのもと、彼らは軍人としての本分をあくまで全うしようとしたのです。
池田は18日早朝の出撃に際して、
「我々は大詔を奉じ家郷に帰る日を胸にひたすら終戦業務に努めてきた。
しかし、ことここに到った。もはや降魔の剣を振るうほかない」
と訓示を述べました。
自分たちが「民族の防波堤になる」とも語り掛けたそうです。
心の底から信頼を寄せる池田の言葉に、奮い立たない将兵はいませんでした。 >>533
池田は占守島の戦いで常に先頭に立ち、戦車の上に跨って指揮を執り、奮戦の後に斃れました。
しかし、戦車第11連隊の面々は連隊長を失ってもなお勇戦を続け、その結果、
ソ連軍は「簡単に抜ける」と思っていた占守島で追い詰められ、日本軍の精強ぶりに驚きました。
ソ連軍が侵攻を開始してから4日後の8月22日、両軍は停戦協定を締結。
樋口や池田、そして占守島の日本軍将兵すべての覚悟と奮戦が、ソ連軍の侵攻を見事に撥ね返したのです。
死傷者は、日本軍800ほどに対して、ソ連軍は2,300を超えました(諸説あり)。
私はこれまで、先の大戦で戦場に立たれた元将兵の方々に話を伺ってきましたが、多くの方が
「戦争に対する怨みはある。ただ、私たちは日本人としての誇りをもって戦い、自分たちの国を守った自負もある」
といった主旨の言葉を、時には涙を零しながら語ってくれました。
占守島の将兵も、まさしく同じ想いであったでしょう。
知られざる樺太の悲劇
さて、もう1つ忘れてはならないのが、
ソ連軍が北方で不法侵攻を仕掛けた地は占守島だけではなかったという事実です。 >>9
元はお墓のあった場所で亡くなった人数がお墓の数と一致してたって噂が当時あったよ >>530
あれ、アマフレスレの小野恭介さんw
岡山帰ったんじゃろが
助手席が潰れて亡くなった人とか気の毒じゃ この事件知ってる。
時々思い出すんだよな。
たぶん記憶から消されることは一生ないと思う。 >>534
8月11日、ソ連軍は占守島に先立ち、日本領南樺太への侵攻を開始しました。
樺太は千島列島以上に民間人が多く、戦時中は40万人ほどが居住していたと記録されています。
日本軍守備隊は民間人を避難させながらソ連軍と戦いましたが、
残念ながら約4,000人もの無辜の市民が犠牲となりました。
樺太では、「女性たちの集団自決」という痛ましい出来事も起こりました。
真岡郵便電信局の電話交換手のうち、9名が局内で服毒自殺を遂げたのです。
映画「樺太1945年夏 氷雪の門」の題材にもなっていますが、
昭和49年(1974)の映画公開にあたっては、各方面から圧力がかかって上映館が縮小されたともいわれ、
残念ながら多くの人々の目に触れる機会がなく、今に至るまで史実が充分に知られているとはいえません。
この真岡郵便局の話以上に語られてこなかったのが
樺太・恵須取町で起きた大平炭鉱病院看護婦の集団自決です。 おれが経験の無い責任者なら
おれのせいにされても困る
トビなら余計におれのせいにされても困る
工事現場なんて他のヤツがめちゃくちゃに進めるのに
おれに言われても困る
だからまあ辞めたってのもありますけどね
おれが責任者だといつか大事故になるだけだし
やなこっただよなあ責任者の肩書き >>538
迫りくるソ連軍を前に、看護婦たちは「最後まで、自分たちの職務を全うしましょう」と、
ギリギリまで看護活動を続けたといいます。
そして逃げ遅れた彼女たちは、
「ソ連兵に見つかったら何をされるか分からない」
と考え、自ら命を絶つ決断を下すのです。
手首を切った片山さんは幸い朦朧としたところで救助されましたが、23名のうち6名が命を落としました。
なにも、自決することはなかったのではないか。
私たちが戦後の物差しで、そう語ることは簡単です。
しかし、彼女たちの脳裡には1920年、満洲の日本人居留民がロシア人を主とする共産パルチザンに
筆舌に尽くしがたいほどの酷い凌辱を受けた事件が強い印象としてありました(尼港事件)。
ソ連兵の「実態」をよく聞いて育った彼女たちが下した選択を、私たちが軽々に論ずることはできないでしょう。 >>519
国道41号線飛騨川バス転落事故、
国道19号線犀川スキーバス転落事故、
延々と川沿いの片側一車線の続く国道は何か怖い >>540
占守島で戦った将兵や、樺太の女性たちに通じるもの。
それは、与えられた職務に誇りを持ち、
自分のためではなく人のために全うしたということに他なりません。
そして、占守島に「日本の防波堤」となった者たちがいたからこそ、
私たちは今の日本の国土で、平和な暮らしを享受できているのです。
占守島で戦った日本人に感謝の念を持って謙虚に頭を垂れ、
次世代へと歴史を語り継ぐことこそが、
「戦後70年」を経て「ポスト戦後70年」を迎えた現在、私たちに必要な態度ではないでしょうか。 ああ、交通を迂回させるのが大変だからと言って、交通を止めずに橋桁を動かしたやつか。
クレーンの吊り荷にも下に入っちゃいけないというのに、
なんで、橋桁動かすのに、普通にくるま通行させていたのか。
市とゼネコンの担当者の頭の中身知りたかったな。 亡くなられた方々のご冥福をお祈りします
二度とこの様な、そしてその他の事故が起こりませんように しかし前に落ちてきて助かった人は
人生観変わるだろうなあ
後ろに落ちてくるより前だ
落下を目撃したってのもあるが
なにかの具合で先を走っていたら死んでいた
他人より先に先にとみんな争う社会だが
先を走っていたら死んでいたわけだから >>543
何発かやらせてやれば良かったのに。死んだらアホじゃんww 唯一の救いは痛みを感じる間もなく亡くなったという事 311→ネトウヨ「ミンスのせいだ!」→第三者委員会「当時政権の自民と東電の責任」
トンネル天井版崩落→ネトウヨ「ミンスせいだ!」→事故調「建設当時の省庁と
現ネクスコの責任」
ネトウヨは嘘しか言わない もう30年か。結構衝撃的な事故だった記憶がある。
まだ20代だったけど、もう定年前の爺さんになっちまったぜ。 >>552
早いよなぁw 1991年はニルヴァーナがブレイク、メタリカやガンズのニューアルバムも出たりで洋楽的には当たり年だったな。 >>14
「秋葉原無差別殺人事件」のあった日、パソコンのパーツなどを買いに行こうと玄関で靴まで履いたのに、
急に「行きたくない」という気持ちが自分の中に広がってきて、よくわからないまま行くのを止めた。
その後、家で食事してずっとテレビをだらだら観ていたら事件の一報が入ってきてびっくりした。
まさかと思い、自分が乗ろうとしていた電車の時刻から調べてみたらちょうど事件発生時刻に
いつも通るあの交差点を横切っていた可能性が高かったことを知って愕然とした。
以降、自分の中にときどきせり上がってくる「声なき声」には損得無視して素直に従うことにしている。 >>558
当時普通にテレビでニュースやってたよ。
時期的にこの年が卒業→進学・就職な人はバタバタしてて憶えてないかもね >>561
かなり大きなニュースになってたよ。もっとも、いま33歳なら
事故当時は3歳だから、ニュースなんて見てなかっただろう。 >>562
そうだけど、追悼みたいな記事もこれが初めてなんだよ
何年か前のトンネル?天井落ちたやつしか知らない >>563
それはあなたが知らないだけのこと。あなたが知らないからといって、
大きく報道されていないということではない。 >>561
アストラムラインではなくて広島新交通システムという報道だったよ >>563
この橋げた落下事故が起こった同じ年に信楽高原鉄道の事故
(システムのミスで列車が正面衝突して40人以上が死んだ)
これの5年後の1996年に豊浜トンネル崩落事故(トンネル内の自然崩落で20人死亡)
笹子トンネルしか知らないってことは、多分この辺も記憶にないんじゃないか?
災害や事故で、直後以降も報道で繰り返し取り上げられるのは
日航機墜落と阪神と311くらいだと思う >>563
確かに追悼のニュースは初めて見たな
10年目20年目の時もニュースになってたかな ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています